« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月30日 (月)

歴史人物辞典~「と」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「と」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★トーマス・グラバー
  ●幕末の外国人商人・グラバーの置き土産

★土井利位
  ●顕微鏡で観察…雪の殿様・土井利位

★土井晩翠
  ●「荒城の月」のモデルの城は?~土井晩翠の告白

★道鏡
  ●和気清麻呂・大隈へ流罪
  ●道鏡事件のウラのウラ

★道元
  ●曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立

★東郷平八郎
  ●力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦
  ●日本海海戦・伝説の東郷ターンは?
  ●東郷平八郎…最期の時

★道昭
  ●日本の火葬の習慣はいつから?

★洞松院
  ●「鬼瓦」と呼ばれた細川勝元の娘・赤松洞松院

★唐人お吉(斉藤きち)
  ●ハリスと唐人お吉

★東常緑
  ●和歌で領地を取り戻す~カリスマ歌人・東常緑

★藤堂高虎
  ●斬り込み隊長・築城名人~藤堂高虎の転身
  ●戦国随一の築城術~藤堂高虎

★藤堂高刑
  ●関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束

★藤堂平助
  ●油小路で命を落とす…元新撰組・藤堂平助

★東武皇帝
  ●幕末にいたもう一人の天皇?東武皇帝・即位事件

★遠山金四郎景元
  ●北町奉行・遠山の金さん
  ●建て直し不可能?水野忠邦の天保の改革

★遠山友政
  ●河尻秀長VS遠山友政の関ヶ原~苗木城・開城

★頭山満
  ●インド独立に貢献したボーズと頭山満

★富樫幸千代
  ●まさに最初の加賀一向一揆~文明一揆

★富樫正親
  ●まさに最初の加賀一向一揆~文明一揆
  ●百姓の叡智・加賀の一向一揆
  ●長享一揆~高尾城の戦い

★土岐悪太郎
  ●南北朝~京都争奪の八幡合戦

★土岐持頼
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

★土岐頼員
  ●正中の変~寝物語でバレちゃった

★土岐頼遠
  ●調子に乗って反逆罪?…バサラしすぎた土岐頼遠

★土岐頼芸
  ●斉藤道三を有名にした土岐頼芸~国盗られ物語

★時山直八
  ●北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意

★常盤御前
  ●源義朝の最期と常盤御前
  ●伝説に彩られた都一の美女・常盤御前…と信長?

★徳川昭武
  ●最後の将軍・慶喜の弟がパリ留学の間に・・・
  ●でるか?徳川埋蔵金

★徳川家定
  ●動乱の将軍・徳川家定…暗殺疑惑

★徳川家達
  ●徳川の未来を託された幼き当主・徳川家達

★徳川家斉
  ●側室40人に子供55人・在位50年~1位づくしの家斉

★徳川家治
  ●徳川家治・暗殺疑惑~犯人は誰だ!

★徳川家光
  ●戦国からの脱却…第3代将軍・徳川家光誕生
  ●参勤交代・始まる
  ●幕府と家光を支えた知恵伊豆こと老中・松平信綱
  ●堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

★徳川家茂
  ●いかにして第二次長州征伐は始まったか?
  ●薄命の将軍・徳川家茂が後世に残した物は?
  ●皇女・和宮とガラスの写真

★徳川家康
  ●【徳川家康の年表】へ

★徳川家慶
  ●庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

★徳川忠長
  ●非業の3代目~徳川忠長の自殺

★徳川綱吉
  ●徳川綱吉の恨みつらみ?~越後騒動の結末
  ●死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件
  ●初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』
  ●未だ謎多き~生類憐みの令
  ●将軍・徳川綱吉に謁見したドイツ人・ケンペル
  ●徳川綱吉に寵愛された喜多見重政の末路
  ●犬公方・徳川綱吉の忌日
  ●大奥・開かずの間~綱吉、刺殺の噂

★徳川信康
  ●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫
  ●家康の妻・築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!
  ●家康はなぜ、長男を殺さねばならなかったのか?

★徳川秀忠
  ●真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦
  ●作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い
  ●中山道で関ヶ原に向かった徳川秀忠…その任務は?
  ●2代将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造り
  ●「武家諸法度」発布…元和偃武に徳川の基礎
  ●徳川政権・西方の最前線~江戸時代の大阪城
  ●後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待
  ●堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

★徳川和子(東福門院)
  ●天皇家と徳川家の架け橋に…東福門院徳川和子

★徳川光圀
  ●黄門さまの大日本史~日本初の発掘調査
  ●大日本史が皇室系図に与えた影響
  ●水戸黄門様の忌日

★徳川宗春
  ●将軍・吉宗に反発した尾張の暴れん坊藩主・宗春

★徳川慶勝
  ●この生涯、主君に捧ぐ…田宮如雲の忠誠心

★徳川吉宗
  ●暴れん坊・徳川吉宗~怪しすぎる8代将軍・誕生劇
  ●徳川吉宗の「享保の改革」に学ぶこと
  ●ウソかマコトか?将軍の隠し子・天一坊事件
  ●御三家を相手にした江戸町奉行・大岡越前守忠相
  ●いつの世も次期将軍はモメる?~御三卿
  ●「将棋の日」にちなんで将棋の歴史

★徳川慶喜
  ●維新のさきがけ~天狗党の降伏
  ●徳川慶喜の参謀・原市之進
  ●大政奉還,徳川慶喜の思惑
  ●討幕が決定的となった薩摩藩邸襲撃事件
  ●鳥羽・伏見の戦い勃発!
  ●徳川慶喜の敵前逃亡~その本心は?
  ●徳川慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?
  ●徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎
  ●日本最大の危機?アメリカ水兵射殺事件
  ●無血開城の影で幻となった勝海舟・二つのシナリオ
  ●江戸を死守する最後の砦~彰義隊・結成!
  ●徳川幕府・最後の将軍~徳川慶喜の晩年は?

★徳姫(信長の娘)
  ●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫

★督姫(家康の娘)
  ●北条家最後の人~北条氏直の肌の守りと督姫と

★徳永寿昌
  ●関ヶ原~福束城攻防戦
  ●関ヶ原~高須城&駒野城&津屋城の戦い

★十河存保
  ●ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定

★土佐坊昌峻
  ●義経危機一髪!堀川夜討ち

★戸田勝直
  ●熊野・北山一揆in大坂の陣

★智仁親王
  ●2人の天下人に運命を翻弄された八条宮智仁親王

★豊島明重
  ●豊島明重の武士の一分…江戸城刃傷事件

★豊島泰経
★豊島泰明
  ●足軽戦法炸裂~大田道灌の江古田・沼袋の戦い
  ●豊島泰経と照姫…石神井城の伝説

★冨田勢源
  ●朝倉氏に仕えた盲目の剣豪・冨田勢源

★舎人親王
  ●末梢しきれなかった記紀神話の真と偽
  ●しこのますらを・舎人親王のカッコイイ生き方

★鳥羽天皇(第74代)
  ●保元の乱のきっかけを作った鳥羽天皇の死

★富田長繁
  ●越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め
  ●先走りし過ぎた若き猛者・富田長繁の最期
  ●織田信長VS越前一向一揆~越前平定

★富田信高
  ●東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!

★巴御前
  ●北陸に義仲あり!横田河原の合戦
  ●木曽(源義仲)の最期
  ●巴御前~木曽義仲からの最後の使命

★伴健岑
  ●藤原氏繁栄の基礎…実に怪しい承和の変

★伴善男
  ●「応天門炎上事件」真犯人は誰だ!

★豊臣秀勝(幼名:国松・秀頼の遺児)
  ●事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

★豊臣秀次(三好秀次)
  ●天下は何処・長久手の戦い
  ●小田原征伐・開始~山中城落城
  ●殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい!
  ●豊臣秀次ゆかりの京都・瑞泉寺
  ●豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り
  ●豊臣秀次事件に連座…熊谷直之と7人の小姓たち

★豊臣秀長(羽柴秀長)
  ●織田信長軍による福知山攻略戦
  ●小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦
  ●大友宗麟~豊臣秀吉への救援要請in大坂城
  ●筒井順慶から羽柴秀長…大和郡山城
  ●豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死

★豊臣秀吉(羽柴秀吉)
  ●【豊臣秀吉の年表】へ

★豊臣秀頼
  ●豊臣秀頼・出生のヒミツ
  ●秀吉が次世代に託した武家の家格システム
  ●豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑
  ●関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?
  ●家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事
  ●二条城の会見で出された饅頭は・・・
  ●家康×秀頼~二条城の会見と軍師・白井龍伯
  ●家康のイチャモン・方広寺鐘銘事件
  ●秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿
  ●大坂冬の陣・直前~その時、大坂城内は?
  ●大坂夏の陣・開戦!
  ●大坂夏の陣・大坂城総攻撃!
  ●大坂城落城&秀頼生存説
  ●「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュースを聞いて
  ●事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

★虎御前(青岩院)
  ●両・長尾家のために…謙信の母・虎御前

★鳥居強右衛門勝商
  ●史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商

★鳥居忠政
  ●「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話

★鳥居元忠
  ●伏見城攻防戦と養源院の血天井
  ●伏見城・落城…鳥居元忠の本望

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「て」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「て」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★貞心尼
  ●やるね!良寛~70歳のラブソング

★手塚光盛
  ●無残やな 甲の下の篠原の合戦

★鉄眼道光(宝蔵国師)
  ●1万人を救った救世大士…宝蔵国師・鉄眼

★茶屋四郎次郎清次
  ●徳川家康・その死のまぎわに・・・

★寺坂吉右衛門
  ●消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門

★寺島宗則
  ●条約改正に尽力した「電気通信の父」…寺島宗則

★天一坊
  ●ウソかマコトか?将軍の隠し子・天一坊事件

★天海(南光坊・天海)
  ●家康のイチャモン・方広寺鐘銘事件
  ●神になった徳川家康
  ●黒衣の宰相・天海=明智光秀説

★伝教大師(最澄)
  ●最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!
  ●比叡山を日本仏教の母山とした伝教大師・最澄

★天秀尼
  ●大坂城・落城~脱出した秀頼の娘は・・・

★天智天皇(第38代・中大兄皇子)
  ●入鹿暗殺≠大化の改新
  ●蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説
  ●蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?
  ●日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位
  ●悲劇の皇子・有間皇子死刑
  ●漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX
  ●時間にキッチリ?奈良の都の勤め人~時の記念日
  ●天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都
  ●額田王を巡る三角関係
  ●天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎
  ●額田王を巡る三角関係2
  ●天智天皇の死・政変の予感
  ●弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑
  ●大化の改新の影の立役者・南淵請安
  ●天智天皇の読み方~「てんち」?「てんじ」?

★天武天皇(第40代・大海人皇子)
  ●額田王を巡る三角関係
  ●額田王を巡る三角関係2
  ●希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発
  ●天智天皇の死・政変の予感
  ●壬申の乱・勃発
  ●いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍
  ●壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!
  ●壬申の乱~大海人皇子・進発…その時朝廷軍は
  ●伊賀で当麻で箸墓で…壬申の乱・大和の戦い
  ●壬申の乱~大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い
  ●壬申の乱・瀬田合戦
  ●大海人皇子と大友皇子…どっちが正統?
  ●勝利の聖地・吉野の花見の意味は?
  ●弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑
  ●ここから日本の歴史が始まる?天武天皇の律令国家
  ●末梢しきれなかった記紀神話の真と偽

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「つ」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「つ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・

★塚原卜伝(卜傳)
  ●神官生まれの剣聖~塚原卜伝の極意

★津軽為信
  ●独立して弘前藩の祖となった津軽為信

★津軽信順
  ●歴代1位のダメ藩主…夜鷹殿様・津軽信順

★津川義冬
  ●小牧長久手の戦いへ…織田信雄の重臣殺害事件

★築山殿
  ●家康の妻・築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!

★筑紫君磐井
  ●反乱?内戦?対外戦争?謎多き磐井の乱

★津崎矩子(村岡局)
  ●「勤王女傑」~皇室と志士のパイプ役・村岡局

★辻将曹
  ●維新の雄藩になれなかった広島藩・辻将曹の活躍

★津田出
  ●明治新政府のモデルとなった藩政改革…津田出

★津田梅子
  ●津田梅子のアメリカ留学

★津田三蔵
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・1
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件…その後

★土井晩翠
  ●「荒城の月」のモデルの城は?~土井晩翠の告白

★土御門天皇
  ●時代の波に呑まれた穏やかな天皇・土御門天皇

★土御門泰福
  ●初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』

★土屋昌恒
  ●武田勝頼、天目山に散る

★筒井順永
  ●畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い

★筒井順慶
  ●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
  ●信長・秀吉・家康だけが成しえた城割とは?
  ●筒井順慶から羽柴秀長…大和郡山城
  ●洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀
  ●筒井順慶・36歳…無念の死

★筒井順賢
★筒井順興
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

★筒井順政
  ●松永久秀の奈良攻略~第2次井戸城の戦い

★筒井順昭
  ●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

★筒井定慶
  ●大坂夏の陣の戦端を切った大和郡山城の戦い

★恒貞親王
  ●藤原氏繁栄の基礎…実に怪しい承和の変

★恒良親王
  ●壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦

★角隈石宗
  ●主君に届け!この思い~大友宗麟の軍師・角隈石宗

★坪内某
  ●リアル「信長のシェフ」~料理人・坪内某の話

★つや(おつやの方・岩村殿)
  ●岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断

★露(牡丹燈籠)
  ●三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」

★鶴姫(三村家親女・上野高徳室)
  ●女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い

★鶴屋南北
  ●もう一つの忠臣蔵・四谷怪談

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「ち」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ち」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★近松門左衛門
  ●大江戸心中ブーム
  ●近松門左衛門・忌日

★千種三郎左衛門
  ●秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱

★千種忠顕
  ●後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場
  ●千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦

★チチング(イサーク・チチング)
  ●学者大名~福知山藩主・朽木昌綱

★千葉佐那(佐奈・さな子)
  ●坂本龍馬の婚約者~鬼小町・千葉佐那

★千葉周作
  ●幕末の三剣士・千葉周作

★茶々(淀)
  ●豊臣秀頼・出生のヒミツ
  ●大坂冬の陣・直前~その時、大坂城内は?
  ●冬の陣~家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係
  ●大坂夏の陣で自害~淀殿の素顔と生存説
  ●「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュースを聞いて
  ●大河ドラマ「江」第20回・茶々の恋でひと言

★仲恭天皇
  ●承久の乱に翻弄された幸薄き帝~仲恭天皇

★中馬重方
  ●「島津の背進」の生き残り・中馬大蔵重方

★長寿院盛淳
  ●島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳in関ヶ原

★長宗我部信親
  ●長宗我部元親を変えてしまった息子・信親の死

★長宗我部元親
  ●長宗我部元親・初陣!長浜表の戦い
  ●永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂
  ●長宗我部元親の安芸城攻略作戦
  ●土佐統一!四万十川の戦い
  ●ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定
  ●明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…
  ●秀吉・賤ヶ岳の間に長宗我部元親・讃岐を平定
  ●伊予平定で実現!長宗我部元親の四国統一
  ●一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏
  ●秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦
  ●長宗我部元親を変えてしまった息子・信親の死
  ●長宗我部元親、最後の手紙

★長宗我部盛親
  ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆
  ●盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣

★長続連・綱連
  ●七尾城・攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」

★長連龍
  ●ヤルからには徹底的に…長連龍の復讐劇

★奝然
  ●大陸に渡った奝然と釈迦如来像と清涼寺と…

★長吏斎明
  ●越前・加賀の合戦
  ●義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦

★町坪弾四郎
  ●真夏の夜の怪談話…播州皿屋敷

★千代姫(霊仙院)
  ●将軍家から尾張へ…生涯姫君だった千代姫

★陳和卿
  ●源実朝…実現しなかった夢の船出

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「た」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「た」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★太原雪斎(崇孚)
 
 ●今川義元登場!花倉の乱
  ●安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸
  ●今川を支えた黒衣の宰相・太原雪斎

★大乗院(二階堂盛義の妻)
  ●伊達政宗を相手に…二階堂盛義の妻・大乗院阿南姫

★大乗院・尋尊
  ●将軍・義政の贅沢猿楽興行

★大正天皇
  ●京都御所?皇居?昭和・平成の大礼

★大納言典侍(藤原輔子)
  ●平家の公達・平重衡と輔子

★平敦盛
  ●青葉の笛~一の谷の合戦
  ●戦いの空しさに出家した源氏の猛将・熊谷直実

★平(藤原)景清
  ●源平・屋島の戦い~弓流し
  ●頼朝暗殺計画・37回~平家の生き残り・平景清

★平清盛
  ●平清盛と平家物語の年表へ

★平維盛
  ●源平激突!富士川合戦
  ●越前・加賀の合戦
  ●義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦
  ●義仲・圧勝!倶利伽羅峠の合戦
  ●維盛の都落ち
  ●清盛嫡流の誇りと責任…平維盛の決断

★平貞文
  ●モテモテ平中=平貞文の失恋話

★平滋子(建春門院)
  ●平家の盛と衰を導いた女性…建春門院・平滋子
  ●時子・滋子・徳子~女性の助力で清盛・頂点へ…

★平重衡
  ●故意か?失火か?平重衡の南都焼き討ち
  ●平家の圧勝~墨俣川の戦い
  ●平家の公達・平重衡と輔子
  ●捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手の前

★平重盛
  ●世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平の最期

★平資盛
  ●安徳天皇・生存説

★平忠常
  ●源平合戦につながる…平忠常の乱・勃発
  ●源平に芽生えた友情…平忠常の乱と源頼信

★平忠度
  ●忠度の都落ち~平家物語~
  ●一の谷の合戦~忠度の最期

★平忠正
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

★平忠盛
  ●平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説
  ●殿上闇討~平家物語のはじまり
  ●平忠盛の海賊退治で息子・清盛が昇進
  ●平家台頭の基礎を作った清盛の父・平忠盛が死す

★平経正
  ●平経正の都落ち~平家物語より

★平時子(二位尼)
  ●時子・滋子・徳子~女性の助力で清盛・頂点へ…
  ●壇ノ浦・先帝の身投げ

★平徳子(建礼門院)
  ●建礼門院・平徳子の忌日

★平知盛
  ●壇ノ浦合戦~潮の流れと戦況の流れ
  ●壇ノ浦・先帝の身投げ
  ●壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

★平直方
  ●源平合戦につながる…平忠常の乱・勃発
  ●源平に芽生えた友情…平忠常の乱と源頼信

★平教経
  ●屋島の合戦~佐藤嗣信の最期
  ●壇ノ浦の合戦~平家の勇将・平教経の最期

★平広常(上総介広常)
  ●奥州制覇を狙う頼朝に消された上総介広常

★平将門
  ●平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!
  ●新皇・平将門は独立国家を望んだか?
  ●平将門・怨霊伝説

★平正盛
  ●伊勢平氏=平正盛の出世のキッカケ「源義親の乱」
  ●平忠盛の海賊退治で息子・清盛が昇進

★平通盛
  ●ともに一つの蓮の上~平通盛の妻・小宰相

★平宗盛
  ●愛溢れる敗軍の将~平宗盛の汚名を晴らしたい!

★平康頼
  ●浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀

★平頼盛
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱
  ●平家滅亡後も生き残った清盛の弟・平頼盛

★平六代(高清)
  ●生きさせては貰えなかった平家の嫡流・六代

★大楽源太郎
  ●維新の混乱に散った長州藩士~大楽源太郎

★当麻蹶速
  ●七夕の夜に日本最古のK-1ファイト

★高丘親王(真如)
  ●めざせ天竺!マレーに消えた高丘親王

★高尾太夫
  ●遊郭通いで隠居?伊達綱宗の汚名を晴らしたい
  ●吉原の花魁・高尾太夫を落とした榊原政岑

★高木帯刀
★高木正家
★高木盛兼
  ●関ヶ原~高須城&駒野城&津屋城の戦い

★高倉天皇
  ●峰の嵐か松風か~高倉天皇と小督の悲恋物語

★高島嘉右衛門
  ●横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』

★高杉晋作
  ●攘夷の先駆け~英国公使館焼き打ち事件
  ●幕府も新政府も借金まみれ~その原因は?
  ●高杉晋作・功山寺で挙兵
  ●幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念
  ●いかにして第二次長州征伐は始まったか?
  ●第二次長州征伐・開始~大島口攻防戦
  ●晋作の奇襲で幕を開けた長州の大島奪回作戦
  ●晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った第2次長州征伐
  ●大詰め~第2次長州征伐・小倉口ゲリラ作戦
  ●【第二次長州征伐も大詰め!最後の小倉・上陸】
  ●高杉晋作と幕末の人々
  ●強き勤王の母・野村望東尼
  ●高杉晋作が造った奇兵隊~維新後の悲しい結末

★高須久子
  ●吉田松陰~生涯一度の獄中の恋

★高田屋嘉兵衛
  ●日本とロシアの架け橋に…一商人・高田屋嘉兵衛

★鷹司信子
  ●大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂

★高遠頼継
  ●武田信玄の伊那進攻

★高梨政盛
  ●長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い

★高松凌雲
  ●函館戦争で敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲

★高橋お伝
  ●最後の斬首・高橋お伝の話

★高橋景保
  ●シーボルト事件に殉じた天文学者・高橋景保

★高橋是清
  ●「二・二六事件」で暗殺された高橋是清

★高橋修理
  ●三成・大垣城に…関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2

★高橋紹運
  ●全員討死!岩屋城の激戦

★高橋元種
  ●落城寸前・大垣城~「おあむ物語」戦国女性の…
  ●関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…

★高棟王
  ●「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生

★高山右近
  ●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防
  ●キリシタン大名・高山右近、神に召される

★高山彦九郎(正之)
 ●勤皇の先駆者・高山彦九郎~謎の自刃

★高山友照
  ●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防

★尊良親王
  ●壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦

★滝川雄利
  ●小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

★滝川一益
  ●本能寺の余波!神流川の戦い
  ●小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦
  ●滝川一益の人生波乱万丈

★瀧川辧三
  ●マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日

★滝沢馬琴(曲亭馬琴)
  ●徳川家康の未知との遭遇&「虚舟」の話
  ●八犬伝の滝沢馬琴、忌日
  ●滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身

★竹内保徳
  ●幕末・「遣欧使節団」珍道中

★竹崎季長
  ●「蒙古襲来絵詞」に隠された元寇のその後

★武田勝頼
  ●【武田信玄と勝頼の年表】へ

★武田金次郎
  ●天狗党最後の戦い~水戸藩騒乱・松山戦争

★武田耕雲斎
  ●父の遺志継ぐ藤田小四郎~天狗党誕生
  ●総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党の誕生
  ●天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争
  ●尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い
  ●天狗党・雪の行軍~運命の新保入り
  ●天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状
  ●早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期
  ●維新のさきがけ~天狗党・概要

★武田信玄
  ●【武田信玄と勝頼の年表】へ

★武田信繁
  ●武田信玄の伊那進攻
  ●補佐役に徹した武田信繁

★武田信虎
  ●武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い
  ●武田信玄の初陣~海ノ口城・奇襲戦
  ●信玄が父・信虎を追放したワケは?

★武田信栄
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

★武田信義
  ●源平激突!富士川合戦

★武田元明
  ●朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦
  ●信長&秀吉の前に散る若狭武田氏

★武田元繁
  ●西国の桶狭間・有田城外の合戦~毛利元就の初陣
  ●有田城外~中井手の戦いに散る熊谷元直とその妻

★武田元光
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い

★武田義信
  ●その後の武田の運命も変えた武田義信の自刃

★武市半平太(瑞山)
  ●土佐勤皇党・武市半平太~切腹す

★高市皇子
  ●いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍

★武野紹鴎
  ●現在まで続く茶の心…武野紹鴎の侘び

★滝廉太郎
  ●「荒城の月」のモデルの城は?~土井晩翠の告白

★竹中重門
  ●有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たち

★竹中半兵衛重治
  ●目覚めた天才軍師!稲葉山城乗っ取り事件
  ●秀吉の中国攻め~二兵衛が迫る福原城の戦い
  ●有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たち
  ●流星のごとく駆け抜けた天才軍師・竹中半兵衛

★竹姫(島津継豊・室)
  ●将軍家と島津の架け橋…公家生まれの竹姫の願い

★だし(荒木村重の妻)
  ●有岡城の戦い~荒木村重・妻子の処刑

★田島道治
  ●不況に対峙し天皇家を救った田島道治

★田代陣基
  ●「死ぬこととみつけたり」…山本常朝の武士道

★多田行綱
  ●浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀

★多田加助
  ●怨念の松本城~多田加助の貞享騒動

★立花誾千代
  ●わずか7歳で女城主となった立花誾千代

★立花宗茂
  ●全員討死!岩屋城の激戦
  ●敵からも愛された名将~立花宗茂・最後の関ヶ原

★立花道雪(戸次鑑連)
  ●ハンディを克服して大友氏を支えた立花道雪
  ●毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城・攻防

★橘曙覧
  ●松平春嶽を魅了した癒し系歌人・橘曙覧

★橘嘉智子(檀林皇后)
  ●美しき者も高貴な者も世は無常~皇后・橘嘉智子

★橘奈良麻呂
  ●歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱

★橘諸兄(葛城王)
  ●王を辞めて臣下になります!~橘諸兄の決断

★橘逸勢
  ●藤原氏繁栄の基礎…実に怪しい承和の変

★橘三千代(県犬養三千代)
  ●浮かぶ橘~県犬養三千代の出世物語
  ●律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人・藤原不比等

★立見尚文
  ●歴史上屈指!無敵の将軍・立見尚文

★伊達安芸・伊達兵部(宗勝)
  ●伊達騒動の影に幕府の思惑

★伊達稙宗
  ●伊達家を奥羽随一に引きあげた伊達稙宗

★伊達綱宗
  ●遊郭通いで隠居?伊達綱宗の汚名を晴らしたい

★伊達輝宗
  ●伊達政宗の父親射殺事件の謎
  ●フォローの側近・遠藤基信…殉死   

★伊達政宗
  ●伊達政宗の父親射殺事件の謎
  ●独眼竜・政宗を智将に変えた人取橋の合戦
  ●破竹の独眼竜・摺上原の戦い
  ●伊達政宗を相手に…二階堂盛義の妻・大乗院阿南姫
  ●仙道七郡掌握~奥州の覇王・伊達政宗に迫る影
  ●伊達政宗・毒殺未遂事件は本当にあったのか?
  ●決死の死装束~独眼竜・政宗の小田原参陣
  ●独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆
  ●伊達男の本領発揮!政宗、起死回生の弁明劇
  ●豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役
  ●伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
  ●関ヶ原の合戦と伊達政宗
  ●独眼竜の在るところ片倉小十郎あり
  ●伊達政宗の幕府転覆計画
  ●齢70…晩年の伊達政宗

★楯岡光直
  ●名門・最上を消滅させた最上騒動

★田中正造
  ●足尾銅山闘争で田中正造が直訴

★田中新兵衛
  ●真犯人か冤罪か?人斬り・田中新兵衛は語らず

★田中久重
  ●東洋のエジソン~からくり儀右衛門こと田中久重

★田中広虫女
  ●牛になった女房~田中広虫女の話

★田中盛兼・盛康
  ●赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

★田中吉政
  ●関ヶ原で三成を捕えた田中吉政~出世物語

★田辺潔(初代・煙突男)
  ●労働者のヒーロー・煙突男登場!

★田辺朔郎
  ●琵琶湖疏水の完成
  ●清盛・秀吉の夢を実現させた田辺朔郎

★谷風梶之助
  ●横綱は免許制?相撲の最高位・横綱誕生秘話
  ●相撲・第1期黄金期~谷風梶之助と釈迦ヶ嶽雲右門

★谷大膳(衛好)
 ●三木城・籠城戦・逸話~秀吉と谷大膳の話

★谷干城
  ●いよいよ西南戦争~薩摩軍・鹿児島を発つ!
  ●西南戦争~熊本城・攻防戦
  ●西南戦争~熊本城・救出作戦

★田沼意次
  ●未曽有の大災害~天明の大飢饉
  ●賄賂政治家・田沼意次の汚名を晴らしたい!
  ●松平定信の「寛政の改革」は個人的恨みから・・・

★田沼意知
  ●「世直し大明神」佐野政言の田沼意知・刃傷事件

★種子島時堯
  ●鉄砲伝来で戦国が変わる

★種田政明
  ●神風連の乱~ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

★田原紹忍
  ●耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…

★たまがき
  ●たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?

★玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)
  ●土木工事の英雄・玉川兄弟~子孫の末路は?

★玉木正誼
  ●天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱・勃発

★玉松操
  ●王政復古・錦の御旗を作った玉松操の苦悩

★玉蟲左太夫
  ●幕末の動乱に散った悲劇の人・玉蟲左太夫

★田丸直昌
  ●関ヶ原余波~西軍・田丸直昌の岩村城が開城

★民谷伊衛門
  ●もう一つの忠臣蔵・四谷怪談

★田宮如雲(篤輝)
  ●この生涯、主君に捧ぐ…田宮如雲の忠誠心

★棫木狼介(品川大膳・品川狼之介)
  ●一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦

★達磨大師
  ●ダルマさんのご命日

★谷野一栢(一栢老人)
  ●朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢

★檀林皇后(橘嘉智子)
  ●美しき者も高貴な者も世は無常~皇后・橘嘉智子

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (1)
|

2008年6月29日 (日)

いつの間にかYahoo!カテゴリーに登録されていた件

 

私事で恐縮ですが・・・

いつの間にか、6月27日付けで【YAHOO!カテゴリー】に、“歴史>今日は何の日>”で登録されていましたww

星の数ほどあるサイトの中から選んでいただいた事を光栄に思うとともに、純粋に喜んでおります。

しかも、「思わず読みふけってしまいます」・・・なんていう、うれしい紹介文とともに、新着オススメとしてトップページにリンクしていただき、昨日は、多くのかたに訪問していただきました。

YAHOO!からおこしの皆様、はじめまして・・・
これを機会に、時々は、覗きにきてくださいませ。

このサイトは、とにかく肩肘はらずに、わかりやすく、楽しく・・・をコンセプトに、神代から現代まで、幅広い歴史を紹介しています。

歴史人物の死に際して、生きる意味を問うようなページもあれば、いつの世も変わらない男女のエロティックな部分を垣間見るページもあり・・・と軟派も硬派もいっしょくたに書かせていただいております。

また、昔からある風習や物の由来、発祥などのページもあります。

現在、総ページ数が900ページに達しました。
どうぞ、ご一緒に歴史のあんな事、こんな事、楽しんでいってくださいませ。

そして、以前から訪問してくださっている皆様・・・いつもありがとうございます。

今回のYAHOO登録も、日頃の皆様の応援あればこそ!であります。

ますます、はりきってテンションマックス!
今後とも、今日は何の日?徒然日記をよろしくお願いします。
 .

「そりゃめでたい」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2008年6月28日 (土)

姉川の七本槍と旗指物のお話

 

元亀元年(1570年)6月28日は、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とがぶつかった『姉川の合戦』のあった日です。

合戦全体の流れについては、昨年のページ>>に書かせていただきましたので、ソチラでご覧いただくとして・・・

本日は、逸話として残る『姉川の七本槍』と、それにまつわる旗指物のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

七本槍と言えば、ご存知、『賤ヶ岳の七本槍』(4月21日参照>>)と呼ばれる武将たちがいますが、本日の姉川の合戦にも、『姉川の七本槍』と称される一団がいます。

年代からいっても、姉川のほうが早いですし、賤ヶ岳のほうは9人いるのになぜか七本槍ですが、こちらの姉川はちゃんと7人なので、察するところ、この『姉川の七本槍』が先にあって賤ヶ岳のほうも七本槍と呼ばれるようになったのではなかろうか?

今ではすっかり賤ヶ岳のほうが有名になってしまいましたが・・・。

ところで、この姉川の合戦・・・

大人数のわりには、浅井軍に苦戦する織田軍に対して、わずかな人数で応援にかけつけた徳川家康の軍勢の大活躍により、形勢が逆転し、結果的に織田・徳川連合軍の勝利となるというのが、一般的に知られる合戦の流れですが、これは、あくまで徳川家康の言い分・・・。

織田や浅井が『野村合戦』と呼んでいたこの合戦を、『姉川の合戦』という名前に変えたのも、最終的に江戸時代という天下を取った徳川なので、その合戦内容となると、かなり徳川軍をかっこよく描いてる感はぬぐえませんが、今日のところは、徳川軍の・・・それも『姉川の七本槍』の大活躍で・・・という事でお話をさせていただきます。

・・・・・・・・

この合戦の少し前に、今川を離れ、徳川家康の傘下に入ったばかりの高天神城の城主・小笠原氏助(うじすけ・信興)(5月12日参照>>)は、自ら1000の兵を率いてこの合戦に参戦していました。

徳川軍の先陣を切った酒井忠次隊に続いて、小笠原隊が姉川を渡り、朝倉軍へと突入します。

そんな小笠原隊の中で、ひと際目立つ男がいました。

Anegawakassenzukindayuu 姉川合戦図屏風

氏助が今川にいた時から彼に仕えている精鋭部隊・高天神衆のひとり、渡辺金大夫(きんだゆう)です。

Anegawakindayuuupcc 金大夫は、真っ赤な唐傘に金色の短冊を18枚もつけた旗指物を差していて、その金色の短冊が日の光に反射してキラキラと輝き、目立つ事この上なし・・・って、戦いぶりで目だってたんやないんかい!

