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2008年4月 5日 (土)

伊達政宗・毒殺未遂事件は本当にあったのか?

 

天正十八年(1590年)4月5日、伊達政宗小田原参戦を大幅に遅らせる事になる暗殺未遂事件が発生しました。

・・・・・・・・・・・・・

ご存じ、豊臣秀吉による『小田原征伐』・・・。
【小田原征伐・開始】(3月29日参照>>)
【小田原城・包囲】(4月3日参照>>)

畿内はもちろん、四国を平定し、九州を平定し、越後の上杉景勝とも主従関係を結んだ秀吉にとって、残るは、北条が治める関東と、未だ手付かずの東北・・・

秀吉は、今回の小田原攻めにあたって、各地の武将に参戦を呼びかけています。

秀吉にとって、この要請は、単に援軍を募るだけでなく、自分の傘下に収まるのかどうかを判断するという目的でもありました。

自ら平定した場所はもちろん、あの毛利も水軍を出して参戦していますが、これはすでに想定の範囲内・・・問題は、まだ手付かずの東北の武将たちです。

逆に、東北の武将たちにとっては、参戦しなければ、「従う気はない」と判断され、参戦に遅れても、「どちらにつくか迷っていた」と、秀吉に思われる事は確実です。

当時、東北を治めていた諸将たちは、小さいながらも、南北朝時代から続く名門が多く、彼らにも、それなりのプライドがあります。

しかし、百姓あがりの新参者とは言え、秀吉の勢いもすでに承知・・・

プライドを貫くのか?
それとも、情勢を見て、秀吉につくのか?

当然の事ながら、東北は真っ二つに分かれる事になります。

最上義光(よしあき)津軽為信秋田実季(さねすえ)南部信直佐竹義宣(よしのぶ)城常高相馬義胤(よしたね)・・・これらの面々はいち早く小田原に駆けつけたグループです。

そして、今まさに、奥州の覇王となりつつあった独眼竜・伊達政宗・・・。
当時の彼の立場は複雑・・・いえ、どちらかと言えば反・秀吉側です。

父の弔い合戦と称して戦った『人取橋の合戦』(11月17日参照>>)では、すでに小田原に参戦した岩城氏や佐竹氏と戦っていますし、しかも、その後、北条氏直通じて佐竹氏を圧迫したりもしてます。

まして、前年の天正十七年(1589年)6月には、秀吉と親交の深かった芦名氏『摺上原の戦い』(6月5日参照>>)で滅亡に追いやり、その後、「僕の大事な芦名ちゃんを滅ぼした真意をきかせてよ」という秀吉の再三の呼び出しを、「別に・・・」無視し続けていたのですから・・・。

しかし、それこそ政宗も、天下の情勢が、秀吉に傾いている事は重々承知しています。
政宗自身も迷いますが、当然、伊達家内の重臣の意見も分かれます。

今まで、秀吉の呼び出しを無視し続けていたのですから、小田原に行っただけで、首をはねられる・・・なんて可能性もゼロではありません。

かと言って、秀吉が関東以西を勢力圏内に治め、東北の武将の多くが小田原へ向かった今となっては、彼らのすべてを敵に回して、はたして生き残っていく事ができるのやら・・・

結局、政宗は、伊達家の生き残りを賭けて、小田原攻めへ参戦する決意を固めます。

そして、明日、小田原に立つ事が決まった天正十八年(1590年)4月5日、政宗は、母・義姫のいる黒川城西館(にしだて)に招かれます。

幼少の頃から、何となく政宗に冷たかった母が、いつになくやさしい・・・。

「一世一代の大舞台に出征する息子への気遣いか?・・・やっぱ、お母ちゃんはありがたいモンや・・・」と、少しうれしくなる政宗・・・。

感激にむせびながら、出されたご馳走をほおばると・・・

いきなり腹にはしる激痛・・・そう、この食事には、毒が盛られていたのです。

政宗ではなく、次男の小次郎(竺丸・じくまる)を溺愛していた彼女が、小次郎に家督を継がせたいと、政宗の毒殺を決行したのです。

すぐに解毒剤を服用したおかげで、一命をとりとめた政宗は・・・
「なんぼなんでも、実のお母ちゃんを殺す事はできひん。
あんな弟がおるからこそ、お母ちゃんはミョーな考えを起す事になるんや」

と、弟・小次郎を斬殺・・・母・義姫は、実家の最上家を頼って山形へと逃れるのです。

そのため、この一件には、義姫の兄・義光の関与も疑われています。

・・・と、これが伊達政宗・暗殺未遂事件の一部始終・・・

古文書の中には、上記のように、政宗が食して解毒剤で治したとする物と、毒見役が吐血して身代わりになったとする物があり、詳細の違いがあるものの、「毒殺されかかった事は事実であろう」というのが一般的な見解で、このために、政宗の小田原参戦が大幅に遅れてしまい、秀吉をさらに怒らせてしまう結果になったとされています。

しかし、ここにもやはり不可解な謎が存在します。

この時代、毒殺に用いる毒は、必殺の猛毒だったはずで、はたして解毒剤などで、助かるものなのかどうか・・・?

