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2008年5月16日 (金)

史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商

 

天正三年(1575年)5月16日、長篠から岡崎へ救援要請に向かった鳥居強右衛門勝商が、長篠へ戻る途中に捕らえられ、磔に処されました。

・・・・・・・・・・・

鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)・・・

少し、マイナーな戦国武将です。

この人の名をご存知のかたは、なかなかの歴史好きと、お見受けします。

それもそのはず、この強右衛門は、長篠城主・奥平貞能(おくだいらさだよし)の家臣・・・ではなく、どちらかというと、足軽・雑兵クラスの人物で、本来なら歴史に名を残す事などなかったはずの人物なのです。

Toriinagasinocc ただし、強右衛門の名前は知らなくても、右(→)の絵をご覧になった事のあるかたは多いのではないでしょうか。

これは、武田勝頼の家臣・落合佐平次という武将の旗指物(はたさしもの・合戦の時の武将の目印)の図柄で、一度見たら忘れられないそのインパクトの強さから、かなり有名な絵です。

この絵で、(はりつけ)にされているのが強右衛門・・・その人です。

・・・・・・・・・・

時は戦国・天正三年(1575年)・・・それまで、武田の傘下であった長篠城主・奥平貞能の嫡男・貞昌と、徳川家康の娘・亀姫との縁談がまとまります。

以前、亀姫のページ(3月18日参照>>)でも書かせていただきましたが、この長篠城は、家康にとって、前年に高天神城を落として(5月12日参照>>)勢いづく勝頼から、この三河を守るためには、是非とも手に入れていおきたい要所です。

逆に、勝頼から見れば、やはり、ここは三河を攻める時に必要な場所という事になります。

しかし、貞昌と亀姫が結婚する・・・という事は、イコール奥平は武田から徳川の傘下に寝返ったという事ですから、武田としては、とてもじゃないが、そのままにしておくわけにはいきません。

勝頼は1万5千の大軍を率いて、長篠城を囲み、天正三年(1575年)5月8日総攻撃を開始しました・・・これが、有名な長篠の合戦の前哨戦です(4月21日参照>>)

当時の奥平家は、未だ土豪に毛の生えたような小さな一城持ち侍・・・大大名の武田の大軍に囲まれてはひとたまりもありません。

もはや、落城は時間の問題・・・。

そこで貞昌は、この現状を岡崎城へと伝え、同盟を結んでいる家康の援軍を要請するべく、伝令を発する事を決定します。

1万5千の兵が囲む長篠城です。
その囲みを破って、さらに向うの岡崎まで・・・まさに命がけの大仕事。

その大仕事に名乗りをあげたのが鳥居強右衛門勝商でした。

事は急を要します。
早速、5月14日の深夜、強右衛門は、夜の闇に紛れて下水口から長篠城を脱出し、敵に見つからないよう、ただただ、ひた走ります。

翌・15日の朝には、長篠城を眼下に見渡す雁峰山(がんぼうざん)に登り、囲みを破って脱出に成功した事を告げる烽火(のろし)を上げ、さらに、そこから約10里(40km)、野山を駆け巡り、一路岡崎へと向かいます。

その日のうちに、無事、岡崎城に到着した強右衛門が見たものは・・・そう、まさに、今、彼が到着する寸前に、嫡男・信忠とともに、グッド・タイミングで岡崎城へ入ったばかりの織田信長の姿でした。

貞昌の書状を渡し、口上を述べた強右衛門に、信長と家康は・・・
「ご苦労さん、疲れたやろ?しばらくゆっくりと休んだらええがな・・」
と、その労をねぎらいます。

しかし、強右衛門は・・・
「いえ、この事を早く長篠に知らせたいんで・・・」
と、すぐさま、岡崎城を発ち、長篠への帰路についたのです。

そう、なんだかんだ言っても、この頃、家康はまだまだ駆け出し・・・3年前の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)では、信玄に大敗し、思いっきりケツの青いところを見られちゃってますし、兵の数も、それほど多く出せる力もありません。

その点、信長は、すでに足利義昭を奉じての上洛もすませ、浅井朝倉も制し、まさに天下を狙える頼もしい存在・・・彼は、家康だけでなく、すでに、信長もが、この岡崎まで来ているのだという事を、一刻も早く、主君・貞昌に・・・そして、城で奮戦する仲間に伝えたかったのでしょう。

日付が変わって16日の早朝・・・再び、雁峰山に登って、伝令が成功した事を伝える烽火をあげ、山を下りた強右衛門は、今度は、長篠城へ入るため、ふたたび囲みを破らなくてはいけません。

しかし、なかなか抜ける事ができません。

周囲をウロウロしていた強右衛門は、とうとう、武田の兵に見つかってしまうのです。

怪しい者として引き出され、詰問を受けた強右衛門は・・・
「今更、知っても、もう遅いと思うけどな。
信長さまと家康さまの大軍が、長篠に向かって進軍中や!
もう、間もなく着くで~」

