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2008年5月29日 (木)

本能寺の変~徳川家康・黒幕説について・・・

 

天正十年(1582年)5月29日、この日、京都からに移動した徳川家康は、堺の浦を遊覧するなど、堺見物を堪能しています。

・・・・・・・・・・

この半月前の5月15日、徳川家康は、武田氏の一族でありながら家康を通じて織田方に寝返った穴山梅雪(信君)(3月1日参照>>)とともに、織田信長に会いに安土城を訪れていました。

この年は、信長と家康が同盟を結んでから、ちょうど二十年に当たる節目の年である事と、その梅雪の功績で2ヶ月前の甲州征伐に勝利し武田氏を滅亡(3月11日参照>>)させたという事もあって、この時の安土城での酒宴は大いに盛り上がりました。

例の明智光秀が饗応担当・・・つまり、幹事をやった酒宴です。

その日に、中国平定を担当している羽柴(豊臣)秀吉からの、援軍要請の手紙を受け取った信長は、2日後の17日に、光秀に秀吉の毛利攻めを支援するよう命令をし、光秀はその日のうちに安土城を出て坂本城に向かっています。

一方の家康は、酒宴の後、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した後、21日に京都へ出発、この天正十年(1582年)5月29日に、京都から堺へ移動して堺見物をしたというわけです。

信長も、自ら毛利攻めの準備をするとともに、29日には京都・本能寺へ入ります。

役者が揃いましたね・・・そう、今日は、あの本能寺の変の2日前

昨年の本能寺の変のページ(6月2日参照>>)でも書かせていただきましたが、戦国最大のミステリーとも言われるこの信長襲撃事件・・・その実行犯である光秀の動機の曖昧さから、光秀の単独犯ではなく、黒幕がいたのではないか?との憶測を呼ぶのですが、今日は、この日、堺に滞在していた徳川家康・黒幕説について、ちょっと考えてみましょう。

もちろん、これは、仮説・空想・・・いわゆるトンデモ説という類の物ですが、真実を探求する歴史の専門家ではない以上、様々な角度から、色んな推理を働かせる事こそが、歴史の醍醐味だと思っていますので、史実を曲げない範囲の仮説を大いに楽しんでみましょう。

・・・・・・・・・・

・・・とは言うものの、やはり、通説としては、信長のワンマンぶりに絶えられなかった、あるいは、天下取りの野望をもっていた光秀の単独犯説なのですが、もし、黒幕がいるとすれば、最も有力なのは朝廷と天皇、もしくは15代室町幕府将軍・足利義昭・・・そして、信長傘下の武将では、秀吉と家康という事になるようです。

何と言っても、信長傘下の重臣の中で、光秀と秀吉は途中採用、家康にいたっては同盟関係の武将であって臣下と言えるかどうか・・・ですから、織田家譜代の柴田勝家丹羽長秀といった武将は、いくら実力があっても、黒幕説に名を連ねる事はありません。

・・・で、事件捜査の場合は、その動機という物が最も重要になるわけですが、光秀の場合に、その動機としてあげられるのは・・・

  • 丹波八上城攻めの時に、信長が約束を破ったため、人質になっていた光秀の母親が殺されたという一件
  • 冒頭に書いた信長と家康の酒宴の席に出た魚が腐っていたため、家康の目の前で、光秀がひどく罵倒されたという一件
  • 現在の領地・近江と丹波を没収し、出雲・石見に国替えを命じられたという一件

大抵、これらの理由があげられますが、実は、上記の3件はすべて後世のフィクションだという事が、ほぼ確定的です。

「よほどの恨みがない限り、光秀が事を起す事はないだろう」と考えた後世の人々が、造りあげた・・・というところでしょうか。

次に、秀吉ですが・・・
そりゃ、秀吉は、墨俣の一夜城や姉川のシンガリなど、かなりの命がけで、頑張ってきたでしょうが、それは、小者の秀吉が人の何倍もの早さで出世するための道であって、現実に何倍もの早さで出世しているわけですから、もし、動機があるとすれば、恨みではなく、天下への野望という事になりますが、この天下取りへの野望は、光秀も家康も抱いていた可能性もあります。

