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2008年4月20日 (日)

戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅

 

天文十五年(1546年)4月20日、戦国屈指の夜戦・・・『河越夜戦』がありました。

・・・・・・・・・

室町幕府が関東を管理するために置いた鎌倉公方と、その補佐役・関東管領・・・

鎌倉公方は足利氏の支族が代々務め、管領職は扇谷(おうぎがやつ)上杉家山内上杉家が交代で務めていたのですが、幕府将軍6代目・足利義教(よしのり)と公方4代目・足利持氏(もちうじ)の時に、幕府に反発し公方が独自の道を歩み始めた事で、幕府と管領・上杉がタッグを組んで、公方・持氏を排除しました永享の乱:2018年2月10日参照>>)

Asikagakuboukeizu 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

その持氏の遺児・足利成氏(なりうじ)が、公方職を奪回しようと関東各地で反乱を起こし、幕府に無許可で勝手に名乗ったのが古河(こが)です。

・・・で、勝手に名乗られちゃぁ困るって事で、幕府が慌てて派遣した正式な公方堀越公方だったわけですが、その堀越公方を滅ぼしたのが、彗星のごとく現れ、駿河(静岡県)今川氏に妹のコネで契約社員となっていた北条早雲です伊豆討ち入り・10月11日参照>>)

ここで、伊豆を支配するようになった北条氏ですが、やがて、先の古河公方の3代目・足利高基(たかもと)の代になって、兄・高基に反発した弟・足利義明(よしあき)が古河を離れ、無許可のさらに無許可となる小弓(おゆみ)公方を名乗り始めます。

すでにこの頃、鎌倉を支配し、江戸城近くまで勢力を伸ばしつつあった早雲の息子・二代目北条氏綱(うじつな)は、見事、小弓公方を倒し、さらに関東での支配を広げます国府台合戦・10月7日参照>>)

早雲・氏綱の親子2代で、堀越・小弓と来て、さぁ・・・最後に残ったのは古河公方・・・

そんな天文十一年(1541年)7月、その氏綱が病死し、息子・北条氏康(うじやす)が家督を継ぎます。

この3代目の氏康が、まだ年若かった事で、「これは絶好のチャンス!」と見て取ったのが、その古河公方と管領である両上杉氏です。

古河公方4代目・足利晴氏(はるうじ)にとっては、これ以上、北条の北進を許すわけにはいきません。

晴氏と、それに同調する山内上杉憲政(のりまさ)扇谷上杉朝定(ともさだ)らは、その年の10月、関東中央部の北条の拠点である武蔵河越城(埼玉県川越市)の包囲に取り掛かります。

この河越城は、もともと朝定が居城としていた城・・・それを氏綱が奪って、娘婿の北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)に守らせていたのですから、晴氏としても、是非ともこの機会に取り返したい!

河越城の北側には晴氏、西側と南側が両上杉氏、東側には、あの太田道灌(どうかん)の曾孫・太田資正(すけまさ)(9月8日参照>>)・・・総勢8万と記録にはありますが、これはオーバー過ぎ、その半分くらいと見ておいたほうがいいでしょう。

守る河越城内は、城主・綱成をはじめとする約3千と、氏康が派遣した救援部隊が8千・・・それでも、数の差は歴然です。

しかし、その数の差のわりには、公方・管領側が何度攻撃を仕掛けても、河越城はなかなか落ちません。

小競り合いを続ける中、明けて天文十五年(1546年)3月頃に、晴氏たちは、「一度体制を整えなおして再戦」と、ばかりに、一時攻撃を休止します。

それを見た氏康は、自らが、更なる救援隊を率いて、近くの金窪(かなくぼ・川越市)に陣を敷き、即座に晴氏に和睦を申し入れます。

しかし、この和睦は敵を油断させるための氏康の作戦・・・

案の定、配下の者に敵情を視察させたところ、晴氏たちは、数の上で大幅に勝っている事、相手が和睦を申し入れてきた事で、「もはや、この戦いは終るだろう」と、完全にくつろぎの表情を見せているとの事・・・。

その報告を聞いた氏康・・・「やった!今夜だ!」
と、ばかりに、天文十五年(1546年)4月20日夜遅く、まずは、朝定の陣にだけ夜襲をかけます。

ふいを突かれた朝定は、あっさりと討ち取られ、陣は壊滅状態となります。

その勢いに乗って、こんどは上杉憲政の陣へ突入!
敵将・憲政の首こそ取れなかったものの、皆散り散りに敗走し、こちらの陣も壊滅状態となります。

この氏康の奇襲を知った城内の綱成は、城兵総出で、晴氏の陣へ討って出ます。

あれよあれよという間に、総崩れとなってしまった陣を目の当たりにした晴氏は、北条側へ降伏を申し入れ、この戦いは北条の勝利に終ります。

包囲されている側が、城外に到着した援軍と合わせて、何倍もの大軍を討ち果たした・・・まれに見るこの合戦は、厳島(10月1日参照>>)桶狭間(5月19日参照>>)の二つの奇襲とともに戦国屈指の夜襲『河越夜戦』として語り継がれる事となりました。

後に、晴氏は古河公方の座を追われる事になり、この時、上野平井城(群馬県)の逃れた憲政も、もはや関東管領は名ばかりの地位となってしまいます。

この憲政が、上杉謙信(長尾景虎)のもとに身を寄せて、その憲政のお供という形で、謙信が関東に乗り込んでくるのは、この後、16年後の永禄三年(1560年)7月の事・・・もう少し待たねばなりません。
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