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2008年6月10日 (火)

史上最悪の暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!

 

文禄四年(1595年)6月10日、徳川家康の孫で、あの海音寺潮五郎に日本史上最悪の暴君とまで言わせた松平忠直が誕生しています

・・・・・・・・・・・

13歳で父の後を継いで藩主となり、時代の波に翻弄された悲しき運命から逃れられず、酒に酔い、女に走り、その凶暴さを見せつけた第2代・福井藩主松平忠直・・・。

ある時、いつものように酒を飲んで暴れていた忠直に、側室にしたばかりの妖艶な美女が語りかけます。

「そんなに、ムシャクシャするなら、誰かを斬ってみれば?」

「おもしろい!」
とばかりに、罪人を引きずり出して斬る忠直・・・それを見てキャッキャと喜ぶ女・・・

そうなると、徐々にエスカレートしていき、始めは死罪になる予定の罪人を斬っていたのが、だんだんと、軽い罪の者まで斬るようになり、やがて、ちょっとしたミスを犯した家臣まで斬るようになっていきます。

次第に、誰も忠直にダメ出しをする家臣はいなくなり、周囲には、ご機嫌をとる者ばかり・・・そんなご機嫌とり家臣の一人・小山田多聞は、自らすすんで他の者のミスをチクるばかりか、ウソの話をでっち上げてまで忠直に斬らせる始末・・・。

果ては、妊婦のお腹を裂き、取り出した胎児にまで刀を突き刺した・・・福井には、この時に使ったまな板石なる石も残っているのだとか・・・。

そんな中、元和八年(1622年)10月、正室の勝姫(徳川秀忠の娘)に斬りつけ、とっさに身代わりとなった女中二人を斬殺するという事件を起した事で、豊後萩原(大分県大分市)に配流となって、結局、そこで、慶安三年(1650年)9月10日56歳で病死したというのです。

家康の孫という、ゆるぎない血筋に生まれながら、彼が、こんな事になってしまう原因とも言える逃れられなかった悲しき運命とは・・・

実は、彼の父親からすでに、その悲しき運命が始まります。

忠直のお父さんは、結城秀康・・・家康の次男です。

ご存知のように、家康の長男・信康は、例の織田信長の命により切腹(9月15日参照>>)させられていますから、本来ならこの秀康が徳川家の後継者・2代将軍になっていたはずなのですが・・・ご存知のように2代将軍は三男の秀忠です。

実は、信長亡き後に起こった豊臣秀吉とのあの小牧・長久手の戦い(6月15日参照>>)・・・その幕引きのために、家康から秀吉へと差し出された人質が、この次男の秀康(幼名:於義伊)だったのです(11月21日参照>>)

秀吉の養子となり、羽柴秀康と名乗った彼でしたが、秀吉の側室・淀殿鶴松を出産し、その鶴松が豊臣家の後継者とみなされたため、下総の大名・結城晴朝の姪と結婚し、結城氏の家督を次ぎ、結城秀康となったのです。

やがて、関ヶ原の合戦に勝利して家康の時代になると、越前(福井)北ノ庄・75万石を与えられ、姓も松平を名乗る事を許されますが、そのわずか3年後、秀康は34歳の若さで亡くなってしまいます。

そして、その後を継いだのが松平忠直という事になります。

そう、もし、あの小牧・長久手の戦い後に、父・秀康が人質に出されなかったら、おそらく、父=秀康が2代将軍となり、その長男である忠直が3代将軍になっていたかも知れないのです。

それなのに、実際には、弟の家系である者たちの下に位置しなければならないというもどかしさ・・・さすがに、この事には、家康も気をつかったと見え、この越前松平家には御三家に次ぐ「御制外」という特権を与えています。

しかし、それも、忠直が家督を継いで間もなくに起こった越前松平家の家臣同士のトップ争い『久世騒動』という内紛劇で、特権は縮小されてしまいます。

それでも、頑張る忠直さん・・・次に訪れた大阪の陣では、最初こそ、20歳という若さを露呈し、おじいちゃん家康にひどく叱られてしまいますが、大坂城総攻撃では、あの真田幸村を討ち取り、大坂城への一番乗りを果たすという大坂の陣最大の功名をあげます(5月8日参照>>)

ところが、そのご褒美は「初花の茶入れ」だけ・・・確かに初花は名器ですが、これだけではちょっとお気の毒・・・。

この時、忠直は、「これでは命を賭けて戦った部下に報いられない!」とくやしがり、この茶入れを投げつけて割ったのだとか・・・事実、今も松平家に伝わる初花の茶入れにはひびが入っています。

そんなこんなの度重なる父への仕打ち、自分への仕打ちが、ウップンとなって、冒頭の酒乱・暴君というお話になっていくわけですが・・・

嫡流でありながら将軍になれず、成績を上げても褒めてもらえない・・・そんなお気の毒な現状に、、さぞかし歯がゆい思いをしたのでしょう。

暴れたくなる気持ちもわかります~。

・・・と言いたいところですが、生い立ちや大坂の陣での話はともかく、酒乱・暴君に関しては、どうも怪しいのです。

確かに、父・秀康が人質に出され将軍になれなかったのも事実、内紛でモメたのも、大阪の陣で功名をあげながら茶入れ一つだったのも事実・・・そして、最後は豊後へ配流となったのも事実のようですが、この酒乱・暴君の話が出てくるのは、『藩翰譜』『越藩史略』『続・片聾記』などといった福井藩・幕府による公式文書のみで、しかも、書かれた年代が進むにつれ、忠直さんのご乱行がひどくなっている・・・。