そして、最後に家康ですが・・・
実は、恨みを抱くなら、家康が最も抱いてもよい仕打ちを受けています。

例の妻・築山殿の殺害(8月29日参照>>)と、長男・信康の自刃(9月15日参照>>)・・・これは、一応、信長の命令により家康が行った事になっていますので、それが本当で、家康が泣く泣く手を下したのだとしたら、かなりの恨みを抱いていた事になりますが、この両ページで書かせていただいたように、徳川家分裂のお家騒動であった可能性もありますので、何とも・・・

しかし、この黒幕説の最も重要なところは、光秀が黒幕の指示通りに動くメリットがどこにあるのか?というところです。

黒幕が朝廷や将軍となると、ある程度のメリットは考えられますが、秀吉や家康では、よほどのメリットがない限り、光秀が、実行犯の貧乏くじを引くとは考え難いです。

そこで、登場するのが、三者協力説・・・

家康が安土で信長のご機嫌をとって油断を誘っておいて、秀吉が救援要請をして信長を安土から引っ張り出す・・・そして、一番近くにいる光秀が実行する・・・。

信長亡き後は、光秀が畿内を、秀吉が西国を、家康が東海を、それぞれ支配する密約が出来ていた・・・という物ですが・・・

結果的に、秀吉が山崎の合戦(6月13日参照>>)で、光秀を討った事は、間違いが無い事でしょうから、もし、事前に三人の密約があったとしたら、それを秀吉が破ったという事になります。

そうなると、今度は、光秀の重臣・斉藤利三(としみつ)への、秀吉の仕打ちが引っかかります。

利三は、光秀の妹の子供ではなかったか?と噂されるほど光秀が最も重要視した重臣で、筆頭家老でもあり、この本能寺襲撃を積極的に推し進めていたと言われている人物です(6月11日参照>>)

なんせ、彼の妹は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の妻・・・そう、ちょうどこの時、信長は四国征伐を開始すべく、三男・神戸信孝を大将に準備をさせていましたから、このままだと、利三にとっては、妹の嫁ぎ先を主君筋が攻める事になるわけですから、「それを阻止したい」という気持ちになる事は充分考えられます。

しかし、山崎の合戦の後に捕まった利三を、秀吉は、通常の斬首ではなく、身体を引き裂く「車裂(くるまざき)」という残虐な方法で処刑しているのです。

これを見る限りでは、秀吉は、本能寺襲撃という行為に激怒していた感があり、秀吉が協力していた・・・という事はないようにも思います。
もちろん、この処刑がポーズでなければ・・・という条件つきですが・・・。

それに対して、家康は、天下を取ったその後・・・
この利三の娘・お福を、後に3代将軍となる家光の乳母に取り立てています

ご存知、春日局です。

この春日局の登用に関しては、誰もが首をかしげたくなるところ・・・落ちぶれて、日々の糧にも困っていた彼女を、しかも、上記の通り、当時は謀反人と言われていた光秀の家臣の娘、さらに、すでに人妻だったのを離婚してまで・・・。

これには、家光が家康と春日局との間にできた子供であるから、という説もありますが、それならそれで、なぜ?家康は、彼女に手をつけたのか?という疑問も残ります。

以前、ドラマで描かれた「公募」という説もありますが、公募ならなおさら謀反人の娘が選ばれる事はないのでは?

むしろ、公募に見せかけておいて、実はウラでは最初っから決まっている・・・芸能界の新人女優発掘にありがちなパターンのほうが納得がいく人選です。

とにかく、このお福が謀反人・斉藤利三の娘である事は誰もが認めるところで、そのお福が春日局として大奥で大出世し、果ては幕府をも動かす権力を握る事も誰もが認める所

こうなると、家康とお福・・・いえ、本能寺の変の時、お福が4歳だった事を考えると、家康と利三の間に、何かがあったとしか考えられないのでは?・・・。

確かに、家康黒幕説は、かなりのトンデモ説ではあります。

が、しかし、まずは、家康のお福登用の謎を解かない限り、まったくのウソだと一蹴してしまうわけにはいかないような気がするのですが・・・。

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【その時、安土城では…】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

