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2008年4月30日 (水)

織田家生き残りの織田信雄~人間・普通が一番?

 

寛永七年(1630年)4月30日、織田信長の次男織田信雄が、73歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

あの織田信長の息子として記録されている人は12~3人いますが、よく知られているのは三人・・・長男・信忠と次男・信雄(のぶかつ・のぶお)と三男・信孝

・・・で、この三人のうち、長男の信忠と次男の信雄のお母さんは生駒氏の出身、三男の信孝のお母さんは坂氏の出身・・・

先日の【丹羽長秀さんのご命日】のページ(4月16日参照>>)でも、少し書かせていただいたように、この生駒氏と坂氏では、かなり身分の差がありました。

それで信長自身は、自分の後継者としては、一番には長男・信忠、次に次男・信雄・・・そして、三男の信孝は、やはり、あくまで、3番手で、むしろ自分が平定した伊勢神戸(かんべ)を継がせるべく養子に出して、神戸信孝を名乗らせていました。

ただし、武士としての力量は、信孝はなかなのもので、それには、信長も一目置いていたらしく、本能寺の変の直前にも、四国攻めの総大将に彼を据えています。

一方の後継ぎ候補の長男と次男・・・これも、長男・信忠は、なかなかのもので、特に武田氏との戦いにおいては、岩村城を攻略しましたし、勝頼を自刃に追い込んだ天目山の総大将も彼・信忠でした(3月11日参照>>)

そんな中で、本日の主役の次男・信雄さん・・・数々の落ちこぼれぶりを発揮してくれるオモシロイ人ではあります。
(注:落ちこぼれとは、あくまで戦国武将として・・・という意味で、人としての良し悪しではありませんので、お許しを・・・)

天正七年(1579年)には、惣国による自治を開始した伊賀の土豪たちに対して、父・信長に無断で攻め込み、見事敗退・・・命からがら逃げ帰るという失態を起こし、お父さんからこっぴどく叱られたりしています。

そんなこんなの天正十年(1582年)・・・運命の一大事件=本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)

一家の主として君臨していた父・信長が死に、すでに家督を継いでいた(11月28日参照>>)長男・信忠も明智光秀に攻められ自刃してしまいます。

この時、三男・信孝は、中国から帰還した羽柴(豊臣)秀吉と合流し、山崎の合戦にて、父の仇である光秀を破ります(6月13日参照>>)

一方の信雄は・・・一応、明智軍に備えて出陣をしますが、その後、間もなく山崎の合戦の勝敗が決したため、そのまま伊勢へと戻っています。

以前は、この時、父と兄の死を知って、慌てふためくあまり、安土城に火を放ち、すべてを燃やしてしまった・・・との、ありがたくない汚名を着せられていた信雄さんですが、さすがの彼も、そこまで頼りなくはない人で、現在では、安土城に火を放ったのは、光秀の娘婿の明智秀満(三宅弥平次)であったというのが一般的です。

しかし、そんな噂が囁かれるくらい、やはり、信雄さんはちょっと頼りなかったようで、この後の清洲会議(6月27日参照>>)では、柴田勝家・推薦の信孝と、秀吉・推薦の三法師(信忠の長男)との間で、信長の後継者をめぐって争われる事になるのです。

・・・で、結局、会議で後継者は三法師に決まってしまうワケですが、当然のごとく、信孝と勝家は不満ムンムン!

やがて、その不満が爆発したのが、あの賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)・・・その戦いで、最大のライバルである勝家を滅ぼした秀吉。

残るは、勝家と結託していた信孝ですが、現在の秀吉の立場は、あくまで織田家の家臣・・・さすがに主君・信長の息子を攻める事は、他の家臣の手前ムリ・・・という事で、突如浮上してくるのが、信雄さん。

確かに、信長さんが生きていた頃の順番からいけば、自分は2番手なので、「織田家の後継者としてふさわしいのは自分」との考えもあり、信孝と三法師の間で、後継者を争ってる時点で、彼には不満だったかも・・・

その心理を、うまく秀吉に焚きつけられ、なんと、信雄は弟・信孝を攻めて自刃させてしまうのです(5月2日参照>>)

しかし、これは、完全に秀吉の思う壷・・・その後の秀吉は、信雄に見向きもせず、自らの天下取りの野望をむき出しにするのです。

「このままでは、秀吉の思い通りになってしまう!」と、脅威を感じた信雄は、第2の実力者・徳川家康を頼ります。

そして、家康の支援を得て、秀吉に立ち向かったのが、小牧・長久手の戦い(3月13日参照>>)です。

ところが、この一連の合戦がおおむね有利に展開していたにも関わらず、またまた秀吉の甘い囁きに誘われて、信雄は、家康に黙って単独で、講和を結んでしまうのです(11月16日参照>>)

秀吉と信雄の和睦が成立してしまっては、家康に戦う意味がありませんから、当然のごとく、合戦も終わりを告げる事に・・・

結局、ここで、秀吉に従う事になった信雄は、正二位内大臣に昇進し、あの小田原攻め(7月5日参照>>)にも参戦します。

しかし、その北条滅亡後、秀吉から関東への転封を言渡され、これを拒否したために、改易されたうえ、島流しにされてしまい、出家して常真(じょうしん)と号します。

やがて、島流しを許され、大坂にて暮らす信雄でしたが、時代は関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)大坂の陣(11月29日参照>>)へと移っていきます。

どうやら、この間、大坂に住んでいた信雄さんは、家康に大坂側の動きを知らせていた・・・つまりスパイをやっていたとのウワサ・・・

確たる証拠はありませんが、豊臣滅亡後のわずか2ヶ月後の元和元年(1615年)7月に、家康から大和五万石を与えられて、大名に復帰するところが、かなり臭います。

結局、その後は、息子たちに実務をまかし、事実上の隠居生活に入り、やれ茶の湯だ!鷹狩りだ!悠々自適の老後を謳歌・・・

そして、寛永七年(1630年)4月30日、当時としては、おそらく天寿を全うしたと言える年齢・73歳でこの世を去ったのです。

あまりにも大きな父の影で、凡人だ!愚将だ!と言われながらも、血で血を洗う戦国時代のさなか、天下を揺るがす大戦に何度も遭遇しながら、決して命を落す事なく、悲惨な死に際の多い織田家の中で、唯一、楽しい老後を迎えた信雄さん。

ある意味これも才能です。

いえ、むしろ、ひとりの人間としては、一番幸せだったのかも知れません。
(これを予想しての行動だとすれば、まさに天才!)

確かに武将としては「?」な方ですが、人としては普通が一番なのかも・・・って考えさせられます~。
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2008年4月29日 (火)

武蔵坊弁慶=架空人物説について・・・

 

文治五年(1189年)閏4月29日、源頼朝の命を受けた藤原泰衡によって、衣川の館に追い詰められた主君・義経を守って、あの武蔵坊弁慶が命を落しました。

・・・・・・・・・

源義経と言えば弁慶、弁慶と言えば義経・・・五条大橋でのあの出会いから、彗星のごとく歴史の舞台に踊り出て、西海に平家を滅ぼし、頂点を見たそのわずか数ヶ月の後に追われる身となり、奥州にて命を落す主君・源義経と、離れる事のないその主従関係は、古くから人々の涙を誘い、滅び行く者の美学を究め、日本人独特の「判官びいき」を育んできました。

鎌倉の昔から、誰もが信じて疑わなかったその人物に、ここ最近になって「架空人物説」なるものが囁かれています。

これも、ひとえに、弁慶の事が一番くわしく書かれている『義経記』なるツッコミどころ満載の書物のなせるワザ・・・。

まずは、鎌倉時代か室町時代に成立したと言われるその『義経記』での弁慶像をご紹介しましょう。

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京の都に住む公家・二位大納言(にいのだいなごん)の娘は、音に聞こえた美人・・・15歳というお年頃を迎えて、次から次へと求婚の嵐の中、彼女の父のハートを掴んだのは、右大臣・師長(もろなが)でした。

ところが、婚約が決まった途端、姫が心の病に・・・
(マリッジブルーか?)

しかし、その時、父と婚約者が、姫の快復を願って、日頃から信仰している熊野権現にせっせとお参りした甲斐あって、まもなく、姫の病気は快復します。

「よかった、よかった」と、翌年の春を待って、今度は姫も連れて、百人のお供とともにお礼参りに・・・と、ここで、その姫の姿を見て一目惚れした男がひとり。

自称・関白藤原道隆の子孫で、現在この熊野の最高責任者である修験者・弁しょうでした。

そして、部下を集めて一言・・・
「あの姫を、ここへ連れて来い!ワシがかわいがったる!」

この部下というのは僧兵・・・ご存知のように、この時代の僧兵というのは、もはや僧ではなく兵士、神をも恐れぬ荒くれ者たちばかりです。

しかし、さすがの荒くれ者たちも、今回の姫の略奪には、ちゃんとした義という物がありませんから、
「そんな~・・・相手は二位大納言の娘・・・しかも、右大臣の婚約者でっせ!そんな事したら、朝廷を敵に回す事になりまんがな!」
と、反対意見を述べますが、もはや、弁しょうは聴く耳を持ちません。

「おまえらビビリか!そんなモン畿内五ヵ国の兵を、この熊野に一歩も踏み込ませへんかったらすむこっちゃ!」

この弁しょうが若いイケメンなら、略奪愛という響きも、ドラマのワンシーンのように、それなりにかっこいい物になるのでしょうが、残念ながら、もうすでにかなりのオッサン・・・で、その夜のうちに、姫は略奪され、あわれオッサンの餌食に・・・

もちろん、姫を警固していた侍たちは、即座に朝廷に直訴し、たちまちのうちに『弁しょう討伐の院宣(天皇の命令)が下り、右大臣・師長を大将に7000騎が熊野に攻め寄せます。

しかし、熊野の僧兵たちは、この大軍を見事けちらしてしまうのです。

さらに、この敗戦を受けて開かれた朝廷の会議で、一部公卿の「聖地・熊野を滅ぼしてはならない」という意見が通り、中には「弁しょうは関白の子孫だから、姫の婿としてふさわしい」なんてのたまう者も現れ、なんと!院宣が取り消されてしまったのです。

こうなったら、父も婚約者も、もう、どうする事もできません。

そして、姫は、18ヶ月もの長い妊娠期間を終えて、男の子を出産するのです。

普通の妊娠期間の倍ほどの間お腹にいたその子は、すでに普通の赤ちゃんの2~3倍の体格で、歯は奥歯まで生えそろい、髪も肩まで伸びていました

さすがの弁しょうも、
「この子は、鬼の子だ!殺してしまえ!」
と、大騒ぎ・・・。

しかし、姫にとっては、たとえどんな風貌をしていても、かわいいわが子・・・「とても、殺すなんて事できないワ」と、弁しょうの妹に相談したところ、彼女も女・・・母の子を思う気持ちがよくわかります。

結局、その妹が引き取って京都で育てる事に・・・男の子は鬼若(おにわか)と名づけられました。

やがて、5歳になった鬼若は、すでに12~13歳の子供の体格で、色黒く、可愛さは皆無・・・日に日に憎々しさが漂ってくるのです。

預かった妹も、「もう、僧になってもらうほかない・・・」と、鬼若を比叡山に預けます

こうして、比叡山で育った鬼若は、まずは学問でその才能を見せつけますが、もともと体格が優れているので、力でも誰にも負けません。

いつも、稚児や法師を誘っては、相撲や力比べをしていましたが、そのうち、学問に励んでいる者まで、誘い出すようになった事で、僧たちから注意勧告が出されます。

それにブチ切れた鬼若・・・注意した僧の部屋をメチャメチャにぶっ壊してしまったのです。

ここから鬼若の大暴れ人生が始まります。

ちょっとした事で、因縁をつけては殴る蹴る・・・道ですれ違っただけで暴行の嵐!

困り果てた僧たちが、朝廷に訴えますが、たまたま残っていた古い文献に・・・
「61年めに比叡山に不思議な者が現れる・・・これを祈祷で鎮めよ。院宣で倒せば、その後、一日のうちに54ヵ寺が滅びるであろう」
・・・と書かれていた事から、朝廷は、来る日も来る日も、祈り祈りでラチがあきません。

こうなると、ますます鬼若は調子に乗って暴れまくりでしたが、こういう人って、だんだんと誰も相手にしなくなるもの・・・気づけば鬼若はひとりぼっちになってしまっていました。

「こんなオモンナイとこ、自分から出てったる!」
と、比叡山を後にした鬼若は、
「世間をわたるには、法師の姿になるのが一番!」
と、ばかりに頭を丸めます。

しかし、そうなると、鬼若という名前ではマズいので、比叡山の西塔にあった武蔵坊の名と、父・弁しょうの弁と、師匠・かん慶の慶とを合わせて、武蔵坊弁慶と名乗ります。

その後、書写山に入り、ここではマジメに修行をつんでいたのですが、その修行が終って、山を出ようとした時、その寺の信濃坊戒円(かいえん)という僧のちょっとしたからかいに激怒して大暴れ!

その時の、ドサクサで出た失火によって書写山の堂塔・57ヵ所がことごとく灰になるという大事件に発展してしまいます。

この失態によって、間もなく信濃坊は朝廷に捉えられて処刑され、弁慶は逃亡生活を送る事になるのです。

逃亡者となって、もはや安住の居場所がなくなった弁慶は、夜な夜な強盗を働いて日々を過ごします。

そう、あの、「公家や侍の宝刀を千本集める」というアレです。

・・・と、999本の刀を奪い、千本目にやって来たのが、義経・・・京の五条の橋の上~♪となるのですが、以前、【義経と弁慶、運命の出会い】(6月17日参照>>)で書かせていただいたように、『義経記』での二人の出会いは堀川通り・・・橋の欄干をヒラリと飛ぶことは、ちょっとムリ・・・かな?

・・・・・・・・・・

・・・と、少し長かったですが、『義経記』の弁慶の生い立ちの部分を紹介させていただきました。

・・・で、読んでいただいたらすぐにわかる突っ込みどころが、まず18ヶ月の妊娠期間・・・生物学上こんな事ってあり得るんでしょうか?

私は、くわしくありませんが、たぶん無いですよね。
生まれた時に、奥歯まで歯が生え揃ってる事もないでしょう・・・(そんなん、親知らず過ぎやろ!)

さらに、マジメな突っ込みどころとしては、熊野の最高権力者=熊野別当だった弁しょうの息子であるはずなのに、『熊野別当代々記』には弁慶の名前が無い

それに、鬼若という幼名・・・どう考えても、来るべき義経=牛若との出会いを考えての命名としか思えないような名前の付け方・・・。

そして、名前の由来となる比叡山の西塔には、武蔵坊という建物はありません

これらの事が中心となって、「弁慶=架空人物説」なるものが展開されているわけですが、そうなると、主君・義経の盾となり、雨のように降り注ぐ矢を受けながら、立ったまま命を落とした・・・いわゆる『弁慶の立ち往生』として有名な文治五年(1189年)4月29日の死・・・どころか、衣川にさえいなかった事になってしまいます。

しかし、一方では、この時代の信頼のおける書物の一つとされる『吾妻鏡』にも、チラッとではありますが、弁慶の名は出てきます。

もちろん、『平家物語』にも・・・

弁慶が実在の人物だと主張する側にとっては、『吾妻鏡』『平家物語』への登場はかなり心強い・・・なんせ、これらが信用できないとなると、平安の終わりから鎌倉にかけての歴史をイロイロと考え直さなくちゃいけない事になってしまいますからね。

・・・かと言って、やっぱり決定打ではなく、論争は、まだまだ続く事となります。

私、個人としては、今のところ、弁慶は実在の人物だと思っています。

ただし、弁慶の生い立ちや、五条大橋の出会いのくだりは、義経の生涯をよりロマンチックに演出するためのフィクションではないか?と・・・。

実際に、弁慶が義経の家来となるのは、兄・頼朝の命を受け、木曽義仲と平家追討のために、義経が京にやって来た時ではないでしょうか?

この時は、度重なる源平の争乱で、源氏や平家にとっては、兵はひとりでも多いほうがよかったはず・・・逆に、無名の人物が名を上げるためには、このような合戦に参加して武功を上げるのが、一番の近道。

弁慶も、そのような人物の中のひとりであったのだと思います。

死に行く主君に最後までつき従ったその忠義の姿が、美しく語り継がれるうちに、一つの伝説が生まれ・・・また生まれ・・・やがて、今に伝わる弁慶像なる物ができあがったのではないでしょうか?
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2008年4月27日 (日)

上杉謙信・2度の上洛の意味は?

 

永禄二年(1559年)4月27日、越後(新潟県)長尾景虎(後の上杉謙信)2度目の上洛を果たし、将軍・足利義輝に謁見しました。

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「京を制する者は天下を制す」と言われた戦国時代・・・と、このブログでも度々書いておりますが、実際に、天下取りを目的として上洛を果たした戦国武将は、ほとんどいません。

海道一の弓取りと呼ばれた今川義元も、あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の時に、上洛しようとしていたとも言われますが、ご存知のように織田信長に討たれ、その真意は明らかではありません。

武田信玄も、三方ヶ原徳川家康を破って、さらに西へ向かい、上洛目前となりましたが、野田城攻防戦を最後に体調不良のため帰国を余儀なくされ、そのまま帰らぬ人となってしまいます(1月11日参照>>)

「天下を制したい」という目的を持って軍を進め、実際に、上洛を果たす事ができたのは、織田信長くらいのものです(9月7日参照>>)

そして、確かに信長は、本能寺において志半ばで倒れるものの、ご存知の通り、天下に最も近い位置にまで上りつめました。

そんな中、上杉謙信は、天文二十二年(1553年)9月と、永禄二年(1559年)4月2回、上洛を果たしています。

ただし、謙信の目的は「天下を制する事」ではありません。

彼は義の人です。

敵であるはずの信玄が「何かあったら謙信を頼れ」と言い残したり、北条氏康「裏表の無い人間だ」と言わせてみたり、川中島へと突入する更級八幡の戦い(4月22日参照>>)でも、上杉憲政に頼られ、村上義清に頼られ・・・と頼られっぱなしな事をみても、やはり、相当信頼のおける人物だったという事でしょう。

だからこそ、真偽のほどはともかく、「敵に塩を送る」という逸話も、謙信らしい話として後世に伝えられているわけですからね。

先に書きましたように、最初の上洛は、天文二十二年(1553年)の9月・・・その更級八幡の戦いからなだれ込むような感じで起こった、布施の戦い(=第一次・川中島の合戦(9月1日参照>>)のすぐ後になります。

この時は、時の天皇、第105代・後奈良天皇に謁見して、少し前に従五位下・弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ぜられたお礼を、直接述べるために上洛しています。

このタイミングは明らかに、信玄との合戦を意識していると思われます。

自分が天皇に謁見する事で、こちらが言わば官軍であり、この後、行われる合戦は、不正な侵略行為を働く信玄に、正義の鉄槌を下すための戦である事を、内外に知らしめるためであったのではないでしょうか?

