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2008年4月 7日 (月)

戦艦・大和、海に散る

 

昭和二十年(1945年)4月7日、水上特攻作戦の指令により、沖縄へ向かっていた戦艦・大和がアメリカ軍の集中攻撃を受けて撃沈しました。

・・・・・・・・・・

太平洋戦争も末期・・・かつて世界に誇った連合艦隊も、度重なる戦いに敗れ、今や大多数が日本本土へと引き揚げ、迫り来る燃料不足から、大和のような大きな船は、もはや動く事もできない状態となっていました。

しかし、そんな時、アメリカ軍の沖縄上陸作戦が開始させるのです。

海軍では、「敵の上陸作戦に対して、今残る艦隊でいかにして戦うべきか」の様々な意見が飛び交い、会議に次ぐ会議が行われます。

そんな中、多数の反対を押し切って、連合艦隊主席参謀・神重徳(かみしげのり)大佐の『水上特攻作戦』に決定します。

それは、戦艦・大和に片道分だけの燃料を積み、沖縄へ向かわせ、到着後は大砲として使用するという物でした。

無謀で、大きな成果の期待もできないようなこの作戦に決定したのは、昭和天皇の一言でした。

もちろん、昭和天皇自身は、そのようなつもりのお言葉ではありません。

沖縄方面の戦況を、軍令部総長・及川古志郎(おいかわこしろう)に・・・
「航空部隊だけの総攻撃なのか?」
と、お聞きになっただけなのです。

その質問に及川は
「海軍の全勢力を以って対抗致します」
と答えました。

昭和天皇のこのご発言を理由に、反対派を押し切り、水上特攻作戦が決行される事になるのですが、この会話も正式な記録には残っておらず、本当にあったものなのかどうかも、定かではありません。

かくして、昭和二十年(1945年)4月6日、軽巡洋艦・矢矧(やはぎ)以下、駆逐艦8隻をともない戦艦・大和は、沖縄に向けて出撃しました。

ただ、実際には・・・
「大和を片道燃料で送り出すのは忍びない」
という連合艦隊機関参謀と呉軍需部長の配慮により、残っていた船の燃料タンクの底に溜まっていた、ありったけの重油をかき集め、何とか片道分の倍の燃料を積み込んで出撃できた事がせめてもの救いでした。

しかし、その動きは、すでに出撃直後から、アメリカ軍の潜水艦により敵側には筒抜け状態だったのです。

一夜明けた4月7日12時30分・・・航行中の艦隊に、アメリカ軍の第一次攻撃隊・280機が襲い掛かります。

大和を中心に防空の陣形をとる艦隊・・・30分間に渡る攻撃で、矢作は航行不能に、駆逐艦・浜風が沈没します。

大和自身にも魚雷が一発命中しますが、さすがの大和はびくともせず、そのまま航行を続けます。

しかし、その、わずか30分後の13時30分再びアメリカ軍の攻撃が開始されるのです。

2回目の攻撃に耐えられなかった矢矧は沈没
続いて、駆逐艦・3隻が沈没しました。

そして、大和は・・・
その身体に10発もの魚雷が命中し、大和はゆっくりと左に傾きます。

それは、10発のうち、9発が左側に命中していたからなのです。

以前、アメリカ軍は大和と同型の戦艦・武蔵を沈没させるのに、20発もの魚雷を要してしまった経験から、この日の大和には、左側に集中して撃ち込むように指示が出されていたのだとか・・・。

大和は、その巨体を大きく左に向け、次々と砲弾が誘爆する中、最後の叫びとも思える轟音を響き渡らせ、天を掴まんばかりに伸ばしたその炎の腕で、アメリカ軍機数機をみちづれに、海の底に沈みました。

この日、372名が戦死し、日本が世界に誇った連合艦隊は姿を消したのです。

Senkanyamatocc 今日のイラストは、
『静かに眠る戦艦・大和』という雰囲気で描いてみました。
 .
 

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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

大艦巨砲主義の象徴…大和も空からの攻撃には勝てなかったって事ですね。山本五十六連合艦隊司令長官なども、大和一艦造る金と鋼材で飛行機が何千機も出来ると…大和型戦艦の建造には反対だったと言われてますもんね。然し…それにしても、当時から大和や武蔵の使い方に関しては現場の軍人から疑問視する声が大きかったとも聞きますね。艦隊決戦用の秘匿兵器だからと、現場の声を無視して後方待機みたいな形でしか戦場に赴かなかった為、大和ホテルとか武蔵御殿等と呼ばれ実力を不安視される始末だったようですね。大和型戦艦の登場がもっと早く、真珠湾攻撃時に間に合ってたら航空兵力での一次攻撃の後、大和や武蔵が真珠湾に突っ込んで艦砲射撃をしてれば、もっと違った戦い方が出来てただろうとも言われてます。世界最強といわれた大和も生まれた時代が遅過ぎたって事なんでしょうね。

投稿: マー君 | 2008年4月 7日 (月) 11時15分

マー君さん、こんばんは~

あの日本海海戦のあまりの見事な勝利に、海軍は「これだ!」ってな感じで、大型戦艦に突き進んで行ったのでしょうが、考えて見れば、日本海海戦からわずか40年間で、この大和に行き着く・・・何やら彗星のごとく現れ、消えていったような・・・

投稿: 茶々 | 2008年4月 7日 (月) 22時40分

今日(先ほど)、BSプレミアムで
戦艦大和の特集番組(3時間)がありました。

戦艦大和から生還した人のうち、
健在な人を訪ねて話をつなぎつつ、
大和についての史実もたどっていく特番。


実はその生還者のひとりが地元にいらっしゃって
(しかも遠縁にあたる・・・)
先月は、取材やら再現ドラマ部分のロケやら
田舎のムラがちょっとした騒ぎ…。


3時間の番組でしたが、まじめに見ました。
沖縄特攻に出撃するに当たっての
上官たちの葛藤、賛否両論も
きちんと語られていて、
当時の軍人の考え方にふれることができました。

また、生還した人たちの戦後の葛藤。
死ぬつもりで出征した以上、
どんな顔をして帰ればいいのか・・・。
目の前で「不沈戦艦」といわれた大和が沈む姿を見たこと、
一緒に脱出できたけど救助されなかった仲間の最後の姿、
生還して喜んでいいのかどうなのか・・・。
今でこそ笑って話せるのでしょうが、
当時は相当な葛藤だったのだろうと思いました。


ナビゲーターの瀬戸康史くんのセリフにも
ありましたが、
「これらの記憶を語る人がいなくなる日が
近づいてきているのも事実…」
少しでも多くの「生の記憶」を、
記録しておいてほしいと思いました。

投稿: hana-mie | 2012年8月11日 (土) 23時02分

hana-mieさん、こんばんは~

ホントですね~
その時代を生きた人がお元気でいらっしゃる間に、正しい記録を残しておいていただきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2012年8月12日 (日) 01時35分

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