黒幕なんて居たんでしょうかねぇ。どの説も帯に短し襷に長しって感じで決定打に欠ける気がします。それに突飛な意見を言う人は、信長は本能寺では死なず、満州に渡って清の太祖ヌルハチになったナンテ荒唐無稽な説を唱える人まで居て本能寺の変の真相は益々闇の中に入っていくようです

投稿: マー君 | 2008年5月31日 (土) 00時36分

マー君さん、こんばんは~

幽霊の正体見たり・・・で、結局のところは、それほど複雑怪奇ではないのが実態だとは思いますが、真実の追究は専門家のかたにお任せして、あれやこれやとイロイロ推理するのを、楽しみたいと思っております~。

投稿: 茶々 | 2008年5月31日 (土) 01時08分

こういうお話好きです。
想像(妄想?)すると、時間を忘れます。

ところで、無知を承知で疑問があるのですが、
お福の登用って、謎なんですか?
当時もお福の素性が有名だったとしても、謀反人の娘というのは、織田家にとってであって、その臣下でもない家康には、そんなの関係ねぇ!(古っ)と思うのですが、いかがでしょう。
むしろ、本能寺の変が家康にもたらした好機を思えば、恩人では。

駄文でのお目汚し、ご容赦を

投稿: ことかね | 2008年5月31日 (土) 15時13分

ことかね様、こんばんは~

確かに、お福の登用の謎は、光秀の動機の謎に比べれば、それほどの謎ではないと思います。

時代の流れを知ってから、振り返って考えると、斉藤利光は、家康の恩人であって謀反人ではないでしょうし、おそらく、はなから家康自身もそう思っていたでしょうね。

やっぱ、ネックはいつ頃まで家康が豊臣臣下のポーズをとっていたのか?って事ですね。

少なくとも関ヶ原の時は、豊臣家の内紛という形をとってますから、この時は、豊臣の臣下の立場をとっていたでしょう。

それから、征夷大将軍になって(1602年)、家光が生まれて(1604年)、二条城での秀頼との会見(1611年)・・・この会見の時には、すでに豊臣を軽視してますから、その間のどのあたりで、豊臣臣下のポ-ズを脱ぎ捨てたか?でしょうね。

お福の登用が、豊臣を軽視した後であるなら、謎ではなくなる事になります。

ただ、家康個人にとって、利光が謀反人ではなかったとしても、世間一般には謀反人として扱われていたのは本当のようです。

そこを、あえて・・・という所が、ちょっと引っかかるような気がします。

投稿: 茶々 | 2008年5月31日 (土) 23時07分

この時命からがら領国に逃げ帰ったと言われます。もし黒幕なら、こっそり兵を呼び寄せて途中で合流していた可能性もありますね。真相はどうでしょうかね?誰もその後の「秀吉大返し」を想定していないでしょう。
本能寺の変は「共犯容疑者」として、6人くらい名前が挙がっています。

投稿: えびすこ | 2010年3月21日 (日) 09時18分

えびすこさん、こんにちは~

はい、家康の伊賀越えは6月4日のページ>>で書かせていただきました。

さて、どうなんでしょうね~???
いろいろな妄想をしてしまいます。

投稿: 茶々 | 2010年3月21日 (日) 16時56分

徳川家康と斉藤利光がウラで関係していれば、お福が将軍家世継ぎの竹千代の乳母になれたのも納得できますね。
大河ドラマでのお福さんの登場は夏場になりそうです。ただ、「劇中時間」の進行がやや遅いので少し気になります。
どんなに短く見積もっても「竹千代誕生」まではやるでしょう。
ところで(番組内では)秀忠も「竹千代」だったんですね。
秀忠の幼名は確か長松丸(長丸)だったと思いますが、いつ改名したんでしょうか?

