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2008年4月10日 (木)

聖徳太子のどこが怪しいのか?

 

推古元年(593年)4月10日、聖徳太子が第33代・推古天皇の摂政に就任しました。

・・・・・・・・・・

聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのおうじ)・・・

推古天皇摂政となり・・・
それまで力のみで決められていた朝廷内の上下関係を払拭し、新たな能力による人材登用の道を開く『冠位十二階』を定め・・・
豪族同士の和と天皇の地位を明確にした「十七条憲法」を制定した・・・

学校で、このように教わって、以前はその偉業を疑う事なく記憶しましたが、ご存知のように最近では「架空の人物説」「聖徳太子=蘇我入鹿説」などなど・・・様々な論理が展開されています。

もちろん、それらの説は、あくまで俗説・・・学問としての歴史は、未だ教科書で習った通りの聖徳太子(名前は厩戸皇子となってる場合もあります)ですが・・・。

しかし、専門家ではない一歴史ファンとしては、色々な推理を積上げていくのは実におもしろい・・・って事で、ここで一つ、聖徳太子のどこが怪しいのか?を、もう一度考えてみたいと思います。

とりあえず、一般的に教科書などにある年表を見てみると・・・

  • 574年 聖徳太子誕生
  • 587年 物部氏滅亡
  • 592年 推古天皇即位
  • 593年 聖徳太子・摂政となる
  • 603年 冠位十二階を定める
  • 604年 十七条憲法を制定
  • 607年 遣隋使・派遣(1回目)
         法隆寺・建立
  • 608年 遣隋使・派遣(2回目)
  • 614年 遣隋使・派遣(3回目)
  • 620年 「天皇記」「国記」編さん
  • 622年 聖徳太子・没

と、いう感じになります。

まずは、誕生からして、ちと怪しい・・・

聖徳太子の母がウマヤで産気づいて太子を生んだので厩戸皇子・・・って、これはどう考えてもキリストのパクリです。

以前、【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)のページで書かせていただいたように、フランシスコ・ザビエル日本にやってくる以前から、キリスト教は日本に伝わっていました。

もちろん、宗教としてではなく、話として伝わったという感じの物でしょうが、635年の唐の時代の中国で、正式な布教活動が行われているのですから、あれだけ遣唐使を送って大陸文化を吸収した日本に、伝わっていないほうが不自然です。

正史とされる『古事記』『日本書紀』が書かれるのは、太子が亡くなってから100年ほども後の、すっかり平城京の奈良時代=710年頃の事ですから、その時には、キリストの出産エピソードが伝わっていて、太子を、より神格化するために付け足したと考えるほうが自然でしょう・・・って事は、厩戸皇子という名前も怪しい・・・

次に、物部守屋VS蘇我馬子の抗争では、太子は馬子側について参戦し、物部氏を滅亡に追いやる(7月7日参照>>)のですが、この時のエピソードは明らかに人間ワザを越えた神の領域の物なので、参戦したという事以外は、すべて怪しい・・・と考えたほうが良いかも知れません。

次に、今日の話題である摂政・・・
これは『日本書紀』
「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひづぎのみこ)とす。仍(よ)りて録摂(まつりごとふさねつかさど)らしむ」
とあるので、一応、事実としときましょう。

次に冠位十二階・・・
実は、これは、その事が書かれてある『日本書紀』にも、
「はじめて冠位を諸臣に賜ふ」
と書かれているだけで、太子が作ったとは一言も書いてません。

この冠位十二階は、最初にも書いたように、力のある豪族が、親から子へその役職を世襲制にしていた事をやめさせるために制定したはずなのですが、なぜか、一番力のある蘇我氏には適用されませんでした。

つまり、蘇我氏は別格・・・となると、どう考えても、天皇側に立った人間が作った物ではなく、蘇我氏側の人間が作った事になります。

次に、十七条憲法・・・
これには、第十二条のところに、大宝律令の後から制定された「国司」という役職が登場する事で、もはや「怪しい」・・・を通り越して、「ありえない」といったほうが良いかも知れません。

