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2008年5月31日 (土)

明治の珍騒動~未成年・喫煙禁止令

 

今日、5月31日は、世界保健機構(WHO)が制定した世界禁煙デーという国際デーの一つなのだそうです。

今日から一週間は禁煙週間として、禁煙を促進する様々な行事が行われるそうです。

ところで、健康志向も相まって、どんどん禁煙スペース増えつつある今日この頃では、信じられないようなお話ですが、この日本でも、明治三十三年(1900年)3月7日に、未成年者に対する喫煙禁止令なる法律が公布されるまでは、少年少女の喫煙は野放し状態でした。

丁稚奉公の小僧さんがくわえ煙草で仕事をしたり、煙草をふかしながら学校に通う小学生の姿もあったとか・・・

もちろん、それまでにも、規制がなかったわけではありません。

明治二十七年(1894年)には、文部省から小学生の喫煙を禁止する訓令が出されてはいましたが、ほとんど守られる事はなく、中学生においては、それぞれの学校の校則での禁止にゆだねられ、法的に禁止するには至っていなかったのです。

・・・で、上記のように、やっとこさ明治三十三年の3月に公布、翌4月から施行という事に相成ったわけですが、これが決定されるやいなや意外なところから反対の声があがります。

それは、花柳界・・・芸者さんや遊女などの、いわゆる花街の世界からの反発でした。

当時の新聞によれば・・・
「こいつぁ、一つ、廃案運動に出かけにゃなるめぇと、吉原はいうに及ばず日本国中の遊郭連合して、岩戸がくれのはじめより、女なしでは夜の明けぬ大勢を示さん」
との、大騒動になったのだそうです。

実は、江戸の昔から、遊郭において煙草は重要な小道具・・・俗に、遊女遊びの一連の流れは、茶煙草盆(ちゃたばこぼん)の礼に始まると言われたくらいの必須アイテムでした。

特に、まだ、お客さんの扱いに慣れていない新米の芸妓にとっては、場を和ませるための最大の道具が煙草だったわけですから、それを取り上げられては死活問題・・・商売がやっていけないというのです。

なんせ、新米=未成年ですから、絶対に引っかかります。

しかし、大騒ぎしたわりには、実際の反対運動に発展する事はなく、この喫煙禁止令はすんなりと施行される事に・・・

ただし、すんなり施行されはしたものの、実際には守らない者が多数・・・。

芸妓や娼婦に限らず、一般の未成年者も、しばらくの間は警察の補導を受ける者が耐えなかったのだとか・・・

現在では当たり前となっている事も、それが、定められた直後には、スッタモンダがあるもんですねぇ。

この大騒ぎも、日本が近代国家へと向かう明治の珍騒動の一と言える物でしょう。

Utamarokiserucc
今日のイラストは、

煙管・・・という事で、歌麿の『歌撰恋之部・深く忍恋』を描かせていただきました~。
 .

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2008年5月29日 (木)

本能寺の変~徳川家康・黒幕説について・・・

 

天正十年(1582年)5月29日、この日、京都からに移動した徳川家康は、堺の浦を遊覧するなど、堺見物を堪能しています。

・・・・・・・・・・

この半月前の5月15日、徳川家康は、武田氏の一族でありながら家康を通じて織田方に寝返った穴山梅雪(信君)(3月1日参照>>)とともに、織田信長に会いに安土城を訪れていました。

この年は、信長と家康が同盟を結んでから、ちょうど二十年に当たる節目の年である事と、その梅雪の功績で2ヶ月前の甲州征伐に勝利し武田氏を滅亡(3月11日参照>>)させたという事もあって、この時の安土城での酒宴は大いに盛り上がりました。

例の明智光秀が饗応担当・・・つまり、幹事をやった酒宴です。

その日に、中国平定を担当している羽柴(豊臣)秀吉からの、援軍要請の手紙を受け取った信長は、2日後の17日に、光秀に秀吉の毛利攻めを支援するよう命令をし、光秀はその日のうちに安土城を出て坂本城に向かっています。

一方の家康は、酒宴の後、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した後、21日に京都へ出発、この天正十年(1582年)5月29日に、京都から堺へ移動して堺見物をしたというわけです。

信長も、自ら毛利攻めの準備をするとともに、29日には京都・本能寺へ入ります。

役者が揃いましたね・・・そう、今日は、あの本能寺の変の2日前

昨年の本能寺の変のページ(6月2日参照>>)でも書かせていただきましたが、戦国最大のミステリーとも言われるこの信長襲撃事件・・・その実行犯である光秀の動機の曖昧さから、光秀の単独犯ではなく、黒幕がいたのではないか?との憶測を呼ぶのですが、今日は、この日、堺に滞在していた徳川家康・黒幕説について、ちょっと考えてみましょう。

もちろん、これは、仮説・空想・・・いわゆるトンデモ説という類の物ですが、真実を探求する歴史の専門家ではない以上、様々な角度から、色んな推理を働かせる事こそが、歴史の醍醐味だと思っていますので、史実を曲げない範囲の仮説を大いに楽しんでみましょう。

・・・・・・・・・・

・・・とは言うものの、やはり、通説としては、信長のワンマンぶりに絶えられなかった、あるいは、天下取りの野望をもっていた光秀の単独犯説なのですが、もし、黒幕がいるとすれば、最も有力なのは朝廷と天皇、もしくは15代室町幕府将軍・足利義昭・・・そして、信長傘下の武将では、秀吉と家康という事になるようです。

何と言っても、信長傘下の重臣の中で、光秀と秀吉は途中採用、家康にいたっては同盟関係の武将であって臣下と言えるかどうか・・・ですから、織田家譜代の柴田勝家丹羽長秀といった武将は、いくら実力があっても、黒幕説に名を連ねる事はありません。

・・・で、事件捜査の場合は、その動機という物が最も重要になるわけですが、光秀の場合に、その動機としてあげられるのは・・・

  • 丹波八上城攻めの時に、信長が約束を破ったため、人質になっていた光秀の母親が殺されたという一件
  • 冒頭に書いた信長と家康の酒宴の席に出た魚が腐っていたため、家康の目の前で、光秀がひどく罵倒されたという一件
  • 現在の領地・近江と丹波を没収し、出雲・石見に国替えを命じられたという一件

大抵、これらの理由があげられますが、実は、上記の3件はすべて後世のフィクションだという事が、ほぼ確定的です。

「よほどの恨みがない限り、光秀が事を起す事はないだろう」と考えた後世の人々が、造りあげた・・・というところでしょうか。

次に、秀吉ですが・・・
そりゃ、秀吉は、墨俣の一夜城や姉川のシンガリなど、かなりの命がけで、頑張ってきたでしょうが、それは、小者の秀吉が人の何倍もの早さで出世するための道であって、現実に何倍もの早さで出世しているわけですから、もし、動機があるとすれば、恨みではなく、天下への野望という事になりますが、この天下取りへの野望は、光秀も家康も抱いていた可能性もあります。

そして、最後に家康ですが・・・
実は、恨みを抱くなら、家康が最も抱いてもよい仕打ちを受けています。

例の妻・築山殿の殺害(8月29日参照>>)と、長男・信康の自刃(9月15日参照>>)・・・これは、一応、信長の命令により家康が行った事になっていますので、それが本当で、家康が泣く泣く手を下したのだとしたら、かなりの恨みを抱いていた事になりますが、この両ページで書かせていただいたように、徳川家分裂のお家騒動であった可能性もありますので、何とも・・・

しかし、この黒幕説の最も重要なところは、光秀が黒幕の指示通りに動くメリットがどこにあるのか?というところです。

黒幕が朝廷や将軍となると、ある程度のメリットは考えられますが、秀吉や家康では、よほどのメリットがない限り、光秀が、実行犯の貧乏くじを引くとは考え難いです。

そこで、登場するのが、三者協力説・・・

家康が安土で信長のご機嫌をとって油断を誘っておいて、秀吉が救援要請をして信長を安土から引っ張り出す・・・そして、一番近くにいる光秀が実行する・・・。

信長亡き後は、光秀が畿内を、秀吉が西国を、家康が東海を、それぞれ支配する密約が出来ていた・・・という物ですが・・・

結果的に、秀吉が山崎の合戦(6月13日参照>>)で、光秀を討った事は、間違いが無い事でしょうから、もし、事前に三人の密約があったとしたら、それを秀吉が破ったという事になります。

そうなると、今度は、光秀の重臣・斉藤利三(としみつ)への、秀吉の仕打ちが引っかかります。

利三は、光秀の妹の子供ではなかったか?と噂されるほど光秀が最も重要視した重臣で、筆頭家老でもあり、この本能寺襲撃を積極的に推し進めていたと言われている人物です(6月11日参照>>)

なんせ、彼の妹は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の妻・・・そう、ちょうどこの時、信長は四国征伐を開始すべく、三男・神戸信孝を大将に準備をさせていましたから、このままだと、利三にとっては、妹の嫁ぎ先を主君筋が攻める事になるわけですから、「それを阻止したい」という気持ちになる事は充分考えられます。

しかし、山崎の合戦の後に捕まった利三を、秀吉は、通常の斬首ではなく、身体を引き裂く「車裂(くるまざき)」という残虐な方法で処刑しているのです。

これを見る限りでは、秀吉は、本能寺襲撃という行為に激怒していた感があり、秀吉が協力していた・・・という事はないようにも思います。
もちろん、この処刑がポーズでなければ・・・という条件つきですが・・・。

それに対して、家康は、天下を取ったその後・・・
この利三の娘・お福を、後に3代将軍となる家光の乳母に取り立てています

ご存知、春日局です。

この春日局の登用に関しては、誰もが首をかしげたくなるところ・・・落ちぶれて、日々の糧にも困っていた彼女を、しかも、上記の通り、当時は謀反人と言われていた光秀の家臣の娘、さらに、すでに人妻だったのを離婚してまで・・・。

これには、家光が家康と春日局との間にできた子供であるから、という説もありますが、それならそれで、なぜ?家康は、彼女に手をつけたのか?という疑問も残ります。

以前、ドラマで描かれた「公募」という説もありますが、公募ならなおさら謀反人の娘が選ばれる事はないのでは?

むしろ、公募に見せかけておいて、実はウラでは最初っから決まっている・・・芸能界の新人女優発掘にありがちなパターンのほうが納得がいく人選です。

とにかく、このお福が謀反人・斉藤利三の娘である事は誰もが認めるところで、そのお福が春日局として大奥で大出世し、果ては幕府をも動かす権力を握る事も誰もが認める所

こうなると、家康とお福・・・いえ、本能寺の変の時、お福が4歳だった事を考えると、家康と利三の間に、何かがあったとしか考えられないのでは?・・・。

確かに、家康黒幕説は、かなりのトンデモ説ではあります。

が、しかし、まずは、家康のお福登用の謎を解かない限り、まったくのウソだと一蹴してしまうわけにはいかないような気がするのですが・・・。

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【その時、安土城では…】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
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北条・五代の年表

このページは、早雲~氏直まで、北条・五代にまつわる出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップという事で、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりませんので、年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました


Kamonhouzyouccm


・・・・・・・・・・

出来事とリンク 当主
1493 10 11 伊豆討ち入り
【北条早雲・伊豆討ち入り】
早雲
1495 2 16 小田原城・奪取
【騙して奪った小田原城】
1498 8 25 明応の大地震
【北条早雲・堀越公方に引導】
1504 9 27 立河原合戦
【関東の支配をめぐって】
1506 9 21 小笠原定基に誼を通じる
【物議をかもしだした早雲の手紙】
1512 8 12 岡崎城を攻撃
【悲願の相模制覇に向けて】
1516 7 13 新井城の攻防
【北条早雲・相模を制覇】
1519 8 15 北条早雲・没
【石橋を叩いて渡る北条早雲】
氏綱
1526 11 12 鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い
【鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い】
1538 10 7 第一次・国府台合戦
【小弓公方の最期】
1539 11 28 足利晴氏と北条氏綱の娘が結婚
【足利晴氏と北条氏綱の蜜月】
1546 4 20 河越夜戦
【戦国屈指の夜襲で公方壊滅】
氏康
1564 1 8 第二次国府台の合戦
【第二次国府台の合戦】
1568 12 12 薩埵峠の戦い
【武田信玄・駿河に進攻】
氏政
12 13 今川館の攻防戦
【武田信玄・駿河を攻略】
12 27 掛川城・攻防戦
【今川氏・滅亡】
1569 1 18 第2次薩埵峠の戦い
【武田VS北条~第2次薩埵峠】
6 17 氏政と離縁した黄梅院殿が死去
【乱世に咲いた可憐な花・黄梅院】
10 6 三増峠の戦い
【三増峠の戦い】
12 6 蒲原城・落城
【武田信玄が蒲原城を攻撃】
1571 3 27 深沢城攻防戦
【信玄・強気の深沢城矢文】
10 3 北条氏康・没
【謙信・信玄に撃ち勝った名将】
1579 3 17 氏政の弟・氏秀(上杉景虎)自刃
【謙信の死後・御館の乱】
1582 6 18 神流川の戦い
【本能寺の余波!神流川の戦い】
氏直
10 29 徳川と北条の和睦
【天正壬午の乱で徳川と和睦】
1587 5 6 北条綱成が没す
【「地黄八幡」の闘将…北条綱成】
1589 10 23 名胡桃城奪取事件
【小田原征伐のきっかけ】
11 1 北条幻庵が死去
【北条氏の長老軍師~北条幻庵】
11 24 秀吉が北条へ宣戦布告
【小田原征伐!宣戦布告状】
1590 3 29 山中城落城
【秀吉の小田原征伐・開始】
【小田原征伐・オモシロ逸話】
4 3 小田原城包囲
【秀吉VS北条の持久戦】
5 29 館林城が陥落
【館林城・攻防戦と狐の尾曳伝説】
6 9 忍城攻めで堤防構築
【水の要塞・忍の浮城】
6 16 忍城攻めで堤防が決壊
【留守を守った成田夫人と甲斐姫】
6 23 八王子城・陥落
【悲惨な戦い・八王子城・攻防戦】
【八王子城の怖い伝説】
6 26 対の城・石垣山一夜城・完成
【石垣山一夜城の謎】
7 5 小田原城・落城
【城攻めの秀吉VS籠城の北条】
【小田原城・開城への道】
1591 11 4 北条氏直が死去
【北条氏直の肌の守りと督姫と】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【天下人だけが成しえた城割の重要性とは?】
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】
【戦国武将と茶の湯の流行】
【政略結婚と女性の役割】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【戦国から江戸の城の変貌】

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2008年5月28日 (水)

在原業平~伊勢物語に見る藤原氏への抵抗

 

元慶四年(880)5月28日、六歌仙・三十六歌仙の一人で平安一のモテ男在原業平が56歳でこの世を去りました

・・・・・・・・・・・

むかし男ありけり・・・で始まる『伊勢物語』
 

男は、ある女と恋仲になり、毎夜、彼女のもとへ通っておりました。

しかし、ある時、男がいつものように彼女の家に行くと、彼女の姿がありません。

実は、彼女は、高貴なお方のもとへと嫁ぐ事か決まり、その準備のため親戚の家へと、移っていたのです。

会えなくなってしまった二人・・・。

男は、何とか、かの家へ忍び込み、「このまま、一緒に逃げよう!」と誘います。

もちろん、彼女の返事も「OK!」

そして、彼女を連れて逃げる途中、芥川という川まで来ると、突然の雷雨に見舞われ、近くにあった倉で、雨をしのぐ事にします。

彼女は、倉の中で休み、男は戸口に立って弓を構え、怪しい者が近づかないよう見張ります。

しかし、この倉の中には鬼が住んでいたのです。

鬼に襲われた彼女は、悲鳴をあげて男を呼びますが、轟く雷鳴にかき消されて、戸口にいる男には聞こえません。

夜が開け、雨もあがったので、「さぁ、再び出かけよう」と、男は倉の中に彼女を迎えに入りますが、すでに彼女の姿はありませんでした。

鬼に食べられてしまっていたのです。
 

これは、『伊勢物語』(全百二十五段)第六段・芥河のお話・・・
この男というのが、在原業平(ありわらのなりひら)です。

彼は、この伊勢物語の中で、会う女、会う女、すべてに
「僕が、ずっと探していたのは、あなただ!」
なんて、甘い言葉をのたまい、次々とモノにしていく女大スキ男です。

なんと、その数、3733人!(←数えたんかい!)

あの小野小町(3月18日参照>>)でさえ落としたという噂のあるツワモノです。

ただし、彼を町でひと目見ただけで恋に落ち、そのままこがれ死にしてしまう女性もいるくらいの超イケメンでもあります。

しかも、亡くなった彼女に・・・
♪ゆくほたる 雲の上まで いぬべくは
  秋風吹くと 雁につげこせ♪

「蛍よ・・・雲の上まで飛べるなら、そろそろ秋風が吹いていると、雁(雁は死者の霊を運ぶとされていたので・・・)に伝えてよ」
なんて、歌も詠んであげるアフターサービスも・・・そら、モテるわな。

彼の、華麗なる女遍歴を描いたこの伊勢物語は、あの源氏物語にも影響を与えたと言われる恋物語の傑作・・・その中の逸話には、事実とされる物と、後の誰かが付け加えたフィクションとが入り混じっているようですが、スケベ男のただの恋愛話ではなく、そこには、藤原氏という大きな権力によって、エリートコースからはじき出された皇子の、ささやかなる抵抗が見え隠れするのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

業平は、第51代・平城天皇の孫という由緒正しき家柄・・・世が世なら、何の苦労もなく、平穏無事な暮らしをしていたのでしょうが、平城天皇が皇位を弟の嵯峨天皇に譲った後に、揉め事が起こってしまいます。

例の藤原薬子の乱です。(9月11日参照>>)

この乱に失敗した平城天皇は出家し、息子の阿保(あぼ)親王(つまり、業平のお父さん)大宰府に左遷され、業平が18歳の時に、悲運のまま亡くなります。

当然、業平もエリートの道から外れる事になります。

しかし、やがて、嵯峨天皇の孫である第55代・文徳天皇が皇位につき、業平にも少し希望の光が見えはじめます。

文徳天皇の長男・惟喬(これたか)親王・・・実は、業平は、この惟喬に仕えていて、それも、かなりの信頼関係にあった事で、この親王が皇太子となり、やがて天皇になってくれれば、業平にも出世の道が開けるはずです。

しかも、文徳天皇は、文武に秀でた惟喬親王をたいへん可愛がり、ほぼ皇太子の座は決まったも同然でした。

ところが、ここに来て大どんでん返しが訪れます。

あの第45代・聖武天皇の時に外戚(天皇の母方の祖父)をゲットして以来、権力を握りたいがために、次から次へと天皇への娘送り込み作戦を続けていた藤原氏・・・っで、時の藤原氏の筆頭・藤原良房(よしふさ)も、自分の娘・明子(あきらこ)を文徳天皇のもとへ送り込んでいたのですが、この明子が男の子・惟仁親王(後の清和天皇)を出産すると、わずか生後8ヶ月で、この惟仁親王を皇太子にしてしまうのです。

悲痛の惟喬親王は、山中に籠ってしまいます。

まだ、飽き足らない良房は、さらに、その第56代・清和天皇にも、藤原家の娘を嫁がせようとします。

それが、姪の高子という女性・・・実は、この高子が、冒頭の伊勢物語に登場した高貴なお方のもとに嫁ぐ彼女です。

つまり、業平は天皇の女御(にょうご)となる女性を奪って逃げたわけです

もちろん、倉の中の鬼は、本当の鬼ではなく、良房の事・・・彼女は鬼に食べられたのではなく、藤原氏の追手によって、連れ戻されたのです。
 

そして、伊勢物語の終盤、第百二十四段我ひとしき人で、満開の藤の花を愛でながらの酒宴の席で、歌人としても有名な業平は、「藤の花にちなんで、藤原家の繁栄を歌に詠んでくれ」とせがまれます。

彼がどのような歌を詠むのか?人々が固唾を呑んで見守る中・・・
♪思ふこと いはでぞただに やみぬべき
  われとひとしき 人しなければ♪

「思った事はそのまま口にしないほうがいい、自分と同じ考えの者など、この世にいないのだから・・・」

周囲がざわつく中、彼はその場を立ち去ります。

Narihirafutaizicc 阿保親王と業平の住まいだった不退寺(奈良市)
不退寺への行き方はHPでどうぞ>>
 

最後に、伊勢物語は、第百二十五段つひにゆく道で、この男(業平)の最後の歌を載せ、物語を終らせます。
♪つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど
  きのふけふとは 思はざりしを♪

「最後には誰もが行く(死への)道だとは聞いていたが、それが昨日今日というくらい身近に迫っているとは思わなかった」
 

若き日の姫の略奪、晩年の酒宴の歌・・・これらは、藤原氏という大きな権力に対する業平のささやかな抵抗だったのかも知れません。
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2008年5月27日 (火)

日本海海戦・伝説の東郷ターンは?