投稿: えびすこ | 2011年5月22日 (日) 17時22分

えびすこさん、こんばんは~

>(番組内では)秀忠も「竹千代」

ネットでも話題になってますね。
一部には、信康が亡くなって、秀忠が嫡男となった時に長丸から竹千代に変えたって説もあるにはありますが、専門家の間でも可能性は薄いとされているようです。

ネットでの話題は、「違うんじゃない?」ではなく、「なんで、そんな可能性の薄い説をドラマで採用したのだろう?」って事でもちきりのようです。

投稿: 茶々 | 2011年5月23日 (月) 02時42分

う~ん、どうなんでしょう。(・_・)
豊臣秀吉も幼名が「日吉丸」ではないと言いますからね。
番組では兄・於義丸(秀康)が養子に行く前に、竹千代と呼ばれていたので、生まれた時が長松丸(長丸)で、少したって竹千代に改名(した設定)、となるんでしょうか?
ネット上で議論になってるんですね。徳川実記がカギですね。秀忠を「竹千代」と記載していれば、明確な証拠になります。
もし秀忠も名乗ったならば、「竹千代」を(家臣らが)徳川家嫡男の幼名と認定したと見てもいいですね。

投稿: えびすこ | 2011年5月23日 (月) 17時23分

えびすこさん、こんばんは~

秀吉は、農民の出身なので、はなから幼名をつける事はなかったと思いますよ。

途中から、経歴をイロイロいじってる段階で出て来た逸話の一つだと思います。

徳川家の嫡男が竹千代っていうのはあったかも知れません。
他にも何人は竹千代がいますし…

投稿: 茶々 | 2011年5月24日 (火) 00時00分

流石は茶々様、既に書いてらしたんですね!
私には三者協力説が有力に感じられますね~。そこで約束違反や仲間割れが起きたのではないかと...秀吉が出し抜こうとし、家康と光秀方が連携をとり...

なんて
ではまた~

投稿: 達田にゃん | 2013年4月 2日 (火) 16時59分

達田にゃんさん、こんばんは~

本能寺は、謎だらけなぶん、妄想のし甲斐がありますね~

光秀の行動が突発的で無計画な感じがするワリには、秀吉と家康は、あたかもそれを事前に知っていたかのような気がする…
それが、謎を深めてますよね~

投稿: 茶々 | 2013年4月 2日 (火) 19時48分

家康が黒幕かどうかは分かりませんが

明智光秀ほどの大物が彼の手先になってあーだこーだするメリットはどこにもありませんから、通説とは違うプロセスが噛んでいたと考えるしかないでしょうね
単純には、明智を操作したのではなく、斉藤を操作して明智を上手く巻き込んで、さらに謀反の噂をさささっと流して既成事実化したいうところですかね。

家康がどうやって本能寺の変を起こしたかは、正直想像もつきませんが、後年の無敵としか思えない采配、外交術等を考えると、「徳川家康にしか出来ない大プロジェクト」という点で大きな説得力があるんですよねえ…
毛利ですら腰砕け、織田家臣たちも半ばロボット化していた当時の信長に、わざわざ手出ししようという発想がある人物がそもそも限られますし、かつてあの絶望的大差の武田信玄に対してすら挑んだ家康なら、行動パターン的には不自然ではなさそうです。

加えて明治維新時に、徳川慶喜が大金を持ち込んで「神君の秘密は暴かないで欲しい」なんて依頼しているのも、気になるところです。

投稿: | 2014年1月16日 (木) 05時18分

そうですね~

もし、家康が黒幕だったとしても、それは「光秀を操作あるいは手先」というよりは、「協力体制にあった」という感じだったと思いますが、まさに、謎が謎呼び、さらに深まる感じですね~

徳川慶喜の「神君の秘密は暴かないで…」の話に関しては、私は、家康の死亡時期の事なんじゃないかな?とも思ってます。
堺の南宗寺には、そこにあるお墓が本物である事を慶喜が認めている石板が近くにあるので、それかな?と…