次に、遣隋使は・・・
これは、どう考えても太子ひとりでできる事ではありません。

最初の提案くらいはしたかも知れませんが、こんな大きな国家プロジェクト・・・いろんな人が関わってるに決まってますからね。

ただし、1回目の遣隋使の時は、小野妹子にあの有名な「日出づる処(ところ)の天子・・・」国書を持たせてますから、太子も関わっていた事は確かでしょうが、コチラも、隋の記録にたった1行「こんな書き出しの手紙が送られて来て、皇帝が怒ってたで」と書いてあるだけなので・・・。

その後の、2回目・3回目の遣隋使は太子がいるいないに関係なく派遣する事は可能でしょうね

次に法隆寺の建立に関しては・・・
実は、太子と法隆寺を結びつける決定的な史料はありません。

法隆寺を建立したというよりは、現在の法隆寺の場所に当時あったとされる太子の邸宅・斑鳩宮(いかるがのみや)に移ったというのが正解でしょう。

当時の都は明日香です。
政治の中心が明日香にあるにも関わらず、太子が斑鳩に引っ越したという事は、すでにこの時点で、政治の表舞台から退いたと考えられます。

摂政になった時から、わずか14年で、おそらく太子は、政界を引退していたのです。

次に、『天皇記』『国記』の編さん・・
これは、蘇我馬子の命令のもと、蘇我氏によって編さんされた物で、太子は代表者として名前を貸しただけのような存在です。

その証拠と言えるかどうかわかりませんが、この『天皇記』と『国記』・・・完成後は、蘇我氏が保管していて、『国記』のほうは、あの入鹿暗殺=乙巳の変(6月12日参照>>)の時、全焼した蘇我蝦夷の邸宅とともに灰になり、『天皇記』のほうは、無事残ったものの、入鹿を暗殺した中大兄皇子(後の天智天皇)の手に渡った後、行方不明となってます。

つまり、その内容は蘇我氏の歴史・・・という物であったと思われ、中大兄皇子くん、抹消しちゃいましたね・・・たぶん。

最後に、太子の死については、以前【聖徳太子・死因の謎】(2月22日参照>>)と題して書かせていただきましたので、ここでは省かせていただきます。

以上・・・

こうしてみると・・・どうでしょう?

今のところ、「事実である」と思われる事が、摂政に就任した事だけという事になってしまい、実に怪しい・・・。

結果、「架空の人物説」「蘇我入鹿説」などが登場する事となります。

はたして、この謎が解けるのは、いつの日の事なのでしょうか?
ワクワク・ドキドキ・・・
 .
 

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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

もう、内容が面白すぎてコメントする余地もないので、ファンレターです。

私の勉強も今やっとのこと江戸時代に入り、少しずつ歴史の面白さを実感しているところです。(勉強初めが今年初め頃から)
高校の時に勉強した(はず)内容も全く覚えておらず、白紙からの状態でしたが、やっと名前や時代背景などもわかるようになり、今ともて楽しいです。

このブログも、内容をもっと理解したい場合に、おもしろおかしく読まさせていただいています。おかげさまで、頭の中でなんとかいろんな情報が手を結びだしています。

ほんと、ありがとうございます!

投稿: Kyoko | 2008年4月11日 (金) 01時14分

茶々さん、こんばんは

久しぶりにコメントさせていただきます。

書かれている通り、聖徳太子の実態はよくわからないですよね。いろいろ考えるとつじつまのあわないことが多い。
私は、聖徳太子=蘇我馬子説に魅力を感じます。(聖徳太子=蘇我入鹿説はちょと年代があわないので)

本当は、聖徳太子の実績として言われているもののほとんどは蘇我馬子が行ったが、大化の改新のクーデタで滅ぼした蘇我蝦夷・入鹿の父・祖父である馬子の存在をそのまま、「日本書記」に残すと現体制の正当性を主張できない。
そのため、天武朝・持統朝の時代に、聖徳太子という存在が作られたか、存在はしたものの、大した業績も残していない実在の皇子を聖徳太子に仕立て、その皇子の業績ということに歴史を書き換えたにのではないかという気がします。