現に謙信は、その時、天皇から『戦乱平定の綸旨(天皇の命令書)を授かっています。

その大義名分があってこそ、心置きなく戦えるというものなのでしょう。

弘治元年(1555年)に、やはり信玄と相まみえた犀川の戦い(第二次・川中島の合戦)のすぐ後には、謙信は突然、「隠居する~!」と言って春日山城を飛び出し、比叡山(もしくは高野山)に籠ってしまっています(6月28日参照>>)

この理由については、明確ではありませんが、一説には、当時起きていた家内での内紛に耐えられなかったからだとも言われています。

この時は、結局、家臣に説得されて、謙信は戻るわけですが、おそらく、この内紛が、彼の中の「義の定義」にあてはまらない物であったと考えるのが妥当ではないでしょうか?

「義の無い争いはしたくない」
「そこは絶対に譲れない」

・・・という主張をしているかのように見えます。

そして、次に、謙信が上洛するのが、永禄二年(1559年)4月27日です。

これは、上野原の戦い(第三次・川中島の合戦)と、八幡原の戦い(第四次・川中島の合戦)(9月10日参照>>の間で、ちょうど、その時に信玄が、来るべき決戦に備えて海津城(長野市)を構築したとされている頃で、信玄も、そして謙信も、大きな戦いの予感のような物を感じていたのかも知れません。

そのナイスなタイミングで、第13代室町幕府将軍・足利義輝からの「上洛要請」です(11月27日参照>>)

天皇に続いて将軍・・・またしても、大きな義が得られる事になります。

義輝に謁見した謙信は、「関東管領・上杉家の家督の相続、並びに職務の継続をせよ」との内示と、「北信濃・争乱の平定の御内書」を授かっています(6月26日参照>>)

さらに、5月1日には、時の天皇・第106代・正親町(おおぎまち)天皇から従四位・近衛少将(このえしょうしょう)に任ぜられ、盃と剣をプレゼントされています。

これで、正真正銘の官軍です。

この夜、謙信は関白・近衛前嗣(まさつぐ)と、夜明けまでお酒を酌み交わし、大いに酔ったと言います。

とても楽しい酒だったと・・・。

謙信にとっては、義こそが、行動を起す最大の理由だったのでしょう。

多くの武将が天下を制するための上洛を夢見たのに対して、謙信の上洛は、権威を得るために・・・「権威が欲しい・・・」と言えば、ちょっと聞こえが悪いですが、その権威こそ、彼にとっては内外に認められた証であり、揺るぎない正義の印であったという事なのでしょう。

Kensinbazyouhaicc 今日のイラストは、
酒豪の謙信さんが愛用していたと言われている『中国製の馬上杯』を・・・

謙信は、いつも、お酒を一杯呑んで、出陣したのだとか・・・しかし、決して泥酔する事のない良いお酒だったようです。
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2008年4月25日 (金)

さらば・・・近藤勇

 

慶応四年(明治元年・1868年)4月25日、東京・板橋の処刑場にて、新撰組組長・近藤勇が斬首の刑に処せられました。

・・・・・・・・・・・

もはや、多くを語らずとも、広く知られた新撰組・・・このブログでも、イロイロとご紹介させていただいてます。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」
この言葉は、まさに維新の動乱によって生まれた言葉です。

明治から後、勝った薩長=新政府は善として語り継がれ、負けた幕府と新撰組は、勧善懲悪の時代劇の中で、悪の部分として描かれ続けました。

しかし、昭和の時代になって、やっと彼らに陽が当たるようになります。

時代劇の楽しさは、勧善懲悪だけではないのだ・・・という事。

滅び行く者の美しさや、負けを知ってなおも挑む武士(もののふ)の心が、古来より、日本人の心の奥底に、受け継がれてきた「判官びいき」を奮い立たせるのです。

かの徳川家康は、武田滅亡後、その「武田の赤備え(あかぞなえ)を、そっくりそのまま井伊直政に受け継がせて「井伊の赤備え」にした(10月29日参照>>)ように、

また、「甲州水軍」を、そっくりそのまま受け継いで自身の水軍にした(11月7日参照>>)ように、多くの武田の家臣を抱えますが、さすがに、全員を自軍に抱え込む事はできませんでした。

当時、強力タッグを組んでいた織田信長よりも、むしろ武田信玄こそが誠の武将と尊敬していた家康は、雇いきれない武田の家臣たちに、将軍のお膝元で農業を営むべき土地を与えます。

そこが、武蔵(埼玉・東京)の国・多摩・・・この地の農民の多くは、武田家臣の子孫たちでした。

Koundoucc その多摩で、幼い頃から、『三国志』関羽に憧れ、「いつか武士になりたい」と願いながら、剣の道に励む毎日を送っていた近藤勇は、陰りが見え始めた幕府に雇われ、京都守護職・松平容保(かたもり)傘下の新撰組として、夢にまで見た武士としての活躍の場を与えられる事になります(2月23日参照>>)

禁門の変(7月19日参照>>)により、第121代・孝明天皇から、一時は朝敵(天皇家の敵)のレッテルを貼られた長州・・・しかし、そんな長州と薩摩が組んで錦の御旗を掲げ、慶応四年(1868年)正月に鳥羽伏見の戦いに勝利(1月9日参照>>)すると、今度は、一転して敗れた幕府が朝敵となったのです。

幕府傘下の新撰組も、当然、朝敵=賊軍となります。

錦の御旗を掲げて、なおも東に進攻する新政府軍・・・「このままではいかん!」と、幕府・幹部の勝海舟は、新政府軍を甲州(山梨県)で迎え撃つべく、近藤以下・新撰組隊士を中心とした甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織します。

しかし、わずか170名の鎮撫隊は、板垣退助率いる1200名の新政府軍の、圧倒的な数と最新鋭の兵器のもとに破れ、やむなく敗走する事になります(3月6日参照>>)

やがて4月・・・下総(千葉県)流山の味噌製造元・長岡屋に身をよせていた近藤を、新政府が包囲します。

この時の近藤は、慌てふためく事もなく、堂々とした態度で、大久保大和と名乗って投降しました。

この時の落ち着きは、死を覚悟した悟りからか?
はたまた、やましき事のない心の証しなのか?

その心中は計り知れませんが・・・

しかし、元新撰組の伊東甲子太郎を暗殺した油小路の変(11月18日参照>>)で、近藤の顔を見知っていた加納鷲雄がいた事で、かの大久保大和が近藤勇である事は、すぐに新政府軍の知るところとなります。

当時、前年に起こった坂本龍馬の暗殺(11月15日参照>>)が、新撰組の仕業ではないか?と疑われていた時期・・・土佐藩の谷干城は、近藤に対して執拗に自白を強要しますが、近藤は断固として否認し続けます。

しかし、結局、土佐藩の連中の報復とも取れる意見に押し切られ、慶応四年(1868年)4月25日、東京・板橋の処刑場にて、新撰組総長・近藤勇の首は一刀のもとに落とされたのです。

胴体は近藤の兄に渡され、一方の首は京へと送られました。

近藤の首は、京の三条河原にさらされますが、焼酎に漬けて運ばれたその首は、まるで生きているかのようで、京都の人々を驚かせたと言います。

しかし、その首は、まもなく盗まれてしまうのです。

「京都・粟田口の刑場に捨てられていた」との噂が立ったり、何ヶ所か近藤の首塚なる場所もありますが、未だ確認には至っていません

そう、今、現在も、近藤勇の首は見つかっていないのです。

それは、悪意による物か、それとも好意による物か・・・

やっぱり、私は後者であると信じたい。

その昔・・・源平の合戦で破れ、般若寺にさらされていた夫・平重衡の首を手に入れて供養した妻・輔子(3月10日参照>>)のように・・・

滅び行く幕府に忠誠を誓った最後の武士が、武士らしい自刃という方法で死ねなかった、その無念を、近藤に代わって誰かが訴えてくれたのだと・・・

そう、思いたいではありませんか。

Kondouisamicc 今日のイラストは、
やはり、新撰組の近藤総長で・・・

以前から、近藤さんは描きたい人だったので、今日の日にイラストが間に合ってホッとしてます~
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2008年4月24日 (木)

競馬の歴史~日本ダービー記念日にちなんで・・・

 

昭和七年(1932年)4月24日、目黒競馬場にて、日本初のダービーが開催された事を記念して、今日は、『日本ダービー記念日』という記念日なのだそうです。

・・・て、事で、例のごとく、今日は『競馬の歴史』について書かせていただきます・・・と、言いましても、人が馬に乗って走り始めた時から、「どっちが先に着くか?」なんて競争を始めていたでしょうし、事実、古代オリンピックにも競馬の種目が存在しますので、今回は、あくまで、現在のような近代の競馬について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

もう、皆さんご存知のように、競馬と言えばイギリス王室・・・近代競馬は、17世紀のイギリスから始まります。

王室が夢中になれば貴族が夢中になる・・・

そうなると、貴族たちは、それぞれ自分の馬を持ち寄って競争をさせては、より優秀な馬の子孫を育て、より強い馬を求める・・・という傾向になっていくのは、当然のなりゆき・・・

そうなると、強い馬が多く集まって、賑やかに開催されるレースという勝負の場所が、徐々に生まれていく事になります。

そんな中で、第12代・ダービー卿という人が、ロンドンの3歳馬のトップを決める大会として開催したのが「ダービー」というレースです。

やがて、1773年からは毎日、競馬成績書が発行されるようになり、1793年からは、4年に一度の血統登録書も発行されるようになり、やがて、イギリスで5つの大きな大きなレースが行われるようになります。

それが、五大クラシックと呼ばれるレース・・・「1000ギニー」「2000ギニー」「オークス」「ダービー」「セントレジャー」の5つです。

イギリスから競馬が輸入された国は、すべてこの形式をそのまま受け継いでいますので、成績書や血統書もちゃんと管理され、五大レースも行われます。

日本の場合は・・・1000ギニーが桜花賞」「2000ギニーが皐月賞」で、「オークス」「ダービー」と来て、セントレジャーが菊花賞」となります。

ただし、日本で最初に競馬が行われたのは、今回のダービーをさかのぼる事70余年・・・文久元年(1861年)の事となります。

世は、まさに幕末・・・14代将軍・徳川家茂和宮さんの結婚があった『公武合体』真っ只中の頃ですから、当然、外国人主体による横浜での小さな開催でした・・・馬は日本の馬と中国の馬が使用されたそうですが・・・。

やがて、イギリス王室にならって、明治五年(1872年)には、明治天皇が、やはり横浜でレースをご観戦・・・勝ち馬には賞品を出されたようです。
(やっぱ天皇賞だったのかな?)

現在のように、馬券・・・おっと、勝馬投票権が出されるようになったのは、明治二十一年(1888年)ですが、あまりの加熱ぶりに20年後に、一旦、馬券は廃止されます。

やっぱ、お金がからむと人は変わりますからねぇ~。

しかし、一旦、楽しいを思いをしてしまったら、やめられないのも人の常・・・で、結局、大正十二年(1923年)に再び、馬券が復活!

ただし、今度は、金持ちしか買えないように、馬券をかなりの高額にして、配当もおまり多く設定せずに、何とか人間の理性が保たれるように工夫されました。

そして、いよいよ、昭和七年(1932年)4月24日第一回の日本ダービーが開催され、競馬ブームの最盛期を迎えます。

それからは、一旦、戦争で中断されるものの、昭和二十一年(1946年)に再開された時は、もう、現在の競馬の形をなしていた・・・という事です。

以上、競馬の歴史を駆け足でご紹介しましたが・・・以前、書かせていただいた囲碁(1月15日参照>>)をはじめ、南北朝時代には、わび・さびの境地であるお茶でさえ、その産地を当てる『闘茶』なんて賭け事が存在した日本の事ですから、絶対、過去に、流鏑馬(やぶさめ)とかで、賭けてた輩がいるんでしょうねぇ・・・きっと。
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2008年4月23日 (水)

戦国の伝達システム~のろしと密書と髻の綸旨の話

 

明治三十年(1897年)4月23日、前日の八王子の大火の報道に、東京朝日新聞が初めて伝書鳩で記事を送ったのだそうです。

最近でこそ、通信の発達で、伝書鳩と言えば、もっぱらレースで競われる趣味の世界となりましたが、ほんの50年くらい前までは、通信手段の一つとして大いに利用されていたんです。

なんせ、無線通信だと、言葉だけですが、鳩だと、写真のフィルムなどのちょっとした物品を運んでくれますから、ファックスの無い時代には、かなり重宝されてたワケですよね。

・・・と、言いながらも、私がそれほど伝書鳩にくわしく無い事は、お察しの通り・・・って事で、今日は、昔・特に戦国の通信・伝達システムについて書かせていただきます。

・・・・・・・・

世界の歴史では、シュメールエジプトの時代に、すでに上記の伝書鳩での伝達が行われていたようですが、それから見ると、意外な事に、日本で伝書鳩が使用されはじめるのは江戸時代・・・しかも、一部の大坂商人の間で、米相場などの伝達に使われていただだったようです。

だからこそ、明治三十年(1897年)4月23日、東京朝日新聞が初めて伝書鳩で・・・」ってな事になるワケで、それが記録として残るくらい、それまで使用されていなかった事になります。

では、日本人は、どんな伝達手段を使っていたのでしょうか?・・・って、もう、皆さんご存知ですよね。

そう、有名な『烽火(のろし)ってヤツです。

古代の日本では『飛ぶ火』とも呼ばれていたそうですが、すでに、飛鳥時代には、例の百済を通しての朝鮮半島との怪しい雲行きの中、対・朝鮮半島の最前線である対馬から、瀬戸内海沿いの山々を経由して大和へと続く、烽火連絡網が出来上がっていたといいますから、たかが烽火と言っても侮れません。

そんな、烽火も、時代とともに発達していきます。

烽火が最も頻繁に使われるようになる戦国時代には、カラーの烽火を含め、様々な上げ方工夫され、まるで、野球のサインのように・・・いや、ひょっとしたら、もっと細かく暗号のように使用されていたらしく、かなり複雑な内容まで、烽火で伝達できるようになります。

以前、豊臣秀吉伏見城のページ(8月31日参照>>)でも、少し書かせていただきましたが、秀吉が伏見に築いたこの城は、約100mの小高い丘に、8階建てという壮大な天守を持ち、晴れた日には、大坂城との通信が充分可能なように設計されていたと言います。

確かに、今でも、天王山のあたりから大阪城が見えますから、おそらく、伏見城からも見えただろうと思いますね。

この伏見城の場合は、烽火はもちろん、鏡などでモールス信号のような使い方もされていたようですが、上記の通り、この伝達方式は、あくまで、晴れた日に限られます。

・・・で、烽火が使えない時は、音での伝達が中心となります。

ドラマの合戦シーンでお馴染みの、太鼓ほら貝などが使われました。

戦国時代も前半の兵農が分離されていない頃には・・・

  1. ほら貝が鳴ったら、農作業をやめて家に戻る。
  2. 鐘が鳴ったら、合戦に出る準備をする。
  3. 太鼓が鳴ったら、武装して城(砦)に集合する。

などの、ルールが決まっていたという記録も残っています。

ちなみに、狼煙と書いてのろしと読むのもありますが、これは、オオカミの糞がよく煙を出すので、オオカミの糞を、烽火の材料に用いたからだそうですが、実際には、そんなに多くのオオカミの糞は集められなかったでしょうね。

もちろん、上記以外にも、伝書鳩のように手紙そのものを運ぶ伝達方法もあります。

日本では、鳩ではなく犬・・・つまり、伝書犬が使われたようですが(9月8日参照>>)、ホントにちゃんと届くのかなぁ・・・って気がしないでもありません。

その点、早馬はバッチリです。
なんせ、人間乗ってますから・・・。

ところで、「使者が密書を持って・・・」という伝達と言えば、有名な『髻の綸旨(もとどりのりんじ)ですが・・・

これは、あの南北朝時代に、後醍醐天皇綸旨(天皇の命令書)を送り届けた時の逸話から来ている物だそうで・・・

亘理新左衛門(わたりしんざえもん)なる武士が、後醍醐天皇の綸旨を、ちょんまげにくくりつけて泳いだ」
という、『太平記』に書かれていた事に由来するものです。

この太平記の記述から、後世には、敵の目にふれないよう、密かに運ぶ小型の密書の事「髻の綸旨」あるいは「髻文書」と呼ばれるようになり、あたかも、密書はまげにくくりつけて運ぶのが最もポピュラーなように思われていますが、これは、どうやら、後世の人の勘違いらしいです。

この太平記の部分は、足利尊氏によって幽閉されていた後醍醐天皇が吉野へと脱出して(12月21日参照>>)、そこに、続々と忠臣たちが集まって来ていて、「もうすぐ挙兵するゾ!」って事を、越前(福井県)金崎城交戦中(3月6日参照>>)新田義貞らに知らせる密書を運んでいた新左衛門が、この時、海に面した金崎城に泳いで近づいて行ったために、水に濡れないように「くくりつけて泳いだ」という苦肉の策だったワケで・・・

本来、天皇の綸旨や主君の手紙などを、を自分の髪にくくりつけるなんて行為は、とても恐れ多くて失礼な事・・・なので、通常は、どちらかと言うと、大事に大事に扱いながら、うやうやしくく運んでいたようですが、まぁ、どうしても見つからないようにしたい場合もありますからね~

また、戦国時代では、関ヶ原の合戦(9月16日参照>>)の時に、徳川家康から送られた東軍への寝返り最速の手紙に対して、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)「OK!寝返るよ」の返事を持った使者が、あまりにも土佐弁丸出しだったため、西軍に見つかって密書を奪われてしまい、合戦当日の盛親は、動くに動けなかった・・・なんて話もあるので、密書を運ぶ人の人選も大事かも知れません。

今や、通信と言えば光の時代・・・光ファイバーだと、普通の電話なんかの電気信号での通信の数千倍~数万倍の量の通信を送る事ができるのだそうです・・・早いワケだ!