いえいえ、戦いぶりもたいしたものだったのですが、こと大人数が入り乱れる合戦においては、この旗指物で目立つというのは、とても重要な事なのです。

・・・で、ちょっとここで旗指物のお話を・・・

なんせ、戦いぶりが大将の目に止まるか止まらないかで、合戦後の恩賞か決まるわけですから・・・。

という物は、源氏の白旗・平家の赤旗のように、平安時代の合戦から、敵味方の識別をするために使用されていて、戦国時代には武将ごとに独特のデザインで造られるようになります。

あの武田信玄『風林火山』の旗も、軍団を識別する旗です。

それに対して、武将一人ひとりが差す、小ぶりな旗『指物(差物・さしもの)と呼んでいましたが、この指物にも、『番指物』『別指物』の二つがありました。

番指物は、色と形を隊ごとに同じにした物で、上記の旗で識別する軍団をさらに小分けした小隊を識別する物です。

はじめは、まず、この番指物を差して合戦に参加し、いくつかの武功を挙げた後、その功績を認めてもらって、大将から許可をもらい、やっと個人を識別する別指物を差す事ができるのです。

そして今度は、広大な戦場での自分の活躍を、大将の目に止めてもらうため、この別指物を、とにかく目立つように、一人一人個性的なデザインにしてたんですね。

武田勝頼の家臣・落合佐平次「敵ながらあっぱれ」と、とてもインパクトのある鳥居強右衛門の磔姿をデザインした旗指物は有名です(強右衛門さんがなぜあっぱれなのか?は5月16日参照>>)

もちろん、絵だけではなく、形もイロイロ・・・四角形の物は「四方(しほう)、それを縦半分に切った物は「四半(しはん)、布の端を細かく切った物は「切裂(きりさき)と言い、派手な絵を書いたり、大きく名前を書いたり・・・。

わざと棹がしなるように作られた物を「撓(しない)と呼び、これが、馬に乗って颯爽と走った時に、実にカッコんイイですな。

若き日の加藤清正福島正則が、
「俺らに武功がないのは、指物をしてへんから下っ端に見られて、戦場で、ええ武将に巡り会われへんからなんですわ。指物、差さしてください」
と、秀吉に願い出て
「アホか!お前ら充分下っ端やんけ!まだまだ早いわ!」
と、一蹴された・・・なんて逸話も残ってるくらい、個人の別指物は、若い衆のあこがれだったんですね。

・・・で、話を姉川に戻しますが・・・

この日、織田信長の目に止まったのは、派手な旗指物の金大夫・・・本当は、この時、朝倉の重臣・黒坂景久を討ち取る事ができたのも、氏助の高天神衆全員のはたらきによるところが大きかったのですが、実際に、信長の目に止まったのは金大夫だけでした・・・派手な指物のおかげです。

そして、合戦も終った夜の事、勝利に酔う信長は、金大夫を呼び寄せて・・・
「あっぱれ!天下一の活躍だ!」
と、褒めたたえ、感状と刀を褒美として手渡したのです。

・・・と、ここで不満なのは、ともに活躍した高天神衆の残りの人々・・・門奈左近右衛門(もんなさこんえもん)伊達与兵衛伏木久内(くない)中山是非之助(ぜひのすけ)吉原又兵衛林平六の6人です。

「みんな、金大夫より先に進んで戦っていたのに・・・目立たなかっただけで不公平や!」と猛抗議!。

・・・で、結局、信長は、後日、残りの6人にも感状を出しました。

これで、7人・・・彼らが『姉川の七本槍』と呼ばれる人たちです。

後日申告でも、感状がもらえてよかった、よかった・・・今度からは、戦場で目に止めてもらえるよう、よりハデハデな旗指物を用意しなければ・・・。
 

*さらなる姉川の逸話:【「信長を殺ったる!」遠藤喜右衛門・命がけの奇策in姉川】>>もお楽しみください
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2008年6月27日 (金)

清洲会議~信長の後継者

 

天正十年(1582年)6月27日、亡き織田信長の後継者を決める清洲会議で、嫡孫・三法師が世継ぎに決定しました。

・・・・・・・・・・・

明智光秀の起した本能寺の変(6月2日参照>>)で、織田信長が倒れたのが、天正十年(1582年)6月2日の未明・・・

そして、主君の仇討ちとばかりに羽柴(豊臣)秀吉が、その光秀を山崎の合戦(6月13日参照>>)で破ったのが、11日後の6月13日でした。

亡き信長が、生前に家督を相続させていた長男・信忠(11月28日参照>>)、信長とともに亡くなってしまった事から、当然の事ながら、残った者たちで織田家の後継者を決めなければなりません。

それを決定すべく開かれたのが清洲会議です。

この会議を招集したのは、織田家の筆頭家老であった柴田勝家・・・会議に出席した人物は、その勝家と、同じく織田家の重臣である丹羽長秀、信長の乳兄弟でもある池田恒興、そして、秀吉の四人・・・。

もう、一人、本来はここに、滝川一益がいるはずでしたが、本能寺での急変を知って上洛しようとしたところを、北条氏政に阻まれ、神流川の戦い(6月18日参照>>)敗北を喫していました。

一益は、そのドタバタで会議に間に合わなかったとも、敗北したために織田家内での地位が下がり、会議から外されたとも言われていますが、とにかく、一益は欠席だったのです。

・・・で、この時、後継者候補と目されていた人物は、次男の織田信雄と、三男の織田(神戸)信孝・・・この二人の中では、信雄が次男ではあるものの武将としてはフツーの人。

その点、三男・信孝は、この本能寺の寸前にも、信長から四国の平定を命じられ、その大将をまかされてもいましたし、その後の山崎の合戦で、秀吉とともに父の仇を討っているのですから、かなり有力・・・。

なので勝家は信孝推しでした。

ところが、秀吉が予想外の人物を推薦します。

それは、本能寺の変で信長とともに果てた長男・信忠の長男・・・つまり、信長の孫の三法師です。

信長の直系ですし、すでに当主となっている信忠の嫡男なのですから、後継者としてふさわしい事はふさわしいのですが、なんせまだ3歳という幼さであったため、それまでは、誰も、三法師の事は眼中になかったのです。

会議は、(勝家+信孝)VS(秀吉+三法師)の構図となります。

確かに、本来は嫡流が後継者となるのが道理・・・しかも、信孝は、すでに神戸氏の養子となり、神戸信孝を名乗っているのですから・・・。

それでも、織田家筆頭であった勝家は、自分が推す意見が通るものと信じて、信孝を強く推すのですが、先の山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉の、織田家内での発言力は、勝家に匹敵する・・・いや、すでに、それを陵駕する物となっていたのです。

むしろ、会議が始まってからは、秀吉主導で話が進められ、一気に三法師へと傾きます。

それでも、納得がいかない勝家に、長秀が一言・・・
「山崎で勝利されたのは羽柴殿です」

事前の根回しによって、すでに長秀も恒興も、秀吉の味方になっていました。

結果、後継者は三法師に決定し、安土城の修復が完成するまで信孝が、その後見人となる事で収まります。

しかし、その後に話し合われた遺領の配分は、秀吉の主導で行われてしまいます。

信雄:尾張(愛知県)
信孝:美濃(岐阜県)
三法師:安土城
勝家:越前(福井県)長浜(滋賀県)
長秀:若狭(福井県)近江2郡
恒興:摂津(大阪府)3郡
一益:加増なし・宿老取り消し
秀吉:山城・丹波(京都府)河内(大阪府)

もう、誰が見てもわかる通り、一番いいとこを秀吉が抑えています。

ちなみに、勝家の領地の越前というのは、もともと勝家が信長から与えられていた領地で、そこに、清洲会議で長浜が加えられた事になりますが、この長浜は、もともと秀吉が信長から与えられていた領地です。

自分の領地を譲って、自分は、山城&河内という一等地に引っ越す・・・これって、当時の一般常識としてどうなんでしょう?

本来、織田家では秀吉より格が上だった勝家にとって、領地の多い少ないよりも、もっと屈辱的な事なのではなかったのでしょうか?

ただ、お察しの通り、清州会議に出席した4人の中で、ただ一人・勝家だけが、主君の弔い合戦である山崎の戦いに参加していない・・・プラス、その山崎の戦いに勝利したのは秀吉の功績に寄るところが大きい・・・って事も影響があったのかも知れません。

と、まぁ、心の奥底は想像するしかありませんが、少なくとも、勝家は、この後も長浜に引っ越すという事はなく、本拠地はずっと越前のままでした。

長浜のほうが、ずっと京都に近いのに・・・。

これらの決定に、勝家は堀政秀を通じて、一益は長秀を通じて反論しますが、秀吉はまったく無視・・・もちろん、信孝も不満を抱かないはずがありません。

でも、その事は秀吉も予測していたでしょう。

清洲会議の後、秀吉は、あの山崎の合戦の時に陣を敷いた天王山に城を築きます。

それも大急ぎで・・・

それに対して、勝家は・・・
「誰を敵として城を造るのか?」
と、不快感をあらわにしたとか・・・

結局、秀吉は、後に大坂城へ移るまでの間、この天王山城(山崎城・宝山城とも呼ばれる)を本拠として、京の守りを固める事になるのですが・・・。

Tennouzanisigakicc 天王山山頂の石垣とおぼしき跡
天王山へのくわしい行きかたは
HPでどうぞ>>

そして、一方の勝家は・・・

その秀吉との対立は、わずか一年後、賤ヶ岳の合戦(3月11日参照>>)となって爆発します。

追記:
とは言え、ごく最近の研究では、「この時点での秀吉の立場は中立だった」との見方もあります。

ドラマでよく描かれる、会議の後に三法師を抱いて登場した秀吉に一同がひれ伏す・・・といった場面は後世の創作で、あくまで、秀吉としては、この時点で、どうしても譲らない信雄と信孝に対して、どちらもが納得する嫡流の継承という形を提示して賛同を受けたのであって、誰の味方という事も、もちろん、勝家の敵という事も無かったと・・・

この意見によれば、この後に、三法師を預かっていた信孝が、いつまでたっても三法師を安土によこさない事で、秀吉との亀裂が生じ始めたのでは?との事のようです。
 .
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2008年6月26日 (木)

秀吉・もう一つの一夜城~石垣山城の謎

 

徳川家康の側近であった松平家忠『家忠日記』によれば、「天正十八年(1590年)6月26日に石垣山城が完成した」と記されていますので、本日は、一夜城として名高い石垣山城について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・

九州を平定して天下統一を目前にした豊臣秀吉に対して、最後に残った大物勢力は、あの北条早雲以来、五代・100年にかけて関東一円を支配してきた北条氏。

その北条氏を討つべく開始された小田原征伐(3月29日参照>>)

天正十八年(1590年)の4月3日には、秀吉は北条氏政・氏直父子の本拠地・小田原城の包囲を完了します。(4月3日参照>>)

しかし、この小田原城は天下の名城・・・しかも、周囲の城下町は、総構え(惣郭・そうくるわ)と呼ばれる城壁で町全体が囲まれた城郭都市でした。

武田信玄上杉謙信も落せなかったこの城の情報は、もちろん、秀吉の耳にも入っていますから、はなから相手が籠城作戦に出るであろう事、そうなれば、必ず長期戦になるであろう事は予測していました。

そこで秀吉は、小田原城を見下ろす位置にある標高255mの菅笠山(すげがさやま・太閤記では松山)に、(つい)の城を築く事にします。

これが、有名な『石垣山一夜城』です。

菅笠山が後に石垣山と呼ばれるようになる事と、秀吉が一夜にして築いたという伝説からその名がつきました。

しかし、この石垣山城・・・後ほど、その規模をご紹介させていただきますが、とてもじゃないが一夜で築く事は不可能な本格的な城です。

この伝説のでどころは、いくつかあるのですが・・・

『関八州古戦録』では、「山の中に木組みを作り、そこに白壁に見える紙を貼った物で、遠目から見ると城に見えるだけのはりぼてだったが、北条氏はそうとは知らず、大変驚いた」と、いったような事が書かれてありますが、現実に、今も石垣が残っている以上、はりぼての城だけではなかった事がわかります。

『小田原記』にも、「林の間に陣屋や櫓(やぐら)を造った後、周囲の木々を切り払ったので、いきなり城が完成したように見え、北条軍は、秀吉は神か!と驚いた」とありますが、本当に北条は、完成するまで、ここに城が築かれている事を知らなかったのでしょうか?

『当代記』『北条五代記』には、4月6日に築城にとりかかった事が記されています。

『当代記』は徳川の史料なので、ともかくとして『北条五代記』は、北条氏の家臣であった三浦浄心という人が記した物・・・そこに着工の日が書かれてあるというのは、どうなんでしょう?

もちろん、北条の家臣の著とは言え、書かれたのは江戸時代になってからですので、後々知りえた着工の日付を、そこに書いた可能性もありますので、これだけで、北条が石垣山城の築城を、最初から知っていたとは決めつけられませんが・・・。

ただ、5月20日付けの浅野長政の文書には、現地の報告として、「日番と夜番の二交代制で、昼夜休む事のない突貫工事が行われていて、その規模は大坂城や聚楽第にも劣らない」などという事が書かれています。

一説には、4万人の人々が動員されとも言われるこの大規模工事を、完成するまで、本当に北条が気づかないで、完成してからアッと驚いたのだとしたら、それはそれでかなりの問題のような気がしないではありません。

『当代記』『北条五代記』が、比較的信頼のおける文献である事から、今のところ、4月6日着工の話は、まず間違いないだろうと・・・また、冒頭の『家忠日記』も、感情的な事がほとんど書かれておらず、その日の天気や行動が、事細かく記されているところから、信頼のおける史料とされていて、6月26日の完成も、まず、間違いないであろうとされています。

・・・よって、石垣山城の築城は80日間というのが、現在の定説となっています。
もちろん、これでも、異常な速さです。

つまり、北条は突然現れた城に驚いたのではなく、本格的な城を80日で築いた事に驚いたのではないか?と・・・あくまで、私的意見ですが・・・。

なんせ、この頃は、中世城郭から近世城郭への移行の時期で、本格的な石垣を持つ城は、まだ、関東には無かったわけですし、この先、次々と築城されていく近世城郭の築城には、少なくとも1~2年、平均して3~4年はかかるのですから、80日というのが、いかに驚異的スピードなのかがわかります。

・・・で、肝心の石垣山城の規模ですが、明治初年の実寸記録というのをもとに想像してみると・・・
Isigakiyamasouzouzucc このイラストは、史料をもとにして趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません・・・数値は、一間を1.8mに換算したおおよその数値です。

現在も残る天守台の石垣が、東西36m・南北16mという事なので、やはり、こんな感じでしょうか。

ところで、この石垣山城の建物は、瓦葺であったそうで、現在も城址からは瓦が出土するとの事ですが、それに関してちょっとオモシロイ話があります。

それは、その出土した瓦の中に、「辛卯八月日という銘が記された物があったというのです。

「辛卯の年」とは、天正十九年の事・・・しかし、以前も書かせていただいたように、氏政・氏直父子が小田原城を開城するのは、天正十八年(1590年)の7月(7月5日参照>>)です。

攻撃のために築城した対の城を、落城後も構築していたというのでしょうか?それも、一年間もです。

記録としての石垣山城は、小田原城落城後、間もなく廃城になっています・・・もちろん天正十八年のうちに・・・そして、この石垣山城以外に、ここに城を築いたという記録もありません。

私としては、一夜城の出現に北条が驚いたかどうかよりも、この瓦の銘が何を語ろうとしているのか?のほうが気になってしかたがないのですが・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2008年6月25日 (水)

でるか?徳川埋蔵金伝説

 

最近、テレビでやらなくなりましたねぇ・・・徳川埋蔵金

一時は、某コピーライターさん指揮のもと、自称・超能力者まで総動員し、大型重機を使って、あちらこちら掘り返していましたが・・・。

かく言う私も、こういう類のお話は、決して嫌いではありません。

そもそも、このお話のでどころは、明治維新の時に徳川から明治政府に渡された財産が、あまりにも少なかった事にたんを発します。

最後は、完全崩壊しちゃったとは言え、250年間も君臨し続けた徳川幕府ですから、それなりの額の財産はあったはず、「なのに、こんだけかい!」というところから、「どこかに、隠したんじゃないの?」ってな話になって、埋蔵金伝説なる物が誕生するわけですが・・・。

最も有名なところでは、幕末の頃に幕府の勘定奉行をやっていた小栗忠順(おぐりただまさ)(4月6日参照>>)さんのウワサ・・・。

彼は、大政奉還後も徹底抗戦を訴えて、その強固な姿勢を崩しませんでしたが、その強固すぎる主張のため免職となり、幕府が崩壊する前に、故郷の上野(こうずけ・群馬県)に戻ってしまっています。

その時に、万が一の時のために隠してあった軍資金・360万両を持ち逃げしたという噂があったものの、維新後に新政府によって、彼が処刑されたため、そのお金のありかも不明になったという物です。

しかし、当時、本当に持ち出すようなお金が幕府に残っていたんでしょうか?

文久三年(1863年)と元治元年(1864年)に起こった下関戦争(8月8日参照>>)の賠償金やら、2度の長州征伐やらに多額に費用がかかり、この頃の幕府は大変な財政難に追い込まれていたとも言われています。

現に、ウワサの勘定奉行・小栗さん・・・蝦夷地(北海道)開発の権利と引き換えに、フランスから600万ドルの借金をしようと、慶応二年(1866年)の8月20日9月25日の二度に渡って、フランス経済使節のクーレと交渉を行っているのです。

600万ドルと言えば、当時のお金で約450万両・・・これだけあれば、幕府の運営もしばらくはもちます。

・・・って事は、このお金を持って逃げた?

いえいえ、実は、この借金交渉は決裂してしまい、実際に借り受ける事はなかったのです。

それは、この交渉が開始されて、ほぼ約束が固まりはじめた翌年の慶応三年・・・その年に行われたパリ万博に、幕府と並んで薩摩藩が出展していたため、ヨーロッパの人たちが幕府と薩摩藩は同列の国だと思い込んでしまった事、また、同じ年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)が行われていますが、以前も書かせていただいたように、この時点では、幕府はまだ、その態勢を維持したまま、この先も、別の形で存続するつもりでいたのですが、やはりヨーロッパからだと、大政奉還=幕府の崩壊に思えた事で、「もはや、終る政府に金は貸せない」となってしまったのです。

・・・て、事は、やっぱりお金はない・・・。

いやいや、まだ、他にも埋蔵金伝説はあります

それは、甲州街道・・・江戸時代に「五街道」と呼ばれた重要幹線の中で、東海道中山道は将軍のいる江戸と天皇のいる京都を結ぶため、確かに重要。

また、奥州街道も東北と江戸を結ぶ重要な幹線。
日光街道は、われらが権現・家康さまの日光東照宮への道ですから、これまた重要。

・・・で、甲州街道は・・・

以前、服部半蔵(11月4日参照>>)のところで書かせていただいたように、この甲州街道は、家康がまさかの時のための逃亡ルートとして用意した街道だとも言われ、家康は、「ここを通って、いざという時は上州を本拠地に、再起を計れ」と言ったとか、言わなかったとか・・・

それで、このルート沿い、あるいは上州に、家康の頃からの軍資金が、脈々と受け継がれているのでは?と囁かれているのです。

また、このように、国内に隠したと見せかけて、実は海外に・・・という海外埋蔵金伝説もあります。

それは、先に登場したパリ万博・・・このパリ万博を、15代将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武(あきたけ)が見物し、その後もしばらく留学していた事はすでに書かせていただきました(3月7日参照>>)が、この時期に、将軍の弟を海外留学させる・・・そこに、お金を持たせないわけはありませんし、ひょっとしたら、まさかの時に、起死回生の一発を放つための軍資金を持たせた可能性もなきにしもあらずといったところでしょうか。

また、慶応四年(1868年)には、早丸という幕府の船が、財宝を積み、秘密裏に嵐の中を出航した・・・なんて、まことしやかな伝説もあります。

しかも、この船は、その後、行方不明になったのだとか・・・って事は、もし、嵐の中沈没していたら、今も、お宝とともに、船は海に眠ってる?なんて事もあるかもです。

・・・・・・・・・・・

以上、噂が噂を呼ぶ徳川埋蔵金伝説ですが、今のところは、あくまで伝説です。

ただし、もし、実際に埋蔵金を見つけたとしても、速やかに文化庁に届けねばならず、届けた後は、その文化庁の管理下になるため、発見者には、何割かのお礼金が支払われ、後は手出し無用・・・って事で、大金を投資しての発掘は、「夢を買う」という心意気でない限り、ワリには合わないというのが、ホントのところのようです。

でも、イロイロ想像すると楽しいですね~。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (16) | トラックバック (0)
|

2008年6月24日 (火)

笹の才蔵こと可児才蔵~愛宕にまつわる死の予言

 

慶長十八年(1613年)6月24日、『笹の才蔵』の異名を持つ可児才蔵が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

平安中期に始まり、鎌倉時代にほぼ確立された、武士(もののふ)の道という物は、主君(棟梁)と部下(家人・郎党)との主従関係の上にあります。

主君と部下は、何代にも渡ってともに生活をし、部下は主君に対する忠誠を、主君は部下に対する慈愛を、ともに育み、その信頼関係によって武士団を形成していく・・・まさに、「いざ!鎌倉」「武士は二君に仕えず」の精神です。

しかし、鎌倉時代から江戸時代に渡って受け継がれていく、この武士道精神も、こと戦国という時代だけは別です。

腕力と知力さえあれば、土豪や野武士でも・・・果ては農民や商人でも、大大名にのぼりつめる事が夢じゃないこの時代は、普段とは逆に「主君を七度変えてこそ一人前」などとも言われていました。

そんな中、本日の主役・可児才蔵吉長(かにさいぞうよしなが)は、とにかく主君をよく変えた人です。

はじめは斉藤龍興(たつおき)に仕え、柴田勝家森長可(ながよし)明智光秀前田利家神戸信孝・・・このメンツを見ておわかりの通り、中には敗戦して滅亡に追い込まれたために主君を変えたケースもあるわけですが、主君がそのような憂き目に遭っても、才蔵は生き残って、再び乱世の荒波を泳いでいくのですから、なかなかのものです。

その神戸信孝が羽柴(豊臣)秀吉に謀略によって自刃に追い込まれた後、才蔵は秀吉の甥である羽柴(三好)秀次に仕えるですが、その時に、あの小牧・長久手の戦い(4月9日参照>>)が勃発します。

この時、まだ戦いに不慣れな秀次が、はやる心を押さえきれず、ただひたすら軍を進めようとするのを・・・
「今回の敵は強大ですから、無理に進めば大敗します・・・一旦退きましょう」
と進言するのですが、秀次はその言葉を聞かず、さらに進もうとしたました。

いくらアドバイスを聞いてくれなかったとしても、相手は主君ですから、普通なら、ここで「もう・・・しゃぁないなぁ・・・」と、ついていくところですが、さすが、主君から主君へ渡り歩きまくりの才蔵は違います。

「ほな、好きにしなはれ」
と、配下の兵だけを連れて、さっさと自分だけ退いてしまうのです。

かくして、その進んだ先で、徳川家康軍の奇襲を受けた秀次軍は大混乱となり、またたく間に敗北・・・しかも、そのドサクサで秀次は馬を失い、徒歩であたふたと戦場を離脱するのですが、そこに通りかかったのが、颯爽と馬上にまたがった才蔵・・・

「スマン、その馬貸してくれ!」と、主君・秀次・・・
すると、才蔵はひとこと・・・
「雨が降る日に傘を貸すアホはおらん!」
との捨てゼリフを残し、去っていったというのです。

確かに、自分が今必要な物を手放すヤツはいませんが、相手は主君だからなぁ・・・まぁ、そこが才蔵さんの才蔵さんらしさですが・・・。

・・・で、この一件で、浪人の身となった才蔵さん、やがて、秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の傘下に入り、関ヶ原の合戦へ参戦する事になります。

慶長五年(1600年)の9月15日、この日、徳川軍の先鋒を努める事になった福島隊・・・。

才蔵は、その福島隊の先陣・・・つまり、一番前の位置で、「真っ先に突入してやろう」と、大ハリキリで、開戦を今か今かとテンションも最高潮!

・・・と、その時、スルスル~と、才蔵の横をすり抜けるのは、あの井伊直政です。

実は、この直政、豊臣の家臣である福島隊に、関ヶ原の先陣を切らせる事に、どうも納得が行かない・・・「やはり、ここは、徳川配下の自分が・・・」と、心に決めての行動でした。

直政は、なんだかんだとウマイ事言って、才蔵の前に出て、あれよあれよ言う間に、敵方に攻撃を仕掛けてしまいました。(2月1日参照>>)

まんまと、先を越されてしまった才蔵さん・・・彼の性格が、その屈辱を許すワケがありません。

押えきれぬウップンを、合戦へと向けた才蔵は、鬼神のごとき活躍で、次々と敵を討ち取り、持ちきれない敵の首には、その口に笹の葉をくわえさせ、その場に置いたまま、さらに戦い続けます。

やがて、天下分け目の合戦にも決着が着き、夕方には、本陣で、家康による首実権が開始されるのですが、先の笹をくわえさえた首は、なんと17個・・・この日の徳川軍一の数だったのです。

この才蔵の働きに大喜びの家康は、「今日から“笹の才蔵”と名乗れ」と、直々に異名を与えられたのです。

主君から主君へ渡り歩いてきた才蔵さんは、この福島正則を最後の主君として、その生涯を閉じる事になるのですが、関ヶ原の合戦を終えた晩年の彼は、非常に穏やかで、やさしい人だったと言います。

そんな彼は、一生を通じて愛宕権現を信仰していて、生前は「俺は愛宕の縁日の日死ぬんだ」と予言していたというのですが、果たして、その言葉通り慶長十八年(1613年)6月24日愛宕の縁日の日(1月24日参照>>)に、その60歳の生涯を終えたのでした。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (5) | トラックバック (0)
|

2008年6月23日 (月)

戦国の幕を開けた男~細川政元・暗殺

 

永正四年(1507年)6月23日、管領・細川政元が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

細川政元(まさもと)は、あの応仁の乱(5月20日山椒>>)での東軍の大将細川勝元の息子です。

応仁の乱が、日本史上屈指の有名な乱で、その有名な乱の東軍の大将である事で、これまた勝元さんも大変な有名人・・・しかし、息子の政元さんは・・・というと、確かにお父さんほど有名ではありません。

たぶん、歴史がお好きではない方にとっては、あまり、聞いた事の無いお名前かも・・・何年か前の大河ドラマ『花の乱』でも、あまり目立っていなかったような・・・。

しかし、有名な父を持ったボンクラ息子か?と言えば、そうではなく、これが、なかなかのキレ者・・・いや、ひょっとしたらお父さんの上をいく、知謀に溢れた乱世の申し子・・・歴史ファンにとっては、かなり注目度の高い人物なのです。

はっきりとした境目のない、漠然とした言い回しの戦国時代という時代・・・何を以って戦国の幕開けとするか?という点では、上記の応仁の乱、あるいは以前書かせていただいた北条早雲『伊豆討ち入り』(10月11日参照>>)とともに、この細川政元のクーデター・『明応の政変』をあげる歴史ファンも少なくありません。

・・・・・・・・・・・

文明五年(1473年)5月11日、病床にいた父・勝元は、己の死期が近い事を悟り、息子・政元(聡明丸)をそばに呼び、皆の前で・・・

「この政元あらば、細川家は安泰だ」
と言って息をひきとったのだとか・・・。

政元、わずか8歳・・・その時から、彼は「半将軍」「観音の申し子」「八幡太郎の生まれ変わり」と呼ばれ、細川家の当主となるのです。

そして、翌、文明六年(1474年)4月、勝元と同じく応仁の乱の途中で亡くなった西軍・山名宗全(3月18日参照>>)の後を継いでいた山名政豊との間で講和を成立させ、10年に及ぶ応仁の乱を終結させました。

しかし、以前も応仁の乱のページで書かせていただいたように、応仁の乱は、それぞれの家庭の家督争いの集合体のような大乱でしたから、東軍と西軍の代表が講和を成立させたからと言って、それぞれの後継者争いが解決するわけでもなく・・・

もともと応仁の乱の発端となった『御霊合戦』(1月17日参照>>)で、畠山氏の後継者争いをしていた畠山政長畠山義就なんかも、義就が亡くなって息子の畠山義豊がその後を継いでも、やはり争いは収まっていなかったのです。

やがて、明応二年(1493年)、政長は、長年の争いを決着させるべく、時の室町幕府将軍・第10代足利義稙(よしたね)に応援を要請します。

要請を受けた義植は、政長とともに義豊を討つべく、河内(大阪)へと出陣しますが、実は、これが、政元の思う壷・・・

政元は水面下で、大和(奈良)丹後(京都)といった畿内の国人はもちろん、遠くは出雲(島根県)美濃(岐阜県)の守護、そして、ともに応仁の乱を終結させた山名政豊までを自分の味方につけ、この時を待っていたのです。

そう・・・クーデターの決行です。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

政元は、政長を攻めて自刃に追い込み、将軍・義稙を追放し、仏門に入っていた元堀越公方・足利政知(まさとも)の次男を、第11代将軍・足利義高(後の義澄)としたのです。

もちろん、この将軍は、政元の意のままになるあやつり人形的将軍です。

北条早雲が公方を倒し、事実上関東を支配して戦国の幕を開けたのだとしたら、政元は、将軍の補佐役である管領が、上司であるはずの将軍を交代させ、事実上実権を握るという形で戦国の幕を開けたのです。

ところで、この政元という人は、知謀や策略だけでなく、その性格にも興味の湧く人ではあります。

戦記物などでは、「魔法を使って隣国を動かした」などとも言われますが、さすがに、それは事実ではないでしょうが、政元自身が魔法を信じ、空に浮くための修行をしていのは本当のようです。

そして、その恐ろしいまでの知謀は、自分自身でコントロールできなくなるほどで、いきなり仏門に入ると言って家出し、家臣に連れ戻されたりもしています。

また、女性を、一切、近づけなかったのは、戦国武将にありがちな男色による物なのでしょうが、ほとんどの戦国武将の場合、正室もいて側室もいて、家督を譲る息子もいて、その後にステータスとしての美少年を側に置く・・・といった感じですが、政元の場合は、はなから男一本、まったく女性には手をつけていません。

しかし、これが、彼の命取りとなります。

女を寄せ付けない=実子ができないわけで、細川家を存続させるためには、当然、養子を迎えなければなりません。

政元は、関白九条政基(まさもと)の末の子供を養子にもらい、自らが幼い頃名乗った細川家督世襲の幼名・聡明丸と名乗らせました・・・この子が後の細川澄之(すみゆき)なのですが、

しかしその後、政元は、二人目の養子を迎え入れる事になってしまいます。
(その理由は、おそらく方針転換による物かと…くわしくは8月1日のページ参照>>)

今度は、血縁関係にある阿波(徳島県)細川家の義春の子供・六郎を養子として細川澄元(すみもと)と名乗らせました。

もう、おわかりですよね。
後継者の候補が二人になると、当然のように家臣団は二つに分かれ、争いが起こる事になるのです。

やがて永正三年(1504年)、養子になったとは言え、未だ阿波にいたままだった澄元が、阿波細川家の実力者・三好之長(ゆきなが)とともに京に入ると、「そのまま、すんなり細川家に入れてはなるか!」とばかりに、澄之派の家臣が動き始め、畿内にいる澄元派の守護大名たちとの間に、内紛が勃発するのです(8月24日参照>>)

そして、運命の永正四年(1507年)6月23日、内紛のドサクサに乗じて、阿波の之長の力が増大するのを恐れた澄之側の家臣・香西元長(こうざいもとなが・山城国守護代)らによって、政元は風呂に入っているところを襲われ、その命を落すのです。

享年・42歳でした

大名が将軍を擁立するという下克上を自らの手で成し遂げ、戦国の幕を開けた男は、家臣による暗殺という下克上で、その舞台から引きずり下ろされる事となったのです。
 .

あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2008年6月22日 (日)

歴史人物辞典~「そ」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「そ」から始まる歴史人物です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★宗祗
  ●「もう1度、富士山を…」放浪詩人・飯尾宗祗の旅

★宗義智
  ●文禄の役・釜山上陸
  ●朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智

★副島種臣
  ●副島種臣の英断~マリア・ルーズ号事件

★蘇我赤兄
  ●悲劇の皇子・有間皇子死刑

★蘇我石川麻呂
  ●蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?
  ●数奇な運命をたどった山田寺の未来への遺産

★蘇我稲目
  ●仏教伝来・物部VS蘇我

★蘇我入鹿
  ●聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?
  ●入鹿暗殺≠大化の改新
  ●蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説
  ●蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?
  ●大化の改新の影の立役者・南淵請安

★蘇我馬子
  ●仏教伝来・物部VS蘇我
  ●物部守屋VS蘇我馬子~仏像投げ捨て事件
  ●物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺
  ●VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮
  ●崇峻天皇・暗殺事件の謎
  ●悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎
  ●謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代
  ●石舞台古墳のあるじは?