 

明治三十八年(1905年)5月27日、東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊と、ロシア・バルチック艦隊日本海海戦にて連合艦隊が勝利しました。

・・・・・・・・・・・・

これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…

・‥…━━━☆

明治三十七年(1904年)2月10日の、日本からロシアへの宣戦布告で始まった日露戦争(2月10日参照>>)は、仁川沖海戦(2月9日参照>>)黄海海戦(8月10日参照>>)に勝利しておおむね日本優勢で、戦局は進んでいました。

翌年の1月には、203高地を占領する事によって、難攻不落と言われた旅順(りょじゅん)を砲撃範囲の収めて陥落(1月2日参照>>)、3月には、日露戦争最大の陸戦であった奉天(ほうてん)会戦にも勝利します(3月10日参照>>)

しかし、結果的には陥落・占領してはいますが、その過程では、大きな犠牲を払っていましたから、人員・弾薬ともに底をつき、もはや、先は見えていました。

一方のロシアは、先の旅順・奉天では負けたとは言え、未だロシア本土を占領されたわけでもなく、極東へ派遣している兵士の数も、全体から見れば半数ほど・・・さすがは、大国、まだまだ、いくらでも戦える状態でした。

その最たるものがバルチック艦隊です。

ロシアには、極東に配備している太平洋艦隊と、ヨーロッパに配備しているバルチック艦隊とがあり、日本を相手に戦っているのは、太平洋艦隊・・・その中のさらに枝分かれした主力の旅順艦隊と、神出鬼没にゲリラ作戦を行うウラジオストック艦隊の二つでした。

しかし、日本の優勢を見たロシアは、バルチック艦隊を極東へ派遣する事を決定し、明治三十七年(1904年)10月15日、母港・リバウ軍港を出航します。

このバルチック艦隊が、太平洋艦隊と合流してしまっては、一気に形勢が逆転しかねませんから、バルチック艦隊を無傷でウラジオストックへ入港させる事は、何としてでも阻止しなければなりません。

・・・で、その前に・・・
連合艦隊は、まず、旅順の陥落で、居場所を失った旅順艦隊を、黄海海戦で大破させ、その直後、たまたま遭遇したウラジオストック艦隊を蔚山(うるさん)沖海戦で壊滅状態にさせました。

残るは、今現在、極東に向かっている最中のバルチック艦隊・・・しかし、これが、朝鮮海峡を通るのか?、津軽海峡を通るのか?、それとも宗谷海峡を通るのか?

はなから、バルチック艦隊よりも、総艦隊重量が劣る連合艦隊を、三つに分散させての迎撃は不可能ですから、どこかの一つのコースに絞るしかありません。

ここで、連合艦隊最高司令官・東郷平八郎は、朝鮮半島に賭けます。

いえ、これは賭けではありません。
緻密な計算のもと、はじき出された結果なのです。

実は、このための、黄海海戦であり蔚山沖海戦でした。

太平洋艦隊が壊滅状態となった今・・・バルチック艦隊は、一刻も早くウラズオストックへ向かおうと、最短距離である朝鮮海峡を通るに違いないと、東郷は予想したのでした。

果たして5月26日・・・バルチック艦隊の輸送船が上海に入港したという知らせが届きます。

ここで、東郷の予想は確信へと変わりました。

かくして、日本近海に数十隻の船を配備し、警戒にあたる中、運命の明治三十八年(1905年)5月27日午前2時、五島列島西方の信濃丸から・・・

「敵の戦艦見ゆ」
無線が発進されます。

これを聞いた東郷は、すぐに全艦を率いて、西へ・・・
「ただちに出動・・・本日晴天なれど波高し」
と打電します。

午後1時半、沖ノ島西方にて敵艦を確認・・・旗艦・三笠にZ旗が掲げられました。

正面から全速力で、バルチック艦隊に向かって行く連合艦隊・・・

両艦隊の距離は8500m・・・しかし、東郷は何の指示も出しません。

さらに、距離は縮まって8000m・・・
まだ、指示はありません。

我慢できなくなった部下が「どうされますか?」と・・・
その時、高々と右手を挙げ、おもむろに左に円を描いて下ろします。

取り舵いっぱい・・・全艦が一斉に左へと船首を向けます。

Nihonkaikaisenzucc (このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

これが、伝説の東郷ターン・・・この陣形は、敵の進行方向を横切る形で、攻撃を加える事からT字戦法と呼ばれました。

そして、距離が7000mにまで、近づいた時、バルチック艦隊の先頭に位置していたスワロフから31インチ砲が放たれ、それが合図であったかのように、次ぎから次へと砲撃を仕掛けてきました。

敵の一番の目標は、やはり東郷が乗る旗艦・三笠でしたが、こちらは、未だ砲撃せず、敵の砲撃をかいくぐって、さらに近づきます。

やがて、距離が6500mまで近づいた時、連合艦隊は一斉に砲撃を開始し・・・その砲弾は、正確に敵艦隊に着弾し、大打撃を与えるのです。

勝敗は、わずか30分で決し、バルチック艦隊は散り散りになって敗走しはじめます。

さらに、これを追い、次々と敵の戦艦・巡洋艦・駆逐艦を撃沈・・・午後7時に、連合艦隊・本隊の攻撃は終了しますが、その後は、小回りのきく駆逐艦・水雷艇によって、夜を徹しての追撃を加えました。

結局、40隻あった艦隊の中で、最終的にウラジオストックへ逃げ込む事ができたのは、巡洋艦1隻と、駆逐艦2隻の、わずか3隻でした。

まさに、日本海海戦は、連合艦隊の空前の勝利となります。

バルチック艦隊・全滅の知らせを受けたロシア皇帝ニコライ2世(あの大津事件の・・・5月11日参照>>)は、ついに講和を決意したのです。

冒頭に書かせていただいたように、これ以上、日露戦争を続けていく事が不可能だった日本にとっては、戦争長期化による敗北を免れる事ができたわけです。

・‥…━━━☆

もっとも、近年では、この伝説の東郷ターンは無かったのではないか?という説も多く囁かれます。

・・・というのも、艦隊のトン数こそ、ロシアが80万トン、日本が25万トンという大差があるものの、ロシアが大きな戦艦をいくつか所有しているかわりに、日本は巡洋艦・駆逐艦・水雷艇などの小さめの船をロシアの数倍持っていた事

備えている砲門の数も日本がロシアの倍近くあった事、また、薬の性能も、日本のほうが上だった事などを考えると、あえて奇抜な方法を取る事もなく、正攻法でも勝てたはずだから・・・なのだそうです。

この海戦のキーポイントは、バルチック艦隊が、ウラジオストックに入港する前に、発見して射程距離に収められるかどうかであって、朝鮮海峡に網を張り、そこにバルチック艦隊が現れた時点で、連合艦隊の勝利は、ほぼ決まったような物だったとも推理できるわけです。

確かに、バルチック艦隊は、母港を出てから7ヶ月・・・途中の港に、ほぼ、立ち寄る事なく、延々と航海を続けて、ここまでやってきたわけで、乗組員たちは、もう、それだけでヘトヘト状態。

逆に、ここで待ち伏せている連合艦隊のほうは、充分な補給・休養がとれていたのですから、勝つべくして勝った戦いだったのかも知れません。

しかし、歴史を楽しむ立場から見れば、やはり伝説の東郷ターンは魅力的!

ただ、この、あまりにもパーフェクトな勝利は、海軍全体に大艦隊&大型戦艦がベストという考えを生む事になります。

日本は、あの真珠湾で、自らが戦闘機の時代の幕開けを見せつけておきながら、戦艦大和が海のもくずとなるその日(4月7日参照>>)まで、この日の大戦艦ベストという夢を追い続けてしまう事となるのです。

●海戦に興味アリの方は・・・11月7日【あの東郷ターンを生んだ武田信玄の甲州水軍】もどうぞ>>
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2008年5月26日 (月)

長宗我部元親・初陣!長浜表の戦い

 

永禄三年(1560年)5月26日、土佐(高知県)中央部をめぐって長宗我部国親VS本山茂辰長浜表の戦いでの長浜城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・

四国土佐の中央部・・・土佐郡や吾川郡を支配する本山氏と、加美郡などを支配する長宗我部氏では、その領地の境界線をめぐって、たびたび争いが繰り返されていました。

しかし、ここにきて、公家の血筋である土佐の国司・一条房家が間に入っての本山清茂の息子・茂辰(しげとき)と、長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)の娘との結婚が成立し、両氏の関係は良好なものになりつつありました。

しかし、永禄三年(1560年)に入って間もなく、茂辰の家臣が、長宗我部方に属する船を襲撃し、船頭を殺害、積荷の米を略奪する・・・という事件が起こってしまいます。

茂辰は、この一件を、一家臣の個人的かつ勝手な行動であり、自らの関与を否定しますが、もともと房家の顔を立てての結婚、はなから仲が悪かった両氏ですから、このような事があると、一発で長宗我部が色めき立つのは当然の事・・・

ちょうど、その頃の本山氏は、持ち城である長浜城(高知市)の修復中で、この工事に、国親の元家臣・福留右馬丞が関わっている事を知った国親・・・。

早速、城内にいる右馬丞と連絡を取り、永禄三年(1560年)5月26日この城に夜襲を仕掛けたのです。

味方であると思っていた長宗我部の軍勢に、ふいに襲われた長浜城は、あっけなく陥落します。

寸前のところで奇襲を知り、命からがら脱出した長浜城主・大久保美作守は、すぐに、その足で、茂辰のいる朝倉城へと、敵襲を報告します。

報告を受けた茂辰は、2千の兵を率いて、翌27日、長浜城への救援に駆けつけ、一方の国親も、これを迎え撃つべく千の兵を用意・・・両者は、28日早朝、長浜城外の戸の本でのぶつかりをきっかけに合戦へと突入します。

長浜表(ながはまおもて)の戦いです。

そして、この合戦で、初陣を果たしたのが、国親の息子・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・。

この時、元親、22歳・・・戦国という時代においては、まれに見る遅さの初陣です。

それもそのはず、彼は小さい時から、無口でおとなしい性格・・・人に会っても、まともに挨拶もできないくらい引っ込み思案の子供でした。

さらに、見た目も色白で、いかにもひ弱そう・・・しぐさも女っぽくって、家臣たちからも「姫若子(ひめわこ)=つまり、おネェ系とバカにされ、父の国親でさえ、彼の事を「うつけ」と呼んでいたのです。

22歳という遅い初陣は、いかに彼が期待されていなかったかの証拠・・・しかも、その時、槍の使い方がわからず、側近の泉寺豊後(じんぜんじぶんご)に、慌てて教えてもらったというエピソードも残っていますから、相当、期待されてなかったんでしょうねぇ。

・・・で、とりあえずその泉寺さんは・・・
「敵の目を狙って突きなされ!」との指示。

ところが、いざ合戦が始まると、元親は50ほどの手勢を引き連れ、敵のど真ん中に突入!

自らも、その槍で敵・二人を突き倒し、その勢いで本陣にまで突入し、倍ほどの数の差をものともせず、味方を大勝利に導く活躍ぶりでした。

世間の風って、ホント変わり身が早い・・・元親につけられていた「姫若子」のニックネームは、この日をさかいに「土佐の出来人(できひと)と変わり、彼は一目置かれる存在となるのです。

そして、元親の大活躍で、勝利に終った長浜表の戦いでしたが、そのわずか半月後の6月15日、父・国親は急死してしまいます。

死の直前、彼が、息子・元親に残した遺言は・・・
「ワシへの供養は、本山を討つ事以外にはないと思え!」
・・・って、オヤジも変わり身、早いやんけ!
(こないだまで、「うつけ」て言うてたくせに(^o^;)・・・う~んパパったらぁ)

もちろん、ご存知のように、この後の元親は、「土佐統一」という父の夢を受け継いで、近隣勢力を次々と攻略していく事になるのですが・・・

この続きのお話は4月7日【永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂】でどうぞ>>
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2008年5月25日 (日)

「天璋院・篤姫展」に行ってきました~

 

一昨日、大阪歴史博物館で開催中の『天璋院・篤姫展』に行って参りました~。

Atuhimecc 大河ドラマが好調なだけあって、平日にも関わらず、けっこうな人出ではありましたが、いっぱいで見られない~」ってほどではありませんでした・・・
(しっかりと2時間半ほど見物させていただきましたし・・・)

ただ、「篤姫愛用の小袖やお嫁入り道具の数々・・・」とパンフに書かれていたせいでしょうか、女性の多さにびっくりです!(←自分もだろ!)

しかも、ちょっぴり平均年齢が高いゾ!(←自分もだろ!)

・・・・・・・・・・・・

入り口を入ると、まずはプロローグとして・・・
「篤姫のふるさと薩摩」

家系図や、鹿児島城下の細かい絵図等・・・
しかし、やはり女性として目を惹かれるのは、美しい薩摩切子のお皿や瓶、そして、薩摩焼の壷やお茶碗などなど・・・なかでも、紅色のお皿には、しばし目を奪われ、陶酔しきってしまいました~

そして・・・
第一章「御台所への道のり」

ここでは、黒船の絵図ペリーの肖像画とともに、篤姫の縁談を画策する島津斉彬の書状がたくさん!
中でも、伊達宗城(むねなり)宛ての書状には、篤姫が正室ではなく、側室として迎えられる可能性が生じた事を報告する生々しい物もあります。

この直後に、「斉彬の実子であれば正室として迎える」となり、於一(おかつ)から篤姫と改名して実子届けが幕府に提出されたそうです。

また、近衛忠熙(このえただひろ)との養子縁組が決まり、そのお礼の口上を書いて、篤姫自らが「あつ」と署名した貴重な書状があるのもこのゾーンです。

次に・・・
第二章「婚礼~将軍家定と敬子(すみこ)~」

ここでは、篤姫の夫となる将軍・家定さんの肖像画や、具足もさることながら、個人的興味はその書状と絵画・・・予想以上になかなかの腕です。

書状の文字はしっかりと、絵は繊細で美しく・・・

さらに、このゾーンの篤姫さまの品は、何と言っても、お化粧道具・・・
塗りの美しさ、細工の見事さ・・・薩摩切子の香水瓶薩摩磯御庭焼(いそおにわやき)の香炉と置物

女性はこのゾーンに釘付けです。

第三章「江戸城大奥」

家定さんと死別した篤姫は天璋院となり、その後の将軍職を次いだ家茂(いえもち)のもとへ、公武合体の期待を背負って嫁いできた孝明天皇の妹・和宮

このゾーンこそ、私の一番の期待大ゾーン・・・そう、天璋院と和宮の衣装が展示されているのです。

お二人の衣装を見比べてみると・・・
何となく、和宮さんは、淡い色合いのパステル調・・・天璋院さんは、濃い紫や濃いグリーンの渋い感じの色合い・・う~ん、思い描くお二人のイメージぴったりのお衣装に感激です!

さらに、感動モンは雛道具・・・直系1cm~2cmほどのお椀やお皿、さらにその大きさに見合うお箸、お裁縫道具、果ては貝合わせの貝にまで細かな細工と塗りがほどこされているのです~もう、見事!参りました!

第四章「幕府瓦解(がかい)~徳川家存続への思い~」

いよいよ時代が動きます。

三代将軍・家光以来、229年ぶりに京都・二条城(5月1日参照>>)へと入った家茂・・・その陣羽織や、長く江戸を離れる家茂を心配する天璋院の手紙が、来るべき動乱を暗示させます。

そして、例の官軍隊長宛ての天璋院の手紙(4月11日参照>>)・・・写本ではありますが、やはり、これは・・・あの江戸城無血開城にも関係する物ですからね。

最後は・・・
エピローグ「明治の天璋院」

あの有名な断髪をした天璋院さんの肖像写真をはじめ、天璋院らの努力で存続する事となった徳川家の16代当主・家達ゆかりの品々・・・この後の天璋院は、この家達の養育に力を注ぐ事となり、やがて成長した家達に、若きあの日、自らが養女となった近衛家からのお嫁さんが決まり、天璋院は役目を終えたかのように、この世を去るのです。

ゾーンの最後には、明治を迎えた島津家の写真や、家達さんの婚礼の写真などが並びます。

・・・・・・・・・・・・・

出口を出たところに、案の定ショップが・・・

高額だとウワサの図録・2300円を張り切って購入・・・

確かに、お値段はしますが、その分かなりのボリュームで見ごたえアリです。

こういう展示会での図録は、私にとって最優先の購入アイテムです。
なんせ、忘れっぽいもんで・・・

・・・で、さぁ、帰ろうとエレベーターに向かうと、その横にデ~ンとポスターが・・・

そのポスターには、あの幾島の衣装を身にまとって、微笑みかける松坂慶子さんの姿が・・・

「何のポスターだろう?」と、よ~く見ると・・・
『音声ガイド=500円』とあります。

確かに、音声ガイドの器具は、入り口に置いてあったし、500円って書いてあるのも見ました。

しかし、私は、音での情報は、左耳から入って右耳へ抜けるタイプの人間なので、普段から音声ガイドはほとんど利用しません・・・なので、今回も「別にいいや!」と思って利用しなかったんですが・・・

その松坂さんのポスターには・・・

「わたくし、幾島がご案内いたします」
エェ~っ!!それなら聞いてみたかったよ!

しかも・・・
「ドラマの挿入曲をバックに臨場感バツグン!」
ドヒャ~っ!!

さらに・・・
「老女自らが語る西郷隆盛との秘話」
ナ~upニ~up(クールポコ風に・・・)
どんな?どんな?どんな秘話が語られるの?

そんなぁ・・・帰り道にポスター貼られても・・・(ToT)

私も・・・
「幾島、これは何じゃ?」
「ハイ!姫様、これは篤姫様のお嫁入り道具にございます」
・・・て、やってみたかったなぁ・・・

入り口に、このポスターが貼ってあったのかどうか確認しに行こうかとも思いましたが、怪しまれそうなのでやめました。

(ちゃんと貼ってあって、私が見てないだけかも知れませんが・・・)
大阪歴史博物館さま~、こんなオモシロイのがあるんなら、できれば、アホな私でも絶対に気づくような、入り口の一番目立つところに、ポスター貼ってくだせぃ・・・おねげぇしますだ。

さすがに、再び1000円の券を買って、もう一度入場するわけにもいかず・・・涙を呑んで帰ってきました~グスン。

ちなみに、大阪歴史博物館での『天璋院・篤姫展』は6月1日まで開催されています。

その後は、この篤姫展・・・全国(東京はすでに終了したようです)を巡るようなので、皆様のお近くの博物館で開催される時には、このページをちょぃと参考にしていただければ幸いです。

★追記上記の記事で、「全国」と書いてしまいましたが、どうやら今のところ、東京(終了)大阪(開催中)鹿児島(9月6日~)の3箇所での開催の予定だそうです。
まぎらわしくて、申し訳ありませんでした~
 

Atuhimekosodecc 今日のイラストは、

篤姫展にも出品されていた篤姫さまの小袖・・・
萌黄縮緬地雪持竹雀紋様牡丹紋付をデザインさせていただきました~。
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2008年5月24日 (土)

木簡に万葉歌!「紫香楽宮=しがらきのみや」って?

 

昨日、平成九年(1997年)に、滋賀県紫香楽宮(しがらきのみや)跡から出土した木簡に、万葉集の収められている一首が書かれてあったというニュースが新聞紙上を賑わしました。

4500首以上の歌が収録されている『万葉集』ですが、その中の歌が木簡に書かれている状態で見つかったのは初めてなのだとか・・・

しかも、それが、万葉集が成立する以前に、書かれた可能性が高いとなると、さらに、ワクワク・・・様々な想像をかき立てられます。

♪安積香山(あさかやま) 影さえ見ゆる 山の井の
  浅き心を 我が思わなくに♪

この歌に登場する安積香山福島県にある山で、その昔、橘諸兄(たちばなのもろえ)(11月11日参照>>)が東北に派遣された際、現地の役人の態度に不満を抱いていたところ、采女(うねめ・身の回りの世話をする女官)がこの歌を詠み、諸兄のご機嫌をとった歌なのだそうです。

さらに、興味深いのは、この歌の裏面に、もう一つの歌が書かれていた事・・・

♪難波津(なにわづ)に 咲くや木の花 冬こもり
  今を春べと 咲くや木の花♪

こちらの歌は、仁徳天皇の統治によっての国の繁栄を願って渡来人の王仁(わに博士が詠んだとされる歌で、7世紀後半以降の遺跡から、すでに30ほど、この歌が書かれた木簡が出土しているそうで、古代から有名だった歌とされています。
王仁博士については、本家HP「京阪奈ぶらる歴史散歩」の大阪歴史散歩・王仁墓から津田城跡で紹介しています>>…別窓で開きます)

このような、歌が書かれた木簡は、儀式や宴会の時に使用されたと考えられているそうですが、実は、この二つの歌・・・『古今和歌集』仮名序(かなじょ・序文)で、「歌の父母のようで、手習いをする人が初めてふれる歌」として紹介されている2首なのです。

『源氏物語』でもて習いの歌として、この2首がセットになって登場します。

この木簡の出土した紫香楽宮の時代を考えると、この2首がセットで扱われはじめたのが、古今和歌集よりも150年も古い計算となります。

「難波津の歌」のほうは古い時代からあったとしても、「安積香山の歌」は、果たして、この紫香楽宮で初めて詠まれ、木簡に記された物なのか?

それとも、すでに、この時に手習いの歌として、子供たちに教えるために木簡に書かれた物なのか?

