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2008年6月14日 (土)

武田信玄が父・信虎を追放したワケは?

 

天文十年(1541年)6月14日、武田信玄が父・信虎を追放しました。

・・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)を治める、ご存知、武田信玄の武田家は、清和源氏の血を受け継ぐ甲斐源氏の嫡流の血筋・・・室町幕府から守護職を任ぜられた由緒正しき家柄です。

戦国という時代になって、室町からの守護が次々と名ばかりの物になる中、この武田家が領地を守り抜き、戦国大名として生き残ったのは、信玄の父・武田信虎の力によるもの・・・(10月16日参照>>)

永正四年(1507年)、わずか14歳で、親類同士の後継者を巡っての争いに打ち勝ち、武田家の家督を継いだ信虎は、甲斐国内の国人を次々と破り、わずか一年で甲斐一国の統一に成功したというのですから、いかにデキる武将だったのかがわかります。

しかし、そんなデキる父を、息子・信玄が追放してしまうのです。

それは、天文十年(1541年)6月14日の事・・・長男の晴信(後の信玄)とともに、信濃(長野県)海野棟綱(うんのむねつな)に勝利した信虎は、意気揚々と凱旋帰国します。

ところが、まもなく甲府にさしかかろうするその場所で、信虎の部下であるはずの足軽たちが一列に並び、その行く手をさえぎります。

「何事だ?」
と、構える信虎に向かって、一歩進み出た代表者は・・・
「この先、甲斐の国にお入りになる事でできませぬ」

これを謀ったのは、実の息子・信玄・・・しかも、すでに周りの者は、すべて信玄の味方となっていました。

そして、信虎は単身、娘の嫁ぎ先である今川義元を頼って、駿河(静岡県)へと向かうのです。

この一見、非情とも見える信玄の父・追放には、いったいどんな理由があったのでしょうか?

信玄について最もくわしいであろう『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)では、信虎が長男の自分より次男の信繁を可愛がり、次男に家督を譲ろうとしている事を察知した信玄が、家督を弟に継がれる前に、父を追放したとしていますが、これだけだと、どうにも納得がいきません。

冒頭に書いたように、信虎はかなりのデキる武将・・・信虎をお屋形さまと仰ぐ家臣は大勢いたはずです。

そんな中で、まだ21歳の信玄が、次男に継がせたいという主君の意に反して、実力で家督を継ごうとする事に、家臣のすべてが味方するとは到底思えません。

まして、家督を争うはずの弟まで、味方についているわけですから・・・。

・・・で、この疑問を埋めるべく考えられた第2の説ですが・・・

信虎と信玄が同意のもとに父を追放・・・というか、わざと駿河へと送り込み、今川の内部事情を武田側に知らせる目的だったというものです。

この説の根拠は、義元が健在であった頃こそ動きが無かったものの、桶狭間織田信長に討たれた後からは、信虎が活発に今川の武将や兵士を、武田に寝返らそうと画策したと思われるからで、現にその事がバレて信虎は駿河からも追放されています。

確かに、これなら、家臣全員が息子の信玄にそのまま移動するのはわかります。
それは、父・信虎の命でもあるわけですから・・・。

しかし、それなら、今川での画策がバレて、信虎が駿河からも追放された時に、甲斐に戻って来ても良さそうなものですが・・・それが、無いんですね~。

信玄は最後まで、信虎を甲斐へ迎える事は無かったんです。

・・・で、登場する第3の説ですが・・・

これは、信虎=暴君説とでも言いましょうか・・・。

信虎が、罪の無い農民を鉄砲や矢で狙撃したとか、「胎児の成長を見たい」と言って、次々と妊婦の腹を裂いた・・・などの噂があり、信玄が父の追放を決意する頃には、すでに家臣の心は、信虎から離れていたというものです。

しかし、この手の話は、以前の【史上最悪の暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】(6月10日参照>>)で書かせていただいたように、作り話である事が多々あります。

この信虎の場合も、ご多分に漏れず、やはり、信玄を称賛するための後世の作り話であるというのが定説です。

ただし、この暴君の話がウソであったとしても、どうやら、家臣の心が信虎から離れていたという事はあったようなのです。

それは、信虎は、冒頭に書いたように、確かに、デキる武将でありましたが、それは合戦においてのお話・・・。

信虎自身も、自分の得意とするところが何であるかを理解していたと見え、甲斐を統一した後も、信濃へ、諏訪へ、相模へと合戦を挑み、勝利して勢力を拡大する事にばかり躍起になっていようです。

ところが、この時期の甲斐の国は、毎年のように飢饉に陥っていて、兵糧や軍事費の捻出が大変な状況になっていたのです。

税を徴収される領民はもちろん、家臣たちの経済状況も苦しくなる一方・・・なのに、また合戦、また合戦と、戦いに明け暮れる毎日・・・。

どうやら、信虎は、戦上手ではあっても、内政は苦手だったようなのです。

そんな領内の不満が最高潮に達した時、状況を察した信玄が、不満を鎮めるために実力での家督相続を決行・・・信玄は、父への情より、領民・家臣への責任を選んだ・・・というところでしょうか。

もちろん、これも仮説ですが、今のところ、一番つじつまが合ってるように思います。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

親が子を殺したり、兄が弟を殺したり、舅が娘の嫁ぎ先の若殿を謀殺したり…と何でも有りの戦国時代にあっても、実父を国外追放っていうのはチョット例が無いですモンね。真相は神のみぞ知ると言ったところでしょうか。去年の大河では暴君説プラス次男へ跡を継がせようとしてたコトを察知した信玄が先手を打ったみたいな描き方をしてましたね。信虎がもっと早く家督を信玄に与え、楽隠居してたら後世の歴史は一味も二味も違ったモノになってだしょうね。

投稿: マー君 | 2008年6月15日 (日) 16時48分

マー君さん、こんばんは~

>去年の大河では・・・

そうでしたね。
しかも、お腹を裂いた妊婦が勘助の奥さんというオマケつきでしたね。

あの部分は原作にもなく、大河のオリジナルだったようですが、信虎さんの暴君ぶりを強調するのにはピッタリだったのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2008年6月15日 (日) 21時27分

家督相続の失敗が、最終的な長篠の戦いに繋がったとも考えられますね。
歴史書みたいな詳しさの裏を返すと、信玄の粘りすぎ、引っ張りすぎの結果かなと。
義信との確執は仕方無かったのか!と。

投稿: おいらん淵 | 2012年10月28日 (日) 23時28分

おいらん淵さん、こんばんは~

信玄から勝頼へのバトンタッチの失敗は、信玄の遺言状にあるような気がします。
なぜに、勝頼が「風林火山」の旗を使用する事を認めなかったのか??
それがために、勝頼は、古くからの家臣たちの信頼を得られなかったのでは?
と思います。

投稿: 茶々 | 2012年10月29日 (月) 02時48分

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