★曽我兄弟(祐成・時致)
  ●曽我兄弟の仇討ち もう一人のターゲット

★十河一存
  ●三好政権を支えた「鬼十河」~十河一存
  ●やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶

★十河存保
  ●長宗我部元親を変えてしまった息子・信親の死

★曽呂利新左衛門
  ●トンチの帝王・曽呂利新左衛門と豊臣秀吉

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

「応援してやろう」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「せ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「せ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★世阿弥元清
  ●将軍に愛された美少年・世阿弥~謎の後半生

★青岩院(虎御前)
  ●両・長尾家のために…謙信の母・虎御前

★清源寺是鑑
  ●上杉に仕えた軍師・清源寺是鑑

★清少納言
  ●中宮・定子と清少納言

★聖誉貞安
  ●信長の命で行われた法華宗VS浄土宗の安土宗論

★清和天皇
  ●藤原・全盛への道を開いた清和天皇のジレンマ

★関孝和
  ●和算を世界レベルにした数学の神様…関孝和

★関口隆吉
  ●長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉

★関盛信
  ●小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

★絶海中津
  ●応永の乱~大内義弘の最期

★雪舟
  ●雪舟さんのご命日です

★世良修蔵
  ●会津戦争の呼び水…世良修蔵の暗殺

★世良田二郎三郎元信
  ●徳川家康は四人いた?説

★芹沢鴨
  ●わずか半年の新撰組・初代局長~芹沢鴨

★仙石左京(久寿)
  ●仙石騒動に散った仙石左京

★仙石秀久
  ●秀吉・賤ヶ岳の間に長宗我部元親・讃岐を平定
  ●失敗してもくじけるな!どん底からの復活
  秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦

★千石ミゲル
  天正遣欧少年使節の帰国

★千手
  ●捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手の前

★千手観音
  ●千手観音の手は千本あるの?

★千姫
  ●千姫・ご乱行の真相
  ●大坂城・落城~脱出した秀頼の娘は・・・
  ●姫路城・化粧櫓に千姫を偲んで・・・
  ●ここに来て 「千(姫)」も救うか 天地人

★千利休
  ●千利休・切腹の謎~利休の握っていた秘密とは?

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「す」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「す」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★推古天皇(第33代)
  ●物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺
  ●日本初の女帝・推古天皇の誕生
  ●女帝・推古天皇の素顔

★瑞泉寺顕秀
  ●越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦

★垂仁天皇
  ●七夕の夜に~日本最古のK-1ファイト
  ●埴輪の使用目的は?
  ●垂仁天皇が~佐保の中心で「愛」を叫ぶ

★綏靖天皇
  ●綏靖天皇・即位~記紀の「弟優先の法則」

★崇源院(江与・江・小督)
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待
  ●江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念
  ●「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密に思う
  ●「江~姫たちの戦国」第6回・光秀の天下を見て
  ●大河ドラマ「江」第20回・茶々の恋でひと言
  ●大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期
  ●大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」最終回:希望

★陶晴賢(隆房)
  ●あんなに愛した仲なのに…陶晴賢・大寧寺の変
  ●厳島の前哨戦~毛利元就の折敷畑の戦い
  ●毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン
  ●毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ…
  ●厳島の戦い:運命を変えた村上水軍の参戦
  ●決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2
  ●厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合
  ●大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに

★陶弘護
  ●大内政弘の留守を守った若き重臣・陶弘護

★末広ヒロ子
  ●ミス日本に選ばれて退学処分

★末吉増重・末吉吉康
  ●大坂の陣!平野焼き討ちと「みしかよの物かたり」

★菅沼忠久
  ●三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

★菅原道真
  ●学問の神様・菅原道真の学力は?
  ●保身か?英断か?菅原道真の遣唐使・廃止
  ●白紙に戻そう遣唐使
  ●学者じゃない?その策謀的政治手腕
  ●菅原道真没
  ●御室桜のごとき返り咲き~宇多天皇の「寛平の治」
  ●時平の七笑~意外に敏腕?左大臣・藤原時平
  ●道真の怨霊伝説
  ●大坂の陣の激戦地=道明寺天満宮の梅が満開

★杉浦重勝
  ●関ヶ原~竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝

★杉田玄白
  ●杉田玄白・解体新書の話

★杉谷善住坊
  ●逃げる織田信長を狙撃した杉谷善住坊

★杉原重政
  ●小早川秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間

★崇光天皇
  ●南北朝に翻弄され在位はわずか3年間…崇光天皇

★須佐之男命(素戔鳴尊)
  ●茅の輪くぐり神事のお話

★崇峻天皇(第32代)
  ●崇峻天皇・暗殺事件の謎

★調所広郷
  ●幕末・島津の「お由羅騒動」

★崇神天皇(第10代)
  ●日本書紀に登場する二人の初代天皇

★鈴木重秀
★鈴木重朝(雑賀孫一)
  ●鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一
  ●信長の雑賀攻め序盤~孝子峠の戦いと中野落城
  ●雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは孫一のモノ?
  ●重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一

★鈴木重時
★鈴木重好
  ●三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

★薄田隼人兼相(岩見重太郎かもよ
  ●岩見重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち
  ●奮戦!薄田隼人~道明寺・誉田の戦いIN夏の陣

★鈴木金七
  ●長篠の戦い・もう一人の伝令~信長勝利の鍵

★鈴木平兵衛
  ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆

★崇徳天皇(第75代)
  ●武士の時代の幕開け…保元の乱
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱
  ●史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説

★周布政之助
  ●長州動乱…周布政之助の自殺

★諏訪頼重(鎌倉・室町時代)
  ●北条復興を願って…中先代・時行の反乱
  ●高氏改め足利尊氏が中先代の乱の後に…

★諏訪頼重(戦国時代)
  ●武田信玄・信濃攻略への第一歩in諏訪

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「し」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「し」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★シーザー
  ●7月と8月、大の月が続くのはナゼ?

★シーボルト
  ●忍者・間宮林蔵 樺太発見の後に・・・
  ●シーボルト事件のウラのウラ
  ●遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ

★椎名小四郎(長尾景直)
  ●上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦
  ●織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野の戦い

★椎名康胤
  ●上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い
  ●上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

★慈恵大師良源
  ●延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源

★塩屋秋貞
  ●織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻

★志賀重昂
  ●世界を見たから日本が好き!志賀重昂の愛国心

★式子内親王
  ●恋の歌姫~式子内親王と藤原定家

★志道広良
  ●「君は船」…毛利元就&隆元を支えた執権・志道広良

★慈視院(朝倉)光玖
  ●朝倉を支えた名サポーター慈視院光玖

★宍戸景世(宍戸景好・河野通軌)
  ●毛利輝元の伊予出兵~宍戸景世の伊予の関ヶ原

★志津(お静の方・神尾静)
  ●将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方

★静御前
  ●静御前の白拍子なる職業
  ●義経危機一髪!堀川夜討ち
  ●静御前、吉野にて捕まる!
  ●鶴岡八幡宮・静の舞
  ●静御前・男児を出産
  ●夫・源義経との最期を選んだ郷御前

★地蔵
  ●お地蔵様のお話

★七福神
  ●いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話

★持統天皇(第41代)
  ●天武天皇崩御で持統天皇が動き出す
  ●大津皇子・謀反発覚!
  ●14年間に26回~持統天皇の吉野行幸
  ●日本初の本格的「都」~藤原京・誕生
  ●薬師寺・伽藍完成
  ●持統天皇の葛藤

★品川大膳(品川狼之介・棫木狼介)
  ●一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦

★品川弥二郎
  ●萩の乱近し~前原一誠と木戸孝允と品川弥二郎と

★司馬江漢
  ●江戸をおもしろくした天才・司馬江漢

★司馬鞍作首止利(鞍作鳥)
  ●悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎

★柴田勝家
  ●織田信長の大声で信行に勝利?稲生の戦い
  ●まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い
  ●織田信長VS越前一向一揆
  ●謙信VS信長~1度きりの手取川の戦い
  ●金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉
  ●富山・魚津の攻防戦
  ●清洲会議~信長の後継者
  ●賤ヶ岳の前哨戦~秀吉の長浜城攻防
  ●秀吉VS勝家・一触即発の賤ヶ岳前夜
  ●決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し
  ●決着!賤ヶ岳…鬼玄蕃・佐久間盛政の奮戦
  ●9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」
  ●賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱
  ●勝家&お市・最後の宴~北ノ庄城・炎上前夜
  ●柴田勝家とお市の方の最期
  ●柴田勝家自刃…福井・九十九橋の怨霊伝説
  ●賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期

★柴田勝豊
  ●賤ヶ岳の前哨戦~秀吉の長浜城攻防

★新発田重家
  ●ツンデレ満載「天地人」~忘れちゃいけない新発田城
  ●上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家

★斯波義統
★斯波義銀
  ●織田信長、清州城を乗っ取る!

★斯波義達
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★柴山勘兵衛
★柴山両賀
  ●日本のアトランティス~瓜生島・沈没伝説

★渋川春海
  ●初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』

★渋沢成一郎
  ●江戸を死守する最後の砦~彰義隊・結成!
  ●イケメン揃いの幕末~上野の後の飯能戦争

★渋沢平九郎
  ●イケメン揃いの幕末~上野の後の飯能戦争

★島左近
  ●関ヶ原前哨戦・杭瀬川の戦い~石田三成の決断
  ●討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近

★島津安芸前司(忠信)
  ●赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

★島津家久
  ●耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲
  ●沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因
  ●秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦

★島津家久(忠恒)
  ●「真田日本一の兵」by島津忠恒の心の内は…

★島津貴久
  ●島津四兄弟の父となった中興の祖・島津貴久

★島津斉彬
  ●島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛
  ●幕末の名君~薩摩藩主・島津斉彬の毒殺説

★島津斉興
  ●幕末・島津の「お由羅騒動」

★島津久光
  ●寺田屋事件に散った有馬新七と薩摩九烈士
  ●島津を180゚変えた生麦事件
  ●薩英戦争前々日~未遂に終った「スイカ売り決死隊」
  ●薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ
  ●戦い終わって日が暮れて~薩英戦争・その後
  ●薩英戦争を挟んで…孝明天皇と島津久光
  ●幕末・維新の激流の中…国父・島津久光の泳ぎ方

★島津義久
  ●島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い
  ●耳川の戦いのその後…大友氏の落日
  ●見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原

★島津義弘
  ●耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲
  ●激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏
  ●全員討死!岩屋城の激戦
  ●歴史のifを思う…謎多き梅北の乱
  ●関ヶ原に最後まで~敵中突破の「島津の背進」
  ●島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳in関ヶ原
  ●「島津の背進」の生き残り・中馬大蔵重方
  ●兄弟・父子の連携で乱世を生き抜いた島津義弘

★島義勇
  ●立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱
  ●佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命やいかに

★清水定吉
  ●文明開化~初のピストル強盗現る!

★清水次郎長
  ●海道一の大親分・その知られざる後半生

★清水宗治
  ●備中高松城・落城~清水宗治・自刃

★清水冠者義高
  ●頼朝の愛娘・大姫のお話

★清水誠
  ●マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日

★志村光安
  ●直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い

★下間頼総
  ●信長と抗戦した石山本願寺の総大将・頼総の追放

★下間蓮崇
  ●本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇

★下山定則
  ●謎の下山事件

★釈迦
  ●お盆の由来~大文字焼きは巨大灯籠の最終形?
  ●釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図の見どころ

★釈迦ヶ嶽雲右門
  ●相撲・第1期黄金期~谷風梶之助と釈迦ヶ嶽雲右門

★シャクシャイン
  ●北の大地に蜂起!アイヌの英雄・シャクシャインの戦い

★謝名利山
  ●島津の前に散る悲しみの琉球王朝~尚寧王
  ●琉球王国・最後の忠臣~謝名利山

★寿桂尼
  ●女戦国大名・寿桂尼…「死んでも今川を守ります!」

★十郎権頭兼房
  ●衣川の合戦~義経・主従の最期

★十辺舎一九
  ●煙とともに、灰、左様なら

★酒呑童子
  ●排除された邪教の神~酒呑童子の叫び

★ジュリアおたあ
  ●悲劇の人・おたあジュリア

★春王・安王
  ●鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

★春屋妙葩
  ●南禅寺事件~坊さんどうしのケンカに幕府が…

★俊寛
  ●浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀
  ●鬼界ヶ島に1人ぼっち~俊寛の悲しい最期

★淳仁天皇
  ●没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇

★定山祖禅
  ●南禅寺事件~坊さんどうしのケンカに幕府が…

★順徳天皇
  ●順徳天皇の心の内は・・・

★定恵(中臣真人)
  ●可愛い子には旅を…鎌足の息子=定恵の留学

★正栄尼
  ●大坂夏の陣~渡辺糺と母・正栄尼の最期

★青岳尼
  ●逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼

★松花堂昭乗
  ●涼を呼ぶ松花堂の水琴窟
  ●松花堂弁当と寛永の三筆・松花堂昭乗

★浄岸院(竹姫)
  ●将軍家と島津の架け橋…公家生まれの竹姫の願い

★貞慶
  ●エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶

★昭憲皇后
  ●和装から洋装へ…女性の服装も文明開化

★称光天皇
  ●戦国の足音…重き「光」を背負った称光天皇

★浄光
  ●鎌倉の大仏と奈良の大仏

★常高院(初)
  ●ホタル大名・京極高次…一世一代の決断
  ●大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原
  ●勲功1番の戦いぶり~京極高次の関ヶ原
  ●浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣
  ●事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

★庄司甚右衛門
  ●吉原が炎上したら…遊びの殿堂の誕生・移転

★成尋
★成尋阿闍梨の母
  ●離れてもなお母の愛~成尋とその母

★城資永
  ●北陸に義仲あり!横田河原の合戦

★庄為資(荘為資)
★庄高資(荘高資)
★庄元資(穂井田元祐)
  ●猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…

★聖徳太子
  ●VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮
  ●聖徳太子のどこが怪しいのか?
  ●知ってるつもりの十七条憲法~その言いたい事は?
  ●法隆寺と聖徳太子
  ●国書を失くした小野妹子が出世する不思議
  ●女帝・推古天皇の素顔
  ●聖徳太子・死因の謎
  ●山背大兄王を殺したのは誰か?
  ●太子のために再建?謎と不思議の法隆寺

★称徳天皇(第46代・第48代・孝謙天皇)
  ●歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱
  ●和気清麻呂・大隈へ流罪
  ●盛者必衰~藤原仲麻呂の乱
  ●没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇
  ●道鏡事件のウラのウラ
  ●戦国の活版印刷と日本にある世界最古の印刷物

★聖武天皇(第45代)
  ●孤軍奮闘も空しく~長屋王の悲劇
  ●夫婦円満?初の民間皇后・光明皇后と聖武天皇
  ●七夕の夜に日本最古のK-1ファイト
  ●恭仁京?志香楽宮?~聖武天皇・迷走の謎
  ●木簡に万葉歌!「紫香楽宮=しがらきのみや」って?
  ●奈良の大仏の大きさは聖武天皇の恐怖の大きさ
  ●弾圧の小僧・行基~大出世のウラ事情
  ●正倉院・アッと驚く豆知識

★少弐資元
  ●少弐冬尚の自害で少弐氏が滅亡

★少弐冬尚
  ●北九州の覇権を廻って…少弐氏と龍造寺氏
  ●少弐冬尚の自害で少弐氏が滅亡

★少弐頼尚
  ●九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い

★証如
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い

★准如
  ●時代とともに生きた~東西・二つの本願寺

★尚寧王
  ●島津の前に散る悲しみの琉球王朝~尚寧王
  ●琉球王国・最後の忠臣~謝名利山

★昭和天皇(第124代)
  ●京都御所?皇居?昭和・平成の大礼
  ●昭和天皇とマッカーサー元帥

★ジョン・ニール
  ●薩英戦争前々日~未遂に終った「スイカ売り決死隊」
  ●薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ

★ジョン万次郎(中浜万次郎)
  ●ジョン万次郎の帰国
  ●海援隊の生みの親~龍馬も憧れた河田小龍

★白井龍伯
  ●家康×秀頼~二条城の会見と軍師・白井龍伯

★白石正一郎
  ●勤王の志士たちを支えたパトロン・白石正一郎

★白河天皇(第72代)
  ●白河上皇の院政の影に武士の存在
  ●保元の乱のきっかけを作った鳥羽天皇の死
  ●平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説
  ●今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」

★神功皇后
  ●神功皇后の三韓征伐

★新庄局
  ●「女は顔やないで!」吉川元春の嫁選び

★信西(藤原道憲・高階道憲)
  ●平治の乱に敗れ「さらし首」となった信西

★真如(高丘親王)
  ●めざせ天竺!マレーに消えた高丘親王

★神保氏張
  ●信長の動きを受け~いよいよ謙信が富山へ侵攻
  ●佐々成政の城生城の戦い

★神保修理長輝
  ●鳥羽伏見の責任を負った会津藩士・神保修理

★神保覚広
  ●上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦

★神保長住
  ●織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野の戦い
  ●越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦

★神保長職
  ●上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い
  ●上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

★神武天皇(初代)
  ●建国記念の日と神武天皇
  ●日本書紀に登場する二人の初代天皇
  ●仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏

★新門辰五郎
  ●徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎

★親鸞
  ●親鸞聖人のご命日~本願寺門徒は一向宗じゃない

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「さ」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「さ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★サトウ(アーネスト・サトウ)
  ●幕末の日本を駆け抜けた外交官…アーネスト・サトウ

★西園寺公望
  ●西園寺公望、パリのカフェで大暴れ
  ●明治に起こった「大逆事件」とは?

★雑賀孫一(鈴木重秀・重朝)
  ●鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一
  ●信長の雑賀攻め序盤~孝子峠の戦いと中野落城
  ●雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは孫一のモノ?
  ●「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話
  ●重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一

★西行
  ●武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎多き歌人・西行

★西光
  ●浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀

★西郷隆盛
  ●島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛
  ●西郷隆盛,月照と共に入水自殺を図る
  ●この日本国のために~薩長同盟・成立
  ●薩長同盟の龍馬に疑問?西郷と木戸が待ったのは
  ●王政復古の大号令
  ●討幕が決定的となった薩摩藩邸襲撃事件
  ●鳥羽・伏見の戦い勃発!
  ●西郷隆盛と勝海舟の会談~その内容は?
  ●江戸城無血開城
  ●幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争
  ●征韓論で西郷隆盛、辞職
  ●西南戦争・勃発~西郷に勝算はあったか?
  ●いよいよ西南戦争~薩摩軍・鹿児島を発つ!
  ●西南戦争~熊本城・攻防戦
  ●激戦!田原坂・陥落~薩摩の敗因は?
  ●西南戦争~熊本城・救出作戦
  ●西南戦争で西郷隆盛に呼応した党薩隊
  ●西南戦争で敗れた西郷隆盛が星になった?
  ●西南戦争~城山の最終決戦
  ●西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋
  ●西南戦争が変えたもの…
  ●西南戦争・概要
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・1
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2
  ●西郷隆盛生存説と銅像建立
  ●祇園の豆まきと西郷さんが見た成就院の庭

★最澄(伝教大師)
  ●最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!
  ●比叡山を日本仏教の母山とした伝教大師・最澄

★斎藤実盛
  ●無残やな 甲の下の篠原の合戦

★斎藤常丹
★斎藤信利
  ●佐々成政の城生城の戦い

★斎藤龍興
  ●織田信長VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い
  ●目覚めた天才軍師!稲葉山城乗っ取り事件
  ●織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦
  ●織田信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落
  ●刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興

★斎藤伝鬼坊勝秀
  ●天狗となった天流の開祖~剣豪・斎藤伝鬼坊

★斎藤道三
  ●今や父子2代の物語…斉藤道三の長井氏乗っ取り
  ●織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い
  ●信長&濃姫の結婚へと向かわせた加納口の戦い
  ●斉藤道三×織田信長…正徳寺の会見
  ●道三を驚かせた?若き信長の村木城(砦)の戦い
  ●道三より大物?斉藤義龍の「親から国盗り物語」
  ●道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状
  ●長良川の戦い~斎藤道三の最期
  ●美濃のマムシは二人いた
  ●こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は何処へ?
  ●斉藤道三を有名にした土岐頼芸~国盗られ物語

★斎藤利治(新五・新五郎)
  ●織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野の戦い

★斉藤利三
  ●明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…

★斉藤一
  ●斉藤一~警察官になっても新撰組魂は消えず

★斎藤妙純
  ●家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期
  ●京極の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

★斎藤妙椿
  ●和歌で領地を取り戻す~カリスマ歌人・東常緑
  ●応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦

★斉藤茂吉
  ●昭和の歌王~斉藤茂吉の強烈ラブレター攻撃

★斎藤義龍
  ●道三より大物?斉藤義龍の「親から国盗り物語」
  ●長良川の戦い~斎藤道三の最期
  ●美濃のマムシは二人いた
  ●光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?

★斎村政広(赤松広通・広秀・広英)
  ●関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀

★斉明天皇(第35代・第37代・皇極天皇)
  ●日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位
  ●斉明天皇の心の内は・・・
  ●弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑

★佐伯氏長
  ●気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説

★坂井大膳
  ●織田信長、清州城を乗っ取る!

★酒井忠器
  ●庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

★酒井忠清
  ●下馬将軍・酒井忠清の汚名を晴らしたい!

★酒井忠次
  ●長篠の勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦
  ●小牧長久手の戦いの中盤・羽黒の戦い
  ●徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?

★酒井忠世
  ●徳川譜代の雅楽頭~酒井忠世の失敗

★榊原政岑
  ●吉原の花魁・高尾太夫を落とした榊原政岑

★榊原康政
  ●歯に衣着せぬ康政節…徳川四天王・榊原康政

★坂崎直盛
  ●千姫・ご乱行の真相

★嵯峨天皇
  ●悪女・藤原薬子の乱
  ●「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成
  ●美しき者も高貴な者も世は無常~皇后・橘嘉智子

★坂上田村麻呂
  ●坂上田村麻呂の真実
  ●坂上田村麻呂が清水寺建立に込めた思い

★坂本乙女
  ●龍馬に影響を与えた姉・坂本乙女

★坂本龍馬
  ●龍馬伝の「よくわからない」&加尾ちゃんへの手紙
  ●龍馬もまねた~横井小楠の明治維新のシナリオ
  ●海援隊の生みの親~龍馬も憧れた河田小龍
  ●この日本国のために~薩長同盟・成立
  ●薩長同盟の龍馬に疑問?西郷と木戸が待ったのは
  ●危機一髪!寺田屋事件
  ●晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った第2次長州征伐
  ●龍馬の「船中八策」土薩盟約そして大政奉還へ…
  ●いよいよ「龍馬伝」に登場する中岡慎太郎と陸援隊
  ●坂本龍馬・暗殺の謎の謎
  ●見廻組随一の刺客・佐々木只三郎
  ●坂本龍馬暗殺・紀州藩黒幕説
  ●どうなった?龍馬亡き後の海援隊
  ●恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍
  ●坂本龍馬の婚約者~鬼小町・千葉佐那
  ●坂本龍馬の隠れ家「酢屋」へ行ってきました
  ●大河ドラマ・龍馬伝では幼馴染の弥太郎ですが
  ●「龍馬伝」~考えがコロコロ変わる龍馬って
  ●何かオカシイ…龍馬伝・第46回「土佐の大勝負」
  ●龍馬伝・第47回「大政奉還」と徳川慶喜の思惑
  ●龍馬伝・最終回「龍の魂」と幕末の日本人   

★佐川官兵衛
  ●会津戦争~十六橋・戸ノ口原の戦い
  ●幕末・会津戦争~長命寺の戦い
  ●いよいよ大詰め…会津若松城への総攻撃開始
  ●佐川官兵衛~会津魂・未だ衰えず

★相楽総三
  ●赤報隊・相楽総三 諏訪に散る
  ●赤報隊・相楽総三 諏訪に散る2

★策伝(安楽庵策伝)
  ●戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝

★佐久間象山
  ●天才思想家・佐久間象山~幕末の京に散る
  ●新政府にも屈しない~「人斬り」河上彦斎
  ●幕末の極楽トンボ~佐久間象山の息子・三浦啓之助
  ●真田家・佐久間象山ゆかりの妙心寺大法院・公開

★佐久間信盛
  ●信長とともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路

★佐久間正勝
  ●小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い
  ●小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

★佐久間盛政
  ●金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉
  ●決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し
  ●決着!賤ヶ岳…鬼玄蕃・佐久間盛政の奮戦
  ●賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期

★鮭延秀綱
  ●直江兼続を手玉に取った最上の重臣・鮭延秀綱
  ●直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い
  ●名門・最上を消滅させた最上騒動

★佐々木憲一
  ●名古屋城の伝説~金の鯱に触れた者は・・

★佐々木小次郎
  ●巌流島の決闘~佐々木小次郎の実態

★佐々木高綱
  ●宇治川の先陣争い
  ●男・高綱~意地とプライドのパフォーマンス

★佐々木只三郎
  ●龍馬も斬った?見廻組随一の刺客

★佐々木道誉
  ●佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業
  ●南北朝動乱~北朝執事の細川清氏が南朝へ…
  ●南北朝~新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀

★佐々成政
  ●佐々成政の越中一向一揆~瑞泉寺・井波の合戦
  ●富山・魚津の攻防戦
  ●佐々成政の城生城の戦い
  ●末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携プレーで・・・
  ●前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防
  ●佐々成政の北アルプスさらさら越え
  ●秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐
  ●迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政が秀吉に降伏
  ●佐々成政の失態~肥後・国人一揆
  ●黒百合事件と呪いの黒百合伝説

★佐竹秀義
  ●源平争乱…金砂城の戦い

★佐竹義宣
  ●2転3転…秋田藩の祖・佐竹義宣の山と谷

★佐竹義敦
  ●「秋田蘭画」を誕生させた佐竹義敦と小田野直武

★郷御前(河越重頼女・源義経室)
  ●夫・源義経との最期を選んだ郷御前

★里見義堯
  ●里見VS後北条~鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い
  ●第一次・国府台合戦~小弓公方の最期

★里見義豊
  ●里見VS後北条~鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い

★里見義弘
  ●逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼
  ●里見VS後北条~第二次国府台の合戦
  ●里見氏の全盛を築いた南関東の雄・里見義弘

★佐藤忠信
  ●佐藤忠信・吉野山奮戦記
  ●みちのくの勇者・佐藤忠信の最期

★佐藤忠能
  ●織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦

★佐藤嗣信
  ●屋島の合戦~佐藤嗣信の最期

★佐藤義清(西行)
  ●武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎多き歌人・西行

★真田信利
  ●悪政を極めた藩主・真田信利

★真田信幸(信之)
  ●兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ
  ●あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功
  ●作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い
  ●真田家・佐久間象山ゆかりの妙心寺大法院・公開

★真田昌幸
  ●上田城・神川の合戦~真田の勝利と石川の寝返り
  ●小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城奪取
  ●兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ
  ●あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功
  ●関ヶ原~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携
  ●作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い
  ●真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦
  ●真田昌幸&幸村・高野山へ…
  ●徳川に2度勝った男…智将・真田昌幸
  ●「天地人」での、世にも不思議な真田一家

★真田幸隆(幸綱)
  ●謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

★真田幸村(信繁)
  ●兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ
  ●あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功
  ●作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い
  ●真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦
  ●真田昌幸&幸村・高野山へ…
  ●徳川に2度勝った男…智将・真田昌幸
  ●真田幸村が九度山を脱出し大坂城へ…
  ●真田幸村の必勝作戦!
  ●冬の陣・直前~その時、大坂城内は?
  ●大坂冬の陣~真田丸の攻防
  ●真田丸の攻防~幸村と松平直政
  ●真田幸村、最後の手紙
  ●真田幸村の平野・地雷火伝説
  ●大坂夏の陣・開戦!
  ●大坂夏の陣・大坂城総攻撃!
  ●「天地人」での、世にも不思議な真田一家
  ●真田丸はどこにあった?
  ●真田信繁の討死~そして幸村伝説へ…

★佐野常民
  ●形なき未来への遺産~佐野常民の博愛精神

★佐野常世
  ●「いざ!鎌倉」の語源~鉢の木と北条時頼

★佐野四郎右衛門此由
  ●三成・大垣城に…関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2

★狭野茅上娘子
  ●万葉の恋歌・別れ歌

★佐野政言
  ●「世直し大明神」佐野政言の田沼意知・刃傷事件

★佐野道可(内藤元盛)
  ●陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭け佐野道可事件

★ザビエル(フランシスコ・ザビエル)
  ●ザビエルが以後よく広めるキリスト教
  ●ザビエル死して奇跡を残す

★沙本毘古王(狭穂彦王)
★沙本毘売(狭穂姫)
  ●垂仁天皇が~佐保の中心で「愛」を叫ぶ

★猿丸太夫
  ●たった一首で大歌人?猿丸太夫の謎

★沢房満
★沢源六郎
  ●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防

★早良親王(崇道天皇)
  ●お彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために

★三条実美
  ●幕末維新の公卿で政治家…三条実美

★三条殿(三条夫人・三条の方)
  ●公家の姫から武将の嫁に…信玄の奥さん~三条殿

★山本寺定長
  ●上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦

★三幡(乙姫)
  ●頼朝の愛娘・大姫の死にまつわる疑惑

★三遊亭円朝(圓朝)
  ●三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2008年6月21日 (土)

チョット驚き!大江戸医者事情

 

昨日からのお医者さんつながりで、今日はちょっとくだけたお話を・・・

江戸時代のお医者さんのおもしろエピソードをいくつかご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・

昨日も書かせていただきましたように、江戸時代には医師免許なるものはありませんでしたので、「とりあえず医者にでもなろうか」「医者しかできないんだよね~」なんて感じでお医者さんをやってた人もけっこういたのです・・・もちろん名医もいましたが・・・。

しかも、何の手続きもなく、思い立ったその日から始められるわりには、名字を名乗る事も許され、短いながらも刀をさす事もできましたから、けっこうお得・・・。

『徳川禁令考』という幕府の通達や、お触れを記した文献には・・・
「病気になって畑仕事でできなくなった農民が、医者になるというので許したところ、名字を名乗る事と、十徳(じゅっとく・医者が着る羽織のような衣のような礼服)を着る事を願い出てきたので許可しましたよ、いいですよね?」
という播磨からの質問に、幕府が・・・
「OK!いいよ」
と回答した事が書かれています。

こんな簡単に・・・

ですから、中には、「手遅れ医者」と呼ばれる、誰が来たって「もう、手遅れだ」なんて事を言ってごまかすような輩もいたらしく、
「大変や!源さんが、骨折ったみたいです!先生、診ておくなはれ!」
「残念ながら、手遅れや・・・」
「いや、今、2階から落ちたとこで・・・」
「せやから、手遅れや!って、落ちる前に連れてこんかいな!」
なんて、落語のような話もあったんだとか・・・

また、ある医者は・・・
「思いつきで医者になってみたけど、これほど、繁盛するとは思わんかったわ。
いまさらやめられへんし、繁盛するにつれて、だんだん難しい患者ばっかり来よるし・・・。
漢字も読まれへんし、薬の調合もできひんし・・・人に聞くわけにもいかへんし。
こうなったら金持って逃げたろかいな」

しかし、この医者、上記の通り大変繁盛しています。
・・・で、その秘訣は?と聞くと・・・
一、医は意なり
   金持ちには誠意を持ってゴマスリを・・・
一、医は衣なり
   高級ブランドで身を固める
一、医は威なり
   それらしくエラそうな雰囲気で・・・
一、医は異なり
   他の医者と違う独特の診断を・・・
一、医は稲荷
   人を化かす事を心がける
これが、繁盛の5か条なんですと・・・いやはや、ホンマかいな?って感じですねぇ。

また、ある時、肺結核を患った娘が、あっちの医者、こっちの医者に診てもらってはいるものの、病気はいっこうに快復に向かわず、特に最近は死人のようにふさぎ込んでばかり・・・たまりかねた父親が、名医と呼ばれる江戸は八丁堀で開業している高橋玄秀という医師に往診を頼みます。

すると、何回か通ううち、あんなにふさぎこんでいた娘が、医者が来る時だけ笑顔を見せるようになります。
時には、声を出して笑うほどの快復ぶり・・・。

「さすがは名医!」
と感激の父親・・・。

「先生!先生は娘に、いったいどんな治療をしてくだすってるんで?」
「いやね、脈をとる時に、わざとヒザをたてるんっすよ。
そんで、フンドシの下から中身をちょろっと出して見せてやると、たいていの娘は笑いますよ」

・・・って、それは治療か?

・・・と、こんな事ばかり書いていると、マジメにやってる江戸のお医者さんに失礼なので、最後に・・・
一、慈悲の心を持ち、
一、学問に励み、
一、常に経験を積み、
一、欲を捨て、
一、貧富の差なく、
一、慎重に治療する。

こんな、ちゃんとしたお医者さんの文献も残っていますので、ご安心を・・・。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2008年6月20日 (金)

日本初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子

 

明治十七年(1884年)6月20日、政府が、女性の医術開業試験の受験を認可しました。

・・・・・・・・・・

ネットで「日本初の女医」というキーワードで検索すると、二人の女性の名前がヒットします。

一人は楠本イネさん、もう一人は荻野吟子さんです。

日本初・・・なのに、二人・・・?