これで、もう、髪の毛にくくる必要も、犬に持たせて不安にかられる必要も、標準語の練習もしなくてよくなったって事ですね。
よかった、よかった・・・
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2008年4月22日 (火)

第一次川中島・前哨戦~更科八幡の戦い

 

天文二十二年(1553年)4月22日、武田信玄葛尾城を奪われていた村上義清が、信玄の陣を襲撃した『更級八幡の戦い』がありました。

一般的には、本日の更級八幡の戦いと、8月下旬から9月にかけて激突する布施の戦いを合わせて、第一次川中島の合戦とする事が多いようです。

・・・・・・・・・

越後(新潟県)の守護であった上杉氏配下の守護代・長尾為景が、下克上によって、その上杉の実権を奪い、越後の支配に乗り出します(8月7日参照>>)

その為景の死後、その息子同士の兄弟間での家督争いに打ち勝って、本拠地であった春日山城に入ったのが、ご存知、長尾景虎・・・後の上杉謙信です。

しかし、謙信が家督を継いだその頃は、まだまだ、越後の北半分は、揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人たちが独自に支配していたため、内紛状態が続いていおり、謙信には外へ目を向ける余裕はありませんでした。

しかし、ちょうどその頃、甲斐(山梨県)武田信玄が、領地拡大を狙って信濃(長野県)への進攻の真っ最中。

隣国・信濃の諏訪頼重(すわよりしげ)を倒して(6月24日参照>>)、諏訪地方を手中に収めた信玄にとって、次に狙う相手は林城小笠原長時と、葛尾城村上義清です。

特に、村上義清には、天文十七年(1548年)上田原の合戦(2月14日参照>>)において手痛い敗北を喰らい、板垣信方(のぶかた)甘利虎泰(あまりとらやす)という大事な重臣二人を失っています。

しかし、その後の塩尻峠の戦いで、もう一人の相手・小笠原長時を破った信玄は、信濃の中部まで進攻し、二年後の天文十九年には、林城を攻略・・・長時は、義清のもとへと逃げ込みます

そして、いよいよ天文二十二年(1553年)、長時・義清を討つべく出陣した信玄は、4月6日、義清の葛尾城を包囲・・・この時、義清は戦わずして脱出し、謙信を頼って越後に逃れます

実は、一昨日書かせていただいた河越夜戦(4月20日参照>>)で、北条に敗れた山内(やまのうち)上杉憲政も、その後、領地を失い、この一年前に謙信を頼って、越後に逃れていました。

そして、このあたりの北信濃に古くから根を張っている国人衆も、このところの信玄の進攻によって、皆、同盟を結び、義清の傘下にいましたが、義清の越後への逃亡を知って、彼らも謙信を頼る事になります。

もう、頼られっぱなしの謙信くん・・・しかし、ここに来てようやく内紛を治めて、近隣に目を向ける事ができるようになった謙信にとっては、むしろ絶好のタイミング!であったかも知れません。

Kensinsingenseiryokuhanicc なんせ、義を重んじる謙信・・・信玄の侵略行為による出兵という大義名分を掲げる事ができます

ホントは、信玄に葛尾城を取られて一番困るのは謙信なのです。

だって、葛尾城と春日山城の距離は100km強程度・・・完全に攻撃範囲内に入ってしまいますからね。

とにかく、味方である義清とその配下の国人衆の領地を取り戻し、このあたり一帯を守ってもらっていたら、居城が脅威にさらされる事は、まず、ありません。

かくして、謙信は、信玄と戦う事を決意します。

謙信24歳、信玄33歳・・・戦国史上、屈指のライバルの誕生です。

まずは、義清が、自身の葛尾城を奪回すべく、行動に出ます。

天文二十二年(1553年)4月22日、謙信を頼って落ち延びた北信濃の国人衆プラス謙信から賜った5000の兵を連れて、義清は出陣・・・更級八幡(さらしなはちまん)に布陣していた武田軍の先鋒を襲撃します。

ふいを突かれ、余儀なく撤退する武田軍・・・村上軍はその勢いのまま、葛尾城へ向かい、翌23日には、葛尾城の奪回に成功します。

この時の戦いに謙信が出陣していたかどうかは不明ですが、実際に戦場にいようがいまいが、参戦を決意した事は明らか・・・おそらく信玄も、「いよいよ乗り出して来やがったな!」と、思ったに違いありません。

なぜなら、ここで信玄は葛尾城に執着する事なく兵を退き、一旦、甲斐に戻ってしまうのです。

それは、態勢を整え、もう一度、ベストな状態で謙信と戦うため・・・信玄もライバルとの戦いを決意したのです。

やがて、3ヶ月後の7月、信玄率いる1万の軍勢は、義清が籠る塩田城をはじめとする周辺の支城を次々と落し、川中島まで北上・・・それを聞いた謙信は、8000の兵を引き連れ、春日山城を出陣し、一路、川中島へと向かいます。

いよいよ、第一次川中島の合戦の後半戦・布施の戦いへと突入する事となるのですが・・・そのお話は、9月1日のページへどうぞ>>

全部で5回に渡って繰り広げられる川中島の合戦・・・第二次以降については【武田信玄と勝頼の年表】でどうぞ>>
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2008年4月21日 (月)

ウソかマコトか?将軍の隠し子・天一坊事件

 

享保十四年(1729年)4月21日、将軍ご落胤事件『天一坊事件』で知られる天一坊が処刑されました。

・・・・・・・・・・・

大岡名裁きとして歌舞伎や映画の題材にもなり、大変有名な『天一坊事件』・・・事件のあらましは、こうです。

暴れん坊で有名な8代将軍・徳川吉宗の時代、江戸品川のお寺に、天一坊と名乗る修験者が住み着きます。

しかも彼は、「自分は将軍のご落胤(隠し子)であるから、近々、江戸城に出仕する」というのです。

実は、ちょっと前から、彼はすでに、大坂で同じ事を言い、何かにあやかろうとする商人や裕福な農民から、多くの金品を貢いでもらい、さらに、そのへんの浪人を召抱え、まるで御大尽のごとく・・・。

その評判とともに、赤川大膳なる家老まで引き連れて、愛しい父・吉宗に会うために、「下に~下に~」と、まるでホンモノの大名行列のようにして、鳴り物入りで江戸に到着していたのでした。

噂の天一坊ご一行ですから、そりゃもう、江戸に入った時点で、幕府は上を下への大騒ぎです。

しかも、彼は証拠の品なる物まで持っているという・・・。

ご存知のように、徳川吉宗紀州(和歌山)の徳川家の人・・・しかも四男なので、本来なら藩主にすらならない立場の人ですから、若い頃は自由奔放で、文字通り「暴れん坊」な生活を送っていたのです。

ところが、あれよあれよと言う間に、紀州家のお兄様方が相次いでお亡くなりになり、藩主の座が転がり込んで来たかと思うと、今度は、江戸におわす7代将軍・徳川家継が、わずか7歳にして亡くなり、当然子供も無し・・・本家の血筋がいなくなった事で、御三家の一つ・紀州家から8代将軍になったのでした(8月13日参照>>)

天一坊の告白によれば・・・
「そんな吉宗が、まだ徳太郎と呼ばれていた若き頃、腰元でもトップクラスの沢の井という女性に手をつけて妊娠させてしまいますが、当時は、まだまだひよっ子・・・しかたなく、“男子が生まれて大きくなった時、名乗ってきなさい”というお墨付きと、葵の紋の入った銘刀・粟田口山城守(あわたぐちやましろのかみ)を、女に授けた」
というのです・・・それが、先ほどの証拠の品。

側近の者が吉宗に尋ねると・・・
「そんな事があったかも知れない・・・」との返答・・・
しかも、証拠の品はホンモノ・・・

すゎ!まことのご落胤と、そりゃ大騒ぎにもなります~。

ところが、その天一坊なる人物を取り調べた名奉行・大岡越前守忠相(ただすけ)・・・
「これは、おかしい」ピンとキタ~~~(・∀・)!

・・・で、結局、ウソがバレでしまうのですが・・・

実は、天一坊は、紀州・和歌山の感応院というお寺の小坊主で、名前は宝沢(ほうたく)と言い、まったくの別人でありました。

1~2年前のある日、宝沢は、隣村のお三というお婆さんと知り合いになります。

身内もおらず、一人暮らしで寂しい毎日を送っていたお三婆は、親しくなった小坊主に、いつしか身の上話を語りはじめます。

それが、先ほどの「吉宗が徳太郎だった頃・・・」のお話です。

実は、そのお三婆さんの娘が、その腰元・・・実家に戻って出産をしたものの、産後のひだちが悪く、娘が亡くなり、生まれた男の子も死産だったのです。

その話を聞いた宝沢・・・その男の子が、もし、成長していれば、自分と同じ年頃だと知って、悪知恵が働きます。

そう、そのお三婆さんを殺して、そのお墨付きと短刀を盗んだのです。

ほとぼりが冷めるまで・・・と、九州へと逃亡しますが、乗った船が難破し、伊予(愛媛県)にたどりつきます。

そこで、知り合ったのが、赤川大膳なる人物・・・彼は、早速、ワル仲間の美濃(岐阜)常楽院・天忠に相談。

この天忠の弟子で、身寄りのなかった天一なる坊さんを殺して、この宝沢を天一に仕立てあげ、京・大坂で酒池肉林の日々を過ごしていたのです。

結果・・・
「天一坊こと宝沢は、生国にて人を殺め、盗みを働き、あまつさえ公儀を偽り、多くの金銀を騙し取りし事は、不届き至極・・・よって市中引き回しの上、品川にて獄門に処するものなり」
これが、大岡越前さまのお裁き・・・

・・・・・と、長々と書きましたが、上記のお話は、大岡忠相さんの名奉行ぶりを伝える『大岡政談』の中の一つで、講談やお芝居として人気とになった架空のお話なのです。

「えぇ?・・・架空なのに、今日が処刑された日って、どーゆー事?」
と、お思いでしょうが、『大岡裁き』としては、架空の出来事・・・つまり、講談やお芝居がモデルとした実際の事件があって、そのモデルとなった事件の犯人が処刑された・・・という事なのです。

実際に起こった事件の犯人は源氏坊改行というお坊さん。

事件を担当したのは、町奉行の大岡さんではなくて、武家の問題解決を行う勘定奉行・・・しかし、事件のあらましは、ほぼ、同じです。

ただ、改行には証拠の品となるような物は無く、そのためにニセ者と判断されますので、その品を手に入れるための殺人などは行っていません。

その時の調べによると・・・
彼は紀州の生まれで、母親が武家屋敷へ奉公にあがっている時に身ごもったという事で、武家の子供である事は本当のようです。

それに、母親から
「お前は高貴な人の血を引いているんだよ」
「世が世なら人の上に立てる身分なんだよ」
と、
小さい頃から聞かされていたのも本当の事だったようです。

ただ、父親が誰かという事を明かさないまま母親が亡くなったために、改行自身が勝手に、父は吉宗だ」と、本当に思い込んでいたようなのです。

つまり、彼は人を騙すという気持ちは、まったくなく、本当に父親に会いに江戸に来て、思いのままを人に話したら、勝手に皆が金品を持って集まって来ただけだったのです。

しかも、上記の・・・
側近の者が吉宗に尋ねると・・・
「そんな事があったかも知れない・・・」との返答・・

というのも、実際の事件でも、吉宗はそうのように返答したらしいのです。

若き日に、けっこうな数の過ちを犯していた吉宗には、「絶対無い!」と言いきれない部分があったようです。

結果的に、実際の事件では、「世間を騒がせた罪」として、享保十四年(1729年)4月21日獄門にされた改行さん・・・ひょっとしたら、ホンモノのご落胤だった可能性もゼロではない・・・という、気になる結末となってしまいました。
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2008年4月20日 (日)

戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅

 

天文十五年(1546年)4月20日、戦国屈指の夜戦・・・『河越夜戦』がありました。

・・・・・・・・・

室町幕府が関東を管理するために置いた鎌倉公方と、その補佐役・関東管領・・・

鎌倉公方は足利氏の支族が代々務め、管領職は扇谷(おうぎがやつ)上杉家山内上杉家が交代で務めていたのですが、幕府将軍6代目・足利義教(よしのり)と公方4代目・足利持氏(もちうじ)の時に、幕府に反発し公方が独自の道を歩み始めた事で、幕府と管領・上杉がタッグを組んで、公方・持氏を排除しました永享の乱:2018年2月10日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

その持氏の遺児・足利成氏(なりうじ)が、公方職を奪回しようと関東各地で反乱を起こし、幕府に無許可で勝手に名乗ったのが古河(こが)です。

・・・で、勝手に名乗られちゃぁ困るって事で、幕府が慌てて派遣した正式な公方堀越公方だったわけですが、その堀越公方を滅ぼしたのが、彗星のごとく現れ、駿河(静岡県)今川氏に妹のコネで契約社員となっていた北条早雲です伊豆討ち入り・10月11日参照>>)

ここで、伊豆を支配するようになった北条氏ですが、やがて、先の古河公方の3代目・足利高基(たかもと)の代になって、兄・高基に反発した弟・足利義明(よしあき)が古河を離れ、無許可のさらに無許可となる小弓(おゆみ)公方を名乗り始めます。

すでにこの頃、鎌倉を支配し、江戸城近くまで勢力を伸ばしつつあった早雲の息子・二代目北条氏綱(うじつな)は、見事、小弓公方を倒し、さらに関東での支配を広げます国府台合戦・10月7日参照>>)

早雲・氏綱の親子2代で、堀越・小弓と来て、さぁ・・・最後に残ったのは古河公方・・・

そんな天文十一年(1541年)7月、その氏綱が病死し、息子・北条氏康(うじやす)が家督を継ぎます。

この3代目の氏康が、まだ年若かった事で、「これは絶好のチャンス!」と見て取ったのが、その古河公方と管領である両上杉氏です。

古河公方4代目・足利晴氏(はるうじ)にとっては、これ以上、北条の北進を許すわけにはいきません。

晴氏と、それに同調する山内上杉憲政(のりまさ)扇谷上杉朝定(ともさだ)らは、その年の10月、関東中央部の北条の拠点である武蔵河越城(埼玉県川越市)の包囲に取り掛かります。

この河越城は、もともと朝定が居城としていた城・・・それを氏綱が奪って、娘婿の北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)に守らせていたのですから、晴氏としても、是非ともこの機会に取り返したい!

河越城の北側には晴氏、西側と南側が両上杉氏、東側には、あの太田道灌(どうかん)の曾孫・太田資正(すけまさ)(9月8日参照>>)・・・総勢8万と記録にはありますが、これはオーバー過ぎ、その半分くらいと見ておいたほうがいいでしょう。

守る河越城内は、城主・綱成をはじめとする約3千と、氏康が派遣した救援部隊が8千・・・それでも、数の差は歴然です。

しかし、その数の差のわりには、公方・管領側が何度攻撃を仕掛けても、河越城はなかなか落ちません。

小競り合いを続ける中、明けて天文十五年(1546年)3月頃に、晴氏たちは、「一度体制を整えなおして再戦」と、ばかりに、一時攻撃を休止します。

それを見た氏康は、自らが、更なる救援隊を率いて、近くの金窪(かなくぼ・川越市)に陣を敷き、即座に晴氏に和睦を申し入れます。

しかし、この和睦は敵を油断させるための氏康の作戦・・・

案の定、配下の者に敵情を視察させたところ、晴氏たちは、数の上で大幅に勝っている事、相手が和睦を申し入れてきた事で、「もはや、この戦いは終るだろう」と、完全にくつろぎの表情を見せているとの事・・・。

その報告を聞いた氏康・・・「やった!今夜だ!」
と、ばかりに、天文十五年(1546年)4月20日夜遅く、まずは、朝定の陣にだけ夜襲をかけます。

ふいを突かれた朝定は、あっさりと討ち取られ、陣は壊滅状態となります。

その勢いに乗って、こんどは上杉憲政の陣へ突入!
敵将・憲政の首こそ取れなかったものの、皆散り散りに敗走し、こちらの陣も壊滅状態となります。

この氏康の奇襲を知った城内の綱成は、城兵総出で、晴氏の陣へ討って出ます。

あれよあれよという間に、総崩れとなってしまった陣を目の当たりにした晴氏は、北条側へ降伏を申し入れ、この戦いは北条の勝利に終ります。

包囲されている側が、城外に到着した援軍と合わせて、何倍もの大軍を討ち果たした・・・まれに見るこの合戦は、厳島(10月1日参照>>)桶狭間(5月19日参照>>)の二つの奇襲とともに戦国屈指の夜襲『河越夜戦』として語り継がれる事となりました。

後に、晴氏は古河公方の座を追われる事になり、この時、上野平井城(群馬県)の逃れた憲政も、もはや関東管領は名ばかりの地位となってしまいます。

この憲政が、上杉謙信(長尾景虎)のもとに身を寄せて、その憲政のお供という形で、謙信が関東に乗り込んでくるのは、この後、16年後の永禄三年(1560年)7月の事・・・もう少し待たねばなりません。
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2008年4月19日 (土)

異形の怪物・両面宿儺の正体

 

両面宿儺の伝説をご存知でしょうか?

両面宿儺(りょうめんすくな)とは、『日本書紀』仁徳天皇(1月16日参照>>)の六十五年(383年?)の所に登場する人物です。

その記述は、わずか84文字・・・しかも、このお話は『古事記』にはまったく登場しません。

(仁徳天皇の)65年。
飛騨の国に一人の男がいた。
名前は宿儺。
 

その人物は、一つの身体に二つの顔を持ち、左右に剣をたずさえ、4本の手で弓矢をあつかい、力は強く、風のように速い・・・。 

天皇にそむき、人民から略奪をくりかえしていたので、朝廷は建振熊命(たけふるくまのみこと)を派遣して退治させた」

・・・と、日本書紀に書かれているのは、これだけ・・・。

これだけなら、昔話によくある怪物退治の単純なお話・・・となりますが、地元・飛騨に伝わる民話は、もう少しくわしく語られます。

身の丈六尺(180cm)、顔が表裏に二つ、手足が4本で、多くの手下を従えて、金銀を奪っては手向かう者を殺していた・・・ここまでは、同じ雰囲気です。

ところが、帝が宿儺を討伐するため、軍を差し向けようとすると、宿儺は・・・
「飛騨まで来ていただくのはお気の毒、美濃まで出向きましょう」
と言い、美濃・高沢山で官軍と衝突したのだとか・・・

山賊まがいの手下と、朝廷の官軍とでは差がありすぎたのか、さすがの宿儺も追い詰められてしまいます。

しかし、官軍の大将は、その勇猛ぶりを惜しいと思い・・・
「どうだ?天子さまの家来にならんか?」
と誘いますが、宿儺は、その誘いを拒否。

「いっそ、生まれ故郷で殺してくれ」
と言って反抗したので首を斬られたというのです。

こうなると、漠然とした昔話よりは、少し具体的になってきます。

なんせ、「飛騨では気の毒なので美濃で・・・」
という事は、すでに美濃の国は宿儺の領地となっていた事が伺えるからです。

単なる山賊では、飛騨から美濃までの広範囲を手中に治める事は出来ません。

これは、山賊・無頼のやからではなく、明らかに朝廷に対する反乱のお話という事になります。

さらに、「家来になれ」と誘うという事でも、宿儺が山賊ではなく、その地を治める由緒正しき者であった事が伺えます。

そして、ここに、もう一つ・・・

その戦場となった高沢山にも宿儺の伝説が残っています。

それは・・・
やはり、仁徳天皇の時代に、高沢山に大蛇が住みついて住民を悩ませていたのを聞きつけて、飛騨に住む宿儺という、頭が一つで顔は4面、手足が4本の異形の者がやってきて、退治してくれた・・・という物です。

これは、完全に宿儺英雄物語になっています。

先の伝説で、金銀を奪っていたとされている飛騨の千光寺の記録でも、宿儺は寺を創設した開祖で、観音の化身であるとされています。

考えてみれば、この時代、金銀財宝を持っているなんていうのは、朝廷の官人か、それに連なる豪族たちです。

たとえ宿儺が、金銀財宝を奪っていたとしても、その相手は朝廷側の人間であって、その地に暮らす一般庶民ではなかったでしょう。

彼が、弓を放つその先は、ただ一つ・・・東へ東へと侵略して来る大和朝廷?