もちろん、それらの解明は、専門家のかたがたの手にゆだね、楽しみに待つほかはないのですが、それにしても、この木簡が発見された紫香楽宮・・・

歴史に、あまり興味の無いかたから見れば「そんな場所が首都だった事があるの?」とお思いになるでしょうが、それも無理の無いところです。

なんせ、実際に都として機能していたのは、天平十七年(745年)1月1日に新京となってから、半年くらいの短い期間であっただろうと言われている場所・・・

以前書かせていただいた第45代・聖武天皇が、天然痘から逃げまくっていた時に、点々とその居場所を変えた・・・あの都なのです。(12月15日参照>>)

伝染病を抑えたい一心で、各地に国分寺建立の命令を出し、遷都に次ぐ遷都で、次から次へと都を造営・・・。

おそらく、それらの建造物を建てる側の一般庶民たちには、血税を湯水のごとく使われ、働き盛りの男どもは人夫としてかり出され、とてもじゃないが歌を詠む余裕すらなかったと思いますが、そんな時に、宮中では、歌が詠まれていた・・・

これを優雅というか、何というか・・・

少し「おいおい!」と、宮中の皆様に突っ込みを入れたくもなってしまいますが、なんせ、時代が時代・・・病への対処法は祈りしかない頃ですからねぇ・・・。

現代なら、おそらく、こういう場合は、国立の立派な病院を建ててくださり、多くの患者を救ってくださる事でしょうから、今日のところは、しばし、万葉のロマンに思いを馳せる事にいたしましょう。
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2008年5月23日 (金)

明治の珍事件~風の神様の落し物?~初の気球実験

 

2日連続の明治の三面記事的事件ですが・・・今日のは、大いに笑える珍事件です。

明治十年(1877年)5月23日のお昼過ぎ、千葉県東葛飾郡堀江村(浦安市)小さな漁村で、それは起こります。

朝からの漁も終わり、船や網の手入れなどしながら、村の漁師たちが浜辺でおしゃべりをしてる・・・そんな、のどかな、いつもと変わらぬ風景の中、ふと、空を見上げると、北西の方角から、何やら巨大な物体が近づいてきます。

「何じゃ?アリャ」
「クラゲのバケモンか?」

それは、空から落ちてくる・・・というよりは、ふわりふわりといった感じで、ゆっくりと降りてきます。

やがて、それは、浜辺にストンと・・・

近づいてみると、いやはや、思った以上に大きい・・・

その物体の高さは九間(約16m)幅五間(約9m)周囲十七間(約30m)

大きな球形の物体で、全体に太い綱が張り巡らされていて、その綱の内部には、綱に沿うような形で、猫の皮のようなヌメっとした白い物が納まっています。

しかも、その綱の内側の物は、クラゲのようにブヨブヨ・・・。

おりからの風にあおられ、物体は、浜辺の上を回転しながら、あるいは、ズルズルと引きずられるように動き回ります。

知らせを聞いた村人が続々と集まってきて、浜辺は大騒ぎです。

「なんや、ラッキョウの化け物みたいやな」
「いや、デッカイ袋のようやで」
「ひょっとしたら、風の神さんの落し物やないかい?」

そう言いながら、はじめは遠巻きに見ていた漁師たちも、やがては、そのヌメヌメした皮の部分をさわりはじめる者、船の櫂(かい)でつっつきはじめる者・・・イロイロです。

しかし、コチラをつっつけば、アチラがポコンと膨れあがり、アチラをつっつけば、またコチラがポコンを膨れあがり・・・やがて、力自慢の若者が、「オリャ~」とばかりに力任せに蹴りあげると・・・

鈍い音とともに、皮が破れたかと思うと・・・プシュ~ッ!!!
その裂け目から、大量の臭いにおいの空気が、風のように吹き出しました。

「うわぁ!毒吐きよった!」
「逃げろ!逃げろ!」

もう、腰を抜かす者。
あわてて転ぶ者。
毒気をあびて倒れる者・・・

あたりは騒然となります。

・・・で、後に判明するのですが・・・

実は、この明治十年という年・・・そう、頃は、ご存知、西南戦争(2月15日参照>>)の真っ只中であります。

その西南戦争が始まったばかりの3月に、西郷軍に包囲された熊本城は、何とか籠城作戦で守りきり、その後の田原坂での勝利(3月20日参照>>)によって無事だったもの、50日間という長きわたって、城は孤立状態となり、中と外でまったく連絡が取れないという、とても危険な状態となっていました(4月15日参照>>)

そこで、新政府軍は、緊急時の連絡用の新兵器の開発馬場新八に依頼していたのです。

それは、奉書紙(ほうしょがみ・キメの細かい厚手の和紙、130反(1反=約11m)をミシンで縫い合わせ、表面にゴムを塗った風船状の物で、中に蒸気ポンプで瓦斯(ガス)を送り込み、綱を編んだ物をかぶせて、その綱から伸びた先に、籠を取り付け、そこに人間が乗って、空を飛ぼうというシロモノでした。

Sainansensoukikyuucc つまり、軍事用の気球だったという事です。

明治十年(1877年)5月23日築地の海軍兵学校で行われた実験では、海軍はもちろん陸軍の軍人・関係者が多数見守る中、金杉の瓦斯会社から運ばれた瓦斯を注入された2個の気球が、空高く舞い上がる・・・予定だったのですが・・・

残念ながら、一つの気球は、飛行直前に破裂。

・・・で、もう一つが、上記の大騒ぎの気球だったわけです。

コチラは、飛ぶには飛んだものの、つないでいた綱が切れ、あれよあれよという間に、風に乗り、東南の空へと消えてしまっていたのでした。

これが、日本初の気球の実験でした。

結局、この西南戦争で、実際に気球が使用される事はありませんでしたが、その後、気球は、イベント用の見世物として、一般の人々の知るところとなります。

やがて訪れた暗い時代には、日露戦争偵察用に使用されたり、太平洋戦争風船爆弾として、その技術が、軍事用に引き継がれていく事になりますが、現在は、ご存知のように、夢あふれる乗り物として、その飛距離を競うスポーツとしてもお馴染みですね。

それにしても、何も知らされていなかった明治の頃の一般庶民は、さぞかし驚いた事でしょうね。

「風の神さんの落し物」・・・なんだかわかる気がします。
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2008年5月22日 (木)

夏目漱石をも悩ませた一高生の投身自殺

 

明治三十六年(1903年)5月22日、第一高等学校一年生の藤村操(みさお)さん18歳が、日光・華厳(けごん)の滝にて、投身自殺をはかりました

・・・・・・・・・

当時の新聞報道によりますと・・・
“22日の5時頃、旅宿に命じてビール少しばかりを呑み、鶏卵を食し、服装を整えて華厳の滝に至り、ここを死地と定めて懸崖(けんがい)の巌端より、滝壺めがけて真向に身を躍らし、永劫の眠を致せしものならん”
とあります。

時は明治三十六年(1903年)・・・日露戦争を前にした人々の不安が、重苦しく感じはじめた頃。

ずいぶん前の、尾崎紅葉さんのご命日に『金色夜叉』の大ヒットのお話(10月30日参照>>)を書かせていただきましたが、ちょうどその頃、急激に資本主義が勢いを増し、世間には成金が登場し、高学歴&高収入が一番理想的という考え方が目立つようになった時代背景がありました。

そんな時、エリート中のエリートで未来を約束されたような存在である一高生が、突然自殺する・・確かに、センセーショナルではありますが、それだけなら、一学生の自殺事件として、さほど話題にもならなかったかも知れません。

ところが、この学生が、かたわらに立つ大樹をナイフで削って、『巌頭(がんとう)之感』なる遺書を残していた事で、一大事件として報道される事になるのです。

その文とは・・・
“悠々たる哉(かな)天壌
 遼々たる哉古今
 5尺の小軀
(しょうく)を以て
 この大をはからむとす。
 ホレーショ
(ハムレットの登場人物)の哲学
 竟
(つい)に何等(ら)オーソリティーを價(あたい)するものぞ、
 万有の真相は唯一言にて悉
(つく)す。
 曰く『不可解』
 我この恨を懐
(いだ)いて煩悶(ほんもん)
 終
(つい)に死を決するに至る。
 既に巌頭に立つに及んで胸中何等不安あるなし
 始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを”

なのだそうですが・・・

文章がスゴすぎて何を言ってるのかさっぱりワカラン・・・

とにかく、
人生とは何だ?
何のために生きるのか?

てな哲学的な事を、ものすご~く悩んでおられたようです。

この遺書が名文だとして、たちまち世間の絶賛を浴び、ちまたには「人生不可解」「煩悶」などの言葉が流行語となるのです。

『万朝(よろず)報』社長の黒岩涙香(るいこう)という人は、自身の著作や講演で、
「この少年は、日本で初めての哲学者だ」
「近来、このような名文を見た事がない」

などと、絶賛しまくります。

しかし、そこまで、持ち上げると当然、その反対意見も登場します。
「自殺とは個人の満足以外の何物でもない」by長谷川天渓

しばらくの間は、賛否両論、様々な意見が新聞紙上を賑わす事になるのですが、こういう出来事があると必ず、連鎖反応が起こるのは困ったものです。

なんと、この自殺事件の後の5年間で、華厳の滝に身を投げた人が200人近くになったのだとか・・・もはや、社会現象です。

そして、ここに、もう一人・・・この事件の事で悩んでいた人がいました。

かの夏目漱石です。

そう、漱石は、一高で、彼・藤村君を受け持っていたのです。

しかも、数日前、最近、英語の授業をバックレてばかりいる彼に「やる気がないなら、もう学校に来なくていい!」叱ったばかりだったのです。

悩みに悩んで、心の病気なってしまった漱石は、2ヶ月後に奥さんと別居するまでになってしまっています。

まぁ、その気分を紛らわすために、執筆活動に専念し、文壇デビューとなったのですから、悩んだ甲斐もあったのかも知れませんが、結局、漱石は最後まで、心の病と縁が切れなかったわけですし・・・。

しかし、やがて、彼の自殺の原因が哲学的な物ではなかった事が明らかになります。

実は、彼は、ちょっとした知り合いであった菊池松子さんという年上の女性に恋をしていて、彼女が憲法学者の美濃部達吉との結婚が決まった事にショックを受けての自殺だったのです。

もちろん、ご本人が亡くなっていますので、絶対とは言い切れませんが、日光へ出かける際、彼女に会いに行き、「これを読んでください」と、重要な箇所に線引きをした(ラブレターともとれる)本を一冊手渡してから失踪したと言われています。

結局、この事がわかってからは、新聞は、「高尚な哲学ではなく、単なる失恋だった」と、この事件の事を嘲笑的に報道するのですが・・・

それはそれで、藤村君が気の毒な気がします。

もちろん、自殺はいけませんが、失恋は失恋で、18歳の少年にとっては大きな悩みです。

まして、恋の相手の松子さんは当時の文部大臣の娘・・・その結婚相手が憲法学者となると、学生であるが故の、自分の力の無さ、年齢の若さを痛感したはずです・・・それが叶わぬ恋と知りつつ・・・。

ワタクシ個人的には長谷川天渓さんの「自殺は個人の満足のみ」という意見に賛成しますが、だからと言って、嘲笑はないだろうと思います。

持ち上げたかと思うと、嘲笑する・・・何だか、マスコミのそんな部分が引っかかって、後味の悪い一件になったような気がしてなりません。

もちろん、連鎖反応もいけません。
本当に悩んでいるかたは、『いのちの電話』というキーワードで検索してみてください。

 

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2008年5月21日 (水)

長篠の戦い・もう一人の伝令~信長勝利の鍵

 

天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠の戦いのあった日です。

・・・・・・・・・・

この長篠の合戦については、
武田勝頼さんを中心に書いた2007年>>
よりくわしく合戦の経緯を書いた2011年>>

と、同じ5月21日の日付で書かせていただいていますので、合戦の流れについては、ソチラで見ていただくとして・・・

本日は、
どうしても派手に目立つ鉄砲の使用と、武田騎馬隊を見事に防いだ馬防柵(まぼうさく)に注目が集まり、それらばかりを勝因と思いがちな長篠の戦いの中で、実は、長篠城に籠る奥平貞昌織田信長との連携プレーが、この戦いに大きく関わっていたのだというお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・

先日、武田軍に囲まれて風前の灯となった長篠城(4月21日参照>>)から、岡崎城にいる徳川家康のもとへ、史上最強の伝令・鳥居強右衛門(すねえもん)が、救援要請に走った事を書かせていただきました(5月16日参照>>)

そのページでは、強右衛門が長篠城へ戻る途中に武田方に捕まり、磔(はりつけ)にされた事、その2日後の18日に、信長・家康率いる大軍が決戦の地である設楽原(したらがはら)に姿を見せたところまでお話させていただきました。

実は、信長・家康が設楽原に到着したタイミングに合わせて、もう一人の伝令が、長篠城からこの大軍へ向けて派遣されていたのです。

その18日、長篠城の西に広がる設楽原の向うに、信長・家康率いる3万の大軍の黒い影を確認する勝頼・・・と同時に、長篠城内にいる奥平貞昌も、その影を確認する事になります。

援軍の到着に士気あがる長篠城内・・・

しかし、先日の救援要請の時に、強右衛門に「長篠の兵糧は、あと4~5日しかもたないので一刻も早く救援を・・・」という連絡を持たせましたが、実際に、この日になってみると、意外に兵糧は長持ちし、まだ数日は大丈夫な状況でした。

貞昌は考えます。
「城が危ないから一刻も早く・・・とばかりに、援軍がムリな攻撃に出ては元も子もない」
と・・・。

そこで、名乗り出たのが、鈴木金七という男でした。

それこそ、強右衛門が磔にされたのを目の当たりにしたばかり・・・相当な勇気がいった事でしょうが、彼は・・・
「城は、まだ大丈夫。
本当に危ない時は鐘を鳴らすから、それまでは、そちらのタイミングで作戦を練って攻撃に出てほしい。」

という貞昌の言葉を携えて、強右衛門同様、長篠城の排水口から脱出し、武田の包囲をくぐり抜け、一路、信長・家康連合軍のもとへと、ひた走ったのです。

途中、危ない場面が一度だけありました。

金七が鳴子(なるこ)を足にひっかけてしまい大きな音が鳴り響いてしまったのです。

鳴子とは、時代劇などでもお馴染みの、ロープに竹や板をくくりつけて、あたりに張りめぐらして、ロープに引っかかると音が鳴る・・・本来は、田畑を動物から守るための仕掛けです。

ところが、その鳴子の音を聞いた武田の兵は、「川の水の流れが強いせいだろう」と、まったく気にしなかったのです。

設楽原は「原」との名前はついているものの、いくつもの細流が走っていて(昨年の合戦図参照>>別窓で開きます)、しかも、旧暦の5月後半と言えば、梅雨の真っ只中・・・連日の雨で、おそらく、実際に水かさが増えていたのでしょうが、つい先日、強右衛門にも、一度は包囲網を突破されちゃってるんですから、「ちょっとは気をつけろよ!」と言いたい気もします。

・・・が、とにかく、この田の兵ののほほんさで、このピンチを切り抜けた金七は、その夜のうちに無事、徳川軍の陣に到着し、貞昌の言葉を伝える事ができたのです。

実は、この事が、長篠の戦いにおいて、とても重要な事・・・。

そうです。
もし、「長篠城が危ないから」と、信長が、設楽原に到着後、すぐに決戦に挑んでいたら、当然、あの馬防柵は造れないワケですから・・・。

この伝令のおかげで、信長は、ゆっくりと馬防柵を講じ、当初の計画通りの作戦を決行する事ができたわけです。

信長の作戦は、長篠城を囲んでいる武田勢を、こちらの設楽原におびき出して、ここで戦う事でした。

そのために、まずは、「準備が整っていない」「兵士の士気が低下している」などのウワサを流して、勝頼が、設楽原へ撃って出るよう画策します。

これには、信長の重臣・佐久間信盛が、武田に寝返るふりをして密書を送ったなどとも言われていますが、それが事実で無かったとしても、勝頼がこの時点で、「信長は弱い」と思い込んでいた事が確認できる家臣への手紙が残っている事から、この作戦は成功していたと言えるでしょう。

事実、武田軍は、一部の軍を長篠城の包囲に残しただけで、ほとんどの軍勢を設楽原へと進軍させているわけですから・・・。

もちろん、この間に、かの馬防柵も構築します。

さらに、戦いの前日の深夜には、そうやって設楽原に出て来る武田軍を背後から脅かすべく、鳶ヶ巣山砦に奇襲を決行する別働隊も発進させたのです(5月20日参照>>)

伝令によって余裕ができた事で、ここまで準備万端整える事ができたわけですが、さらにもう一つ・・・それは、天候です。

先ほども書きましたように、旧暦では、この時期は、梅雨の真っ最中・・・そう、雨が降ったら鉄砲は使えないわけです。

本来なら、この梅雨時に鉄砲を大量に使用する戦い方など、絶対にできないのです。

信長や勝頼に限らず、この頃の戦国武将は、もうすでに多くの鉄砲を所持していました。

にも関わらず、あまり鉄砲が主流にならなかったのは、それが、かなり天候に左右される点がネックになっていたからです。

伝令によって日付に余裕が生まれた事で、信長は梅雨の晴れ間の快晴の日を選んで合戦に挑む事ができたのです。

つまり、この伝令がなければ、武田軍が設楽原に出る事も、そして馬防柵も鉄砲も無かったし、・・・当然、信長・家康連合軍の勝利も無かったかもしれないのです。

この長篠の戦いの後、奥平貞昌が、信長の一字をもらって信昌と改名するのも、一城主から美濃加納10万石の大名へと大出世するのも、ひとえに、その成功の鍵が、かの伝令にあったからではないでしょうか。

ちなみに、余談ですが、伝令の大役を果たした金七さん・・・強右衛門の事もあり、決戦が間もなくである事も踏まえて、「城に戻る必要は無い」という信長の命により、そのまま、徳川軍に留まったという事で、再び危険にさらされる事はなかったそうです。
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2008年5月20日 (火)

応仁の乱・勃発

 

応仁元年(1467年)5月20日、東軍・細川勝元VS西軍・山名宗全の天下分け目の大乱『応仁の乱』が勃発しました。

・・・・・・・・・

以前、『御霊合戦・勃発』(1月17日参照>>)のところで、書かせていただいたように、何を以って「応仁の乱の勃発」とするか?というのは、ビミョーなところではあります。

そもそもは、室町幕府8代将軍・足利義政日野富子夫婦の間に男の子が生まれず、実子をあきらめた義政が、弟・義視(よしみ)後継者に決定したにも関わらず、直後に長男・義尚が生まれ、わが子かわいさで、どうしてもあきらめきれない母・富子が起した次期将軍を巡っての後継者争いです(1月7日参照>>)

御霊合戦以前にも、義尚の養育者である伊勢貞親(さだちか)が、正統な後継者である義視を亡き者にしようとした暗殺計画が発覚し、都を追放されるという事件も起こっています(1月21日参照>>)

そんな中、勃発した先の御霊合戦は、その家督を巡っての、畠山政長(細川勝元派)畠山義就(山名宗全派)による畠山家内の争い(12月12日参照>>)・・・しかし、「他家の争いには関与するな」という義政の言葉で、手を貸さなかった細川勝元は、そのせいで配下の政長が自刃寸前にまで追い込まれた事を反省し、危機一髪の政長を脱出させ、再起を約束します。

京都を脱出した政長は諸国を巡り、各地の武将に勝元のもとに馳せ参ずるように働きかけ、細川派に招集された兵は16万・・・対する山名派も11万を集め、大乱の予感を感じさせはじめます。

その間に勝元は、将軍を味方につけようと画策・・・。

もともと、勝元が政長を推せば政長を畠山氏のトップと認め、次に山名宗全(3月18日参照>>)が失脚中の畠山義就を連れてくれば、義就を畠山のトップに戻すといった具合に、あっちにいい顔、こっちにいい顔と八方美人的な事をやっていた義政の逆手をとって、勝元は、将軍の住まう花の御所に細川の陣を敷いたのです。

都はすでに、大乱の予感ムンムンですから、戦火から御所を守るという名目で御所を陣取り、義政から強引に「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、錦の御旗ならぬ将軍旗を掲げる事に成功し、その総大将に義視を任命したのです。

これが、5月の出来事・・・つまり、5月20日を勃発とするのは、この出来事を以って勃発と判断しているワケです。

Nisizincc ・・・で、対抗する宗全は、花の御所から数百メートル西の自宅に陣を構えます

ここが、現在も織物で有名な西陣です。

以後、御所を陣とした細川派は東軍、その西に陣を構えた山名派は西軍となります。

都のあちこちに放火などを繰り返しつつ、やがて秋に、勝元が相国寺に本陣を構えると、それと前後して、西軍に大内政弘が参戦します。

山陽の雄の参戦に士気あがる西軍は、その勢いのまま10月3日に、勝元の本陣・相国寺に総攻撃を仕掛けます(10月3日参照>>)

しかし、相国寺は全焼するものの、合戦自体は引き分け・・・ともに、敵に大打撃を与えるまでには至りませんでした。

しかも、本気モードの京都の市街戦は、この最初の一年でほぼ終了・・・集まった各地の武将が徐々に地元に帰りはじめたため、戦場の範囲は広がるものの、雌雄を決するような大きな合戦は起きる事はなかったのです。

御霊合戦のページで、「これだけ長期にわたって、これだけ多くの大軍が対峙したにも関わらず、名のある大将が命を落とす事もなく、最終的に決着さえ着かなかったとても不思議な乱」と書かせていただいたのは、こういう事です。

日本史上に残る十一年に及ぶ大乱なのに・・・

というのも、地方の武士たちには、東軍が勝っても西軍が勝っても、都での勝敗は、地方に帰れば、意味のない事だったのです。

たとえば、以前、郵政民営化問題で政界が揺れた事がありましたが、当時、小泉チルドレンと騒がれた人が、たとえ、全国で自民党が圧勝したとしても、実際に地元の選挙で勝たなければ、その人自身は議員になれない・・・という感じでしょうか?

結局、この合戦の勝敗で決まるのは、将軍の後継者と、勝元が強いか宗全が強いかといった漠然とした物だけ・・・って事で、乱はどんどんウヤムヤな雰囲気になっていくのです。

それなら、当の将軍の後継者争いは?