聖徳太子はもっと研究されるべき存在だと思います。

投稿: 拓庵 | 2008年4月11日 (金) 02時55分

いつもながら管理人さんの博識ぶりには驚かされます。いったい何処から、これだけの歴史の知識を得てるんですか?。
さて、聖徳太子架空人物説・蘇我馬子同一人物説、いずれも根拠とすべき資料も少なからず登場し、太子の存在も疑問視せざるを得ない状況になりつつありながら、未だに聖徳太子を実在した人物として学校で教えてる現状をどう御覧になってますか?まぁ、現段階に於いては、資料不足とか文書の解釈の仕方等で太子の存在を否定するまでには至らないとの判断や、太子実在説を採る方からすれば馬子こそ太子の事績などから作り上げた人物だナンテ言いだすかも知れませんし。この問題の解決は新資料の発見や未解読資料の更なる解析(解読)等、今後の研究の成果が待たれますね。

投稿: マー君 | 2008年4月11日 (金) 02時59分

>Kyokoさま、
コメントありがとうございます。

ファンレターだなんて・・・ちょっと恥ずかしいけど、根が単純なので、すなおに喜ばせていただいときます~

歴史は、数学のようにピタッと一つの答えが出る物ではなく、様々な解釈や意見によって、答えの出ない物も多々あります。

そのぶん、知れば知るほどおもしろくなっていくのも確か・・・この先も、ご一緒に色々な推理を楽しんでいきましょうね。

投稿: 茶々 | 2008年4月11日 (金) 08時09分

>拓庵さん、こんにちは~

私も、馬子・蝦夷・入鹿の三代の時代には、蘇我氏が政権を握っていた王家だったのではないか?と思っています。

やはり、後に政権を握った天武・持統の王家が、それを隠したかったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2008年4月11日 (金) 08時19分

>マー君さん、お早うございます

以前、「歴史」と「歴史学」の違いについての文章を読んだ事がありました。

やはり、歴史学という学問になった場合は、「確固たる証拠がない限り認められない」というのが現状のようです。

個人的には、答えがいっぱいあっても良いのではないか?と思っていますが、学問となると、そんな曖昧な感じではダメなんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2008年4月11日 (金) 08時25分

聖徳太子ってかなり怪しいんですよね。推古天皇とともに蘇我系王族であり蘇我馬子にとって都合のいい存在であり、政治改革を行える環境や立場ではなかったと思います。また、彼の業績は阿毎多利思北弧王の業績を盗用して記述されたものだと思います。隋書には十二等官位が記されており冠位十二階とよく似ています。しかし、その官位の並びは徳・仁・義・礼・智・信であり徳以外は孔子の教えにある五常であり、人が守るべき徳目なんです。十七条憲法にある、和を以て貴しと為すは論語にある孔子の教えなんですよ。日本古来の人々の和の精神云々ではなく、儒教思想による国内統治のようです。すごく不思議だとはおもいませんか?

投稿: 化け猫 | 2014年10月 7日 (火) 12時49分

化け猫さん、こんにちは~

そうですね。
遣唐使を廃止する以前の日本は、中国をお手本としていた事は確かでしょうね。
なんせ四大文明の一つである先進国ですから…

ただ「和を以て…」の一文は『論語』だけではなく『礼記』にも登場しますし、その『論語』や『礼記』も他の文献と交錯する部分もあり、『論語』の…というよりは、お手本とすべき、当時の中国的思想(教典)からいただいた、という感じでしょうか?

それと、
『礼記』では「礼之以和為貴」、
『論語』では「礼之用、和為貴」と、
どちらも「礼を用いて調和して行こう」となっていますが、私としては、以前に【知ってるつもりの十七条憲法~その言いたい事は?】>>で書かせていただいたように、十七条憲法では「話し合いを用いて調和して行こう」と、少しニュアンスが違う気がしないでも無いですし、そこが1番言いたい事ではないか?と思ってます(←個人的な感想です)
まぁ『論語』や『礼記』の「礼」の解釈も難しいところですし、そもそも、もはや聖徳太子が十七条憲法を書いたとも思ってませんが…(笑)

結局は、ついつい贔屓めで見てるだけなんでしょうけどね。

投稿: 茶々 | 2014年10月 7日 (火) 15時32分

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