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2008年7月31日 (木)

六千人のユダヤ人を救った杉原千畝

 

昭和六十一年(1986年)7月31日、元外交官・杉原千畝が86歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

何年か前に放送された反町隆史さん主演のドラマ日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザがかなり評判を呼んだので、ご存知のかたも多いでしょうが、その杉原千畝(すぎはらちうね)さんです。

外交官だった千畝が、リトアニアの当時の首都・カウナス日本領事館に、領事代理として赴任したのは、昭和十四年(1939年)11月の事でした。

それは、つい2ヶ月ほど前に、ヒットラー率いるナチス・ドイツポーランドに進攻し、第二次世界大戦が勃発したばかりの頃・・・。

ご存知のように、ヒットラーはヨーロッパの各地で、ユダヤ人への迫害を行っていましたから、ドイツに占領されたポーランドからも、多くのユダヤ人がリトアニアへと逃亡してきていました。

彼らは、迫害を逃れて、リトアニアから、さらにそのまた先の外国へと逃亡するため、リトアニアにある各国の領事館から、ビザを取得しようとしていましたが、そのリトアニア自体も、ソ連と併合される事になり、各国の領事館や大使館は、まもなく閉鎖される運命にありました。

ビザとは、外国に入国する時に、その国の領事などから検査を受け、入国できるよう証明してもらう事・・・領事館が閉鎖されてしまっては、ビザは、もう、貰えません。

昭和十五年(1940年)7月27日の事・・・領事館で執務中だった千畝が、何やら外の騒がしさに気づき、ふと、窓の外を見ると、そこには、ものすごい数の人々々・・・。

それは、各国の領事館が閉鎖する中、未だ執務中の日本領事館へ行けばビザが貰えるとの噂を聞きつけて集まって来たユダヤ人難民たちです。

彼らは口々に叫びます。
「どうか、ビザを発給してください!」

その中には、小さな子供も、年老いた老人もいます。

彼らの、必死のまなざしを目の当たりにした千畝は、
「何とかしてあげたい」
と思うのですが、事はそう簡単ではありません。

なんせ、その頃は、日本はドイツとともに、イタリアとの日独伊三国同盟を結んでいましたから、むしろ、ドイツからは、再三、「反ユダヤ主義」に協力するよう要請を受けていたのです。

さすがに、日本はユダヤ人への迫害に協力する事は避け、その件に関しては、中立の立場に立ってはいましたが、無条件でのビザ発行は許されておらず、その条件というのも、ユダヤ人である彼らには、大変ハードルの高いものでした。

千畝は外交官・・・国の方針にそむくわけにはいきません。

加えて、ソ連からも、再三再四、「早く領事館を閉鎖して退去せよ」と要請されます。

しかし、ユダヤ人たちの悲痛な叫びが・・・
訴えかけるその目が・・・
彼の頭から離れません。

悩みに悩みぬいた末、千畝は決断します。

8月1日の早朝・・・未だ領事館の周囲を取り囲むユダヤ人たちの前に姿を見せた彼は、大きな声で叫びます。

「ただ今から、あなた方に、日本の通過ビザを発行します!」

一斉に、歓喜の声があがりました。

人々は抱き合い、涙しながら、それでいて暴徒と化す事はなく、順番に彼の指示に従います。

しかし、ビザは一枚一枚手書きで書かなければなりませんから、とてつもなく大変な作業です。

その日から、領事館を閉鎖してベルリンに旅立つ日までの28日間、昼食抜きで、彼はビザを書き続けたのです。

それは、ベルリン行きのギリギリ・・・列車のホームでまでも行われました。

ドラマでは、ユダヤ人青年が、走り出した列車を追いかけ、反町さんが窓越しにビザを書いて手渡す・・・とても印象深いシーンでしたね。

急を要する出来事で、多くのビザの発給記録が残っていないため、正確な数はわかりませんが、奥さんの幸子さんによれば、この時、ビザを貰って国外へ脱出したユダヤ人の数は6000人に達っしていたそうです。

一方、カウナスに残ったユダヤ人は、すべて殺されたとも言われています。

まさに、「命のビザ」です。

その後、ヨーロッパ各地を転々とした後、終戦後に帰国した千畝は、外務省を解雇されます。

表向きは、事業の縮小に伴う解雇だという事ですが、そこには、やはり、国の方針に反した例の件が関わっている事は、容易に想像できます。

その後、その語学力を生かして貿易商や翻訳の仕事をしていましたが、やがて昭和六十年(1985年)1月、千畝はイスラエル政府から、イスラエル建国に尽力した外国人に与えられる『諸国民の中の正義の人賞』なる賞を授与されます。

もちろん、あの時、大勢のユダヤ人を助けた功績によるものですが、この賞が日本人に与えられるのは初めての事・・・

多くの日本人は、この時初めて、杉原千畝という勇気ある元・外交官の存在を知ったのです。

翌・昭和六十一年(1986年)7月31日彼は静かに息をひきとりました。
享年86歳・・・

「私のした事は、外交官としては間違っていたかも知れないが、自分を頼ってくれた多くの人を見殺しにする事はできなかった」

ご本人の存命中に、汚名が名誉へと変わった事が、せめてもの救いでした。

勇気ある決断、迅速な行動・・・イザとなると、なかなか、できない物です。
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2008年7月30日 (水)

心太と書いて、なぜトコロテンと読む?

 

夏の風物詩つながりで、今日はトコロテンの豆知識&歴史を、ご紹介させていただきます。

このトコロテン・・・漢字では『心太』

パソコンでも一発変換できるにしては、なんで、心太と書いてトコロテンと読むのでしょうか?

ご存知のように、トコロテンは、テングサ類を煮詰めて、寒天質を抽出して冷やし、ゼリー状にした食べ物・・・日本独自の海草製品です。

これが、『大宝律令』にも凝海藻(こるもは)なる名前でて登場する歴史ある食品なのです。

やがて、それは、平安時代になって『古々呂布止(ココロフト)と呼ばれるようになります。

このココロとは、こる・こごる(凝る)という意味で、フトは、お餅のような食品の事・・・つまり、ココロフトは、「凝り固まったお餅」という意味ですね。

この頃には、汁物の具として食べられていました。

やがて、ココロフトに、『心太』という漢字が当てられるようになり、鎌倉時代には、精進料理の一つとして食されていました。

室町時代には、京都の西山で加工され、公家や貴族に大いにもてはやされたそうで、その呼び名も、ココロフトからココロテイと変化し、時代の流れとともに、ココロテイ→ココロテン→トコロテン・・・バンザ~イ!バンザ~イ!
と変化していったのですが、心太という漢字だけは、そのまま使われ続けたというわけです。

江戸時代の寛永年間(1624年~1643年)の頃には、トコロテンという呼び名が定着し、夏の食べ物として冷たい状態で、砂糖あるいは醤油をかけて食べたのだそうです。

天保の頃に書かれた『守貞漫稿』には・・・
「心太、トコロテンと訓ず。三都とも、夏月之を売る。蓋(けだ)し、京坂、心太を晒(さら)したるを水飩(すいとん)と号く。心太一箇一文、水飩二文、買うて後に砂糖をかけ、或は醤油をかけ之(これ)を食す。京坂は醤油を用ひず」
とあります。

他の文献にも、「水飩は上品、心太は下品」という記述があるところを見れば、どうやら、心太を水でさらして冷たく冷やした物が水飩で、当然ですが、そっちの方がちょっと高かったって事ですね。

しかも、京坂は醤油を用ひず」・・・って、すでにこの時代に東西の食べ方が分かれてますね~。

そうです・・・私は大阪なので、長年、黒蜜でしかトコロテンを食べた事がありませんでした。

昔は、『てん突き』と呼ばれる水鉄砲のような器具を使って、「一突きなんぼ」で売られていたトコロテンですが、最近では、もっぱら、スーパーなどで、上からかける物が添付されたトコロテンを購入しますが、仕事の関係で、富山に引越した時に、初めて、酢醤油付きのトコロテンを見て、びっくりしてしまいました~。

しかし、さすが、富山は、東西文明の十字路!「日本のイスタンブール」(←これは、私が言ってるんですが・・・)、黒蜜と酢醤油の両方のトコロテンが売られてました。

中には、一つのトコロテンに、二つとも付いている物もあり、「お好みでどうぞ」みたいな説明がついていました。

一度は、酢醤油にも挑戦してはみましたが、やはり、食べなれた黒蜜がいいです。

逆に、東京の方から見れば、黒蜜はあり得ないんでしょうね。

ところで、このトコロテンの原料であるテングサも、最初の頃はココロフトと呼ばれていましたが、後になってトコロテンの材料であるところからトコロテングサと呼ばれるようになり、やがて、頭の部分を省略してテングサと呼ばれるようになったそうです。

Tokorotenkoukyoucc 今日のイラストは、
昨年の今頃には、暑い暑いと言いながら、平安時代のカキ氷のお話(8月5日参照>>)をさせていただいて、清少納言っぽい人にカキ氷を持っていただいたのですが、それならばと、今回は光明皇后っぽい人に心太を持っていただきました~。

小耳に挟んだ情報によれば、何やら正倉院の文書の中にも『心太』の文字があるらしく、「正倉院と言えば、亡き聖武天皇の遺品を保管した光明皇后でしょう」って事で(6月21日参照>>)、正倉院をバックに、器がやはり、シルクロードを渡ってきた白瑠璃碗で・・・

もちろん、関西の方なので、黒蜜でっせ!
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2008年7月29日 (火)

花火の歴史

 

昭和五十三年(1978年)7月29日、両国の花火大会隅田川花火大会と名称を変更して十七年ぶりに復活しました。

今年の隅田川花火大会は7月26日で、もう、過ぎてしまいましたが、夏の風物詩で季節もバッチリという事で、今日は、花火の歴史についてお話させていただきます。

・・・・・・・・・・・

花火の歴史は・・・紀元前3世紀頃の中国で発明された火薬が、やがての頃には、戦いのための武器や、通信手段の烽火(のろし)として使用されるようになります。

日本に伝わったのは、約400年前の戦国時代末期

  • 櫟木民部大輔という人物がインドネシアから輸入した・・・
  • 種子島に伝わった鉄砲の火薬が花火に変化した・・
  • 慶長十八年(1613年)に伊毛達須なる中国人が伝えた・・・

と、複数の話がありますが、この慶長十八年には、あの徳川家康が、日本で初めて花火を観賞したという記録もあるので、いずれにしても、この頃に伝わった事は確かでしょう。

家康さんが見た花火というのは、今も、愛知県豊橋市に残る『炎の祭典』・・・降りそそぐ火の粉に耐えながら手で筒を抱えて・・・っていう手筒花火のような物だったと言われています。