実は、先に書いた、勝元が御所を陣取って、山名追討命令をもらった・・・というくだり。

ここで、一番困っていたのは、富子だったのです。

正統な後継者として義視を支持する勝元に対抗すべく、同等の実力者である宗全に、わが子義尚を支持するように画策していたのですから・・・。

なのに、将軍の住まう御所・・・つまり、富子もここに住んでいるわけで、彼女は、敵である勝元に守られながら、わが子を支持してくれる宗全の追討を見守る事になってしまう事になり、こんなシャクな事はありません。

そこで、さすがは強気の富子・・・考えれば、彼女の標的は義視ただ一人・・・他の誰が味方しようが、敵に回ろうが、義視さえいなくなれば、次期将軍は、わが子に回ってくる事になります。

富子は、内部からのかく乱作戦に出ます。

あの追放されていた伊勢貞親を復帰させるのです。

富子の予想通り、自分の暗殺計画を立てた男の復帰を認めた兄・義政に対して、不信感を抱きはじめた義視は、何と!総大将をほっぽり投げて、都を出て行ってしまうのです。

やっとこさ、説得されて戻って来た一年後には、もはや御所内に彼の場所はありません

そこで、義視も考えます。
「結局、勝ったほうが将軍になれるんなら、東軍でも西軍でも関係ないじゃん!」
と、いきなり、西軍へ寝返るのです。

しかし、さすがに、これは、世間の反感を買ってしまう結果に・・・結局、この出来事で義視は官位を剥奪され、9代将軍の座は必然的に義尚の物に・・・

富子の作戦勝ちといったところでしょうか・・・。

・・・で、このように将軍家の争いも終焉に向かう中、勝元・宗全という二本の柱が相次いで亡くなり、決着らしい決着も着かないまま、文明九年(1477年)に、応仁の乱は終わりを迎える事になります。
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2008年5月19日 (月)

桶狭間の戦い~その時、家康は・・・

 

永禄三年(1560年)5月19日は、あの桶狭間の戦いのあった日です。

・・・と、昨年の5月19日も、桶狭間について書かせていただいたのですが、この合戦は、「天下を狙える位置にいた大大名・今川義元が、一田舎大名・織田信長に合戦の場で討ち取られる」という、下克上の戦国と言えど、まれに見る出来事である事から、戦国屈指の奇襲戦として、有名、かつ、ドラマチックに描かれます。(2007年5月19日参照>>)

当時、天下に一番近かった今川義元は討死し、うつけの織田信長が一気に全国ネットの舞台に踊り出る・・・この戦いは、二人の人生を大きく変えました。

そして、もう一人・・・この戦いで、人生を大きく変えた人がいます。

昨年もチラッとだけ、その事を書かせていただきましたが、この桶狭間の合戦で、13年間の人質生活にピリオドを打った松平元康=後の徳川家康です。

では、家康はその運命の日に、どのような行動したのか?・・・今日は、その日の家康さんについて書かせていただきましょう。
(文中の名前の表記は家康さんで統一させていただきます)

・・・・・・・・・・

昨年の記事でupした桶狭間の合戦図を見ていただくとわかりやすいと思いますが・・・
(ここをクリックすると合戦図が別窓で開きます>>)

当時、今川の傘下である大高城・鳴海城のまわりに、いくつもの(とりで)があるのが確認できます。

実は、もともと大高城・鳴海城は、織田傘下の城だったのです。

信長の父・織田信秀の時代は、まだ尾張一国の中で、群雄割拠していた時代・・・父が亡くなり、信長が家督を継いで、尾張統一に向かって走りはじめますが、それでも、傘下の国人たちの離反が相次いでいたのです。

そんな、父・信秀の死をきっかけに、織田から今川に寝返ったうちの一人が、鳴海城主・山口教継(のりつぐ)・・・彼は、自身の城だけでなく、大高城をも落し、この二つの城が今川の傘下となります。(4月17日参照>>)

そこで、信長は、これらの城を再び奪回すべく、城の攻撃の拠点となる砦を、城のまわりに構築したわけです。

それが、丹下砦・善照寺砦・中島砦・鷲津砦・丸根砦といった砦で、それらの織田方の砦に、義元の先発隊が攻撃を仕掛ける形で桶狭間の合戦はスタートします。

・・・という事で、桶狭間の戦いと言えば、何かと、義元が首をとられるアノ場所に話題が集中しますが、義元率いる大軍は、いくつもの場所に分散され、同時に合戦が行われていたのです。

しかし、砦はあくまで砦・・・城ではありませんし、その砦への支援も信長は行っていませんので、丸根・鷲津の両砦への攻撃は、今川方の大勝・・・砦は、またたく間に落とされてしまう事になるのですが、そんな先鋒の役を荷っていた一人が家康でした。

わずか2年前に、寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い初陣を飾った(2月5日参照>>)ばかりの家康ではありましたが、今回は、大高城への兵糧の運び込みという大役までまかされていました。

義元は、今回の織田攻めの拠点となる城を大高城に決めていたようで、そうなると、長期滞在するための兵糧確保が必要となります。

しかし、まわりに砦があるという事は=敵がウヨウヨいるという事で、その中を大勢の小荷駄隊(輸送隊)が進む事は容易ではありません。

家康は早速、大高城へ向けての道筋を偵察させますが、やはり、「道筋には多くの織田方の兵が見張りを立てていて、ここを突破するのは難しい」との報告を受けます。

しかし、偵察隊の一人・杉浦勝吉は・・・
「俺らが麓を通っても、山の上におる兵は、来ませんでした・・・これは、兵の数が少ない証拠・・・戦うほどの数はいないものと見ます」
と、進言。

家康は、この意見を採用し、輸送隊を多くの兵で守らせて出発させ、自分は、19日未明に丸根砦への攻撃を開始し、兵を砦に引きつけます

籠城をやめ、決死の覚悟で野戦に撃って出る丸根砦の織田勢でしたが、兵の数は、わずか400・・・対する家康側は1000・・・

かくして、無事に兵糧は大高城へと運ばれ、激戦の末、丸根砦も壊滅状態となります。

一方、丸根砦の攻撃と同時に開始されていたのが、鷲津砦への攻撃・・・

こちらは、今川の重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)率いる2000の軍勢です。

鷲津砦では籠城策が取られましたが、やはりこちらも、砦を守る兵は400程度。

さきほど書いたように、信長が砦への援軍を派遣する事はありませんでしたから、そうなると時間の問題・・・次々に、討死するか敗走するかの状態となり、やがて陥落します。

丸根・鷲津の両砦が陥落したのは、19日の9時~10時頃・・・いずれも、午前中に決着が着いた事になります。

・・・で、昨年書かせていただいたように、勝利の知らせを聞いた義元・本隊は桶狭間にて昼休憩を取り、信長は家臣が止めるのを振り切って、一か八かの出陣をする事となる(2015年5月19日参照>>)わけですが、この時の家康は・・・

やはり、早朝から頑張った兵を休ませるために、先ほど兵糧を送り込んだ大高城へと入城し、自らも身体を休めながら、間もなく来るであろう義元・本隊の到着を待つ事にします。

ところが、そこに・・・「義元討死」の知らせが舞込んで来るのです。

にわかに信じ難いこの報告・・・「すわ!織田が攻めて来るゾ!」と、城中があわただしくなる中、さすがの家康は、「戦場では情報が錯綜する物だ」と、冷静な判断・・・しばらく様子を見る事に・・・。

そこへ、家康の伯父・水野信元の使者と名乗る浅井道忠という武士がやってきます。
「義元様がお討ち死になされましたので、明日にもここには織田勢が攻めて来るものと思われます」

しかし、信元は伯父とは言え、現在は織田の傘下に入ってる人物ですから、それでも、なお、疑いは拭い去れません。

結局、確認のために派遣していた自らの部下の報告で、やっと義元の死を信じる事となった家康・・・

「そうとなっては、この城(大高城)を守る意味がない」
と、城を退却する決意をしますが、外は夕闇迫る頃・・・

主君が討ち取られた今となっては、午前中の勝利もかき消され、もはや敗者の撤退となるわけで、これほど難しいものはありません。

家康は、夜を待って、闇にまぎれ、父・広忠が亡くなって以来、今川の物となっていた、もともとの本拠地・岡崎城へと戻る事を決意します。

深夜、撤退を開始する家康・・・「義元死す」のニュースはまたたく間に駆け巡ったと見え、周囲の土豪たちが、すでに織田の配下となっている中、先ほどの浅井道忠を道案内に一路・岡崎へ・・・。

しかし、その途中、三河の池鯉鮒(ちりゅう)という場所で、賞金首狙いの落ち武者狩りをしている土豪たち1000人余りに囲まれてしまいました

絶体絶命のピンチ!

・・・と、ここで、
「我こそは、水野信元が家臣・浅井道忠である。主君より、今川勢の追撃をおおせつかっている!道を開けよ!」
道忠、一世一代の大芝居で、見事、ピンチを切り抜けたご一行・・・。

やがて、岡崎に到着し、まずは、岡崎城から数キロ離れた大樹寺というお寺に留まり、城の様子を探ります。

その時は、まだ残っていた今川の城番の兵たちも、織田の追撃を恐れ、数日後には、次々と退去・・・やがて城はカラになってしまいます。

おもむろに、状況を確認した家康・・・
「やだな~こんなところに城がおっこってるよん。
捨ててあるんなら拾っちゃお~っと、」

と、悠々と岡崎城を手に入れたのです。

6歳で織田の人質に出され、その後、今川の人質に・・・

あれから13年・・・19歳になったばかりの若き家康は、ここで人生で初めて城主となったのです。

最後に一つ・・・

義元が討ち取られたとは言え、今川の本拠地である駿府には、義元からすでに家督を継いでいる嫡男・今川氏真(うじざね)もいるわけで、人質の身でありながら、なぜ?家康は駿府に戻らなかったのか?

そこは、想像の域を出ない物ではありますが、やはり、家康本人が、氏真に勝つ自信があったから・・・という事でしょう。

この先の直接対決=掛川城攻防戦(12月27日参照>>)を予想してたかどうかはともかく、義元亡き後の今川家の行く末を、すでに見抜いていたのかも知れませんね。

だからこそ、家康は駿府に戻らず、岡崎を目指した・・・永禄三年(1560年)5月19日、この日は、家康にとって、運命の歯車が切り替わった日でした。

*今川に残された家康の妻子築山殿(瀬名姫)竹千代(後の信康)についてはコチラ↓のそれぞれのページからどうぞo(_ _)oペコッ
【家康の妻=築山殿の汚名を晴らしたい】>>
【家康はなぜ?信康を殺したのか】>>
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2008年5月17日 (土)

遠島・入墨・百タタキ~江戸の刑罰イロイロ

 

文化元年(1804年)5月17日、喜多川歌麿が描いた『太閤五女花見之図』が、幕府の禁忌に触れるとして、「手鎖50日の刑」に処せられたのだそうです。

・・・・・・・・・・・

いったい何が禁忌に触れたんでしょうかね?

題材が豊臣秀吉の醍醐の花見だったというところがいけなかったんでしょうか?
それとも、春画っぽい感じだったんでしょうか?

小耳に挟んだ情報によれば、どうやら秀吉時代になぞらえて、実は、徳川時代の大奥を風刺した絵だったという事ですが・・・どんな絵だったか見てみたいですね~
(ネット上にあるのならお知らせください)

ところで、この「手鎖50日の刑」というのは、鎖で、どこかにつながれているわけではなく、ひょうたんのような形をした鎖・・・つまり手錠のような物をはめて50日間、自宅で謹慎するという刑です。

時代劇で見たところ木でできてるような雰囲気だし、錠の確認も2日一回だし・・・「けっこう自由に動けるやん!」と思ってしまいましたが、当の歌麿さんは、かなりショックだったようで、この事が原因で3年後に亡くなった・・・なんて話もあるようです。

ひょっとしたら、この手錠がバーベルのようにメッチャ重かったのかも・・・身動きできないくらい。
それだとやっぱ、ツライっすね。

しかし、江戸時代にあった様々な刑の中では、やっぱり、この「手鎖」というのが一番軽い・・・って事で、今日は、江戸時代の様々な刑罰についてお話させていただきます。

・・・・・・・・・

以前、『十両盗めば首が飛ぶ』(12月3日参照>>)というのも書かせていただきましたが、これは「死罪」という刑・・・とりあえず、重い順に並べてみますと・・・

  • (はりつけ)
    親を殺害・主人への傷害など・・・
  • 獄門(ごくもん=さらし首)
    関所やぶり・毒薬販売・秤の偽造・枡の偽造・主人の奥さんとの不倫など・・・(ちと重すぎる気が・・・)
  • 火罪(ひあぶり)
    放火など・・・(目には目を・・・)
  • 死罪
    十両以上の窃盗・他人の夫及び妻との不倫など・・・

・・・と、ここまでが死刑です。
他にも、鋸挽(のこぎりびき)なんて、書くのも恐ろしい物もあります。

この中で、死罪のみが、小伝馬町の牢屋敷内で刑が執行され、それより重い死刑は、江戸市中引き回しのうえ、小塚原か鈴ヶ森で執行されました。

続いて・・・

  • 遠島
    寺持ちの坊さんが女性とナニをする・過失による殺人など・・・
  • 重追放
    イロイロごまかして関所を通ろうとするなど・・・(町を出たかった場合はラッキーだ)
  • 中追放
    主人の娘と密通など・・・(普通やん!)
  • 軽追放
    婚約中の女性を奪う・百姓や町人が帯刀するなど・・・
  • 入墨
    一度、敲を受けた者が、再び軽い罪を犯した場合など・・・
  • (たたき)
    軽い罪・風呂屋での下着泥棒など・・・(これはイカン!)
  • 手鎖
    未亡人との密通など・・・(ボランティアの場合もあると思うが・・・)

・・・と、なりますが、歌麿の他にも、絵描きや劇作家などが、けっこうたくさん手鎖の刑に処せられています。

・・・で、もう少しくわしく・・・

遠島・・・というのは、江戸以前では、必ずしも島ではありませんでした。

在原業平(ありわらのなりひら)東国へ行ったのも、菅原道真大宰府(1月25日参照>>)、ある意味、左遷という名の遠島でしたし、この時代には朝廷による生活の保障もあり、まじめに努めれば戻る事もできました。

あの源頼朝伊豆に流されていますが、ちゃんと屋敷も貰って生活を営んでいましたし、なんと言っても、見張り役があの北条政子のオヤジさんですから・・・娘に手を出す余裕まであったって事になりますからね~(8月17日参照>>)

しかし、江戸時代の遠島は、まったく違います。

住むところから食糧まで、全部自分で確保しなければなりませんし、特別な恩赦がない限りは、基本、終身刑でした。

知識があって物書きができたり、医学の心得があったりなんかした人は、ちょっとは、まともな暮らしができましたが、多くの人は、餓死したり、生きる意欲を無くしたり・・・で、よく時代劇で見る「島ぬけ」なんかを企てたりするわけですが、ほとんどが溺死しまう事になります。

江戸の頃は、ある意味「死刑より、遠島のほうが重い」なんて事も言われていたそうです。

次に、やはり時代劇でよく目にする入墨・・・

これにも、様々な種類がありました。

Irezumihanzaicc 腕の入墨イロイロ:紀州・・いかにもワルそうやなぁ・・・

Irezumihanzaikaocc 上記の腕に入る入墨以外にも、地方には、額に彫られるものもあったそうで、安芸(広島)のなんか、初犯→再犯・・・で、三犯めは「犬」という文字になるそうですが、コレって・・・明らかに3回目に2画書かれてますが、誰も文句は言えなかったんでしょうか・・・。

肥前=三つ目がとおる・・・

 

 
この入墨(いれずみ)は、いわゆるオシャレで入れる刺青(いれずみ)と違って、犯罪者に苦痛を与える目的がありましたから、刺青よりは、はるかに太い針で、ガッツーンと彫られるそうで、かなり痛い・・・炎などで、焼き消そうとすれば焼き消せなくもありませんが、それにもやはり苦痛をともなう上、もし、バレたら更なる重い刑が待ってますからね~。

・・・なら、まわりに、オシャレ刺青を入れて目立たなくするのは・・・と、これも幕府はちゃんと手を打ってました。

彫師業界へ通達を出していて、入墨部分を残して刺青を掘る条件でしか、商売をしてはいけない事になっていたようです。

最後に、敲刑・・・

これは、ワラをきつくよって巻いた直系一寸(3cm)くらいのムチのような物で、腹ばいの姿勢になって、肩や背中・お尻などを叩かれます

50回叩かれるのが普通の敲刑、100回叩かれるのが重敲(じゅうたたき)と呼ばれましたが、絶対に叩く数はオマケしてくれません。

ただし、この敲刑の重要な部分は、まわりにいる大勢の見物人に「悪いことをするとこうなるよ」と教える事と、大勢の目の前で叩かれる事で恥ずかしい思いをさせる事にありましたから、叩く数はごまかしてくれませんが、リアクションしだいでは、かなり、叩き方をオマケしてくれたようです。

痛がれば痛がるほど、叩き方はゆるくなるのだそうで、意地はって我慢してると、どんどん強く叩かれるのだとか・・・

50回・100回となると、叩くほうもしんどいですから・・・

ちなみに、50回の場合は一気に、100回の場合は、途中で休憩が入るそうです。
やっぱり、しんどいのねん。

以上、今日は江戸時代の刑罰について書かせていただきました。

●江戸時代の大阪の市中引き回しのコースを歩いた体験談は2010年12月17日のページへ>>
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2008年5月16日 (金)

史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商

 

天正三年(1575年)5月16日、長篠から岡崎へ救援要請に向かった鳥居強右衛門勝商が、長篠へ戻る途中に捕らえられ、磔に処されました。

・・・・・・・・・・・

鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)・・・

少し、マイナーな戦国武将です。

この人の名をご存知のかたは、なかなかの歴史好きと、お見受けします。

それもそのはず、この強右衛門は、長篠城主・奥平貞能(おくだいらさだよし)の家臣・・・ではなく、どちらかというと、足軽・雑兵クラスの人物で、本来なら歴史に名を残す事などなかったはずの人物なのです。

Toriinagasinocc ただし、強右衛門の名前は知らなくても、右(→)の絵をご覧になった事のあるかたは多いのではないでしょうか。

これは、武田勝頼の家臣・落合佐平次という武将の旗指物(はたさしもの・合戦の時の武将の目印)の図柄で、一度見たら忘れられないそのインパクトの強さから、かなり有名な絵です。

この絵で、(はりつけ)にされているのが強右衛門・・・その人です。

・・・・・・・・・・

時は戦国・天正三年(1575年)・・・それまで、武田の傘下であった長篠城主・奥平貞能の嫡男・貞昌と、徳川家康の娘・亀姫との縁談がまとまります。

以前、亀姫のページ(3月18日参照>>)でも書かせていただきましたが、この長篠城は、家康にとって、前年に高天神城を落として(5月12日参照>>)勢いづく勝頼から、この三河を守るためには、是非とも手に入れていおきたい要所です。

逆に、勝頼から見れば、やはり、ここは三河を攻める時に必要な場所という事になります。

しかし、貞昌と亀姫が結婚する・・・という事は、イコール奥平は武田から徳川の傘下に寝返ったという事ですから、武田としては、とてもじゃないが、そのままにしておくわけにはいきません。

勝頼は1万5千の大軍を率いて、長篠城を囲み、天正三年(1575年)5月8日総攻撃を開始しました・・・これが、有名な長篠の合戦の前哨戦です(4月21日参照>>)

当時の奥平家は、未だ土豪に毛の生えたような小さな一城持ち侍・・・大大名の武田の大軍に囲まれてはひとたまりもありません。

もはや、落城は時間の問題・・・。

そこで貞昌は、この現状を岡崎城へと伝え、同盟を結んでいる家康の援軍を要請するべく、伝令を発する事を決定します。

1万5千の兵が囲む長篠城です。
その囲みを破って、さらに向うの岡崎まで・・・まさに命がけの大仕事。

その大仕事に名乗りをあげたのが鳥居強右衛門勝商でした。

事は急を要します。
早速、5月14日の深夜、強右衛門は、夜の闇に紛れて下水口から長篠城を脱出し、敵に見つからないよう、ただただ、ひた走ります。

翌・15日の朝には、長篠城を眼下に見渡す雁峰山(がんぼうざん)に登り、囲みを破って脱出に成功した事を告げる烽火(のろし)を上げ、さらに、そこから約10里(40km)、野山を駆け巡り、一路岡崎へと向かいます。

その日のうちに、無事、岡崎城に到着した強右衛門が見たものは・・・そう、まさに、今、彼が到着する寸前に、嫡男・信忠とともに、グッド・タイミングで岡崎城へ入ったばかりの織田信長の姿でした。

貞昌の書状を渡し、口上を述べた強右衛門に、信長と家康は・・・
「ご苦労さん、疲れたやろ?しばらくゆっくりと休んだらええがな・・」
と、その労をねぎらいます。

しかし、強右衛門は・・・
「いえ、この事を早く長篠に知らせたいんで・・・」
と、すぐさま、岡崎城を発ち、長篠への帰路についたのです。

そう、なんだかんだ言っても、この頃、家康はまだまだ駆け出し・・・3年前の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)では、信玄に大敗し、思いっきりケツの青いところを見られちゃってますし、兵の数も、それほど多く出せる力もありません。

その点、信長は、すでに足利義昭を奉じての上洛もすませ、浅井朝倉も制し、まさに天下を狙える頼もしい存在・・・彼は、家康だけでなく、すでに、信長もが、この岡崎まで来ているのだという事を、一刻も早く、主君・貞昌に・・・そして、城で奮戦する仲間に伝えたかったのでしょう。

日付が変わって16日の早朝・・・再び、雁峰山に登って、伝令が成功した事を伝える烽火をあげ、山を下りた強右衛門は、今度は、長篠城へ入るため、ふたたび囲みを破らなくてはいけません。

しかし、なかなか抜ける事ができません。

周囲をウロウロしていた強右衛門は、とうとう、武田の兵に見つかってしまうのです。

怪しい者として引き出され、詰問を受けた強右衛門は・・・
「今更、知っても、もう遅いと思うけどな。
信長さまと家康さまの大軍が、長篠に向かって進軍中や!
もう、間もなく着くで~」

