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2008年6月13日 (金)

本能寺の変~豊臣秀吉・黒幕説について・・・

 

天正十年(1582年)6月13日・・・山崎の合戦!

本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀と、主君の敵討ちを掲げる羽柴(豊臣)秀吉がぶつかった、ご存知、天下分け目の天王山ですが、合戦については、昨年、書かせていただきました(昨年の6月13日参照>>)ので、本日は、『本能寺の変・秀吉黒幕説』を展開してみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・

本能寺の変(6月2日参照>>)を、『織田信長・殺人事件』とするならば、まず捜査本部が疑うのは、被害者が亡くなって一番得をした人物は誰か?・・・これは、確実に秀吉です。

だからこそ浮かび上がってくるのが秀吉黒幕説ですが、秀吉は、この時、信長の命によって中国攻めの真っ最中!

しかも、その中国攻めに信長の出馬を要請したのも秀吉です。

そもそも、秀吉が、信長に要請しなければ、信長は、そのまま安土城にいたわけですから、本能寺に来る事もなかったかも・・・という事になります。

この秀吉の信長出馬要請については、「備中高松城への水攻めは順調に進んでいたものの、毛利の大軍が支援に来るとの情報があり、そうなれば形勢が逆転する可能性もあるので・・・」というのが一般的な見方となっていますが、秀吉からのその手紙が、安土に届いたのが5月15日。

そして、高松城を救うため、吉川元春(毛利元就の次男)小早川隆景(元就の三男)1万5千の兵を率いて到着しのが5月21日・・・先日の高松城落城(6月4日参照>>)で書かせていただいたように、この時点で、駆けつけた援軍は、もはや、遠くで様子を見るしかない状況にあったわけで、そんな落城寸前の場所に出馬要請をする必要があったのでしょうか?

そこで、この出馬要請には、秀吉のゴマスリという見方もあります。

秀吉が準備万端整えた後、最後に、信長に出陣してもらってから高松城を落城させて、信長さんに花を持たせて、ご機嫌をとる・・・というものですが、この時点で、信長が平定を進めているのは中国地方だけではなく、北陸の柴田勝家をはじめ、滝川一益森長可といった面々も、それぞれの場所で交戦中なわけで、中国攻めにだけ花を持たせる必要もないはず・・・まして、毛利も健在な、この時期に・・・。

もう一つ・・・
「他方と違って、あまりに順調に進む中国攻めの自分に、信長が脅威を抱いては大変だ!ここらへんで忠誠心を見せておかねば!」
と秀吉が、思ったのでは?とも考えられますが、信長という人が、デキない部下を叱責した事はあっても、デキる部下に脅威を抱いたという話は聞いた事がありません。

どうも、この出馬要請は不可解です。

・・・・・・・・・・

そして、次に、信長の死を知ってからの対処です。

ここで、秀吉は、一刻も早く、高松城にケリをつけて、光秀を討つために、畿内へ戻る準備をするわけですが、高松城との和睦の交渉とともに行うなうのが、「信長は生きている」のウソの情報を流す事です。

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6月5日付け:中川清秀宛て羽柴秀吉書状(梅林寺蔵)

もちろん、これは、すみやかに和睦をまとめるためと、畿内にいる諸将が、光秀に味方しないようにするためなのですが、秀吉が6月5日付けで、茨木城主に中川清秀に送った書状には・・・
「上様(信長)、ならびに殿様(信忠)は無事に切り抜けられ膳所(ぜぜ・滋賀県)に逃れられました。福平左(ふくへいざ)は三度戦い、比類なき活躍をしたとの事、まことめでたい。コチラはこれから姫路に向かいます」
・・・と書いています。

この福平左とは、福富平左衛門秀勝(ふくずみへいざえもんひでかつ)の事ですが、彼は、信長の長男・信忠とともにニ条御所で討死しています。

しかし、この信長は生きているの情報は、光秀が信長の首を取り、それをすみやかに公表していれば意味のない事なのではないでしょうか。

ご存知のように、本能寺での光秀は信長の首を取るどころか、その死体も確認できていないわけで、それを探すのに、かなりの時間を費やし、結局見つけられずじまいに終っています。

秀吉は、信長の死体が見つかっていない事を知っていたのでしょうか?
それとも、この手紙は、一か八かの賭け、ハッタリのような物だったのでしょうか?