江戸時代に、千光寺を訪れた、一刀彫で有名な円空(1月26日参照>>)は、ほほえみを浮かべたやさしい顔と、怒りに震える恐ろしい顔の、二つの顔を持つ両面宿儺像を彫り、この寺に残しています。

日本書紀には、化け物のように書かれている両面宿儺・・・

その両面宿儺の両面とは・・・

東国の先住民族を守るやさしいリーダーの姿と、権力に真っ向から立ち向かう勇敢な戦士の姿・・・この二つの顔を持つ、比類なき勇者の事であったかも知れないのです。
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2008年4月18日 (金)

近代日本初の対外戦争・征台の役

 

明治七年(1874年)4月18日、台湾出兵に反対した木戸孝允が、政府に辞表を提出しました。

・・・・・・・・・・

事の発端は、明治四年(1871年)10月・・・幕末・維新の動乱を乗り越えて、生まれたばかりの新政府が、廃藩置県に、身分開放にと右往左往していた頃・・・

暴風雨に見舞われた沖縄・宮古島の漁民が、台湾の海岸に漂着したところ、現地住民に襲撃され、乗組員66名のうち54名が虐殺されるという事件が起こります。

しかし、まだ、世界への扉を開けて間もない日本・・・こういう時、どうしていいかもわからず、何の対処もしないまま、とにかく内政の事で精一杯の日々が続きます。

そのうち、明治六年(1873年)には、あの征韓論で敗れた西郷隆盛板垣退助らが辞職(10月24日参照>>)、士族(元武士)たちの不満が頂点に達しようとしていた頃・・・。

その時・・・なぜか、3年前のその台湾での事件に興味を示したフランス系アメリカ人のリ・ゼンドルが、外務省の副島種臣(そえじまたねおみ)に接触します。

このリ・ゼンドルという人は、当時、清国(中国)厦門(アモイ)アメリカ総領事だった人で、とにかく饒舌=口がウマイ事で有名な人・・・そんな彼が「彼ら(犯人である現地住民)を、厳罰に処するべきだ」理路整然と語りつくします。

それこそ、まだ、外国との交渉に不慣れは新生日本・・・副島は、このリ・ゼンドルを外交顧問とし、台湾への出兵を視野に入れて、話を推し進めていくのです。

この時の、現地住民というのは、台湾の先住民族で高砂族と呼ばれていた人々・・・リ・ゼンドルの言うところに寄れば、「彼らは別の民族で、清国の政教の及ばないところにいるのだから、日本が出兵して報復するのが義務である」というのです。

これに飛びついたのは、あの大久保利通でした。

実は、大久保は悩んでいました。
それは、先の征韓論・・・

廃藩置県によって、職を失った士族が50万人と言われていたこの頃、西郷たちの征韓論に乗って朝鮮に出兵すれば、ある意味、職を失った士族たちの救済にもなります。

しかし、その時は、「今は外国と戦っている時ではない、国内の産業の発展に目を向けるべき」という意見に賛同して、征韓論を叩きつぶしましたが、ここにきて、士族たちの不満が頂点に達してきている事をひしひしと感じていたのです。

そんな矢先、とうとう、明治七年(1874年)2月、不満ムンムンの士族たちによる反乱・佐賀の乱(2月16日参照>>)が勃発してしまいます。

大久保は、即座に台湾出兵の案を政府に提出し、佐賀の乱の鎮圧に従事すると同時に、陸軍中将・西郷従道(隆盛の弟)に出兵準備を命じます。

これに、反対したのが、大久保とタッグを組んで、ともに征韓論をつぶした木戸孝允(桂小五郎)です。

木戸の言い分は・・・「今、ここで、出兵するなら、去年のあの征韓論反対は何だったの?」って事です。

ごもっともなご意見・・・大久保さん痛いトコ突かれます。

しかし、大久保は薩摩出身・・・征韓論で西郷が負けて、もっとも苦しんでいるのは、元・薩摩の鹿児島士族たちなのです。

その負い目もあって、話は強引に進み、もはや台湾出兵は政府の決定事項となります。

かくして、明治七年(1874年)4月18日木戸は辞表を提出し、政府を去るのです。

この後、5月4日には、大久保・西郷、そして大隈重信の三者会談で、正式に台湾への出兵が決定され、幕府から引き継いだヨレヨレの砲艦2隻に、いっぱいいっぱいの兵士を乗せて出航・・・

22日には現地に上陸し、近代日本初の正規軍による対外戦争『征台(せいたい)の役』が勃発したのです。

しかし、いくらヨレヨレの船とにわか軍隊だとは言え、こちらは一国家の正規軍・・・相手は、清国に蛮族呼ばわりされている先住民族です。

高砂族以外の住民は、反発しなかった事もあって、戦いはあっけなく終わります

ところが、終ってみると、アラ!たいへん・・・世界の常識に不慣れな日本は、本来、先にすべき外交筋への正式な告示をやっていなかった事を知るのです。

・・・なので清国は、「すぐに撤兵せよ」との猛抗議。

アヘン戦争以来、清国に多くの利権を持つイギリスも抗議してきます。

今回の出兵に際しての責任のすべてを荷う気持ちでいた大久保は、自ら遣清大使となって北京へ・・・

粘り強い交渉の末、清国が、先の虐殺された漁民への見舞金を含む出兵経費・50万両(テール)を支払う事で、日本側が撤兵するという条件での決着を向かえる事ができました。

とにもかくにも、この一件によって、沖縄が日本である事を、世界に認めさせた形となった事は、明治政府にとって、大いに収穫だったようです。

大役を終えて帰国した大久保は、すぐに「木戸を呼び戻したい」と、伊藤博文を仲介に立てて交渉し、木戸の出した提案をすべて呑む事によって、大久保と木戸の関係も丸くおさまる事に・・・

この先の日清戦争を予感させる「征台の役」・・・教科書では、あまり大きく扱われていないようですが、近代日本が世界へと目を向ける最初の出来事として、記憶に留めておきたいですね。
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2008年4月17日 (木)

徳川家康・その死のまぎわに・・・

元和二年(1616年)4月17日、江戸幕府・初代将軍、ご存知、徳川家康が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

日本史上屈指の有名人の徳川家康ですが、その死因については三つの説があります。

最もよく言われるのは、「天ぷらの食べすぎ」というヤツです。

今では、俗説だと言われていますが、この噂の根拠となる出来事は実際にあったようです。

元和二年(1616年)の1月21日、家康は年甲斐もなく、駿府郊外へ鷹狩りに出かけます。

年甲斐もなく・・・と書きましたが、この時家康・75歳・・・別に、いくらお年をめしていらしても、元気なら、鷹狩りをやってくださって良いのですが、問題は季節です。

何も、この真冬のクソ寒い時に・・・案の定、家康は、狩りの途中で倒れてしまうのです。

近くの田中城(藤枝市)に運ばれて、そこで休養する家康・・・と、そこに、茶屋四郎次郎清次という人物が、お見舞いにやってきます。

この茶屋四郎次郎清次という人は、京都の豪商・茶屋家の3代目

実は、彼のおじいちゃんである初代・茶屋家の茶屋四郎次郎清延は、あの家康大ピンチ『本能寺の変の直後の決死の伊賀越え』(6月2日参照>>)の時に、周囲の村々に金をバラまいて、金目当ての落ち武者狩りから家康一行を救った人なのです。

その功績によって、茶屋家は、家康から絶大な信頼を得ていて、この時代はもちろん、徳川幕府が崩壊する幕末まで、幕府の御用商人のトップとして君臨したお家柄・・・そんな茶屋家の孫が、お見舞いに来てくれたと聞いて、家康は少し元気を取り戻します。

・・・で、彼の持ってきたお見舞いというのが・・・
今話題!超人気!ネット検索第一位の『鯛の南蛮漬け』

魚を油で揚げて、ニンニクの入った醤油だれに漬けて・・・というアレです。

京のハヤリ・・・と聞いて、ムクッと起き上がり「うまい、うまい」とパクパクと・・・病み上がりにしては、随分と食べたようです。

しかし、その夜からお腹が痛み出し、やがて猛烈な下痢に襲われ、そのまま快復する事なくお亡くなりに・・・というのですが、今日この話題を書いている事でもおわかりのように、亡くなったのは4月17日・・・。

死期を早めた・・・という事はあるかも知れませんが、1月に食べた物が、3ヶ月後の直接の死因になるという事は考え難いという事から、この「天ぷらの食べすぎ説」は、俗説とされています。

次に、本人申告の「寸白(すばく)の虫=サナダ虫」です。

その日、鷹狩で調子を崩した後、駿府城に帰って腹痛に襲われた家康は、診察をした主治医に対して・・・
「俺って昔っから、腹ん中にサナダ虫おるんよ~
昔、自分で作った薬で一回撃退した事あるんやけど、ぜったい、また、わいてるわ~」

と、言っています。

しかし、たぶん、これは家康の思い込み・・・というのも、家康の病状を記した徳川の公式文書と言える『徳川実記』には・・・

「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」
と書かれているそうですから・・・。

家康本人は、死ぬまで、この腹にできたシコリを、サナダ虫の大群と思っていたようですが、いくら何でも、そんなこたぁありません。

・・・で、この病状から、三つめの死因・・・今では、『胃がん』であっただろうというのが定説とされています。

ところで、そんなこんなで亡くなった家康さん・・・最後の最後に、驚きの逸話を残してくれています。

布団の上に横たわり、もはや、虫の息の家康さん

まわりで見守る家臣たちにも、年齢が年齢なだけに(江戸時代ですから・・・)「もう、このまま永眠されるのでは・・・」という空気が立ち込めます。

・・・と、その時、いきなりムクッと起き上がったかと思うと、そばにいた家臣に・・・
「刀を持てぃ」
と、自分の刀を持ってこさせます。

じっくりと、その刀を見つめながら・・・
「これで、誰かを斬って来い!」

「へぇぇ・・・?」
っと、うろたえる家臣に・・・
「罪人でえぇ、試し斬りして来い!」

殿の命令です。
家臣は、死刑になる予定の罪人を、一人斬って、その血のしたたる刀(「革柄蝋色鞘刀」12月7日の末尾参照>>)を家康に渡します。

「おぉ・・・」
と、大きくうなづいて、その刀を受け取った家康は、布団の上に立って、いきなりの素振り!(虫の息なのに?)

「俺は、この剣で、末代まで子孫を守ったるでよ~」
と、叫び、バタリと倒れて、そのまま息をひきとったのだとか・・・

まぁ、このお話は、この後、家康さんが権現=神様となるため(4月10日参照>>)の逸話だと言ってしまえば、そうなんでしょうが、何とも、凄まじい死に方ではあります。

*異説=堺の南宗寺の家康のお墓(大坂夏の陣で死んだとされる)については【堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説】でどうぞ>>
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2008年4月16日 (水)

丹羽長秀・人生最後の抵抗

 

天正十三年(1585年)4月16日、織田家の重臣・丹羽長秀が51歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

少し前の事になりますが、『性格診断テスト・あなたは戦国武将でいうと誰?』という、おもしろそうなのがあったので、やってみたところ・・・私は丹羽長秀という事でした・・・

  • 上記のサイトは、リンクフリーだという事ですが、一応URL表示させていただいときます
    http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazu1110/busyou.html

ちょっとショック・・・

いえいえ、決して長秀さんが嫌いなわけではありませんよ。

ただ何となく、長秀さんは、実直でマジメそうなイメージがあったので、おふざけ人生を送っている私とは、ちょっと違うんじゃない?・・・っていうのと、派手好きで目立ちたがりなもので、自分自身では、どちらかというと“カブキ者系”“バサラ系”の武将を予想しておりまして、予想外・・・という意味でショックを受けたのです。

しかし、これも何かの縁・・・今日は、長秀さんのご命日という事で、思いを込めて、その最期を書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・

丹羽長秀と言えば、織田信長に仕えた重臣の中の重臣・・・あの柴田勝家と並んで、織田家家臣のトップをいく人でした。

豊臣秀吉がまだ、木下藤吉郎だった頃、両雄にあやかろうと、柴田勝家の「柴」と、丹羽長秀の「羽」を一字ずつ貰って、「羽柴」と名乗ったなんていう逸話をご存知のかたも多いはず・・・。

そんな長秀さんに、そもそも、私が、“実直でマジメ”というイメージを抱いたのは、主君・信長との官位の「いる・いらない」エピソードからです。

信長が近江(滋賀県)小谷城を攻めて、浅井長政を滅ぼした時(8月27日参照>>)、朝廷の許可を得て、功績のあった家臣たちに官位を贈った事がありました。

秀吉はご存知、筑前守(ちくぜんのかみ)です。
柴田勝家は修理亮(しゅうりのすけ)
明智光秀は日向守(ひゅうがのかみ)
滝川一益は左近将監(さこんしょうげん)
荒木村重は摂津守(せっつのかみ)

・・・で、信長は、長秀に越前守(えちぜんのかみ)を与えようとします。

ところが、長秀は、「今まで通りで結構です」と言って、かたくなに断り続けます。

実直でマジメな上に、融通がきかない頑固者・・・なんせ、この時は、あの信長さんが折れているんですから・・・。

ところで、そんな信長の家臣団の中には、要領よく立ち回って出世する秀吉の事を快く思わない者もたくさんいました。

その代表格が柴田勝家です。

織田家譜代の家臣たちから見れば、秀吉は新参者・・・しかも、家柄が家柄ですから、格式とプライドを重んじる彼らにとって、秀吉の出世がおもしろくないのは当然です。

しかし、そんな中でも、長秀は、秀吉にやさしく、昔からの家臣と差別する事なく接していたようです。

やがて、運命の時がやってきます。
そう、本能寺の変(6月2日参照>>)です。

この時、柴田勝家は北陸魚津城(6月3日参照>>)
羽柴秀吉は備中(岡山県)高松城(4月27日参照>>)
滝川一益は上野(群馬県)北条(6月18日参照>>)
それぞれ交戦中・・・。

長秀は、信長の三男・神戸信孝補佐役として、ともに四国征伐を開始する直前で、大坂・堺に滞在中でした。

・・・て、事は、上記の重臣たちの中では、一番近くに・・・しかも、信長の息子とともにいた事になるわけですが・・・ご存知のように、主君の仇を討つのは、中国から神がかり的スピードで戻ってきた秀吉と合流してからです。

実は、この時、長秀とともに信長の急を聞いた信孝が、野田城(大阪市福島区)にいた津田信澄を襲って殺害しています。

明智光秀の娘婿だった信澄を、本能寺の変に関与していると考えての行動ですが、行動したのはここまで・・・このまま単独で、光秀軍本隊に迫る事はなかったのです。

なぜなら、信長の死を知った信孝軍は、ことのほか動揺してしまい、大混乱となったため、脱走する者が後を絶たず、最終的に残ったのは5000ほどの兵で、とても、光秀本隊を迎え撃つ事ができなかったのです。

かくして、摂津富田で、秀吉軍と合流した信孝と長秀は、ともに山崎の合戦(6月13日参照>>)に挑みます。

・・・と、ここで以前、山崎の合戦のページにupした布陣図を確認していただきたい(ココをクリックすると別窓で開きます>>)

合戦の場合、多く大将が最後尾に位置し、それを守るかのように、それぞれの武将が陣を立てる事になりますが、山崎の古戦場は、淀川と天王山に挟まれた、実に狭い場所にあるので、総勢・35000となった軍は、縦長に布陣するしかなく、その並びが実にわかりやすい・・・大将の位置である最後尾に神戸信孝、その次に丹羽長秀、そして、羽柴秀吉です。

もちろん、これは秀吉の意見によるもの・・・つまり、この山崎の合戦の大将は信孝、副将は長秀で、自分はその次ぎだと・・・

数では圧倒的に多い自分が身を引いて、信長の遺児を大将に、そして、織田家家臣の中で自分より地位のある重臣を副将に・・・と、言えばカッコイイですが、実は、この布陣も、信長の仇を討つという大義名分を、全面的に強調するための秀吉の作戦です。

こちらは、正統な官軍で、光秀は謀反を起した賊軍という印象を植え付けるためなのです。

これが、秀吉の作戦であった事は、山崎の合戦で勝利した後、信長の後継者を決めるべく開かれた清洲会議(6月27日参照>>)で明らかとなります。

合戦に挑んだ時の秀吉同様、信長の後継者として、息子の信孝を推す柴田勝家・・・ところが、秀吉は、本能寺の変で信長とともに死んだ長男・信忠の息子でわずか3歳の三法師を推すのです。

3歳の子供の後見人となって権勢を振るおうという魂胆がミエミエの秀吉に、怒りをあらわにする信孝と勝家・・・。

ところが、この時、会議に出席していた長秀は、秀吉の推す三法師に味方するのです。

それには、この会議の前から、秀吉が長秀に根回ししていたからだと言われますが、それよりも、やはり実直でマジメな性格の長秀には、嫡流を重視したという事があったように思います。

なんせ、信長は、すでに天正三年(1575年)に信忠に家督を譲っています(11月28日参照>>)

多くのドラマが信忠の存在をほぼスル-して描くので少々勘違いしてしまいますが、この清州会議は、あくまで織田家の後継者を決める会議であって、その時点で信長が天下取りに一番近い位置にいたかどうかは別問題・・・

本能寺の寸前の信長は、朝廷から何やら重要な役どころを打診されていたという話のありますが、もし本当に、そんな話があったとしても、それは信長本人に対しての物で、織田家の家督を継いだ人に付録のようについて来る物ではありません

なので、長秀が「例え幼くとも、当主である信忠の遺児の三法師が正統」と思うのは、いたって自然・・・長秀にとって、最優先は信長と織田家なのですから・・・

とは言え・・・
やがて、そんなマジメで実直な長秀を、秀吉が怒らせる出来事がやってきます。

秀吉は、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で勝家を倒すと、信長の次男・織田信雄を丸め込んで、勝家が推していた信孝を自害に追い込んでしまうのです。

♪昔より 主を討つ身の 野間なれば
 報いを待てや 羽柴筑前♪

これは、信孝の辞世の句だと言われています。

野間とは、かの平治の乱で敗走した源義朝が、家来を頼って落ちのびた時、恩賞に目がくらんだ家臣が、逆に義朝を殺害した場所です(1月4日参照>>)

その因縁の地で自刃させられる事になった信孝・・・ただ、ここまで名指しの露骨な怨み節を詠んだかどうかは疑わしいですが、もし、本当に信孝の辞世であったなら、織田家大事の長秀は、どのような思いでこの叫びを聞いたのでしょうか?