と、脅しをかけるような口調で、言ってみせます。

この知らせを聞いた武田軍は大騒ぎです。
一刻も早く、長篠城を落すか、大軍に備えて、軍の編成を整えるか・・・

そこで、武田は、強右衛門に条件を出します。

強右衛門自身はもちろん、主君をはじめ長篠城内の者すべての命を保障する事を約束し、そのかわり、「援軍が来ないというウソの情報を流せ」という物でした。

上記の通り、もはや落城寸前、このままでは到底、奥平に勝ち目はありませんから援軍が来ないとなると、すぐに開城するに違いない」と考えたのです。

強右衛門は、少し考えて・・・
「本当に全員を助けてくれるのか?主君もか?」
と、再度確認します。

「あぁ、約束する。絶対に命は取らん」
「そんなら、言う通りにしよう」
と、その条件を呑む事にしました。

長篠城が見渡せる小高い場所へと引き立てられた強右衛門・・・
ありったけの、力を込めて、大声で叫びます。

「お~い、城のみんな~、聞こえるかぁ~?」
シ~ン・・・と静まりかえる戦場・・・固唾を呑む両軍・・・強右衛門の声だけが、周囲の山々にコダマします。

「援軍はすぐそこまで来てるゾ~。
もう、ちょっとの辛抱や!絶対に負けたらアカンぞ~!」

一瞬の間をおいて、強右衛門の言葉に答えるかのように、長篠城のあちこちから鬨(とき)の声が上がります

唖然とする武田の兵士を見下ろすように、彼は一世一代の「どや顔」をした事でしょう。
「これで、自分の役目は成功に終った」と・・・。

当然、、強右衛門は、すぐさま柱にくくりつけられ、磔に処せられたのです。

しかし、それでもなお、威風堂々としたその姿には、敵である武田の兵士たちまでもが感銘を受けます。

そして、心を打たれた武田の家臣・落合佐平次によって、彼の最期に姿は留められる事になりました。

ちなみに、旗指物の図柄は、普通の磔の姿になっていますが、髪の毛の雰囲気や手足の様子から、もとは、さかさまの磔の姿であっただろうと言われています。

天正三年(1575年)5月16日強右衛門は、その柱の上で、命を落します・・・享年・36歳・・・。

彼は、この日の、わずか一日の出来事で、500年近く・・・いえ、これから先も、永遠に・・・歴史にその名を残す勇者となりました。

果たして、2日後の5月18日、勝頼は、長篠城の西に広がる設楽原(したらがはら)に、信長&家康率いる3万に及ぶ大軍の黒い影を確認する事となるのです(5月18日後半から参照>>)

長篠の戦いを左右したもう一人の伝令・鈴木金七のお話【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】へ>>
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2008年5月15日 (木)

長宗我部盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月15日、大坂夏の陣で捕らえられた長宗我部盛親が、京都・六条河原にて斬首されました。

・・・・・・・・・・・

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を平定した父・長宗我部元親(もとちか)とともに、『長宗我部元親百箇条』を発布し、一時は土佐(高知県)22万2千石を治める大大名でした。

しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で歯車が狂い、どん底人生を味わった彼・・・先日の後藤基次(4月30日参照>>)と同じく、彼もまた、この大坂の陣に、人生の起死回生を賭けた一人でした。

その関ヶ原の合戦の時には西軍に属し、安国寺恵瓊(あんごくじえけい)らとともに美濃南宮山に布陣していた(9月16日参照>>)盛親でしたが、実際にはまったく動かず、午後になって西軍の旗色が悪くなると、そのまま戦わずして土佐に帰ってしまいます。

これには、合戦の前に、徳川家康から東軍への寝返り要請を受けていて、「OK!寝返りまっせ」の返事を出したものの、その使者が途中で西軍に見つかってしまい、家康まで届かなかった・・・という事があったようで、合戦時の盛親は、「西軍が負けそうなので逃げ帰った」というよりは「最初から戦う気がなかった」ものと思われます。

しかし、西軍として関ヶ原に参戦してしまった事は確か・・・盛親は、あの井伊直政を通じて、家康に謝罪し、早速、領国安堵の交渉に入りました。

この交渉の盛親側の窓口であったのが、盛親の兄・津野親忠でした。

親忠は、幼い頃に津野家の養子となったうえ、後には豊臣秀吉への人質に出され・・・と不遇な少年時代を過ごしてきましたが、その人質時代に藤堂高虎と親しくなった事もあって、今回の交渉の窓口となっていたわけです。

しかし、この兄とは、盛親が長宗我部の家督を継ぐ際に後継者争いで争った事があった事から、交渉が長引くにつれ、盛親は、「兄が交渉相手側に付いているのではないか?」という疑いを持ちはじめ、結局、この兄を暗殺してしまうのです。

この暗殺劇を知った家康は、「武士の風上にもおけぬ安易な行動」と批判し、すべての領地を没収され、盛親は改易されてしまいます。

浪人の身となった盛親は、京都に出て、相国寺門前の柳ヶ厨子に籠り、名前も大岩祐夢と改めました。

それから14年・・・彼は、子供相手に寺子屋の先生をして生計を立てる事になります。

そんな盛親のところへ・・・やってきました!慶長十五年(1614年)、真田幸村や後藤基次らと同様の豊臣家からのお誘いです。

「勝利したあかつきには、土佐の領地をそっくりそのままお返しする」という条件で、10月7日、彼は大坂城に入ります。

幸村同様、いざ合戦になれば大坂方につくであろうと思われていた彼は、この少し前に、京都所司代の板倉勝重に呼び出され、詰問されていますが、その時には・・・
「合戦になった時には、徳川様に従い、ご期待にそえる武功をあげたいと思います」
と、平然と笑ってみせたと言います。

ヤルねぇ~盛親・・・

なんせ、彼には、盛親失脚の後に土佐に入った山内一豊を散々悩ませた「一領具足」という半士半農の部隊が味方についています。

未だに、高知県では坂本龍馬さんの次ぎに長宗我部ですから・・・そのあと何百年も統治した山内の影は薄い・・・平成の今でもそうなのですから、盛親が立つとなれば、ともに立ち上がってくれる一領具足の残党たちは、大坂方にとって、かなり心強い存在です。

あの幸村でさえ、大坂城内の軍儀の際、意見を求められると・・・
「まず、長宗我部殿のご意見から・・・」
と、彼を優先していたぐらい・・・大坂の陣に駆けつけた援軍の中では、トップの位置にいたのが盛親なのです。

やがて、勃発した大坂の陣・・・元和元年(1615年)5月6日、後藤基次と真田幸村が道明寺・誉田で大激戦を繰り広げた(5月6日参照>>)、まさにその日、豊臣秀頼の乳兄弟であった木村重成が4700の兵を率いて若江(東大阪市)に向かい(2011年5月6日参照>>)盛親は5000の兵を率いて八尾(八尾市)に向かいました。

これは、基次&幸村が、家康軍本隊が大坂城へ進出する場合に、必ず、そこを通るであろう道明寺で待ち構えたのに対して、その本隊に側面から攻撃を仕掛けようとうする別ルートの作戦でした。

しかし、目的の場所に着く前に、藤堂高虎の軍に見つかり、遭遇戦が開始されてしまいます。

ここでは大いに奮戦して戦いを有利に進め、撃破寸前まで追い込む長宗我部軍でしたが、途中、若江に向かっていた木村軍が、井伊直孝の襲撃をくらい、重成が討死したとの知らせが飛び込んできます。

大将を討ち取った以上、その井伊軍が、この藤堂軍に合流する事は確実・・・ヘタをすれば挟み撃ちに遭い、孤立状態になってしまいます。

もちろん、この知らせは、相手の藤堂軍にとっては有利な知らせ・・・その士気も高まりますから、この先の形成を不利とみた盛親は、急いで大坂城へと戻ります(5月6日参照>>)

この夜の大坂城内の士気は、とてつもなく下がってしまいました。

後藤基次・薄田兼相・木村重成の死は、大坂方にとって大変なダメージ・・・もはや、戦闘能力の低下は誰の目にも明らかに見えました。

そして、翌日・・・5月7日、いよいよ大坂城総攻撃が開始され、幸村も討死してしまうのです(5月7日参照>>)

翌・5月8日、炎に包まれて落城する大坂城から脱出した盛親・・・

それは、命を惜しんでの敗走か・・・
起死回生の再起を狙っての敗走か・・・

その心中は、彼のみぞ知るところですが、間もなく、落城から3日後の5月11日蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の家臣によって、その身柄を確保されてしまいます。

関ヶ原の寝返りの件で一度・・・
戦後の交渉の件で一度・・・
そして、大坂の陣・・・

三度も、家康の期待を裏切ってしまった盛親には、もはや、生きる道はありませんでした。

かくして元和元年(1615年)5月15日、京都・六条河原に引き出された盛親は、合戦の前のここ京都にて「武功をあげてみせます」と笑ってみせた相手・・・板倉勝重の手によって斬首されるのです。

享年・41歳・・・ここに、土佐に威勢を誇った戦国大名の長宗我部が滅亡しました。
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2008年5月14日 (水)

佐々成政・黒百合事件と呪いの黒百合伝説

 

天正十六年(1588年)5月14日、肥後(熊本県)で起きた一揆の責任を問われ佐々成政が切腹しました

・・・・・・・・・・・・

もともと、織田家の直参だった越中(富山)佐々成政(さっさなりまさ)

織田信長本能寺の変で亡くなった後、その後継者を巡って、三法師(信長の孫)を担いだ羽柴(豊臣)秀吉が、神戸信孝(信長の三男)を担いだ柴田勝家と対立した時には、彼は、ともに信長の命で北陸方面の平定(6月3日参照>>)に力を注いでいた勝家側に賛同します。

しかし、その対立のクライマックスである賤ヶ岳合戦(4月21日参照>>)の時には、成政は越後(新潟県)上杉景勝一触即発の状態であったため越中から動けず、合戦に参加しなかったおかげで、勝家の敗死後も、越中一国を安堵される事となります。

やがて、天正十二年(1584年)、今度は織田信雄(信長の次男)と組んだ徳川家康と秀吉との対立により、小牧・長久手の戦いが始まります。

最初は、越中を安堵された事もあって、秀吉側についていた成政でしたが、3月の小牧の戦い(3月17日参照>>)が、信雄+家康側の勝利に終ったのを見て、ちゃっかり、家康側へと寝返り、その年の8月には、秀吉側の前田利家を相手に、北陸版・長久手の戦いとも言える末森城攻防戦(8月28日参照>>)もやらかしています。

ところが、その3ヶ月後の11月に、秀吉に丸め込まれた信雄が、単独で講和をしてしまい(11月16日参照>>)、信長の後継者争いの大義名分を無くした家康も、兵を退くしかなく、一連の小牧・長久手の戦いが終焉に向かうのです。

成政としては「ちょっと待ったぁ~」と言いたくもなります。

そんな事になったら、東はもともと敵対関係にある越後の上杉、西は、こないだ戦った加賀(石川県)の前田、南は日本の屋根と言われる飛騨・木曽・赤石の山脈に囲まれた越中が、孤立状態になってしまうじゃあ~りませんか!

・・・で、成政は、家康を説得するため、決死の冬季アルプスさらさら越え(11月11日参照>>)という離れ業をやってのけるのですが、その努力空しく、小牧・長久手の戦いは終結してしまいます。

案の定、その翌年、秀吉の大軍に囲まれた成政の居城・富山城・・・力の差を歴然と感じた成政は、頭を丸め、死を覚悟しての降伏を申し出ました(8月29日参照>>)

「もはや、終わりか・・・」と、思いきや、富山の大部分は取り上げられたものの、新川(富山市)の一郡は残され、おまけに秀吉のお伽衆(主君の話し相手をする側近)となる事が許されたのです。

しかも、その二年後、天正十四年~十五年(1586年~1587年)の九州征伐に参加した事で、肥後五十万石を与えられ、見事、大名に返り咲きます。

これは、秀吉お得意の計算しつくした敵の支配の仕方・・・敵を根こそぎぶっ潰すのではなく、生きる道を与え、支配下に取り込むやり方です。

「あとが無い」と思えば、無我夢中で突っ込んで来る敵も、出方次第では、そのまま、秀吉の支配下で安堵されるとわかれば、いざ、敵対した時に、相手は容易に降伏し、労せず勝つ事ができるからです。

しかし、秀吉お得意と書きましたが、実は、このやり方は、奥さんの北政所=ねねさんのやり方です。

彼女は、なかなか子供ができないというハンディの中、加藤清正福島正則といった子飼いの家臣を、この方法で取り込み、育てて味方につけ、次々と側室となるいいところのお嬢様を相手に、正室の座=女のトップの座を守り抜いていたのです。

誰を取り込み、誰を取り込まないかの判断に、ねねの意見が反映されていた事は、誰もが感じるところでした。

もちろん、成政も、「自分への圧遇は、ねねさんのおかげ」と思い、ある時、感謝の意を込めて、越中・立山に自生する黒百合を一輪取り寄せ、彼女に献上したのです。

Narimasakuroyuricc_2 「まぁ・・・うれしい。こんな美しい花は見た事が無いわ!」
「立山の奥深くにしか、咲かない花でございます」
「めずらしい物をありがとう。早速、この花を愛でながら茶会を開きましょう」
と、ねねは大喜びです。

ただ、これには、当然、居並ぶ側室たちに、その花を自慢したいという下心もありました。

特に、信長の妹・お市の方の娘という、最強の血筋を持つ気の強~いお嬢様・茶々(後の淀殿)には、一泡吹かせてやりたい気分満々です。

「茶々殿は、黒百合をご覧になった事があって?」
「いいえ、初めてざぁ~ますワ」
「めずらしい花ざぁ~ますのよ」
「まぁ、それじゃ、その美しさを、しっかり目に焼き付けておかねばなりませんわねぇ・・・ホホホ・・・」
「そうですわ・・・ホホホ・・・」
と、笑みを浮かべながらも、腹わたが煮えくり返る思いの茶々・・・してやったりのねね・・・。

そして、数日後、今度は、茶々が花供養というイベントを催すと言って、ねねを招待します。

「花供養・・・って何?」
と、思いながらも、その場所へ行ってみると・・・

何と!部屋一面に置かれた手桶の中に、あの黒百合が・・・しかも、雑草と混ぜて、いかにも安物っぽく並べられているではありませんか!

それは、先日の茶会でくやしい思いをした茶々が、ありとあらゆる手を使って、別ルートで白山から運ばせた黒百合だったのです・・・もちろん、ねねに見せつけるために・・・。

「なんじゃ!あの成政のアホ・・・何がめずらしい花や!いっぱいあるやんけ!恥かかされたわ!」
と、ねねの怒りは、成政へと向けられたのです。

あわれ、成政は、天正十六年(1588年)5月14日切腹をさせられるハメに・・・。

・・・と言いますが、これはあくまで逸話・・・
ウワサの域を出ない物で、実際の原因は、冒頭に書いたように、与えられた肥後一国を、うまく統治しきれず、国人や地元民の反感をかい、一揆を起させてしまった事にある(7月10日参照>>)というのがホントにところのようです。

・・・と、ここまでは、ドラマなどでも描かれる、わりと有名な佐々成政の黒百合事件ですが、実は、これにはウラ話があります。

それは、富山の昔話として地元に伝わるオドロオドロすた『黒百合物語』というお話・・・

成政が、例のさらさら越えをして家康に会いに行き、富山城を留守にしていた時・・・当時、成政が一番気に入っていた早百合という女性が、家臣の一人とデキちゃったというウワサが城内を駆け巡ります。

もちろん、城に戻って、その話を耳にした成政は、怒り爆発です。

当然の事ながら、早百合も男も、「そんな事はありません」と否定しますが、もはや、城内のウワサになってしまった以上、実際に関係があったか無かったかに関わらず、処罰する事に決定する成政・・・

結局、ふたりは斬首される事に・・・

そして、最後に早百合は・・・
「お怨み申しあげます・・・この三年ののち、立山に黒い百合が咲いた時、佐々家は滅びる事でしょう」
と、怨みの言葉を吐いて死んでいったのです。

はたして、今回の成政の切腹は、本当に早百合の怨みが引き起こしたのか?

・・・地元・富山では、佐々家は黒百合のために滅んだと伝えられていますが、切腹という成政への厳しい処分に、黒百合事件でのねねさんの怒りが込められていたのだとしたら、まさに、彼は黒百合で滅んだ事になります。

まぁ、私なら、早百合さんが死ぬ時に、そう言って死んだのに、その後、上司の嫁に黒百合をプレゼントする・・・なんて、大胆な事はできませんが・・・

ねね・・・茶々・・・早百合・・・いずれにしても、女の怨みは恐ろしい・・・って事ですね。
 

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2008年5月13日 (火)

太田道灌とライバル・長尾景春~用土原の戦い

 

文明九年(1477年)5月13日、あの諸葛孔明の再来とうたわれた太田道灌の、後半生の最大のライバルであろう長尾景春・・・この二人の一戦=『用土原の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・

永享十一年(1439年)に起こった『永享の乱』(2018年2月10日参照>>)において、第4代鎌倉公方足利持氏破れ、自刃しました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、その後、その持氏の遺児・足利成氏が、勝手に古河(こが)公方を名乗りはじめ、公方の座を奪回すべく関東一円で乱を連発し、大暴れしはじめたのです。

そのために、関東管領(公方の補佐役)扇谷(おうぎがやつ)上杉定正執事であった太田道灌(どうかん・資長)が、その古河公方から関東を守るべく江戸城を建築・・・と、このお話は以前に書かせていただきました(4月8日参照>>)

当時、関東管領職をあずかっていたのは、その扇谷上杉家と山内(やまのうち)上杉家・・・ともに上杉という同族の両家ではありましたが、その力関係においては、完全に山内のほうが上で、扇谷は、あくまで山内の補佐のような役回りでしたが、やはり、そこは同族・・・対立する事はなく、強力タッグを組んで、古河公方との激戦をこなしていました。

その山内上杉家の執事だったのが、長尾家です。

そんなこんなの文明五年(1473年)、一連の古河公方との合戦で、長尾家の当主・長尾景信が亡くなってしまいます。

・・・で、家督は景信の嫡男である長尾景春(かげはる)に・・・と、すんなり決まればよかったのですが、ここに物言いをつけたのが主君である山内上杉顕定(あきさだ)です。

執事とは言え、かなりの勢力を持っている長尾家は、主君から見れば少し不安・・・ここは一つ、嫡流への相続を止めさせ、その力を分散させるためにも、景信の弟・長尾忠景(ただかげ)に、家督を継がせようとしたのです。

当然、景春は、怒り心頭・・・主君・上杉相手に反乱を起す計画を立てはじめます

もともと、顕定が不安に思うくらいの力を持っていた景信の息子である景春・・・しかも彼自身がなかなかの勇将ですから、ひとたび、「乱を起こすゾ!」と声をかければ、彼のもとには上杉に不満を持つ者たちが続々と集まってきます。

そして、文明八年(1476年)6月乱の旗があがり、その勢力は徐々に拡大されていったのです。

  • これを『長尾景春の乱』と言い、今回の用土原の戦いもその乱の中の戦いの一つです。

この状況を見て、「これはマズイ!」と思った道灌は、定正と顕定に・・・
「景春と仲直りするか、それとも潰すか・・・とにかく、早く手を打たねば・・・」
と、進言するのですが、その時、定正と顕定は、来るべき古河公方との決戦をひかえて、武蔵(埼玉県)五十子(いかつこ)に布陣の真っ最中・・・。

「そんなモン、相手してられるか!こっちは、古河相手に必死なんじゃ!」
と、一蹴されてしまいます。

ところが、翌・文明九年の正月・・・その五十子の陣に、景春率いる2500騎が奇襲をかけたのです。

それ以前から、景春の反乱を知って、そっちに乗り換える者や、戦線を離脱する者が相次いでいたうえ、奇襲をかけられた事で、五十子の陣はあっけなく落とされてしまいます

命からがら上野(こうずけ・群馬県)へ亡命する定正と顕定・・・道灌も、彼らとともに一旦、上野へと向かいます。

勢いに乗った景春には、関東の国人や地侍が次々と味方になります。

その中には、太田氏に旧領を奪われていた鎌倉幕府の名門・豊島氏もいましたが、4月に『江古田・沼袋の戦い』(4月13日参照>>)で、この豊島氏を破った道灌は、何とか五十子を奪回し、定正と顕定を五十子に復帰させる事に成功します。

しかし、状況は未だ一触即発・・・しかも、景春側が明らかに有利な状況は変わりません。

この状況を一変すべく、チャンスをうかがう道灌・・・そこへ、景春が梅沢(埼玉県本庄市)に向けて出陣したとの知らせが舞込んできます。

文明九年(1477年)5月13日知らせを聞いて即座に出陣し、景春の背後に迫る道灌・・・それに気づいた景春は、居城・鉢形城へと軍を戻そうとしますが、武蔵用土原(埼玉県深谷市)針金において、道灌の軍勢とぶつかります

その戦況は・・・
不意を突かれた形になった景春の軍勢は浮き足立ち、またたく間に総崩れとなってしまい、道灌にとってはラッキーな大勝利となったのです。

その後、鉢形城へと逃走した景春を囲んだ道灌でしたが、こんな時に限って、例の古河公方が動きはじめ、この時は、それ以上景春を追い詰める事はできませんでした。

この、道灌と景春との戦いは、途中、景春と同族の長尾為景(ためかげ・上杉謙信の父)らを巻き込みながら、翌年、道灌が鉢形城を落し、景春が古河公方を頼って落ち延びるまで、何度となく繰り返される事になりますが、景春が頼った古河公方も、その頃には、最初に大暴れした頃のテンションはなく、長期に渡る合戦続きでややお疲れ気味・・・。

結局、文明十四年(1482年)には、古河公方が両上杉氏と和睦する事になり、一連の合戦は終焉へと向かいます。

しかし、こうして一連のなりゆきを、最後まで、ご覧になってくださったあなた・・・
「両上杉は何やっとんじゃ!ガンバってんのは道灌ばっかりやん!」
と思いませんでしたか?