また、当時の政宗には、子供がおらず、弟が死んで、自分も小田原で万が一の事があれば、伊達家は断絶してしまう可能性もあります・・・なのに、小田原に行く前に斬殺・・・?

さらに、この事件の後も、政宗は、母・義姫と頻繁に連絡をとっているという事実もあります。

実際に毒を盛ったのは、義姫です。
たとえ、諸悪の根源が、弟・小次郎の存在にあったとしても・・・
実の母は殺せないと思ったとしても・・・
本当に殺されかかったのなら、そんな母親と頻繁に手紙のやりとりをするでしょうか?

また、伊達家のご子孫の34代・伊達泰宗さんによれば、菩提寺の過去帳を見る限り、小次郎が埋葬されたのが、殺されてから2年後というミョーな空白があるのだそうです。

事件直後に斬殺されたのなら、その後の2年間、ご遺体はどうされていたのか?
もちろん、その間、別の場所に埋葬されていたという記録もないのです。

逆に、当時、八王子のある寺に、政宗の弟と名乗る僧侶がいた事が記録されており、そこに、たびたび政宗が訪ねてきていたというのです。

もちろん、これは、俗説・・・記録も、「弟と名乗る僧侶がいた」事が記録されているだけで、本当に弟だったかどうかは定かではありません。

しかし、母との手紙のやりとりと、八王子への参拝という事実は残っています。

この事件の後、結局、政宗が小田原に到着するのは6月5日・・・もはや小田原城攻防戦も中盤に差し掛かった頃です。

この毒殺未遂事件は、遅れた理由を正当化するための政宗お得意のパフォーマンスだったのでしょうか?

それとも、やはり、定説通り、毒殺未遂は本当で、4月の時点での政宗は、参戦したくてもできない状態にあったのでしょうか?

小次郎が事件後も生きていた事が証明されれば、歴史としては大きな発見となりますが、
歴史という物は、そう簡単に答えを出してはくれませんからねぇ。

ところで、その小田原に到着した政宗ですが、当然、秀吉さんはお怒りの真っ最中・・・ここから、政宗、決死の弁明が始まるのですが、そのお話は、やはり、「その日」に書かせていただきましたので、6月5日>>へどうぞ。

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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちは!
実の母に毒を盛られるというのは、壮絶な戦国時代を象徴していますが、胸が塞がる想いがします。

昔、大河でこのシーンを渡辺謙が見事に演じていたことを思い出します。

小田原遅参の言い訳だったという説もあるんですねぇ。

小次郎が生きていて、その後、影働きをして歴史を動かしたという小説が書けるかも・・・

投稿: 清正 | 2008年4月 5日 (土) 18時21分

清正さん、こんばんは~コメントありがとうございます。

私も大河でのそのシーンよく覚えています。

「毒を盛られたのはほぼ間違いない」というのが歴史の定説ですが、いろいろな見方をするのが歴史の醍醐味だと思っているので、あえて、このような展開にしてみました。

以前見た雑誌のインタビューでは、伊達家のご子孫の方は、ほぼ小次郎の生存を信じておられるようでした。

投稿: 茶々 | 2008年4月 5日 (土) 23時08分

政宗の弟が生き残ってたという仮説は…面白いですね然し政宗暗殺未遂事件の二年後には菩提寺に埋葬されたって事は、その間に亡くなってるんですね。その死は自然死だったんでしょうかね?。そんな風に考える時…僕は、やはり小次郎は暗殺未遂事件直後に、政宗もしくはその手の者に因って討たれたのではないかと思っています。二年後に埋葬されたって事の裏を考えてみたんですが、弟とは言え藩主暗殺の犯人(実際には無関係ではあるが、母を犯人として討てない以上、小次郎を犯人とせざるを得ない)を即座に伊達家の菩提寺に埋葬と言う訳にはいかないとの判断から、何処か藩内の小さな寺院にて弔われてた可能性も捨て切れません。そして一応、二年という歳月を以て藩主暗殺未遂の罪は許し、藩主の弟として伊達家塁代の菩提寺に埋葬し直されたとみるのも一つの説として考え得る者だと思考するんですが如何なものでしょうかね。夢の無い意見で申し訳有りません。

投稿: マー君 | 2008年4月 6日 (日) 02時27分

マー君さん、こんにちは~

いえいえ、上記の通り、色々な角度から見て、様々な推理をしていく事が歴史の醍醐味だと思っていますので、反対意見大歓迎ですよ。

義姫の実家が最上であった事から、「義姫が小次郎を溺愛」というよりは、最上義光が小次郎を扱い易いとみて、傀儡の小次郎を当主にして、後々乗っ取ろうとウラで糸を引いていた・・・という話もあります。

また、秀吉の怒りをかってしまった政宗が当主では、この先、伊達家は生き残れないと考えていた家臣が数多くいたという話もあります。

政宗を殺したい動機が、家内に山ほど渦巻いていた時期でしょうから、私も、「たぶん毒殺未遂はあったのだろう」と思っていますが、小次郎が生存していたら、これまた、おもしろい推理に発展するのでは?という期待もこめて書かせていただきました。

投稿: 茶々 | 2008年4月 6日 (日) 16時27分

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