翌年の大坂冬の陣では、例の淀殿もびっくりの天守閣直撃の大筒を、家康さんは披露しています(12月16日参照>>)から、さぞかし、花火には興味津々だった事でしょう。

戦いの道具として発展した花火も、やがて、天下泰平の世となるにつれ、娯楽のためにと変化していきます。

まずは、線香花火・・・そしてねずみ花火などが誕生し、江戸時代の中期になって、それは飛躍的な発展を遂げるのです。

やがて享保十八年(1733年)5月28日、水神祭とともに、両国川(現在の隅田川)の川開きが行われ、その時に約20発の花火が打ち上げられます。

その時に活躍したのが、六代目・鍵屋弥兵衛さん・・・日本橋横山町の花火師でした。

この弥兵衛さんのご先祖の初代・弥兵衛さんが御兵御殿の狼烟方(のろしかた)の打ち上げをヒントに花火を造って売り出したのが最初だったのですが、もう、この六代目さんの頃には、花火は鍵屋の独占状態・・・

もちろん、それには、鍵屋さんの技術のすばらしさもありましたが、何より、「火事の原因となる花火を、あっちこっちでされては困る」って事で、江戸市中では、隅田川のみが、花火の場所とされ、「花火=鍵屋」というのも、この頃に定着しました。

やがて、文化五年(1808年)に、鍵屋の番頭であった清七さんが、のれんわけとして両国吉川町で、花火師を開業・・・こちらが玉屋となります。

名前は、もともとお稲荷さんを信仰していたことから、お稲荷さんの2匹駒狐が、鍵と玉をそれぞれくわえている事に由来するそうです。

花火の時に「たまや~」「かぎや~」と声をかけるのも、ここからきてるんですね~。

両国では、上流で玉屋、下流で鍵屋が花火を打ち上げ、両者が、花火のワザを競っていたところから、それぞれを応援する見物客が、声をかけはじめたんだそうです。

でも、さすがは江戸・・・大阪生まれの私は、長年、この「たまや~」「かぎや~」のかけ声の事を知りませんでした。

サザエさんで、浪平さんが、花火を見ながら叫んでいたのを初めて見て、「何?」と、不思議に思ったくらいですから・・・

ところで、大阪ではほとんど聞かないので、あくまで小耳に挟んだ情報ですが、今では「かぎや~」と声をかけるより、「たまや~」と声をかける人のほうが断然多いらしい・・・

それは・・・
実は、玉屋さん・・・大きな火事を起こしてしまったために、江戸所払いとなり、花火師は一代限り、わずか35年間で終ってしまったのです。

その技術が素晴らしかっただけに、江戸の町の人々の涙を誘い、日本人の持って生まれた、いわゆる判官びいきの心をくすぐられ、「たまや~」と声をかける人が多かったのだとか・・・。

ちなみに、鍵屋さんのほうは、今も健在・・・十五代目の女社長さんが、後を継いでおられるそうです。

ITの時代になろうが、子供たちがテレビゲームに熱中しようが、いつの時代も、花火は、夏の風物詩・・・これだけは、室内では、味わえないですから・・・。

ところで、大阪で花火と言えば、世界一の規模を誇る教祖祭のPL花火大会ですが、それは、もうスゴイです。

昔は勢いにまかせて見にもいきましたが、花火も、スゴイけど人の多さもスゴイ・・・なかには、終電で帰れない人も出るくらいなので、お出かけの際はお気をつけて・・・。
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2008年7月28日 (月)

つなげれば、みんな親戚、戦国武将

 

慶長八年(1603年)7月28日、亡き豊臣秀吉の息子・秀頼と、徳川家康の孫・千姫結婚しました。

・・・・・・・・・・

・・・って事なんですが、千姫さんいついては、ご命日に少し書かせていただきました(2月6日参照>>)ので、今回は、まさに今日の結婚・・・この、どう見ても明らかな政略結婚について・・・。

まぁ、この秀頼さんと千姫さんに関しては、あまりに若年すぎて、打算がないぶん、政略結婚のわりには、仲睦まじかったようですが、とにかく、ご存知のように、戦国時代は政略結婚の嵐です。

確かに例外はありますが、多くの戦国大名は、何人かの側室を持ち、子供をできだけ多く設けて、女子は他家の当主と結婚させ、男子は養子として、その勢力の拡大に利用したのです。

戦国大名同士の同盟は、政治の情勢によって結ばれ、縁戚の関係を持つ事によって、さらに強化されたのです。

しかし、それは永遠ではなく、政情の変化によって、もろく崩れる時もありました。

関東・甲信越を争った今川・武田・北条はお互いの兄弟や子供同士の婚姻で、かなり近い親戚関係・・・さらに、そこに上杉も加わって、よう~く見れば、今川義元武田信玄北条氏康上杉謙信も・・・主要人物は皆、親戚同士。

さらに、時が進むと、そこに、斉藤道三とつながる織田と徳川・豊臣が加わり、徳川家康織田信長豊臣秀吉もが・・・一回、これで、親類一同のパーティでも開いてくれないかと思うようなスター勢ぞろい・・・。

よく、人気スターになったら親戚が増えるとか、友人が、ある有名人の親戚だと聞くと「へぇ~」と思ったりするもんですが、親戚にこれだけ有名人がたくさんいたら、誰を自慢の種にしようか迷ってしまいますわな・・・ホント。

とりあえず、おもしろいので、系図にしてみましたが・・・
Sengokukeizucc 実線は兄弟・親子、点線は婚姻関係です。
点線の色は交差する部分がややこしくならないために色分けしたもので、色の違いに意味はありません。

もちろん、それぞれの武将(特に信玄さんは・・・)に、もっと、たくさんの子供さんがおられますが、全員書くと、さらにスゴイ事になるので、上記の図は、さっきから登場している超有名どころに関係のあるかたがたを中心にして、多くの人物を省かせていただいてます。

これらの政略結婚で、やはり、忘れてはならないのは、その政情の変化によって、時には父や兄に、時には夫や息子に、殺される事になってしまう、悲しい女性たちの運命です。

ただ、これは、私の勝手な思い込みかもしれませんが、彼女たちは、結婚をする時に「悲しい」とか「つらい」とかは思ってはいなかったでしょう。

冒頭に書いた千姫がそうであるように、その時は、お互いの家を結ぶ架け橋という重要な使命をおび、周囲の期待とともに、とわにその関係が続くよう希望に満ち溢れた結婚だったと思います。

女性の自立を支援しておられるかたが聞くと、怒られるかも知れませんが、私個人的には、周囲に、そして相手に望まれて結婚するというのは、とても幸せな結婚だと思います。

少なくとも、彼女たちは、希望に満ち溢れ、幸せを感じながら嫁いでいったのだと・・・。

しかし、彼女たちが、その命を賭けて築いた家と家の架け橋を、今度は、時代の流れが崩してしまうのです。

ある時は、夫とともに親兄弟に討たれ、ある時は夫の命乞いのために親兄弟のもとへ走る・・・そして、ある時は、姉妹で敵味方となって・・・

彼女たちが最後に味わう数奇な運命には、どうしても涙誘われますが、それはそれで、その生涯をかけて担う、女性の大事な役割であり、誇りに満ちた使命だった事でしょう。

*関連記事=【大河ドラマ「江」に思う政略結婚と女性の役割】>>
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2008年7月27日 (日)

歴史人物辞典~「よ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★楊貴妃
  ●楊貴妃は日本で生きていた?~安禄山の乱

★陽成天皇
  ●関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇

★養徳院(信長の乳母・池田恒興&輝政の母)
  ●池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙

★横井小楠
  ●龍馬もまねた~横井小楠の明治維新のシナリオ

★与謝野鉄幹
  ●ラブソングの帝王・与謝野鉄幹

★吉岡妙林尼(妙麟尼)
  ●島津から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼
  ●島津軍から鶴崎城を奪回!女城主・吉岡妙林尼

★吉田兼好
  ●兼好法師の恋愛感って・・

★吉田松陰
  ●熱血先生・吉田松陰~松下村塾の教育方針
  ●吉田松陰~生涯一度の獄中の恋
  ●吉田松陰・死刑!

★吉田忠左衛門
  ●消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門

★吉田光由
  ●ナユタとフカシギ

★吉見信頼
  ●大内政弘の留守を守った若き重臣・陶弘護

★依田信蕃
 家康が見込んだ殺すに惜しい男・依田信蕃

★淀(茶々)
  ●豊臣秀頼・出生のヒミツ
  ●大坂冬の陣・直前~その時、大坂城内は?
  ●冬の陣~家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係
  ●大坂夏の陣で自害~淀殿の素顔と生存説
  ●「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュースを聞いて
  ●大河ドラマ「江」第20回・茶々の恋でひと言

★余豊璋(よほうしょう)
  ●白村江の戦い~その敗戦の原因は?

★吉村寅太郎
  ●討幕の先駆け・天誅組~吉村寅太郎の最期

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物事典~「ゆ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ゆ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・・・

★湯浅五助
  ●関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束

★湯浅常山
  ●『常山紀談』と湯浅常山

★結城氏朝
  ●鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

★結城(松平)秀康
  ●結城秀康~その運命の分かれ道
  ●謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説

★夕霧太夫
  ●夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭

★祐清
  ●たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?

★雄略天皇
  ●万葉集1番の雄略天皇のお話

★雪連宅満
  ●万葉集に残された遣新羅使・雪連宅満

★由比正雪
  ●由比正雪の乱・発覚

★遊佐続光
  ●七尾城・攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」

★湯原春綱
  ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦

★由利公正
  ●藩の政府の財政建て直しに尽力した由利公正

★由羅(由良・遊羅)
  ●幕末・島津の「お由羅騒動」

 
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★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「や」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「や」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

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★八百比丘尼
  ●不老長寿は幸せ?人魚伝説・八百比丘尼

★八百屋お七
  ●八百屋お七と丙午

★宅部皇子
  ●物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺
  ●未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は?

★柳生宗矩
  ●政治家・柳生宗矩~忘れえぬ剣豪魂

★柳生宗冬
  ●柳生宗冬の総入れ歯

★柳生宗厳
  ●男・柳生宗厳~68歳でつかんだ大きな一歩

★施薬院全宗
  ●秀吉のもと医療福祉を復活させた施薬院全宗

★薬師寺貴能
  ●薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤

★薬師寺忠長
  ●細川政元の後継~永正の錯乱と百々橋の戦い

★弥介(信長の黒人従者)
  ●織田信長と黒人さん

★安田弥蔵(弥右衛門)
  ●歴史のifを思う…謎多き梅北の乱

★柳沢信鴻
  ●赤裸々日記~柳沢信鴻の華麗なる隠居生活

★柳沢吉保
  ●柳沢吉保の汚名を晴らしたい!

★柳田國男
  ●ことばの日

★柳本賢治
  ●細川高国政権が崩れるキッカケ~神尾山城の戦い
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い
  ●天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い

★山内一豊
  ●刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興
  ●老獪・家康…西へUターンの小山評定
  ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆
  ●したたかなのは一豊か?