実は、そう思ったのは私たちだけではありません。

道灌の主君である扇谷上杉定正・・・彼も、この事に気づいていました。

道灌の強さに驚き、それに脅威を抱いた定正は、いつか取って変わられるのではないか?という不安にかられ、結局、道灌はこの主君の手によって、入浴中に襲われ、その命を落す事になるのです。

冒頭に書いたように、諸葛孔明の再来と言われるほど戦い方がうまかった道灌・・・お風呂での謀殺は、「そんな道灌らしくない死に方だ」と、よく言われますが、それだけ、合戦以外の場所で、主君に殺されるとは、考えてもみなかったのかも知れません。

入浴中は無防備だからなぁ・・・特にシャンプー中は要注意!ですね。
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2008年5月12日 (月)

ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2

 

今日は、明治二十四年(1891年)5月11日に起こった『ロシア皇太子襲撃事件=大津事件』の後半・・・・・・犯人である津田三蔵の処分についてのお話です。

昨日の記事がまだの方は、そちらから先に読んでいただけるとありがたいです・・・コチラから5月11日のページへどうぞ>>

・・・・・・・・・・・

さて、その後もマスコミは連日のように書きたてます。

「こんな一巡査の軽率な行動で、ロシアの関係が悪化したら、どうするのか!国賊・津田三蔵をただちに処刑すべきだ!」と・・・。

もちろん、政府高官も同様です。

苦労して幕末を乗り越え、やっと国際社会へと乗り出した日本が、また、外国から野蛮な国として見られるような事にでもなれば、ロシアだけでなく、他の国との様々な交渉に影響を及ぼすかも知れません。

政府は直ちに動き始めます。

彼らの目的はただ一つ、一刻も早く裁判を終らせ、すみやかに犯人の津田を死刑にする事です。

その言い分は・・・
「刑法第116条:天皇や皇族を殺害、あるいは殺そうとした者は死刑」
という条項を、特例としてロシア皇太子にも適用し、津田を極刑に処すべきであるというもの・・・。

早速、5月18日には、本来なら、大津で起こったこの事件は、大津地方裁判所にゆだねるべきところを、現在の最高裁である大審院(だいしんいん)で扱い、しかも一審終審(裁判は一度だけで上訴を認めない)とする・・・という異例の発表するのです。

さらに、山田顕義(あきよし)司法大臣や西郷従道(つぐみち)内務大臣らが、大審院の裁判長や判事たちに、津田を死刑にするよう働きかけます。

しかし・・・
政府が躍起になり、マスコミがあおりたて、まさに、国民世論も死刑一色にに染まっていたこの時・・・ただ一人、冷静に、この事件を見つめている人物がいたのです。

当時の大審院の頂点である大審院長を務めていた児島惟謙(こじまこれかた)です。

彼は、「この大津事件に第116条を適用する事はあり得ない」と考えていました。

第116条では、あくまで日本の天皇と皇族・・・ロシア皇太子は、天皇でも皇族でもないのですから、適用されるべき物は一般の傷害事件・殺人未遂事件の法律であるべきです。

それを「特例」などと言って、無理やり適用するのは言語道断、法令に特例なんてあってはならない・・・・まして、それが政府の圧力による物となれば、なおさらだと考えていたのです。

児島は、政府側にかたよりつつあった裁判官や判事たちを集めて・・・
「俺らは、行政とは独立した司法を守るべき立場にある裁判官やないか。
政府の圧力に屈して法を曲げたら、もはや立憲国家とは言えん。
正義は私情より重いんやで・・・」

・・・と、説得。

児島の、この言葉を聞いて、裁判官や判事たちも冷静を取り戻します。

法令の解釈に私情を挟んだり、司法が行政に影響されたりなどは、絶対にあってはならない事なのですから・・・。

しかし、密かにスパイを放って、彼らの様子を探っていた山田と西郷は、公判開廷を明日にひかえた5月26日、何としてでも第116条を適用させようと、児島に会いにやって来るのです。

山田・西郷らと会見した児島は、当然・・・
一時の感情で法を曲げる事は、立憲国家の崩壊を意味します。」
と主張します。

すると、西郷は・・・
「普通の殺人未遂で津田を裁いて、もしロシアが攻めてきたらどうなる!
ささいな法律のために平和が守れず、それこそ国家が崩壊してしまうぞ!」

「法律を守れない国家は、もはや国家ではありません。
ロシアとの関係がどうなろうが、それは裁判官の関わる事ではなく、行政の仕事・・・裁判官は、ただ、法律を守る事だけが仕事ですから・・・。」

司法と行政が分立していなければならない事は、誰もが知っている事・・・意見としては、児島のほうが筋が通っているわけで、反論できない西郷は、ハッタリをかまします。

「我々は、勅命(ちょくめい=天皇の命令)で、こうしてアンタに会いに来てるんや。
それでも、あんたは承知せーへんのか?」

「たとえ、天皇のご命令でも、それが法律に違反するものなら、私は、その事を訴えますが、その今回の天皇のご命令というのは、“第116条を適用して津田を死刑にせよ”という内容なんですか?
私は、そんな内容の勅命が出された事は聞いてませんけど・・・」

結局、西郷は反論できず、しぶしぶ引き下がり、そのまま、法廷へと突入します。

結果・・・
「謀殺未遂在・・・刑法第292条、第112条、第113条により、被告・津田三蔵を無期徒刑(無期懲役)に処す」
という判決が下されました。

第116条は適用されなかったのです。

何とか守られた司法権・・・しかし、津田を国賊と見なしていた国民世論は、さぞやお怒りに・・・と、思いきや、これが意外にも、司法の判断に拍手喝采の嵐でした。

あれだけ熱くなっていた政府とマスコミと国民の中で、一番最初に冷静に事のなりゆきを見ていたのは、他ならぬ国民だったのです。

なぜなら、昨日書かせていただいたように、ロシア皇帝は、ニコライ2世の帰国後、間もなく、「日本側の歓迎、事件後の対応に、大いに満足し、感謝している」との電報を送ってきていました。

当然、この事もマスコミは報道しますから、国民の間には「ロシアの機嫌をそこねる事は無かった=戦争にはならない」との安心感が生まれます。

そうすると、今度は、「法律を曲げてまで、無理やり津田を死刑にしようとしている政府って、どないやの?」との考えに行き着いたわけです。

世論が傾きはじめると、マスコミは、今度は国民に同調・・・せっせと政府批判の記事を書きたてます。

結局、政府は、言論統制をおこない、政府批判の記事を載せている新聞の発行を停止させて、その場をしのぐ事になります。

やがて、ロシア皇帝は、今回の判決に満足している事を発表し、欧米諸国も日本の司法権が独立している証拠だと、判決結果を絶賛します。

政府が一番気にしていた、対・外国の日本への印象は、この判決結果によって、むしろ、良くなったのです。

こうして、とにもかくにも、一つの結果を見た大津事件・・・

しかし、児島は、一年後に起こった大審院判事らによる花札賭博事件の責任を追及される事に・・・後に、賭博事件はでっちあげだった事が発覚するのですが、それでも監督責任を問われ、結局、大審院長を辞職する事になってしまいました。

そして、一方の死刑を免れた津田三蔵ですが・・・
これが、判決の3ヶ月後に獄中で病死したというのです。

これには、後藤象二郎伊藤博文暗殺の密談していたなどのウワサもありながらも、結局は、単なる病死でかたずけられ、何とも後味の悪い結果に・・・

そんな津田三蔵・・・やがて、訪れた日露戦争の時には、「愛国の志士」として、再び、マスコミによって祭り上げられる事になるのですから、何だかお気の毒・・・

もう、そっとしておいてあげてって気がしますね。

*蛇足ではありますが、よろしければ2013年5月11日の【大津事件…その後】もどうぞ>>

*西南戦争関連ページ
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2008年5月11日 (日)

ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・1

 

明治二十四年(1891年)5月11日、来日中のロシア皇太子・ニコライ2世が、警備中の巡査・津田三蔵に斬りつけられて負傷するという『大津事件』が発生しました。

・・・・・・・・・

明治二十四年(1891年)5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライ2世が、琵琶湖で遊覧を楽しんだ後、京都のホテルに戻る途中の滋賀県・大津にて、突然飛び出して来た暴漢に襲われたのです。

幸い皇太子は軽傷で、犯人もすぐに取り押さえられるのですが、その犯人が、なんと!皇太子を警備していた巡査の一人・津田三蔵・・・この事件が、当時の日本を震撼させた一大事件=大津事件です。

津田の供述によれば、その動機は・・・
「ロシア皇太子は、日本を植民地にするため、その視察に訪れたと思った」
というのです。

この一巡査の行動に、驚きまくったのは、当時の明治政府・・・即座に彼を乱心者とし、極刑にすべく動きはじめるのです。

しかし、津田にそのような思いを抱かせたのは、他ならぬ政府であり、それに同調したマスコミでした。

当時、ロシアは世界屈指の強国・・・それまで、中央アジアへの領国拡大を狙っていましたが、すでにインドまで支配していたイギリスの抵抗を受けて、今、現在ではシベリア鉄道の開発に重点を置いていた事で、南への進出を断念し、今度は東西へと手を伸ばして来るのではないか?と政府は予測していたのです。

つまり、満州から朝鮮半島・・・そして、やがて日本へと・・・

そのタイミングでのニコライ2世の訪日・・・マスコミは連日のように、ニコライ2世の来日理由を「日本の国土・地形を探る目的である」とか、「日本の軍備を偵察するためである」とか、と書き立てていたのです。

政府がそう思い、マスコミが報道すれば、国民は当然「そうなのだ」と思い込み、人々は恐怖に包まれる事になります。

巷には、『恐露病(きょうろびょう)なんて流行語が飛び交うくらいだったのですから、犯人・津田が特別な思い込みを抱いて、彼だけが乱心したのではなく、むしろ、そんな恐怖におののいていた大勢の国民の中の一人だったわけです。

実際には、ニコライ2世の来日の目的は100%観光旅行で、エジプトからスリランカを経て、シンガポールタイなどの東南アジアの各地を巡って、最後にやって来たのが日本・・・

それも、彼は、当時ヨーロッパで大ベストセラーとなっていたフランス人作家・ピエル・ロティ『お菊さん』(長崎を舞台にした外国人と日本人女性のラブロマンス)という小説の大ファンで、日本の文化・・・特に日本女性に憧れまくって、自分もあわよくば、お菊さんのような日本人女性と恋に落ちて・・・なんて感じの、政治色ゼロのルンルン旅行だったのです。

Nikorai2ootucc 現に、皇太子は、長崎に到着してから、日本文化あふれる骨董品を買いまくりの芸者あげまくり!・・・

その後やってきた京都のホテルでは、部屋の畳も「持って帰る~」と言って、すでに、畳30枚を自分の船に積み込み済み、さらに彫師を部屋に呼んで、右腕に龍の刺青まで入れてもらって、それまで上機嫌だったのですから・・・。

そんな中で起きたこの事件・・・明治政府も国民もパニック状態となります。

皇太子・本人はもちろん、ロシア皇帝のご機嫌を損ね、国際問題に発展し、「かくなる上は一戦交えよう!」なんて事になったら大変です。

明治天皇は、一報を聞いた直後に、お見舞いの電報を送り、翌12日には東京を発って、13日には京都のホテルにて療養中のニコライ2世を、直接お見舞いするという素早さ・・・。

しかも、そこで、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王謝罪大使としてロシアに派遣する事を即座に約束し、皇后陛下手づくりの包帯をプレゼント、さらに、「ホテルよりも、より安心な自分の船(神戸に停泊中のアゾヴア号)で、治療に専念したい」という皇太子の意向を聞いて、明治天皇自らが神戸まで同行して移動するという前代未聞の接待ぶりです。

国民も一致団結して、必死の対応・・・政党、県会などはもちろん、学校、宗教団体、銀行ほか各企業などなど・・・代表者が見舞いに訪れたり、謝罪の電報を送ったり・・・何と、電報は一日2万通を越えたのだとか・・・もちろん、首相の伊藤博文も直接お見舞いに行ってます。

これほど多くのお見舞いや電報が寄せられたのは、何とかご機嫌を取りたい政府のウラからの呼びかけに答えたものでありましたが、個人的にも、各・神社仏閣などでの治癒祈願・祈祷、料理屋での芸者・舞妓の鳴り物自粛など、自発的な行為もたくさんありました。

それだけ、皇太子の来日前にやたら恐怖をあおったマスコミのせいで、国民自身も恐怖に陥っていたのです。

そんな中、とうとう一人の犠牲者が出ます。

畠山勇子という27歳の女性が、ロシア皇太子へのお詫びと、明治天皇の苦悩を思った内容の遺書を残し、京都府庁の前で、かみそりにてノドを切断し、自殺をはかったのです。

これによって、マスコミ・世論は、ますます熱くなります。

自殺した彼女は英雄扱いされ、逆に、犯人・津田は国賊・・・津田の故郷の村の村会では、「今後、津田の姓、三蔵の名を付けてはならない」なんて、普通では考えられない内容が議決されてしまうほどでした。

やがて、皇太子は19日に帰国する事が決まり、政府は、その日に盛大な送別会を企画するのですが、皇太子はその誘いを断り、逆に、明治天皇を、「自身の船・アゾヴア号に招待したい」と言います。

「すわ!天皇をロシアで連れて行くつもりだ!」と、政府内が慌てふためく中、明治天皇は、堂々と、この誘いを受けたのです。

結局、それは単なる懇親会・・・天皇は、楽しい接待を受けて戻って来られたわけですが、さすがに、この決断には勇気がいった事でしょうね。

そこのところは、ニコライ2世も察していたようで、この明治天皇のアゾヴア号への訪問を大いに喜び、超ゴキゲンで母国に戻られたのです。

その後、ロシア皇帝からも、「日本側の歓迎、事件後の対応に、大いに満足し、感謝している」との電報も送られてきた事により、ひとまず、この事件によって、日本とロシアの関係が悪化するような事にはならなかったようです。

はてさて、スッタモンダのあげく、ようやく、一段落した大津事件ですが、ここで、終わりではありません。

そう、犯人・津田三蔵の処分です。

上記の通り、国賊扱いされた彼は、この先どうなるのか?

この記事の序盤で書いた通り、「ロシアのご機嫌を損ねてはならない」と、政府は、彼を極刑にしようと必死です。

しかし、それは、明らかに政治による司法への介入・・・罪を犯した犯人が裁かれるのは当然ですが、そこに、横から圧力がかけられては法治国家と言えません。

この後は、被害者であるロシア皇太子のうかがい知らぬところで、新たなドラマが展開され、新たな主役にご登場いただく事になるのですが・・・お察しの通り、記事が長くなりそうなので、そのお話は明日・・・後篇でどうぞ>>

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2008年5月10日 (土)

武田信玄と勝頼の年表

このページは、ブログにupした武田信玄・勝頼のエピソードを年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップという事で、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりませんので、年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamontakedaccn_2

・・・・・・・・・

出来事とリンク
1521 11 3 飯田河原の戦いの最中に信玄・誕生
【武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い】
1536 12 28 信玄・初陣
【武田信玄の初陣~海ノ口城・奇襲戦】
1541 6 14 父・信虎を追放する
【信玄が父を追放したワケは?】
1542 6 24 信玄が信濃攻略を開始
【武田信玄・信濃攻略への第一歩in諏訪】
9 26 駒井高白斎が福与城を包囲
【武田の気象予報士・駒井高白斎】
1544 10 29 伊那に進攻
【武田信玄の伊那進攻】
1546 7 5 信玄が春日源助へ手紙を…
【春日源助へ~武田信玄のラブレター❤】
1547 8 17 信濃志賀城を攻略
【3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略】
1548 2 14 上田原の合戦
【信玄・痛手~上田原の合戦】
1550 9 9 戸石城・攻防戦
【戸石崩れが山本勘助ヒーロー伝説へ?】
1553 4 22 第一次川中島の合戦~更科八幡の戦い
【川中島・前哨戦~更科八幡の戦い】
9 1 第一次川中島の合戦~布施の戦い
【第一次川中島の合戦~布施の戦い】
1555 7 19 第二次川中島の合戦~犀川の戦い
【第二次川中島の合戦~犀川の戦い】
1556 6 28 謙信の出家で大熊朝秀が武田方へ
【謙信の出家~駒返の戦い】
1557 8 29 第三次川中島の合戦~上野原の戦い
【第三次川中島の合戦~上野原の戦い】
1559 4 27 謙信が上洛・北信濃の平定を託される
【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】
1561 9 9 軍議で山本勘助の啄木鳥戦法を採用
【『甲陽軍鑑』の真と偽】
9 10 第四次川中島の合戦~八幡原の戦い
【鞭声粛々・川中島の戦い】
【川中島の合戦はなかった?】
【補佐役に徹した武田信繁】
【「山本勘助⇔山本菅助」その実在は?】
1564 6 24 上杉謙信が弥彦神社に願文を奉納
【上杉謙信の「武田晴信悪行の事」】
8 3 第五次川中島の合戦~塩崎の対陣
【第五次・川中島の戦い~塩崎の対陣】
1566 9 30 上野箕輪城を陥落させ長野氏を倒す
【箕輪城落城~新陰流・誕生の影に・・・】
1567 8 7 信玄が信濃を制覇
【信濃制覇記念~人材活用術と名言】
10 19 嫡男・義信が自刃
【武田の運命も変えた武田義信の自刃】
1568 1 11 上杉謙信が信玄に「塩を送る」
【謙信から信玄へ~「敵に塩を送る」】
4 13 松倉城攻防戦
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】
11 7 本庄繁長の乱
【上杉謙信が本庄城を攻撃】
12 12 薩埵峠の戦い
【駿河に進攻~薩埵峠の戦い】
12 13 今川館の攻防戦
【今川館の攻防戦~駿河を攻略
12 27 掛川城・攻防戦
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
1569 1 18 第2次薩埵峠の戦い
【武田VS北条~d第2次薩埵峠の戦い】
6 17 信玄の長女・黄梅院が死去
【乱世に咲いた可憐な花・黄梅院殿】
10 6 三増峠の戦い
【三増峠の戦い~武田VS後北条】
12 6 駿河蒲原城を攻撃
【武田信玄・蒲原城を奪取!】
1570 7 28 信玄の室・三条殿が死去
【武田信玄の奥さん~三条殿】
1571 3 27 深沢城攻防戦
【信玄・強気の深沢城矢文】
3 第一次高天神城の戦い
【武田勝頼が高天神城を奪取】
1572 3 2 重臣・秋山信友が岩村城を攻略
【岩村城攻防戦~おつやの女の決断】
6 15 日宮城攻防戦で信玄が一揆を扇動
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】
10 3 信玄・甲斐を発つ
【武田信玄、上洛!】
10 13 一言坂の戦い
【家康に過ぎたる~忠勝・一言坂の戦い】
10 14 ~12/19二俣城・攻防戦
【信玄・二俣城を攻略】
10 22 伊平城・仏坂の戦い
【井伊・伊平城の仏坂の戦い】
12 22 三方ヶ原の戦い
【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
12 23 三方ヶ原の戦いの首実検を行う
【三方ヶ原後~犀ヶ崖の戦い平手の死】
1573 1 11 野田城・攻防戦
【武田信玄最後の戦い~野田城攻防戦】
4 12 武田信玄・没
【武田信玄公の命日なので】
1574 2 5 勝頼が織田方の明智城を奪う
【信玄の死後に勝頼が動く~明智城陥落】
4 5 家康が武田に内通した大賀弥四郎を処刑
【家康を鬼にした?大賀弥四郎の処刑】
5 12 第二次高天神城の戦い
【武田勝頼が高天神城を奪取】
5 19 真田幸隆(幸綱)が死去
【謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆】
1575 4 21 勝頼軍が長篠城を囲む
【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】
5 16 救援要請をした鳥居強右衛門が磔になる
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
5 18 織田・徳川連合軍が設楽原に到着
【設楽原で準備万端…どうする?勝頼】
5 20 武田勝頼が設楽原へ進発
【長篠の勝敗を決定?鳶ヶ巣山砦・奇襲】
5 21 長篠の合戦
【決戦!長篠の戦い】
【長篠の合戦!武田氏の真の敵は?】
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
8 24 諏訪原城が落城
【徳川VS武田~諏訪原城の戦い】
1576 4 16 武田勝頼が父・信玄の葬儀を行う
【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】
1581 3 22 第三次・高天神城の戦い
【武田滅亡へのカウントダウン~高天神城】
1582 2 9 甲州征伐、開始
【織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始】
2 20 依田信蕃が田中城を開城
【家康が見込んだ殺すに惜しい男・信蕃】
3 1 穴山梅雪が織田&徳川に内通
【裏切った穴山梅雪…運命の分かれ道】
【穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世】
3 2 高遠城が陥落し仁科信盛が自刃
【勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信】
3 11 武田氏・滅亡
【武田勝頼、天目山に散る】
【天目山…武田勝頼の最期】
勝頼夫人・自害
【内に秘める烈女魂~北条夫人桂林院】
3 24 戦後の信長の動き
【戦後の信長…論功行賞と訓令発布】
4 3 織田信忠が恵林寺を攻撃
【織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件】
番外編 【あの東郷ターンを生んだ甲州水軍】
【風林火山・孫子の兵法】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【天下人だけが成しえた城割の重要性】
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】
【戦国武将と茶の湯の流行】
【政略結婚と女性の役割】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【戦国から江戸の城の変貌】
【娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止】

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2008年5月 9日 (金)

大江戸・プロフェッショナルな女性事情

 

今回は、おそらく『教科書に載らないだろうシリーズ』【大江戸・堕胎業禁止令】5月2日参照>>)の続き・・・その時に、「近いうちに」・・・と追記させていただいていたプロフェッショナルな江戸の女性のお話をさせていただきます。

またまた下ネタではありますが、これも歴史の一面という事で、お許しを・・・

・・・・・・・・・・

以前、【三くだり半】(5月15日参照>>)のところで書かせていただいたように、こと法律においては、『大宝律令』の昔から、何となく男尊女卑感が拭えないですねぇ。

当時、世界最先端の大都市であった江戸でも、男性側からは、三行半の手紙一枚で離婚できるのに、女性側からは、豊臣秀頼の娘さんの作った駆け込み寺(昨日・5月8日参照>>)へ逃げ込んで、おかみのご沙汰を待たなくちゃならない・・・

・・・と、何となく女性が不幸なイメージがありますが、その三くだり半のページにも書かせていただいた通り、江戸時代の男女の比率は、だいたい3:1・・・つまり、男性全員が一人の奥さんとしか結婚しなくても、二人の男性が余ってしまうわけです。

まして、現在のように一夫一婦制が確立されていたわけではなく、お金持ちは平気で、何人ものお妾さんを囲う時代ですから、ますます男は余ってしまうわけで、女性の側から見れば選び放題・・・必然的に、男尊女卑をひけらかすような男はモテないわけです。

必死で彼女のご機嫌をとって、必死で彼女に嫌われないよう努める・・・それでも、彼女や奥さんを獲得した人は良いですが、上記の通り、絶対に余ってしまいます。

・・・で、当時大ハヤリだったのが、プロのお妾集団です。

これは、自分で見つけたカワイイ女性をお妾に・・・というのではなく、お妾が欲しいと思う男性が口入屋(くちいれや)に行って、そこの主人に頼み、主人は自分の知ってるプロの集団から、女の子を紹介するという物・・・。

この口入屋というお店は、ウラ稼業ではなく、れっきとした職業紹介所・・・今で言うハローワークみたいな物で、ちゃんとしたまじめな職業も紹介していた・・・というか、そっちがメインですが、同時に、こんな紹介もやってたんですね。

当時は売春禁止法っつーのがありませんから、これも、一つの商売・・・売るほうも買うほうも、紹介するほうも、ビジネスと割り切ってのお付き合いなんでしょうね。

そんな中、『風軒遇記(ふうけんぐうき)という文献には、明和・安永年間(1764年~1781年)に、史上最悪のプロのお妾集団が存在した事が書かれています。

この集団の名は「通称:小便組」と呼ばれたそうですが、ここに所属する女性はいずれも美人揃いで教養も高く、中には武家の娘もいて、価格ランクも上の上・・・

一両あれば、一年分の米を買える時代に、彼女たちは、契約時の支度金だけで三両~五両・・・もちろん、月々のお手当ても別にいるわけですから、ハンパじゃありません。

・・・という事は、やっぱり彼女たちと契約する男も、それなりにお金を持っている男でなくては、話になりません。

そして、首尾よく、お妾となる契約が成立したら、まずは、彼女たち・・・例のごとく上手に甘えて、お金やプレゼントをねだります。

高級感あふれる彼女たちですから、男のほうも張り切って、それに見合う高級な品々をプレゼント・・・やがて、散々金品を吸い上げた後、ころあいを見計らって、一緒に寝所に入った夜に、オネショをするのです。

突然の事にびっくりする男・・・そのただ一度で、冷めてしまう者もいれば、一度や二度は何とも思わない人も・・・そして、やたら怒る人もいますが、とにかく、相手が愛想をつかして、「もう、いらない」と言うまで、毎晩々々、オネショが繰り返されるのです。

中には、「小で効き目がないなら・・・」と、大をした女性もいたとか・・・。

・・・で、ようやく男が「縁を切りたい」と申し出たところで、高額の手切れ金を要求・・・そして、フリーになったら、また口入屋から紹介してもらって・・・という具合に、詐欺的行為で大儲け!