投稿: 茶々 | 2014年1月16日 (木) 09時35分

本能寺の変からは離れますが
家康の死亡時期も怪しいですよね~

堺のお墓は、秀忠・家光が1623年に相次いで訪れている点から、実は家康は元和2年に亡くなったのではない(つまり1542-1623)とする説もあるようです
そもそも大病を隠しながら出陣して、真田信繁や毛利勝永らのラッシュを受けながら逃げおおせたばかりか、軍を2つに分けて茶臼山を占領するなんて高度な芸当できるとは個人的には思えないので、超長寿説は一理あるかなと思っています。

つまり大阪の陣の直後で、ニセの葬儀を上げて外様大名の反応を伺ったという意味ですね
事実、この翌年に寛永に改元しています

投稿: ほよよんほよよん | 2014年5月17日 (土) 21時28分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

南宗寺のお墓は徳川慶喜のお墨付きですしね~
いろいろと謎が多いです。

投稿: 茶々 | 2014年5月17日 (土) 23時55分

いつも思うのですが、真偽はともかくとして本能寺の変の黒幕に「武田信玄・勝頼」が含まれていないのが不思議です。

まず信長は美濃攻めに際して信玄に贈り物外交を駆使して煙に巻く形で上洛し第一勢力となっています。この時点で「若造に一杯食わされた」と感じても何ら不思議ではありませんし、親信長路線の信玄と反信長の義信との間で御家騒動も起こっています。

足利義昭が包囲網参加を呼びかけた時、一度は信玄は信長との同盟を理由に断っています。同盟中でないと準備できない必勝の策があったのでは?

さていざ天下をめぐり上洛戦スタート!あらららら?信玄さんは遠江の城を1つずつ落とす謎方針。三方原合戦はありましたが、信濃から東美濃、尾張、三河を直撃しないと勝てないのではないですか?
小勢力ながら団結力が高く内通者が作りにくい徳川を少しずつ力攻めで削っているようにしか見えません。

さて時代は変わって勝頼の時代。長篠合戦スタート。相手は兵数でも3倍近く、急ごしらえながら大規模な要塞に篭って大量の鉄砲で待ち構えている。勝頼「んなもん関係ないわ突撃ー」重臣たち「(´゚д゚`)エーこれは不利でしょ…若様ダメですよ…ブツブツ」勝頼「オヤジの秘策がある。ドサクサに紛れて 頼んだ光秀」

この時、偶然にも「明智光秀」には丹波の争いが急を要するため動員かからず。勝頼「(;´゚д゚`)エエー」

その後も岩村城を奪われるなどしても、織田領にはほとんど反攻せず、ひたすら遠江で家康と対決。「信長と対決する前は、光秀の出陣を確認できるタイムラグがないとダメだ。東美濃に出陣しても方面軍担当の信忠が即応してくるだけで意味が無い。ただ遠江まで織田全軍を引っ張りだしてしまえばいくら相手が大兵力だろうが一発逆転だぜ」

天目山直前、後詰もないのに新府韮崎城を建設し、さらに許されるはずもないのに織田勝長を返還…しかし、この見苦しいほどの時間稼ぎも、信長が気がついていない内通者が居たとすれば、勝算がある意味のある行動に。

大敵武田勝頼を倒し、安土での酒宴が盛り上がる。しかし、信玄が同盟中の間隙を縫って放ち勝頼が脈々と継承していたトラップはまだ堅持されていた…

って感じの黒幕説があってもいいのに、と思ってしまいます。個人的には生きていないから黒幕じゃないというのは決め付けが過ぎるという気がするのですが

投稿: ほよよんほよよん | 2014年10月29日 (水) 20時55分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

本能寺の変はホント、様々な謎に包まれていますので色んな仮説があっても良いと私も思います。

実際、この本能寺の変が起こった事で、武田の旧領を拝領した森長可>>は鬼のごとく必死のパッチで帰って来ますし、河尻秀隆>>も武田の残党に襲われて命を落しています。

しかも、光秀が本能寺に着いた時にはすでに信長は暗殺されていたのかもという光秀は実行犯じゃない説>>まであるのですから、その場合は、未だモンモンとした日々を送っていた武田の残党が影で動いていた可能性もゼロではないような気がします。