★山内容堂(豊信)
  ●鯨海酔侯・山内容堂…幕府存続に賭けた日々

★山岡景隆
★山岡景佐
  ●本能寺~その日の安土城と留守役・蒲生賢秀

★山岡鉄舟(鉄太郎)
  ●江戸城無血開城
  ●激動の時代を生きた明治天皇・崩御

★山県有朋
  ●幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念
  ●北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意
  ●ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落
  ●北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦
  ●河井継之助・無念~長岡二番崩れ
  ●山城屋事件~陸軍省で割腹自殺した山城屋和助
  ●日清戦争~平壌・陥落
  ●汚名返上?再評価高まる山県有朋

★山県昌景
  ●三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

★山川(大山)捨松
  ●戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[前編]
  ●戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[後編]

★山川浩(大蔵)
  ●幕末・会津戦争~長命の戦い
  ●東京での士族の反乱~永岡久茂の思案橋事件

★山口喜内
  ●大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆

★山口教継
★山口教吉
  ●当主・織田信長の最初の戦い~三の山・赤塚の合戦

★山口彦十郎
  ●生駒騒動を引き起こした?山口彦十郎の亡霊

★山口宗永
★山口修弘
  ●北陸の関ヶ原~前田利長、大聖寺城を攻略

★山国兵部
  ●尊王と敬幕と・・・攘夷の魁・天狗党の模索
  ●総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党の誕生
  ●天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争
  ●尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い
  ●天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状
  ●早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期

★山幸彦(火遠理命)
  ●針供養の起源と針のお話

★山背大兄皇子
  ●聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?

★山城屋和助(野村三千三)
  ●山城屋事件~陸軍省で割腹自殺した山城屋和助

★山田浅右衛門吉利・吉亮
  ●最後の斬首で役目を終えた山田浅右衛門

★山田有信
  ●島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い

★山田長政
  ●アユタヤの戦士・山田長政は実在したか?

★ヤマトタケルノミコト
  ●ヤマトタケルは実在したか?
  ●歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち

★山中鹿之助(幸盛)
  ●一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦
  ●毛利VS尼子…上月城の大砲争奪戦
  ●信長に見捨てられた上月城…奮戦空し
  ●山中鹿之介奮戦!上月城の攻防
  ●山中鹿介の忠義は忠義なのか?

★山名氏清
★山名満幸
  ●足利義満VS山名氏清・満幸~明徳の乱への道
  ●明徳の乱~山名氏清の最期

★山名宗全(持豊)
  ●応仁の乱のきっかけとなった足利義視
  ●応仁の乱の口火を切る御霊合戦
  ●応仁の乱・勃発
  ●足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦
  ●2人の将軍に2つの幕府…足利義視トンズラ事件
  ●無骨な総大将~応仁の乱を率いた山名宗全

★山名時氏
★山名師氏
  ●南朝挽回?足利直冬と山名時氏・師氏の談合
  ●足利VS山名~南北朝・神南合戦
  ●南北朝・東寺合戦(京軍)の終結

★山名豊国
  ●鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め

★山名政豊
  ●戦国の幕開け…山名VS赤松・戦いの構図
  ●会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦
  ●薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤
  ●赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い

★山南敬助
  ●新撰組・山南敬助の心の内は・・・

★山上憶良
  ●奈良の都の住宅事情~貧しい庶民の実態

★山野辺義忠
  ●名門・最上を消滅させた最上騒動

★山村修理
  ●徳川家康、徹底根絶やし~気賀堀川城一揆

★山本覚馬
  ●新政府へ物申す…山本覚馬の建白書『管見』

★山本勘助
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  ●戸石崩れのはずが山本勘助ヒーロー伝説へ?
  ●『甲陽軍鑑』の真と偽
  ●川中島の合戦は無かった?
  ●「山本勘助⇔山本菅助」その実在やいかに?

★山本常朝
  ●「死ぬこととみつけたり」…山本常朝の武士道

★山本八重(新島八重・八重子)
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  ●会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道
  ●「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重

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  ●山姥はサバが好き?~「さばの日」にちなんで…

★耶楊子(ヤン・ヨーステン)
  ●三浦按針・漂着す~そしてヨーステンの名は・・・
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2008年7月26日 (土)

たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?

 

寛正三年(1461年)7月26日、備中国新見荘の直務代官に決定した僧・祐清上人が、京都・東寺を出発しました。

・・・・・・・・・・・

京都府立総合資料館・所蔵の『東寺百合文書』の中に、『たまがき書状』と呼ばれる、かな文字で書かれた一通の手紙が残っています。

この手紙は、室町時代の農村の女性が書いた直筆の手紙としては、唯一、現在に残る貴重な史料で、その差出人は、たまがきという女性です。

彼女が暮らしていたのは備中国新見荘・・・現在の岡山県新見市

当時の新見荘は、京都・東寺領の荘園で、守護大名が細川氏・・・その細川氏の家臣である安富智安(やすとみちあん)請負代官として現地を支配していました。

つまり、現地で智安が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に仕送るというわけですが、当然そこには、彼ら守護の取り分も発生するわけです。

先日の豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)のところでも、チョコッと書かせていただきましたが、そのように、一つの土地に対して、複数の人が所有権を持つのが、中世の荘園制度・・・で、その智安は守護の力をバックに、農民からは不当に重い年貢を徴収し、東寺に対しては、約束分の量を納めなかったり、未納のままだったりという事が多くあったのです。

要するに、自分たちの取り分=中間マージンを多くしてガッポガッポ儲けてたって事ですね。

そこで、ついに蜂起した名主・41名起請文を提出し、荘園領主である東寺の直務支配を要求したのです。

直務支配という事は、東寺が直接支配をするという事ですから、当然、東寺内部の誰かが現地に行かなくてはなりません。

その現地へ行く役=直務代官として派遣されたのが、東寺の僧・祐清(ゆうぜい)でした。

寛正三年(1461年)7月26日京都を出た祐清は、8月5日に現地に到着・・・新見荘内でも、比較的開けたという地に事務所を構え、現地の実情を調査するとともに、新しい改革に取り組みます。

この時、彼の身の回りに世話をしたのが、現地荘官・福本盛吉の妹だったたまがきでした。

「年貢の取立てが、武士から僧侶に代わるのだから、少しは楽になるだろう」という農民たちの期待に答えてやってきた祐清でしたが、彼が農民たちに伝えた寺命は、予想以上に厳しいものでした。

  • 自分たちが自ら希望して直務になったのだから、年貢を納めないという行為は許さない。 
  • 今まで年間8人だった京上人夫を年間12人にする・・・そのうち6人は実際に京に行って仕事をするが、残り6人は金銭でもよい。 
  • 今までの公事物(貢物・紙とか漆とか)に蝋(ろう)を加える。

ガ~ン!増えてますやん!
この最初の段階で、少なからずショックを受ける農民たち・・・。

前年から不作が続いていた荘内では、「何とか許してほしい」という声があがりますが、若僧だった祐清にとって、東寺のおエライさんの決めた寺命は絶対ですし、若いがゆえに融通もききませんから、「この命賭けてでも、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」と言って譲りませんでした。

こうして、マジメ一本やりで荘園再建に取り組む祐清は、ついに、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡をクビにして追放してしまいました。

「安富と変わらんやん!」
「いや、安富の時のほうがマシやった」

という、不満の声が、村人たちから沸きあがってくるのも、当然のなりゆきかも知れません。

やがて翌年・寛正四年(1462年)の8月25日、未だ従わない奥・中奥と呼ばれる地域へ見回りに出かけた祐清・・・。

ある新築中の家の前を通りかかると・・・
「建築中の家の前を通る時は、馬から下りるのが、ここらへんのしきたりだ!」
と、家の中から出てきた男たちに叱られてしまいます。

その話を聞いて、慌てて馬を下りる祐清に、いきなり男たちは斬りかかり、哀れ、祐清は命を落してしまうのです。

男は、先の名主をクビになった豊岡の親戚の者でした。

恨みを持つ者に殺されてしまった祐清ですが、もちろん、村人全員が彼を恨んでいたわけではありません。

飢饉に苦しむ農民と、使命をまっとうせよという東寺の間で苦悩した彼は、東寺に対して「今回はいつもの半分の年貢で許してあげて欲しい」なんていう手紙を幾度か書いて、東寺から、その約束を取り付けたりもしていましたから、彼に親しみを抱いている農民も多くいたのです。

現に、仇討ちとばかりに、殺した相手に殴りこみをかけた者もいました。

そんな好意を持っていたうちのひとりが、たまがきです。

もちろん、ごく普通の一般人である彼女の生涯については、何一つ記録されてません。
その容貌も、その性格も・・・

ただ一つ、冒頭にご紹介した、彼女の手紙が残っているのです。

彼が、代官としてやって来た時から、わずか一年・・・祐清の弔いをすませた彼女は、その遺品の整理をしながら、東寺へ、彼の死の報告と、その遺品の処分について書き綴っているのです。

贅沢などいっさいない、質素な遺品・・・それらの品々を書き並べながら、白小袖・紬表・布子の3点について・・・
『このほとなしみ(馴染)申候ほとに、すこしの物おは、ゆうせいのかたみにもまいらせたく候、・・・給候は、いかほと御うれしく候』

「この三品を、祐清の形見としていただけたら、これほどうれしい事はありません」

彼が、一番身近に、身に着けていた品を、彼女は、形見として欲しいと・・・

たった一年間、ともに過ごした二人の間に、何があったのか?
どんな風に、二人は通じ合っていたのか?

東寺に残る新見荘の史料は、その量の多さから、中世の歴史を語る上で外す事ができないほどの貴重な物ですが、当然の事ながら、その内容は郷土史と言える物で、祐清とたまがきの心情にはふれていません。

しかし、唯一残る直筆の手紙からは、その溢れんばかりの彼女の思いが伝わってくる気がします。

真っ白な小袖を身にまとって、都から颯爽とやってきた若き僧・・・農村に暮らす彼女は、わずか一年間で、一生ぶんの恋をしたに違いありません。

果たして、彼女の願いが叶えられたのかどうか・・・それだけが気がかりです。
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2008年7月25日 (金)

一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏

 

天正十三年(1585年)7月25日、羽柴(豊臣)秀吉四国征伐で、阿波一宮城の攻防中、家臣の説得に応じて長宗我部元親が降伏しました。

・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、天下統一に向けて階段を駆け上がる羽柴(豊臣)秀吉・・・。

信長の次男・織田信雄と組んだ徳川家康と戦った先の小牧長久手の戦い(6月15日参照>>)の時、家康が紀州に応援を求めるのと同時に、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)にも救援を依頼していた事から、天正十三年の4月に紀州を平定(3月21日参照>>)した秀吉は、次に、四国を統一したばかり(10月19日参照>>)の長宗我部氏の討伐を開始します。

6月、秀吉の命を受けた弟の羽柴秀長を総大将に、3万の軍勢が四国へ上陸し、さらに甥の羽柴秀次率いる3万が淡路を経て、ともに阿波(徳島県)へと進みます。

かたや、宇喜多秀家黒田孝高(如水)蜂須賀正勝親子の2万3千は、屋島から讃岐(香川県)方面へ、そして小早川隆景吉川元長の毛利勢・3万は、伊予(愛媛県)へと展開し、次々と諸城を陥落させていきます。

Hideyosisikokuseibatuzucc見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

7月上旬には、残る重要拠点を岩倉城一宮城の2城に絞った秀長は、この2城への攻撃に全軍を費やす事にします。

この時、白地城に8千の兵とともにいた元親は、自軍を重視したのか、救援軍を派遣する様子がなかったため、大軍に囲まれた岩倉城はたまらず開城し、残るは一宮城のみとなります。

一宮城は北城南城からなる城で、南側に鮎喰川(あぐいがわ)が流れる天然の要害となっているうえ、北は谷忠澄(ただすみ)、南は江村親俊(ちかとし)という名将が、合計5千の兵とともに守ります。

攻める秀長軍は5万・・・ここで、秀長配下の藤堂高虎は、トンネルを掘って城を攻めようとしますが、なかなかうまくいかなかった事から、水路を絶っての長期戦へと切り替え、秀長も鮎喰川を挟んで対岸にある辰ノ山に本陣を置き、じっくりと攻める構え・・・。

さらに、その間に、籠る忠澄に、和睦を受け入れるように接触を試みます。

名将であるがゆえ、先を読む事ができる忠澄・・・自分たちが最強だと信じてきた一領具足は、いざという時に瞬時に集まるとは言え、半農半兵の武士たち。

逆に、敵は完全に士農を分離した戦いのプロ集団・・・それも、とてつもない数の集団です。

おそらく、忠澄は、秀長軍を目の当たりにして、自分たちの軍が、もはや時代遅れである事を痛感していた事でしょう。

やがて、彼は7月20日頃から、白地城の元親に向けて降伏するように、説得しはじめますが、元親はなかなか応じようとはしません。

しびれを切らした忠澄は、自ら白地城へと向かい、居並ぶ重臣たちに言います。
「元親さんが、戦わずして降伏するっちゅーのは悔しいけど、日本の大半を支配する軍と戦っても、勝ち目はありません。
このまま土佐に追い詰められて、さらに戦って負けたら、“長宗我部が四国を統一できたんは、長宗我部が強いんやのうて、他が弱かっただけや”って笑われます」

実際に、敵をその目で見た人の話は説得力があります。
居並ぶ重臣たちは、彼の意見に賛同し、ともに、元親ももとへ行き、重臣・全員の意見として伝えました。

元親は・・・
「大将の俺ひとりが、なんぼやるっちゅーても、お前らがそんな腰抜けやったらどうしょうもないがな!好きにせぇや!」
と、キレ気味にその場を立ち去ります。

主君に『腰抜け』と言われては、武士のプライドが許しませんから、
「こうなったら、全員討死しよう」
という者もいましたが、落ち着いて考えて・・・
「いや、主君がキレたからって、家臣もキレてどうすんねん。
冷静になって主君の暴走を止めるのも家臣の役目や」

「好きにせぇって言うてはんねんから、好きにさしてもらおうや」

・・・という感じで、重臣たちの主導のもと、降伏する事が決定するのですが、『土佐物語』では、元親は、怒って退席した後に・・・
「さっきは、戦わんと降伏する事が悔しいんで、つい暴言を吐いてしもたけど、悪かったな。降伏しよう」
と、ちゃんと降伏に同意したとされています。

血気に逸って、討死しなくてよかったよかった・・・

そして、天正十三年(1585年)7月25日秀長は、忠澄と親俊宛に降伏の条件を書いた誓書を渡します。

そこには・・・
「阿波・讃岐・伊予は没収するが、土佐一国の領有を許す」
という、真っ向から敵として戦った相手のワリには寛大なもの・・・

どうやら、数日前に関白に就任した秀吉さん、「名実ともに天下人」と超ゴキゲンのご様子で、敵に対しても、寛大におなりあそばしていたようです。

これで、元親は、秀吉の臣下となるわけですが、本当に従順な臣下となる気があるのかどうか?・・・彼の忠誠心が試される場は、まもなく訪れます。

そう、秀吉の九州征伐(11月25日参照>>)です。
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2008年7月24日 (木)

信長とともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路

 

天正九年(1581年)7月24日、石山本願寺戦での責任を問われ、主君の織田信長に追放された佐久間信盛が、大和十津川で湯治中に病死しました。

・・・・・・・・・・

佐久間信盛は、織田信長の父・信秀の時代からの家臣でした。

その信秀から、幼い信長の重臣としてつけられ、その素行の悪さから「うつけ」と呼ばれて後継者には弟・信行のほうがふさわしいと囁かれていた信長の少年時代にも、一貫して味方になってくれた人です。

その後も、信長に従って、織田家が参戦する合戦にはすべて出陣し、伊勢長島の一向一揆戦(5月16日参照>>)姉川の合戦(6月28日参照>>)にも参戦・・・織田家家臣の長老として活躍していました。

しかし、元亀三年(1572年)、同盟関係にあった徳川家康の救援のために向かった三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)では、ともに派遣された平手汎秀(ひろひで)が討死する中(12月23日参照>>)武田信玄の軍勢の数の多さと、その勢いから、「とても勝ち目はない」と判断して、信盛はほとんど戦うことなく撤退するのですが、これが信長から見れば、仲間を見捨てて退却した臆病者に映ったようで、このあたりから、どうも、信盛に対する信長の評価が低下し始めます。

さらに、翌年、朝倉義景を攻めた時(8月6日参照>>)には、敗走する義景を追撃しなかった事を追求した信長に、何だかんだと言い訳をした事も気に入らなかったようです。

そして、最終的に訪れた決定打が、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)と、十年間に及んだ石山本願寺との戦い(8月2日参照>>)でした。

途中から、海運に強い毛利が本願寺の味方につき、対する信長の鉄甲船が登場して相まみえる事で、何かと海戦(11月16日参照>>)が有名な石山本願寺戦ですが、最も激戦だったのは、天正四年(1576年)に城戸口でぶつかった天王寺砦(とりで)の攻防戦(5月3日参照>>)でした。

この時、攻める信長は、北西の野田、北東の守口、南の天王寺と石山本願寺を囲むように砦を築き、(ばん)直正明智光秀細川藤孝(幽斎)荒木村重といった畿内武将が率いる大軍を送り込みました。

しかし、本願寺の激しい抵抗により、この時の軍のリーダーであった直正を失い、一時は天王寺砦をも囲まれる状態となってしまいますが、味方の不利を聞いた信長自らが3千の軍を率いて応援に駆けつけ、再び本願寺城下まで後退させる事に成功しました。

そして、力攻めが困難であると判断した信長は、その後、亡き直正に変わって信盛をリーダーにすえて天王寺砦を拠点として与え、畿内7ヶ国の軍をつけ、長期を視野に入れた兵糧攻め作戦に方針を転換します。

しかし、それから五年・・・
いくら籠城戦とは言え、その間に一戦たりとも交えない信盛に、「長期にもほどがある!」と、しびれを切らした信長は、自らが朝廷に働きかけ、天皇の仲介によって本願寺に和睦を持ちかけて十年の合戦に終止符を打ったのです。

・・・で、とうとう信長さん、怒り爆発です。

信盛とその息子・信栄(のぶひで)に、19か条に及ぶ『折檻状(せっかんじょう)なる書状を突きつけたのです。

その19ヶ条とは・・・

  • おまえら、5年間いったい何やっとってん!て、皆、思とるぞ 
  • ひょっとして本願寺にビビッとったんか?ほんで、戦いもせんと守りだけ固めて・・・そしたら、いずれ俺にビビッた本願寺が引き下がると思とったんちゃうんかい!武士やったら、チャンス見つけて戦えや 
  • その点、明智君や羽柴君はスゴイ!・・・池田(恒興)君なんかも、あんな下っ端やのに頑張っとんねんぞ 
  • それに触発された柴田君なんか、自分から進んで領地増やしよったで 
  • 力ないんやったら、頭を使て作戦練ったらえぇもんを、この5年間、そんな話も聞いた事ないぞ 
  • ほんで、お前ら、いっつも言い訳ばっかりやんけ 
  • お前には、めっちゃようけの軍隊つけたってんねんから、何とかなったんちゃうんかい。 
  • お前にチクられて死んだ水野(信元)君の領地を、お前にやったのに、家臣も増やさんと、領地をそのまま自分一人のモンにしてからに・・・ 
  • 山崎の土地かって、自分一人のモンにしてるやろ。 
  • 部下の給料上げたったり、人雇たりせんと、自分のモンにばっかりして貯金ばっかりしてんのんは世界に広まっていくやろな。 
  • 昔、朝倉をやったった時も、俺が注意したら、文句言い返してきやがって、せやのに、文句言うわりには、まだ、俺んとこにおるんやからなぁ・・・おかしいやろ。 
  • 息子の悪いところは、ここには書ききれんわ。 
  • だいだい言わしてもらうとな・・・欲深やろ、気難しいやろ、ほんで部下を見る目ないし・・・そんな、ええかげんな事しとるから、こういう事になってまうんや 
  • 自分の部下を使わんと他人まかせにして、領地はほったらかしやし・・・ 
  • お前らが自分勝手やさかいに、まわりはイエスマンばっかりになってしもて、誰も注意するもんはおらんようになってしもとるがな 
  • お前、俺の代になってから30年働いとるけど、「スゴイなぁ」っちゅー活躍が一回もないやんか。 
  • 俺の生涯の中で、負けたんはあの三方ヶ原だけや!そら勝負には、勝ち負けはつきもんや、勝つ時もあれば負ける時もある。
    けどな、家康の手前もあるしな、部下がボロボロなってたら、「あぁ、戦うてくれはったんや」て、思てもらえるかも知れんけど、部下は無傷やわ、平手君は見殺しにするわ・・・それで、平気な顔して帰ってくるとこが信じられへんわ
     
  • こうなったら、どっかの敵をやっつけて汚名を晴らして戻ってくるか、討死するしかないなぁ。 
  • 親子で高野山へでも行って来い!

(お詫び:大阪弁しかしゃべれませんので、原文を自分で訳してしゃべり言葉にすると大阪弁になってしまします…悪意はありません)
以上・・・信長さん、怒ってはります。

結局、天正八年(1580年)8月12日、信盛・信栄親子は、高野山へ追放となり、さらに、その後、熊野の山奥に追われる事となりました。

もう、その時には、彼に付き添う家臣はたった一人だったとか・・・。

そして、翌年の天正九年(1581年)7月24日大和(奈良県)十津川で湯治中に、信盛は帰らぬ人となったのです・・・享年55歳。

信長さんに、散々悪口を書かれ、とてつもない愚将のようなイメージの信盛さん・・・きっと彼には彼の言い分がある事でしょうが、悲しいかな、負け組の主張は歴史という波に呑み込まれてしまうのが世の常・・・

愛し合った恋人同士が別れる時は・・・
「アンタといてて、楽しいことなんか、いっぺんもなかったわ!」
なんて、捨てゼリフを残し、お互いが振り向きもせず去っていったりするものですが、どうしてどうして、心落ち着けて振り返ってみれば、きっと、二人でいて楽しかった事はいっぱいあったはずです。

いつか、信盛さんの汚名を晴らせる日がくる事を祈って・・・
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2008年7月23日 (水)

富山の女一揆・米騒動を報道したマスコミは・・・

 

大正七年(1918年)7月23日、富山県の漁村の主婦たちが、米の安売りを求めて米屋に押しかけた事をきっかけに、全国各地で暴動が勃発し『米騒動』となりました。

・・・・・・・・・

事の発端は、前日の井戸端会議でした。

富山県新川郡魚津町の漁師の主婦たちが集まって、いつものように、「あーだ、こーだ」と、巷の噂話に花を咲かせていたところ、話題は、最近のガソリン価格の高騰・・・モトイ・・・米価の高騰へと移っていきます。

すると、その中の一人の主婦が・・・
「こんなけ、米が値上がりするんは、富山で採れた米を、他県にばっかり、でかいど運んどるからやがないけ」
「ほな、今、ちょうど、米を運んどる伊吹丸っちゅー蒸気船が来とるがに、明日、行って、それをやめてもらうっちゃ」

・・・と、意見がまとまり、翌日の大正七年(1918年)7月23日一致団結した彼女たちは、蒸気船への米の積み込み作業を阻止し、周辺の米屋へ押し寄せて、米の流出を止めるよう懇願したのです。

最初はたったこれだけの出来事でした。

この時期の富山湾沿岸では、不漁が続いていて、ただでさえ一日・1~2回食事・・・それも、お粥で済ます事が多くなっているのに、そのうえ、お米の値上がりが留まるところを知らず、高く売れる都会へと流出していけば、どんどん飢えていくばかりだったのです。

ただ、彼女たち漁師の妻が騒ぎを起こすのは、今回が初めてではありません。

夏の不漁のシーズンになると、今までもたびたび同じような騒動を起こしていたのですが、今回ばかりは、いつもと様子が違っていました。

確かに、今回の米価の高騰は富山県だけに限った事ではなく、全国的なものでした。

ちょうど、この時代は、農村から都市部へ人口が移りつつあり、増大した都市人口は米の消費量を増やし、慢性的な米不足になっていたうえ、大量の米が海外へと輸出され、高値になるのを見込んだ地主は米を売り惜しみ、商社は買占めに走る・・・

大正六年に1石15円だった米は、翌年の大正七年には30円になっていたという事が、大阪堂島の米市場の記録にもあるそうで、そうなると、1年で倍になった事になります。

しかし、だからと言って、漁村の主婦たちのちょっとした騒動が、なぜ、今回は全国的な暴動へと発展したのでしょうか?

なんせ、今回の米騒動・・・警察だけではラチがあかず、最終的に軍隊まで出動し、果ては内閣まで総辞職してしまう結果となるのですから・・・。

・・・と、そうです。
実は、この内閣総辞職・・・この米騒動には、時の寺内正毅内閣を倒したいマスコミの思惑がからんでいたんです。

Komesoudoutoyamacc

実際のところ、漁村の主婦たちが起こした騒ぎは、米屋に押し寄せたと言っても、そこで暴れたわけではなく、「お願いにうかがった」といった程度のものでしたし、その後訪れた役所でも、「どうか、お頼みします」と涙ながらに訴えるという雰囲気で、しかも、警察が登場して説得を始めると、素直に応じて速やかに解散するといった感じの、本当に、ただの主婦の集会だったのです。

・・・にも関わらず、翌日の新聞には・・・
「女一揆」「米屋襲撃」「漁師家族の大一揆」
などという見出しが躍ります。

さらに、ある新聞には・・・
「お米をよそへ売らないで!」と懇願する主婦に対して「米屋が米を売るのは商売だ!米が食えなくて苦しいなら死ねばいい!」との暴言を吐いた米屋の女店主に、怒りまくった主婦数百人が押し寄せ、一家を殴殺せんが勢いで店を破壊した・・・といった内容の記事も掲載されましたが、女主人の暴言も、それに怒った主婦の襲撃も、現在では、実際には無かったであろうと言われています。

明治以来、多くの新聞は反権力の姿勢であり、それを政府が弾圧する・・・というのを繰り返していました。

特に、この寺内内閣は、官僚・軍人勢力を背景にした内閣であったため、マスコミのあおりにも力が入ったようです。

・・・で、結局、これらの過激な報道に触発された各地の貧困層が、本当に暴動を起こし、米屋や富裕層の邸宅を襲撃するという事態になってしまいます。

ところが、8月に入って寺内内閣がシベリアへの出兵を発表しちゃったもんだから、さらに大ごとに・・・

兵を出すとなると、当然、兵糧が必要ですから、それを見越しての買占め、売り惜しみに拍車がかかり、さらにお米の値段は上がり、この頃になると、貧困層だけではなく、一般労働者もが騒ぎに参加するようになってきます。

全国に拡大した暴動は、警察だけではとても対抗できず、政府は全国100箇所に軍隊を派遣して鎮圧に乗り出しました。

さらに、ここに来て、政府が過激な報道をしている新聞を発禁処分にするとともに、すべての新聞に対し、米騒動の記事を掲載する事を禁止するのですが、これには新聞記者が激怒・・・言論の弾圧を非難し、シベリア出兵は寺内内閣の失策であると書きたてます。

9月の下旬になって、ようやく騒動は収まりを見せ始め、暴動は徐々に終焉に向かっていきます。

結局、暴動が発生した場所は1道3府38県に及び、約100万人が関与し、2万5千人余りの逮捕者と30人の死者を出したこの米騒動・・・9月22日、この責任をとって寺内内閣は総辞職しました。

民衆の力が政府をも動かす・・・という事を自覚し、自らの力に自信を持った民衆でしたが、過激な報道に踊らされた感も拭えません。

今も、ある一つの出来事を毎日のように報道するかと思えば、ある日突然それが止み、次に別の事が集中的に報道される・・・

かく言う私も、未だ結末の知らないニュースがいくつある事か・・・

平成のガソリン高騰には、踊らされないように、しっかりと見据えていきたいものです。
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2008年7月22日 (火)

斬り込み隊長・築城名人~藤堂高虎の転身

 

文禄四年(1595年)7月22日、豊臣秀吉が、藤堂高虎を伊予宇和島7万石で大名に復帰させました・・て事で、今日は藤堂高虎さんのお話を・・・

・・・・・・・・・・・

初め14歳で近江(滋賀県)浅井長政に仕えた藤堂高虎(とうどうたかとら)は、その人並みはずれた体格と槍働きで、姉川の合戦において名をあげます。

しかし、浅井氏滅亡後は、新しい主君とうまくいかなかったり、つまらない事で同僚とケンカしたりして、転々と主君を替え、不遇の浪人生活を送っていました。

そんな彼に転機が訪れたのは、天正四年((1576年)・・・あの豊臣(羽柴)秀吉の弟で文武に優れた名君・羽柴秀長が、300石という浪人としては破格の高禄で、彼を大抜擢してくれたのです。

その評価に応えようと、主君絡みの戦にはすべて参戦し、自慢の槍で先頭を切って大活躍し、武功をあげていきます。

さらに、合戦ばかりではなく、それまではあまりやらなかった帳簿の整理などの事務仕事にも励み、苦手分野はその技術を習得するまで、粘り強く修練するという頑張りようです。

後に築城の名人と称されるのも、主君の期待に応えたいという彼の努力のたまものであったのでしょう。

やがて、高虎は、秀長の片腕と言われるまでに成長し、紀州(和歌山県)粉川2万石の城主にまで出世します。

しかし、彼の才能を見いだし開花させてくれた主君・秀長は、天正十九年(1591年)に病死してしまいます。

秀長亡き後は、養子で後継者となった羽柴秀保(ひでやす)後見人として仕えますが、この秀保も、その四年後にわずか17歳で急死してしまい、高虎は、二人の菩提を弔うために、剃髪し高野山へと入ります。

二人の菩提を弔うため・・・というのは、名目で、実はこの秀保さんの急死には、かなりの疑惑が渦巻いているのです。

秀保は、秀長の養子という事ですが、まったくの他人ではなく、もともと叔父と甥の関係・・・秀吉・秀長兄弟のさらに上のお姉さん・ともさんの子供なのです。

つまり、一時は秀吉の後継者とされながらも、謀反の罪で自刃に追い込まれた、あの豊臣(羽柴)秀次(7月15日参照>>)の弟になるわけです。

彼も、兄・秀次と同じように、罪の無い領民を娯楽のために殺害したとか、暴君の王道である妊婦の腹を裂いたなどと言われますが、この手の話がでっち上げである可能性が高いのは、ご承知の通り・・・。

その死因に関しても、公式には天然痘の悪化であるとされながらも、別のところには殺されたという記録もあり、かなり臭います。

亡くなった時期も秀次と同じ頃ですから、どうやら、秀保も豊臣家の後継者争いに巻き込まれていた可能性が高いように思います。

高虎の高野山入りも、そんなゴタゴタから逃れたいがための出家だったのかも知れません。

しかし、そんな優秀な人材を、そのままにしておかないのが、かの秀吉・・・文禄四年(1595年)7月22日高虎を伊予(愛媛県)宇和島7万石で召抱え、大名に復帰させたのです。

秀吉の傘下となった高虎は、直後の慶長の役(11月20日参照>>)でも、第六軍として参加し、水軍を率いて武功をあげるとともに、その築城技術も遺憾なく発揮します。

さらに、遠征の途中で秀吉が亡くなり、大老であった徳川家康から撤退命令が出ると、その10万の大軍を、自らの船でピストン輸送し、わずか3ヶ月で完全撤退させました。

これらの功績を高く評価したのが、その光景を目の当たりにした家康です。

評価されると、それに応えたくなるのが高虎さん・・・この後は、ちゃっかりと家康傘下に収まり、関ヶ原を前にした不穏な空気の流れる中、諸将の動きや状況を、事細かく家康に報告するとともに、必要な時にはSPのような役目もこなしています。

関ヶ原の合戦当日には、左翼の先頭・福島正則の後方に陣取り(関ヶ原の合戦・布陣図参照>>>別窓で開きます)、この頃からその正則とともに、徳川の斬り込み隊長として合戦の先陣をいくようになりますが、この関ヶ原での功績は、何と言っても、小早川秀秋の横にいた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保らの4隊を寝返らせた事にあるようです。

同じ近江出身者として、彼らを説得したのが、高虎だったと言われ、合戦後は、伊予今治20万石にup!さらに、津城主にもなっています。

その後の大阪の陣では、河内路の先鋒として長宗我盛親(ちょうそかべもりちか)と戦い(5月15日参照>>)、大坂城総攻撃の時には、真田幸村から家康を守り、家禄は32万4千石にまで上りつめました。

築城においても、江戸城の大修復をはじめ、豊臣滅亡後の新生大坂城の設計、徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺や、あの東照宮も・・・と、大いにその腕を奮います(6月11日参照>>)

晩年の東照宮造営や二条城の拡張工事の時には、眼病を患い、すでに失明寸前だったと言われていますが、病に倒れ、動けなくなるその日まで、彼は現役を貫き寛永七年(1630年)10月5日75歳で、その生涯を閉じました。

若い頃は、武勇ばかりが先走り、世渡り下手で次々と主君を替えた高虎・・・秀長という名君に仕えるうち、その槍よりも強い味方となる世渡り上手という武器を手に入れ、秀吉から家康へ見事に渡り歩いたのです。

世は戦国・・・一人の主君に命をたくすも武士、渡り歩いて生き残るも武士なのです。
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2008年7月21日 (月)

兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ

 

慶長五年(1600年)7月21日、石田三成からの密書を受け取った真田昌幸信幸(信之)幸村(信繁)親子が、下野(しもつけ・栃木県)犬伏にて議論の結果、東西に分かれる事になりました・・・世に言う『犬伏の別れ』です。

・・・・・・・・・・

豊臣秀吉亡き後、豊臣家の持ち城である伏見城に居座って、重要事項を独断で決定し始める徳川家康・・・それを警戒する石田三成は、上洛要請に応じない上杉景勝を謀反とみなし(4月1日参照>>)、家康が会津征伐に向かったのを絶好のチャンスと見て挙兵し、留守で手薄になった伏見城を攻撃します。(7月19日参照>>)

最終的に関ヶ原で激突する事になるこの戦いですが、この時、真田昌幸とその長男・信幸、そして次男の幸村親子は、父・家康の先鋒として会津に向かっていた徳川秀忠隊に合流すべく北に向かっていました。

そんな真田親子が下野・犬伏に差し掛かった慶長五年(1600年)7月21日親子のもとに手紙が届きます。

それは、前田玄以増田(ました)長盛長束正家三奉行の署名の入った『家康・弾劾状(家康の悪行を書き並べた物)(7月18日参照>>)・・・これは、各地の諸大名に送られた物で檄文の意味も込められていました。

そして、もう一通は、三成の密書・・・もちろん、毛利輝元を総大将(7月15日参照>>)とする西軍への参加のお誘いです。

密書を受け取った真田親子は、重臣たちをも遠ざけ、今後の身の振り方について協議を始めたのです。

この時に意見の分かれた兄弟は、刀を抜かんがばかりの激論になったと言われますが、上記の通り、重臣をも遠ざけているので、実際のところは、よくわかりません。

結果は、父・昌幸と次男・幸村が西軍につき、長男・信幸が東軍につくという親兄弟で別々の道を歩む事になるのですが、冷静に考えると、上記のような激論というよりは、天下分け目の戦いで、東軍・西軍どちらが勝っても、真田家が生き残れるようにとの配慮だったでしょうね。

どちらがどちらにつくか?という事に関しては、信幸は、家康の重臣・本多忠勝の娘を、一旦家康の養女にして嫁に貰ってますから、家康と彼は、義理の親子関係になるわけで、ここは長男・信幸が東軍・・・。

逆に、幸村は豊臣方の奉行・大谷吉継の娘と結婚していますので、その点から見ても、幸村が西軍というのが妥当でしょう。

昌幸自身は、西軍につきます。
想像の域をでませんが、これには昌幸の「家康に一泡吹かせてやりたい」という野望的な思いがあったのかも知れません。

昌幸は、かつて、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)と呼ばれた事がありましたが・・・
表裏とは読んで字のごとく、オモテとウラ・謀反の事で、比興とは卑怯の事。(秀吉に言われたかぁないかも知れない)

真田家は、小国とは言え、この戦国の荒波を見事に乗りこなし、生き残って来たわけですから・・・いえ、小国だからこそ、その知謀と策略を駆使して、守り抜いて行かなければ、存続はできないのです。

今回も、その家の存続を一番重要視した対策だったでしょう。

とにもかくにも、ここで親子は袂を分かつ事になります。

その日のうちに、昌幸と幸村は家康陣営を去り、信幸が、二人が去った事を家康に報告すると、家康は「合戦に勝利したら信州はお前にやる!」と、彼が父に反発してまで自分のところに残ってくれた事を大いに喜んだと言います。

さて、「西軍にいく」と言って、去った二人ですが、ご存知のように、彼らは関ヶ原には行っていません。

そうです。
あの上田城に籠って、家康の息子・秀忠を迎え撃つ事になるのですが(9月7日参照>>)、その前に・・・

上田への帰還の途中、長男・信幸の居城・沼田城に立ち寄るのですが、そこに立ちはだかったのは、留守を守る長男の嫁=小松姫・・・と、そのお話は7月25日のページでどうぞ>>
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2008年7月20日 (日)

歴史人物辞典~「も」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「も」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★毛利勝永
  ●大坂の陣~毛利勝永の入城
  ●VS本多忠朝~大坂夏の陣・天王寺口の戦い

★毛利隆元
  ●毛利隆元と尾崎局

★毛利輝元
  ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
  ●山中鹿之介奮戦!上月城の攻防
  ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
  ●宇喜多&毛利の境目合戦~矢筈城と草刈重継
  ●毛利輝元・広島城を築城~その出会いと別れ
  ●動かぬ西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算
  ●毛利輝元の伊予出兵~宍戸景世の伊予の関ヶ原
  ●関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人2
  ●陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭け佐野道可事件

★毛利秀元
  ●「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢
  ●大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦
  ●陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭け佐野道可事件
  ●大江広元を祖に持つ戦国武将…4本目の矢の法則

★毛利元就
  ●西国の桶狭間・有田城外の合戦~毛利元就の初陣
  ●有田城外~中井手の戦いに散る熊谷元直とその妻
  ●中国の覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組
  ●「君は船」…毛利元就&隆元を支えた執権・志道広良
  ●安芸郡山城・攻防戦
  ●毛利元就を支えた良妻賢母・妙玖
  ●毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦
  ●国人から戦国大名へ~毛利元就を支えた国衆
  ●厳島の前哨戦~毛利元就の折敷畑の戦い
  ●毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン
  ●毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ…
  ●厳島の戦い:運命を変えた能島・水軍の参戦
  ●決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2
  ●厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合
  ●大寧寺&厳島…陶晴賢の思いやいかに
  ●義長の自刃で大内氏・滅亡
  ●猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…
  ●石見銀山争奪戦~尼子氏衰退のターニングポイント
  ●息子・隆元の死を乗り越え…毛利元就・白鹿城奪取
  ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
  ●月山富田城・開城~山陰の雄・尼子氏の敗因は?
  ●毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城・攻防
  ●第二次・月山富田城・攻防戦
  ●毛利元就の三矢の訓え・・・その願いは?
  ●毛利元就・九州制覇へ~立花城・攻防戦
  ●大江広元を祖に持つ戦国武将…4本目の矢の法則

★毛利(新介)良勝
  ●桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠

★最上義俊
  ●名門・最上を消滅させた最上騒動

★最上義光
  ●関ヶ原の前にやったるで!直江兼続・最上に侵攻
  ●直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い
  ●策士策に溺れる~謀略の将・最上義光
  ●直江兼続を手玉に取った最上の重臣・鮭延秀綱

★以仁王
  ●逆賊・平清盛を追討せよ~以仁王の令旨
  ●源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦
  ●全盛の平家に一矢報いた以仁王~生存説

★本居宣長
  ●本居宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中

★元田永孚
  ●今こそ教育勅語を・・・明治の教育改革

★本山茂辰
  ●長宗我部元親・初陣!長浜表の戦い

★本山親茂(貞茂)
  ●永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂

★物部尾興
  ●仏教伝来・物部VS蘇我

★物部守屋
  ●仏教伝来・物部VS蘇我
  ●物部守屋VS蘇我馬子~仏像投げ捨て事件
  ●仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏
  ●物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺
  ●VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮

★籾井教業
  ●明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い

★桃太郎
  ●昔話・桃太郎と製鉄の関係

★護良親王
  ●護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂・攻防戦へ
  ●かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期

★森孝頼
  ●永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂

★母里太兵衛友信
  ●母里太兵衛友信~これぞ真の黒田武士

★森長可
  ●織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦
  ●小牧長久手の戦いの中盤・羽黒の戦い
  ●天下は何処・長久手の戦い
  ●鬼武蔵・森長可~遺言に託された最期の願い

★森可成
  ●織田VS斉藤~森部の戦い…前田利家の復帰
  ●信長を支えた森可成・討死…宇佐山城の戦い

★森蘭丸
  ●本能寺の変~『信長公記』より
  ●今日はやっぱり本能寺の変

★文覚
  ●頼朝に挙兵を決意させた強力ブレーン・文覚

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「め」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』め」です。

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*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★明治天皇
  ●皇子から武人へ~明治天皇の大変身
  ●王政復古の大号令
  ●幻の首都・大阪~明治天皇のおわした守口宿
  ●味覚の文明開化~明治天皇が牛肉を食す
  ●国民の祝日と海の記念日
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件
  ●今こそ教育勅語を・・・明治の教育改革
  ●激動の時代を生きた明治天皇・崩御

★明正天皇
  ●父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝・明正天皇

★妻鹿孫三郎長宗
  ●赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「む」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「む」です。

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・・・・・・・・・

★椋梨藤太(景治)
  ●動乱に散った長州の保守派・椋梨藤太

★武蔵棒弁慶
  ●義経と弁慶・運命の出会い
  ●衣川の合戦~義経・主従の最期
  ●武蔵坊弁慶=架空人物説について・・・

★夢窓疎石
  ●時の権力者に帰依された夢窓疎石の夢のたわむれ

★陸奥宗光
  ●龍馬亡き後の海援隊Ⅱ~天満屋事件
  ●いよいよ日清戦争へ…
  ●下関条約締結で日清戦争・講和成立
  ●世界と平等に…カミソリ外相・陸奥宗光

★武藤友益(景久)
  ●信長&秀吉の前に散る若狭武田氏

★宗尊親王
  ●鎌倉幕府・初の皇族将軍…宗尊親王

★村岡局(津崎矩子)
  ●「勤王女傑」~皇室と志士のパイプ役・村岡局

★村上天流(権左衛門)
  ●村上天流VS樋口定次~烏川原の決闘

★村上武吉
  ●水軍の転換期!石山合戦の第2次木津川海戦
  ●瀬戸内水軍の全盛期と没落を見た村上武吉

★村上元吉
  ●第1字木津川口海戦・信長を悩ませた村上水軍

★村上義清
  ●信玄・痛手~上田原の合戦
  ●川中島・前哨戦~更科八幡の戦い

★村国男依
  ●壬申の乱~大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い

★紫式部
  ●【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】

★村山たか(たか女)
  ●井伊直弼の女スパイ・村山たか

★村山義直
  ●義仲・初陣!市原の戦い

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「み」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「み」です。

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・・・・・・・・・・・

★三浦按針(ウイリアム・アダムス)
  ●三浦按針・漂着す~そしてヨーステンの名は・・・
  ●三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後

★三浦啓之助(恪)
  ●幕末の極楽トンボ~佐久間象山の息子・三浦啓之助

★三浦時高
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃

★三浦虎次郎
  ●日清戦争~制海権を握った黄海海戦

★三浦義明
  ●この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明・衣笠城の合戦

★三浦義同
  ●北条早雲~悲願の相模制覇に向けて
  ●新井城の攻防!北条早雲・相模を制覇

★三浦義村
  ●幕府を揺るがす和田合戦
  ●迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎
  ●実朝~暗殺事件の謎・パート2

★美尾屋十郎
  ●源平・屋島の戦い~弓流し

★三木通秋
  ●秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い

★三沢為虎
  ●備中高松城・水攻めと吉川元長

★水口市之進(山国隊)
  ●時代祭の先頭を行く「山国隊」と北野天満宮

★水野十郎左衛門成之
  ●旗本奴VS町奴…幡随院長兵衛・殺害
  ●屈しない男=チーム旗本奴の水野十郎左衛門成之

★水野忠邦
  ●建て直し不可能?水野忠邦の天保の改革
  ●庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

★水野忠恒
  ●勘違い水野忠恒の刃傷・松の廊下

★水野忠徳
  ●小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳…死す

★水野元知
  ●壮絶な夫婦ゲンカで改易処分…安中藩主・水野元知

★三木自綱(姉小路頼綱)
  ●金森長近の飛騨攻略作戦
  ●飛騨松倉城の人柱伝説

★南方熊楠
  ●南方熊楠の最後の言葉

★湊惣左衛門
  ●大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆

★南淵請安
  ●大化の改新の影の立役者・南淵請安

★源義円
  ●平家の圧勝~墨俣川の戦い

★源実朝
  ●源実朝…実現しなかった夢の船出
  ●迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎
  ●実朝~暗殺事件の謎・パート2

★源高明
  ●藤原一族最後の陰謀?「安和の変」

★源為朝
  ●源為朝・琉球王伝説

★源為義
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

★源仲国
  ●峰の嵐か松風か~高倉天皇と小督の悲恋物語

★源範頼
  ●範頼・自刃~頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?

★源行家(新宮十郎・義盛)
  ●逆賊・平清盛を追討せよ~以仁王の令旨
  ●平家の圧勝~墨俣川の戦い
  ●寄らば大樹の陰も最後には~源行家・斬首

★源義家
  ●前九年の役で滅びる安倍一族のお話
  ●日本初の兵糧攻め~後三年の役・金沢柵の攻防
  ●奥州・藤原氏の誕生
  ●武勇の八幡太郎義家が冷遇されたワケは?
  ●武士で初の昇殿…八幡太郎・源義家の苦悩
  ●12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年」?

★源義賢
  ●義仲が木曽にいたワケは?

★源義親
  ●伊勢平氏=平正盛の出世のキッカケ「源義親の乱」

★源義経
  ●【源義経の年表】へ

★源義朝
  ●武士の時代の幕開け…保元の乱
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱
  ●平治の乱を引っ掻き回した藤原信頼
  ●平治の乱~清盛の天皇救出劇
  ●平治の乱・終結
  ●サウナで謀殺!無念・源義朝の最期
  ●伝説に彩られた都一の美女・常盤御前…と信長?

★源義仲
  ●【木曽義仲の年表】へ

★源(悪源太)義平
  ●義仲が木曽にいたワケは?
  ●世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平の最期

★源義康
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

★源頼家
  ●先進システム?鎌倉幕府の合議制
  ●鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱
  ●父に愛され、母に抹殺された鎌倉2代将軍・源頼家

★源頼朝
  ●【源頼朝の年表】へ

★源頼信
  ●源平合戦につながる…平忠常の乱・勃発
  ●源平に芽生えた友情…平忠常の乱と源頼信

★源頼政
  ●源頼政の鵺退治~敗北の英雄   
  ●平治の乱・終結
  ●逆賊・平清盛を追討せよ~以仁王の令旨
  ●源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦

★源頼光
  ●排除された邪教の神~酒呑童子の叫び

★箕浦猪之吉
  ●泉州堺事件~土佐藩兵のフランス兵殺傷

★三野村利左衛門
  ●三井の中興の祖・三野村利左衛門

★御船千鶴子
  ●千里眼・御船千鶴子と長尾幾子

★三村家親
  ●猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…

★三村元親
  ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
  ●女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い

★宮川房長
  ●厳島の前哨戦~毛利元就の折敷畑の戦い

★宮崎車之助
  ●福岡で怒った士族の反乱~秋月の乱

★宮部継潤(善祥坊)
  ●秀吉に「日本無双」と言わせた男…宮部継潤

★宮部長房
  ●関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略

★宮本常一
  ●大阪で知った民俗学の種…宮本常一の話

★宮本武蔵
  ●宮本武蔵は名人か?非名人か?
  ●巌流島の決闘~佐々木小次郎の実態
  ●真夏の夜の怪談話3…宮本武蔵の妖怪退治

★妙玖
  ●毛利元就を支えた良妻賢母・妙玖

★妙林尼(妙麟尼)
  ●島津から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼
  ●島津軍から鶴崎城を奪回!女城主・吉岡妙林尼

★三好一秀
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

★三好長慶
  ●最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い
  ●三好長慶の八上城攻略戦
  ●足利義輝VS三好長慶~白川口(北白川)の戦い
  ●剣豪将軍・足利義輝~京都奪回作戦の日々
  ●将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い
  ●三好政権を支えた「鬼十河」~十河一存
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い
  ●やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶

★三好三人衆
★三好長逸
★三好政康
★石成友通
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆
  ●織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造
  ●信長VS三好の野田福島の戦い~本願寺参戦
  ●信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い

★三好政長
★三好元長
  ●高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い

★三好之長
  ●細川政元の後継~永正の錯乱と百々橋の戦い
  ●管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い
  ●室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い

★三好義堅(実休)
  ●久米田の戦い~三好実休が討死す
  ●やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶

★三好義興
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

★三好義継
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造

★三善清行
  ●平安の大学者・三善清行の「辛酉革命」予言

★三輪君逆
  ●物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺
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歴史人物辞典~「ま」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ま」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・

★前島密
  ●郵便の父・前島密の功績

★前田慶次郎利太(利大・利益)
  ●自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退
  ●レキジョに人気の慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!

★前田玄以
  ●前田玄以~ただ一人生き残った運命の別れ道

★前田直躬
  ●加賀騒動~大槻伝蔵の無念

★前田綱紀
  ●加賀百万石を実現させた中興の英主…前田綱紀

★前田利家
  ●24歳からの再出発~若き日の前田利家
  ●織田VS斉藤~森部の戦い…前田利家の復帰
  ●利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」
  ●賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱
  ●末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携プレーで…
  ●前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防
  ●ケチと呼ばせない!前田利家の金の知恵袋

★前田利常
  ●バカ殿を演じきった二代目藩主・前田利常

★前田利長
  ●前田利家の妻・まつの江戸下向の謎
  ●北陸の関ヶ原~前田利長、大聖寺城を攻略
  ●北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦
  ●加賀百万石を守った男~前田利長・毒殺疑惑

★前田利政
  ●利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…

★前野良沢
  ●杉田玄白・解体新書の話

★前波吉継(桂田長俊)
  ●越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め

★前原一誠
  ●萩の乱近し~前原一誠と木戸孝允と品川弥二郎と
  ●天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱・勃発
  ●長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉

★真壁暗夜軒氏幹
  ●天狗となった天流の開祖~剣豪・斎藤伝鬼坊

★牧の方
  ●若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚

★牧野忠雅
  ●庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

★真木保臣
  ●禁門の変のシンガリ・幕末の十七烈士

★正岡子規
  ●正岡子規は野球好き
  ●日清戦争と正岡子規~従軍記者として…

★増田長盛
  ●豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原
  ●豊臣家五奉行・増田長盛…最後の大仕事

★マシュー・ペリー
  ●黒船来航~そこには琉球の運命も・・・
  ●ペリーが予測した「ものづくり日本」

★まつ(芳春院)
  ●前田利家の妻・まつの江戸下向の謎
  ●利家を…前田家を支えた良妻賢母・芳春院まつ

★松井須磨子
  ●ヒット曲第一号・カチューシャの唄・ヒット曲の歴史

★松浦興信
  ●鉄砲伝来~異説とその後

★松浦静山(清)
  ●老いてもなお…『甲子夜話』を著した松浦静山

★松浦武四郎
  ●北海道の名づけ親~探検家・松浦武四郎

★松江豊寿
  ●武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」

★松岡好一
  ●ついに禁止令!明治の決闘ブーム

★松尾芭蕉
  ●夢は枯野を駆け巡る・芭蕉忌日
  ●松尾芭蕉…最後の旅

★マッカーサー
  ●昭和天皇とマッカーサー元帥

★松倉重政
  ●キリシタン弾圧領主・松倉重政の汚名を晴らしたい!

★松下長綱
  ●何となく腑に落ちない松下長綱の改易

★松平容保
  ●幕末・足利三代木像梟首事件
  ●新撰組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変
  ●見廻組随一の刺客・佐々木只三郎
  ●鳥羽伏見から会津戦争へ~松平容保の決意
  ●会津戦争も佳境に…母成峠の戦い
  ●会津戦争~十六橋・戸ノ口原の戦い
  ●会津戦争~会津若松城下の戦い
  ●幕末・会津戦争~長命寺の戦い
  ●いよいよ大詰め…会津若松城への総攻撃開始
  ●会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道
  ●賊軍の会津藩主・松平容保が残した物は

★松平定敬
  ●兄・容保とともに幕末を生きた桑名藩主・松平定敬

★松平定信
  ●未曽有の大災害~天明の大飢饉
  ●賄賂政治家・田沼意次の汚名を晴らしたい!
  ●松平定信の「寛政の改革」は個人的恨みから・・・
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件

★松平定政
  ●将軍の死に際して所領返上…松平定政・出家事件

★松平真乗
★松平忠正
  ●長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い

★松平忠輝
  ●舅・伊達政宗と幕府転覆?松平忠輝の長い勘当

★松平忠直
  ●大坂夏の陣・大坂城総攻撃!
  ●暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!