しかし、この一件・・・直接、信孝を自刃に追い込んだのは、兄の信雄ですから、ここで長秀が秀吉を責める事は、信雄をも責める事になります。

とりあえず、ここでは、じっと我慢の長秀・・・しかし、それだけでは終りませんでした。

今度は、信孝を追い込むために利用した信雄を軽視し、信雄相手に小牧・長久手の戦い(3月13日参照>>)を勃発させます。

ここで、長秀はブチ切れるのです。

長秀にとって、あくまで主君は織田家・・・以前は、秀吉が織田家の家臣であったから味方をしていたわけで、秀吉に臣従する気持ちなんて、さらさら無いのです。

この時から、長秀は、秀吉の再三の呼び出しに応じる事なく、越前(福井県)府中居城に引きこもってしまうのです。

しかし、天下はすでに、秀吉の手中にある事も、すでに彼にはわかっています。
そこで、長秀は、ひとり・・・自問自答するのです。

勝家のように、秀吉と戦う事のできない自分・・・
前田利家滝川一益のように、すべてを吹っ切って秀吉の家臣となる事のできない自分・・・

心の中で、葛藤を繰り返すうち、年齢とともに持病の胃がんが悪化していきます。

やがて、床を離れる事もできなくなった長秀・・・

悩み抜いた長秀は、天正十三年(1585年)4月16日その右手に握った刀で割腹・・・握りこぶし大に腫れあがった腫瘍を取り出し、壮絶な最期を遂げるのです。

そして、その病根は、彼の遺言に従って、遺書とともに、秀吉のもとに送り届けられます。

丹羽長秀・51歳・・・生涯、織田家の一家臣。
人生の最後の最後に見せた、秀吉への抵抗でした。

とは言え、実は、この自刃のお話は『秀吉譜(ひでよしふ)に書かれた内容・・・

これ以外にも、「武士たる者が腹の中の虫に殺されてたまるか!」とばかりに、(病根)を退治すべく割腹して、その2日後に亡くなった・・・なんて事も言われますが、結局は、やはり、ガンの悪化による病死であろうというのが一般的な意見のようです。

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2008年4月15日 (火)

毛利輝元・広島城を築城~その出会いと別れ

 

天正十七年(1589年)4月15日、毛利輝元が広島城の築城に取り掛かりました。

・・・・・・・・・

先代・毛利元就『三矢の教え』(11月25日参照>>)で有名な安芸(広島県西部)の戦国大名・毛利氏

その元就が、まだ尼子氏の配下の一大名であった頃から山陽山陰に一大勢力を誇る大大名となり、さらに、その孫の輝元後を継いだこの頃まで毛利の本拠地は、ずっと郡山城でした。

郡山城は山間に造られた山城で、その地形を活かし難攻不落とうたわれた堅固な城です。

先の元就が、尼子氏から独立するきっかけともなった安芸郡山城の攻防戦(1月13日参照>>)でも、大内氏の援軍が到着するまでの4ヶ月間、尼子氏の総勢3万という大軍を、わずか8千で守り抜いた事もありました。

しかし、群雄割拠する戦国武将の中から織田信長が頭一つ出て、さらに豊臣秀吉へと時代が移り変わる中、政権が安定し、合戦自体も少なるうえ、その戦いかたも変化し、同時に城のありようも大きく変わります。

賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)後、天下を手中に治めた秀吉の傘下となった輝元は、天正十六年(1588年)、初めて上洛し、秀吉に謁見します。

その時、目の当たりにした秀吉の大坂城と聚楽第・・・

大きな堀と強固な石垣に守られながら、周囲の発達した水運を活かし、城下町を経済的に発展させ、町とともに栄える大坂城・・・

館と称しながらも、立派な天守と本格的城郭を持ち、天皇のおわす都で、その権勢を誇るかのように輝く聚楽第・・・

どちらも、山にはほど遠い平城です。

「もはや郡山城は古い・・・」
年が明けてまもなくの1月19日、輝元は、新しい時代の新しい城を建築する決意をするのです。

新しい城の建設地に選ばれたのは、当時五箇と呼ばれていた太田川河口の三角州・・・この地は、この後、広島と呼ばれる事となります。

天正十七年(1589年)4月15日着工された築城工事は、三角州という地盤の弱さから難航を極めますが、おそらく輝元は、将来の水運の発達を最優先に考えたのでしょう。

おかげで、完成した城は、豊かな水量を抱えた掘割を持つ見事な物となります。

堀は大坂城に・・・縄張りは聚楽第に・・・そして、もちろん、城の建設と同時に城下町の整備にも力を入れます。

「広島に行けば、何かの仕事にありつける」
そう言って、人が城下に集まり、さらにお金も城下に集まってきます。

まだ建設途中の広島城を訪れた秀吉は、
「見事だ!わが聚楽第にまさるとも劣らない」
と、絶賛したと言います。

めったに人を褒めない秀吉が絶賛したのですから、さぞかし、すばらしいお城だった事でしょう。

やがて、慶長四年(1599年)、11年かがりの大工事を終え、広島城は完成します。

しかし、その完成の翌年・・・そう、あの天下分け目の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)です。

西軍の大将に担ぎ上げられた輝元自身は、関ヶ原にこそ出陣しなかったものの、代理の従兄弟・毛利秀元吉川広家は出陣・・・ただし、合戦の前に徳川家康と広家が、「参戦しなければ、領土もそのまま、広島城にもそのまま住んでいいよ」という密約を交わしていたため、実際には合戦に参加しませんでした。

そして、ご存知のように、家康率いる東軍の勝利となり、天下分け目の戦いは終了します。

しかし、先ほどの約束は、密約だった事を口実に、見事に破られます(9月28日参照>>)

家康によって毛利の領地は、周防・長門(山口県)のみに削られてしまい、広島城には、賤ヶ岳の七本槍としてその名を馳せた豊臣恩顧の武将でありながら、石田三成憎しで、家康の東軍として参戦した福島正則が乗り込んで来たのです。

「城に居座り、あくまでも抵抗すべきだ!」
と、意気あがる家臣たちを説得したのは、他ならぬ輝元でした。

ようやく訪れようとしている平和な時代・・・その流れに逆らえば、毛利の家の存続さえも危うくなるだろう・・・

その後、最後まで城に籠っていた家臣たちも、輝元の再三の説得に応じ、ついに広島城を明渡しました。

時代の流れに沿って誕生した最新鋭の城は、再び時代の流れに乗って本来の城主の手元を、わずか一年で離れていったのです。
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2008年4月14日 (月)

後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第

 

天正十六年(1588年)4月14日、豊臣秀吉聚楽第に後陽成天皇を迎えました。

・・・・・・・・・・・・

後陽成(ごようぜい)天皇は、一昨日書かせていただいた第108代・後水尾(ごみずのお)天皇のお父さんにあたる第107代の天皇です。

戦国乱世という時代・・・お金も権威も、もはや風前のともし火だった天皇家。

その戦国も後半に入って、群雄割拠していた戦国大名たちの中から頭角を現して、ほぼ天下を手中に治めた感のある三人・・・ご存知、織田信長豊臣秀吉徳川家康

この三人の登場によって、権威と地位はあるがお金と力が無い天皇家と、お金と力はあるが権威と地位が無い戦国武将との利害関係が一致し、武将たちの献金よって、天皇家が潤う・・・という、天皇と天下人の関係が親密になってくるのです。

少しずつズレはあるものの、おおむねこの三人と時代を同じくしていた天皇も三人・・・。

第106代・正親町天皇と信長(10月27日参照>>)
第107代・後陽成天皇と秀吉。
第108代・後水尾天皇と家康+秀忠。

一昨日書かせていただいた通り、後水尾天皇と徳川家は、3代将軍家光の代になって修復されるものの、何やらギクシャク間の残るギブ&テイクの関係・・・(4月12日参照>>)

正親町(おおぎまち)天皇と信長は、先日の【信長の「上京焼き討ち」の謎】(4月4日参照>>)で書かせていただいたように、平静を装いながらも、お互いを探り合いながら一触即発を匂わせるような関係だったように思います。

そんな中、後陽成天皇と秀吉の関係は、最も安定した関係であったようです。

正親町天皇の息子・誠仁(さねひと)親王が、皇位を継ぐ前に亡くなってしまったため、その第一皇子・・・つまり正親町天皇の孫にあたるのが後陽成天皇。

天皇が即位したのは、羽柴秀吉太政大臣になって豊臣の姓を賜ったのと同じ年・天正十四年(1586年)です(12月19日参照>>)

その時のページでも書かせていただいたように、とにかく秀吉は、自分の身分の低さに大きなコンプレックスを感じていたので、貴種・源平藤橘(げんぺいとうきつ)と同等の「豊臣」という姓を与えてくれた天皇に感謝し、大いに尊重していたのです。

天正十八年(1590年)3月の『小田原征伐開始』(3月29日参照>>)の時などは、天皇はわざわざお出ましになり、秀吉の出陣の行列のお見送りをなさったと言います。

その姿に気づいた秀吉は、馬から下り、天皇のもとへ歩み寄って・・・
「少し、お暇を頂戴いたします」
と挨拶し、その後、御所にて盃を交わして出陣したという事ですから、この二人の関係がいかに良かったかがわかります。

信長が、天にそびえる安土城の天守閣から、見下ろす形になる場所に天皇を向かえる建物を建築したのに比べれば、おそらく、今回・天正十六年(1588年)4月14日秀吉の聚楽第(じゅらくだい)への御幸は、天皇にとっても気分の良いものだったのではないでしょうか?

聚楽第は、平安時代の頃に内裏があった場所に、秀吉が建てた豪華絢爛な建物で、天皇を迎えたこの時の宴は5日間に渡って行われました。

その後も、秀吉は、天正少年使節との会見(6月20日参照>>)など、重要な会見をここ聚楽第で行っています。

Zyurakudaitizucc 「第」とは「邸」という意味ですが、聚楽第はお屋敷というよりは、本丸や二の丸を持つ城の様相を呈しており、京都の町をすっぽりと包む『御土居(おどい)と呼ばれる堀が造られていました。

「攻めるに易く、守るに難し」
と言われた京の都を、秀吉は城塞都市へと造りあげるつもりだったのでしょうか?

しかし、その後、関白職を譲った甥・秀次を聚楽第に住まわせ、秀吉自身は伏見城に移った事で、この聚楽第の運命は大きく変わります。

そう、秀次が謀反の罪により切腹させられてしまうのです(7月15日参照>>)

すると、秀吉は、その秀次の記憶を消し去るかのように、豪華な聚楽第をも、跡形もなく潰してしまうのです。

そのおかげで、残念ながら、現在の聚楽第の跡という物は、先ほどの御土居の跡などが少し確認できる程度で、その遺構はほとんど残っていません。

金箔の瓦で覆われていたという聚楽第・・・一度見てみたかったですね。

結局、天皇と戦国武将の関係も、秀吉が亡くなった後に天下を取った家康の、例の『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)のおかげで、何やら不穏な関係に逆戻りしてしまうのです。
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2008年4月13日 (日)

宮本武蔵は名人か?非名人か?

 

慶長十七年(1612年)4月13日、ご存知、宮本武蔵佐々木小次郎『巌流島の決闘』がありました。

・・・・・・・・・・・

宮本武蔵は、誰もが知る日本一の剣豪・・・二刀流の開祖。

ご本人の書いた『五輪書(ごりんのしょ)によれば・・・
「13歳から29歳までに、有名・無名を問わず剣をを交えた回数は60回以上・・・しかも、一度も負けた事がない」のだそうです。

29歳で、それだけの剣の達人であるにも関わらず、さらに・・・
「山に籠り修行を重ね、50歳にして剣の道の極意を極めた」とあります。

しかも、噂によれば、徳川将軍の兵法師範・柳生新陰流柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(3月26日参照>>)よりも強かったのだとか・・・。

しかし、もう、すでに皆さんご存知のように、上記のような、現在の宮本武蔵のイメージは、作家・吉川英治さんの小説によって造られたものです。

以前、【忠臣蔵】(12月14日参照>>)のところのコメントでも書かせていただきましたが、私は、フィクションの否定派ではありません。

歴史は歴史、小説は小説、ドラマはドラマです。
おもしろくなるんなら、むしろ、どんどんフィクションを交えるべきだと思っています。

今年の大河ドラマ・篤姫に関してでも、ネットを見ていると・・・
「身分の違う西郷さんと篤姫が、あんなふうに親しくなるワケがない」なんて意見を聞いたりもします。

確かに、事実としては、そうかも知れませんが、この先々、動乱の中で盛り上がるドラマのクライマックスへの複線としては、最初の時点で知り合いになってたほうが、絶対におもしろいじゃありませんか。

ただし、ドラマや小説を丸々鵜呑みにするのではなく、歴史の事実は事実として知っておいたほうが、ドラマや小説がいっそうおもしろくなると、個人的には思っています。

「あの歴史的事実と、こんなフィクションを・・・なるほど、そうからめてきたか!」と感心させられたり、逆に「最後にこんなふうになるんだったら、あのフィクションは必要だったの?」と落胆させられたり・・・。

小説家や、ドラマの造り手の力量を測る“ものさし”になって、実におもしろいんです。

そんな中で、吉川英治さんは、私にとってダントツの作家さん・・・実は、小説をまったく読まない私ですが、小学校6年から中学にかけての一時だけ、『新平家物語』を読んだ事があります。

小説『宮本武蔵』は連載中からたいへんな人気だったようで、終盤にさしかかり、小説が終わりそうになると、ファンから「終らせないで!」という声が殺到し、またまた、武蔵が武者修行の旅に出るくだりを追加したり・・・なんて事もあったようです。

そんな吉川英治さんも、今回の巌流島の決闘の出所である『二天記』について・・・
「おそらく、その内容はウソだろう」と語っておられます。

巌流島は、関門海峡に浮かぶ船島(ふなしま)という小島・・・決闘相手の佐々木小次郎(2010年4月13日参照>>)『巌流(がんりゅう)を名乗ったところから、巌流島と呼ばれるようになったのだとか・・・。

そして、現在、目にする巌流島は、大正時代に三菱重工業が埋め立てた物で、それまでの巌流島は、島と呼ぶにはほど遠い岩礁のような物で、とてもじゃないが、決闘ができるようなスペースは無かったとも言われています。

さらに、巌流島だけではありません。
実は、宮本武蔵に関する史料で、信頼のおけるものは、ほとんど無いのが現状です。

先の、「13歳から29歳までに60回以上戦った」というのも、上記の通り、ご本人の『五輪書』に書いてあるだけなのです。

つまり、近所のおっちゃんが「俺の若い頃は、そうとうなワルでさ~、あだ名は“切れたナイフだったぜ!と言ってるようなもので、誰も証明できないのです。

ちなみに、武蔵さんが自己申告している60回以上の戦いの中で、実際に別の史料などで確認できるのは18回。

さらに、『五輪書』では、すべて真剣で戦った事になってますが、本当に真剣が使用されたのは、吉岡又七郎と宍戸梅軒(家俊)との戦いの2回だけだったらしく、それ以外はほとんど、そのへんに落ちてる棒切れを拾って戦っていたのだそうです。

剣術の腕前も、さほど強くなく、大きな体格をいかして、力まかせに棒でボコボコに叩きまくる・・・というのが彼の戦法だったようです。

だいたい、自己申告のように、本当に剣の達人なら、仕官の口などいくらでもあったでしょうが、常に仕官の口を探していたワリには、晩年になるまで、その願いが叶えられなかっのは、それほどでもなかった・・・という現実があったからなのかも知れません。

しかし、やはり武蔵は歴史に名を残した人・・・剣の腕はそれほどでないにしろ、何かが長けていたに違いない。

「二天記はウソだろう」と言った吉川英治さんも、「武蔵は名人は非名人か?」と聞かれたら「名人だ」と答えていますから、きっと、何かが・・・

そう、実は、彼は、実戦よりも、相手の戦意を喪失させるような事前準備をしたり、相手の意表をついたりするのが得意だったのです。

ズルイとかコスイとか言わないでください。

このブログでの『孫子の兵法シリーズ』(3月11日以下参照>>)を読んでいただいている方には、お解かりいただけるかと思いますが、それこそ合戦の極意・・・戦うために最も重要な事なのです。

孫子・軍争篇(5月20日参照>>)では、はっきりと「事前準備で勝てると判断した時だけ戦え、勝てる見込みがない時は戦うな」と語っています。

思えば、先の『五輪書』の中で、「俺はこんなに強かったんだ」と、オーバーに盛る事も、相手をビビらす上では効果的な作戦です。

400年も前に、武蔵自身が造り上げた虚像である剣豪・宮本武蔵に、あこがれを抱く私たちも、知らず知らずのうちに、すでに武蔵の心理作戦に引っかかっているのかも知れません。

だとしたら、巧みに心理を操り、勝ちだけを狙う・・・やはり、武蔵は豪傑・名人だと言えるでしょう。

もちろん、吉川英治さんという作家の、軽快で巧みで小気味いい『思う壺』にもはめられているワケですが・・・。
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2008年4月12日 (土)

戦国最後の天皇~後水尾天皇・徳川相手に王の意地

 

慶長十六年(1611年)4月12日、第108代・後水尾天皇が即位しました

・・・・・・・・・

・・・って、「それ、誰やねん!」と思われる方も多いでしょうが、上記の西暦でもおわかりの通り、戦国時代末期の天皇です。

とかく、武士の時代の天皇さんというのは、何となく影が薄い・・・(失礼な事言ってゴメンナサイ)

学生時代から持ってる歴史副読本の天皇家系図では、重要な天皇が太字になっているのですが、案の定、第96代・後醍醐天皇から122代・明治天皇まで、太字が無い・・・

それでも南北朝の時代は、なんだかんだとお目にもかかりますが、室町幕府が崩壊して、戦国に突入してからは、天皇も公家も、その時々に権力を握った武将に、少なからず影響され、従わざるを得ない状況となる事も多々あった事でしょう。

そんな中、本日の第108代・後水尾(ごみずのお)天皇・・・

開かれたばかりの江戸幕府に立ち向かい、前代未聞の譲位をやってのける天皇です。 

・・・・・・・・

先代の後陽成(ごようぜい)天皇の第三皇子として生まれた後水尾天皇でしたが、なぜか父とはそりが合わず、先代天皇は弟・智仁(としひと)親王(12月29日参照>>)に後を継がせようとします。

