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2008年6月17日 (火)

四民平等のはずの明治政府が華族制度を?

 

明治二年(1869年)6月17日、明治政府は『版籍奉還』の命令を発布し、卿・諸侯を「華族」と称する事を布告しました。

・・・・・・・・・・

版籍奉還(はんせきほうかん)「版」各藩の領地、
はその領地に住む領民の戸籍という意味です。

江戸時代の藩という物は、今で言う独立国家のような物で、日本という国は、その独立国家の集合体のような物でした。

つまり、「その独立国家の領地と領民を天皇=新政府に返せ」というのが版籍奉還です。

ただし、この命令を出したからと言って、いきなり全部返されても、新政府がすべてを統治できるわけもありませんから、あくまで、建前・・・実際のところは、江戸時代に藩主だった大名が、明治政府から知藩事という名前の地方官に任命され、昔からの領地の支配を、以前と同じように治めているというのが現状でした。

ちなみに、余談ですが、この時の知藩事という役職名がついた時から、領地の事を藩と呼ぶようになります。

つまり、江戸時代には藩という呼び方は無く、時代劇のセリフでよく登場する「わが藩は・・・」とか「薩摩藩では・・・」なんて言い方は、現代人にわかりやすくするための架空の言い回しで、江戸時代の武士は、単に「わが領地は・・・」「薩摩の地では・・・」という言い方をしてたんですねぇ。

そして、この明治二年に初めて呼ばれた藩という名称は、二年後の明治四年(1871年)の『廃藩置県』で廃止され(7月14日参照>>)になりますので、この藩という呼び方は、日本の歴史上ではたった二年間だったという事になります。(ちょっと、びっくり!)

少し、脱線していまいました~話を戻します。

・・・で、この版籍奉還するにあたって、それまで藩主である大名を「諸侯」と呼んでいたのを、公卿(上層階級の公家)らとともに「華族」と称するように変えたのです。

当初は、公家と旧大名家、合わせて427家が華族となりました。

2年後の明治四年に制定された戸籍法では、士族(旧・武士)平民(旧・農工商)とともに、華族は正式な呼称となりました。

ところで、士族の特権を奪ってまで四民平等を訴えていたはずの明治政府が華族制度を作ったのにはワケがありました。

まず最初の時点では、「天皇と皇室を守護し、国民の模範となってもらいたい」という物でした。

とにかく、海外留学でも何でもして見聞を広め、知識を吸収し、多方面でリーダー的存在となれば、一般国民も学問の大切さを知り、国民全体の教養が高まって、文明開化が進み、日本も欧米に追いつく事ができる・・・歩み始めたばかりの明治政府は、欧米に追いつく事を第一の目標にしていましたから・・・。

しかし、例の廃藩置県によって、旧・大名だった華族には、いわゆる家禄(石高に応じて貰う給料)がストップしてしまったワケで、経済状態が一発で苦しくなり、学問どころか、日々の暮らしにさえ事欠くようになっていきます。

そこで、元公家の岩倉具視らが中心となって、国立第十五銀行を造ったり、日本鉄道株式会社を設立して、その収益を華族の支援にあてたりなんかして、旧大名の華族を援助・・・華族会館も創設して、華族同士の団結を強めるよう努力しました。

この華族会館が、華族の子息たちの教育機関として設置したのが学習院です。

そんなこんなしているうちに、明治政府が華族制度を強固な物にしなければならない時がやってきます。

あの板垣退助を中心とする自由民権運動の高まりです(10月18日参照>>)

最初は、不平不満を持った士族たちから始まった反政府運動でしたが、それが、豪農や一般農民に広がりを見せ、民間人の政治参加を主張する一大運動となってブームを巻き起こしていました。

彼らは、「一刻も早く国会を開いて、我々を政治に参加させろ」と主張します。
しかし、政府も現体制を壊したくはありません。

やがて、国会の開催に関しては、政府内でも「すぐに開催すべき」の声が出るようになり、しかたなく、明治十四年(1881年)に、政府は「十年以内に国会を開きましょう」約束します(10月11日参照>>)

皇帝の権限の強いドイツの国会を視察した伊藤博文は、ドイツにならって、日本の国会も上院・下院の二院制を導入し、衆議院(下院)を選挙によって代表を選ぶシステムにしようと考えました。

しかし、そうすると、今の段階で選挙すれば、敵対勢力(政党勢力)が過半数を占めのは目に見えています。

そこで、彼が目をつけたのが華族です。

衆議院に対抗すべく、上院を貴族院と称して、皇族や華族たちの中から任命する形で議員を選び、政府に味方する勢力としたのです。

その思惑通り、貴族院で多数を占める華族議員たちは、やがて政党が力をつけるその日まで、政府の擁護にまわり続ける事になるのです。

う~~ん、なかなか道は遠いですねぇ。
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