実は、それには、明治八年(1875年)に始まった医術開業試験制度と、明治十七年(1884年)に、その試験を女性が受ける事ができるようになった、今回の女性の医術開業試験制度への受験認可が、深く関わっているのです。

つまり、江戸時代の頃は、今のような国家試験などは無いわけで、極端な話、看板をあげてそれらしく開業すれば、皆お医者さんだったわけです。

ただし、実際には、しっかりと医学を勉強し、ちゃんとした治療をしなければ、患者さんが継続して来る事はありませんし、多くの病人を助けた実績がないと名医とは呼ばれませんが・・・(6月21日参照>>)

そんな中、文政十年(1827年)に生まれた楠本イネさん・・・父親は、長崎の出島に滞在して鳴滝塾(なるたきじゅく)を開いたあのドイツ人医師・シーボルト(3月25日参照>>)で、母は、彼の日本人妻・たきさんです。

出島へは、基本的に日本人は立ち入り禁止でしたが、それはそこ・・・当時は、遠く海を渡ってやって来る外国人は、ほとんどが男性ですから、たきさんのような遊女たちは例外だったのです。

そんなたきさんに一目惚れして妻に迎えたシーボルトでしたが、例の日本地図を持ち出そうとした『シーボルト事件』(9月25日参照>>)で、国外追放となってしまいます。

父がいなくなった後、イネは、再婚した母とともに、連れ子として再婚相手のもとで暮らしますが、成長するにつれて、自分が、他の子供たちとは違う事に気づきます。

もちろん、それは、連れ子という立場ではなく、ハーフという事・・・なんせ、当時はメチャメチャ珍しいですから・・・。

やがて、彼女は父の歩んだ道と同じ、医師の道へ進もうと決意します。

イネは、父の教え子だった伊予(愛媛県)宇和島二宮敬作の元へ行き、そこで医学の基礎から勉学に励むのですが、やはり、女性である事を活かして産科医の専門知識を身につけよと考えます。

そして、敬作の勧めもあって、同じく父の弟子であった石井宗謙(そうけん)を頼って岡山に行きます。

しかし、ここで事件が起こりました。

実は、彼女はかなりの美人!ハーフ独特の彫りの深い顔立ちに、パッチリした目元・・・その美貌に目がくらんだ宗謙から、なんと!レイプされてしまうのです。

しかも、その一度の行為で、彼女は妊娠してしまいます。

やがて、女の子を出産した彼女は、失意のまま、故郷・長崎へと帰ります。

そんな彼女を救ったのは、やはり、父の弟子の一人・大村益次郎でした。

落ち込む彼女を励まし、再び宇和島の敬作の元へ連れて行きます。

もちろん、敬作も宗謙の仕打ちには怒り心頭でしたし、自分が紹介した負い目もありますから、快くもう一度イネを受け入れ、イネは再び敬作のもとで医学の勉強に励む事に・・・そして、ここでは、さらに外科医としての技術も身につけます

やがて、益次郎に誘われて江戸へ行き、そこで開業医となったのです。
ここに、日本初の女医が誕生しました。

腕もよく、評判の医師でした。

明治二年(1869年)に、恩人・益次郎が暗殺(11月5日参照>>)された時には、彼女は外科医として、しっかりと恩人の最期を看取ったと言います。

しかし、そこへ先の医術開業試験制度です。

制度ができた以上、その試験に合格しなければ、医師として開業する事ができません。

しかし、この時の、この制度には、女性の受験は許されていませんでした。

そして、その9年後の明治十七年(1884年)に、やっと医術開業試験に女性の受験も認められようになるのですが、実は、これには、陸軍軍医・石黒忠悳(ただのり)の強い気持ちがありました。

彼は、ある一人の女性のために、受験規制を隅から隅まで熟読し、そこに女性の受験に関する明確な事が書かれていない事を知ったうえで、内務省衛生局長の長与専斎(ながよせんさい)直談判して、何とか認可させたのです。

その女性が、荻野吟子です。

嘉永四年(1851年)埼玉県に生まれた吟子(当時はギン)は、16歳の時に結婚しますが、その間もなく、夫から性病を移され、あげく果てに、その病気のせいで離婚されてしまいます。

治療のため、維新がなったばかりの東京・順天堂で2年間を過ごしますが、この時の男性の医師に診察される恥かしさが、彼女を医学の道へと進ませるのです。

一大決意をした吟子は、東京女子師範学校を卒業し、さらに東京下谷の医塾好寿院に入学、働きながら明治十五年(1882年)には、学問としての医学をすべて身に着けます。

しかし、やっぱり、ここで医術開業試験・・・すでに7年前に始まっていたこの制度のため、彼女は2年間の空白を持つ事に・・・

・・・で、彼女の事を知った忠悳の応援で、明治十七年(1884年)6月20日女性も受験ができる事となったのです。

時に吟子・33歳・・・

そう、実は、この時、イネは57歳になっていたのです。

現在よりも、ずっと平均寿命が短い頃の57歳です。

イネはしかたなく受験をあきらめます・・・しかし、医療の道はあきらめません。

医師ではなくても、その経験は活かせます。
彼女は、その後、産婆として多くの命をとりあげるのです。

一方の吟子さん・・・受験が認可された3ヶ月後の9月には、浅草東本願寺で行われた試験を受験します。

受験者583人のうち、合格者は153人・・・この時、吟子と一緒に試験を受けた女性は、彼女を含めて五人いましたが、受かったのは、彼女一人でした。

彼女は東京の下町で開業し、ここに、二人目の日本初の女医が誕生しました。

後に、彼女は、明治女学校の校医も勤めます。

・・・・・・・・・

はてさて、二人の日本初の女医さん・・・

ともに、苦しみながら医学を学び、
ともに、女性の医師への道を開いたお二人・・・

「もう、両方とも初でいいやん!」と、思わせてくれる感動の人生ですよね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (19) | トラックバック (0)
|

2008年6月19日 (木)

松平定信の「寛政の改革」は個人的恨みから?

 

天明七年(1787年)6月19日、老中首座となった松平定信『寛政の改革』に着手しました。

・・・・・・・・・・・

田沼意次(たぬまおきつぐ)の後を継いで、わずか30歳で老中首座になった松平定信(まつだいらさだのぶ)・・・彼が目指したのは、暴れん坊だったジッチャン・8代将軍徳川吉宗『享保の改革』のような改革でした。

まずは、荒廃した農村に対して、荒れ果てた耕地を復旧させるための公金の貸付を行うとともに、農民の出稼ぎを制限して農地回復に専念してもらいます。

すでに、出稼ぎ労働者として、都会に出ている農民に対しては、旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を発布して、少しのお小遣いを渡し、故郷の農村に戻ってもらい、やはり農地回復ににはりきってもらいます。

出来上がった米は、飢饉に備えて、囲米(かこいまい)として倉庫に保管します。

都市部の町民に対しては、町費の節約を呼びかけ、その7割を積立金として、飢饉や災害のために貯金させます。

旗本や御家人に対しては、棄損令(きえんれい・徳政令の一種)を発布し、借金を帳消しにさせた後に、その後の質素・倹約を求めます

改革は、人の思想にも介入します。

朱子学以外の学問を禁止し、風紀を乱す出版物がことごとく排除します。

とにかく、田沼時代のやり方を真っ向から否定する物でした。

以前、『田沼意次の汚名を晴らしたい!』(10月2日参照>>)のページで書かせていただいたように、意次が賄賂(わいろ)政治家で、とんでもない悪人のイメージで後世に伝えられてしまうのも、ひとえに、この定信さんをクリーンなイメージで売り込みたいがための、オーバーな脚色が加えられているのです。

それは、定信自身の意思でもありました。
とにかく、彼は田沼と正反対の位置にいて、田沼を否定したかったのです。

なんで?そこまで・・・と、実は・・・
定信は、田沼に個人的な恨みがあったのは?と言われています。

定信の父・田安宗武(むねたけ)は、明和八年(1771年)に亡くなるのですが、その後を継いだのは、定信の兄・治察(はるあき)でした。

しかし、その治察は生まれつき病弱だったため、いずれは定信が田安家を継ぐのだろうと、周囲も、そして定信本人も、そう思っていたのです。

ところが安永三年(1774年)、当時、老中になったばかりの意次が、その力を強引に見せつけ、田安家内の反対を押し切って、そして、もちろん本人の心情も無視して、定信を白河藩主・松平定邦の養子に決めてしまうのです。

老中の命令ですから、定信はしかたなく松平家の養子になるのですが、それからまもなく、兄・治察が病死してしまいます。

当然、後継ぎがいなくなった田安家ですから、定信は自分を田安家の当主にしてくれるよう意次に働きかけるのですが、意次はまったくの無視・・・その願いも叶えられませんでした。

どうやら、この時期、定信は意次を殺害しようとまで考えていたようです。

何度も「殺ったる!殺ったる!」と思いながら、その都度、気持ちを押し留め・・・地道に出世を目指していたところへ、絶好のチャ~ンス!

度重なる天変地異で、情勢が不安定となり、各地に起こった一揆や打ちこわしの責任を、老中の意次へと向け、まんまと失脚に追い込んで、見事、後釜にすわったというわけです。

・・・で、経済の発展に重点を置いていた意次に逆らうように、天明七年(1787年)6月19日質素・倹約の寛政の改革を実行したのです。

しかし、もはや時代は、祖父・吉宗の頃とは違います。

発展を遂げた貨幣経済に対して、後戻りする形の改革が、民衆に受け入れられるはずもありません。

結局、この寛政の改革は、わずか三年で行き詰まり、定信本人も六年という短さで失脚してしまうのです。

政治に、個人的な恨みを持ち込むのはやめましょう・・・と言いたいところですが、意次さんは意次さんで、パワーハラスメント的な部分もあるかもしれないので、定信さんだけを責める事はできませんねぇ・・・。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2008年6月18日 (水)

大阪マイナー史跡~日本最古の「つるのはし」

 

『日本書紀』の仁徳天皇の十四年(327年?)の条に・・・
「冬11月、猪甘津(いかいのつ)に橋わたす。
すなわちその処
(ところ)を号(なず)けて小橋おばし)という」
・・・と、あります。

これが、記録に残る日本最古の架橋です。

・・・・・・・・・・・・・

5世紀頃の大阪平野は、まだ海でした。

現在の大阪を南北に走る谷町筋・・・その大阪城から天王寺に至るまで、谷町筋を曲がって西に向かう道がほとんど下り坂なのは、かつて、そこから西は海だったという証し・・・。

Oosakaheiya2000cc またそこから東に向かう道も、なだらかな下り坂が多い・・・つまり、この谷町筋のあたりを頂点とした、現在、上町台地と呼ばれるあたりだけが陸として半島のように突き出し、西は海、東は河内湖という大きな湖になっていたのです。

その河内湖の小橋の江と呼ばれた入り江には、百済川(後の平野川)が注ぎ込んでいたのですが、その河口付近には、人や物資を運ぶ猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる港が設置されていて、たいへんな賑わいだったのだそうです。

その場所に架けられた猪甘津橋(いかいつのはし)は、まさに古代の交通の要所でした。

現在の上町台地のドまん中にあたる地下鉄・谷町九丁目駅近くの高津宮(こうづぐう)のあたりには、その昔、仁徳天皇(1月16日参照>>)が政治を行った高津宮(たかつのみや)があったとされていますから、皇のおわす都から官道が河内へ、そして大和へとつながって行く・・・そのための橋だったわけです。

やがて、江戸時代の頃から、この橋は鶴橋(つるのはし)と呼ばれるようになります。

Turunohasimisikie 江戸時代の鶴の橋:右端に見えます

元禄十四年(1701年)に書かれた『摂陽群談』という文献には・・・
「鶴橋=東生郡東小橋村、平野川筋にあり・・・猪甘津橋の古跡ともいへり」
とあります。

もちろん、今は焼肉で有名な鶴橋の地名も、この鶴の橋からつけられたものです。

猪甘津橋が鶴橋と呼ばれるようになったのは、この橋の北のあたりに鶴が多く集まった事からとも、猪甘津を略して(つぅ)の橋と呼ばれていたのが、いつしか変化した物だとも言われますが、江戸時代の記録においても・・・
Turunohasikotizu 「この橋は、街道筋ゆえ、往古より御公儀様(国のお役所)より架け替えていただいております」
と、書かれていて、やはり、古代からずっと、絶える事のない重要な橋であった事がうかがえます。

おもしろいのは、寛政八年(1796年)に書かれた『摂津名所図会』には・・・
漁夫淵(あまがふち)=猪甘津橋の北にあり、上古は大いなる深淵にて、異形の物住めり」
つまり、橋の近くには、ネッシーやクッシーのような怪物が住んでいたと・・・

まさか、とは思いますが、歴史のロマンを感じるじゃありませんか!
なんせ、幕末には、大阪城のお堀から、謎の未確認生物の死体が発見されてますし(6月9日参照>>)・・・

ひょっとして、たまちゃんかも・・・

Turunohasiatocc

やがて、明治七年(1874年)に、鶴の橋は石橋に架け替えられます。

Turunohasirankancc そんな日本最古の橋も、大正十二年(1923年)の耕地整理によって、平野川がルート変更となり、新平野川となったため、不要となった旧平野川が埋め立てられてしまい、鶴の橋も廃橋となり、その使命を終えました。

 

神代の昔から交通の要所であり、江戸時代には鶴の群れが舞い降り、長さ二十間(36.4m)、幅七尺五寸(2.3m)もあった巨大な橋は、この時に、歴史の彼方へと消え去ったのです。

Turunohasiwatarucc 現在、その鶴の橋があった場所には、撤去された石造りの親柱4本とともに、鶴の橋跡として、小さな橋のオブジェが再現されています。

仁徳天皇も渡ったかも知れないこの橋・・・オブジェとは言え、せっかくの記念なので渡ってみました~

 

つるのはし跡への地図  

 

 
つるのはし公園:
大阪環状線・桃谷駅を東へ徒歩5分

 

 

 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2008年6月17日 (火)

四民平等のはずの明治政府が華族制度を?

 

明治二年(1869年)6月17日、明治政府は『版籍奉還』の命令を発布し、卿・諸侯を「華族」と称する事を布告しました。

・・・・・・・・・・

版籍奉還(はんせきほうかん)「版」各藩の領地、
はその領地に住む領民の戸籍という意味です。

江戸時代の藩という物は、今で言う独立国家のような物で、日本という国は、その独立国家の集合体のような物でした。

つまり、「その独立国家の領地と領民を天皇=新政府に返せ」というのが版籍奉還です。

ただし、この命令を出したからと言って、いきなり全部返されても、新政府がすべてを統治できるわけもありませんから、あくまで、建前・・・実際のところは、江戸時代に藩主だった大名が、明治政府から知藩事という名前の地方官に任命され、昔からの領地の支配を、以前と同じように治めているというのが現状でした。

ちなみに、余談ですが、この時の知藩事という役職名がついた時から、領地の事を藩と呼ぶようになります。

つまり、江戸時代には藩という呼び方は無く、時代劇のセリフでよく登場する「わが藩は・・・」とか「薩摩藩では・・・」なんて言い方は、現代人にわかりやすくするための架空の言い回しで、江戸時代の武士は、単に「わが領地は・・・」「薩摩の地では・・・」という言い方をしてたんですねぇ。

そして、この明治二年に初めて呼ばれた藩という名称は、二年後の明治四年(1871年)の『廃藩置県』で廃止され(7月14日参照>>)になりますので、この藩という呼び方は、日本の歴史上ではたった二年間だったという事になります。(ちょっと、びっくり!)

少し、脱線していまいました~話を戻します。

・・・で、この版籍奉還するにあたって、それまで藩主である大名を「諸侯」と呼んでいたのを、公卿(上層階級の公家)らとともに「華族」と称するように変えたのです。

当初は、公家と旧大名家、合わせて427家が華族となりました。

2年後の明治四年に制定された戸籍法では、士族(旧・武士)平民(旧・農工商)とともに、華族は正式な呼称となりました。

ところで、士族の特権を奪ってまで四民平等を訴えていたはずの明治政府が華族制度を作ったのにはワケがありました。

まず最初の時点では、「天皇と皇室を守護し、国民の模範となってもらいたい」という物でした。

とにかく、海外留学でも何でもして見聞を広め、知識を吸収し、多方面でリーダー的存在となれば、一般国民も学問の大切さを知り、国民全体の教養が高まって、文明開化が進み、日本も欧米に追いつく事ができる・・・歩み始めたばかりの明治政府は、欧米に追いつく事を第一の目標にしていましたから・・・。

しかし、例の廃藩置県によって、旧・大名だった華族には、いわゆる家禄(石高に応じて貰う給料)がストップしてしまったワケで、経済状態が一発で苦しくなり、学問どころか、日々の暮らしにさえ事欠くようになっていきます。

そこで、元公家の岩倉具視らが中心となって、国立第十五銀行を造ったり、日本鉄道株式会社を設立して、その収益を華族の支援にあてたりなんかして、旧大名の華族を援助・・・華族会館も創設して、華族同士の団結を強めるよう努力しました。

この華族会館が、華族の子息たちの教育機関として設置したのが学習院です。

そんなこんなしているうちに、明治政府が華族制度を強固な物にしなければならない時がやってきます。

あの板垣退助を中心とする自由民権運動の高まりです(10月18日参照>>)

最初は、不平不満を持った士族たちから始まった反政府運動でしたが、それが、豪農や一般農民に広がりを見せ、民間人の政治参加を主張する一大運動となってブームを巻き起こしていました。

彼らは、「一刻も早く国会を開いて、我々を政治に参加させろ」と主張します。
しかし、政府も現体制を壊したくはありません。

やがて、国会の開催に関しては、政府内でも「すぐに開催すべき」の声が出るようになり、しかたなく、明治十四年(1881年)に、政府は「十年以内に国会を開きましょう」約束します(10月11日参照>>)

皇帝の権限の強いドイツの国会を視察した伊藤博文は、ドイツにならって、日本の国会も上院・下院の二院制を導入し、衆議院(下院)を選挙によって代表を選ぶシステムにしようと考えました。

しかし、そうすると、今の段階で選挙すれば、敵対勢力(政党勢力)が過半数を占めのは目に見えています。

そこで、彼が目をつけたのが華族です。

衆議院に対抗すべく、上院を貴族院と称して、皇族や華族たちの中から任命する形で議員を選び、政府に味方する勢力としたのです。

その思惑通り、貴族院で多数を占める華族議員たちは、やがて政党が力をつけるその日まで、政府の擁護にまわり続ける事になるのです。

う~~ん、なかなか道は遠いですねぇ。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2008年6月16日 (月)

和菓子の歴史~そのルーツと豆知識

 

嘉祥元年(848年)6月16日、疫病が蔓延したため、第54代・仁明天皇16個の菓子・餅を神前に供えて疫病退散を祈願した『嘉祥菓子』の故事にちなんで、今日6月16日『和菓子の日』という記念日なのだそうです。

・・・て、事で、今日は、和菓子の歴史を書かせていただきます。

・・・・・・・・・

古代の人々にとっては、天然の果物や木の実が、まさにお菓子であったわけですが、奈良時代から平安時代になるにつれ、穀物を加工する技術が発達し、お餅団子が作られるようになります。

平安時代には、甘葛(あまづら)を煮込んで作る甘葛煎(あまづらに)なる甘味料も生まれ、『文徳実録』という文献には、「嘉祥二年3月3日、婦女子、母子草を取り蒸しつきて餅を作り、歳時とする」とあり、よもぎなどを用いた草餅も登場します。

やがて、鎌倉時代にお菓子は飛躍的に変化します。

それは、大陸へと渡った禅宗の僧侶たちが持ち帰った点心という物・・・。

中国の読み方をそのまま使用した羊羹(ようかん)外郎(ういろう)なんていうのも、この頃に伝えられた物ですが、何と言っても、点心と聞いて思い描くのは、焼売(しゅうまい)餃子(ぎょうざ)・・・そして中華まん!

肉の入った肉包子(ロウハオズ)は、日本に伝わり、やはり肉を入れたり野菜のあんを入れて菜まんじゅうと呼ばれましたが、やがて、それらはすたれていって、中には小豆のあんを入れるようになり、室町時代の頃には、現在のような形の饅頭となり、和菓子の代表格となるわけですが、その創始者と言われる人が、中国からの帰化人・林浄園さん。

延元四年(暦応二年・1339年)に、彼は奈良に住みつき、本格的に饅頭作りを開始します。

彼が塩瀬という姓を称した事で、この饅頭は塩瀬饅頭と呼ばれて大ヒット商品に・・・

江戸時代でも、饅頭の事を塩瀬と呼ぶ人も多かったそうで・・・
「フェルトペン=マジックインキ」
「セロハンテープ=セロテープ」
「瞬間接着剤=アロンアルファ」
・・・みたいなもんですなぁ・・・。

この頃には、お茶とセットになって喫茶の習慣も生まれます。

ところで、少し話は脱線しますが・・・
饅頭は、なんで饅頭という名前なのか?

これは、あの中国での三国志の頃(紀元前300年頃)諸葛孔明が神様へのいけにえにする人間の代わりに、中に肉を入れて人の頭に似せて造り、お供えしたのが始まりだそうで、まさに肉饅頭・・・。

あの先端の中央にあるヒネリは、人間の髪の毛をあらわしているんだとか・・・ちょっとコワイ(>o<;)

やがて訪れる第2の飛躍ポイントは・・・そう、戦国時代の南蛮貿易です。

その画期的アイテムは砂糖・・・砂糖の輸入により、数々の新たなお菓子が生み出されます。

さらに、カステラ金平糖といった西洋のお菓子そのものも輸入され、それらは、和菓子の工夫にも大きな影響を与えます。

饅頭の中身も、小豆あんだけではなく、百合あん長芋あん白あんなどが考案され、それらを包む皮も、小麦粉に黒砂糖を加えた田舎饅頭、甘酒や濁酒(どぶろく)を入れて発酵させた酒饅頭、そば粉と長芋を混ぜた蕎麦饅頭、お茶を入れた茶饅頭などなど・・・

やがて、江戸時代には、それらの饅頭に加えて、安倍川餅きな粉餅なども誕生し、お菓子は大流行します。

あまりの流行ぶりに、お米の産出が激減したとして、寛永年間(1624年~1643年)には、「菓子の売買・禁止令」が出されるほどだったと言います。

幕末には、江戸の米饅頭、大阪の虎屋饅頭、京都の(ふ)饅頭などの超有名どころも・・・。

やがて、明治になって、再びあの戦国時代の頃のように西洋のお菓子の影響を受ける和菓子は、その後も更なる発展をし続けるのです。

・・・・・・・・・

最後に、その語源や起源など、和菓子豆知識を少し・・・

  • アラレ・・・
    もともとお餅を包丁で細かく切った物を乾燥させ、鍋で炒って作る物で、炒っている時に、はじけてふくらむ様子が、空から降る霰(あられ)に似ているところから、その名がついたのだそうです。
  • 桜餅・・・
    江戸の桜餅は、5代将軍・徳川綱吉の時代に、門番をやっていた山本新六という人物が、花見の時期に、おもしろ半分で桜の葉を塩漬けにし、小麦粉を解いた物を鉄板で焼き、中に小豆を入れて葉っぱで包んで売り出したところ、花見の時期だけで一年分の収入を得られるくらいにヒットしたのだとか・・・
    道明寺粉で造る関西の桜餅は、未だ諸説あり・・・1番古い物としては、天和三年(1683年)に、京御菓子司「桔梗屋」河内大掾が記した菓子目録の中に「さくらもち」の名が見えますが、それが現在の桜餅と同じ物かどうかは謎です。
  • 椿餅・・・
    道明寺粉で作る桜餅(関西風)に似た物で、桜の葉の変わりに椿の葉を用いますが、『源氏物語』にも登場する古い和菓子です。
  • 柏餅・・・
    ご存知、5月5日の端午の節句の定番お菓子ですが、意外に歴史は浅く、江戸時代に入ってからの誕生だそうです。

以上、本日は和菓子について、色々書かせていただきましたが、ともすれば忘れがちな、四季折々の風情を盛り込んで、見た目も美しく・・・めぐる季節の中で、その時々にふさわしい和菓子を、無性に食べたくなる・・・それは、心落ち着くひとときですね~

今日は、やっぱ、和菓子が安くなったりするんですかね?
・・・なんて思う私は、風流にはほど遠い・・・
 .

「なるほど」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2008年6月14日 (土)

武田信玄が父・信虎を追放したワケは?

 

天文十年(1541年)6月14日、武田信玄が父・信虎を追放しました。

・・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)を治める、ご存知、武田信玄の武田家は、清和源氏の血を受け継ぐ甲斐源氏の嫡流の血筋・・・室町幕府から守護職を任ぜられた由緒正しき家柄です。

戦国という時代になって、室町からの守護が次々と名ばかりの物になる中、この武田家が領地を守り抜き、戦国大名として生き残ったのは、信玄の父・武田信虎の力によるもの・・・(10月16日参照>>)

永正四年(1507年)、わずか14歳で、親類同士の後継者を巡っての争いに打ち勝ち、武田家の家督を継いだ信虎は、甲斐国内の国人を次々と破り、わずか一年で甲斐一国の統一に成功したというのですから、いかにデキる武将だったのかがわかります。

しかし、そんなデキる父を、息子・信玄が追放してしまうのです。

それは、天文十年(1541年)6月14日の事・・・長男の晴信(後の信玄)とともに、信濃(長野県)海野棟綱(うんのむねつな)に勝利した信虎は、意気揚々と凱旋帰国します。

ところが、まもなく甲府にさしかかろうするその場所で、信虎の部下であるはずの足軽たちが一列に並び、その行く手をさえぎります。

「何事だ?」
と、構える信虎に向かって、一歩進み出た代表者は・・・
「この先、甲斐の国にお入りになる事でできませぬ」

これを謀ったのは、実の息子・信玄・・・しかも、すでに周りの者は、すべて信玄の味方となっていました。

そして、信虎は単身、娘の嫁ぎ先である今川義元を頼って、駿河(静岡県)へと向かうのです。

この一見、非情とも見える信玄の父・追放には、いったいどんな理由があったのでしょうか?

信玄について最もくわしいであろう『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)では、信虎が長男の自分より次男の信繁を可愛がり、次男に家督を譲ろうとしている事を察知した信玄が、家督を弟に継がれる前に、父を追放したとしていますが、これだけだと、どうにも納得がいきません。

冒頭に書いたように、信虎はかなりのデキる武将・・・信虎をお屋形さまと仰ぐ家臣は大勢いたはずです。

そんな中で、まだ21歳の信玄が、次男に継がせたいという主君の意に反して、実力で家督を継ごうとする事に、家臣のすべてが味方するとは到底思えません。

まして、家督を争うはずの弟まで、味方についているわけですから・・・。

・・・で、この疑問を埋めるべく考えられた第2の説ですが・・・

信虎と信玄が同意のもとに父を追放・・・というか、わざと駿河へと送り込み、今川の内部事情を武田側に知らせる目的だったというものです。

この説の根拠は、義元が健在であった頃こそ動きが無かったものの、桶狭間織田信長に討たれた後からは、信虎が活発に今川の武将や兵士を、武田に寝返らそうと画策したと思われるからで、現にその事がバレて信虎は駿河からも追放されています。

確かに、これなら、家臣全員が息子の信玄にそのまま移動するのはわかります。
それは、父・信虎の命でもあるわけですから・・・。

しかし、それなら、今川での画策がバレて、信虎が駿河からも追放された時に、甲斐に戻って来ても良さそうなものですが・・・それが、無いんですね~。

信玄は最後まで、信虎を甲斐へ迎える事は無かったんです。

・・・で、登場する第3の説ですが・・・

これは、信虎=暴君説とでも言いましょうか・・・。

信虎が、罪の無い農民を鉄砲や矢で狙撃したとか、「胎児の成長を見たい」と言って、次々と妊婦の腹を裂いた・・・などの噂があり、信玄が父の追放を決意する頃には、すでに家臣の心は、信虎から離れていたというものです。

しかし、この手の話は、以前の【史上最悪の暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】(6月10日参照>>)で書かせていただいたように、作り話である事が多々あります。

この信虎の場合も、ご多分に漏れず、やはり、信玄を称賛するための後世の作り話であるというのが定説です。

ただし、この暴君の話がウソであったとしても、どうやら、家臣の心が信虎から離れていたという事はあったようなのです。

それは、信虎は、冒頭に書いたように、確かに、デキる武将でありましたが、それは合戦においてのお話・・・。

信虎自身も、自分の得意とするところが何であるかを理解していたと見え、甲斐を統一した後も、信濃へ、諏訪へ、相模へと合戦を挑み、勝利して勢力を拡大する事にばかり躍起になっていようです。

ところが、この時期の甲斐の国は、毎年のように飢饉に陥っていて、兵糧や軍事費の捻出が大変な状況になっていたのです。

税を徴収される領民はもちろん、家臣たちの経済状況も苦しくなる一方・・・なのに、また合戦、また合戦と、戦いに明け暮れる毎日・・・。

どうやら、信虎は、戦上手ではあっても、内政は苦手だったようなのです。

そんな領内の不満が最高潮に達した時、状況を察した信玄が、不満を鎮めるために実力での家督相続を決行・・・信玄は、父への情より、領民・家臣への責任を選んだ・・・というところでしょうか。

もちろん、これも仮説ですが、今のところ、一番つじつまが合ってるように思います。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2008年6月13日 (金)

本能寺の変~豊臣秀吉・黒幕説について・・・

 

天正十年(1582年)6月13日・・・山崎の合戦!

本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀と、主君の敵討ちを掲げる羽柴(豊臣)秀吉がぶつかった、ご存知、天下分け目の天王山ですが、合戦については、昨年、書かせていただきました(昨年の6月13日参照>>)ので、本日は、『本能寺の変・秀吉黒幕説』を展開してみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・

本能寺の変(6月2日参照>>)を、『織田信長・殺人事件』とするならば、まず捜査本部が疑うのは、被害者が亡くなって一番得をした人物は誰か?・・・これは、確実に秀吉です。

だからこそ浮かび上がってくるのが秀吉黒幕説ですが、秀吉は、この時、信長の命によって中国攻めの真っ最中!

しかも、その中国攻めに信長の出馬を要請したのも秀吉です。

そもそも、秀吉が、信長に要請しなければ、信長は、そのまま安土城にいたわけですから、本能寺に来る事もなかったかも・・・という事になります。

この秀吉の信長出馬要請については、「備中高松城への水攻めは順調に進んでいたものの、毛利の大軍が支援に来るとの情報があり、そうなれば形勢が逆転する可能性もあるので・・・」というのが一般的な見方となっていますが、秀吉からのその手紙が、安土に届いたのが5月15日。

そして、高松城を救うため、吉川元春(毛利元就の次男)小早川隆景(元就の三男)1万5千の兵を率いて到着しのが5月21日・・・先日の高松城落城(6月4日参照>>)で書かせていただいたように、この時点で、駆けつけた援軍は、もはや、遠くで様子を見るしかない状況にあったわけで、そんな落城寸前の場所に出馬要請をする必要があったのでしょうか?

そこで、この出馬要請には、秀吉のゴマスリという見方もあります。

秀吉が準備万端整えた後、最後に、信長に出陣してもらってから高松城を落城させて、信長さんに花を持たせて、ご機嫌をとる・・・というものですが、この時点で、信長が平定を進めているのは中国地方だけではなく、北陸の柴田勝家をはじめ、滝川一益森長可(6月26日参照>>)といった面々も、それぞれの場所で交戦中なわけで、中国攻めにだけ花を持たせる必要もないはず・・・まして、毛利も健在な、この時期に・・・。

もう一つ・・・
「他方と違って、あまりに順調に進む中国攻めの自分に、信長が脅威を抱いては大変だ!ここらへんで忠誠心を見せておかねば!」
と秀吉が、思ったのでは?とも考えられますが、信長という人が、デキない部下を叱責した事はあっても、デキる部下に脅威を抱いたという話は聞いた事がありません。

どうも、この出馬要請は不可解です。

・・・・・・・・・・

そして、次に、信長の死を知ってからの対処です。

ここで、秀吉は、一刻も早く、高松城にケリをつけて、光秀を討つために、畿内へ戻る準備をするわけですが、高松城との和睦の交渉とともに行うなうのが、「信長は生きている」のウソの情報を流す事です。

Tyuugokuoogaesihideyosisyozyou900a
6月5日付け:中川清秀宛て羽柴秀吉書状(梅林寺蔵)

もちろん、これは、すみやかに和睦をまとめるためと、畿内にいる諸将が、光秀に味方しないようにするためなのですが、秀吉が6月5日付けで、茨木城主に中川清秀に送った書状には・・・
「上様(信長)、ならびに殿様(信忠)は無事に切り抜けられ膳所(ぜぜ・滋賀県)に逃れられました。福平左(ふくへいざ)は三度戦い、比類なき活躍をしたとの事、まことめでたい。コチラはこれから姫路に向かいます」
・・・と書いています。

この福平左とは、福富平左衛門秀勝(ふくずみへいざえもんひでかつ)の事ですが、彼は、信長の長男・信忠とともにニ条御所で討死しています。

しかし、この信長は生きているの情報は、光秀が信長の首を取り、それをすみやかに公表していれば意味のない事なのではないでしょうか。

ご存知のように、本能寺での光秀は信長の首を取るどころか、その死体も確認できていないわけで、それを探すのに、かなりの時間を費やし、結局見つけられずじまいに終っています。

秀吉は、信長の死体が見つかっていない事を知っていたのでしょうか?
それとも、この手紙は、一か八かの賭け、ハッタリのような物だったのでしょうか?