しかし、ここに徳川の意向が・・・

そう、実は、徳川家康の後押しによって、慶長十六年(1611年)4月12日第108代・後水尾天皇は即位するのです。

つまり、この時点では、実に徳川とは仲が良かった天皇・・・3年後の慶長十九年(1614年)には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘・和子(6月15日参照>>)との結婚も決まります。

和子の母親は、ご存知、浅井長政お市の方の娘・於江与(おえよ・江)さん・・・あの淀殿の妹ですから、家系にも申し分ない上、何より莫大な持参金がついて来る。

なんせ、この時代のお公家さんたちは、まともな収入源には期待できませんからねぇ。

徳川家にとっても、和子さんが生んだ皇子が次期天皇にでもなってくれたら、それこそ、あの藤原一族も、平清盛もがやっきになった外戚(天皇の母方の実家)をゲットできるわけですから、たとえこの時代でも、それは権威の象徴と言えるものです。

この結婚は、双方の利害関係が一致した、実に万々歳の縁組だったのです。

ところが、ご存知のように元和元年(1615年)5月・・・あの大坂夏の陣(5月8日参照>>)で豊臣家が滅亡してしまいます。

豊臣秀吉が、自分の出自が貧しい分、天皇家のような高貴な血筋への憧れが強く、生前は何かと天皇家を尊重していてくれていた事から、天皇はかなり豊臣家に好意を持っていたようで、この時の、秀頼と淀殿の自害には、少なからずショックを受けます。

しかも、その二年前の慶長十八年(1613年)6月16日に、徳川幕府は『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布していて、すでに天皇家への圧迫を強めていたのです。

「武家諸法度」じゃないですよ!
「公家諸法度」・・・つまり、天皇家の法律を武家が決めちゃったワケです。

政治だけではなく、元号の制定をはじめとする朝廷の事、宮中の事にも、すべて幕府が統制を取る・・・何をするにも幕府の許可がいるという事なのです。

前代未聞のこの法律に、天皇が反発しないわけがありません。

大坂の陣のゴタゴタや、家康の死によって、のびのびになっていた和子との結婚を、今度は天皇が引き伸ばしにかかります。

お酒を飲み、乱行を重ね、宮中の女官に手を出して、あろう事か皇子が誕生してしまいます。
さらに、翌年には、女の子も誕生・・・。

これを知った将軍・秀忠がブチ切れ、天皇の側近を次々と処分・・・と、またまた天皇がブチ切れ、「退位する~!」とゴネまくります。

何とか天皇をなだめて、元和六年(1620年)、やっとこさ、和子さんが入内します。

その間に、先の女官との間に生まれたかわいい皇子は原因不明の急死・・・徳川によって抹消されたとの噂の中、それでも、3年後には、和子との間に女の子・女一宮(おんないちのみや)が生まれ、その2年後には、待望の男の子・高仁(すけひと)親王が生まれました。

「どや!どや!これで思い通りやろが!」とばかりに、天皇は、「今度こそ退位する~!」と宣言。

先に書かせていただいたように、この結婚の徳川側の最大のメリットは、天皇の外戚ゲットですから、ここのところは、当然すんなりとOK!

高仁親王が次ぎの天皇になるべく準備が進められます。

ところが、その翌年、その高仁親王が亡くなってしまうのです。

公家諸法度に縛られっぱなしの天皇を一刻も早くやめたい天皇は・・・
「じゃぁ・・・女一宮でいいやんか」と幕府に提案します。

確かに女一宮は天皇と和子の子供・・・しかし、幕府にとって、それは、ちとマズイ・・・。

なぜなら、彼女が即位するとあの奈良時代、藤原家がその地位を守るために苦肉の策で天皇に即位させた第46代・孝謙天皇(7月4日参照>>)以来、859年ぶりの女性天皇の誕生になってしまうからです。

何か、徳川家が無理やり即位させた感の残るカッコ悪さ満載の天皇になってしまい、やっぱり、それは避けたい・・・なんせ、まだ、和子さんは20歳そこそこですから、この先、男の子を産む可能性も充分考えられます。
あせる事はありません。

その後も、天皇は何度も女一宮への譲位を打診しますが、その度に幕府は反対し続けました。

しかし、とうとう・・・というか、ついに・・・というか、
やっぱり・・・というか、

寛永四年(1629年)11月8日、天皇は、幕府に無断で、女一宮への譲位を決行!

天皇の堪忍袋の緒を切ったのは、あの春日局(3代将軍・家光の乳母)でした。

彼女は、その1ヶ月前の10月、無位無冠で天皇に拝謁するという、徳川の横暴もはなはだしい事をやってのけ、それに天皇は激怒してしまったとの噂・・・

女一宮は、第109代・明正(めいしょう)天皇として即位します(11月10日参照>>)

さすがに、この春日局の前代未聞の出来事には、幕府もマズイと思ったのか、「天皇のおおせの通りに・・・」と、おとなしく引き下がりました。

結局、秀忠亡き後、第3代将軍となった徳川家光によって、後水尾上皇の院政が承認されて、やっと・・・天皇家と徳川幕府の間のギクシャク間が無くなるのです。

江戸幕府がゆるぎない物となる前の、戦国最後の時代に天皇となった後水尾天皇・・・なかなかのゴネぶりに、天皇家のプライドを垣間見せてくれましたね。
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2008年4月11日 (金)

江戸城無血開城・最後まで残ったのは今年話題のアノ人

 

慶応四年(1868年)4月11日、幕末・維新の中でも屈指の出来事・・・『江戸城無血開城』がありました。

・・・・・・・・・

クーデター・政権交代・国家転覆・・・このような状況にの中で、最も重要な本拠地を平和裏に無血で明け渡す・・・『江戸城無血開城』は、歴史上まれに見る出来事です。

この快挙を成し遂げたのは、官軍による江戸・総攻撃の直前の3月13日と14日に行われた勝海舟西郷隆盛の会見(3月14日参照>>)・・・二人の話し合いがあったからこその戦争回避だったわけですが、そんな事は、すでに皆さんご存知の事と思います。

しかし、近年、もう一人、第三の人物が重要な役目を果たしていたのではないか?と、俄然注目を浴びつつあります。

それが、2008年の大河ドラマ主役天璋院・篤姫です。

・・・・・・

慶応四年(1868年)の1月に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)で、錦の御旗を掲げて官軍となり、勝利した薩長軍が東へ東へと進む中、2月12日には、第15代将軍・徳川慶喜江戸城を出て、上野寛永寺に入ります。

なおも、江戸城に残ったのは、篤姫をはじめとする女性陣・・・江戸城の退去を拒否して、かんばり続けるのです。

そして・・・・
 

「慶喜さん本人に関しては、どのように罰せられても仕方のない事だと思っています。;

しかし、徳川家は大切な家柄・・・どうか、このお家は守っていただけるように、御所の方にお願いしていただけませんか?;

徳川に嫁いだ限りは、私も徳川の人間として生きる覚悟はできていますから、徳川家にもしもの事があれば、亡き夫(徳川家定)に面目が立たないと、寝食を忘れて悲しんでいます。

どうかわかって下さい。

徳川家を救ってくださる事は、私の命を救ってくださる事よりうれしい事です。

今のご時世と人物の器を考えて、あなたの他に頼める人もいないし、それ以外の方法も見つかりません。

ご迷惑だと思いますが、どうか、可哀そうだと思って救ってください」

これは、近年見つかった篤姫が西郷隆盛に送った手紙・・・ホンモノは1300字に及ぶ長い物で、上記の内容は、あくまで抜粋で、しかも、個人的解釈も入っているのですが・・・

ドラマでご存知のように、篤姫は、薩摩の島津家から第13代将軍・徳川家定に嫁いだ人・・・薩摩藩士の西郷隆盛は、身分の低い自分を取り立ててくれた藩主・島津斉彬多大な恩を感じていましたし、篤姫はその斉彬の養女です。

この手紙が西郷隆盛に届けられたのは、3月の半ば頃と考えられていますので、勝海舟との会見での西郷さんの判断に、グッドタイミングで影響を与えている可能性もあるかも知れません。

やがて、4月に入ったある日、勝海舟は篤姫を説得するため江戸城にやってきます。

海舟が通された広い座敷に、居並ぶ女中たち・・・なかなか篤姫は現れません。

すると、一人の女中が前へ出て、海舟の前に座りました。
女中のなかに紛れ込んで身を隠していた・・・それが、篤姫だったのです。

海舟は、江戸城明け渡しの理由を包み隠さず話し、3日間に渡って篤姫を説得しました。

「強情だけど、最後にはちゃんと理解してくれた」・・・これが、その時の海舟の篤姫に対する印象だったそうです。

この後、篤姫と海舟が家族ぐるみの付き合いをするようになるのも、このときのお互いの印象が良かったからに他なりません。

そして、江戸城明け渡しが間近に迫った4月9日、第14代将軍・徳川家茂の奥さん・和宮が、先に江戸城を出ます。

最後まで残った篤姫は、開城前日の4月10日、養父・斉彬が莫大な費用をかけて持たせてくれた将軍の御台所にふさわしい嫁入り道具をはじめとする数々の調度品を、すべて残したまま、その役目を終えたかのように、静かに江戸城を去るのです。

かくして慶応四年(1868年)4月11日江戸城無血開城が成されました。

江戸城を出てからの篤姫については、2008年12月15日【晩年の篤姫~ドラマでは語られなかった温泉旅行】でどうぞ>>
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2008年4月10日 (木)

聖徳太子のどこが怪しいのか?

 

推古元年(593年)4月10日、聖徳太子が第33代・推古天皇の摂政に就任しました。

・・・・・・・・・・

聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのおうじ)・・・

推古天皇摂政となり・・・
それまで力のみで決められていた朝廷内の上下関係を払拭し、新たな能力による人材登用の道を開く『冠位十二階』を定め・・・
豪族同士の和と天皇の地位を明確にした「十七条憲法」を制定した・・・

学校で、このように教わって、以前はその偉業を疑う事なく記憶しましたが、ご存知のように最近では「架空の人物説」「聖徳太子=蘇我入鹿説」などなど・・・様々な論理が展開されています。

もちろん、それらの説は、あくまで俗説・・・学問としての歴史は、未だ教科書で習った通りの聖徳太子(名前は厩戸皇子となってる場合もあります)ですが・・・。

しかし、専門家ではない一歴史ファンとしては、色々な推理を積上げていくのは実におもしろい・・・って事で、ここで一つ、聖徳太子のどこが怪しいのか?を、もう一度考えてみたいと思います。

とりあえず、一般的に教科書などにある年表を見てみると・・・

  • 574年 聖徳太子誕生
  • 587年 物部氏滅亡
  • 592年 推古天皇即位
  • 593年 聖徳太子・摂政となる
  • 603年 冠位十二階を定める
  • 604年 十七条憲法を制定
  • 607年 遣隋使・派遣(1回目)
         法隆寺・建立
  • 608年 遣隋使・派遣(2回目)
  • 614年 遣隋使・派遣(3回目)
  • 620年 「天皇記」「国記」編さん
  • 622年 聖徳太子・没

と、いう感じになります。

まずは、誕生からして、ちと怪しい・・・

聖徳太子の母がウマヤで産気づいて太子を生んだので厩戸皇子・・・って、これはどう考えてもキリストのパクリです。

以前、【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)のページで書かせていただいたように、フランシスコ・ザビエル日本にやってくる以前から、キリスト教は日本に伝わっていました。

もちろん、宗教としてではなく、話として伝わったという感じの物でしょうが、635年の唐の時代の中国で、正式な布教活動が行われているのですから、あれだけ遣唐使を送って大陸文化を吸収した日本に、伝わっていないほうが不自然です。

正史とされる『古事記』『日本書紀』が書かれるのは、太子が亡くなってから100年ほども後の、すっかり平城京の奈良時代=710年頃の事ですから、その時には、キリストの出産エピソードが伝わっていて、太子を、より神格化するために付け足したと考えるほうが自然でしょう・・・って事は、厩戸皇子という名前も怪しい・・・

次に、物部守屋VS蘇我馬子の抗争では、太子は馬子側について参戦し、物部氏を滅亡に追いやる(7月7日参照>>)のですが、この時のエピソードは明らかに人間ワザを越えた神の領域の物なので、参戦したという事以外は、すべて怪しい・・・と考えたほうが良いかも知れません。

次に、今日の話題である摂政・・・
これは『日本書紀』
「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひづぎのみこ)とす。仍(よ)りて録摂(まつりごとふさねつかさど)らしむ」
とあるので、一応、事実としときましょう。

次に冠位十二階・・・
実は、これは、その事が書かれてある『日本書紀』にも、
「はじめて冠位を諸臣に賜ふ」
と書かれているだけで、太子が作ったとは一言も書いてません。

この冠位十二階は、最初にも書いたように、力のある豪族が、親から子へその役職を世襲制にしていた事をやめさせるために制定したはずなのですが、なぜか、一番力のある蘇我氏には適用されませんでした。

つまり、蘇我氏は別格・・・となると、どう考えても、天皇側に立った人間が作った物ではなく、蘇我氏側の人間が作った事になります。

次に、十七条憲法・・・
これには、第十二条のところに、大宝律令の後から制定された「国司」という役職が登場する事で、もはや「怪しい」・・・を通り越して、「ありえない」といったほうが良いかも知れません。

次に、遣隋使は・・・
これは、どう考えても太子ひとりでできる事ではありません。

最初の提案くらいはしたかも知れませんが、こんな大きな国家プロジェクト・・・いろんな人が関わってるに決まってますからね。

ただし、1回目の遣隋使の時は、小野妹子にあの有名な「日出づる処(ところ)の天子・・・」国書を持たせてますから、太子も関わっていた事は確かでしょうが、コチラも、隋の記録にたった1行「こんな書き出しの手紙が送られて来て、皇帝が怒ってたで」と書いてあるだけなので・・・。

その後の、2回目・3回目の遣隋使は太子がいるいないに関係なく派遣する事は可能でしょうね

次に法隆寺の建立に関しては・・・
実は、太子と法隆寺を結びつける決定的な史料はありません。

法隆寺を建立したというよりは、現在の法隆寺の場所に当時あったとされる太子の邸宅・斑鳩宮(いかるがのみや)に移ったというのが正解でしょう。

当時の都は明日香です。
政治の中心が明日香にあるにも関わらず、太子が斑鳩に引っ越したという事は、すでにこの時点で、政治の表舞台から退いたと考えられます。

摂政になった時から、わずか14年で、おそらく太子は、政界を引退していたのです。

次に、『天皇記』『国記』の編さん・・
これは、蘇我馬子の命令のもと、蘇我氏によって編さんされた物で、太子は代表者として名前を貸しただけのような存在です。

その証拠と言えるかどうかわかりませんが、この『天皇記』と『国記』・・・完成後は、蘇我氏が保管していて、『国記』のほうは、あの入鹿暗殺=乙巳の変(6月12日参照>>)の時、全焼した蘇我蝦夷の邸宅とともに灰になり、『天皇記』のほうは、無事残ったものの、入鹿を暗殺した中大兄皇子(後の天智天皇)の手に渡った後、行方不明となってます。

つまり、その内容は蘇我氏の歴史・・・という物であったと思われ、中大兄皇子くん、抹消しちゃいましたね・・・たぶん。

最後に、太子の死については、以前【聖徳太子・死因の謎】(2月22日参照>>)と題して書かせていただきましたので、ここでは省かせていただきます。

以上・・・

こうしてみると・・・どうでしょう?

今のところ、「事実である」と思われる事が、摂政に就任した事だけという事になってしまい、実に怪しい・・・。

結果、「架空の人物説」「蘇我入鹿説」などが登場する事となります。

はたして、この謎が解けるのは、いつの日の事なのでしょうか?
ワクワク・ドキドキ・・・
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2008年4月 9日 (水)

鬼武蔵・森長可~遺言に託された最期の願い

 

天正十二年(1584年)4月9日、小牧長久手の戦いの中盤戦・長久手の戦いで、森長可が壮絶な討死を遂げました。

・・・・・・・・・・

鬼武蔵の異名を持つ戦国武将・森長可(ながよし)・・・。

彼は、本能寺の変(6月2日参照>>)織田信長とともに最期を迎えたあの森蘭丸(成利)のお兄さんです。

時代劇では、いつもドラマチックに描かれる信長の最期のシーンによって、何かと蘭丸のほうが脚光を浴びていますが、鬼武蔵というニックネームでもわかる通り、この長可さん、なかなかのツワモノなのです。

長可は、美濃(岐阜県・中南部)金山城の城主をしていた父・森可成(よしなり)のもと、6人兄弟の次男として生まれます。

父・可成は、信長に従い、その上洛の時には先鋒を努めた有能な武将・・・。

そんな、父に習って、長可も信長の嫡男・織田信忠に仕え、数々の武功をあげますが、そんな中、姉川の合戦(6月28日参照>>)後の小競り合い宇佐山城攻防戦(9月20日参照>>)で、父とともに兄・可隆(よしたか)を失ってしまいます。

父と兄の死後、13歳で家督を継いで金山城主となった長可・・・その気性の激しさから、織田家の家臣たちとは、度々トラブルを起こしますが、そんな長可を信長は「なかなかたくましい・・・」と、むしろ評価していました。

筋骨隆々で武勇すぐれた彼は、武田との合戦においても大活躍し、武田氏滅亡(3月11日参照>>)の後には、北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)海津城・20万石を与えられます(3月24日参照>>)

この時、海津城へのお引越しにあたって、本領の金山城5万石を、弟の蘭丸に譲ります。

しかし、実は、これがあの本能寺の変の2ヶ月前の出来事・・・つまり蘭丸は金山城主になってから、わずか2ヵ月後に亡くなってしまったワケです。

しかも、長可にとっては、すぐ下の弟の三男・蘭丸だけではありません。
その下の・・・四男・坊丸(長隆)と五男・力丸(長氏)も、その本能寺の変で失ってしまうのです。

その時、信濃という元武田の領地で、未だその残党と奮戦中だった長可は、主君と弟たちの急を聞いて、無我夢中で京を目指します。(6月26日参照>>)

近寄る残党を斬って捨て、襲いかかる者すべてをなぎ倒し、まるで鬼のような形相で・・・いつしか長可は、『鬼武蔵』と呼ばれるようになるのです。

その後、山崎の合戦(6月13日参照>>)に勝利した羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入る事になった長可・・・そして、勃発したのが、一連の小牧長久手の戦いです。

主君の仇を討って、事実上織田家・家臣のトップとなった秀吉と、信長の次男・織田信雄が事実上の後継者をめぐって争った合戦・・・信雄には、「このまま秀吉に天下を取らせてなるものか!」とする第二の実力者・徳川家康が味方についています。

この合戦の序盤戦の羽黒の戦いで、長可は、「もはや命はないか!」と思うほどの屈辱的な負け方をしてしまいます(3月17日参照>>)

