長宗我部盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣
元和元年(1615年)5月15日、大坂夏の陣で捕らえられた長宗我部盛親が、京都・六条河原にて斬首されました。
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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を平定した父・長宗我部元親(もとちか)とともに、『長宗我部元親百箇条』を発布し、一時は土佐(高知県)22万2千石を治める大大名でした。
しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で歯車が狂い、どん底人生を味わった彼・・・先日の後藤基次(5月6日参照>>)と同じく、彼もまた、この大坂の陣に、人生の起死回生を賭けた一人でした。
その関ヶ原の合戦の時には西軍に属し、安国寺恵瓊らとともに美濃南宮山に布陣していた(9月16日参照>>)盛親でしたが、実際にはまったく動かず、午後になって西軍の旗色が悪くなると、そのまま戦わずして土佐に帰ってしまいます。
これには、合戦の前に、徳川家康から東軍への寝返り要請を受けていて、「OK!寝返りまっせ」の返事を出したものの、その使者が途中で西軍に見つかってしまい、家康まで届かなかった・・・という事があったようで、合戦時の盛親は、「西軍が負けそうなので逃げ帰った」というよりは「最初から戦う気がなかった」ものと思われます。
しかし、西軍として関ヶ原に参戦してしまった事は確か・・・盛親は、あの井伊直政を通じて、家康に謝罪し、早速、領国安堵の交渉に入りました。
この交渉の盛親側の窓口であったのが、盛親の兄・津野親忠でした。
親忠は、幼い頃に津野家の養子となったうえ、後には豊臣秀吉への人質に出され・・・と不遇な少年時代を過ごしてきましたが、その人質時代に藤堂高虎と親しくなった事もあって、今回の交渉の窓口となっていたわけです。
しかし、この兄とは、盛親が長宗我部の家督を継ぐ際に後継者争いで争った事があった事から、交渉が長引くにつれ、盛親は、「兄が交渉相手側に付いているのではないか?」という疑いを持ちはじめ、結局、この兄を暗殺してしまうのです。
この暗殺劇を知った家康は、「武士の風上にもおけぬ安易な行動」と批判し、すべての領地を没収され、盛親は改易されてしまいます。
浪人の身となった盛親は、京都に出て、相国寺門前の柳ヶ厨子に籠り、名前も大岩祐夢と改めました。
それから14年・・・彼は、子供相手に寺子屋の先生をして生計を立てる事になります。
そんな盛親のところへ・・・やってきました!慶長十五年(1614年)、真田幸村や後藤基次らと同様の豊臣家からのお誘いです。
「勝利したあかつきには、土佐の領地をそっくりそのままお返しする」という条件で、10月7日、彼は大坂城に入ります。
幸村同様、いざ合戦になれば大坂方につくであろうと思われていた彼は、この少し前に、京都所司代の板倉勝重に呼び出され、詰問されていますが、その時には・・・
「合戦になった時には、徳川様に従い、ご期待にそえる武功をあげたいと思います」
と、平然と笑ってみせたと言います。
ヤルねぇ~盛親・・・
なんせ、彼には、盛親失脚の後に土佐に入った山内一豊を散々悩ませた「一領具足」という半士半農の部隊が味方についています。
未だに、高知県では坂本龍馬さんの次ぎに長宗我部ですから・・・そのあと何百年も統治した山内の影は薄い・・・平成の今でもそうなのですから、盛親が立つとなれば、ともに立ち上がってくれる一領具足の残党たちは、大坂方にとって、かなり心強い存在です。
あの幸村でさえ、大坂城内の軍儀の際、意見を求められると・・・
「まず、長宗我部殿のご意見から・・・」
と、彼を優先していたぐらい・・・大坂の陣に駆けつけた援軍の中では、トップの位置にいたのが盛親なのです。
やがて、勃発した大坂の陣・・・元和元年(1615年)5月6日、後藤基次と真田幸村が道明寺・誉田で大激戦を繰り広げた(5月6日参照>>)、まさにその日、豊臣秀頼の乳兄弟であった木村重成が4700の兵を率いて若江(東大阪市)に向かい、盛親は5000の兵を率いて八尾(八尾市)に向かいました。
これは、基次&幸村が、家康軍本隊が大坂城へ進出する場合に、必ず、そこを通るであろう道明寺で待ち構えたのに対して、その本隊に側面から攻撃を仕掛けようとうする別ルートの作戦でした。
しかし、目的の場所に着く前に、藤堂高虎の軍に見つかり、戦闘が開始されてしまいます。
ここでは大いに奮戦して戦いを有利に進め、撃破寸前まで追い込む長宗我部軍でしたが、途中、若江に向かっていた木村軍が、井伊直孝の襲撃をくらい、重成が討死したとの知らせが飛び込んできます。
大将を討ち取った以上、その井伊軍が、この藤堂軍に合流する事は確実・・・ヘタをすれば挟み撃ちに遭い、孤立状態になってしまいます。
もちろん、この知らせは、相手の藤堂軍にとっては有利な知らせ・・・その士気も高まりますから、盛親は、この先の形成を不利とみて、大坂城へと戻ります。
この夜の大坂城内の士気は、とてつもなく下がってしまいました。
後藤基次・薄田兼相・木村重成の死は、大坂方にとって大変なダメージです。
もはや、戦闘能力の低下は誰の目にも明らかに見えました。
そして、翌日・・・5月7日、大坂城総攻撃が開始され、幸村も討死してしまうのです(5月7日参照>>)。
翌・5月8日、炎に包まれて落城する大坂城から脱出した盛親・・・
それは、命を惜しんでの敗走か・・・
起死回生の再起を狙っての敗走か・・・
その心中は、彼のみぞ知るところですが、間もなく、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の家臣によって、その身柄を確保されてしまいます。
関ヶ原の寝返りの件で一度・・・
戦後の交渉の件で一度・・・
そして、大坂の陣・・・
三度も、家康の期待を裏切ってしまった盛親には、もはや、生きる道はありませんでした。
かくして元和元年(1615年)5月15日、京都・六条河原に引き出された盛親は、合戦の前のここ京都にて「武功をあげてみせます」と笑ってみせた相手・・・板倉勝重の手によって斬首されるのです。
享年・41歳・・・ここに、土佐に威勢を誇った長宗我部は滅亡しました。
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