なんとも、不思議な気がします。

・・・・・・・・・・

そして、最後に、やはり中国大返し(6月6日参照>>)の成功が、最も不可解です。

6月3日の夜に「信長死す」の報を聞いて、6月6日撤退を開始し、その日の夜に到着した備前・沼城から、大返しが開始・・・となると、準備期間はわずかに6月4日と5日の2日間という事になります。

道筋には松明(たいまつ)を掲げ、食事の準備を整え、替え馬の用意も・・・

高松城から姫路城への約70kmの行程を、3万という軍勢が、わずか1日半で駆け抜けたのですから、その事前準備は相当なもの・・・それを、わずか2日間で整える事ができるものなのでしょうか?

それには、いつもは身に着けて移動する生活用品や、甲冑、具足などを外し、それらを海路で運んだという話もあります。
身が軽くなれば、それだけ早く移動できますからね。

南北朝時代から瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍・・・当時、因島(いんのしま)村上氏と、来島(くるしま)村上氏と、能島(のしま)村上氏の三家に分かれていた村上氏の中の来島村上氏を、秀吉はすでに味方につけていて、彼らがそれらの荷物を船で運んだというのです。

しかし、それならそれで、やはり船の準備を整える必要があります。

もちろん、それらの船は、すでに秀吉の高松城攻めにも何らかの役割を果たすべく出動していたでしょうが、当時の水軍には、大型で船団の中心となる安宅船、中型でスピーディな関船、海上輸送に適した小型の小早船があり、戦うために出動する編成と、輸送のために出動する編成では、おのずと船団の編成は異なるはず・・・

また、高松城の和睦交渉が成立した直後に、信長の死を知った毛利が秀吉の追撃をしなかった事も、この中国大返しの成功の一つとも言えるわけですが、これは、毛利側の失態なのか?それとも、何らかの密約があったのか?・・・

この時、兄の吉川元春が秀吉の追撃を主張したのに対し、弟の小早川隆景がそれを阻止したと言われていて、後に、秀吉が五大老に任命する5人の中に、傘下となった毛利氏から、当主の毛利輝元と、この小早川隆景の二人も選ばれているのは、この時のお礼なのでは?などとも推測されます。

・・・・・・・・・

・・・と、様々に不可解な事は、すべてを秀吉が誘発し、事前に光秀の本能寺の襲撃を知っていたとすれば、納得がい・・・という事で、秀吉黒幕説なるものが唱えられる事になるのですが、あくまで、これは仮説、確固たる証拠はありません。

また、山崎の合戦で、信長の次男・神戸信孝を総大将に据え、秀吉側が、「主君の敵討ち=正等な官軍」である事をアピールする事ができたのは、四国平定のための大軍を要したうえ、一番本能寺の近くにいながら、瞬時に光秀を討つ事ができなかった信孝のおかげであるというラッキーがあった事も確かです。

他の事は、秀吉の手で計画的に行う事ができたかも知れませんが、少なくとも、信孝の一件は、秀吉の画策の及ぶところではないでしょうから・・・。

しかも、その合戦の場となった山崎の地にある妙喜庵(みょうきあん)には、すでにその時、千利休戦勝祝いのための茶席の準備をしていたと言う話もあり(2月28日参照>>)、もし、本当に秀吉が本能寺の変の黒幕なら、すべてが秀吉のシナリオ通りに事が運んだ事こそが、一番のラッキーなのかも知れません。

・・・・・・・・・・・

。。。という事で、本日は秀吉黒幕説について書かせていただきましたが、以前から度々書かせていただいているように、戦国最大のミステリーと言われる本能寺の変には様々な仮説が存在し・・・

本能寺・前夜>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
【本能寺の変~その時、安土城では…】>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>

などなど、話題は尽きません。
 .

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (9) | トラックバック (0)
|

2008年6月12日 (木)

海道一の大親分・清水次郎長の知られざる後半生

 

明治二十六年(1893年)6月12日、海道一の大親分、ご存知!清水次郎長こと、山本長五郎が74歳でこの世を去りました

・・・・・・・・・・

小さい頃、時代劇で見た頃のイメージだと、「江戸も真っ只中のお話なのかな?」と思っていましたが、意外にも幕末から明治の人だったんですね~

しかも、若い頃、あれだけ大暴れしていたワリには、奥さんや大勢の子分に囲まれての穏やかな最期・・・静かに畳の上でお亡くなりになったワケですから・・・。

・・・というのも、時代劇では、任侠の世界に生きる次郎長一家の親分としての次郎長さんばかりが描かれますが、晩年は、やくざな世界から足を洗い、実業家として社会事業に貢献するといった、まっとうな余生を送った人だったからなのです。

・・・・・・・・・

清水の次郎長こと山本長五郎は、文政三年(1820年)1月1日に、清水港の船頭頭三衛門の次男として生まれ、後に、母方の叔父にあたる山本次郎八の養子となります。

次郎長という呼び名は、この養父の次郎八さんからきています。

つまり、「次郎八さんとこの長五郎」というのを短縮して、通称・次郎長という事です。

この次郎八さんが、甲田屋という米屋を営んでいて、その後継ぎとして養子に迎えられた次郎長でしたが、これが、子供の頃から、手のつけられない暴れん坊・・・

読み書きを習わせようと寺子屋へ通わせれば同級生とケンカをして追い出され、ちょっとは礼儀を学ばせようとお寺へ奉公に出せば、言う事を聞かずに、またまた追い出され・・・店の金を持ち出しちゃぁ、バクチに女につぎ込んでの繰り返し・・・。

そんな次郎長も、さすがに養父が亡くなった時には、「これではいかん!」とばかりに反省し、マジメに商売に打ち込むようになります。

そんな矢先の次郎長が20歳の時・・・

たまたま、清水を通りがかった旅の僧が、次郎長の顔を見るなり・・・
「死相が出ておる・・・あと五年の命じゃぁ~」
・・・次郎長さんの時代劇は、大抵ここから始まります。

この通りすがりの僧の無責任?とも言える一言で、すべてが元の木阿弥・・・。

「どうせ五年の命なら、思う存分、やりたい事をやろう!」と、またまたバクチと女に明け暮れる生活に逆戻りです。

そんなこんなの23歳の時、賭場でイカサマをした、しないの口論となり、人二人を斬って、そのまま逃亡・・・清水から姿を消します

ほとぼりが冷めた5年後、清水に戻った次郎長は、江尻の親分の妹・お蝶と結婚・・・この頃には、5年間の逃亡生活でつちかったやくざな度胸にほれ込んだ子分も何人かでき、清水一家のような物が生まれはじめていたのですが、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出るのです。

今度は、ちょっと長い12年・・・次郎長も40歳になっていたこの時、清水に残していたお蝶が病気で亡くなってしまいます。

お蝶病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました

その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行くのが森の石松・・・あの浪曲の「寿司食いねぇ」のくだりでの名場面です。

無事に、刀を奉納して帰る途中、江州の親分から、お蝶さんの香典として渡された25両の大金・・・この大金が石松の命取りとなります。

浜松まで戻ってきて、都田の吉兵衛の賭場に出かけた石松・・・石松が大金を持っている事を知った吉兵衛は、その金を奪って、石松を殺してしまうのです。

もちろん、次郎長親分はすぐに報復・・・吉兵衛を斬ります

ちょうどその頃、以前から敵対関係にあった黒駒の勝蔵との関係が悪化し、慶応二年(1866年)、有名な伊勢荒神山の抗争へと発展していくのです。

数百人規模の大合戦となったこの抗争で、次郎長は吉良の仁吉法印大五郎を失いますが、抗争には何とか勝利・・・一気にに名を上げ、まさに海道一の大親分となったのです。

しかし、時は幕末・・・明治政府が誕生するとともに、次郎長も48歳・・・大きな転換期がやってきます。

慶応四年(明治元年・1868年)8月、榎本武揚(えのもとたけあき)が、幕府の軍艦を率いて北へ向かう途中(8月19日参照>>)、台風に遭って咸臨丸が流され、清水の港に非難してくるのですが、それを知った新政府軍が、軍艦3隻で猛攻撃を仕掛け、咸臨丸の乗組員は全員死亡してしまいます。

勝利した新政府軍は、幕府軍の兵士の死体を清水港に放置したまま、咸臨丸だけを曳航して去って行ってしまいました。

鳥羽伏見の戦い以来、賊軍となってしまった幕府軍・・・そんな幕府軍の死体を、次郎長は、子分を総動員して片付けにかかるのです。

当時、静岡県権大参事(ごんだいさんじ)を務めていた山岡鉄舟は、その話を聞いて、次郎長の取調べを行います。

なんせ、賊軍=罪人なわけですから・・・。

すると、次郎長は「死んだら皆、仏様・・・官軍も賊軍も俺らには関係ねぇ!」とキッパリ!

この言葉に感激した鉄舟は、以来、次郎長と親しく接するようになり、新田開発や私塾の建設、造船などの様々な事業を彼に勧めました

中には、失敗もありましたが、それらの事業は清水港の発展につながり、次郎長は大きく社会貢献する事となります。

今では、名物となったお茶も、この時に勧められた事業の一つだとも・・・。

ところが、次郎長・65歳の明治十七年(1884年)、大規模な博徒狩りに引っかかり、逮捕されてしまいます

しかし、翌年の台風で、次郎長のいた監獄が倒壊して大怪我をしてしまった事をきっかけに(ウラでは鉄舟の働きかけもあったようです)釈放され、すでにやくざな世界からキッパリ足を洗ったその後は、船宿を経営するのですが、これが海軍の宿として利用され、大いに繁盛します。

あの「杉野はいずこ」で有名な広瀬中佐(3月27日参照>>)とも友人関係にあったようで、あの斬りに斬りまくった前半生からは想像もできない穏やかな晩年を送られたようです。

ところで、次郎長はその生涯の中で、三度結婚しているのですが、2人めの奥さんの事も、3人めの奥さんの事も「お蝶」と呼んでいたそうで、人を斬っては逃げまくって、迷惑をかけてばかりだった最初のお蝶さんに「すまない」と思う気持ちが強かったようですね。

そんな次郎長さんは、明治二十六年(1893年)6月12日3代目・お蝶さんに看取られながら、初代・お蝶さんのもとへ、静かに旅立ったのです。

葬儀に参列した人は数千人・・・「侠客次郎長之墓」と書かれた墓碑の文字は、あの榎本武揚の筆によるものだと言われています。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2008年6月11日 (水)

古田織部の家康暗殺計画は本当にあったのか?

 

元和元年(1615年)6月11日、徳川家康の暗殺を企てたとして、『利休七哲』の一人・古田織部が切腹し果てました

・・・・・・・・・・・・・・

古田織部(おりべ)は、天文十三年(1544年)に美濃(岐阜県)に生まれました。

他の『利休七哲』と呼ばれる人がそうであるように、彼も、最初から茶人ではなく、もとは、れっきとした武将・・・。

始めは荒木村重の与力を務め、次に、17歳で織田信長に仕えますが、信長が本能寺で亡くなった後は、豊臣秀吉のもとで働き、小田原征伐でも大きな武功をあげています。

その間に、30歳頃から学び始めた茶の湯でめきめきと頭角を現し千利休の弟子の中でもトップクラスになった事から、文禄・慶長の役の頃からは、武将というよりは、茶人として秀吉の側にいる事が多くなります。

ただ、織部の茶の湯は、利休の後を継ぐ・・・というよりは、それをアレンジした新ジャンルのような彼独特の物でした。

利休が、究極の質素な美しさを追及したのに対し、織部は、華麗な動きのある美しさを求める・・・それが武将に好まれ、「利休の侘び茶」に対して「織部の武家茶」と称され、大いにもてはやされる一方で、その行為は師匠・利休を裏切る行為だとも噂され、二人が仲が悪かったような事も言われますが、ご本人たちは、お互いを認め合っていたようです。

利休は、常々、「人と違う事をする事が大切」と、弟子たちに説いていましたから、独創的な茶の湯を試みる織部に、不快感を抱いていたとは思い難いですし、織部は織部で、利休が、秀吉のご機嫌を損ねて、堺での謹慎を言渡された時、秀吉の事を怖がって、皆が姿を見せなかった中、彼と細川忠興二人だけが京の町を去る利休の見送に行ったと言います。

秀吉との確執が解けないまま、利休が切腹した後は、正真正銘、茶の湯の第一人者となり、彼の生み出した『織部焼』の茶碗や『織部風建築』は、師匠・利休の『利休好み』とともに、安土桃山文化の代表的芸術となります。

やがて、秀吉が亡くなり、その後に起こった関ヶ原の合戦では、徳川家康につき、最初は石田三成側だった佐竹義宣を中立の立場にさせた功績で、合戦後には1万石を与えられ、『将軍家・茶の湯師範』というお墨付きまでいただいて、2代将軍・徳川秀忠に茶道を教えるという、まさに、この世の春を迎えます。

ところが・・・です。
大坂の陣の直後、そんな織部の運命が一転・・・家康から切腹を申し渡される事になるのです。

それは、大坂の陣の直前の事・・・決戦を間近に控えた不穏な空気が流れる中、二条城にて、家康・秀忠以下、主だった者たちで軍儀を開いていた時の事・・・京で、一人の男が捕まります。

その男は・・・
「京の町に火を着け、その混乱に乗じて、大坂城を打って出た豊臣方が、二条城にいる家康・秀忠親子を殺害する」
という、暗殺計画の書かれた密書を持っていたというのです。

この密書を持っていた男が、織部の娘婿の使用人だった事で、合戦が終って、豊臣家滅亡後に、織部に嫌疑がかかった・・・というわけです。

しかし、これには、また別の話もあります。

織部自身が、とっくの昔から豊臣方に通じていて、上記の手紙の内容のような暗殺計画の噂も流れていて、家康がその事を疑っていた所、実際に、京都で火事が起こったため、織部に切腹を命じた・・・というもの。

また、豊臣秀頼の小姓をしていた織部の息子・九八郎が、織部の家臣・木村宗喜と結託して、大坂の陣の時に、康父子が、大坂城に向けて出発すると同時に兵を挙げ、家康らを挟み撃ちにする計画があった・・・というのもあります。

いずれにしても、織部自身が関与、あるいは、身内が関与した『家康・秀忠暗殺計画』なる物が存在し、そのために織部に切腹の命令が下った・・・という所は共通しているのですが・・・どうも、納得がいきませんねぇ。

上記の通り、将軍家の茶の湯師範にまでなって、それ以上、織部は何を望んで、暗殺計画など立てたのでしょう?

天下ですか?豊臣家の存続ですか?
秀吉存命の時代から、すでに茶人・お伽衆(主君の話し相手になる側近)となっていた織部にとって、いまさら武将としての天下取りの夢を持ち出すのは、何とも考えづらいですし、かと言って豊臣家の存続をうんぬんするなら、こんな大坂の陣直前になって、いきなりの行動を起さずとも、もっと早くに何らかの姿勢を見せていたはず・・・。

動機がつかめないまま、暗殺計画なるものだけが一人歩きして、結果、元和元年(1615年)6月11日家財を没収された古田織部は、一切の弁解をせず、息子とともに自刃するのです。

しかし、案の定、織部が亡くなった後、徳川家はミョーな行動に出ます。

織部の残した織部焼や織部風建築といった文化財を次々と破壊し、最終的に『武家茶』自体を廃止にして、室町時代から続く伝統的な茶の湯だけを残すのです。

暗殺計画があったのが大坂の陣の直前であったのなら、時代はまさに戦国・・・言っちゃぁ悪いですが、暗殺計画なんて日常茶飯事です。

もし、仮に、本当に暗殺計画があったとしても、それに関わった者たちを、自害させるなり処刑するなりして、そこで幕引きとなるはずで、何も、残した文化財や、一旦浸透した作法を抹消する必要はありません。

これは、どう考えても、家康自身が、織部を抹消したかったとしか思えないような気がしますね。

では、家康は織部の何が怖かったのでしょうか?

ここからは、仮説になりますが・・・

織部の生き方を見ていると、芸術家の多くが持っている常に新しい物を求めていく探究心のような物を感じます。

戦国という世で、常に時代が変化していく中では、むしろ、織部のような姿勢が頼もしく思えたものの、いざ、天下を取って、この先の徳川の安泰を願った時、その躍進的な思想は、安定を目指す家康にとって、脅威となったのではないでしょうか?

だからこそ、躍進的な武家茶を廃止し、伝統を重んじる侘び茶だけを残したのでは?

家康が、江戸=徳川という物を保守したい!と思った・・・そして、その家康の変化を、織部は、誰よりも感じていたが故の、従順な切腹となったのではないか?と思う次第です。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (19) | トラックバック (0)
|

2008年6月10日 (火)

史上最悪の暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!

 

文禄四年(1595年)6月10日、徳川家康の孫で、あの海音寺潮五郎に日本史上最悪の暴君とまで言わせた松平忠直が誕生しています

・・・・・・・・・・・

13歳で父の後を継いで藩主となり、時代の波に翻弄された悲しき運命から逃れられず、酒に酔い、女に走り、その凶暴さを見せつけた第2代・福井藩主松平忠直・・・。

ある時、いつものように酒を飲んで暴れていた忠直に、側室にしたばかりの妖艶な美女が語りかけます。

「そんなに、ムシャクシャするなら、誰かを斬ってみれば?」

「おもしろい!」
とばかりに、罪人を引きずり出して斬る忠直・・・それを見てキャッキャと喜ぶ女・・・

そうなると、徐々にエスカレートしていき、始めは死罪になる予定の罪人を斬っていたのが、だんだんと、軽い罪の者まで斬るようになり、やがて、ちょっとしたミスを犯した家臣まで斬るようになっていきます。

次第に、誰も忠直にダメ出しをする家臣はいなくなり、周囲には、ご機嫌をとる者ばかり・・・そんなご機嫌とり家臣の一人・小山田多聞は、自らすすんで他の者のミスをチクるばかりか、ウソの話をでっち上げてまで忠直に斬らせる始末・・・。

果ては、妊婦のお腹を裂き、取り出した胎児にまで刀を突き刺した・・・福井には、この時に使ったまな板石なる石も残っているのだとか・・・。

そんな中、元和八年(1622年)10月、正室の勝姫(徳川秀忠の娘)に斬りつけ、とっさに身代わりとなった女中二人を斬殺するという事件を起した事で、豊後萩原(大分県大分市)に配流となって、結局、そこで、慶安三年(1650年)9月10日56歳で病死したというのです。

家康の孫という、ゆるぎない血筋に生まれながら、彼が、こんな事になってしまう原因とも言える逃れられなかった悲しき運命とは・・・

実は、彼の父親からすでに、その悲しき運命が始まります。

忠直のお父さんは、結城秀康・・・家康の次男です。

ご存知のように、家康の長男・信康は、例の織田信長の命により切腹(9月15日参照>>)させられていますから、本来ならこの秀康が徳川家の後継者・2代将軍になっていたはずなのですが・・・ご存知のように2代将軍は三男の秀忠です。

実は、信長亡き後に起こった豊臣秀吉とのあの小牧・長久手の戦い(6月15日参照>>)・・・その幕引きのために、家康から秀吉へと差し出された人質が、この次男の秀康(幼名:於義伊)だったのです(11月21日参照>>)

秀吉の養子となり、羽柴秀康と名乗った彼でしたが、秀吉の側室・淀殿鶴松を出産し、その鶴松が豊臣家の後継者とみなされたため、下総の大名・結城晴朝の姪と結婚し、結城氏の家督を次ぎ、結城秀康となったのです。

やがて、関ヶ原の合戦に勝利して家康の時代になると、越前(福井)北ノ庄・75万石を与えられ、姓も松平を名乗る事を許されますが、そのわずか3年後、秀康は34歳の若さで亡くなってしまいます。

そして、その後を継いだのが松平忠直という事になります。

そう、もし、あの小牧・長久手の戦い後に、父・秀康が人質に出されなかったら、おそらく、父=秀康が2代将軍となり、その長男である忠直が3代将軍になっていたかも知れないのです。

それなのに、実際には、弟の家系である者たちの下に位置しなければならないというもどかしさ・・・さすがに、この事には、家康も気をつかったと見え、この越前松平家には御三家に次ぐ「御制外」という特権を与えています。

しかし、それも、忠直が家督を継いで間もなくに起こった越前松平家の家臣同士のトップ争い『久世騒動』という内紛劇で、特権は縮小されてしまいます。

それでも、頑張る忠直さん・・・次に訪れた大阪の陣では、最初こそ、20歳という若さを露呈し、おじいちゃん家康にひどく叱られてしまいますが、大坂城総攻撃では、あの真田幸村を討ち取り、大坂城への一番乗りを果たすという大坂の陣最大の功名をあげます(5月8日参照>>)

ところが、そのご褒美は「初花の茶入れ」だけ・・・確かに初花は名器ですが、これだけではちょっとお気の毒・・・。

この時、忠直は、「これでは命を賭けて戦った部下に報いられない!」とくやしがり、この茶入れを投げつけて割ったのだとか・・・事実、今も松平家に伝わる初花の茶入れにはひびが入っています。

そんなこんなの度重なる父への仕打ち、自分への仕打ちが、ウップンとなって、冒頭の酒乱・暴君というお話になっていくわけですが・・・

嫡流でありながら将軍になれず、成績を上げても褒めてもらえない・・・そんなお気の毒な現状に、、さぞかし歯がゆい思いをしたのでしょう。

暴れたくなる気持ちもわかります~。

・・・と言いたいところですが、生い立ちや大坂の陣での話はともかく、酒乱・暴君に関しては、どうも怪しいのです。

確かに、父・秀康が人質に出され将軍になれなかったのも事実、内紛でモメたのも、大阪の陣で功名をあげながら茶入れ一つだったのも事実・・・そして、最後は豊後へ配流となったのも事実のようですが、この酒乱・暴君の話が出てくるのは、『藩翰譜』『越藩史略』『続・片聾記』などといった福井藩・幕府による公式文書のみで、しかも、書かれた年代が進むにつれ、忠直さんのご乱行がひどくなっている・・・。

200年も経った幕末に書かれた『続・片聾記』になってようやく登場する「妊婦のお腹を裂く」という行為・・・この行為は、以前書かせていただいた武烈天皇の汚名を晴らしたい(12月8日参照>>)でも登場した行為で、神代の昔から、極悪非道な人物描写の王道と言えるもの・・・この手の話のほとんどが作り話では?と言われています。

ここで、注目は、忠直が配流になって、その後を継いで第3代・福井藩主になったのが、越後(新潟県)高田藩25万石からやって来た弟の松平忠昌であるという事・・・逆に、本来、福井50万石を継ぐはずの、忠直の息子・松平光長が、高田へ追いやられているのです。

つまり、後世の福井藩の公式文書は、ここで福井にやって来た弟の家系が残した文書という事になります。

だんだん、読めてきましたね~。

逆に、公式文書ではない、地元・福井県の鯖江市の言い伝えには、忠直=名君の伝説も残ります。

それまで、荒野だったその地を開発し、道や宅地を整備し、無償で土地を与えて、鯖江という町を発展させたのは忠直さんだというのです。

粗末な土地にでもよく育つ蕎麦の栽培を即したのだとか・・・そう、現在も名物の越前そばです。

配流先の豊後でも、周囲の村人に愛され、亡くなってから100年経った後も、その法要が盛大に行われたという村人の記録が残っていると言います。

しかし、さすがに、その配流の原因となった勝姫殺害未遂事件は、配流という事実がある以上本当の事なんじゃないの?・・・と思いきや、ここにも別の話が・・・

当時、長崎にいたイギリス人・コックスやオランダ人・カンプスが母国に送った手紙には、「現皇帝の長兄の子息を、新皇帝にする動きがある」と書かれているのだそうです。

もちろん、この内容については、日本にはまったく記録のない事ですし、どこまで信頼できる物がわかったものではありませんが、それを画策している大名の中には本多正純の名が上げられているのです。

例の『宇都宮釣天井事件』(3月18日参照>>)で、正純が失脚するのが元和八年(1622年)の4月・・・そして、先に書いた通り、忠直の勝姫事件が、半年後の10月。

これは、偶然の一致なのでしょうか?

確かに、たとえ、これが本当だったとしても、それはそれで、謀反という事になって、忠直さんが、配流されるのは仕方の無い事ですが、その配流の原因が、父の代から冷遇されて謀反を起すのと、酒乱の暴君のご乱行とでは、ご本人に着せられる汚名の度合いが違いますよね。

ただし、今日、お話した事は、あくまで仮説・・・歴史では、藩・幕府の公式文書が正史という事になりますからね。

でも、少しは忠直さんに対する、イメージが変わりました。
今後は、新たな公式文書の発見に期待する事にいたしましょう。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2008年6月 9日 (月)

小田原攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城

 

天正十八年(1590年)6月9日、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、北条方に属する武蔵忍城(おしじょう)攻略のため、堤防を構築しました。

堤防を構築した日付については、9日とも7日とも言われているのですが、とりあえず今回は、本日・9日の出来事として書かせていただきます。

・・・・・・・・・

天下目前の豊臣秀吉が、最後の大物・北条氏を攻めるべく開始した小田原征伐(3月29日参照>>)

秀吉が、北条氏政氏直らの籠る小田原城を22万の大軍で包囲したのが、天正十八年(1590年)4月3日でした(4月3日参照>>)

一方の北条勢は5万6千ほどだったと言われていますが、そのすべてが小田原城に籠っていたわけではありません。

・・・というのも、関東一円にはたくさんの北条傘下の支城があり、その城主が軍を率いて小田原城の籠城に参戦しているものの、その留守を預かる城兵が、その支城には残っているわけで、攻める秀吉としては、その支城も落さねばなりません。

そこで、秀吉は自らが率いる本隊と、海から小田原城を睨む水軍とは別に、それらの支城を攻撃する別働隊も派遣しています。

北陸方面から小田原征伐に参戦した加賀(石川県)前田利家と、越後(新潟県)上杉景勝は、信濃(長野県)で合流して中山道を進攻し、4月22日には、北条の重臣・大道寺政繁松井田城(群馬県松井田町)を落しています。

その勢いで上野(群馬県)のほとんどを制圧して、彼らが武蔵(埼玉県)に差し掛かる頃には、小田原城包囲に当たっていた浅野長政木村吉清ら直臣も彼らと合流させ、支城の攻略に当たらせます。

こうして、4月22日には江戸城(東京都千代田区)が開城され、その後、河越城・松山城(ともに埼玉県)・・・さらに、5月19日からの武蔵・岩槻城攻めには、徳川家康配下の本多忠勝鳥居元忠らも加わって、圧倒的な数の差で5月22日に落城させています。

次に、彼らは北条氏邦(氏康の四男)の籠る鉢形城(埼玉県)へと駒を進めますが、ちょうど同じ時期、同じく秀吉の命を受けて関東平野を北上中(5月29日参照>>)石田三成攻撃を開始したのが、成田氏長忍城です。

6月1日に忍城を包囲した三成ですが、忍城は沼地に建てられた城で、攻め込もうとすると、その沼地に足を取られ、どうも先へ進めません。

もちろん、それは計算ずく・・・むしろ、忍城は、その沼を自然の堀として利用した造りになっていて、本丸や二の丸などの主要な郭(くるわ)は橋でつながれており、あの上杉謙信二度に渡ってこの城をを攻めていますが、やっぱり落せずにいた鉄壁の城だったのです。

この時、城主の氏長は、小田原城の籠城に参戦しており、忍城に残っているのは、留守を預かる、わずか3千名ほどの城兵たち・・・対する三成は、2万3千という大軍を率いての攻撃でした。

城内の大将は、氏長の娘で、わずか19歳の甲斐姫だったという話もありますが・・・攻めあぐねる三成に対峙するのが美貌の若き姫というのは、あまりにもドラマチックすぎるような気がしないでもありませんが、物語としては非常におもしろいです(6月16日参照>>)

・・・で、結局、攻めあぐねた三成は、主君・秀吉にならって、忍城を水攻めにする事を決意・・・天正十八年(1590年)6月9日総延長28kmに及ぶ堤防を築きあげ、荒川と利根川の両川から水を引き入れたのです。

ところが、天は三成に味方をしてはくれませんでした・・・っていうより、この時期って、まだ、梅雨じゃぁあ~りませんか?

そりゃぁ確かに、水攻め+雨が降ってくれると、攻められた側の孤立する速度は速まるのでしょうが、ちょっとこの年は、雨が多すぎました。

連日、関東特有の大雨が降ったために、6月16日には堤防が決壊し、あたりは洪水となって、逆に、攻める立場の三成軍に多くの犠牲者が出てしまいます。

しかも、周囲のぬかるみは、さらにぬかるみ、より攻めにくくなってしまったのです。

水に浮きながらも、鉄壁の守りを誇った忍城を、誰ともなく、『忍の浮城』と呼び、いつしか三成軍には、あきらめの空気が流れはじめます。

先に書いた別働隊は、6月14日に鉢形城を落し、6月23日には、八王子城(東京都八王子市)をも落城させます(6月23日参照>>)が、この忍城は、一ヶ月近くの時間を要しても、結局、落すことができなかったのです。

そして、ご存知のように、7月5日、本拠地である小田原城が開城(7月5日参照>>)され、北条氏は滅亡する事になるわけですが、そのニュースが城に届く最後の日まで、忍城は守り抜かれました。

つまり、この忍城は、小田原征伐で、唯一、秀吉が落せなかった城という事になります。

直接対決は三成とは言え、城攻め名人の秀吉に一泡ふかせる・・・という、ただでさえ、痛快なシチュエーションに、そこの城主にお年頃の姫がいれば、「剣の舞のひとつも舞っていただきたい」と思うのは、歴史好きとして当然のなりゆきでしょうね。

Osinoukisirocc 今日のイラストは、
その名の通り、水の要塞『忍の浮城』をイメージして・・・梅雨の終わりの大雨という事で、こんな夕焼けは無かったかも知れませんが、そこは、やはり美しく・・・

追記:2012年11月に公開された映画『のぼうの城』茶々の感想コチラから>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2008年6月 7日 (土)

大阪城・マイナー史跡~旧大阪砲兵工廠化学分析場

 

それは、まるで、時間が止まったような空間でした。

天守閣はいつも大勢の観光客で賑わい、
大阪城ホールには人々が集い、
四季折々の花が咲く大阪城公園の一角に、ひっそりと静かに・・・

Kagakubunsekizyoumon1cc

豊臣時代の天守を模して再現された天守閣よりも、時の重さを感じる風景・・・それは、やはり、この建物の時間が、60年前の敗戦で止まっているからなのでしょうか?

それでも、当時の事を知っているかたに言わせれば「ずいぶん変わった」のだそうです。

そりゃぁ、この一角以外は、美しい公園として整備されていますから・・・

ひょっとして、時が止まって見えるのは、むしろ、その周囲の変貌によるものなのかも知れません。

以前、大阪城の不思議な話(8月18日参照>>)でも触れさせていただきましたように、豊臣家滅亡の後、徳川の物となった大坂城は、維新とともに、明治新政府の物となり、以来、太平洋戦争が終結するまで、軍の管理下に置かれました。

昭和六年(1931年)に大阪市民の寄付によって天守閣が再建され、一部が市民に開放された後も、近くに移転した軍事施設とともに、現在のビジネスパークにあたりには、東洋一と言われる砲兵工廠(こうしょう・軍需工場)がありました。

6万人とも言われる人々が、ここで小銃から戦車など、あらゆる兵器を生産していた事で、戦時中のここは、アメリカ軍の集中砲火のターゲットとなり、戦争終盤には、空襲で壊滅状態となります。

やがて、昭和二十年(1945年)8月15日、敗戦後、廃墟となったこの地・・・この地が長い眠りから覚めるのは、万国博覧会が大阪で開催された昭和四十五年(1970年)の頃。

まずは、天守閣周辺が公園として整備されはじめ、やがて90年代には、大阪ビジネスパークが形成されました。

今日、ご紹介するこの建物は、そんな大阪城周辺の変貌を、その目で見てきた生き残り・・・『旧大阪砲兵工廠化学分析場』です。

Kagakubunsekizyouzentaicc

大阪城の北側に流れる寝屋川に架かる、京都への玄関口・・・京橋。

Kagakubunsekizyoutizucc この京橋がここにある事で、ここから大阪城内へ入る入り口を「京橋口」と呼びますが、その京橋口と、寝屋川に挟まれた部分の一角に、それは建っています。

煉瓦造りの2階建て、地下1階・・・左右対称=シンメトリーのそれは、ルネッサンス風の堂々とした洋風建築で、文化財クラスの優れた建築物です。

Kagakubunsekizyouupcc

しかし、とかく、こういった戦争の遺構という物は、歴史認識の違いによって評価が異なり、「保存か」「撤去か」で意見が別れるもの・・・

「軍国主義の遺物は撤去すべき」との声が高まった昭和五十六年(1981年)5月、この化学分析場の近くにあった旧砲兵工廠本館は、明治六年(1873年)建築の重文クラスの建築物であったにも関わらず、取り壊されてしまいました。
(現在は大阪城ホールが建っています)

その翌年の昭和五十七年、この化学分析場が、有名建築家・置塩(おしお)の手による大正八年(1919年)の作品である事が判明します。

それでも、当時は、悪しき時代の遺構は排除しようという意見が多くありました。

Kagakubunsekizyoutumesyocc 向かい側には、当時の守衛詰所もそのままに・・・

しかし、結局、結論が出ないまま、今に至っているわけですが・・・

現在、各地で戦争の遺構が文化財に指定され、保存の方向に向きつつある中、大阪の戦争遺構の保存状況はあまり良いとは言えません。

この化学分析場も、今では保存の動きがあるようですが、まだ、決定段階ではありませんので、宙ぶらりんの状態・・・保存するのなら、修復して整備すべきところですが、何もしないまま廃墟のようになってしまっています。

Kagakubunsekizyoutekkoncc 近くには、溶鉱炉の底に残っていた鉄塊がそのまま放置され、くぼみには雨水が溜まっていました。

私個人的には、軍国主義の遺物とは言え、それも歴史の一つ・・・歴史を生で伝える証言者として、彼らを後世に残していただきたいと思うのですが・・・。

 .
皆さんも、今度、大阪城へ行かれたら、ちょこっと寄り道してみてください。
いつもの、大阪城公園とは少し違った印象を味わえる事でしょう。

*追記:大阪城天守閣横に残る旧第四師団司令部庁舎については2012年2月9日のページでどうぞ>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (7) | トラックバック (0)
|

2008年6月 6日 (金)

歴史人物辞典~「こ」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「こ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
  ●小泉八雲=ラフカディオ・ハーンの見たものは…

★鴻蔵主
  ●織田信長VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い

★コエリヨ(ガルパス・コエリュ)
  ●秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケは?