その負け戦にどうしても納得がいかない長可は、「家康に一矢報いたい」とばかりに、三河への奇襲作戦を秀吉に提案します。

これが、長久手の戦い(昨年の4月9日参照>>)です。

しかし、情報が敵に筒抜けでは、奇襲作戦が成功するはずもなく、四方を敵に囲まれ、奥さんの父・池田恒興(つねおき)とともに、天正十二年(1584年)4月9日、長可は、この長久手の戦いで壮絶な死を遂げるのです。

そんな長可の死から何日か経って、奥さんのもとに一通の遺書が届きます。

それは、羽黒の戦いと長久手の戦いとの間の陣中で長可がしたため、秀吉の家臣・尾藤甚右衛門(びとうじんえもん)に託した物でした。

自分の死後の家族の動向を書き記した、全部で6か条からなる遺言状・・・

  • お母ちゃんは、秀吉様の保護のもと京都で暮らしてほしい。
  • 千丸(末の弟)は、このまま秀吉様にご奉公するように・・・。
  • 千丸を後継者にして金山城を継いだらあかん。
  • その後の金山城は、適した人に治めてもらえるよう秀吉様に頼んでね。
  • お前(妻)大垣(実家)に戻りなさい。
  • 残した刀や茶道具などは、千丸に譲ってください。

そして、追伸として・・・
  おこう(娘)は京都の町人と結婚して欲しい・・・
   できたらお医者さんがええなぁ。
   この先、もし、全滅
(秀吉もろとも敗戦)するような事があっ
   たら、城に火をかけて皆で一緒に死んでください」

 

父と、四人の兄弟を戦いで失った長可・・・
その武勇をひっさげて戦いに明け暮れ、鬼武蔵と呼ばれた剛の者・・・

負け戦のあと、名誉挽回の合戦に挑むその時に、彼が願った事は、ただ一つ・・・

残った家族を、これ以上、戦いに巻き込まない事でした。

娘を武士の嫁にはしたくない・・・
幼い弟を合戦に出したくない・・・

気を張って、強がって、ガムシャラに突っ走って来た男の悲痛な叫びが聞こえてくるようです。

鬼武蔵こと森長可・・・まだ27歳の若者でした。
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2008年4月 8日 (火)

公方から関東を守れ!太田道灌・江戸城を築城

 

長禄元年(1457年)4月8日、太田道灌江戸城を築きました

・・・・・・・・・・・

まずは、太田道灌(どうかん)江戸城を築いた理由から・・・

以前から、度々登場している室町幕府と鎌倉公方の対立・・・関東に拠点を持つ武家でありながら京都・室町で幕府を開く事になってしまった足利氏は、本拠地の関東を支配する役職として鎌倉公方と、その補佐役の関東管領を置きました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、足利氏の長男の血筋が将軍職を、次男の血筋が鎌倉公方を、代々受け継いでいくわけですが、その鎌倉公方が、幕府を無視し、関東を独立国家のように運営しはじめた事から対立が生まれます。

将軍が第6代・足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)、公方が第4代・足利持氏(もちうじ)の代になってピークを迎えたその抗争は『永享の乱』(2月10日参照>>)と呼ばれ、戦いは持氏の敗死によって決着が着けられたかに見えました。

しかし、持氏の遺児・足利成氏が、古河(こが)公方を勝手に名乗り(古河を本拠地にしていたので)、公方奪回を目指し関東各地で乱を起こします

特にターゲットにされたのは、当時、関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家です。

古河公方は幕府非公認の勝手な公方・・・対する上杉家は、幕府から正式に任命されている役職ですから、当然と言えば当然です。

・・・で、当時の上杉家の当主・上杉定正執事を務めていたのが太田道灌です。

つまり、道灌は成氏から関東を守るため、江戸城を築いたのです・・・その時、道灌・27歳。

もともと平安時代の末期に、この地を治めていた江戸氏の、館のような小さい建物が建っていた場所に築城したという事ですが、それとは別に、おもしろいエピソードも残っています。

道灌が築城にふさわしい場所を求めて、品川沖を船で航行中、船の中に“コノシロ”という魚が飛び込んできます。

「これは、ラッキーアイテム・ゲット!」
とばかりに、すぐに近くの岸に船を着け、そばにいた漁民に・・・
「このあたりの村は何という村かいな?」
とたずねると・・・
「ここは、千代田宝田祝いの里でございます」

「メッチャ縁起えぇ名前・・・ステキやん!」
と、即座に、この地に築城する事に決定したのだとか・・・。

諸葛孔明の再来築城の名人とうたわれた道灌のことですから、さぞかしすばらしい江戸城を構築した事でしょうが、残念ながら現在は、その影を見る事はできません。

道灌の死後、扇谷上杉氏の物となった江戸城は、その後、関東を支配した後北条氏の物となります。

しかし、ご存知のように北条の本拠地はあの屈指の名城・小田原城・・・そんな北条氏にとっては、江戸城は単なる支城の一つに過ぎず、あまり重視していなかったようです。

北条の物であった時代の江戸城は、わずかな城番が見張りをするだけのお城で、整備も修理もまともに行われず、かなりボロボロの状態になってしまっていました。

そんな江戸城が歴史の表舞台に登場するのは・・・そう、豊臣秀吉が北条を倒し(7月5日参照>>)、その秀吉の命を受け、この江戸城を徳川家康が居城とした時からです。

その時、初めて江戸城に入城した家康は、もはや惨たんたる姿の江戸城を目の当たりにするのです。

低い土塁が取り囲むだけで堀もなく、海辺へ出入りする木戸が数ヶ所あるだけでがっしりとした門もなく、主要の建物は枌板(そぎいた・松などの板をうすく削った物)葺きで、台所は(かや)葺きに全面が土間・・・さらに、玄関は船板が3枚敷いてあるだけ

しかし、家康は天下を取って、この江戸で幕府を開きます。

入城以来、30年の年月を費やして、生まれ変わった徳川の江戸城・・・ご存知のように、それは、道灌もびっくりの世界最大の大城郭となるのです。
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2008年4月 7日 (月)

戦艦・大和、海に散る

 

昭和二十年(1945年)4月7日、水上特攻作戦の指令により、沖縄へ向かっていた戦艦・大和がアメリカ軍の集中攻撃を受けて撃沈しました。

・・・・・・・・・・

太平洋戦争も末期・・・かつて世界に誇った連合艦隊も、度重なる戦いに敗れ、今や大多数が日本本土へと引き揚げ、迫り来る燃料不足から、大和のような大きな船は、もはや動く事もできない状態となっていました。

しかし、そんな時、アメリカ軍の沖縄上陸作戦が開始させるのです。

海軍では、「敵の上陸作戦に対して、今残る艦隊でいかにして戦うべきか」の様々な意見が飛び交い、会議に次ぐ会議が行われます。

そんな中、多数の反対を押し切って、連合艦隊主席参謀・神重徳(かみしげのり)大佐の『水上特攻作戦』に決定します。

それは、戦艦・大和に片道分だけの燃料を積み、沖縄へ向かわせ、到着後は大砲として使用するという物でした。

無謀で、大きな成果の期待もできないようなこの作戦に決定したのは、昭和天皇の一言でした。

もちろん、昭和天皇自身は、そのようなつもりのお言葉ではありません。

沖縄方面の戦況を、軍令部総長・及川古志郎(おいかわこしろう)に・・・
「航空部隊だけの総攻撃なのか?」
と、お聞きになっただけなのです。

その質問に及川は
「海軍の全勢力を以って対抗致します」
と答えました。

昭和天皇のこのご発言を理由に、反対派を押し切り、水上特攻作戦が決行される事になるのですが、この会話も正式な記録には残っておらず、本当にあったものなのかどうかも、定かではありません。

かくして、昭和二十年(1945年)4月6日、軽巡洋艦・矢矧(やはぎ)以下、駆逐艦8隻をともない戦艦・大和は、沖縄に向けて出撃しました。

ただ、実際には・・・
「大和を片道燃料で送り出すのは忍びない」
という連合艦隊機関参謀と呉軍需部長の配慮により、残っていた船の燃料タンクの底に溜まっていた、ありったけの重油をかき集め、何とか片道分の倍の燃料を積み込んで出撃できた事がせめてもの救いでした。

しかし、その動きは、すでに出撃直後から、アメリカ軍の潜水艦により敵側には筒抜け状態だったのです。

一夜明けた4月7日12時30分・・・航行中の艦隊に、アメリカ軍の第一次攻撃隊・280機が襲い掛かります。

大和を中心に防空の陣形をとる艦隊・・・30分間に渡る攻撃で、矢作は航行不能に、駆逐艦・浜風が沈没します。

大和自身にも魚雷が一発命中しますが、さすがの大和はびくともせず、そのまま航行を続けます。

しかし、その、わずか30分後の13時30分再びアメリカ軍の攻撃が開始されるのです。

2回目の攻撃に耐えられなかった矢矧は沈没
続いて、駆逐艦・3隻が沈没しました。

そして、大和は・・・
その身体に10発もの魚雷が命中し、大和はゆっくりと左に傾きます。

それは、10発のうち、9発が左側に命中していたからなのです。

以前、アメリカ軍は大和と同型の戦艦・武蔵を沈没させるのに、20発もの魚雷を要してしまった経験から、この日の大和には、左側に集中して撃ち込むように指示が出されていたのだとか・・・。

大和は、その巨体を大きく左に向け、次々と砲弾が誘爆する中、最後の叫びとも思える轟音を響き渡らせ、天を掴まんばかりに伸ばしたその炎の腕で、アメリカ軍機数機をみちづれに、海の底に沈みました。

この日、372名が戦死し、日本が世界に誇った連合艦隊は姿を消したのです。

Senkanyamatocc 今日のイラストは、
『静かに眠る戦艦・大和』という雰囲気で描いてみました。
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2008年4月 5日 (土)

伊達政宗・毒殺未遂事件は本当にあったのか?

 

天正十八年(1590年)4月5日、伊達政宗小田原参戦を大幅に遅らせる事になる暗殺未遂事件が発生しました。

・・・・・・・・・・・・・

ご存じ、豊臣秀吉による『小田原征伐』・・・。
【小田原征伐・開始】(3月29日参照>>)
【小田原城・包囲】(4月3日参照>>)

畿内はもちろん、四国を平定し、九州を平定し、越後の上杉景勝とも主従関係を結んだ秀吉にとって、残るは、北条が治める関東と、未だ手付かずの東北・・・

秀吉は、今回の小田原攻めにあたって、各地の武将に参戦を呼びかけています。

秀吉にとって、この要請は、単に援軍を募るだけでなく、自分の傘下に収まるのかどうかを判断するという目的でもありました。

自ら平定した場所はもちろん、あの毛利も水軍を出して参戦していますが、これはすでに想定の範囲内・・・問題は、まだ手付かずの東北の武将たちです。

逆に、東北の武将たちにとっては、参戦しなければ、「従う気はない」と判断され、参戦に遅れても、「どちらにつくか迷っていた」と、秀吉に思われる事は確実です。

当時、東北を治めていた諸将たちは、小さいながらも、南北朝時代から続く名門が多く、彼らにも、それなりのプライドがあります。

しかし、百姓あがりの新参者とは言え、秀吉の勢いもすでに承知・・・

プライドを貫くのか?
それとも、情勢を見て、秀吉につくのか?

当然の事ながら、東北は真っ二つに分かれる事になります。

最上義光(よしあき)津軽為信秋田実季(さねすえ)南部信直佐竹義宣(よしのぶ)城常高相馬義胤(よしたね)・・・これらの面々はいち早く小田原に駆けつけたグループです。

そして、今まさに、奥州の覇王となりつつあった独眼竜・伊達政宗・・・。
当時の彼の立場は複雑・・・いえ、どちらかと言えば反・秀吉側です。

父の弔い合戦と称して戦った『人取橋の合戦』(11月17日参照>>)では、すでに小田原に参戦した岩城氏や佐竹氏と戦っていますし、しかも、その後、北条氏直通じて佐竹氏を圧迫したりもしてます。

まして、前年の天正十七年(1589年)6月には、秀吉と親交の深かった芦名氏『摺上原の戦い』(6月5日参照>>)で滅亡に追いやり、その後、「僕の大事な芦名ちゃんを滅ぼした真意をきかせてよ」という秀吉の再三の呼び出しを、「別に・・・」無視し続けていたのですから・・・。

しかし、それこそ政宗も、天下の情勢が、秀吉に傾いている事は重々承知しています。
政宗自身も迷いますが、当然、伊達家内の重臣の意見も分かれます。

今まで、秀吉の呼び出しを無視し続けていたのですから、小田原に行っただけで、首をはねられる・・・なんて可能性もゼロではありません。

かと言って、秀吉が関東以西を勢力圏内に治め、東北の武将の多くが小田原へ向かった今となっては、彼らのすべてを敵に回して、はたして生き残っていく事ができるのやら・・・

結局、政宗は、伊達家の生き残りを賭けて、小田原攻めへ参戦する決意を固めます。

そして、明日、小田原に立つ事が決まった天正十八年(1590年)4月5日、政宗は、母・義姫のいる黒川城西館(にしだて)に招かれます。

幼少の頃から、何となく政宗に冷たかった母が、いつになくやさしい・・・。

「一世一代の大舞台に出征する息子への気遣いか?・・・やっぱ、お母ちゃんはありがたいモンや・・・」と、少しうれしくなる政宗・・・。

感激にむせびながら、出されたご馳走をほおばると・・・

いきなり腹にはしる激痛・・・そう、この食事には、毒が盛られていたのです。

政宗ではなく、次男の小次郎(竺丸・じくまる)を溺愛していた彼女が、小次郎に家督を継がせたいと、政宗の毒殺を決行したのです。

すぐに解毒剤を服用したおかげで、一命をとりとめた政宗は・・・
「なんぼなんでも、実のお母ちゃんを殺す事はできひん。
あんな弟がおるからこそ、お母ちゃんはミョーな考えを起す事になるんや」

と、弟・小次郎を斬殺・・・母・義姫は、実家の最上家を頼って山形へと逃れるのです。

そのため、この一件には、義姫の兄・義光の関与も疑われています。

・・・と、これが伊達政宗・暗殺未遂事件の一部始終・・・

古文書の中には、上記のように、政宗が食して解毒剤で治したとする物と、毒見役が吐血して身代わりになったとする物があり、詳細の違いがあるものの、「毒殺されかかった事は事実であろう」というのが一般的な見解で、このために、政宗の小田原参戦が大幅に遅れてしまい、秀吉をさらに怒らせてしまう結果になったとされています。

しかし、ここにもやはり不可解な謎が存在します。

この時代、毒殺に用いる毒は、必殺の猛毒だったはずで、はたして解毒剤などで、助かるものなのかどうか・・・?

また、当時の政宗には、子供がおらず、弟が死んで、自分も小田原で万が一の事があれば、伊達家は断絶してしまう可能性もあります・・・なのに、小田原に行く前に斬殺・・・?

さらに、この事件の後も、政宗は、母・義姫と頻繁に連絡をとっているという事実もあります。

実際に毒を盛ったのは、義姫です。
たとえ、諸悪の根源が、弟・小次郎の存在にあったとしても・・・
実の母は殺せないと思ったとしても・・・
本当に殺されかかったのなら、そんな母親と頻繁に手紙のやりとりをするでしょうか?

また、伊達家のご子孫の34代・伊達泰宗さんによれば、菩提寺の過去帳を見る限り、小次郎が埋葬されたのが、殺されてから2年後というミョーな空白があるのだそうです。

事件直後に斬殺されたのなら、その後の2年間、ご遺体はどうされていたのか?
もちろん、その間、別の場所に埋葬されていたという記録もないのです。

逆に、当時、八王子のある寺に、政宗の弟と名乗る僧侶がいた事が記録されており、そこに、たびたび政宗が訪ねてきていたというのです。

もちろん、これは、俗説・・・記録も、「弟と名乗る僧侶がいた」事が記録されているだけで、本当に弟だったかどうかは定かではありません。

しかし、母との手紙のやりとりと、八王子への参拝という事実は残っています。

この事件の後、結局、政宗が小田原に到着するのは6月5日・・・もはや小田原城攻防戦も中盤に差し掛かった頃です。

この毒殺未遂事件は、遅れた理由を正当化するための政宗お得意のパフォーマンスだったのでしょうか?

それとも、やはり、定説通り、毒殺未遂は本当で、4月の時点での政宗は、参戦したくてもできない状態にあったのでしょうか?

小次郎が事件後も生きていた事が証明されれば、歴史としては大きな発見となりますが、
歴史という物は、そう簡単に答えを出してはくれませんからねぇ。

ところで、その小田原に到着した政宗ですが、当然、秀吉さんはお怒りの真っ最中・・・ここから、政宗、決死の弁明が始まるのですが、そのお話は、やはり、「その日」に書かせていただきましたので、6月5日>>へどうぞ。

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2008年4月 4日 (金)

信長の「上京焼き討ち」の謎

 

元亀四年(天正元年・1573年)4月4日、織田信長二条御所(義昭御所)に籠る足利義昭に対して火を放った『上京焼き討ち』がありました。

・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に上洛した織田信長に担がれて、第15代・室町幕府将軍となった足利義昭でしたが、二人の蜜月は短い物でした。

2年後の元亀元年(1570年)1月23日には、信長から「これからは全部、俺がやるさかいに、アンタはおとなしゅーしといて」という将軍の権威もクソもあったもんじゃない手紙(1月23日参照>>)を受け取った義昭は、ついに反・信長派の武将たちに信長打倒を呼びかけ、自らも、三好三人衆松永久秀と結託して、信長に反旗をひるがえしたのです(2月20日参照>>)

そんな義昭の行動に対抗すべく、元亀四年(天正元年・1573年)4月4日、信長は、義昭の籠る二条御所のある上京(かみぎょう)一帯を焼き討ちにします。

ルイス・フロイス『日本史』によると・・・
「その地にあったすべての寺院が家屋もろとも焼失し、周辺の二・三里(一里=4km)、五十の村が焼き尽くされ、まるで最後の審判の日のようだった」・・・そうですが、

あの『信長公記』では・・・
「上京に御放火された」
・・・と、ずいぶんとあっさりとした書きようです。

織田信長が焼き討ち・・・と、来れば、あの『比叡山焼き討ち』を思い出しますが、この比叡山の焼き討ちについて、その信長公記では・・・
「すべてを焼き尽くし、目も当てられぬ有様」
なんて事が書かれています。

しかし以前、【比叡山焼き討ちは無かった?】のページ(9月12日参照>>)でも書かせていただいたように、近代の地質調査によれば、全山を焼き尽くすほどの火災の跡が残っておらず、今では、書かれているような大規模なものではなかったのではないか?という事が囁かれています。

ですから、今回の上京の焼き討ちも、フロイスが書いているほどの大規模な物だったかどうかは疑わしい面もあるのでしょうが、比叡山がそうであったように、規模の大小はともかく、放火して焼いたという事実があった事は確かでしょう。

もちろん、一番の目的は、先に書いたように、義昭への攻撃であり、彼をビビらせる事・・・

結局、義昭は、この後、宇治槇島城に籠り、信長はそこにも攻撃を仕掛け、最終的に京から追放しています(7月18日参照>>)

ただ、この焼き打ちという行為には、単に、相手は義昭だけだったか?という疑問を呈する意見もあります。

この後、義昭が追放される事でもわかるように、もはや現在の義昭が、自分に抵抗するほどの力を持ち合わせていない事は、信長もわかっていたはずです。

義昭の籠る二条御所を攻撃・・・ならともかく、町ごと焼いてしまう必要があったのでしょうか?