と、脅しをかけるような口調で、言ってみせます。

この知らせを聞いた武田軍は大騒ぎです。
一刻も早く、長篠城を落すか、大軍に備えて、軍の編成を整えるか・・・

そこで、武田は、強右衛門に条件を出します。

強右衛門自身はもちろん、主君をはじめ長篠城内の者すべての命を保障する事を約束し、そのかわり、「援軍が来ないというウソの情報を流せ」という物でした。

上記の通り、もはや落城寸前、このままでは到底、奥平に勝ち目はありませんから援軍が来ないとなると、すぐに開城するに違いない」と考えたのです。

強右衛門は、少し考えて・・・
「本当に全員を助けてくれるのか?主君もか?」
と、再度確認します。

「あぁ、約束する。絶対に命は取らん」
「そんなら、言う通りにしよう」
と、その条件を呑む事にしました。

長篠城が見渡せる小高い場所へと引き立てられた強右衛門・・・
ありったけの、力を込めて、大声で叫びます。

「お~い、城のみんな~、聞こえるかぁ~?」
シ~ン・・・と静まりかえる戦場・・・固唾を呑む両軍・・・強右衛門の声だけが、周囲の山々にコダマします。

「援軍はすぐそこまで来てるゾ~。
もう、ちょっとの辛抱や!絶対に負けたらアカンぞ~!」

一瞬の間をおいて、強右衛門の言葉に答えるかのように、長篠城のあちこちから鬨(とき)の声が上がります

唖然とする武田の兵士を見下ろすように、彼は一世一代の「どや顔」をした事でしょう。
「これで、自分の役目は成功に終った」と・・・。

当然、、強右衛門は、すぐさま柱にくくりつけられ、磔に処せられたのです。

しかし、それでもなお、威風堂々としたその姿には、敵である武田の兵士たちまでもが感銘を受けます。

そして、心を打たれた武田の家臣・落合佐平次によって、彼の最期に姿は留められる事になりました。

ちなみに、旗指物の図柄は、普通の磔の姿になっていますが、髪の毛の雰囲気や手足の様子から、もとは、さかさまの磔の姿であっただろうと言われています。

天正三年(1575年)5月16日強右衛門は、その柱の上で、命を落します・・・享年・36歳・・・。

彼は、この日の、わずか一日の出来事で、500年近く・・・いえ、これから先も、永遠に・・・歴史にその名を残す勇者となりました。

果たして、2日後の5月18日、勝頼は、長篠城の西に広がる設楽原(したらがはら)に、信長&家康率いる3万に及ぶ大軍の黒い影を確認する事となるのです(5月18日後半から参照>>)

長篠の戦いを左右したもう一人の伝令・鈴木金七のお話【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】へ>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

これは偶然なのですが、5月14日に北海道地方で放映された「どうでしょうクラシック・『どうゼミ』試験に出るどうでしょう」で「鳥居強右衛門勝商の最後」を大泉洋さん・安田顕さん・鈴井貴之さんの即興芝居で見ました。今日(5月16日)の出来事だったんですね。
うちでは「どうクラ」を録画して夕食時に家族で見たりするのですが、昨夜それを見たあと就寝時間に我が家のチビ(小学2年生)が「鳥居っていう人の死んじゃうのが怖かった…」と言われました。寝る前に夢見の悪くなりそうなものを見せちゃったかと親反省…。ええ、皆さん迫真の演技だったもので…。

投稿: はむす | 2008年5月16日 (金) 16時16分

はむす様、コメントありがとうございます。

私は大阪なので、その番組な見ていないのですが・・・(「水曜どうでしょう」というのが水曜ではない真夜中に一時やってた事があるので、大阪でも放送したかも知れませんが・・・)

勝手な想像ですが、鳥居さんが長篠のお城を出発したのが5月14日なので、その日に放送されたのかも知れませんね。

私も、鳥居さんの絵を見たのは、小さい頃だったと思いますが、あの絵だけでも相当ショックで、脳裏に焼きついて離れませんでしたから、小さいお子様には、ちょっと刺激的だったかも・・・ですね。

でも、大きくなって、もう一度この物語に出会った時に、「あぁ、この話の事だったんだ!」って理解してくださいますよ・・・きっと・・・。

投稿: 茶々 | 2008年5月16日 (金) 17時11分

感動しました。こういう名もなき英雄がきっと歴史上たくさんいるのかもしれませんね。やっぱり戦国武将はこうでなきゃ。こういう人をドラマに出したらどれだけ面白く、話に厚みが増すか。 

投稿: Hiromin | 2010年4月16日 (金) 15時46分

Hirominさん、こんにちは~

そうですね。
今回の鳥居さん、そして、もう一人の伝令である鈴木さん・・・
個人的には、長篠の合戦の勝利は、馬防柵でも3段撃ちでもなく、この二人の伝令にあったのではないか?と思うくらいです。

いつか、ドラマで彼らの活躍を見てみたいです。

投稿: 茶々 | 2010年4月16日 (金) 17時04分

茶々様、こんばんは。

ここでの茶々様の大絶賛が、一番好きです。
歴史に残る者。
こうありたいですね。
高橋紹運への絶賛も感動しますけど、鳥居強右衛門への絶賛には敵わないです。
iOSの辞書でも、こうして変換されてます。

投稿: エアバスA381 | 2013年10月 2日 (水) 21時51分

エアバスA381さん、こんばんは~

古いページにも目を通していただいてありがとうざいます。
鳥居強右衛門のエピソードはカッコイイですよね~

投稿: 茶々 | 2013年10月 3日 (木) 02時01分

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