★江(お江・お江与・小督・崇源院)
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待
  ●江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念
  ●「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密に思う
  ●「江~姫たちの戦国」第6回・光秀の天下を見て
  ●大河ドラマ「江」第20回・茶々の恋でひと言
  ●大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期
  ●大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」最終回:希望

★豪姫
  ●「男なら関白」秀吉最愛の秘蔵っ子・豪姫

★光格天皇
  ●御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件

★皇極天皇(斉明天皇)
  ●日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位
  ●斉明天皇の心の内は・・・
  ●弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑

★公慶(龍松院公慶)
  ●東大寺・大仏殿の再建

★康慶
  ●鎌倉版「プロジェクトX」…東大寺復興と運慶

★孝謙天皇(称徳天皇)
  ●新羅と日本…古代の関係
  ●歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱
  ●和気清麻呂・大隈へ流罪
  ●盛者必衰~藤原仲麻呂の乱
  ●没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇
  ●道鏡事件のウラのウラ
  ●戦国の活版印刷と日本にある世界最古の印刷物

★光孝天皇
  ●関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇

★光厳天皇
  ●最期は心安らかに…波乱万丈の光厳天皇

★香西元長
  ●細川政元の後継~永正の錯乱と百々橋の戦い

★高坂昌信(春日虎綱)
  ●春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤

★香宗我部親泰
  ●ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定

★幸徳秋水
  ●明治に起こった「大逆事件」とは?

★孝徳天皇
  ●蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?
  ●蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説
  ●天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎

★高台院(祢・おね・ねね)
  ●秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
  ●秀吉の妻・ねねさんのご命日なので・・・
  ●秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割

★光仁天皇
  ●「脱官僚?」光仁天皇&桓武天皇・父子2代の改革

★河野通軌(宍戸景世・宍戸景好)
  ●毛利輝元の伊予出兵~宍戸景世の伊予の関ヶ原

★高師直
  ●高師直に横恋慕された塩冶高貞の悲劇
  ●四条畷の戦い~楠木正行の最期
  ●観応の擾乱~足利尊氏+高師直VS足利直義
  ●本当に極悪人?観応の擾乱に散った高師直

★黄梅院殿
  ●乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿

★弘文天皇(大友皇子)
  ●壬申の乱・勃発
  ●いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍
  ●壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!
  ●壬申の乱~大海人皇子・進発…その時朝廷軍は
  ●伊賀で当麻で箸墓で…壬申の乱・大和の戦い
  ●壬申の乱~大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い
  ●壬申の乱・瀬田合戦
  ●大海人皇子と大友皇子…どっちが正統?

★弘法大師(空海)
  ●今夜は丹波の里に雪が降る~弘法大師の伝説
  ●最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!
  ●弘法大師・空海と東寺

★光明皇后
  ●夫婦円満?初の民間皇后・光明皇后と聖武天皇
  ●奈良に始まる福祉の歴史
  ●世紀の祭典・大仏開眼と光明皇后
  ●慈愛と懺悔の藤原氏期待の星…光明皇后

★光明天皇
  ●南北朝の幕開け…光明天皇の即位
  ●三種の神器のお話

★孝明天皇
  ●薩英戦争を挟んで…孝明天皇と島津久光
  ●孝明天皇・暗殺説

★後円融天皇
  ●DVに自殺未遂?…暴れまくりの後円融天皇

★後亀山天皇
  ●南北朝の合一
  ●南北朝合一の後に…後亀山天皇の「後南朝」

★後光厳天皇
  ●神器なし指名なし~前代未聞の後光厳天皇の即位

★後小松天皇
  ●南北朝の合一
  ●戦国の足音…重き「光」を背負った称光天皇

★小督
  ●峰の嵐か松風か~高倉天皇と小督の悲恋物語

★小宰相
  ●ともに一つの蓮の上~平通盛の妻・小宰相

★後西天皇
  ●天変地異で退位…追号も微妙な後西天皇

★後桜町天皇
  ●119年ぶりの女帝~国母・後桜町天皇

★後嵯峨天皇
  ●南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇

★児島惟謙
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2

★児島高徳
  ●隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳
  ●千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦

★後白河天皇(法皇)
  ●「能もなく芸もない」暗愚の後白河天皇が天下を・・・
  ●武士の時代の幕開け…保元の乱
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱
  ●平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説
  ●蓮華王院=三十三間堂の建立
  ●平家の盛と衰を導いた女性…建春門院・平滋子
  ●浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀
  ●ブチ切れ清盛の「治承三年のクーデター」
  ●木曽義仲、法住寺殿を焼く
  ●後白河天皇と今様

★後醍醐天皇
  ●正中の変~寝物語でバレちゃった
  ●笠置山「楠の夢告」~後醍醐天皇と楠木正成
  ●元弘の変~笠置山の戦い
  ●楠木正成のゲリラ術炸裂!赤坂城の戦い
  ●隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳
  ●楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い
  ●後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場
  ●鎌倉炎上…北条高時・自刃
  ●「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に…
  ●鎌倉幕府の滅亡
  ●後醍醐天皇の建武の新政
  ●鎌倉幕府軍…最後の全面降伏
  ●高氏改め足利尊氏が中先代の乱の後に…
  ●朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞
  ●恋に戦に・新田義貞の純情
  ●新田義貞・京を奪回!
  ●足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦
  ●足利尊氏・再起~多々良浜の戦い
  ●七生報国・湊川の戦い
  ●足利尊氏VS新田義貞・幻の一騎打ち?京都合戦
  ●南北朝の幕開け…光明天皇の即位
  ●三種の神器のお話
  ●刺客に襲われて命を落とした僧・了源
  ●後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生
  ●後醍醐天皇のため上京します!…北畠顕家
  ●京都奪回を目指す北畠顕家~青野原の戦い
  ●後醍醐天皇に苦言…北畠顕家の奏状
  ●運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期
  ●夢は自分でつかむ物…征夷大将軍・足利尊氏
  ●北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期

★匂当内侍
  ●恋に戦に・新田義貞の純情

★後藤賢豊
  ●名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

★後藤象二郎
  ●龍馬の「船中八策」土薩盟約そして大政奉還へ…
  ●大胆・豪傑~友に好かれた後藤象二郎
  ●後藤象二郎様々?岩崎弥太郎の成功劇

★後藤新平
  ●祝!80周年 昭和の大阪城天守閣・復興

★後藤基次
  ●後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?
  ●激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
  ●冬の陣・真田丸の攻防~真田幸村と松平直政
  ●又兵衛の大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い
  ●大坂夏の陣~真田幸村の平野・地雷火伝説
  ●大坂夏の陣・開戦!
  ●後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣

★後鳥羽天皇
  ●承久の乱勃発で北条政子・涙の演説
  ●オカルトの日と後鳥羽上皇
  ●百人一首に隠された暗号
  ●時代の波に呑まれた穏やかな天皇・土御門天皇

★小波(種田政明の愛妾)
  ●神風連の乱~ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

★後奈良天皇
  ●戦国真っただ中に生きた後奈良天皇

★小西行長
  ●文禄の役・釜山上陸
  ●悲劇の人・おたあジュリア
  ●泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い
  ●「キリシタンゆえ自害はできぬ」~行長・自首

★近衛文麿
  ●近衛文麿、最後の一日

★木花之佐久夜毘売(木花開耶媛)
  ●異常気象と富士山信仰

★後花園天皇
  ●応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家

★小早川隆景
  ●毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦
  ●毛利元就の三矢の訓え・・・その願いは?
  ●毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城・攻防
  ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
  ●女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い
  ●第二次・月山富田城。攻防戦
  ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
  ●自らの死後も見据える智略の将=小早川隆景

★小早川秀秋
  ●関ヶ原の合戦・前夜祭!小早川秀秋の長い夜
  ●関ヶ原の後始末・佐和山城攻め
  ●関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩
  ●小早川秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間

★小林一茶
  ●小林一茶が「おらが春」に込めた新年への希望
  ●残りの人生丸儲け~小林一茶、最期の時

★小林虎三郎
  ●「米百俵」の精神~焦土の長岡に小林虎三郎が立つ

★後深草天皇
  ●南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇

★小堀遠州(政一)
  ●江戸の初めのクリエイター・小堀遠州

★駒井高白斎
  ●信玄・勝利の影に…武田の気象予報士・駒井高白斎

★小松帯刀
  ●ポッチャリ型が好み?小松帯刀と二人の妻

★小松姫(稲姫)
  ●あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功

★後水尾天皇
  ●後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件
  ●戦国最後の天皇~徳川相手に王の意地

★巨海道綱
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★小宮豊隆
  ●「明暗」を書き終えたら・・・夏目漱石のやり残した事

★小宮山友晴
  ●武田勝頼、天目山に散る

★後村上天皇
  ●南北朝~京都争奪の八幡合戦
  ●足利相手に戦う天皇…第97代・後村上天皇

★後陽成天皇
  ●後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第

★惟康親王
  ●周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王

★衫子(コロモコ)
  ●最古の治水工事・茨田堤の物語

★コロンブス
  ●西欧の地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵

★金地院(以心)崇伝
  ●逆らう者は容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝

★近藤勇
  ●新撰組・誕生のきっかけ~清河八郎の宣言
  ●今日は新撰組の日
  ●新撰組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変
  ●わずか半年の新撰組・初代局長~芹沢鴨
  ●新撰組・絶好調!池田屋事件
  ●新撰組・山南敬助の心の内は・・・
  ●新撰組・最後の粛清~血煙!油小路の変
  ●二度の脱走と局長狙撃~元新撰組・阿部十郎
  ●甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤勇の失敗
  ●さらば・・・近藤勇
  ●徳川家茂&新撰組の主治医~松本良順

★近藤康用
  ●三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

★権藤種盛
  ●関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…

★金毘羅神
  ●「金毘羅?」「金刀比羅?」~こんぴらさんのお話

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「け」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「け」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・

・・・・・・・・・

★慶誾尼
  ●戦国のゴッドマザー=龍造寺隆信の母・慶誾尼

★継体天皇
  ●反乱?内戦?対外戦争?謎多き磐井の乱
  ●謎多き継体天皇

★桂林院(北条夫人・小田原御前・武田勝頼夫人)
  ●内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院

★欠史八代(綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇・孝昭天皇
        孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇)
  ●記紀にはしょられた天皇たち…欠史八代

★建春門院(平)滋子
  ●平家の盛と衰を導いた女性…建春門院・平滋子

★月照
  ●西郷隆盛、月照と共に入水自殺を図る
  ●祇園の豆まきと西郷さんが見た成就院の庭

★見性院
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之

★元正天皇
  ●記念に改元~元正天皇の養老の滝伝説

★顕宗天皇
  ●天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇

★顕如
  ●信長VS三好の野田福島の戦い~本願寺参戦
  ●石山合戦・勃発~信長VS顕如の野田福島の戦い
  ●信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い
  ●信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い
  ●織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺合戦
  ●北陸争奪戦~謙信と信長と顕如と…
  ●第一次木津川口海戦~信長を悩ませた村上水軍
  ●信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦
  ●石山合戦・終結~石山本願寺炎上
  ●信長を一番困らせた男~本願寺・顕如
  ●時代とともに生きた~東西・二つの本願寺

★元明天皇
  ●なぜ、平城京はあの場所に?影に潜む藤原氏の思惑
  ●風土記の編さん

★ケンペル
  ●将軍・徳川綱吉に謁見したドイツ人・ケンペル

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

「応援してやろう」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「く」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「く」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★空海(弘法大師)
  ●今夜は丹波の里に雪が降る~弘法大師の伝説
  ●最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!
  ●弘法大師・空海と東寺

★空也
  ●市聖~空也上人の伝説

★九鬼守隆
  ●鳥羽城の戦い~九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原

★九鬼嘉隆
  ●信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場
  ●信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦
  ●九鬼嘉隆と長久手の戦い~もう一つのシナリオ
  ●小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦
  ●鳥羽城の戦い~九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原
  ●戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃

★公暁
  ●迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎
  ●実朝~暗殺事件の謎・パート2
  ●謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期

★久下重治
  ●織田信長軍による福知山攻略戦

★久坂玄瑞
  ●禁門の変で散る久坂玄瑞

★草刈重継
  ●宇喜多&毛利の境目合戦~矢筈城と草刈重継

★楠木正成
  ●笠置山「楠の夢告」~後醍醐天皇と楠木正成
  ●元弘の変~笠置山の戦い
  ●楠木正成のゲリラ術炸裂!赤坂城の戦い
  ●護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂攻防戦へ
  ●楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い
  ●「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に…
  ●鎌倉幕府の滅亡
  ●新田義貞・京を奪回!
  ●足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦
  ●いよいよ上洛…足利尊氏・大宰府を出発!
  ●楠木正成&正行…桜井の別れ
  ●七生報国・湊川の戦い
  ●「毘沙門天」「未来記」「ゲリラ戦法」…楠木正成伝説

★楠木正行
  ●楠木正成&正行…桜井の別れ
  ●南朝VS北朝…楠木正行の藤井寺の戦い
  ●室町幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い
  ●四条畷の戦い~楠木正行の最期

★楠木正儀
  ●南北朝~新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀

★楠本イネ(オランダおいね)
  ●日本初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子
  ●遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ

★工藤祐経
  ●曽我兄弟の仇討ち もう一人のターゲット

★朽木昌綱
  ●学者大名~福知山藩主・朽木昌綱

★国定忠治
  ●赤城の山の国定忠治

★国司信濃(親相)
  ●長州に尽くします!国司信濃の政治責任

★久邇宮朝彦親王
  ●苦労人の宮さま~八月十八日の政変の中川宮

★国松(豊臣秀頼の遺児・秀勝)
  ●事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

★九戸政実
  ●九戸の乱~秀吉のもと、東北の雄が散る
  ●今夏最後の怪談話…九戸政実~怨みます!

★熊谷直実
  ●青葉の笛~一の谷の合戦
  ●戦いの空しさに出家した源氏の猛将・熊谷直実

★熊谷直之
  ●秀次事件に連座…熊谷直之と7人の小姓たち

★熊谷信直
  ●「女は顔やないで!」吉川元春の嫁選び

★熊谷元直
  ●有田城外~中井手の戦いに散る熊谷元直とその妻

★熊姫
  ●千姫・ご乱行の真相

★クラーク博士
  ●生涯の誇り~クラーク博士のambitious

★鞍作鳥(司馬鞍作首止利)
  ●悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎

★グラバー
  ●幕末の外国人商人・グラバーの置き土産

★栗本鋤雲
  ●幕末・日本とフランスの架け橋~栗本鋤雲

★栗山大膳利章
  ●黒田騒動を起こした栗山大膳

★呉織・綾織
  ●星月夜の織姫~大阪・池田の民話

★黒田(加藤)一成
  ●黒田一成と岩佐又兵衛と大坂夏の陣図屏風

★黒田清隆
  ●北海道開拓に尽力した黒田清隆

★黒田清輝
  ●芸術か?ワイセツか?博覧会の裸体画で大論争

★黒田如水(官兵衛孝高)
  ●ジッチャンの目薬で先を見る目を養った?
  ●秀吉の中国攻め~二兵衛が迫る福原城の戦い
  ●有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たち
  ●秀吉の大バクチ・中国大返し
  ●小牧長久手~岸和田城・攻防戦
  ●黒田VS大友~石垣原前哨戦・杵築城攻撃
  ●関ヶ原で天下を狙う第3の男・石垣原の合戦
  ●豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦
  ●九州の関ヶ原~富来城が開城
  ●九州の関ヶ原~小倉開城で黒田如水が北九州制圧
  ●関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…
  ●「若者よ!本を読め」~黒田如水の名言
  ●後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?
  ●母里太兵衛友信~これぞ真の黒田武士

★黒田忠之
  ●黒田如水の福岡城…扇坂門の怨霊話
  ●黒田騒動を起こした栗山大膳

★黒田長政
  ●有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たち
  ●小牧長久手~岸和田城・攻防戦
  ●老獪・家康…西へUターンの小山評定
  ●「お父ちゃん、褒めたげて!」黒田長政の関ヶ原
  ●後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?

★桑名弥次兵衛
  ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆

★郡司成忠
  ●千島最北端に初の上陸!

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「き」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「き」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★紀伊国屋文左衛門
  ●一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門

★義円(乙若)
  ●平家の圧勝~墨俣川の戦い

★祇王
  ●平清盛の寵愛を受けた祇王と仏御前

★祇園女御
  ●平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説

★菊(お菊)
  ●大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語

★菊(お菊)
  ●彦根城に菊は咲かない?築城時の人柱の伝説

★菊(お菊)
  ●真夏の夜の怪談話…播州皿屋敷

★菊池武光
  ●九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い

★木口小平
  ●日清戦争・成歓の戦い

★喜三太
  ●義経危機一髪!堀川夜討ち

★木沢長政
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

★岸静江
  ●晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った第2次長州征伐

★岸信周
  ●織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦

★鬼室福信(きしつふくしん)
  ●白村江の戦い~その敗戦の原因は?

★鬼子母神
  ●鬼子母神のお話

★来島又兵衛政久
  ●禁門の変~来島又兵衛アラ50にの挑戦

★木曽(源)義仲
  ●【木曽義仲の年表】へ

★北白川宮能久親王
  ●幕末にいたもう一人の天皇?東武皇帝・即位事件

★喜多見重政
  ●徳川綱吉に寵愛された喜多見重政の末路

★北畠顕家
  ●足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦
  ●後醍醐天皇のため上京します!…北畠顕家
  ●京都奪回を目指す北畠顕家~青野原の戦い
  ●後醍醐天皇に苦言…北畠顕家の奏状
  ●南朝を支えた無双の勇者…北畠顕家の最期

★北畠親房
  ●後醍醐天皇を支えた南朝の総参謀:北畠親房

★北畠具教
  ●織田信長の三瀬の変…名門・北畠の最後

★吉川興経
  ●中国の覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組
  ●毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦

★吉川経家
  ●鳥取の干殺し~吉川経家の決断

★吉川広家
  ●関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人2

★吉川元長
  ●備中高松城・水攻めと吉川元長

★吉川元春
  ●毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦
  ●「女は顔やないで!」吉川元春の嫁選び
  ●猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…
  ●毛利元就の三矢の訓え・・・その願いは?
  ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
  ●小倉の陣中で…吉川元春の最期

★帰蝶(濃姫)
  ●こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は何処へ?

★吉乃(生駒の方)
  ●織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

★木戸孝允(桂小五郎)
  ●中岡慎太郎・薩長同盟への決意を語る
  ●この日本国のために~薩長同盟・成立
  ●薩長同盟の龍馬に疑問?西郷と木戸が待ったのは
  ●五箇条の御誓文・発表
  ●高杉晋作が造った奇兵隊~維新後の悲しい結末
  ●維新動乱の未解決事件~広沢真臣・暗殺
  ●近代日本初の対外戦争・征台の役
  ●萩の乱近し~前原一誠と木戸孝允と品川弥二郎と
  ●「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最後は…
  ●オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は?

★木戸松子(幾松)
  ●逃げの小五郎を捕まえた…幾松・生涯の恋

★木下重堅
  ●関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略

★木下昌直
  ●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

★紀貫之
  ●やぶり捨てたい!紀貫之のツラ過ぎる土佐日記
  ●竹取物語は社会派風刺小説

★吉備津彦命
  ●昔話・桃太郎と製鉄の関係

★吉備真備
  ●天平の陰陽師・吉備真備

★木村蒹葭堂
  ●江戸文化の知識が集うサロン・木村蒹葭堂

★木村重成
  ●露と消え…木村重成の夏の陣・前夜
  ●大坂夏の陣…若江に散った四天王=木村重成

★木村昌福
  ●キスカ撤退作戦・成功!

★木村吉清
  ●独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆

★肝付良兼
  ●芝居がお家の衰退に…肝付良兼のウソ合戦

★求厭(求猒)
  ●事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

★清
  ●吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」

★清河八郎
  ●新撰組・誕生のきっかけ~清河八郎の宣言

★行基
  ●弾圧の小僧・行基~大出世のウラ事情

★慶光天皇(閑院宮典仁親王)
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件

★京極高清
  ●応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦
  ●戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討
  ●京極の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

★京極高次
  ●ホタル大名・京極高次…一世一代の決断
  ●大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原
  ●勲功1番の戦いぶり~京極高次の関ヶ原
  ●姉と嫁のおかげで大出世?ホタル大名・京極高次

★京極高広
  ●寒ブリが食べたいばっかりにお家断絶・取り潰し

★京極政経(政高)
  ●応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦
  ●京極の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

★教如
  ●石山合戦・終結~石山本願寺炎上
  ●時代とともに生きた~東西・二つの本願寺

★曲亭馬琴(滝沢馬琴)
  ●徳川家康の未知との遭遇&「虚舟」の話
  ●八犬伝の滝沢馬琴、忌日
  ●滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身

★清原真衡
★清原家衡
  ●日本初の兵糧攻め~後三年の役・金沢柵の攻防

★吉良上野介義央
  ●刃傷・松の廊下~事件を目撃した松はどんな松?
  ●大石内蔵助の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り
  ●忠臣蔵のウソ・ホント

★桐野利秋(中村半次郎)
  ●西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋
  ●西南戦争で敗れた西郷隆盛が星になった?

★欽明天皇
  ●仏教伝来・物部VS蘇我
 .

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「か」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』か」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・

★海江田信義(有村武次)
  ●薩英戦争前々日~未遂に終った「スイカ売り決死隊」
  ●上野戦争へのカウントダウン~大村益次郎・着陣
  ●大村益次郎・暗殺犯と海江田信義

★快翁(花王院)
  ●織田信長の高野山攻め

★快川紹喜
  ●織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件

★甲斐宗運(親直)
  ●島津を翻弄した阿蘇の軍師:甲斐宗運

★甲斐姫(成田氏長女)
  ●忍城攻防戦…留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫
  ●番外編:映画「のぼうの城」の感想
  ●成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と

★海北友松
  ●小谷落城の生き残り~海北友松の熱い思い

★加賀野井重望
  ●秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱

★柿崎景家
  ●上杉謙信と春日山城…の怪現象

★蠣崎(松前)慶広
  ●世渡り上手に交渉上手~松前・蠣崎慶広の生き残り

★垣見一直
  ●九州の関ヶ原~富来城が開城

★かぐや姫
  ●竹取物語は社会派風刺小説~仲秋の名月・・・

★柿本人麻呂
  ●謎が謎呼ぶ柿本人麻呂
  ●たった一首で大歌人?猿丸太夫の謎
  ●江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号

★垣屋恒総
  ●関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略

★葛西清重
  ●頼朝に味方した秩父平氏・葛西清重

★葛西晴信
  ●独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆

★笠原清繁
  ●3000人のさらし首…信玄の志賀城攻略

★笠原頼直
 
 ●義仲・初陣!市原の戦い

★花山天皇
  ●平安の好色一代男~花山天皇の奇行の裏に

★梶浦勘兵衛
  ●荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い

★梶川弥三郎宗重
  ●槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重

★梶原景季
  ●宇治川の先陣争い
  ●源平・一の谷~生田の森の激戦

★梶原景時
  ●頼朝敗走・石橋山の合戦
  ●奥州制覇を狙う頼朝に消された上総介広常
  ●源平・一の谷~生田の森の激戦
  ●義経の奇襲作戦Part2・めざせ!屋島~嵐の船出
  ●壇ノ浦合戦~潮の流れと戦況の流れ
  ●梶原景時・弾劾状を作成
  ●露と消えた九州独立国家~梶原景時の乱

★果心居士
  ●豊臣秀吉を驚愕させた幻術師:果心居士

★春日虎綱(香坂昌信)
  ●春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤

★春日局
  ●本能寺の変~徳川家康・黒幕説について・・・
  ●豊島明重の武士の一分…江戸城刃傷事件
  ●謀反人の娘で殺人犯?春日局が天下を握る
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待

★上総介広常(平広常)
  ●源平争乱…金砂城の戦い
  ●奥州制覇を狙う頼朝に消された上総介広常

★和宮
  ●天下泰平のために・・・皇女・和宮の決意
  ●皇女・和宮~替え玉説について
  ●徳川家の存続をかけて~和宮の尽力
  ●皇女・和宮とガラスの写真
  ●和宮ゆかりの紅葉の名所~京都・宝鏡寺

★片岡孫左衛門
  ●薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤

★片倉小十郎景綱
  ●独眼竜の在るところ片倉小十郎あり

★片桐且元
  ●方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく家康の最後通告

★勝海舟
  ●勝海舟のトラウマ
  ●咸臨丸・品川沖を出航
  ●咸臨丸・シスコへ到着
  ●薄命の将軍・徳川家茂が後世に残した物は?
  ●徳川家の存続をかけて~和宮の尽力
  ●無血開城の影で幻となった勝海舟・二つのシナリオ
  ●西郷隆盛と勝海舟の会談~その内容は?
  ●江戸城無血開城
  ●江戸城無血開城・最後まで残ったのは話題のアノ人
  ●自分大好き~勝海舟の人生語録

★葛飾北斎
  ●葛飾北斎のご命日なので
  ●北斎からの挑戦状?北斗信仰と八つ橋の古図

★河童
  ●河童忌なので、河童のお話

★桂小五郎(木戸孝允)
  ●中岡慎太郎・薩長同盟への決意を語る
  ●この日本国のために~薩長同盟・成立
  ●薩長同盟の龍馬に疑問?西郷と木戸が待ったのは
  ●五箇条の御誓文・発表
  ●高杉晋作が造った奇兵隊~維新後の悲しい結末
  ●維新動乱の未解決事件~広沢真臣・暗殺
  ●近代日本初の対外戦争・征台の役
  ●萩の乱近し~前原一誠と木戸孝允と品川弥二郎と
  ●「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最後は…
  ●オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は?

★桂太郎
  ●明治に起こった「大逆事件」とは?

★桂田長俊(前波吉継)
  ●越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め

★加藤明成
  ●会津騒動で改易…会津藩主・加藤明成

★加藤(黒田)一成
  ●黒田一成と岩佐又兵衛と大坂夏の陣図屏風

★加藤清正
  ●文禄の役~休戦協定と加藤清正
  ●死守はしたけれど・・・慶長の役・蔚山城攻防戦
  ●加藤清正らが石田三成を襲撃
  ●清正の熊本城~築城にまつわる怖い話
  
  ●家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事
  ●二条城の会見で出された饅頭は・・・
  ●九州の関ヶ原~加藤清正の動き
  ●加藤清正・疑惑の死
  ●名古屋城の伝説~金の鯱に触れた者は・・

★加藤忠広
  ●非業の3代目~徳川忠長の自殺

★加藤嘉明
  ●秀吉の中国攻略戦~野口城の戦い・青麦合戦
  ●私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦いin大坂夏の陣

★可児才蔵
  ●笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言

★金森長近
  ●金森長近の飛騨攻略作戦
  ●飛騨松倉城の人柱伝説

★懐良親王
  ●九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い
  ●独立国家・九州南朝で強気外交…懐良親王の野心

★狩野介宗茂
  ●捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手の前

★狩野一庵
  ●小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦

★上泉信綱
  ●箕輪城落城~あの新陰流・誕生の影に・・・
  ●男・柳生宗厳~68歳でつかんだ大きな一歩
  ●新陰流の開祖~剣聖・上泉信綱

★上条政繁
  ●上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事

★亀井茲矩
  ●長束正家、自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い
  ●関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略
  ●関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀

★亀井の尼
  ●大阪の史跡:天王寺七名水と亀井の尼の物語

★亀吉
  ●幕末・横浜・フランス兵殺人事件

★亀姫
  ●宇都宮釣天井の仕掛け人・亀姫のド根性

★亀山天皇
  ●南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇

★蒲生氏郷
  ●秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱
  ●伊達男の本領発揮!政宗、起死回生の弁明劇
  ●信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人・蒲生氏郷

★蒲生貞秀
  ●家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

★蒲生賢秀
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い
  ●本能寺~その日の安土城と留守役・蒲生賢秀

★蒲生忠知
  ●名将・氏郷から3代…断絶となった蒲生忠知の怖い話

★鴨長明
  ●鴨長明さんのご命日なので・・・

★賀茂真淵
  ●本居宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中

★萱野三平重実(早野勘平)
  ●忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平

★からくり儀右衛門(田中久重)
  ●東洋のエジソン~からくり儀右衛門こと田中久重

★河井継之助
  ●戊辰戦争~新政府軍・北へ
  ●北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意
  ●ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落
  ●河井継之助の時間差攻撃~戊辰戦争・今町攻略
  ●北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦
  ●河井継之助・無念~長岡二番崩れ
  ●長岡城落城とともに散った河井継之助

★川上貞奴
  ●日本初の女優・川上貞奴

★河上彦斎
  ●天才思想家・佐久間象山~幕末の京に散る
  ●佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎

★川路聖謨
  ●江戸総攻撃の予定日に散った忠義の幕臣・川路聖謨

★河尻秀隆
  ●本能寺の余波に散る織田の重臣・河尻秀隆

★河尻秀長
  ●河尻秀長VS遠山友政の関ヶ原~苗木城・開城

★川田順
  ●今日はシルバーラブの日

★河田小龍
  ●海援隊の生みの親~龍馬も憧れた河田小龍

★川田義朗
  ●島津のメンタルトレーナー~軍師・川田義朗

★川那辺秀政
  ●信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い
  ●信長と抗戦した本願寺の総大将・頼総の追放

★川端家長
  ●宇喜多&毛利の境目合戦~矢筈城と草刈重継

★河原高直・盛直
  ●源平・一の谷~生田の森の激戦

★瓦林正頼
  ●管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い

★閑院宮典仁親王(慶光天皇)
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件

★鑑真和上
  ●男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日
  ●鑑真がそうまでして日本に来たかったワケは?
  ●鑑真和上が唐招提寺を建立

★神尾静(お静の方)
  ●将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之

★観音
  ●観音様のお話

★神吉藤大夫
★神吉頼定
  ●秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦

★神戸(織田)信孝
  ●信孝・自刃~報いを待つのは秀吉か?信雄か?

★神戸与五郎(林正武)
  ●小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

★菅正利
  ●島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い

★桓武天皇
  ●「脱官僚?」光仁天皇&桓武天皇・父子2代の改革
  ●桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都
  ●未完の都・平安京
  ●究極の魔界封じの都・平安京誕生
  ●平安京・命名の日
  ●平安京はいつから京都に?
  ●お彼岸の起源・由来~一人の怨霊を鎮める為に・・
  ●「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生
  ●平安京の移り変わり~朱雀大路と千本通
  ●千年の思いを込めて創建された平安神宮

 
 .
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2008年6月 5日 (木)

決死の死装束~独眼竜・政宗の小田原参陣

 

天正十八年(1590年)6月5日、伊達政宗が、小田原城を囲む豊臣秀吉のもとへ参陣しました。

・・・・・・・・・・・

天正十八年(1590年)、天下を目前にした豊臣秀吉が、最後の大物・北条氏を攻めるにあたって、未だ傘下に収めきれていない東北の武将たちに参戦を呼びかけました。

これは、今後、秀吉の傘下に収まるかどうか、東北の諸将の真意を問いただす目的もありましたが、案の定、すぐに参戦して秀吉傘下の収まる者と、拒絶して参戦しない者とに別れます。

そんな中、秀吉が、北条の本拠地である小田原城を包囲したのが4月3日・・・(4月3日参照>>)

前年、秀吉の息のかかった芦名氏摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)で滅ぼし、東北の大部分を手に入れた独眼竜・伊達政宗は、秀吉から、再三の呼び出しを受けていましたが、何だかんだと拒み続けていました。

しかし、ここに来て、上記の小田原攻めです。

天下の情勢が秀吉へと傾き、次々と東北の武将が参戦する中、やっと重い腰を上げ、政宗も小田原攻めに参戦する決意をするのですが、そんな時に起こった政宗・毒殺未遂事件(4月5日参照>>)・・・この事件によって、政宗の小田原行きは、さらに遅れる事となります。

そして、天正十八年(1590年)6月5日伊達政宗はようやく、小田原にやって来たのです、

芦名氏を滅ぼした弁明もまだの上に、大幅に遅れての参戦・・・もはや、秀吉は激怒しているに違いありません。

ひょっとしたら、会いにいったその場で首をはねられるかも・・・。

・・・で、ここで、政宗お得意の派手なパフォーマンスです。

もちろん、そのような派手なパフォーマンスを、秀吉が大好きな事も踏まえての作戦・・・ただ、普通に現れては、秀吉をアッと驚かせる事はできません。

政宗は、甲冑に身を包み、その上にまっ白な陣羽織をはおり、髪を短くかりあげ、オカッパ頭にして・・・つまり、死装束で小田原に現れます

「この命、いかようにも・・・」
死を覚悟したいでたちで、ド肝を抜いたのです。

「政宗めを、どないしたろかいな?」
と、怒り心頭だった秀吉は、その政宗の話を聞いて、ちょっと会いたくなってしまいますが、そこは、関白太政大臣・・・まだまだケツの青いボウヤの心理作戦にハマッて、そう簡単に心を許してしまうわけにはいきません。

政宗を、箱根山中の底倉(蛇骨川の谷底の温泉場)に閉じ込め、自分への面会を許さず、数日間にわたって、家臣による参陣の遅れの理由、芦名氏攻撃の弁明などの詰問を続けたのです。

しかし、そんな中、小田原の陣中に、千利休が来ている事を知った政宗は・・・
「えぇ機会やから、お茶の稽古をつけてくれませんか?」
と、申し出ます。

「生きるか死ぬかの瀬戸際に、お茶の稽古やと?」
再びの心理作戦は、見事的中!