彼女たちの事が世間に知れ渡るまでの10年間ほどで、ガッポリと稼ぎまくったのたとか・・・そして、世間に、集団の事がバレるようになったところで、キッパリとやめてしまうところまで、まさにプロ・・・。

悪女に手玉に取られ、食い物にされた男性諸君が、その後、立ち直られたのかどうかが心配ですが、これは、あくまで事件・・・一般的ではない話なのでご安心を・・・
 

なんせ、江戸も後期の天保年間(1830年~1844年)には、「安囲い」というシステムが登場するそうですから・・・(男性諸君はぜんぜん懲りてない)

これは、「一人でお妾さんを囲うほどのお金持ちじゃないけど、やっぱお妾さんを囲いたい」という男性たちが集まって、何人かで一人のお妾さんを囲い、その費用をワリカンにしようという、「何て事するんだ!」と言いたくなるようなシステムですが、女性も承知して契約を結んでいた事を考えたら、どっちもどっち・・・。

やがて、黒船でやってきたあのペリーさんによって、「日本人は、平気で裸体を見せる未開な人種」と言われた事で、維新を成した明治政府は、混浴をはじめ、裸や男女関係に対する、それまでの日本の観念を払拭しようと、様々な事を禁止し、法律を定める事によって、国もそして、日本人自身も、明治以前の考え方が一掃される事になります。

しかも、この、明治の頃には、人口の男女比も、女性が男性の数を上回るようになっていたため、江戸時代のような事は無くなりました。

今では考えられないお妾さんシステムですが、現在とは、根本的に尺度が違いますから、同じ土俵の上で比べる事はできません。

・・・で、冒頭にも書かせていただいたように、これも、歴史の一面という事で、今日は書かせていただきました。
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2008年5月 8日 (木)

大坂城・落城~脱出した秀頼の娘は・・・

 

慶長二十年(1615年)5月8日は、大坂夏の陣での大坂城・落城の日・・・

このブログでは
落城の経緯や秀頼・生存説(2007年5月8日参照>>)
淀殿・生存説(2009年5月8日参照>>)
なんてのも書かせていただいておりますが、ご承知の通り、生存説はあくまで俗説・・・

やはり豊臣秀頼と、その母・淀殿は、この日、大坂城と運命をともにしたはずです。

そして、この時、燃え盛る大坂城から脱出したのが、秀頼の正室となっていた徳川家康の孫・千姫・・・以前書かせていただいたように、彼女は、秀頼と淀殿の命乞いのために、決死の脱出を試みるワケですが、残念ながら、その願いは叶えられませんでした(2月6日参照>>)

・・・と、このように、千姫は、わずか7歳の時に、親の勝手で決められた政略結婚にも関わらず、夫・秀頼の事、そして豊臣家の事を、かなり良いように思っていた事がうかがえます。

ままごとのような結婚ではありましたが、意外に仲睦まじかった二人・・・しかし、ご存知のように、秀頼と千姫の間には子供がありません。

ただし、秀頼は、側室との間に、
8歳になる男児・国松
7歳になる女児の二人の子供をもうけていました。
もう1人男児がいたというお話は下記リンクの【国松・斬首】のページ>>で紹介しています)

そう、この千姫と前後して、この秀頼の子供たち二人も、燃え盛る大坂城から脱出していたのです。

どうやら家康は、秀頼に子供がいた事を知らなかったようで、落城後、数日経ってから、慌てて捜索の命令を出しています。

やがて5月21日国松は伏見にかくれていたところを発見され、京中引き回しの上、六条河原で斬首されてしまいます(10月17日参照>>)

・・・で、女の子のほうは・・・
実は、国松が発見されるより早く、5月12日に京極忠高によって発見されています。

忠高は、あの京極高次の側室の息子・・・つまり、義母は、淀殿の妹・です。

初は、先の国松も、徳川にわからぬようにこっそりと育てていたようですで、おそらく、この少女の居所も把握していた物と思われますが、もはや勝敗が決してしまった以上、永遠に隠し続ける事はできないと判断したのかも知れません。

しかし、この少女を体をはって助けようという人が現れます。
そう、先ほどの千姫です。

秀頼と淀殿の命を救うという願いを託され、決死の脱出を計りながら、叶える事ができなかったその思い・・・彼女の心残りが、いっそう、そのような行動に駆り立てたのかも知れませんが、とにかく、千姫は、祖父・家康に訴えるのです。

「この子は、私が育てます。どうか命だけは・・・」と・・・。

自分が攻撃した城から、命からがら脱出してきたカワイイ孫娘が、涙ながらに訴える姿・・・もう、ジィチャンの男心を、100%くすぐりまくりです。

かくして、女の子は千姫の養女となり、彼女のもとでしばらくの間、過ごす事になります。

やがて、一年後、8歳になった彼女は、鎌倉松ヶ岡東慶寺に入る事なりました。

彼女が、尼になるにあたって、家康は・・・
「何か願いはないか?」
とたずねます。

すると、彼女は・・・
「東慶寺は、開山以来、女性の救済を掲げている寺だと聞きました。
できれば、その女性の救済がより強く、そして永遠に続くよう・・・私の願いは、それだけでございます。」

家康は、「承知した」と・・・

やがて、成長した彼女は、それまでは、ただ単に、困った女性が尼寺へ逃げ込むだけにしか過ぎず、何の権限もなかったシステムから、寺が女性に代わって離縁の調停を行い、夫が応じるまでの間、女性を寺で預かり、必ず解決するという、はっきりとした女性救済のための『縁切り寺法』の確立に尽力するのです。

縁切り寺=駆け込み寺です。

最初は、いくつかあった駆け込み寺も、何やかやと縮小され、結局、江戸時代を通じて、その権限が幕府から認められていたのは、全国に2ヶ所・・・この東慶寺と、上野(群馬県)満徳寺・・・。

それは、この二つの寺にだけ与えられた特権でした。

いつも、どんな時でも、彼女が出家した時に家康としたあの日の約束・・・「家康様のご意向である」というのが、東慶寺の寺法をゆるぎない物にしていたのです。

そして、彼女は、東慶寺中興(復興させた人)の大和尚と呼ばれるようになります。

東慶寺二十世・天秀尼が、その人です。

しかし、彼女は、その東慶寺の隆盛が確実に成ったであろう正保二年(1645年)、その役目を終えたかのように、まだ、37歳という若さでこの世を去ります。

尼僧ですから、もちろん、子供はいません。

ここに、豊臣の直系の血筋は、完全に絶えてしまうのです。

戦国という世に生まれ、自身の思いとはかけ離れたところで、自分の意志とは無関係の出来事に翻弄された女性たち・・・彼女は、そのような女性たちが、救われる道を切り開く事に、その生涯を捧げたのでしょう。

ところで、東慶寺と同じく、江戸時代を通じて治外法権を守りきったもう一つのお寺・満徳寺・・・ここは、あの時、幼い天秀尼を体をはって守った千姫の入ったお寺です。

ここにも、彼女たち、二人の姫の間に、目に見えない糸がつながっている気がするのは、私だけでしょうか。
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2008年5月 7日 (水)

前田玄以~ただ一人生き残った運命の別れ道

 

慶長七年(1602年)5月7日、豊臣家五奉行の一人・前田玄以が64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

前田玄以(げんい)は、もともと織田信長信忠父子に仕えていた武将・・・あの本能寺の変(6月2日参照>>)の時も、信忠とともに、二条御所に滞在していましたが、本能寺での父の異変を聞いた信忠の命で、幼い三法師(信忠の嫡男)を連れて、寸前のところで二条御所を脱出し、京の町から清洲城まで、その三法師を守り抜いた人です。

信長・信忠亡き後は、信長の次男・信雄の家臣となりますが、その信雄さんが例のごとく、羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入っちゃったものですから(11月16日参照>>)、当然、彼も、秀吉の配下となります

玄以さんは、根っからのマジメ人間で、ことのほか地道・・・自分の立身出世に対して野望をもくろみ、「スキあらば、のし上がってやろう」というようなところは、まったく無かった人であったらしく、信長も秀吉も、彼の事をことさら信頼していたようです。

秀吉が、その死のまぎわに、「秀頼を頼む・・・頼む・・・」と、くりかえし懇願した五大老五奉行・・・その五奉行の中に、名を連ねるのも、その信頼の証しと言える物です(8月18日参照>>)

その五奉行とは・・・
石田三成浅野長政増田(ました)長盛長束正家前田玄以の五人。

やがて、秀吉亡き後の慶長五年(1600年)、彼ら五奉行の運命の別れ道がやってきます。
そう・・・関ヶ原の合戦です。

上記の五奉行の中で、浅野長政は、秀吉の奥さん・ねねさんとは義兄弟という事で、系図的には最も豊臣家の近くにいるのですが、この少し前に起こった家康暗殺未遂事件に関与しているとの疑いがかけられたため、家督を息子・幸長に譲って隠居し、この関ヶ原の合戦の時には、ご本人は武蔵(埼玉県)に籠りっきりの生活を送っていました。

・・・で、結局、残る四人の中で、かの徳川家康へ向けての軍事行動の大義名分を掲げる書状が作成される事になるわけですが・・・

まずは、毛利輝元に西軍の総大将になってもらうための連署状・・・
これは、三成と大谷吉継との密議によっておおむね決定され、玄以・長盛・正家らの名が連なります。

次に、家康の豊臣に対する悪事を書き連ねたチクリ状である弾劾状・・・(7月18日参照>>)
これも、三成が草案を考え、玄以・長盛・正家らの署名がある物で、諸大名へと配られ、西軍への参戦の檄文の意味も込められていました。

つまり、この四人は、完全に同じ西軍のみこしの上に乗っていた状態となります。

ところが、この四人の中で、ただ一人、玄以だけが関ヶ原の合戦の後も、生き残るのです。

その違いは何なのでしょうか?

結局、関ヶ原の合戦当日、実際に武器を取り、関ヶ原まで出陣したのは、ご存知、石田三成と長束正家・・・残る二人・増田長盛と前田玄以は、豊臣秀頼の側近として、大坂城内に留まっていました

ご存知のように、合戦の勝敗は、その日のうちに決し、実際に合戦に参加していた三成は捕らえられ斬首(10月1日参照>>)

正家も、西軍壊滅の後に逃走し、居城にたどりつく前に追手に包囲され、その場で自刃してます。

上記の通り、彼ら二人は、実際に出陣していますから、負けた以上、その死は当然の事のように思いますが、後は、大坂城に残っていた二人です。

確かに、玄以は、スパイとして家康に大坂城内の様子を知らせていたと言われていますが、それなら長盛も同じ・・・いえ、むしろ長盛のほうが、重要な情報を逐一送っていて、その大胆不適なスパイ行為は、大坂城内の噂にもなっていたようで・・・

実際に、長盛の情報は、戦況を左右するような重要な機密であったと言われています。

それなのに、長盛は、まもなく家康によって高野山へ追放され、結局、最後には自害に追い込まれます(5月27日参照>>)

一方の玄以のほうは、まったくの無傷・・・丹波(京都府・兵庫県)亀山五万石は、そっくりそのまま残りました。

実は、ただ一つ・・・大坂城内の長盛と玄以に決定的な違いがありました。

それは、病気・・・。

玄以は、この合戦の直前に持病の中風が悪化していたのです。

それは、様子見ぃの仮病ではなく、本当に重症で、決戦の時には、まるで使い物にならないくらいの状況だったそうです。

その心の内はともかく、実際には何もできず・・・イコール大坂城内で中立の立場を取った事になり、所領は安泰・お家存続という結果になったのです。

冒頭に書いた玄以さんの、性格からしても、要領よく立ち回るような人ではなかったような気がしますので、やはり、この時は、本当に病気が辛かった・・・って事だったのでしょうね。

・・・だとすれば、人間、何が幸いするか、わからないものです。

慶長七年(1602年)5月7日という事は、その関ヶ原の合戦の二年後にはお亡くなりになったわけですが、おかげで前田家は残ったのですから・・・
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2008年5月 6日 (火)

後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣

 

元和元年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いにおいて、後藤又兵衛基次が壮絶な討死を遂げました

合戦の流れに関しては、昨年の5月6日に書かせていただきましたので(昨年の5月6日参照>>)、そちらで、見ていただくとして・・・今日は、後藤又兵衛基次さんを中心にお話を進めさせていただきます。

・・・・・・・・・・

大坂冬の陣の和睦が成立(12月19日参照>>)して、この夏の陣が勃発するまでの間、大坂城は、ひとときの平和に包まれます。

この時、大坂城内で、基次の背中を流した長沢黒兵衛は、彼の全身に無数の刀傷・矢弾の跡を見つけます・・・それとなく、数えてみると53ヶ所も・・・。

そう、後藤基次は、この生き馬の目を抜く戦国の世を、おのれの槍一本で生き抜いてきたツワモノ・・・もともとは、黒田孝高(如水)長政父子に仕えた重臣でした。

九州征伐をはじめ、文禄・慶長の役関ヶ原の合戦でも、数々の武功をあげ、大隈城1万3千石を預かっていました。

しかし、慶長十六年(1611年)、突如として黒田家を離れるのです。

どうやら基次さん・・・お父さんの孝高さんとは大丈夫だったものの、息子の長政さんの事は、好きじゃなかったようです。

長政の小姓をやっていた基次の息子・基則が宴会の席にて、長政の命で小鼓を打ったのを・・・
「ワシの息子は芸人か!」
と怒ってみたり・・。

長政が、九州征伐で失態を犯し、反省の証しに頭を坊主にしたら・・・
「失敗するたんびに毛ぇ剃っとったら、死ぬまでにマゲ結われへんでぇ」
とからかってみたり・・・。

長政が敵将と戦ってる時に、助け舟を出さず見てるだけだったり・・・。

もちろん、それは長政さんサイドからも言える事で・・・。

朝鮮での戦いの最中に、基次がトラを斬った時・・・
「サムライのする事か!兵を斬れ!兵を・・・」
と、怒ってみたり・・・。

あくまで一城主に過ぎなかった基次が、ともに戦った大名たちに慣れ慣れしく話すのを
「タメ口やめろや!友達か!」
と、イラついてみたり・・・。

こういうのを犬猿の仲って言うんでしょうね。

・・・で、結局、腕に覚えのあった基次は、
「なにも、このまま、いやいや黒田家に仕えなくたって、俺ほどの武将・・・なんぼでも仕官の口はあるわい!」
と、ばかりに、バッサリと縁を切って浪人の身になったワケです。

しかし、意外にもなかなか仕官の口が見つからない・・・

いえ、実はあったんです。

それこそ、基次ほどの人物ですから、小倉細川忠興や、広島福島正則らが、フリーになった彼を獲得しようと、動き始めていたのですが、仕官の話が出るたんびに、それをぶっ潰していたのが、かの長政・・・大手プロダクションとケンカ別れしたタレントには、なかなか次の仕事が回って来ないワケですよ。

しかも、彼は、バリバリの4番打者・・・それなりの自信もあります。

せっかく、フリーになったんだから、大リーグ並みの・・・それ相当の年棒でなければ、そのプライドが許しません。

しかし、どんなに腕が立っても、仕官しなければ、ただの浪人・・・あーだ、こーだ、と言ってるうちに、彼は落ちぶれるだけ落ちぶれて、京の都で、物乞いまでするハメに・・・。

そんなこんなの慶長十九年(1624年)、例の方広寺鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、豊臣と徳川の間に不穏な空気が流れはじめ、大坂城には続々と、浪人たちが集まりはじめるのです。

すると、どこでどう聞きつけたのか・・・あの九度山に幽閉されていた真田幸村のもとに使者が訪れたように(10月9日参照>>)、基次にも、「大将として迎え入れる用意がある」との知らせがやって来るのです。

ここに、豪傑・後藤又兵衛基次、復活!
良かった・・・おめでとう!後藤君・・・君は、慶長の中村ノリだ!

一度、底辺を見・・・そして、這い上がって来た男は、最後の主君・豊臣秀頼と大坂城を守るために、命を賭けて戦う事になるのです。

かくして、元和元年(1615年)5月6日一足早く大坂城を抜け出し、真田幸村とともに、撃って出る決意を固めた基次は、道明寺近くの最前線に陣取り、怒涛のごとく浴びせられた鉄砲に、その胸を撃ち抜かれて壮絶な最期を遂げるのです(2016年4月30日参照>>)

・・・と言っても、その波乱万丈の人生を裏付けるかのように、生存説が・・・そう、結局、どこを探しても彼の首は見つかりませんでした。

幸村とともに、秀頼を守って薩摩(鹿児島県)に落ち延びたとも(5月8日参照>>)、数年後に再び京に戻って来たとも、四国の道後温泉で湯治をしていたとも・・・噂は様々に語り継がれています。

現在の大分県には、彼の戒名と同じ名前のお墓があるのだそうで、それならば、ご命日は承応三年(1654年)1月29日となるのですが・・・死してなお、世間を騒がせるのは、大物の大物たる証拠と言えるものでしょうね。

追記:生存説ついでに、又兵衛・出生の秘密の噂もあります→後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?>>
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2008年5月 5日 (月)

端午の節句は女の祭り?