しかも、この日の焼き討ちの予定は、吉田神社の神主・吉田兼和(かねかず)を通じて、正親町(おおぎまち)天皇にも報告されていて、すでに、町でも噂になっていたので、上京の町衆は、信長からの攻撃を免れようと、銀・千三百枚を出す用意をしていたのです。

この時代、「そういう問題をお金で解決する」という事が度々行われていました。

この4年前の永禄十二年(1569年)にも、信長が軍資金を要求し、それに応じなかった堺の町を攻撃した(1月9日参照>>)なんて事もありましたし、事実、今回も下京(しもぎょう)は銀・八百枚で焼き討ちを免れているのです。

なのに、信長は、上京に対しては銀・千三百枚をつき返しています。

そうまでして、信長を焼き討ちにかりたてた物は何だったのでしょうか?

ここで、気になるのは、先の「天皇への事前予告」です。

今でこそ、京都の町の中心は南に下がり、京都駅などもそのあたりにありますが、本来、京の都の中心は、かなり北よりにありました。

当然、天皇の住まう御所も都の北側に位置しています。

それは、「天子は北の闇を背にして南の光に座する」という『天子南面』の思想からきたものだそうで、現在の京都御所などの寝殿造りの建物(12月7日参照>>)を見ても、内裏は南向きに建てられ、天皇の玉座も南に向いていますよね。

・・・で、この時の信長のターゲットは、時の天皇・正親町天皇だったのではないか?とも言われます。

もちろん、天皇を攻撃するというのではなく、威嚇するという目的です。

事前に予告して、その予告どおりに御所に近い上京を焼く・・・

信長は、この少し前から、正親町天皇に譲位を要求したりなんかもしています(10月27日参照>>)

まぁ、これには朝廷内のゴタゴタもあって、うまく世を治められない天皇への少々の不満もあったのかも・・・(11月4日参照>>)なのですが。

信長は、応仁の乱から後、戦乱にあけくれた京の町を復興させたり、貧乏にあえぐ公家を支援したり、正親町天皇の希望にそって「御馬揃え」なる軍事パレードを行ったり(2月18日参照>>)というサービスをする一方で、自らの力を誇示するような事もあったもかも知れません。

私個人的には、信長は、それほど正親町天皇に強圧的な態度をとっていたとは思っていないのですが、下京は中止しておいて上京を焼き打ちした事に関しては、どうしても疑問が残ります。

果たして、この上京焼き討ちは、信長の威嚇か否か?・・・妄想は尽きません。
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2008年4月 3日 (木)

秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲

 

天正十八年(1590年)4月3日、小田原に到着した豊臣秀吉が、小田原城・包囲の態勢を整えました。

・・・・・・・・・・・

さて、先日書かせていただきました通り、天下を手中に納めたも同然の豊臣秀吉が、名胡桃城(なぐるみじょう)のゴタゴタ(10月23日参照>>)をきっかけに、天正十八年の3月、最後の大物・北条氏小田原征伐を開始しました(11月24日参照>>)

難攻不落と思われていた山中城を攻略した(3月29日参照>>)事で、北条氏の敷いた足柄城→山中城→韮山城の防御ラインを破り、箱根を越えて小田原に入った秀吉。

前田利家上杉景勝といった北陸勢に、関東各地に散らばる北条傘下の支城への攻撃を命じるとともに(12月10日参照>>)、自らが率いる水軍と本隊を要して、天正十八年(1590年)4月3日小田原城・包囲に取り掛かります。

Odawarazyoufuzinzucc 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

※【陣形と陣立のお話】のページで、この時の徳川家康の陣立図を紹介しています・・コチラからどうぞ>>

ご存知のように小田原城は、あの北条早雲が手塩にかけた天下の名城です。

しかも、そのスゴさは城だけではなく、町全体を強固な城壁で囲むという、ヨーロッパの城郭都市を思わせる物でした。

もちろん、これは早雲だけではなく、2代目・氏綱、3代目・氏康・・・と北条家代々でによって城の整備が継承されてきた結果でもあります。

以前もどこかで、書かせていただきましたが、あの武田信玄も、越後の虎と呼ばれた上杉謙信も、この城を落せなかったわけですから・・・。

北条側にとって、たとえ例の防御ラインを破られたとしても、この小田原城があれば大丈夫・・・そう思っていた事も確かでしょう。

そんな小田原城の外郭土塁には、城外に通じる出入り口が9つありましたが、もちろん北条勢も、その場所には、これは・・・と思う重臣を配置し、守りを固めています。

天下の名城を相手にする秀吉は、これまた天下に聞こえた城攻めの名人・・・さすがに心得たもので、はなから長期戦を視野に入れての包囲作戦です。

配下の九鬼水軍はもちろんの事、毛利の水軍の支援も得ながら、海上を封鎖して兵糧を断つ一方で、長期の対陣に必要な対の城を構築します。

これが有名な『石垣山一夜城』です。

小田原城を見下ろす事のできる山の上に、一夜にして城を築く・・・伝説によれば、山の中に木組みを造り、そこに紙を貼って白壁に見せかけた張りぼての城だったと言われていますが、どうやら、それは、この城がいかに北条にとって脅威であったかを表現するあまりの誇張とも言えるもので、実際には、意外に広大な敷地を持つ本格的な城であった事がわかっています。

なんせ、この石垣山は、それまで、菅笠(すげがさ)を懸けたような形であった事から笠懸山、あるいは松が生い茂っていた事から松山と呼ばれていたのが、秀吉が城を築き、その石垣ができた事で、石垣山と呼ばれるようになったのですから・・・。

そんな石垣山城については、その城が、おそらく完成したであろう6月26日のページをご覧いただくとして・・・(6月26日のブログへ>>)

いよいよ持久戦を覚悟した小田原城包囲のお話ですが、この時に秀吉は、あの有名な『奥さんへの手紙』を書いています(9月6日参照>>)

「お前の次ぎに好きな淀を呼びたいんやけど・・・」
と、手紙の中で妻・ねねさんに、小田原に淀殿を来させるダンドリを組んでくれるように頼んでいるのです。

もちろん、自分だけではありません。
家臣たちにも、妻や愛人を呼ぶ事を許し、さらに、茶会を開いたり、独身の若手には地元の踊り子を呼んだりといった余裕を見せます。

一方、囲まれた北条にも長期戦覚悟の余裕が見えています。

『北条五代記』によると・・・
昼は囲碁を打ったり双六をやったり、あるいは詩歌や連歌に興じる静かなグループもあるかと思えば、笛や太鼓を打ち鳴らして狂喜乱舞するグループもあり、
「こんなんやったら、一生退屈せぇへんなぁ」
なんて事言う者もいたのだとか・・・。

しかも、先に書いたように、小田原は町ごと城郭の中に納まっていますから、その中で市なども立ち、お米の売り買いなども通常通り行われていたようで、一般市民もお城の中でも、飢える事はなかったようです。

しかし、秀吉の兵糧攻めは確実に行われています。

先の、海上の補給路を断った後には、伊勢などの米を買占め、東海道の補給路も断っています。

しかも、例の、別働隊による関東各地の支城攻めも進行中ですし、小田原城内の諸将への寝返りを促す事も忘れていません。
館林城・攻防戦>>
忍城攻防戦>>
八王子城攻防戦>>
小田原城攻めオモシロ逸話>>

実際の、小田原城包囲とは別の、見えない包囲は、徐々に・・・そして、確実に狭められていくのです。

そして、ついに・・・おっと、この先は、昨年の小田原城開城のページ=7月5日のブログでどうぞ>>で、ご覧あれ。
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2008年4月 2日 (水)

京都・八幡の背割堤の桜と木津川流れ橋

 

今日は、昨日行って参りました史跡巡りのお話をさせていただきます。

場所は、石清水八幡宮で有名な八幡(やわた)なのですが、石清水八幡宮は何度も行ってますので、今回は、木津川を挟んで向かい側の背割堤の桜と、時代劇のロケ地として有名な流れ橋を見てきました。

・・・と、その前に、やっぱり桜もたくさんあるし有名なだけに「行きたい」というかたも多数おられると思いますので、石清水八幡宮への行き方を少しだけ・・・

石清水八幡宮へは、京阪電車の八幡市駅から・・・
一番楽な方法は、往復ケーブルカーで・・・これなら駅直結ですから、ほとんど歩かずにお参りできます。

他に一の鳥居からお参りして、男山の東側を登る表参道裏参道の正統派お参りコースが2つ。

さらに、男山の南側を登るひだまりルートと、石清水の語源ともなった湧き水からの流れに沿って登るせせらぎルートと、男山の最高峰・鳩ヶ峰の山頂を経由して八幡宮まで行くこもれびルートの3つのハイキングコースがあります。

もともと標高142mの山ですから、一番長いこもれびルートでも、2時間たらずで目的の八幡宮に到着しますので、どのルートも、お子様でも登れる楽しいハイキングになる事でしょう。

一の鳥居の前に、すべてのコースが描かれた看板がありますので、そこで確認してからルートを決められるのも良いでしょう。

※もっと詳しくは、本家HPの【石清水八幡宮と男山散策】で紹介してしますのでコチラからどうぞ>>

・・・・・・・・・・・・・・

Yawatatizucc ・・・で、昨日の背割堤ですが・・・
こちらは、八幡市駅を出てから、八幡宮とは逆方向。

京阪電車の踏み切りを渡ってまっすぐ7~8分歩けば、木津川にかかる御幸橋に到着・・・この橋を渡ったところが背割堤です。

長さ1.4kmの堤に250本のソメイヨシノと50本のハナミズキがあり、今や京都・有数のお花見場所となっています。

Yawatasakurapcc

木津川の堤防の背を割る形で、宇治川の流路が付け加えられてできたので、背割堤と呼ばれます。

Yawatasakura2cc

この堤一帯に桜が植えられていて、まことに見事!
昨日は、まだ、少し早かったのですが、中には満開を迎えている木も何本かあって、充分美しい・・・。

Yawatasakura3cc 手前のハナミズキも満開!

おそらく、この先一週間ほどは、さらに見事になる事でしょうね。

堤と川の間だけでななく、堤の上にも散歩道があって、こちらはまさに、桜のトンネルとなります。

Yawatasakura4cc

橋のたもとの背割入り口から、桜の先端まで、だいたい徒歩20分くらい・・・20分間に渡って桜を愛でる事ができるのですから、これはもう、息を呑む美しさです。

もちろん、この背割堤の桜を楽しんでから石清水八幡宮の見物へ行っても、また、桜を楽しめます。

一の鳥居のそばにあるさざなみ公園の桜も美しいです。
もともと、石清水八幡宮を含む男山は、平安の昔からの桜の名所ですから・・・。

そして、桜を堪能した後に、流れ橋へ向かいました。

ブログに描いた地図では、便宜上、近くにあるように描いてしまいましたが、けっこう距離があります。

駅前からのバスで、約20分くらいかかりますから・・・

八幡市駅前には、無料(保証金1000円・自転車返却時に返金)のレンタサイクルがあり、木津川の堤には、快適なサイクリングロードがありますので、天気の良い日には、自転車のほうが良いかも知れません。

とりあえず、私はバスで・・・浜上津屋・バス停で降りて、川に向かって歩く事2~3分。
あの時代劇でよく見るロケーションが展開されます。

Nagarebasicc

流れ橋は、日本最長級の木造橋で、本当の名前は上津屋橋と言いますが、この橋は洪水で川の水かさが増えた時、橋をわたる板の部分が浮き上がり、川の流れとともに流れてしまうので、通称・流れ橋と呼ばれます。

Nagarebasiupcc 板はワイヤーロープでつながれていますので、そのまま流される事なく、水が退いた後に、元の位置に戻せるようになっていて、記録では50年間に14~15回流されているそうです。

このあたりは、江戸や明治の時代には、木津川を挟んだ両岸が上津屋村と呼ばれ、住民同士の交流も盛んな上、石清水八幡宮への参拝客も多かったのですが、長い間、渡し舟が利用されていました。

しかし、やはりそれでは不便・・・という事で、橋が架けられる事になりますが、限られた予算で、洪水の時に流れを阻害しない構造という観点から、昭和二十八年(1953年)3月に現在の場所に完成しました。

城陽市八幡市を結ぶ自転車・歩行者専用道路として、現在も活躍中の流れ橋ですが、古い時代を感じさせる橋の造りと、その橋と見事に調和する美しい河岸の風景から、時代劇のロケでたびたび使用されています。

仕事人が、この橋の下で、仕事を依頼されてた事もありました。

Nagarebasi2cc

それにしても、欄干の無い橋・・・しかも、この日はものすごい風・・・
さすがに、まん中あたりでは、ちょっと、ドキドキ・・・

しかし、ここをバイクや自転車で颯爽と行くツワモノも・・・

流れにさからって踏ん張るのではなく、最初から流される事を考えて、流されたらその都度また造りなおす・・・なんだか、自分もそうありたいと願う一日でありました。
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2008年4月 1日 (火)

芸術か?ワイセツか?博覧会の裸体画で大論争

 

明治二十八年(1895年)4月1日、平安遷都1100年を記念して、京都・岡崎第4回内国勧業博覧会が開幕しました。

・・・・・・・・・

明治四年(1871年)に、京都西本願寺日本初の博覧会が開催されたのを皮切りに、京都博覧会は毎年のように開催されていましたが、その京都博覧会は、京都博覧会社という民間の会社による博覧会・・・。

それに対して、内国勧業博覧会というのは、政府が開催する物で、外国の万国博覧会にならった見本市のような物で、次世代の産業などを広く内外に紹介する大々的な物でした。

それまでの3回は、すべて東京上野で開催されており、第4回目にして、やっと別の場所に・・・しかし、この時は、大阪もその開催地候補に名乗りをあげていて、京都と大阪で激しい誘致合戦が繰り広げられた結果、開催されるこの年が、平安遷都1100年の記念の年に当たる事がら京都に決定したのです。

ちなみに、内国勧業博覧会は、全部で5回開催され、第四回の次ぎの第五回は大阪で行われています。

・・・で、話を、第四回の京都での博覧会に戻しますが・・・

この頃、京都は衰退の一途をたどっていました。

京都の公家たちが反対する中、とりあえず・・・といった感じで天皇が江戸城に移り、東の京という事で、江戸を東京と改め、あれよあれよという間に、東京が首都のようになってしまいました。

千年の都は、そのままほっぽり出され、京都の人々は落胆します。

しかし、このまま衰退してしまうのは、それこそ千年の都のプライドが許しません。

政府が東京へ行ってしまったのなら、自らの力で町を盛り上げようと、人々は立ち上がります。

以前、書かせていただいた『琵琶湖疏水』(4月9日参照>>)も、その一つです。

琵琶湖から京都を通って、淀川へ抜ける水路を作る事によって、京都の町の飲料水の確保をするとともに、北陸の海産物や、農作物が京都を経由して天下の台所・大阪へと運ばれ、運輸産業が大いに発達する・・・加えて、水力発電を行い、京都の町に電気が灯ります。

そこへ、平安遷都1100年の記念の年に、この内国勧業博覧会の誘致です。

早速、かの電力を利用して、博覧会開催に合わせて『日本初の路面電車』(2月1日参照>>)を走らせます。

その路面電車は、4月1日の開催と同時に、七条ステンションから岡崎の会場まで、たくさんのお客さんを運び、この日から4ヶ月間の会期中、博覧会はのべ113万人の入場者を数えたのです

ちなみに、この時の博覧会のパビリオンとして建立されてのが、あの平安神宮です(3月15日参照>>)

このように、路面電車や平安神宮などなど、博覧会にはたくさんの呼び物がありましたが、中でも最大の人気を誇ったのが、会場に展示された「裸体画」だったのです。

それは、「朝、目覚めたばかりの女性が一糸まとわぬ姿で、鏡に向かい髪をとかしている」という裸の美人の姿を描いた油絵でした。

この絵は、博覧会の審査員・黒田清輝の作品。

彼は、9年間フランスに留学して、法学を極め、政界に入るか?官僚になるか?と期待されていた人物でしたが、途中で絵に目覚め、ソシェテ・ナシォナル・ボザールのサロン入選・・・入選作品のその裸体画・『朝妝(ちょうしょう)を引っさげての、まさに故郷に錦の帰国だったのです。

ところが、「かかる大それた物を、こともあろうに博覧会の会場に持ち出すとは・・・」と、新聞紙上で散々に批判されてしまいます。

確かに、西洋の裸体画は、それまでにも美術館に展示された事がありましたが、それは、特別室など、別の場所で展示され、西洋の美術に通じているごく一部の人だけが見られる状態となっていました。

それを、今回は、いきなりの一般公開となり、老若男女、多くの人が見てしまう・・・この女性の裸体画は、芸術なのか?ワイセツなのか?・・・そこに、問題があったようです。

しかし、清輝は・・・
「何を怖がっとんねん!これは時代の最先端やっちゅーねん!
撤回せぇて言うんやったら、今回の全部の出品をはずして、審査員も辞めたる!」

「なんちよ、やっせんぼが!こいや時代の最先端やったっど!
撤回せぇっちゆうんじゃったら、今回の全部の作品をはずしっせぇ、審査員もやむっでね!」

(関西弁しかしゃべれない私に代わって『薩摩佐幕派』の味のりさんが、鹿児島弁に訳してくださいました~
と、強気の発言。

結局、その強気におされた形で、裸体画が外される事はありませんでしたが、それでも、相変わらず新聞紙上では、毎日のように賛否両論入り乱れての大論争が繰り返されます。

しかし、新聞紙上が賑わえば賑わうほど、その裸体画の評判もうなぎのぼり・・・有識者のドタバタとはうらはらに、この裸体画は、開催と同時に評判を呼び、皮肉にも博覧会の一番人気となったのです。

Kyoutohakuranakaifuusigacc この頃、日本に滞在して、様々な風刺画を描いているフランスビコーは、「どちらがワイセツか」と題して、着物の裾をまくり上げて、この裸体画に見入る女性を描いています。

フランス人から見たら、全裸より、着物の裾のチラ見せのほうが、よっぽどエッチだったんでしょうね。

ところで、黒田画伯のこの『朝妝』という作品・・・残念ながら、第二次世界大戦で消失してしまったのだそうです。

う~ん、見てみたかったですね。
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