なんとも、不思議な気がします。

・・・・・・・・・・

そして、最後に、やはり中国大返し(6月6日参照>>)の成功が、最も不可解です。

6月3日の夜に「信長死す」の報を聞いて、6月6日撤退を開始し、その日の夜に到着した備前・沼城から、大返しが開始・・・となると、準備期間はわずかに6月4日と5日の2日間という事になります。

道筋には松明(たいまつ)を掲げ、食事の準備を整え、替え馬の用意も・・・

高松城から姫路城への約70kmの行程を、3万という軍勢が、わずか1日半で駆け抜けたのですから、その事前準備は相当なもの・・・それを、わずか2日間で整える事ができるものなのでしょうか?

それには、いつもは身に着けて移動する生活用品や、甲冑、具足などを外し、それらを海路で運んだという話もあります。
身が軽くなれば、それだけ早く移動できますからね。

南北朝時代から瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍・・・当時、因島(いんのしま)村上氏と、来島(くるしま)村上氏と、能島(のしま)村上氏の三家に分かれていた村上氏の中の来島村上氏を、秀吉はすでに味方につけていて、彼らがそれらの荷物を船で運んだというのです。

しかし、それならそれで、やはり船の準備を整える必要があります。

もちろん、それらの船は、すでに秀吉の高松城攻めにも何らかの役割を果たすべく出動していたでしょうが、当時の水軍には、大型で船団の中心となる安宅船、中型でスピーディな関船、海上輸送に適した小型の小早船があり、戦うために出動する編成と、輸送のために出動する編成では、おのずと船団の編成は異なるはず・・・

また、高松城の和睦交渉が成立した直後に、信長の死を知った毛利が秀吉の追撃をしなかった事も、この中国大返しの成功の一つとも言えるわけですが、これは、毛利側の失態なのか?それとも、何らかの密約があったのか?・・・

この時、兄の吉川元春が秀吉の追撃を主張したのに対し、弟の小早川隆景がそれを阻止したと言われていて、後に、秀吉が五大老に任命する5人の中に、傘下となった毛利氏から、当主の毛利輝元と、この小早川隆景の二人も選ばれているのは、この時のお礼なのでは?などとも推測されます。

・・・・・・・・・

・・・と、様々に不可解な事は、すべてを秀吉が誘発し、事前に光秀の本能寺の襲撃を知っていたとすれば、納得がい・・・という事で、秀吉黒幕説なるものが唱えられる事になるのですが、あくまで、これは仮説、確固たる証拠はありません。

また、山崎の合戦で、信長の次男・神戸信孝を総大将に据え、秀吉側が、「主君の敵討ち=正等な官軍」である事をアピールする事ができたのは、四国平定のための大軍を要したうえ、一番本能寺の近くにいながら、瞬時に光秀を討つ事ができなかった信孝のおかげであるというラッキーがあった事も確かです。

他の事は、秀吉の手で計画的に行う事ができたかも知れませんが、少なくとも、信孝の一件は、秀吉の画策の及ぶところではないでしょうから・・・。

しかも、その合戦の場となった山崎の地にある妙喜庵(みょうきあん)には、すでにその時、千利休戦勝祝いのための茶席の準備をしていたと言う話もあり(2月28日参照>>)、もし、本当に秀吉が本能寺の変の黒幕なら、すべてが秀吉のシナリオ通りに事が運んだ事こそが、一番のラッキーなのかも知れません。

・・・・・・・・・・・

。。。という事で、本日は秀吉黒幕説について書かせていただきましたが、以前から度々書かせていただいているように、戦国最大のミステリーと言われる本能寺の変には様々な仮説が存在し・・・

本能寺・前夜>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
【本能寺の変~その時、安土城では…】>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>

などなど、話題は尽きません。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

毛利が追撃しなかったのも、信孝が兵を挙げなかったのも単なるラッキーと見てはいけません。毛利は追撃しようにも、高松城を取り囲んだ堤防を切って水が引くまでは動けなかったと考えられますし、そうこうしてるウチに世論は秀吉に有利に動き始めます。即ち毛利との和睦を速やかに決めて主君の仇討ちに立ち上がった稀代の忠臣との声望です、その秀吉を追撃すれば毛利とて家名に傷が付くとの考えが働いたと思われます。そこまで考えての水攻めだったとしたら、毛利が追撃しなかったのも最初から秀吉の計算のうちだったと言えますね。また…信孝が明智討伐に立たなかったのも、偶然と見るより信孝の性格からすれば当然だったように見受けられます。良く言えば慎重で信長の指示に忠実。然し悪く言えば優柔不断で自己決断力に乏しい。そんな信孝の性格なんて秀吉は読んでたでしょうから。この点も…秀吉黒幕説を覆す証拠にはならないです。こう言うと秀吉黒幕説で確定かって言われますが、僕は秀吉と信長には利害を越えた信頼関係が有ったと信じたいので、根拠は見出だせませんが、秀吉は黒幕どころか本当に信長の仇討ちを果たした忠臣だったと思いたいです。