秀吉は、そんな政宗に会いたくなって、謁見を許したのです。

秀吉との面会は、今まさに包囲中の小田原城を見下ろす石垣山(6月26日参照>>)の上で行われました。

秀吉55歳、政宗24歳・・・

秀吉のもとへ向かう途中、政宗はふと眼下の小田原城に目をやります。

天下の名城とうたわれた小田原城・・・まるでアリが這い回るように、それを囲む22万の軍勢・・・海には、毛利と九鬼の水軍が、エサに群がる鯉のようにひしめき合っています。

わずか一年前、破竹の勢いで芦名を倒し、奥州の覇王・天下も夢ではない!と意気込んでいた政宗は、この時、全国ネットとの格の違いをまざまざと見せつけられた事でしょう。

それと同時に、もう少し早く生まれていれば・・・
秀吉が、ここまでになる前に、同じ土俵で戦ってみたかったと・・・一説には、晩年の政宗が「もう10年早く生まれていれば…」と言ったなんて噂もありますが、ひょっとしたら本当に、そう思っていたかも知れませんね。

やがて、秀吉の前へ・・・

ドまん中で、床几にすわり、杖をついた秀吉・・・左右には、徳川家康前田利家などの大物がズラリ。

政宗の死装束を見て、満足そうな秀吉は・・・
「こっちへ来い!」
と、そばへと呼びます。

政宗は、その時、機会があれば秀吉を殺してやろうと、ふところに脇差を隠し持っていましたが、もはや、その思いは消え、その脇差を遠くへと投げ捨て、秀吉のそばへと進みました。

しかし、それでもまだ遠かったのか、秀吉は、持っていた杖で、自分の足元の地面を指し、「ここだ」とばかりに、トントンと叩きます。

さらに前へ進み、まさに目の前まで近づいた政宗・・・その首のあたりを、持っていた杖でツンツンと突きながら・・・
「カワイイやっちゃのぉぅ・・・お前、グッドタイミングやで。
もうちょっと遅かったら、ココが危なかったでぇ・・・」

と、秀吉・・・

まさに、首の皮一枚でつながった政宗でした。

その1ヶ月後、小田原城は開城され、早雲以来、100年に渡って関東に君臨した北条氏は滅亡します(7月5日参照>>)

命こそ助かったものの、その後、政宗は多くの領地を没収され、奥州の覇王とは、ほど遠い状況に・・・。

そして、秀吉は、その足で、奥州征伐・・・つまり、小田原攻めに参戦しなかった東北の武将たちへの処分を開始するのです。

この奥州征伐は、当然、東北の武将たちの怒りをかう事に・・・そこで、またまた政宗のピンチが訪れる事になるのですが・・・

そのお話は・・・葛西・大崎一揆:11月24日のページでどうぞ>>
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (7) | トラックバック (0)
|

2008年6月 4日 (水)

備中高松城・落城~清水宗治・自刃

 

天正十年(1582年)6月4日、織田信長の命により、備中高松城を攻めていた羽柴(豊臣)秀吉が和睦し、高松城は落城・・・城主・清水宗治(むねはる)が自刃しました。

秀吉が高松城への力攻めの後、水攻めに至った経緯につきましては、その攻撃が開始された4月27日>>に書かせていただきましたので、本日は、高松城落城に至る最終段階のお話を中心に・・・

・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)5月21日、秀吉勢に囲まれた高松城を救うため、1万5000の兵を率いて駆けつけた吉川元春(毛利元就の次男)小早川隆景(元就の三男)が見た物は・・・もはや湖上に孤立し、近づくことすらできない高松城でした。

なすすべのない毛利の援軍は、高松城を見下ろす南西部の山に陣を敷き、戦況は、そのままこう着状態となります。

Takamatuzyoufuzinzucc_2 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そんな時です。
ご存知、本能寺の変6月2日の早朝に勃発します(6月2日参照>>)

信長を自刃に追い込んだ明智光秀は、敵対する毛利に対して・・・
「信長を討った、和睦に応じるな」
の内容の手紙を持った密使を送ります。

ところが、翌3日の深夜、その密使は秀吉の陣へと迷い込み、最重要な情報が、毛利ではなく、秀吉に伝わってしまうのです。

これが、光秀最大の不運・・・と言いたいところですが、上記の布陣図を見る限りでは、東からやって来る使者に、「秀吉軍に見つかるな」と言うのは、かなり難しい・・・。

山陽道は当然、秀吉軍が押えているでしょうし、迂回するにしても、水攻めという特異な方法で城を囲んでいる軍勢は、かなり広い範囲を視野に捕らえています。

まして、毛利の援軍がこの地にやって来るまで、高松城が水攻めにされている事を知らなかったように、光秀も、その使者も水攻めの事は知らなかった可能性大ですから・・・。

これは、光秀の不運でも、秀吉の幸運でもなく、なるべくしてなった結果かも知れませんが、秀吉にとって重要なのは、この先です。

信長の死が、いつ相手に伝わるかも知れませんから、今、現在まで行っていた持久戦を続けていくわけにはいきません。

かと言って、もはや、なすすべのない高松城相手に、いきなりの撤退では、怪しすぎます。

秀吉は、安国寺恵瓊(えけい)を通じて、「城主・宗治の死を以って、すべてが丸く納まる」という話を宗治本人に伝え、彼は、城に籠るすべての者の命と引き換えに自刃を決意するのです。

かくして天正十年(1582年)6月4日毛利軍が信長の死を知る2時間前の午後3時、宗治は兄・月清(げっせい)とともに、小舟に乗り、水辺に陣取る秀吉の見える位置までやってきます。

ところで、この宗治の兄・月清という人・・・そのお名前でわかる通り、僧なのですが、もとの名前は宗知(むねとも)と言います。

宗治の兄ですから、本来ならば、長男として家督を継ぐべきところを、弟の器量を読み、清水氏の後継者には、自分より弟のほうがふさわしい」と、自ら仏門に入り、当主の座を退いていたのですが、弟の急を知り、別の場所から駆けつけて来ていたのです。

そして・・・兄は、
「お前が死ぬなら、俺も一緒に死のう」
と、宗治に言います。

「アホか!城主の俺が死ぬ事で、皆が助かるんや。
兄貴が死んでも、どうなるもんでもないやろ!」

「いや、もし、あのまま俺が家督を継いでたら、今日死ぬのは俺のはずやった。
お前のほうが、当主にふさわしいと思て、家督を譲ったためにお前が死ぬ事になるなんて、耐えられへん!
俺が先に死ぬから、それを見て、落ち着いて腹を斬ってくれ・・・頼む!」

兄の、決意の固さを知った宗治は、納得し、ともに二人で小舟に乗って漕ぎ出してきたのです。

宗治と月清は、小舟の上で、謡曲・誓願寺を舞い謡い、辞世を残して自陣しました。

♪浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)
  名を高松の 苔に残して♪
    清水宗治・辞世

宗治の死を見届け、毛利の撤退を確認した秀吉は、この後、本拠地の姫路城へ向かって、脅威の中国大返し(6月6日参照>>)を決行する事となります。
 .

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2008年6月 3日 (火)

黒船来航~そこには琉球の運命も・・・

 

嘉永六年(1853年)6月3日、ペリー提督率いる4隻のアメリカ合衆国艦隊=黒船が浦賀に来航しました。

・・・・・・・・・・・

この頃のアメリカでは、約23の港から700隻の船が遠洋捕鯨に出ていたと言います。

時代は、石油以前のランプの時代・・・クジラの動物性タンパクと脂は重要な資源でしたが、すでに乱獲のため大西洋では捕れなくなり、徐々に太平洋へと乗り出してきていたわけです。

当時の蒸気船は、大きな水車を回す外輪船で、船体の大きさのわりには多くの石炭を必要とし、すでにオーストラリアやインド洋、南太平洋の島々に基地を造って創業しており、日本にも水と燃料と食糧を補給基地を造ろうと、東インド艦隊・旗艦サスケハナ・司令長官ペリーフィルモア大統領の国書を持って、鎖国中の日本を訪れたのです。

♪太平の 眠りをさます 正喜撰(じょうきせん)
 たった四はいで 夜も眠れず♪

Kurofunekinnsireicc

とまぁ、人々は驚いたという事ですが・・・以前、黒船見物禁止令のページ(2月3日参照>>)でも書かせていただいたように、すでに、いくつかの外国船はやって来ていたわけで、今回のペリーの黒船来航に、一番右往左往したのは、一般庶民ではなく、幕府の人々だったようです。

そして、ご存知のように、結局、幕府はペリーの要求を受け入れて、翌年の安政元年(1854年)3月3日日米和親条約を結ぶ事になるのですが、実はペリーは、この時、まっすぐ浦賀にやってきたわけではなく、琉球に立ち寄ってから、浦賀にやってきていました。

しかも、今回だけではなく、琉球には、それ以前に3度も訪れているのです。

すでに琉球では、その再三の訪問で、必需品の自由売買や石炭倉の借受などに那覇港の開港が行われていました。

この頃の琉球は、薩摩藩の占領下にありましたが、もともと、琉球は中国との交易が盛んで、薩摩藩も、その交易の利権が欲しくて琉球を占領したわけですから、琉球王国そのものを廃絶させる事なく、むしろ、交易の門戸として存続させていました。

アメリカもその事は充分承知で、万が一、日本が素直に開国に応じず、戦争となった場合に、それこそ、燃料を補給する基地が近くに必要となるわけで、その時には、薩摩の占領下から開放するという名目で琉球の人々の歓迎を誘い、逆に、アメリカの支配下に琉球を置く手はずになっていたのです。

しかし、上記の通り条約は結ばれ、幕府に準じた琉球とも、同じ年の6月17日に琉米和親条約が結ばれる運びとなり、アメリカが琉球を占領するという事はありませんでした。

開国か拒絶かと徳川幕府がモメにモメていた時、そこには、その後の沖縄の運命を左右するかも知れない問題も含まれていたんですねぇ。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2008年6月 2日 (月)

本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は・・・?

 

天正十年(1582年)6月2日は、戦国時代最大の名場面とも言える『本能寺の変』のあった日です。

昨年の今日も本能寺の変を書かせていただいておきながらも、またまた、性懲りも無く書いちゃいます・・・先日も、徳川家康・黒幕説を書かせていただいたばかり(5月29日参照>>)ですが、なんせ、様々な見解があって、ドキドキのミステリーなもので・・・お許しを・・・。

・・・・・・・・・

いろんな方の黒幕説や、信長生存説まであり、どれにもこれにも、一応、興味を示してしまう一貫性のない私ではありますが、さすがに、この日、本能寺を襲撃し、信長を自刃に追い込んだのは、明智光秀、その人であろう事は、疑う余地のないろころだろうと思っていましたが、なんと!これが・・・実行犯は光秀ではないのでは?という見解も存在するのだそうです。

確かに、仮説の域を脱しない物ではありますが、可能性がゼロではない・・・との事なので、まずはコチラをご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・

本能寺の変を現す名ゼリフ・「敵は本能寺にあり」という言葉・・・この言葉が登場するのは、江戸時代に書かれた『川角太閤記』が最初で、おそらく光秀本人は言ってない・・・。

今回の出陣が西の毛利攻めではなく、京都の信長攻めである事も、一部の重臣だけが知っていたと言われていますが、あくまで言われているだけで、本当に、一部の重臣が、知っていたかどうかは不明である事・・・。

つまり、光秀自身は、信長を討つという事を、誰にも、一言も言ってないという可能性もあるのです。

では、公式には何と言って、西へ向かうはずの大軍を東の京都へ向けたのか?・・・実は、この時、光秀は「急遽、馬揃え(軍事パレード)をする事になったので、早朝までに京に入る」と言っているのです。

事実、多くの末端の兵士が、馬揃えだと思って東に向かったとされています。

もちろん、この言葉は、通説で言われる通り、大軍を京に向かわせるための口実なのかも知れませんが、ひょっとしたら光秀自身も、本当に馬揃えがあると思っていた可能性もあるわけです。

つまり、誰かがニセの情報を流したという事です。

本能寺へ到着した時間も、早朝の4時頃という説と、9時頃という2種類の説があり、このタイム・ラグは、様々な解釈を生んでいます。

しかも、光秀の到着が9時頃だったという説では、その時は、すでに誰の指揮かわからない明智軍が本能寺を襲撃し、炎上した後だったとされています。

・・・で、上記の説を踏まえて成り立つ仮説は・・・

その者たちは信長の首だけを狙っていた・・小姓中心のわずかな手勢で本能寺にいる信長の寝首を襲うだけなら、その襲う側もわずかな手勢ですむ事になります。

その者は、羽柴(豊臣)秀吉なら蜂須賀小六野武士軍団徳川家康なら服部半蔵忍者集団・・・もちろん、伊賀攻めで信長に痛い目に遭わされている伊賀軍団なら、依頼者のあるなしに関わらず単独での信長暗殺を計画する可能性もあります。

信長の遺体が見つからないのも、すでに光秀到着前に事が済んでしまっていたなら納得はできます。

そして、馬揃えがあると聞いてやってきた明智軍が、そこに見たのは、燃え盛る本能寺と、誰の指揮かわからない水色桔梗の軍団と、明智様御謀反の声・・・という事になります。

この事態を目の当たりにして覚悟を決めた光秀は、慌てて信長の長男・信忠の籠るニ条御所へと向かうというワケです。

その者たちが、馬揃えを使って、光秀を京におびき出した理由は、自分たちが信長にとどめを指すまで、騒ぎに気づいた信忠の軍・3千と、京都市街に分宿していた信長の将兵・千数百人を足止めさせるため・・・う~ん、確かに、つじつまが合わなくもない気がしますが・・・どうですか?

例の森蘭丸「明智の軍勢にございます」との報告に、信長が「是非に及ばず」と言ったとか、自ら槍を振るって戦ったなどという、本能寺での詳細な記録は、信長に仕えた太田牛一という人の『信長公記』や、ルイス・フロイス『日本史』などでに書かれた記述ですが、牛一は、この日は本能寺にはいませんでしたし、フロイスも当日は有明海の教会にいたとも言われていますから、ともに本人が自分の目でみたわけでない事を記録している事になり、それすらも疑いだしたらキリがない・・・。

・・・・・・・・・・・

ただ、やはり、実行犯は光秀ではない説」は、あくまで、トンデモ色の強い仮説・・・そんな説もあるという事に留めておいて、私的な個人的意見を述べさせていただきますと、今のところ、私自身は、明智光秀の突発的な単独犯であると思っています。

もし、黒幕がいるのであれば、たとえそれが誰であろうと、この6月2日の早朝に、本能寺を襲撃する事は、何日か前に計画されていなければなりません。

また、5月28日の愛宕山での連歌会で、光秀が詠んだ歌・・・
♪ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな♪

これの、「とき」を、光秀の出自である土岐氏「あめが下知る」「天が下知る」と解釈して、この歌は「土岐氏(の自分)が天下を取る」という意味の決意表明だとの見解(5月28日参照>>)もありますが、もし、そうだとするなら、やはり、6月2日の早朝に襲撃する事を、計画していなかればなりません。

しかし、本能寺の変が、もし、計画的犯行であったとしたら、決定的におかしい部分が出てくるのです。

それは、光秀が本能寺を襲撃し、完全に焼け落ちてから、長男・信忠への攻撃に向かっているところです。

通説によれば、この日、長男・信忠は、京都・妙覚寺に宿泊しており、本能寺の異変を聞きつけて、一旦は救援に向かおうとしたところ、すでに焼け落ち、信長が自刃した事を聞いて、守りに不向きな妙覚寺を捨て、より強固な守りができるであろうニ条御所に行き、そこで籠城・・・という形を取ったとされています。

つまり、本能寺襲撃と、ニ条御所包囲の間には、先ほどのタイム・ラグと同様の時間の差があった事になります。

結果的に信忠は、ニ条御所で籠城という策を取りましたが、ここで、時間があったという事は、信忠には逃亡する事もできた・・・という事になります。

実際に、ともに妙覚寺にいた信長の弟・長益と、信忠の長男・三法師は、無事逃げています(12月13日参照>>)

もし、光秀が天下を取ろうとして、あるいは、黒幕が現体制を崩そうとして、信長を襲撃するのなら、同時に、すでに家督を譲られている信忠も襲撃して抹殺してしまわない限り、信長が信忠に入れ替わるだけで、体制を崩して天下を握る事は難しいでしょう(11月28日参照>>)

この日に、信長も、そして、その後継者である信忠もが死んだ事によって、はじめて後継者争いが起こり、天下が宙に浮くわけです。

以前、本能寺の変と堺の関係のページ(1月9日参照>>)で書かせていただいたように、信長は秀吉の要請で、中国攻めの救援に向かうための自らの出陣準備をしており、その大軍は6月の5日か6日頃には、パーフェクトに準備が整う手はずになっていましたから、信忠がニ条御所での籠城を止め、京都を脱出して安土城に戻って、安土で籠城すれば、彼は死ななかったかも知れない・・・いや、おそらく、光秀に、完璧な大軍が準備された安土城を攻め落とす事はできなかったはずです。

つまり、この日、信長だけでなく、信忠も死んでしまうのは、信忠自身の判断にあったという事になり、そこに、光秀の計画性は、まったくありません。

・・・で、先ほどから、気になっているタイム・ラグは、光秀の「信長の警備が手薄になり、自分が完全武装で移動できる今日しかない!」という絶好のチャンスに冷静さを失った突発的な犯行のなせるワザに思えてならないのです。

とにかく、絶好のチャンスに信長を倒した・・・この時点では、長男・信忠の事は、光秀の視野に入ってはいなかった・・・その後、少し、落ち着いてみると、信忠が3千の兵で、ニ条御所に籠っている・・・ならば、こちらも・・・

そこに、数時間のタイム・ラグが生まれたのでは?

このタイム・ラグこそが、本能寺の変が計画的ではなく、突発的な出来事であった証しのように思えてならないのです。

もちろん、突発的という限りは、その動機は、天下取りでも、黒幕でもなく、怨恨という事になりますが、ご存知のように、まだまだ謎はいっぱい・・・

この本能寺の変については、ホント、話がつきません。

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【その時、安土城では…】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2008年6月 1日 (日)

歴史人物辞典~「お」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「お」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★おあむ(おあん)
  ●落城寸前・大垣城「おあむ物語」戦国女性の生き様

★オイレンブルク
  ●外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃

★応神天皇
  ●古代のTPP?応神天皇の時代と渡来人

★黄梅院殿
  ●乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿

★大井子
  ●気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説

★大石内蔵助
  ●大石内蔵助の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り
  ●忠臣蔵のウソ・ホント
  ●消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門

★大内政弘
  ●応仁の乱・終結~ゴネ得?大内政弘の帰国
  ●大内政弘の留守を守った若き重臣・陶弘護

★大内義興
  ●船岡山の戦い~いよいよ戦国の幕が上がる

★大内義隆
  ●あんなに愛した仲なのに…陶晴賢房・大寧寺の変

★大内義長
  ●義長の自刃で大内氏・滅亡

★大内義弘
  ●応永の乱~大内義弘の最期

★大江景繁
  ●後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生

★大江広元
  ●大江広元を祖に持つ戦国武将…4本目の矢の法則

★大岡越前守忠相
  ●大岡・名裁きは本当?
  ●ウソかマコトか?将軍の隠し子・天一坊事件
  ●御三家を相手にした江戸町奉行・大岡越前守忠相
  ●謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説

★大賀弥四郎
  ●家康を鬼にした?大賀弥四郎の処刑

★大川常吉
  ●関東大震災のチョットいい秘話

★正親町天皇
  ●天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長
  ●信長の「上京焼き討ち」の謎
  ●天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?

★大国主命(神)
  ●大豊神社の狛鼠~オオクニヌシとねずみの関係

★大伯皇女
  ●大津皇子・謀反発覚!

★大久保一翁(忠寛)
  ●江戸城無血開城に尽力した「江戸幕府の三本柱」

★大久保忠世
  ●穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世

★大久保利通
  ●意外にアタフタ?王政復古・前々夜の岩倉の手紙
  ●王政復古の大号令
  ●鳥羽・伏見の戦い勃発!
  ●幻の首都・大阪~明治天皇のおわした守口宿
  ●立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱
  ●佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命やいかに
  ●近代日本初の対外戦争・征台の役
  ●西郷隆盛・自刃~西南戦争の終結
  ●大久保利通の見た二つの夢~悪夢と未来

★大久保長安
  ●江戸初期・最大の謎~大久保長安の懲罰事件

★大久保彦左衛門忠教
  ●天下のご意見番~大久保彦左衛門忠教が逝く

★大隈重信
  ●明治十四年の政変~大隈重信・失脚の原因は?
  ●内閣総理大臣・大隈重信~初の政党内閣・誕生

★大熊朝秀
  ●上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い

★大蔵卿局
  ●大坂の陣の交渉人~淀殿の乳母=大蔵卿局

★大河内貞綱
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★大崎義隆
  ●独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆

★大塩平八郎
  ●めざせ!救民~大塩平八郎の乱
  ●めざせ救民!大塩平八郎の乱2

★大島義昌
  ●日清戦争・成歓の戦い

★大関増業
  ●大関メッキの開発者~隠れた名君・大関増業

★太田垣輝延
  ●秀吉の但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い

★太田黒伴雄
  ●神風連の乱~ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

★大田左近宗正
  ●秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦
  ●秀吉の紀州征伐と根来寺の数奇な運命

★太田資正
  ●道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・資正

★太田道灌
  ●公方から関東を守れ!太田道灌・江戸城を築城
  ●足軽戦法炸裂~大田道灌の江古田・沼袋の戦い
  ●豊島泰経と照姫…石神井城の伝説
  ●太田道灌とライバル・長尾景春~用土原の戦い
  ●その度量の大きさを物語る~大田道灌の書状

★大谷吉継
  ●関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成
  ●関ヶ原へ向けて…北陸と会津・越後が動く
  ●関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束

★大多和義勝
  ●起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い

★大槻玄沢
  ●江戸時代に西洋式の正月を祝った大槻玄沢

★大槻伝蔵(朝元)
  ●加賀騒動~大槻伝蔵の無念

★大津皇子
  ●大津皇子・謀反発覚!

★大友宗麟(義鎮)
  ●棚ぼた?計略?宗麟の「大友二階崩れ」
  ●鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い
  ●毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城・攻防
  ●毛利元就・九州制覇へ~立花城・攻防戦
  ●理想のキリシタン国家・ムシカに到着
  ●耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…
  ●耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲
  ●激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏
  ●主君に届け!この思い~大友宗麟の軍師・角隈石宗
  ●耳川の戦いのその後…大友氏の落日
  ●大友宗麟~豊臣秀吉への救援要請in大坂城
  ●島津から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼
  ●ハンディを克服して大友氏を支えた立花道雪

★大友親貞
  ●鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い

★大友皇子(弘文天皇)
  ●壬申の乱・勃発
  ●いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍
  ●壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!
  ●壬申の乱~大海人皇子・進発…その時朝廷軍は
  ●伊賀で当麻で箸墓で…壬申の乱・大和の戦い
  ●壬申の乱~大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い
  ●壬申の乱・瀬田合戦
  ●大海人皇子と大友皇子…どっちが正統?

★大伴旅人
  ●征隼人持節大将軍・大伴旅人と隼人族の悲しみ

★大伴吹負
  ●壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!
  ●壬申の乱での装備や武器は?

★大伴家持
  ●万葉の貴公子・大伴家持
  ●夏バテに鰻は万葉の昔から・…土用の丑に因んで

★大友義鑑
  ●棚ぼた?計略?宗麟の「大友二階崩れ」

★大友義統
  ●耳川の戦いのその後…大友氏の落日
  ●黒田VS大友~石垣原前哨戦・杵築城攻撃
  ●豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦
  ●関ヶ原で天下を狙う第3の男・石垣原の合戦

★大鳥圭介
  ●会津戦争も佳境に…母成峠の戦い
  ●函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い
  ●いよいよ日清戦争へ…

★大野九郎兵衛知房
  ●忠臣蔵で不忠の悪役~大野九郎兵衛の汚名を…

★大野治胤
  ●灰になっても…大野治胤の壮絶最期

★大野(修理)治長
  ●豊臣秀頼・出生のヒミツ
  ●大坂冬の陣・直前~その時、大坂城内は?
  ●冬の陣~家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係
  ●かりそめの講和が破れ大坂夏の陣へ…

★太安万侶
  ●太安万侶が古事記を作る

★大庭景親
  ●頼朝敗走・石橋山の合戦

★大庭恭平
  ●幕末・足利三代木像梟首事件

★大姫
  ●頼朝の愛娘・大姫のお話
  ●頼朝の愛娘・大姫の死にまつわる疑惑

★大村純忠
  ●長崎を開港した日本初のキリシタン大名・大村純忠

★大村益次郎
  ●晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った第2次長州征伐
  ●上野戦争へのカウントダウン~大村益次郎・着陣
  ●幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争
  ●日本初の靴製造工場~靴の記念日にちなんで・・・
  ●大村益次郎・暗殺犯と海江田信義
  ●彗星のごとき軍略家・大村益次郎の暗殺

★大物主神(日本書紀では大国主神と同一)
  ●運命の赤い糸の伝説・・・その由来は?

★大森藤頼
  ●騙して奪った小田原城~北条早雲・小田原奇襲作戦

★大山巌
  ●戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[前編]
  ●戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[後編]
  ●終結へ向かう日清戦争~威海衛・攻略

★大山(山川)捨松
  ●戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[前編]
  ●戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[後編]

★岡倉天心
  ●日本美術の救世主=フェノロサと岡倉天心
  ●政治から美術へ~天心を転身させた奥さんのご乱心

★岡左内
  ●松川合戦で活躍する岡左内~そのケチ的ポリシー

★小笠原長行
  ●大詰め~第2次長州征伐・小倉口ゲリラ作戦
  ●夢を夢見た非凡な貴公子・小笠原長行

★小笠原信興
  ●信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

★岡田以蔵
  ●半平太さま命!人斬りに徹した岡田以蔵

★岡田啓介
  ●二・二六事件の残したものは・・・

★緒方洪庵
  ●緒方洪庵と適塾

★岡部則綱
  ●豊臣滅亡を決定づけた?大坂夏の陣・樫井の戦い

★岡部正綱
  ●武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)
  ●武田信玄・蒲原城を奪取!

★岡部元信
  ●武田滅亡へのカウンドタウン~第3次高天神城の戦い

★岡辺六野太忠純
  ●一の谷の合戦~忠度の最期

★岡本大八
  ●岡本大八事件と徳川のキリシタン禁止令

★於可留(お軽)
  ●忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平

★お菊(菊)
  ●大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語

★お菊(菊)
  ●彦根城に菊は咲かない?築城時の人柱の伝説

★沖田総司
  ●新撰組・絶好調!池田屋事件
  ●新撰組・山南敬助の心の内は・・・
  ●新撰組・沖田総司の最期

★荻野吟子
  ●日本初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子

★荻生徂徠
  ●海内一流の人物~荻生徂徠の死

★奥平内蔵允
★奥平源八
★奥平隼人
  ●忠臣蔵のモデル?浄瑠璃坂の仇討

★奥平謙輔
  ●天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱・勃発

★奥平貞昌(信昌)
  ●信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取
  ●いよいよ始まる長篠城・攻防戦
  ●設楽原で準備万端…どうする?勝頼at長篠の合戦
  ●長篠の戦い・もう一人の伝令~信長勝利の鍵

★オクタビアヌス
  ●7月と8月、大の月が続くのはナゼ?

★奥宮健之
  ●鉄道馬車と『車会党』

★奥村永福
  ●末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携プレーで・・・

★奥村元広
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦

★小栗忠順
  ●でるか?徳川埋蔵金
  ●悲劇の名奉行・小栗忠順の汚名を晴らしたい!

★小栗正矩
  ●徳川綱吉の恨みつらみ?~越後騒動の結末

★小督(江・於江与・崇源院)
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待
  ●江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念
  ●「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密に思う
  ●「江~姫たちの戦国」第6回・光秀の天下を見て
  ●大河ドラマ「江」第20回・茶々の恋でひと言
  ●大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期
  ●大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」最終回:希望

★刑部姫(長壁)
  ●真夏の夜の怪談話4…姫路城の刑部姫

★尾崎紅葉
  ●金色夜叉の尾崎紅葉、没

★尾崎局
  ●毛利隆元と尾崎局

★おたあジュリア
  ●悲劇の人・おたあジュリア

★小田氏治
  ●最弱は不屈の不死鳥~小田氏治の負けっぷり

★織田勝長(信房)
  ●信長の書状と安土帰陣と息子・勝長の事

★織田長益(有楽斎)
  ●本能寺・逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道

★織田信雄
  ●信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱
  ●安土城・炎上
  ●信孝・自刃~報いを待つのは秀吉か?信雄か?
  ●小牧長久手の戦いへ…織田信雄の重臣殺害事件
  ●小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い
  ●犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い
  ●小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦
  ●天下は何処・長久手の戦い
  ●秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱>>
  ●小牧長久手・決着…信雄の単独講和に退く家康
  ●織田家生き残りの織田信雄~人間・普通が一番?

★織田信堅
  ●信長の前に散る尾張上四郡守護代・織田信賢
  ●ミジメな上洛を力に変えて~信長・尾張統一

★織田信包
  ●病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死

★織田信清
  ●犬山衆・謀反~織田信秀と信長と信清と…

★織田(神戸)信孝
  ●信孝・自刃~報いを待つのは秀吉か?信雄か?

★織田信忠
  ●織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始
  ●織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件
  ●信長も認めた優秀な後継者~暗愚ではない信忠
  ●本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は?

★織田信次
  ●信長の弟・秀孝射殺事件~その処置に問題あり?

★織田信友
  ●織田信長、清州城を乗っ取る!

★織田信与(信興)
  ●長島一向一揆の小木江城攻め~織田信与の自刃

★織田信長
  ●織田信長の年表へ

★織田信秀
  ●松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い
  ●織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い
  ●信長&濃姫の結婚へと向かわせた加納口の戦い
  ●犬山衆・謀反~織田信秀と信長と信清と…
  ●信長の父ちゃん~織田信秀

★織田信光
  ●織田信長、清州城を乗っ取る!
  ●信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害

★織田信行
  ●信長の弟・秀孝射殺事件~その処置に問題あり?
  ●織田信長の大声で信行に勝利?稲生の戦い
  ●織田信長が信行を暗殺

★織田秀孝
  ●信長の弟・秀孝射殺事件~その処置に問題あり?

★織田秀信(三法師)
  ●信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い

★小田野直武
  ●「秋田蘭画」を誕生させた佐竹義敦と小田野直武

★小田原御前(桂林院・北条夫人・武田勝頼夫人)
  ●内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院

★越智家栄
  ●畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い

★越智家増
  ●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

★おつやの方(岩村殿)
  ●岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断

★お祢(おね・ねね・高台院)
  ●秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
  ●秀吉の妻・ねねさんのご命日なので・・・
  ●秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割

★乙姫(三幡)
  ●頼朝の愛娘・大姫の死にまつわる疑惑

★乙若(源義円)
  ●平家の圧勝~墨俣川の戦い

★阿南姫(二階堂盛義の妻)
  ●伊達政宗を相手に…二階堂盛義の妻・大乗院阿南姫

★小野妹子
  ●国書を失くした小野妹子が出世する不思議

★小野木重次(重勝・公郷)
  ●関ヶ原余波~細川VS小野木重次の福知山城攻防戦

★小野玄入
  ●世界最古の入れ歯は日本製?
  ●柳生宗冬の総入れ歯

★小野小町
  ●美人と言えば…伝説に彩られた小野小町
  ●美人の代表…小野小町、伝説の後半生

★小野次郎右衛門忠明
  ●戦国のトラブルメーカー~小野次郎右衛門忠明

★小野篁
  ●魔界の使者・小野篁

★小野政直
  ●『おんな城主 直虎』~井伊家家老・小野政直

★小野道風
  ●空海に物申す~けっこう過激な三蹟・小野道風

★小幡景憲
  ●実績はなくとも…甲州流軍学を大成させた小幡景憲

★巨海道綱
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★小山田高家
  ●新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「え」から始まる歴史人物~

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★栄西
  ●栄西のお土産・日本茶の日
  ●栄西のお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
  ●茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種

★絵島
  ●大奥スキャンダル絵島の真相

★江藤新平
  ●立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱
  ●佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命やいかに
  ●天知る地知る佐賀んもんは知る~江藤新平・英雄伝

★恵美押勝(藤原仲麻呂)
  ●歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱
  ●盛者必衰~藤原仲麻呂の乱
  ●没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇

★榎本武揚
  ●鳥羽伏見の戦いの大坂湾で~初の様式海戦
  ●榎本武揚率いる旧幕府艦隊…品川沖を脱出
  ●幕府最後の進撃~榎本武揚・函館を奪取
  ●蝦夷共和国の誕生
  ●榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦
  ●函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い
  ●函館戦争・総攻撃開始~土方歳三・最期の日
  ●五稜郭開城!蝦夷共和国 最後の日
  ●榎本武揚,五稜郭の後は・・・

★恵比須(戎・蛭子・恵比寿)
  ●神様が出張する神無月~留守番役の神様は?

