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2008年3月25日 (火)

藤原一族最後の陰謀?「安和の変」

 

安和二年(969年)3月25日、左大臣・源高明が失脚する『安和の変』が勃発しました

・・・・・・・・・・・

この『安和(あんなの変』は、あの第45代・聖武天皇の即位によって、念願の外戚をゲットした藤原氏が、権力を維持するために他氏を排除し続けた中の、最後の事件となる物です。

何度も出てきてはいますが、もう一度、説明させていただきますと、この外戚(がいせき)というのは、母方の実家の事・・・。

天皇中心で政治を行っているこの時代は、政治の実権を握るためには、天皇により近い位置にいる事が重要ですが、ご存知のように、天皇家は男系男子が代々継承していくわけですから、当然、天皇のお父さんは絶対に天皇家

天皇家以外の人が実権を握るためには、娘を天皇の奥さんにして、その二人の間に生まれた子供が天皇になれば、天皇の母親の実家として、確実に政治に関与できる・・・これが外戚です。

聖武天皇の時に、皇族以外で初めて天皇の外戚となった藤原氏は、あの『長屋王の変(2月12日参照>>)以来、娘を天皇に嫁がせては、権力の座に近づこうとする他の氏族を抹殺し続けて、その位置をキープし続けていたわけです。

あの『応天門炎上事件』(9月22日参照>>)も、その一つであろうと思われますが、そんな中、今回の事件の発端は、第63代・冷泉(れいぜい)天皇に始まります。

この冷泉天皇という天皇は、なかなかのイケメンだったそうですが、病弱であるうえに、奇行が目立つ人でもありました。

それゆえ、冷泉天皇が即位した直後から、早くも次ぎの皇太子が模索される事になるのですが、その有力候補は、現在の冷泉天皇の弟である為平(ためひら)親王守平(もりひら)親王の二人・・・この二人の中では、兄であり、より優秀でもある為平親王が最有力でした。

当時の政界での実力者は、関白太政大臣藤原実頼(さねより)左大臣源高明(たかあきら)右大臣藤原師尹(もろただ)の三人・・・。

この中の源高明の娘が、実は為平親王の妻となっていたのです。

実頼も師尹も、現時点では、未だ外戚はゲットしていませんから、このままでは、高明にトップの座を奪われる!・・・はずでしたが、なぜか、康保四年(967年)9月、守平親王が皇太子に立つのです。

そして、その2年後の安和二年(969年)3月25日源満仲(みつなか)藤原善時(よしとき)という二人の人物が、橘繁延(しげのぶ)源連(つらね)が、守平親王の皇太子を廃し、為平親王を擁立しようという謀反の計画を立てている」と朝廷に密告します。

もちろん、謀反の企てをした二人は捕まりますが、この時の「守平親王の皇太子を廃し、為平親王を擁立しよう」という所から、高明にもとばっちりが・・・

早速、翌・26日には、高明邸が検非違使(警察)に包囲され、即座に「天皇を廃した罪により、大宰権師(だざいごんのそつ)にする」という命令が下されるのです。

大宰権師とは、九州・大宰府の長官である大宰師(だざいのそち)に次ぐ重要ポストではありますが、実際には、菅原道真の一件(1月25日参照>>)でおわかりの通り、地方への左遷以外の何物でもありません。

これが『安和の変』と呼ばれる事件・・・高明は、完全に中央がら排除される事になりました。

ところで、冒頭で「藤原氏が、権力を維持するために他氏を排除し続けた中の、最後の事件」・・・と書かせていただきましたが、そうは言っても、これらの事が、藤原氏の陰謀であるという確かな証拠はありません。

ひょっとしたら、守平親王が皇太子になったのも、謀反が発覚して、そのとばっちりで高明が罪に問われ失脚したのも、藤原一族のまったく知らぬ所で起こった事なのかもわかりません。

なんせ、その首謀者・中心人物となるべき人がまったくわからないのですから・・・。

実頼は関白という高位ではありますが、すでに年齢が70歳前後で、先にも書きましたように外戚でもありませんから、高明を失脚させても、自分が得になるのやら、ならないのやら・・・まして、謀反の一件の時には、まったく関与しておらず、後から報告を受けただけとなっています。

師尹は、まだ48歳・・・しかも、謀反の時には、公家たちを集めて、対応を協議していますが、彼も外戚ではないので、高明が失脚しても、権力が転がり込んで来るかどうかはわかりません。

その他、天皇の叔父にあたる藤原伊尹(これただ)藤原兼通(かねみち)藤原兼家(かねいえ)らは、守平親王が天皇になってからこそ摂政などになっていますが、この時点ではまだまだ下位の人物でした。

どれもこれも、大いなる陰謀の首謀者となるには、決定打がないような気がしますが、やはり藤原一族は、とてつもなくアヤシイ・・・。

個人的には、ひょっとしたら、アガサクリスティの推理小説のように、首謀者なしの全員が・・・てな感じがしないでもありません。

とにかく、この『安和の変』によって、脅威と呼べる勢力のすべてを、葬り去る形になった藤原氏・・・この先は、あの藤原道長の全盛期(10月16日参照>>)へと突っ走り、その後は藤原氏同士の権力争いへと突き進んで行く事になります。

 

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