ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2
今日は、明治二十四年(1891年)5月11日に起こった『ロシア皇太子襲撃事件=大津事件』の後半・・・・・・犯人である津田三蔵の処分についてのお話です。
昨日の記事がまだの方は、そちらから先に読んでいただいたほうがわかりやすいです・・・コチラから5月11日のページへどうぞ>>
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さて、その後もマスコミは連日のように書きたてます。
「こんな一巡査の軽率な行動で、ロシアの機嫌をそこねたら、どうするのか!国賊・津田三蔵をただちに処刑すべきだ!」と・・・。
もちろん、政府高官も同様です。
苦労して幕末の攘夷色をやっと払拭して、国際社会へと乗り出した日本が、また、外国から野蛮な国として色眼鏡で見られるような事にでもなれば、ロシアだけでなく、他の国との様々な交渉に影響を及ぼすかも知れません。
政府は直ちに動き始めます。
彼らの目的はただ一つ、一刻も早く裁判を終らせ、すみやかに犯人の津田を死刑にする事です。
その言い分は・・・
「刑法第116条:天皇や皇族を殺害、あるいは殺そうとした者は死刑」
という条項を、特例としてロシア皇太子にも適用し、津田を極刑に処すべきであるというもの・・・。
早速、5月18日には、本来なら、大津で起こったこの事件は、大津地方裁判所にゆだねるべきところを、現在の最高裁である大審院(だいしんいん)で扱い、しかも一審終審(裁判は一度だけで上訴を認めない)とする・・・という異例の発表するのです。
さらに、山田顕義(あきよし)司法大臣や西郷従道(つぐみち)内務大臣らが、大審院の裁判長や判事たちに、津田を死刑にするよう働きかけます。
しかし・・・
政府が躍起になり、マスコミがあおりたて、まさに、国民世論も死刑一色にに染まっていたこの時・・・ただ一人、冷静に、この事件を見つめている人物がいたのです。
当時の大審院の頂点である大審院長を務めていた児島惟謙(こじまこれかた)です。
彼は、「この大津事件に第116条を適用する事はあり得ない」と考えていました。
第116条では、あくまで日本の天皇と皇族・・・ロシア皇太子は、天皇でも皇族でもないのですから、適用されるべき物は一般の傷害事件・殺人未遂事件の法律であるべきです。
それを「特例」などと言って、無理やり適用するのはもってのほか、法令に特例なんてあって良いわけがありません。
まして、それが政府の圧力による物となれば、なおさらです。
児島は、政府側にかたよりつつあった裁判官や判事たちを集めて・・・
「俺らは、行政とは独立した司法を守るべき立場にある裁判官やないか。
政府の圧力に屈して法を曲げたら、もはや立憲国家とは言えん。
正義は私情より重いんやで・・・」
・・・と、説得。
児島の、この言葉を聞いて、裁判官や判事たちも冷静を取り戻します。
法令の解釈に私情を挟んだり、司法が行政に影響されたりなどは、絶対にあってはならない事なのですから・・・。
しかし、密かにスパイを放って、彼らの様子を探っていた山田と西郷は、公判開廷を明日にひかえた5月26日、何としてでも第116条を適用させようと、児島に会いにやって来るのです。
山田・西郷らと会見した児島は、当然・・・
「一時の感情で法を曲げる事は、立憲国家の崩壊を意味します。」
と主張します。
すると、西郷は・・・
「普通の殺人未遂で津田を裁いて、もしロシアが攻めてきたらどうなる!
ささいな法律のために平和が守れず、それこそ国家が崩壊してしまうぞ!」
「法律を守れない国家は、もはや国家ではありません。
ロシアとの関係がどうなろうが、それは裁判官の関わる事ではなく、行政の仕事・・・裁判官は、ただ、法律を守る事だけが仕事ですから・・・。」
司法と行政が分立していなければならない事は、誰もが知っている事・・・意見としては、児島のほうが筋が通っているわけで、反論できない西郷は、ハッタリをかまします。
「我々は、勅命(天皇の命令)で、こうしてアンタに会いに来ている。
あんたは勅命だと言っても承知しないのか?」
「たとえ、天皇のご命令でも、それが法律に違反するものなら、私は、その事を訴えますが、その今回の天皇のご命令というのは、“第116条を適用して津田を死刑にせよ”という内容なのですか?
私は、そのような内容の勅命が出された事は聞いてませんが・・・」
結局、西郷は反論できず、しぶしぶ引き下がり、そのまま、法廷へと突入します。
結果・・・
「謀殺未遂在・・・刑法第292条、第112条、第113条により、被告・津田三蔵を無期徒刑(無期懲役)に処す」
という判決が下されました。
第116条は適用されなかったのです。
何とか守られた司法権・・・しかし、津田を国賊と見なしていた国民世論は、さぞやお怒りに・・・と、思いきや、これが意外にも、司法の判断に拍手喝采の嵐でした。
あれだけ熱くなっていた政府とマスコミと国民の中で、一番最初に冷静に事のなりゆきを見ていたのは、他ならぬ国民だったのです。
なぜなら、昨日書かせていただいたように、ロシア皇帝は、ニコライ2世の帰国後、間もなく、「日本側の歓迎、事件後の対応に、大いに満足し、感謝している」との電報を送ってきていました。
当然、この事もマスコミは報道しますから、国民の間には「ロシアの機嫌をそこねる事は無かった=戦争にはならない」との安心感が生まれます。
そうすると、今度は、「法律を曲げてまで、無理やり津田を死刑にしようとしている政府って、何なの?」との考えに行き着いたわけです。
世論が傾きはじめると、マスコミは、今度は国民に同調・・・せっせと政府批判の記事を書きたてます。
結局、政府は、言論統制をおこない、政府批判の記事を載せている新聞の発行を停止させて、その場をしのぐ事になります。
やがて、ロシア皇帝は、今回の判決に満足している事を発表し、欧米諸国も日本の司法権が独立している証拠だと、判決結果を絶賛します。
政府が一番気にしていた、対・外国の日本への印象は、この判決結果によって、むしろ、良くなったのです。
こうして、とにもかくにも、一つの結果を見た大津事件・・・
しかし、児島は、一年後に起こった大審院判事らによる花札賭博事件の責任を追及される事に・・・後に、賭博事件はでっちあげだった事が発覚するのですが、それでも監督責任を問われ、結局、大審院長を辞職する事になってしまいました。
そして、一方の死刑を免れた津田三蔵ですが・・・
これが、判決の3ヶ月後に獄中で病死したというのです。
これには、後藤象二郎と伊藤博文が、「刺客に殺害させ、病死したように見せかけよう」と密談していたなどのウワサもあり、きな臭さ満載のまま、闇から闇へと消えうせ、何とも後味の悪い結果に・・・
そんな津田三蔵・・・やがて、訪れる日露戦争の時には、「愛国の志士」として、再び、マスコミによって祭り上げられる事になるのですから、何だかお気の毒です。
もう、そっとしておいてあげてって気がしますね。
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