★江馬輝盛
  ●織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻

★江与(お江・小督・崇源院)
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待
  ●江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念
  ●「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密に思う
  ●「江~姫たちの戦国」第6回・光秀の天下を見て
  ●大河ドラマ「江」第20回・茶々の恋でひと言
  ●大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期
  ●大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」最終回:希望

★江里口信常
  ●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

★円空
  ●多くの仏像を残した修業僧・円空

★エンゲルベルト・ケンペル
  ●将軍・徳川綱吉に謁見したドイツ人・ケンペル

★円城寺信胤
  ●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

★遠藤賢盛
  ●名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

★遠藤喜右衛門直経
  ●「信長を殺ったる!」喜右衛門・命がけの奇策in姉川

★遠藤基信
  ●フォローの側近・遠藤基信…殉死

★遠藤慶隆
  ●稲葉貞通VS遠藤慶隆の関ヶ原~郡上八幡城の戦い

★役行者(役小角)
  ●空飛ぶヒーロー・役行者の流罪のウラに利権問題?

★閻魔大王
  ●半年に一度・地獄の釜開き~閻魔大王のお話

★塩冶高貞
  ●高師直に横恋慕された塩冶高貞の悲劇

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

「応援してやろう」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「う」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「う」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★ウイリアム・アダムス(三浦按針)
  ●三浦按針・漂着す~そしてヨーステンの名は・・・
  ●三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後

★ウィリアム・スミス・クラーク
  ●生涯の誇り~クラーク博士のambitious

★上杉顕定
  ●長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い

★上杉(山内)朝定
  ●戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅

★上杉景勝
  ●謙信の死後・御館の乱
  ●景虎VS景勝~御館・落城
  ●富山・魚津の攻防戦
  ●上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事
  ●上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家
  ●金のなる木は俺のモノ!景勝と兼続の佐渡攻略
  ●秀吉の置きみやげ~上杉景勝の会津転封
  ●関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否
  ●本物か?ニセ物か?直江兼続の「直江状」
  ●関ヶ原に向けて~直江兼続・越後一揆を扇動
  ●伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
  ●関ヶ原~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携
  ●長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!
  ●領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機
  ●関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城
  ●激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
  ●大河ドラマ「天地人」に、どうしてもツッコミたい!
  ●「天地人」での、世にも不思議な真田一家

★上杉景虎(北条氏秀)
  ●謙信の死後・御館の乱
  ●景虎VS景勝~御館・落城
  ●大河ドラマ「天地人」に、どうしてもツッコミたい!

★上杉謙信(長尾景虎)
  ●上杉謙信・女説
  ●川中島・前哨戦~更科八幡の戦い
  ●謙信VS信玄・第一次川中島の合戦~布施の戦い
  ●第二次川中島の合戦~犀川の戦い
  ●上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い
  ●第三次川中島の合戦~上野原の戦い
  ●上杉謙信・2度の上洛の意味は?
  ●名誉か?重荷か?謙信にとっての関東管領職
  ●上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い
  ●『甲陽軍鑑』の真と偽
  ●上杉謙信と春日山城…の怪現象
  ●鞭声粛々・第四次川中島の合戦~八幡原の戦い
  ●川中島の合戦は無かった?
  ●神頼み?悪口?上杉謙信の「武田晴信悪行の事」
  ●宇佐美定満~長尾政景とともに池の中
  ●第五次・川中島の戦い~塩崎の対陣
  ●上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦
  ●本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃
  ●「僕を京都に連れてって!」~足利義昭の上洛希望
  ●上杉謙信から武田信玄へ~「敵に塩を送る」
  ●上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦
  ●信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻
  ●織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻
  ●北陸争奪戦~謙信と信長と顕如と…
  ●七尾城・攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」
  ●謙信VS信長~1度きりの手取川の戦い
  ●謙信・暗殺説~容疑者・信長&兼続の本心

★上杉定実
  ●長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い
  ●永正の乱~越後・上杉定実VS長尾為景

★上杉(扇谷)定正
  ●長尾景春の乱~用土原の戦い

★上杉憲実
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃

★上杉憲直
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃

★上杉(扇谷)憲政
  ●戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅

★上杉房能
  ●長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩

★上杉鷹山
  ●理想のリーダー・上杉鷹山

★上野高徳
  ●女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い

★上野彦馬
  ●日本初の写真家・上野彦馬の伝えたかった事

★浮田幸吉
  ●ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す

★宇喜多直家
  ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
  ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
  ●謀略の達人・宇喜多直家~本当はイイ人?

★宇喜多秀家
  ●宇喜多&毛利の境目合戦~矢筈城と草刈重継
  ●意外に快適?八丈島での宇喜多秀家
  ●「男なら関白」秀吉最愛の秘蔵っ子・豪姫

★宇喜多能家
  ●赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦

★宇佐美駿河守定満
  ●宇佐美定満~長尾政景とともに池の中

★宇佐美房忠
  ●永正の乱~越後・上杉定実VS長尾為景

★氏家卜全
  ●美濃三人衆の内応~いざ!信長・稲葉山城へ

★臼井六郎
  ●日本最後の仇討ち

★宇田川玄随
★宇田川玄真
  ●宇田川玄随と津山洋学

★宇多天皇
  ●菅原道真は学者じゃない?その策謀的政治手腕
  ●白紙に戻そう遣唐使
  ●御室桜のごとき返り咲き~宇多天皇の「寛平の治」
  ●京都仁和寺の御室桜が満開!

★内ヶ島氏理
  ●織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻
  ●金森長近の飛騨攻略作戦

★宇都宮国綱
  ●パワハラで改易?不運続きの宇都宮国綱

★宇野祐清
★宇野政頼
  ●秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】

★海幸彦(火照命)
  ●針供養の起源と針のお話

★梅北国兼
  ●歴史のifを思う…謎多き梅北の乱

★梅田雲浜
  ●勤皇の志士のカリスマ~梅田雲浜・獄中死

★梅津某
  ●朝倉氏に仕えた盲目の剣豪・冨田勢源

★温羅
  ●昔話・桃太郎と製鉄の関係

★浦上則宗
  ●戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討
  ●赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い

★浦上村宗
  ●赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦

★浦島太郎
  ●【浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱】

★瓜生外吉
  ●日露戦争~旅順港と仁川沖・同時海戦

★瓜生保
★瓜生重
★瓜生照
★瓜生義鑑
  ●南北朝・杣山城の瓜生兄弟と強き母

★運慶
  ●鎌倉版「プロジェクトX」…東大寺復興と運慶

★雲景
  ●魔界へ訪問…太平記の「雲景未来記」

★雲光院(阿茶局)
  ●家康の信頼を一身に受けた側室・阿茶局

★海野棟綱
  ●謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「い」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』い」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★飯尾宗祗
  ●「もう1度、富士山を…」放浪詩人・飯尾宗祗の旅

★飯尾賢連
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★飯篠長威斎家直
  ●日本武術の祖・飯篠長威斎の伝説

★井伊直弼
  ●安政の大獄・直弼の本心
  ●橋本左内と安政の大獄
  ●桜田門外の変~井伊直弼の覚悟
  ●井伊直弼の女スパイ・村山たか

★井伊直継
  ●彦根城に菊は咲かない?築城時の人柱の伝説

★井伊直虎
  ●戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎
  ●『おんな城主 直虎』~井伊家の家老・小野政直

★井伊直政
  ●徳川と北条の和睦で井伊の赤備え誕生
  ●徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え
  ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆
  ●近江佐和山城~石田三成から井伊直政へ

★伊木忠次
  ●池田恒興・輝政…父子2代の補佐役・伊木忠次

★生島新五郎
  ●大奥スキャンダル絵島の真相

★活玉依毘売
  ●運命の赤い糸の伝説・・・その由来は?

★幾松(木戸松子)
  ●逃げの小五郎を捕まえた…幾松・生涯の恋

★池大雅
  ●江戸時代のオモシロ夫婦・池大雅とその妻

★池田勝正
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

★池田亀太郎
  ●出歯亀事件・発生

★池田綱政
  ●女好き?名君?後楽園を造った池田綱政

★池田恒興
  ●荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い
  ●犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い
  ●天下は何処・長久手の戦い
  ●池田恒興・輝政…父子2代の補佐役・伊木忠次
  番外:稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

★池田輝政
  ●長束正家、自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い
  ●池田恒興・輝政…父子2代の補佐役・伊木忠次
  ●真夏の夜の怪談話4…姫路城の刑部姫
  ●「西国の将軍」と称された池田輝政

★池田長発
  ●第二次・幕末遣欧使節団の珍道中~スフィンクスと侍
  ●幕末遣欧使節・池田団長が日本人で初めてした事は

★池田長吉
  ●長束正家、自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い

★池田信正
  ●管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い

★池禅尼(藤原宗子)
  ●少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ・・・

★生駒高俊
  ●生駒騒動を引き起こした生駒高俊の美少年好き
  ●生駒騒動を引き起こした?山口彦十郎の亡霊

★生駒の方(吉乃)
  ●織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

★イサーク・チチング
  ●学者大名~福知山藩主・朽木昌綱

★伊沢修二
  ●近代日本の教育者…伊沢修二

★石川家成
  ●「家康様一筋に…」無二の忠臣・石川家成

★石川数正
  ●家康はなぜ、信康を殺さねばならなかったのか?
  ●石川数正・出奔の謎

★石川五右衛門
  ●浜の真砂の五右衛門が歌に残せし処刑の日

★石川久式
  ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃

★石黒光義
  ●越中一向一揆~蓮乗VS石黒光義

★石田三成
  ●石田三成の館林城・攻防戦と「狐の尾曳伝説」
  ●小田原攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城
  ●忍城攻防戦…留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫
  ●加藤清正らが石田三成を襲撃
  ●関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成
  ●関ヶ原合戦~最初の戦い…高取城の攻防
  ●伏見城攻防戦と養源院の血天井
  ●関ヶ原に向けて~徳川家康が江戸城を出陣
  ●三成・大垣城に…関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2
  ●関ヶ原に向けて~直江兼続・越後一揆を扇動
  ●関ヶ原~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携
  ●関ヶ原前哨戦・杭瀬川の戦い~三成の決断
  ●関ヶ原の合戦・前夜祭!小早川秀秋の長い夜
  ●天下分け目の関ヶ原
  ●討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近
  ●石田三成・逮捕!
  ●石田三成・斬首!
  ●近江佐和山城~石田三成から井伊直政へ
  ●石田三成はそんなに嫌われていたのかしら?
  ●ツンデレ満載「天地人」~忘れちゃいけない新発田城
  ●番外編:映画「のぼうの城」の感想

★石成友通(三好三人衆)
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆
  ●織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造
  ●信長VS三好の野田福島の戦い~本願寺参戦
  ●信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い

★以心(金地院)崇伝
  ●逆らう者は容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝

★伊勢貞親
  ●室町幕府の佞臣・伊勢貞親が残した物は…

★伊勢大輔
  ●いにしえの奈良の都の八重桜~平成の世に咲き誇る

★伊地知正治
  ●会津戦争も佳境に…母成峠の戦い

★和泉式部
  ●和泉式部・恋のテクニック

★出雲阿国
  ●女歌舞伎の禁止令
  ●秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床

★伊勢三郎義盛
  ●屋島の合戦~佐藤嗣信の最期

★磯淳
  ●福岡で怒った士族の反乱~秋月の乱

★板垣退助
  ●甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤勇の失敗
  ●会津戦争も佳境に…母成峠の戦い
  ●いよいよ大詰め…会津若松城への総攻撃開始
  ●会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道
  ●明治十四年の政変~大隈重信・失脚の原因は?
  ●日本初の政党・自由党誕生
  ●板垣死すとも自由は死せず・カッコよすぎの板垣退助

★板垣信方
  ●信玄・痛手~上田原の合戦

★板倉勝明
  ●安中藩主・板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン

★板倉勝該
  ●肥後細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷事件

★板倉重昌
  ●島原の乱~原城総攻撃に散る板倉重昌

★板部岡江雪斎
  ●北条→豊臣→徳川…世渡り上手な外交軍師・江雪斎

★市(お市の方)
  ●信長・危機一髪~金ヶ崎の退き口
  ●勝家&お市・最後の宴~北ノ庄城・炎上前夜
  ●柴田勝家とお市の方の最期
  ●江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念

★市川三佐衛門
  ●天狗党最後の戦い~水戸藩騒乱・松山戦争

★市川団十郎(8代め)
  ●江戸の人気役者・8代め市川団十郎が大坂で自殺

★一条天皇
  ●一条天皇、悲しみの譲位

★一条兼定
★一条内政
  ●長宗我部元親・土佐統一!四万十川の戦い

★一条教房
  ●応仁の乱の影響…地方に伝わる京文化

★市橋長勝
  ●関ヶ原~福束城攻防戦

★市村鉄之助
  ●土方歳三の最後の命令を預かった市村鉄之助

★一色直兼
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃

★一色教親
★一色義貫
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

★一寸法師
  ●本当はオトナの一寸法師

★一休宗純
  ●一休さんのとんちは本当?

★一栢老人(谷野一栢)
  ●朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢

★一遍
  ●一代聖教みなつきて~一遍上人の最後の言葉

★伊東甲子太郎
  ●新撰組・最後の粛清~血煙!油小路の変

★伊東祐慶
  ●関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…

★伊藤博文
  ●一世一代…伊藤博文の日の丸演説
  ●明治十四年の政変~大隈重信・失脚の原因は?
  ●内閣総理大臣・伊藤博文くんを評価したい
  ●「大日本帝国憲法」誕生のお話
  ●今日はシルバーラブの日
  ●内閣総理大臣・大隈重信~初の政党内閣・誕生
  ●近代日本の日清戦争への足音
  ●伊藤博文・暗殺~真犯人は別にいる?

★伊東マンショ
  ●天正遣欧少年使節の帰国

★伊東義祐
  ●雅を夢みた日向の王者~伊東義祐

★井戸氏
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い

★井戸良弘
  ●松永久秀の奈良攻略~第2次井戸城の戦い

★井戸正朋
  ●甘藷先生と芋代官

★稲津重政
  ●関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…

★稲葉一鉄
  ●美濃三人衆の内応~いざ!信長・稲葉山城へ
  ●稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦
  ●頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄

★稲葉貞通
  ●稲葉貞通VS遠藤慶隆の関ヶ原~郡上八幡城の戦い

★稲葉紀通
  ●寒ブリが食べたいばっかりにお家断絶・取り潰し

★稲葉正休
  ●死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件

★犬養毅
  ●ついに禁止令!明治の決闘ブーム
  ●「話せばわかる」から「問答無用」へ~五・一五事件

★犬上御田鍬
  ●世界情勢とともに変化した遣唐使の役目

★稲姫(小松姫)
  ●あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功

★井上馨(志道聞多)
  ●攘夷の先駆け~英国公使館焼き打ち事件
  ●九死に一生…井上聞多の「母の力」
  ●鹿鳴館・バカ騒ぎの真の狙い
  
幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多こと井上馨

★井上毅
  ●今こそ教育勅語を・・・明治の教育改革

★井上正就
  ●豊島明重の武士の一分…江戸城刃傷事件

★井上正甫
  ●私はコレで飛ばされた~浜松藩主・井上正甫の失態

★伊能忠敬
  ●50の手習い、伊能忠敬の日本地図

★伊庭八郎
  ●遊撃隊奮戦!ここが最後の箱根戦争
  ●銃弾に倒れた隻腕の剣士…遊撃隊・伊庭八郎

★茨木童子
  ●鬼の目にも涙??茨木童子のお話

★井原西鶴
  ●一昼夜に2万余句~井原西鶴「吟じます!」

★庵原安房守
  ●武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)

★今井四郎兼平
  ●義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦
  ●木曽(源義仲)の最期

★今川氏真
  ●駿河に進攻~薩埵峠の戦い
  ●今川館の攻防戦~武田信玄・駿河を攻略
  ●武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)
  ●武田信玄・蒲原城を奪取!
  ●今川氏滅亡~掛川城・攻防戦
  ●敵も時代も恨まず…今川氏真の後半生

★今川氏親
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★今川寿桂尼
  ●女戦国大名・寿桂尼…「死んでも今川を守ります!」

★今川義元
  ●今川義元登場!花倉の乱
  ●今川を支えた黒衣の宰相・太原雪斎
  ●道三を驚かせた?若き信長の村木城(砦)の戦い
  ●徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い
  ●まもなく桶狭間~義元・出陣の理由は?
  ●一か八かの桶狭間の戦い
  ●二つの桶狭間古戦場
  ●桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠

★今福友清
  ●長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い

★今参局
  ●室町幕府・崩壊の張本人~足利義政

★今村百太郎
  ●福岡で怒った士族の反乱~秋月の乱

★岩(お岩さん)
  ●もう一つの忠臣蔵・四谷怪談

★岩倉具視
  ●幕府・朝廷~ともに歴史が動いた「討幕の密勅」
  ●孝明天皇・暗殺説
  ●意外にアタフタ?王政復古・前々夜の岩倉の手紙
  ●王政復古の大号令
  ●鳥羽・伏見の戦い勃発!
  ●岩倉具視・危機一髪~赤坂喰違の変
  ●維新から44年…ようやく実現した対等の日本
  ●貧乏公家から政界の中心へ~岩倉具視の功績

★岩佐又兵衛
  ●黒田一成と岩佐又兵衛と大坂夏の陣図屏風

★岩崎弥太郎
  ●後藤象二郎様々?岩崎弥太郎の成功劇
  ●大河ドラマ・龍馬伝では幼馴染の弥太郎ですが
  ●幕末維新を駆けた実業家…「東洋男子」岩崎弥太郎

★石成友通(三好三人衆)
  ●スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆
  ●信長VS三好の野田福島の戦い~本願寺参戦

★岩村高俊
  ●立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱
  ●佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命やいかに

★岩村殿(おつやの方)
  ●岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断

★岩見重太郎(薄田隼人かもね
  ●岩見重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち
  ●岩見重太郎のヒヒ退治と一夜官女のものがたり
  ●奮戦!薄田隼人~道明寺・誉田の戦いIN夏の陣

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

歴史人物辞典~「あ」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるように作成した『歴史人物辞典』「あ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★アーネスト・サトウ
  ●幕末の日本を駆け抜けた外交官…アーネスト・サトウ

★アーネスト・フェノロサ
 ●日本美術の救世主=フェノロサと岡倉天心

★アーロン・ヘイト・パルマー
  ●黒船来航のペリーが予測した「ものづくり日本」

★青木昆陽
  ●甘藷先生と芋代官

★青山忠俊
  ●将軍・家光に苦言を呈した傅役・青山忠俊

★青山幸成
  ●将軍の教育係も大変!青山幸成と兄・忠俊

★赤井照景
  ●石田三成の館林城・攻防戦と「狐の尾曳伝説」

★赤井直正
★赤井忠家
  ●「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略

★赤沢朝経
  ●前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡合戦
  ●赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国

★明石全登(景盛)
  ●燃える大坂城から唯一の脱出成功者・明石全登

★県犬養三千代(橘三千代)
  ●浮かぶ橘~県犬養三千代の出世物語
  ●律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人・藤原不比等

★赤禰武人(赤根武人)
  ●幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念

★赤松洞松院
  ●「鬼瓦」と呼ばれた細川勝元の娘・赤松洞松院

★赤松則村(円心)
  ●鎌倉幕府・討幕!…赤松則村の三月十二日合戦
  ●鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦
  ●赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負
  ●足利尊氏・再起~多々良浜の戦い

★赤松広秀(広通・広英または斎村政広)
  ●関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略
  ●関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀

★赤松政則
  ●戦国の幕開け…山名VS赤松・戦いの構図
  ●会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦
  ●戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討
  ●赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い
  ●「鬼瓦」と呼ばれた細川勝元の娘・赤松洞松院

★赤松政範
  ●信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め

★赤松満祐
  ●将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱
  ●万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教の憂鬱

★赤松義村
  ●赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦

★安芸国虎
  ●長宗我部元親の安芸城攻略作戦

★秋元長朝
  ●大坂夏の陣で自害~淀殿の素顔と生存説

★秋山信友
  ●岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断

★悪源太(源)義平
  ●義仲が木曽にいたワケは?
  ●世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平の最期

★明智秀満
  ●安土城・炎上
  ●本能寺の後…明智秀満の湖水渡り

★明智光秀
  ●光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?
  ●将軍・足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀
  ●明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い
  ●織田信長軍による福知山攻略戦
  ●八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?
  ●「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略
  ●明智光秀と丹波・福知山の明智藪
  ●愛宕山での連歌会の句は本能寺の意思表明か?
  ●天正十年6月1日~本能寺・前夜
  ●本能寺の変~『信長公記』より
  ●本能寺~その日の安土城と留守役・蒲生賢秀
  ●本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は?
  ●明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道
  ●洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀
  ●古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!
  ●明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…
  ●天下分け目の天王山!山崎の合戦
  ●黒衣の宰相・天海=明智光秀説
  ●光秀の手紙の原本発見(2017年ニュース)

★明智光安
  ●光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?

★浅井亮政
  ●負けるたびに強くなる…浅井亮政の底力
  ●浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦

★浅井直種
  ●京極の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

★浅井長政
  ●名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動
  ●手筒山・金ヶ崎城の攻防戦
  ●信長・危機一髪~金ヶ崎の退き口
  ●いよいよ姉川…小谷に迫る信長と同盟者・家康
  ●信長の判断ミス?姉川の合戦
  ●「信長を殺ったる!」遠藤喜右衛門・命がけの奇策
  ●信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い
  ●信長&秀吉VS浅井長政~箕浦の戦い
  ●信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城
  ●小谷城・落城~浅井氏の滅亡
  ●浅井長政・最後の手紙
  ●江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念

★浅井万福丸
★浅井政堅(政賢・政信・政春・井頼・長房)
  ●嫡男・万福丸の処刑~浅井長政と息子たち

★朝倉光玖(慈視院光玖)
  ●朝倉を支えた名サポーター慈視院光玖  

★朝倉宗滴(教景)
  ●京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い
  ●朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い
  ●齢79!生涯現役~朝倉宗滴・長寿の秘訣

★朝倉孝景(7代・英林孝景)
  ●応仁の乱・激戦~相国寺の戦い
  ●足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦
  ●朝倉を支えた名サポーター慈視院光玖

★朝倉孝景(10代・宗淳孝景)
  ●織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い
  ●朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢

★朝倉元景(景総)
  ●朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い

★朝倉義景
  ●愚将か?名君か?朝倉義景の汚名を晴らしたい
  ●朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦
  ●手筒山・金ヶ崎城の攻防戦
  ●いよいよ姉川…小谷に迫る信長と同盟者・家康
  ●信長の判断ミス?姉川の合戦
  ●信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い
  ●信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城
  ●朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方へ・・・

★浅野四郎左衛門
  ●黒田如水の福岡城…扇坂門の怨霊話

★浅野内匠頭長矩
  ●刃傷・松の廊下~事件を目撃した松はどんな松?
  ●大石内蔵助の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り
  ●忠臣蔵のウソ・ホント

★浅野長晟
  ●熊野・北山一揆in大坂の陣
  ●大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆

★浅野長政
  ●パワハラで改易?不運続きの宇都宮国綱
  ●豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原

★朝比奈義秀
  ●鬼神の如き朝比奈義秀の話
  ●幕府を揺るがす和田合戦

★朝比奈泰能
  ●若き義元を支えた今川の名参謀・朝比奈泰能

★朝日文左衛門重章
  ●公費でキャミ…ではないが朝日文左衛門の出張日記
  ●尾張藩主・徳川吉通の生母・本寿院のご乱行

★旭(朝日)姫
  ●兄が天下人になった為に…秀吉の妹・旭姫の悲しみ

★足利成氏(初代・古河公方)
  ●長尾景春の乱~用土原の戦い
  ●関東支配をめぐり…古河公方・足利成氏の波乱万丈

★足利尊氏(初代将軍)
  ●【足利尊氏と南北朝の年表】へ

★足利忠綱
  ●源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦

★足利直冬
  ●南朝挽回?足利直冬と山名時氏・師氏の談合
  ●南北朝・東寺合戦(京軍)の終結

★足利直義
  ●北条復興を願って…中先代・時行の反乱
  ●かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期
  ●高氏改め足利尊氏が中先代の乱の後に…
  ●朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞
  ●弟のニセ綸旨で反旗?箱根竹ノ下の戦い
  ●足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦
  ●観応の擾乱~足利尊氏+高師直VS足利直義
  ●本当に極悪人?観応の擾乱に散った高師直

★足利茶々丸(第2代・堀越公方)
  ●戦国の幕開け~北条早雲・伊豆討ち入り
  ●明応の大地震…北条早雲・堀越公方に引導

★足利晴氏(第4代・古河公方)
  ●古河公方・足利晴氏と関東管領・北条氏綱の蜜月
  ●戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅

★足利持氏(第4代・鎌倉公方)
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃
  ●鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

★足利満直(篠川公方)
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

★足利義明(小弓公方)
  ●第一次・国府台合戦~小弓公方の最期

★足利義昭(義秋=15代将軍)
  ●孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!
  ●「僕を京都に連れてって!」~足利義昭の上洛希望
  ●足利義昭を奉じて~織田信長の上洛
  ●第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任
  ●織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造
  ●信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?
  ●信長、義昭に掟書を示す
  ●信長の意見書に将軍・義昭が反旗
  ●信長の「上京焼き討ち」の謎
  ●琵琶湖の水運と織田信長の大船建造
  ●槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重
  ●信長の前に散る…三好義継が切腹~若江城の戦い
  ●ネバる!足利義昭~ボロは着てても心は将軍

★足利義詮(2代将軍)
  ●後醍醐天皇のため上京します!…北畠顕家
  ●南北朝~京都争奪の八幡合戦
  ●足利VS山名~南北朝・神南合戦
  ●南北朝・東寺合戦(京軍)の終結
  ●南北朝動乱~北朝執事の細川清氏が南朝へ…
  ●神器なし指名なし~前代未聞の後光厳天皇の即位

★足利義稙(10代将軍)義材・義尹
  ●戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討
  ●京極の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い
  ●前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡合戦
  ●室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い

★足利義維
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

★足利義輝(13代将軍)
  ●足利義輝VS三好長慶~白川口(北白川)の戦い
  ●剣豪将軍・足利義輝~京都奪回作戦の日々
  ●将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い
  ●やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶
  ●剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期

★足利義教(6代将軍)
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃
  ●鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…
  ●将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱
  ●万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教の憂鬱

★足利義晴(12代将軍)
  ●室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い

★足利義尚(9代将軍)
  ●近江鈎の陣~甲賀衆の奇襲作戦
  ●母の期待とご落胤説…将軍・足利義尚の苦悩

★足利義栄(14代将軍)
  ●スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆
  ●第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任

★足利義政(8代将軍)
  ●将軍・義政の贅沢猿楽興行
  ●銀閣寺が銀箔じゃないワケは?
  ●応仁の乱の口火を切る御霊合戦
  ●応仁の乱・勃発
  ●応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家
  ●室町幕府・崩壊の張本人~足利義政

★足利義視
  ●応仁の乱のきっかけとなった足利義視
  ●応仁の乱・勃発
  ●2人の将軍に2つの幕府…足利義視トンズラ事件

★足利義満(3代将軍)
  ●将軍権力の確立に生涯をかけた足利義満
  ●足利義満VS山名氏清・満幸~明徳の乱への道
  ●明徳の乱~山名氏清の最期
  ●将軍に愛された美少年・世阿弥~謎の後半生
  ●金閣寺建立
  ●応永の乱~大内義弘の最期
  ●足利義満の「王権争奪計画」
  ●ペコペコ外交でトクトク貿易…足利義満の戦略

★鯵坂長実
  ●上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦

★芦名盛重
  ●破竹の独眼竜・摺上原の戦い

★阿蘇惟将
  ●島津を翻弄した阿蘇の軍師:甲斐宗運

★安宅冬康
  ●やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶

★安宅定俊
★安宅安定
★安宅安次
  ●安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱

★阿多長寿院盛淳
  ●島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳in関ヶ原

★阿茶局(雲光院)
  ●家康の信頼を一身に受けた側室・阿茶局

★阿閉貞征
  ●信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城
  ●小谷城・落城~浅井氏の滅亡

★篤姫(天璋院)
  ●島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛
  ●徳川家の存続をかけて~和宮の尽力
  ●江戸城無血開城・最後まで残ったのは話題のアノ人
  ●晩年の篤姫~最初で最後の温泉旅行
  ●「天璋院・篤姫展」に行ってきました~

★阿弖流為(アテルイ)
  ●坂上田村麻呂の真実

★穴穂部皇子
  ●物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺
  ●女帝・推古天皇の素顔
  ●未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は?

★穴山梅雪(信君)
  ●武田を裏切った穴山梅雪…その運命の分かれ道
  ●穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世

★姉小路公知
  ●鬼門の猿が目撃者?姉小路公知・暗殺事件

★姉小路頼綱(三木自綱)
  ●織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻
  ●金森長近の飛騨攻略作戦
  ●飛騨松倉城の人柱伝説

★阿部定吉
★阿部正豊
  ●松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い

★安倍貞任・宗任
  ●前九年の役で滅びる安倍一族のお話
  ●12年なのに「前九年の役」?

★阿部十郎
  ●二度の脱走と局長狙撃~元新撰組・阿部十郎

★安倍晴明
  ●安倍晴明さんのご命日なので・・・

★安倍仲麻呂
  ●三笠の山にい出し月かも

★阿部正弘
  ●連合を図った瓢箪鯰~阿部正弘・未だ夢の途中

★甘糟忠綱
  ●法然に見守られ~甘糟忠綱・最期の時

★天草(益田)四郎時貞
  ●一揆か?聖戦か?島原の乱
  ●島原の乱・終結
  ●天草四郎・生存説

★天照大神
  ●古事記をSFとして読めば・・・

★天稚彦(天若日子)
  ●日本の七夕伝説~天稚彦物語

★尼子勝久
  ●信長に見捨てられた上月城…奮戦空し
  ●山中鹿之介奮戦!上月城の攻防

★尼子経久
  ●中国の覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組
  ●尼子経久~下克上の果てに・・・

★尼子晴久
  ●安芸郡山城・攻防戦
  ●石見銀山争奪戦~尼子氏衰退のターニングポイント

★尼子義久
  ●息子・隆元の死を乗り越え…毛利元就・白鹿城奪取
  ●第二次・月山富田城攻防戦
  ●月山富田城・開城~山陰の雄・尼子氏の敗因は?

★天野八郎
  ●江戸を死守する最後の砦~彰義隊・結成!
  ●幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争

★甘牧勘解由
  ●大坂夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話

★荒木又右衛門
  ●荒木又右衛門は何人斬ったか?

★荒木村重
  ●有岡城の戦い~荒木村重・妻子の処刑
  ●有岡城・落城~黒田官兵衛と竹中半兵衛と息子
  ●荒木村重・謀反の真意は?
  ●荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い
  ●黒田一成と岩佐又兵衛と大坂夏の陣図屏風

★有馬新七
  ●今日は、寺田屋事件
  ●寺田屋事件に散った有馬新七と薩摩九烈士

★有間皇子
  ●悲劇の皇子・有間皇子死刑

★有馬晴信
  ●岡本大八事件と徳川のキリシタン禁止令

★有村兼清
  ●桜田門外の変~井伊直弼の覚悟

★有村武次(海江田信義)
  ●薩英戦争前々日~未遂に終った「スイカ売り決死隊」
  ●上野戦争へのカウントダウン~大村益次郎・着陣
  ●大村益次郎・暗殺犯と海江田信義

★在原業平
  ●伊勢物語に見る藤原氏への抵抗
  ●大阪の昔話~在原業平と交野の君

★淡島願人
  ●針供養の起源と針のお話

★粟屋勝久
  ●朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

★あん(おあむ・おあん)
  ●落城寸前・大垣城「おあむ物語」戦国女性の生き様

★安国寺恵瓊
  ●戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗
  ●三成と恵瓊が関ヶ原の作戦を練った茶室・作夢軒

★安藤重長
  ●気はやさしくて力持ち…高崎藩主・安藤重長

★安藤昌益
  ●封建社会を痛烈批判…思想家・安藤昌益

★安藤信正
  ●外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃
  ●幕府の未来が見えた?~安藤信正・坂下門外の変

★安藤守就
  ●美濃三人衆の内応~いざ!信長・稲葉山城へ
  ●稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

★安徳天皇
  ●壇ノ浦・先帝の身投げ
  ●安徳天皇・生存説

★安楽庵策伝
  ●戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝

★アンリーデュナン
  ●世界赤十字デー

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

・‥…━━━☆

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »