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2008年6月24日 (火)

笹の才蔵こと可児才蔵~愛宕にまつわる死の予言

 

慶長十八年(1613年)6月24日、『笹の才蔵』の異名を持つ可児才蔵が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

平安中期に始まり、鎌倉時代にほぼ確立された、武士(もののふ)の道という物は、主君(棟梁)と部下(家人・郎党)との主従関係の上にあります。

主君と部下は、何代にも渡ってともに生活をし、部下は主君に対する忠誠を、主君は部下に対する慈愛を、ともに育み、その信頼関係によって武士団を形成していく・・・まさに、「いざ!鎌倉」「武士は二君に仕えず」の精神です。

しかし、鎌倉時代から江戸時代に渡って受け継がれていく、この武士道精神も、こと戦国という時代だけは別です。

腕力と知力さえあれば、土豪や野武士でも・・・果ては農民や商人でも、大大名にのぼりつめる事が夢じゃないこの時代は、普段とは逆に「主君を七度変えてこそ一人前」などとも言われていました。

そんな中、本日の主役・可児才蔵吉長(かにさいぞうよしなが)は、とにかく主君をよく変えた人です。

はじめは斉藤龍興(たつおき)に仕え、柴田勝家森長可(ながよし)明智光秀前田利家神戸信孝・・・このメンツを見ておわかりの通り、中には敗戦して滅亡に追い込まれたために主君を変えたケースもあるわけですが、主君がそのような憂き目に遭っても、才蔵は生き残って、再び乱世の荒波を泳いでいくのですから、なかなかのものです。

その神戸信孝が羽柴(豊臣)秀吉に謀略によって自刃に追い込まれた後、才蔵は秀吉の甥である羽柴(三好)秀次に仕えるですが、その時に、あの小牧・長久手の戦い(4月9日参照>>)が勃発します。

この時、まだ戦いに不慣れな秀次が、はやる心を押さえきれず、ただひたすら軍を進めようとするのを・・・
「今回の敵は強大ですから、無理に進めば大敗します・・・一旦退きましょう」
と進言するのですが、秀次はその言葉を聞かず、さらに進もうとしたました。

いくらアドバイスを聞いてくれなかったとしても、相手は主君ですから、普通なら、ここで「もう・・・しゃぁないなぁ・・・」と、ついていくところですが、さすが、主君から主君へ渡り歩きまくりの才蔵は違います。

「ほな、好きにしなはれ」
と、配下の兵だけを連れて、さっさと自分だけ退いてしまうのです。

かくして、その進んだ先で、徳川家康軍の奇襲を受けた秀次軍は大混乱となり、またたく間に敗北・・・しかも、そのドサクサで秀次は馬を失い、徒歩であたふたと戦場を離脱するのですが、そこに通りかかったのが、颯爽と馬上にまたがった才蔵・・・

「スマン、その馬貸してくれ!」と、主君・秀次・・・
すると、才蔵はひとこと・・・
「雨が降る日に傘を貸すアホはおらん!」
との捨てゼリフを残し、去っていったというのです。

確かに、自分が今必要な物を手放すヤツはいませんが、相手は主君だからなぁ・・・まぁ、そこが才蔵さんの才蔵さんらしさですが・・・。

・・・で、この一件で、浪人の身となった才蔵さん、やがて、秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の傘下に入り、関ヶ原の合戦へ参戦する事になります。

慶長五年(1600年)の9月15日、この日、徳川軍の先鋒を努める事になった福島隊・・・。

才蔵は、その福島隊の先陣・・・つまり、一番前の位置で、「真っ先に突入してやろう」と、大ハリキリで、開戦を今か今かとテンションも最高潮!

・・・と、その時、スルスル~と、才蔵の横をすり抜けるのは、あの井伊直政です。

実は、この直政、豊臣の家臣である福島隊に、関ヶ原の先陣を切らせる事に、どうも納得が行かない・・・「やはり、ここは、徳川配下の自分が・・・」と、心に決めての行動でした。

直政は、なんだかんだとウマイ事言って、才蔵の前に出て、あれよあれよ言う間に、敵方に攻撃を仕掛けてしまいました。(2月1日参照>>)

まんまと、先を越されてしまった才蔵さん・・・彼の性格が、その屈辱を許すワケがありません。

押えきれぬウップンを、合戦へと向けた才蔵は、鬼神のごとき活躍で、次々と敵を討ち取り、持ちきれない敵の首には、その口に笹の葉をくわえさせ、その場に置いたまま、さらに戦い続けます。

やがて、天下分け目の合戦にも決着が着き、夕方には、本陣で、家康による首実権が開始されるのですが、先の笹をくわえさえた首は、なんと17個・・・この日の徳川軍一の数だったのです。

この才蔵の働きに大喜びの家康は、「今日から“笹の才蔵”と名乗れ」と、直々に異名を与えられたのです。

主君から主君へ渡り歩いてきた才蔵さんは、この福島正則を最後の主君として、その生涯を閉じる事になるのですが、関ヶ原の合戦を終えた晩年の彼は、非常に穏やかで、やさしい人だったと言います。

そんな彼は、一生を通じて愛宕権現を信仰していて、生前は「俺は愛宕の縁日の日死ぬんだ」と予言していたというのですが、果たして、その言葉通り慶長十八年(1613年)6月24日愛宕の縁日の日(1月24日参照>>)に、その60歳の生涯を終えたのでした。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

七度も主君を変えながら、可児才蔵って人物は…変節漢とか不忠者って悪評が立ってないのが素晴らしいですね。確かに仕えた家が滅んだり没落したのだから不運な面も多々有ったのでしょうね。でも七度も主君を変えてたら、中には…可児才蔵など主家が滅んでも主君に殉じる気概も持たぬ不忠者です!その様な者、当家で召し抱えるなど以ての外でございます。ナンテ主に反対した人も居たんじゃないでしょうかね。戦国期の武士道精神が鎌倉期や江戸期とは違ったとは言えども、尼子再興に奔走した山中鹿助の話もあるように、忠義の士も少なからず居たでしょうから、そんな風に言った人だって一人や二人居そうですが、そんな悪評が残ってない…(浅学非才な自分が寡聞にして知らないだけかも知れませんが)のは、人間的魅力に溢れた素晴らしい武将だったってコトなんですね。

投稿: マー君 | 2008年6月24日 (火) 16時03分

マー君さん、こんにちは~

>悪評が残ってない…

そうですね、私も知りません。

しかも、主君から主君へ渡り歩いた人にありがちな、異常な出世も見当たらない・・・

相当な槍の名手であったという話なのに・・・

「立つ鳥後を濁さず」のような、人に恨まれない何かがあったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年6月24日 (火) 17時54分

先程、Wikipediaにて可児才蔵を調べたら、悪評が立ってないどころか、当時から彼の評価は高く、彼の墓前を通りかかった武士は下馬の礼をとった言われますナンテ書いてありました。同じように主君を変えた藤堂高虎が…当時の武士から低く見られてたのとは随分違うとWikipediaにも記されてました。

投稿: マー君 | 2008年6月24日 (火) 22時10分

1月23日のラジオ番組に「笹公人さん」が出演されました。歌人でミュージシャンで、才蔵の末裔です。「連句遊戯」と言う本を出されています。ユニークな連句ですけど。

投稿: やぶひび | 2011年1月25日 (火) 09時20分

やぶひびさん、こんにちは~

末裔の方…いろいろ活躍されているのですね~

投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 11時29分

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