投稿: 茶々 | 2014年10月30日 (木) 01時38分

はい
そもそも信玄存命時でも信長とは動員力でもおよそ2倍の差、資金力、装備の調達力、地の利などではさらに大きな開きがあった上に、義昭の包囲網は既にかなり苦しくなっていたからこそ、信玄にヘルプが出された経緯があったわけで、戦国の常識からすると正攻法で信長に勝てる状況ではなかったと思います。
やはり信玄が勝つには内通者を作ることが明快です。

明智光秀は丹波拝領前の本領がはっきりしませんが、東美濃や奥三河に勢力があったと推定されています。どちらも武田領と接しており、かつ義昭の旧臣であることから、コンタクトを取るなら一番ターゲットにしやすい相手ではないかと思います。

もしかしたら、(信玄勝頼説が真実だとすると)義昭の包囲網に参加したのは、本願寺やらの味方を増やすというよりは、光秀を寝返らせるにあたっての正当性を欲したといったところなのかなと思っています。

元々、信玄は信長を通じた要請で徳川家康と同盟していますから、たぶん最初は家康を丸め込んで天下取りをしようと思ったのではないでしょうか。(反今川家という点ではハッキリしている相手なので)が、この家康がけっこう反抗心が強く扱いにくい若者だと知って、別にターゲットを移したといった所では無いかと思います

いずれにせよ元の動機としては、信長との同盟を巡って義信事件が起き、出し抜かれて上洛された時点で信玄の覚悟は決まっていたように思います。

天目山の戦いの前には徹底した街道封鎖が行われていたようで、北条氏照が「京から人が誰も来ない」とそのことを書き残して居たと思います。
恐らく武田旧臣が本能寺の変に際して動くというのは不可能だったでしょう。せいぜい旧領で暴れるのが限界だったと思います。

この「信玄・勝頼黒幕説」だと、明智光秀の動機が簡単に説明出来ます。恐らく相当ズブズブの関係で、暴かれると武田家すら滅んだ今、その一味として完全にアウト、ならば先に……そもそもチャンスはなかったが、勝頼と連携して信長を背後から討ち取る準備がメインだったし、という説明がつきます。

恐らく家康は武田信玄が遺したこの秘策を知っていて信長には黙っていたのではないでしょうか。
後に家康が「いかりほ敵とおもへ」と言っていますが、俗に言われる同盟中に山県昌景が家康を討ち取ろうとしてトラブルになったり、馬場信春が徳川領の村から人質をとったりしたのは、信玄がコワッパと舐めきっていて指示したのではなく、本当にただの指示不徹底のトラブルで、最初から主敵は信長だったと後から気がついて、一時の怒りに任せて信玄を強烈に非難し、北条上杉同盟にまで話を大きくしたことを後悔したのかなあと思っています。

いずれにせよ毛利ですら腰砕け、織田家臣たちも半ばロボット化していた当時の信長に、わざわざ手出ししようという発想がある人物がそもそも限られると思うので、個人的には「家康黒幕説」か、「信玄・勝頼の仕掛けた地雷火がワンテンポ遅れて炸裂した」のどちらかを信じています

投稿: ほよよんほよよん | 2014年11月 4日 (火) 02時22分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

そうですね。
背景を色々と想像して、色んな推理が膨らんでいくのが楽しいですね。

投稿: 茶々 | 2014年11月 4日 (火) 13時56分

「本能寺の変 431年目の真実」に一票。
天正10年5月は29日までだったような...

投稿: p | 2015年9月12日 (土) 14時01分

pさん、こんにちは~

アッ本当ですね。
6月1日に家康が「前日に堺見物した事」を報告してるので、よく考えずに30日にしちゃってましたが、おっしゃる通り、天正十年の5月は29日までなので、堺見物は29日ですね。
訂正させていただいときます。

>「本能寺の変 431年目の真実」

ですか。。。
何か、その説の「信長が家康を暗殺しようしていた」の理由がよくわからないんですよね~

投稿: 茶々 | 2015年9月12日 (土) 17時57分

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