200年も経った幕末に書かれた『続・片聾記』になってようやく登場する「妊婦のお腹を裂く」という行為・・・この行為は、以前書かせていただいた武烈天皇の汚名を晴らしたい(12月8日参照>>)でも登場した行為で、神代の昔から、極悪非道な人物描写の王道と言えるもの・・・この手の話のほとんどが作り話では?と言われています。

ここで、注目は、忠直が配流になって、その後を継いで第3代・福井藩主になったのが、越後(新潟県)高田藩25万石からやって来た弟の松平忠昌であるという事・・・逆に、本来、福井50万石を継ぐはずの、忠直の息子・松平光長が、高田へ追いやられているのです。

つまり、後世の福井藩の公式文書は、ここで福井にやって来た弟の家系が残した文書という事になります。

だんだん、読めてきましたね~。

逆に、公式文書ではない、地元・福井県の鯖江市の言い伝えには、忠直=名君の伝説も残ります。

それまで、荒野だったその地を開発し、道や宅地を整備し、無償で土地を与えて、鯖江という町を発展させたのは忠直さんだというのです。

粗末な土地にでもよく育つ蕎麦の栽培を即したのだとか・・・そう、現在も名物の越前そばです。

配流先の豊後でも、周囲の村人に愛され、亡くなってから100年経った後も、その法要が盛大に行われたという村人の記録が残っていると言います。

しかし、さすがに、その配流の原因となった勝姫殺害未遂事件は、配流という事実がある以上本当の事なんじゃないの?・・・と思いきや、ここにも別の話が・・・

当時、長崎にいたイギリス人・コックスやオランダ人・カンプスが母国に送った手紙には、「現皇帝の長兄の子息を、新皇帝にする動きがある」と書かれているのだそうです。

もちろん、この内容については、日本にはまったく記録のない事ですし、どこまで信頼できる物がわかったものではありませんが、それを画策している大名の中には本多正純の名が上げられているのです。

例の『宇都宮釣天井事件』(3月18日参照>>)で、正純が失脚するのが元和八年(1622年)の4月・・・そして、先に書いた通り、忠直の勝姫事件が、半年後の10月。

これは、偶然の一致なのでしょうか?

確かに、たとえ、これが本当だったとしても、それはそれで、謀反という事になって、忠直さんが、配流されるのは仕方の無い事ですが、その配流の原因が、父の代から冷遇されて謀反を起すのと、酒乱の暴君のご乱行とでは、ご本人に着せられる汚名の度合いが違いますよね。

ただし、今日、お話した事は、あくまで仮説・・・歴史では、藩・幕府の公式文書が正史という事になりますからね。

でも、少しは忠直さんに対する、イメージが変わりました。
今後は、新たな公式文書の発見に期待する事にいたしましょう。
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コメント

忠直・忠輝・忠長…徳川幕府草創期に粛正された三人とも、本当に謀反を企んでたか、悪虐非道の暴君だったかは不明と言うより、秀忠・家光…嫡流相続を確定させるために、仕組まれた罠だったでしょうね。

投稿: | 2008年6月11日 (水) 22時50分

コメントありがとうございます。

公式文書というのは、やはり勝者の手による歴史ですから、幕府にとって都合の悪い事は、抹消されている可能性が高いでしょうね・・・

投稿: 茶々 | 2008年6月12日 (木) 00時01分

お久しぶりです。忠直については名誉挽回の機会が待たれるトコですが、忠輝については、1984年に忠輝の菩提寺(貞松院)の住職が、忠輝の勘当を解いて安らかに眠って頂きたいとの思いから、徳川宗家の十八代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏に、その旨を伝えたところ恒孝氏も快諾し赦免状を書き、家康が忠輝を勘当してより実に三百七十年ぶりに、勘当が許されてます。忠長や忠直の菩提寺の住職さん達も、同様な手続きを踏んで、早く両名の名誉を回復したげてほしいですね。

投稿: マー君 | 2008年6月15日 (日) 11時27分

マー君さん、コメントありがとうございます。

そうですね、早く汚名返上できるといいですね。

投稿: 茶々 | 2008年6月15日 (日) 16時32分

忠輝・忠直・忠長。
徳川家で忠の字がつく人は呪われているとしか思えません。2代将軍・秀忠を除く。
しかも「高田藩」の領主はみんな改易・断絶の憂き目に逢う。これは気味が悪いくらいの一致でしょうか?
忠長以降は徳川宗家や御三家の当主で忠の字がある人がいないと思います。分家ではわかりませんが。

投稿: えびすこ | 2009年11月19日 (木) 10時42分

えびすこさん、こんばんは~

やっぱ、徳川自身でも、呪われてるって思ったんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2009年11月19日 (木) 18時59分

仮に家光と忠長が生まれていない場合は、松平忠直が3代将軍になった可能性(後世の「綱吉⇒家宣」の継承が、叔父⇒甥の継承であるので)があると思いますが、そうなった時に秀忠はどう考えたでしょうね。来年の大河ドラマで向井君の口から出るかな?ただ保科正之は他家へ養子に出た人なので将軍の子息でも可能性が低いかなと。
もちろん、この時点で将軍実弟である御三家の当主の誰か、と言う可能性もありますが。

投稿: えびすこ | 2010年12月 8日 (水) 10時30分

えびすこさん、こんにちは~

本文にも書かせていただいた通り、忠直さんについては、徳川の正当性を主張したいがための創作が多分に含まれているように思いますので、ご指摘のような「もしも」に関しては、まずは、何が正しいのか?を検証してから…という事になるでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年12月 8日 (水) 11時14分

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