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2008年6月 4日 (水)

備中高松城・落城~清水宗治・自刃

 

天正十年(1582年)6月4日、織田信長の命により、備中高松城を攻めていた羽柴(豊臣)秀吉が和睦し、高松城は落城・・・城主・清水宗治(むねはる)が自刃しました。

秀吉が高松城への力攻めの後、水攻めに至った経緯につきましては、その攻撃が開始された4月27日>>に書かせていただきましたので、本日は、高松城落城に至る最終段階のお話を中心に・・・

・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)5月21日、秀吉勢に囲まれた高松城を救うため、1万5000の兵を率いて駆けつけた吉川元春(毛利元就の次男)小早川隆景(元就の三男)が見た物は・・・もはや湖上に孤立し、近づくことすらできない高松城でした。

なすすべのない毛利の援軍は、高松城を見下ろす南西部の山に陣を敷き、戦況は、そのままこう着状態となります。

Takamatuzyoufuzinzucc_2 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そんな時です。
ご存知、本能寺の変6月2日の早朝に勃発します(6月2日参照>>)

信長を自刃に追い込んだ明智光秀は、敵対する毛利に対して・・・
「信長を討った、和睦に応じるな」
の内容の手紙を持った密使を送ります。

ところが、翌3日の深夜、その密使は秀吉の陣へと迷い込み、最重要な情報が、毛利ではなく、秀吉に伝わってしまうのです。

これが、光秀最大の不運・・・と言いたいところですが、上記の布陣図を見る限りでは、東からやって来る使者に、「秀吉軍に見つかるな」と言うのは、かなり難しい・・・。

山陽道は当然、秀吉軍が押えているでしょうし、迂回するにしても、水攻めという特異な方法で城を囲んでいる軍勢は、かなり広い範囲を視野に捕らえています。

まして、毛利の援軍がこの地にやって来るまで、高松城が水攻めにされている事を知らなかったように、光秀も、その使者も水攻めの事は知らなかった可能性大ですから・・・。

これは、光秀の不運でも、秀吉の幸運でもなく、なるべくしてなった結果かも知れませんが、秀吉にとって重要なのは、この先です。

信長の死が、いつ相手に伝わるかも知れませんから、今、現在まで行っていた持久戦を続けていくわけにはいきません。

かと言って、もはや、なすすべのない高松城相手に、いきなりの撤退では、怪しすぎます。

秀吉は、安国寺恵瓊(えけい)を通じて、「城主・宗治の死を以って、すべてが丸く納まる」という話を宗治本人に伝え、彼は、城に籠るすべての者の命と引き換えに自刃を決意するのです。

かくして天正十年(1582年)6月4日毛利軍が信長の死を知る2時間前の午後3時、宗治は兄・月清(げっせい)とともに、小舟に乗り、水辺に陣取る秀吉の見える位置までやってきます。

ところで、この宗治の兄・月清という人・・・そのお名前でわかる通り、僧なのですが、もとの名前は宗知(むねとも)と言います。

宗治の兄ですから、本来ならば、長男として家督を継ぐべきところを、弟の器量を読み、清水氏の後継者には、自分より弟のほうがふさわしい」と、自ら仏門に入り、当主の座を退いていたのですが、弟の急を知り、別の場所から駆けつけて来ていたのです。

そして・・・兄は、
「お前が死ぬなら、俺も一緒に死のう」
と、宗治に言います。

「アホか!城主の俺が死ぬ事で、皆が助かるんや。
兄貴が死んでも、どうなるもんでもないやろ!」

「いや、もし、あのまま俺が家督を継いでたら、今日死ぬのは俺のはずやった。
お前のほうが、当主にふさわしいと思て、家督を譲ったためにお前が死ぬ事になるなんて、耐えられへん!
俺が先に死ぬから、それを見て、落ち着いて腹を斬ってくれ・・・頼む!」

兄の、決意の固さを知った宗治は、納得し、ともに二人で小舟に乗って漕ぎ出してきたのです。

宗治と月清は、小舟の上で、謡曲・誓願寺を舞い謡い、辞世を残して自陣しました。

♪浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)
  名を高松の 苔に残して♪
    清水宗治・辞世

宗治の死を見届け、毛利の撤退を確認した秀吉は、この後、本拠地の姫路城へ向かって、脅威の中国大返し(6月6日参照>>)を決行する事となります。
 .

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コメント

宗治殿のといい、本能寺の変を知った後に

”備中大返し”をのほほんと許した態度

といい、毛利一門、三川?衆はいささかね?

明智殿と挟撃、ってなれば、筒井順慶の

”洞ヶ峠”も無く、山崎天王さんの帰趨や

如何に?ってか、どですかおでん。

普通そうなりませんでしょうか?

投稿: 通りすがり人 | 2008年6月 8日 (日) 08時29分

通りすがり人様、コメントありがとうございます。

確かに・・・この時の秀吉にとっての一番のラッキーは、光秀の手紙を見つけた事でも、無事に70kmを駆け抜けた事でもなく、毛利が「ちょっと様子を見よう」と思って撤退してくれた事でしょうからね。

投稿: 茶々 | 2008年6月 8日 (日) 12時02分

地元の備中高松では、黒田官兵衛の事で盛り上がっていないようですね。
ロケ地にもならないようですし。落城の負い目もあるとか。大阪城や小田原城も落城していますけど。県民性かしら。

投稿: やぶひび | 2014年5月 7日 (水) 12時37分

この「高松城攻め」が黒田長政の初陣でしたっけ?この時の戦いで羽柴軍に従軍していた武将陣はそうそうたる顔ぶれですね。
この時の武将たちが、この後の山崎の戦いにも従軍していますから。

>やぶひびさん
山陰・山陽地域にも結構有名な城がありますね。私の友人が山陰地域に住んでいますが、山陰にも名城がありますね。

投稿: えびすこ | 2014年5月 7日 (水) 17時40分

やぶひびさん、こんばんは~

大阪は、今年と来年は「大坂の陣400年プロジェクト」と題するイベントやるみたいです。

はじめは「落城400年記念」て言うたりしてましたから、やっぱり県民性てあるかも知れませんね。。。

投稿: 茶々 | 2014年5月 8日 (木) 01時55分

えびすこさん、こんばんは~

長政の初陣…幽閉されていた官兵衛と無事対面を果たした後の三木城かも…??

こないだ松江城に行って来ましたデス(*^-^)

投稿: 茶々 | 2014年5月 8日 (木) 02時00分

昨日11月27日、旦那の趣味!?に付き合わされて
備中高松城跡とその近辺を散策しました。
黒田官兵衛さえいなかったなら…
なんて勝手なことを思いました^^
資料館?でビデオを拝見しつつ
そういえば清水宗治の菩提寺って
我が町光市にあることを思い出しました^^;
いろいろな遺品もあるみたいで…
近いうちにお参りに行こうと思います。
灯台もと暗し~。

宗治の切腹がそれからの切腹の形を築いたそうです。
いやはやなんとも悲しいお話。

投稿: tonton | 2015年11月28日 (土) 16時28分

tontonさん、こんばんは~

現地視察に行って来られたのですね(*^-^)
宗治の潔い姿が、後の武士たちのお手本となりましたね。

投稿: 茶々 | 2015年11月29日 (日) 01時10分

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