 

今日、5月5日『こどもの日』

「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
というコンセプトのもと、昭和二十三年(1948年)に制定された国民の祝日ですが、ご存知のように、もともとは『端午の節句』と呼ばれた、季節の変わり目に神様に感謝し幸福を願う五節句のうちの一つです。

五節句とは、
「人日(じんじつ)=1月7日」
「上巳
(じょうし)=3月3日」
「端午
(たんご)=5月5日」
「七夕
(ひちせき)=7月7日」
「重陽
(ちょうよう)=9月9日」
の五つで、上巳の節句が雛祭り=桃の節句(3月3日参照>>)に当たります。

今では、3月3日の桃の節句と相対するように、こいのぼりや武者人形などを飾って、男児の健やかな成長を願う男の子の節句となりましたが、現在のような形になったのは、江戸時代の頃・・・もともと端午の節句は女性の節句だったのです。

そもそも・・・
『端午』というのは、その月の最初の午(うま)の日の事を指していましたが、いつしか、5月5日の事を端午と呼ぶようになります。

5月5日の節句の日に行事が行われるようになるのは、奈良時代の頃から・・・中国から伝わった、軒先に菖蒲や蓬(よもぎ)などを飾って邪気を祓う行事として、宮中などで行われていました。

上記のように、もともと節句というのは季節の変わり目、しかも旧暦の5月は、その暑さゆえ、疫病が流行する時期でもあり、体調を崩す人が多かった事から、5月自体が忌月(いみづき・よくない月)とされていたので、「菖蒲や蓬などの邪気を祓うとされていた植物で浄化しよう」というのです。

やがて、中国から伝わったその行事が、農耕民族である日本に広まるにつれ、ちょうど、この季節が田植えの時期に当たり、稲作農家にとっては、一年で最も重要な季節であった事から、田の神様を迎えるにあたって、家を浄化するという、農耕の儀式の意味合いを伴うようになります。

やがて、この日は、「邪気を祓う薬草を家に飾り、浄化した家の中に女性が籠り、来訪した神に五穀豊穣を願う」という儀式が定着し、長い間、5月5日は『女の家』『女の屋根』などと呼ばれる女性中心の行事でした。

もちろん、邪気を祓うのに使用する菖蒲などの薬草を採取するのもこの日で、昨年書かせていただいた額田王(ぬかたのおおきみ)大海人皇子(おおあまのおうじ)の有名な♪あかねさす・・・♪の歌が交わされた時に、額田王が紫草摘みをやっていたのが5月5日というのも、この端午の節句の行事だったワケです(昨年の5月5日参照>>)

そんな女性中心の行事であった端午の節句が男の子節句に変わっていくのは、武士が台頭するようになる鎌倉時代の頃からです。

この端午の節句は、上記のように菖蒲を使う事から『菖蒲の節句』とも呼ばれていたのですが、その菖蒲が尚武(しょうぶ・武芸や軍事などを尊ぶ)にすりかわり、いつしか、武士がこの日を大事にするようになったのです。

武士が大事にするようになると、相撲や凧揚げ、船の競争などの勇壮な行事が、この5月5日に盛んに行われるようになります。

そう言えば、それまで、五穀豊穣や天下泰平を願って5月5日に宮中で行われていた競馬(うまくらべ)神事が、『賀茂競馬(かものうまくらべ)として、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われるようになるのが寛治七年(1093年)・・・時代区分としては平安時代ですが、あの八幡太郎義家後三の役(11月14日参照>>)があったり、院に北面の武士をおいたり・・・と、何やら、武士の台頭を思わせる時代である事は確かです。

この賀茂競馬は、戦国時代の一時期には、あの織田信長豊臣秀吉が、10頭・20頭の馬を献上して競わせるといった、まさに武士の祭りの様相を呈していた事もありました。

やがて、江戸時代になると、5月5日の端午の節句には、大名や旗本が江戸城に出仕したり、子供のいる武士の家では、その成長と武運を願って、鎧や甲を飾ったり、のぼり旗や吹流しなどが立てられるようになって、ほぼ現在のような男の子の節句となります。

ただ、のぼり旗や吹流しなんていうのは、もともと合戦の場においての武士の目印・・・それこそ武士の象徴でありますから、身分の低い者や町民は、のぼり旗や吹流しを立てるわけにはいきません。

それで、江戸も後半になってから考え出されたのが、吹流しを鯉の形にしたこいのぼりです。

鯉という魚自体が縁起が良いのと、竜門の瀧を上りきると鯉が竜なるというあの伝説にも由来し、何より、風に吹かれて泳ぐさまが、大変美しい・・・。

それでも、まだ、江戸時代の間は、一部のお金持ちだけがこいのぼりを立てているだけでした。

それが、現在のように一般庶民の端午の節句の象徴のようになるのが、明治の始め頃・・・。

考えてもみて下さい。
鯉が滝を登って竜になる・・・それは、出世するという事です。
江戸時代には、一般庶民が出世する事など考えてもいなかったのです。

それが明治になって、「頑張ればチャンスがあるかも・・・」という、出世への期待が庶民の間にも生まれるようになり、こいのぼりは一気に広がっていったようです。
 

はてさて、端午の節句が、女中心であろうが男の祭りであろうが、武士の物であろうが国民の祝日であろうが・・・

悪しき者から、わが子と家を守り、健やかな成長と安全を願う親の心は、いつの時代も変りのないもの・・・それが永遠に続く事を願って、今年もこどもの日を祝う事にいたしましょう。
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2008年5月 4日 (日)

荒木村重・謀反の真意は?

天正十四年(1586年)5月4日、利休七哲の一人荒木村重が52歳でこの世を去りました

・・・・・・・・・・

荒木村重・・・この人ほど、人生の前半と後半で生き方が変わった人はいないのではないか?と思うくらい、見事な転身をした人です。

まずは、主君・池田家の内紛に乗じて、池田勝政(勝正)高野山へ追放して、池田家を乗っ取ります

その後、池田家と肩を並べる和田家伊丹家を滅ぼして、摂津(大阪・兵庫)を統合し、一武将から大名へとのし上がるのです。

この斉藤道三を彷彿とさせる下克上ぶりを、あの織田信長は大いに気に入った様子で、そんな村重を特別待遇で、自らの傘下に迎え入れます。

元亀元年(1570年)に勃発した石山本願寺との合戦でも大活躍・・・天正元年(1573年)に浅井長政を滅ぼした時には、摂津守(せっつのかみ)という官位も授かっています。

ところが、天正六年(1578年)の10月21日・・・いきなり、信長に反旗をひるがえし、本願寺+毛利方に寝返るのです。

信長に対して、一方的に『本願寺+毛利派に味方する宣言』を発して、居城・有岡城(兵庫県伊丹市)籠ってしまう村重・・・。

さすがの信長も、その真意がわからず、何度も使者を派遣して(12月8日まん中部分参照>>)、その心の内を探ろうとしたり、「籠城なんてやめな!帰って来いよ~」説得したりしています

あの信長さんが、ブチ切れずに、説得してる時点で、いかに村重が優遇されていたかがわかるのですが、信長さんじゃなくても、わからないのは、そんなに大事にされていた信長に謀反を起した彼の心理です。

本当のところは、もちろん、村重本人に聞くしかないわけですが、今のところの推理は二つ・・・疑惑説と野望説です。

その疑惑説というのは、石山本願寺戦での包囲中に、村重の部下が本願寺に兵糧を横流ししていた事と、毛利方の神吉城(兵庫県加古川市)で敵兵を逃がしてやった事・・・もちろん、この疑惑の真偽のほどもわかりません。

ただ、信長の息子・信忠が、(上記の件の事を)誰かにチクられて仕方なく籠城したんだよね」と、村重を慰めるような手紙を送ったとの記録もあり、ホントかウソかに関わらず、信長に疑いをかけられた時点で、「もう、後に退けない」と思った可能性もあります。

もう一つの野望説は、あの宣教師・ルイス・フロイス・・・。

フロイスは「信長に敵対するのが、その時、天下を取る一番の近道であった事を彼(村重)は知っていたのだ」という風な事を書いています。

確かに、信長の傘下にいる限り、村重は摂津一国の主でしかありません。

しかし、もし、現在戦っている石山本願寺戦で、本願寺+毛利が勝ったら、自分は、信長とその重臣たちの上へ行ける事になります。

うまくいけば、畿内一円を牛耳る事も不可能ではないかも知れません。

本願寺+毛利の勝利という思惑が、絵空事ではない事は、この時、高槻城主高山友照が、村重に同調した事からも推測できます。

もちろん、友照だけではなく、摂津や播磨(兵庫県)多くの武将が、この時点で毛利に寝返るのですから、やはり、それだけ勝算があったという事でしょう。

現に、この村重の寝返りで、信長はかなり窮地に立たされる事になるのです。

しかし、信長のほうが一枚上手でした。

信長は、翌11月、即座に朝廷を通じて、石山本願寺に和睦を申し込むのです。

この和解は、結局、本願寺側が拒否したため、合戦がこの時点で終る事はありませんでしたが、時間は稼げます。

そう、信長はその間に、村重に同調した者たちへの切り崩し作戦に入るのです。

武将一人一人に、再び、味方になるように説得します。

この時、茨木城主中川清秀をはじめ、先ほどの友照の息子・高山右近も、悩んだ末、親子断絶覚悟で、信長についています(1月5日参照>>)

そうしておいて、信長は、自らが率いる大軍で、有岡城に攻撃を仕掛けるのです。

そんな中、一年近く踏ん張った村重でしたが、頼みにしていた毛利の援軍も来ない事がわかった天正七年(1579年)の9月さすがに負けを覚悟し、自刃か?・・・と思いきや、わずかな重臣だけを連れて、有岡城を抜け出し、息子のいる尼崎城へと逃亡を計るのです。

この時の、村重の格好がイケてます。

背中には、兵庫壷と呼ばれる茶壷を背負い、腰には立桐鼓という鼓(つづみ)をくくりつけての決死の脱出!

冒頭に書きましたように彼は、『利休七哲の一人』・・・茶の湯の道具とお能の道具は命の次に大切な物・・・「離すもんか!」と身体に固定していたのです。

そして、城主のいなくなった有岡城は、村重が脱出してから、わずか1ヶ月後の10月16日に開城されるのですが、当然、謀反を起した張本人がいない事にお怒りの信長さん・・・。
(ちなみに、この時、幽閉されていた黒田官兵衛(孝高・除如水)が救出されてます=10月16日参照>>

残っていた重臣が、信長と話し合い、「村重の降伏と、尼崎城の開城を条件に、現在、有岡城内にいる者の命を助ける」という約束を、何とか取り付けました。

しかし、何と、村重はこれを拒否し、そのまま、尼崎城からも姿をくらまします。

つまり・・・城内に残った妻子や家臣を見捨てた事になるワケです。

結果、開城から2ヵ月後の12月16日・・・当然の事ながら、荒木一族の妻子や兵はもちろん、女中にいたるまでの約600人は、京の市中を引き回され、斬首やはりつけ、火あぶりによって処刑されてしまうのです(12月16日参照>>)

その後も、点々と逃亡生活を送る村重・・・(3月2日参照>>)

やがて、再び姿を現すのは・・・そう、本能寺の変で信長が死に、豊臣秀吉の天下がやって来た頃です。

出家して道薫と号していた村重は、趣味の茶の湯の関係からに住み、やがて、秀吉のお伽衆(主君の話し相手となる側近)となるのですが、もう、その頃には、茶道も能楽もプロ並み・・・というよりは、もはや芸術家として大成し、その後は、茶会に明け暮れる余生を送ったのです。

なんせ、利休七哲の一人ですから・・・。

確かに、有岡城を脱出する時の、一件を見れば、茶の湯や能を大事にしていたのはわかりますが、まるで、武将としての再起を、まったく忘れたかのようにも見えるのです。

もし、信長への敵対の要因が疑惑にあるのなら、信長が呼び戻そうとした時に、戻る事もできたはず・・・逆に、その要因が野望にあるなら、妻子と家臣を見捨ててまで、命永らえたのですから、是非とも再起を計っていただきたかった・・・。

そんな村重さんは、天正十四年(1586年)5月4日、主君を倒して下克上を成した頃とは、別人のように、芸術家・茶道家として、52歳の生涯を閉じるのです。

ホント・・・心の読めない人です。

もしかしたら、まったく違った要因が、まだ、隠されているのかもしれませんが・・・。
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2008年5月 3日 (土)

毛利元就・九州制覇へ~立花城・攻防戦

 

永禄十二年(1569年)閏5月3日、毛利元就が、大友宗麟の傘下となっていた筑前・立花城を奪回しました。

・・・・・・・・・・

戦国の始め、中国地方に一大勢力を誇っていた大内氏尼子氏・・・。

はじめは、その傘下で、安芸(広島県・西部)一国の小大名でしかなかった毛利元就が、弘治元年(1555年)、屈指の奇襲作戦・厳島の戦い(10月1日参照>>)で、事実上大内氏の実権を握る陶晴賢(すえはるかた・隆房)を破り、さらに、当主の大内義長自刃に追い込み(4月3日参照>>)大内氏を滅亡させます。

そして、永禄九年(1566年)、今度はかつての主君であった尼子氏の月山・富田城を攻め(11月22日参照>>)尼子義久を幽閉して尼子氏も事実上の滅亡に追い込みました。

これによって、山陽・山陰の大部分を手中に収める事になった元就・・・更なる領地拡大を狙って、九州の北部へと狙いを定めます

しかし、この頃の九州北部は、豊後(大分県)の王・大友宗麟(そうりん)の勢力範囲・・・九州に絶大な力を誇る宗麟相手ですから、なまじ正攻法で立ち向かっていけば、容赦なく反撃される事は明らか・・・。

そこで、元就は永禄十年(1567年)頃から、筑前(福岡県)一帯の大友の傘下である岩屋城(福岡県・大宰府市)高橋鑑種(あきたね)古所山城(こしょさんじょう・福岡県甘木市)秋月種実(たねざね)立花城(福岡県新宮町)立花鑑載(あきとし)らに密使を送り、毛利側に寝返るように求めていました。

やがて、前後して、彼らは毛利方に付くのですが、当然、その事実を知った宗麟が、黙って見ているはずはありません。

永禄十一年(1568年)7月23日・・・まずは、立花城攻めにかかる宗麟。

毛利の傘下になったとは言え、毛利本隊の支援を受けていない立花城が、強大な宗麟に攻撃されては、ひとたまりもありません。

その日のうちに、城主・鑑載は自刃に追い込まれ、立花城は宗麟の手に落ちます。

しかし、そうなると、今度は元就が、それを黙って見過ごすはずがありません。

翌月の8月には、元就の命を受けた吉川元春(元就の次男)小早川隆景(元就の三男)らが、関門海峡を越えて、豊前(福岡県・東部)へと進攻します。

さらに、明けて、永禄十二年(1569年)の4月には、元就自身が4万の大軍を率いて、九州へ上陸・・・豊前を経て筑前に入り、立花城へと迫ります。

やがて、開始された猛攻撃でしたが、大友の城兵も、そう簡単には負けません。

が・・・しかし、さすがに4万の大軍・・・しかも毛利軍は、アリの這い出る隙間もないくらいに、ピッシリと城の包囲を固め、立花城を孤立させ、周囲との連絡を取れない状況に追い込みます。

そして、1ヶ月耐えた城も、とうとう降参・・・永禄十二年(1569年)5月3日立花城が開城されるのです。

見事、立花城を奪回した元就・・・彼は、この戦いに出るにあたって、「豊前と筑前一帯を制圧するまで、安芸には戻らない」と、宣言しており、その宣言通りに、この勢いのまま、さらに宗麟を脅かすべく進攻するつもりでいました。

ところが、その頃・・・留守にしていた山陽・山陰一帯が新たな展開に!

滅ぼしたはずの大内氏と尼子氏が、毛利の支城に次々と攻撃を仕掛けて来たのです。

かつての月山・富田城の攻防戦で生き残った山中鹿之介(幸盛)が、京都で僧侶になっていた尼子氏の血を引く尼子勝久を当主に担ぎ上げて再起を計り(7月3日参照>>)、それに、義長の養父・大内義隆の従兄弟・内輝弘が同調したのです。

進むべきか・・・撤収すべきか・・・

激論が交わされた末に、毛利軍は、大内・尼子両氏を討伐すべく、全軍で勝久らに制圧された出雲(島根県)へと戻ったのです。

この時、すみやかに全軍で撤収したおかげで、出雲を奪回する事はできましたが、結局、せっかくの九州制覇への足がかりを、元就は失う事になってしまいました。
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2008年5月 2日 (金)

本邦初?大江戸・堕胎業禁止令

 

寛文七年(1667年)5月2日、江戸幕府より『堕胎業禁止令』が発令されました。

・・・・・・・・・・・

今日のお話は、以前の・・・
【女歌舞伎の禁止令】(10月23日参照>>)
【イモリの黒焼き】(5月1日参照>>)に続く、
「教科書に絶対載らないシリーズ」の下ネタです。

下ネタのお嫌いなかた・・・なるべく、やんわりとした表現に致しますので、これも歴史の一面である事をお察しいただいき、どうか、お許しを・・・。

・・・・・・・・・・・

寛文七年(1667年)と言えば、あの関ヶ原の合戦から約半世紀。

参勤交代の制度も確立し、鎖国も完成し・・・10年前には、明暦の大火=振袖火事(1月18日参照>>)なんてのもありましたが、それによって大改造を加えられた江戸の町は、逆に世界一の大都市となって、経済発展にも拍車がかかり、町民はどんどん豊かになっていきます。

もちろん、昔のように戦乱もありません。

Utamarosyungacc 人間、おおむね平和な日々が確保されるとなると、スケベごごろが芽生えてくるのは、いつの時代も変りのない事でございます。

もう、恥ずかしくなるくらいですが、とにかく、この時代の江戸の町では不倫が大流行!

そうなると、当然のごとく増える中絶を望む人々・・・次から次へと後を絶たない中絶に、業を煮やした幕府が、とうとう寛文七年(1667年)5月2日『堕胎業禁止令』を発令したのです。

禁止!となったら、「不倫をやめる」と思いきや、懲りないですね~。

代わって大流行したのが、数々の避妊法←そっちかい!って感じもしないではありません。

本来は、根本的なところを何とかしないと、解決しないと思うのですが、やはり、なかなかやめられないのも人の常・・・。

古代エジプトでは、ワニの糞を集めて、女性の中にお入れあそばした・・・という事もあったようですが、日本の、しかも江戸時代には、すでに『桜紙(さくらがみ)と呼ばれる、現在のティッシュペーパーに匹敵するようなやわらかい紙があり、それをよくもんで、女性が使用していたようです。

♪鉄砲は 受身の方で 玉を込め♪
なんて、川柳を聞くと、「男は何もせんのか!」と一喝したい気分ではあります。

もちろん、マジナイというか神だのみみたいなのもあります。

  • 直後に、女性が片足を上げて飛ぶ(ちょっとわかる)
  • 直後に、女性がトイレに行って小をする(わかる)
  • 女の子の日に、男性の袴を三度踏む(なぜ?)
  • スルメを食べる(なぜ?2)
  • カラスの巣を叩いてからご飯を食べる(意味なし)
  • ホウズキの根を煎じて飲む(効き目あるの?)
  • 下腹部にお灸を据える(どうだろ?)
  • 底の無い袋を持って神社へ詣でる(気持ちはわかる)
  • 水を飲んでから致す(効くかい!)

・・・などなど、意味がワカランのが多数・・・。

そんな時に登場するのが、画期的な新商品!

それは、下谷御成街道しろねずみやの横丁、中条流の医者・中山玉木『朔日丸(ついたちがん)・・・毎月・一日に、これを飲めば、身ごもらないというシロモノ・・・。

他にも、『浮世風呂』で有名な戯作家・式亭三馬が発売した『天女丸』というのもありました。

いずれも、どんな成分だったかも定かではなく、よって、効き目のほうも怪しい物ですが、この時代に経口避妊薬とは、まさに、世界最先端!・・・飛ぶように売れたのは言うまでもありません。

こういう話を聞くと、ホント、いつの時代も変らないなぁ・・・と、つくづく・・・。

致した後も、その前も、結局、女性ばかりがいやな目をみるところまで、変わりなく・・・もう、400年も経ってるんですから、現代の男性諸君には、しっかりとした信念を持って行動していただきたいと思う次第です。

・・・・・・・・・・・・・

追記:
・・・と言っても、男性ばかりが悪いと言いたかったわけではありません・・・ゴメンナサイです。

「女性の味方をしすぎだ」と怒られてしまいましたが、決してそのようなつもりではありません。
女性がみる「いやな目」というのは、避妊と堕胎という身体のリスクを両方とも負うという意味で、恋愛という精神的な面においては男女は同等・・・むしろ、女性のほうがしたたかでズルい・・・男性のほうが、400年経っても、純粋でカワイイなぁ・・・と思っています。

・・・て事で、5月9日のブログには、そんなカワユイ男性のスケベごころを、逆手に取って、やりたい放題のプロフェッショナルなお妾さんのお話を書かせていただきましたので、・・・お許しを・・・5月9日のページを見る>>)
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2008年5月 1日 (木)

二条城・・・その動乱の歴史

 

慶長七年(1602年)5月1日、徳川家康が、諸大名に二条城の造営を命令しました。

・・・という事で、今日は、京都・二条城を巡りながら、その歴史を紐解いていきましょう。

・・・・・・・・・・・

天皇の住まう京都に城を持つ事は、天下人の証しとも言える物です。

織田信長も、かつて二条城を築城(二条御所)(2月2日参照>>)豊臣秀吉聚楽第を築きました(4月14日参照>>)

それは、京都という場所で朝廷を監視する意味と、その豪華さで、武士の力が強大である事を誇示する事になります。

2zyouzyoutizucc 徳川家康とて例外ではありません。

いえ、むしろ、遠く離れた江戸に幕府を置く徳川将軍としては、信長や秀吉よりも、遙かに重要だったかも知れません。

 
慶長七年(1602年)5月1日と言えば、あの天下分け目の関ヶ原の勝利から二年・・・まさに天下を掌握した証しとして、家康は、ニ条城の建設にとりかかるのです。

翌年の慶長八年には、二の丸部分が完成し、家康も初めてこの城に入城しています。
2zyouzyou2nomarugotencc 二の丸御殿

慶長十六年(1611年)に、あの豊臣秀頼との会見(3月28日参照>>)が行われたのもこの二条城・・・大坂冬の陣、夏の陣での軍儀を重ね、出陣したのもこの二条城です(5月6日参照>>)

やがて、3代将軍・家光の時代に、本丸や天守が完成し、ほぼ現在の規模となりますが、落雷によって天守を、火災によって本丸殿舎を失う中、徳川の泰平の世には、あまり歴史の表舞台に、このニ条城が登場する事はありませんでした。
2zyouzyoutensyuenkeicc 内堀:写真中央奥の少し出っ張った石垣が天守閣の石垣です。

そんな、二条城が再び歴史の表舞台に登場するのが・・・そう、幕末です。

文久三年(1863年)3月4日、第14代将軍・家茂が、あの家光以来、229年ぶりに二条城に入城し、慶応二年(1866年)には、第15代将軍・慶喜がここで将軍職を継ぐことになります。

そして、その翌年には、二の丸御殿内の大広間の一の間に諸大名を集め、あの大政奉還の発表が行われました(10月14日参照>>)
2zyouzyou2nnomaruteoencc 二の丸庭園:右側に見える建物が二の丸御殿で、ちょうど大広間の部分になります。

維新が成った後、幕府の物だった二条城は朝廷の物となり、現在の内閣にあたる太政官代が置かれたり、府庁が置かれたりしましたが、やがて、天皇が正式に東京にお住まいになるようになって、この二条城は二条離宮と呼ばれるようになります。

2zyouzyoutensyukarahonmarucc 天守閣跡から現在の本丸御殿を望む。

その頃には、京都御所の北東にあった桂宮御殿を移築して、本丸御殿とし、現在の本丸庭園も完成します。
2zyouzyouhonmaruteiencc 本丸庭園

やがて、昭和十四年(1939年)、二条離宮は、宮内省から京都市へと渡され『元離宮・二条城』として、一般公開される事になるのです。

二条城・・・まさに歴史の舞台となり、徳川の始まりと終わりを目撃したこのお城は、今、いったい何を語ってくれるのでしょうか?

うぐいす張りの廊下を、一歩、また一歩と踏みしめると、その向うから慶喜さんの足音が聞こえてくるようです。

・‥…━━━☆

二条城へのくわしい行きかたはHPのほうでご覧ください>>
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