投稿: マー君 | 2008年6月13日 (金) 13時32分

マー君さんこんばんは~

あ・・・と、少し言葉足らずであったかも知れませんね。

今回のこのページは、「秀吉が黒幕であったら」という仮定で書いております。

ですから、すべてが秀吉の計算ずく、シナリオ通りに事が運ぶのが当然なワケです。

そんな中で、毛利の両川と神戸信孝は、前後の歴史から考えて、この時点で秀吉に協力しているとは考えられないですから、彼らの行動を、秀吉は予測し、計算しつくしていたとしても、その通りに行動してくれるかどうかという点は100%の断定は不可能なワケで、そういう意味で、秀吉の予想通り、計算通りの行動をしてくれてラッキーという意味です。

以前書かせていただいた丹羽長秀のページ>>では、信孝の兵が最終的に5千ほどになり、とても光秀を討てる状態ではなかった事をかきましたが、これも、秀吉にはある程度予想がつきます。

また、
高松城の水攻めのページ>>では、追撃を主張した吉川元春を、小早川隆景が止めたという事も書かせていただきましたが、これも書面で正式な和睦を行っている以上、予測は可能です。

これらを踏まえれば、予想し計算する事はできますが、たとえ、秀吉が黒幕であって、完璧なシナリオを作成していても、敵対関係にある毛利と、被害者の息子である信孝が、実際にその通りの行動をしてくれるかどうかというのは賭けだったと思います。

同盟を結んでいても裏切られる時代ですから・・・。

最終的に天下を握った秀吉が、五大老の中に、毛利輝元とともに小早川隆景を任命するのは、ここで、毛利が追撃をするかしないかがある種の賭けだった事の現われではないかと・・・

投稿: 茶々 | 2008年6月13日 (金) 19時44分

本当に興味は尽きませんねぇ。我々は歴史を後世に伝わってる事績や資料に基づいて推理考察するしか、真相を知る術は無いですからね。文書に書き記されたモノは読み手の解釈の仕方で幾通りもの考え方が出来ますし、足軽とか小者、或いは当時の庶民とかが噂しあってたナンテ言われる口伝などの類は、人づてに話が伝わっていく間に変化してしまって事実とは全く違った話になってしまってると思われるので、実際…本能寺の変の真相を知るのは不可能に近いでしょうね。

投稿: マー君 | 2008年6月13日 (金) 21時38分

こんにちは~。

講談社文庫の『「本能寺」の真相』(著者:姉小路祐)ってご存じですか。歴史ミステリーです。たまたま先日読んで、その後でこの記事読んだのですが、なかなかおもしろかったです。すっかりへぇ~そうだったのかと信じてしまいます。

で、これ読んで、光秀は信長と家康を間違えたんじゃないか、もしくは、自分が狙われてると察知した家康が作戦を逆手にとって信長と光秀をハメたなんて可能性もあるなぁと思ったりもしてました。

投稿: 出人 | 2008年6月18日 (水) 08時12分

出人さま、コメントありがとうございます。

『「本能寺」の真相』は、まだ読んでいませんが、さすがに戦国最大のミステリーと言われるだけあって、様々な推理に興味が尽きませんね。

>光秀は信長と家康を間違えたんじゃないか

確かに・・・この時の家康の行動が不可解と、家康に注目される方も少なくありませんね。

いずれ、書いてみたいとも思いますが、家康が不可解となると、私的には、穴山梅雪の死も気になります。

投稿: 茶々 | 2008年6月18日 (水) 17時26分

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)黒幕説については、聞いたことがあります。と言うのは、かつて、東京書籍株式会社から発売された、「言い分の日本史」という本がありました。その本を執筆した、岳真也さんという作家の話によると、「もとをただせば、織田信長が京へおもむき、本能寺に滞在したのは、秀吉からの援軍要請があったがゆえなのだ。」と言ってます。あと、「秀吉は、明智光秀と信長の関係がうまくいかなくなってきていて、光秀が信長に対する猜疑心をつのらせていることも知っていたであろう。」とも言ってます。おそらく秀吉は、光秀が、信長を倒し、謀反の罪をかぶってくれれば、願ったりかなったりではなかったのだと思います。そして、光秀は、秀吉に倒されたことで、謀反人のレッテルを貼られてしまったのは、光秀の運の悪さだったのかもしれません。

投稿: トト | 2016年6月 2日 (木) 09時36分

トトさん、こんばんは~

本能寺の変で1番得したのは秀吉ですからね~
推理小説だと、絶対、秀吉が怪しいですねww

投稿: 茶々 | 2016年6月 3日 (金) 02時30分

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