★松平忠吉
  ●彗星のごとく関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉

★松平直矩
  ●生涯7回…「引っ越し大名」松平直矩の泣き笑い

★松平直政
  ●冬の陣・真田丸の攻防~真田幸村と松平直政

★松平斉典
  ●庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

★松平信孝
  ●松平広忠VS松平信孝~三木城攻防戦

★松平信綱
  ●島原の乱・終結
  ●島原の乱・終結~天草四郎・生存説
  ●将軍の死に際して所領返上…松平定政・出家事件
  ●江戸都市伝説・振袖火事~明暦の大火の謎
  ●幕府と家光を支えた知恵伊豆こと老中・松平信綱

★松平乗邑
  ●茶器図録を残した敏腕老中・松平乗邑

★松平治郷(不昧)
  ●名君か否か?茶人藩主・松平治郷の侘びっぷり

★松平広忠
  ●松平広忠VS松平信孝~三木城攻防戦
  ●流浪となっても次世代へつないだ家康の父・松平広忠

★松平正綱
  ●松平正綱が日光に造った「人生の並木路」

★松平光長
  ●徳川綱吉の恨みつらみ?~越後騒動の結末

★松平宗衍
  ●美女のやわ肌に刺青を…松江藩主・松平宗衍

★松平慶永(春嶽)
  ●龍馬もまねた~横井小楠の明治維新のシナリオ
  ●松平春嶽を魅了した癒し系歌人・橘曙覧

★松田誠保
  ●息子・隆元の死を乗り越え…毛利元就・白鹿城奪取

★松田元成
  ●会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦

★松永長頼(内藤宗勝)
  ●将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い

★松永久秀
  ●三好長慶の八上城攻略戦
  ●奈良攻略~最初の戦い…第2次井戸城の戦い
  ●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い
  ●剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期   
  ●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
  ●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
  ●松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
  ●乱世の梟雄・松永久秀~運命の10月10日爆死!
  ●三好政権を支えた「鬼十河」~十河一存
  ●織田信長をも魅了した松永久秀の築城センス

★松根光広
  ●名門・最上を消滅させた最上騒動

★松原忠司
  ●新撰組・松原忠司~命を賭けた2ヶ月の恋

★松前崇広
  ●外様から異例の老中抜擢…松前崇広の無念

★松前矩広
  ●怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

★松前(蠣崎)慶広
  ●世渡り上手に交渉上手~松前・蠣崎慶広の生き残り

★松本良順
  ●徳川家茂&新撰組の主治医~松本良順

★間部詮勝
  ●幕末の動乱に老中となった間部詮勝

★間部詮房
  ●大奥スキャンダルで失脚した間部詮房

★間宮林蔵
  ●忍者・間宮林蔵 樺太発見の後に・・・

★丸橋忠弥
  ●由比正雪の乱・発覚

★丸毛兼利
  ●関ヶ原~福束城攻防戦

★万見重元
  ●たった一度の合戦記録~信長の側近・万見重元

 
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2008年7月19日 (土)

謙信VS信玄・第二次川中島の合戦~犀川の戦い

 

弘治元年(1555年)7月19日、信濃(長野県)(さい)を挟んで対峙していた上杉謙信武田信玄の軍が激突・・・第二次川中島の合と言われる『犀川の戦い』がありました。

・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)4月に、上杉謙信の支援を受けて、武田信玄に奪われていた葛尾(かつらお)を奪回しようと、更級八幡に布陣していた武田軍の先鋒を襲撃した村上義清・・・更級八幡の戦い・4月22日参照>>)

更に発展した戦いは、ここに来て本腰を入れ始めた戦国屈指のライバル・信玄と謙信との間で、5ヶ月後の9月~10月にかけて繰り広げられました・・・(布施の戦い・9月1日参照>>)

決着がつく事がなかったその戦いの翌年、信玄は、駿河(静岡県・東部)今川義元と、相模(神奈川県)北条氏康と、それぞれの息子・娘同士の婚姻関係による『甲相駿・三国同盟』を結びます。

これで、心置きなく謙信と戦う事ができます。

まずは、謙信の家臣で北条(きたじょう)・城主の北条高広(きたじょうたかひろ)に密使を送り、誘いをかけます。

信玄の誘いに応じた高広は、12月に挙兵(北条高広の乱)・・・しかし、この時は救援が間に合わず、翌年の弘治元年(1555年)2月には乱は鎮圧されてしまいます。

信玄は、更なる切り崩しを図ろうと、今度は善光寺の別当・栗田鶴寿(かくじゅ)に接近します。

信濃北部の領民たちの信仰を一心に集める善光寺を取り込めば、その領民たちの心を掴むのも、より簡単になりますから・・・。

それから間もなく、鶴寿は武田方につきます。

しかし、仏教に帰依し、天皇からの許しも貰い、「我こそは正義」と思っている謙信(4月27日参照>>)に、この状況が見過ごせるはずはありません。

Kawanakazima2tizucc 4月、謙信は、8千の兵を率いて、善光寺奪回のために動き始め、善光寺の北西に位置する場所に葛山(かつらやま)を築き、そこに陣を敷きます。

一方の栗田勢は、善光寺の南側に位置する旭山城に籠り、応戦態勢・・・それを知った信玄は、すぐに旭山城に、鉄砲300、弓800を含む3千を援軍として派遣し、自らも出陣の準備を始めます。

やがて、7月に入って、謙信よりも多い1万2千の軍勢を率いて信玄が到着・・・犀川の南岸に陣を敷きます

犀川を挟んで北と南・・・対峙する謙信と信玄でしたが、弘治元年(1555年)7月19日上杉軍が犀川を超え、武田軍を襲撃する形で衝突が始まったのが、第二次川中島の合戦=犀川の戦いです。

・・・が、この日の合戦の戦況などは、あまり詳しく記録されておらず、決着がつかないまま、お互いが後退したようです。

現存する感状などを見る限りでは、上杉軍の襲撃の後、武田軍が逆襲に成功し、武田のやや優勢で終ったとの見方がされています。

その後は、信玄が支援する旭山城の防御体制がさらに強化され、謙信も、うかつに手が出せない状況となり、戦況は、100日・・・150日と、長期のにらみ合いとわずかな小競り合いへと突入する中、徐々に両者に疲れが見えはじめてきます。

やがて、双方の兵糧も尽きはじめた閏10月15日、今川義元が仲介に入り、両者の講和が成立します。

講和の条件は、信玄が旭山城を破却して撤退し、さらに、北信濃の国人衆の旧領を回復するという信玄にとっては、いたって不利な物・・・しかも、善光寺の本尊や仏具を、謙信の春日山に移したというのですから、この条件を見る限りでは、第二次川中島の合戦は、謙信の優勢に終ったといった感じでしょうか。

ただし、この合戦の最中に、信玄は別働隊を木曽に派遣し、木曾義昌(よしまさ)を降伏させていますので、そちらでの勝利をヨシとし、こちらの戦いが、さらに長引くのを避けたかったのかもしれません。

こうして、第二次川中島の合戦=犀川の戦いは終わりました。

この後、謙信は突然、「出家する」と言って高野山へ向かい(6月28日参照>>)、信玄は講和を破って北信濃へ侵出するという、両者まったく違った行動に出る事に・・・

結局、家臣の取りなしで、出家を思い留まった謙信は、信玄の裏切り行為に激怒し、両者の戦いは、第三次川中島の合戦=上野原の戦い(8月29日参照>>)へと発展していく事になります。

越後の龍甲斐の虎・・・ふたりのライバル関係は、更なる展開に・・・
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2008年7月18日 (金)

曹洞宗の開祖・道元~永平寺を建立

 

寛元二年(1244年)7月18日、越後の領主・波多野義重が寄進した越前の地に道元が大仏寺を建立・・・後の永平寺です。

・・・・・・・・・・・

道元は、正治二年(1200年)に京都にて、父は内大臣久我道親(みちちか)、母は摂政藤原基房(もとふさ)の三女・伊子という、申し分ないお二人の間に生まれました。

しかし、3歳で父を亡くし、8歳で母を亡くし・・・13歳で比叡山に入ります。

翌年、師匠の天台座主公円より、仏法房道元(ぶっぽうどうどうげん)の名を与えられました。

比叡山で身も心も大きく成長した道元は、仏法について疑問を抱くようになりますが、その答えが比叡山では得られないと悟り比叡山を降ります。

近江(滋賀県)三井寺京都建仁寺などで修行を重ねながら、やがて24歳の時に中国に渡ります。

天童山をはじめ、諸国の山々を遍歴して修行を重ねますが、いっこうに、彼の疑問が解ける事はありませんでした。

そんな中、新たに天童山にやって来た住職・如浄(にょじょう)禅師と出合い・・・
「この人こそ、ずっと探していた真の師である!」
と感じ、その教えを乞います。

やがて、28歳で帰国した道元は、京都の伏見・深草興聖寺を建立し、曹洞宗を開きますが、伝統仏教からの弾圧に遭い京都を追われて、越前に逃れました。

そんな道元に帰依したのが、越後(新潟県)の領主・波多野義重でした。

義重が寄進した越前(福井県)の地に、寛元二年(1244年)7月18日、道元が開堂したのが大仏寺・・・後の永平寺です。

Dscf2366a800 永平寺

そして、道元は、終生この地を拠点に、弟子を育て自身の修行にも励みましたが、建長五年(1253年)9月、京都にて療養中に帰らぬ人となりました。

その後、波多野氏からの援助が弱まり、一旦衰えをみせた永平寺でしたが、5世・義雲の時代に現在の場所に移され、曹洞宗の大本山にふさわしい復興を遂げました。

また、曹洞宗自身も、出家して厳しい修行を積まなければならない、女性は救済されない、難解な言葉でわかり難いなど、その教えのハードルがかなり高かったために、一旦は衰退を見せますが、鎌倉時代の末期に登場した螢山(けいざん)という僧によって復興されます。

イタコで知られる恐山・円通寺、分福茶釜の茂林寺・・・などのお寺は曹洞宗のお寺ですが、螢山は、こういった民間信仰を取り入れる事によって、その難解な教えを庶民レベルまで理解できるように努め、見事大衆の支持を獲得し、曹洞宗を復興させたのです。

ちなみに、曹洞宗という名前も螢山さんが名付けた物だそうですが、実は、それまで、この教えでは、特定の宗派名を名乗る事は禁止されていたのだとか・・・

道元さんが永平寺を建立した頃とは、少し違った形で発展した螢山さんの曹洞宗ですが、これだけ発展したのなら、道元さんも、きっとお喜びの事でしょう。
・・・南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)・・・
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2008年7月17日 (木)

病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死

 

慶長十九年(1614年)7月17日、織田信長の弟・織田信包が、大坂城内での会議中に急死・・・72年の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

あの織田信長の9歳年下の弟・織田信包(のぶかね)・・・派手な信長さんに比べて、何となく目立たない、影が薄い気がする人なのですが、それは、、ひとえに、彼の性格によるところ・・・。

燃え盛るような激しさを持つ信長に対して、信包は正反対の穏やかで争いを好まない人だったようです。

だからと言って、武将としてダメな人ではなく、むしろデキる男・・・信長以外は、フツーの人が多い織田家の中では、優秀な人物と言えるでしょう。

そんな信包の優秀さを、ちゃんと信長さんも認めていて、大事な後継ぎ・信忠補佐役を任せていますし、彼も、それに答えるように、兄の一番の理解者であり、協力者でありました。

あの伊勢平定にもつき従い、伊勢上野城を居城とした後、天正八年(1580年)には、津城を築城し、そこを居城としていました。

信長が本能寺で倒れた後は、上記の性格ゆえ、野望を抱くという事もなく、後継者争いに顔を出す事もなかったせいか、すんなりと豊臣(羽柴)秀吉の傘下となり、領地を安堵されるどころか、むしろ加増されて15万石の大名になっています。

しかし、今度は、その争いを好まない性格が仇となってしまいます。

あの小田原征伐の直後、敵将の北条氏政・氏直父子の助命という北条側の嘆願を、そのまま持ち帰った事で、秀吉が激怒してしまうのです。

おかげで津城も、その15万石の領地も没収され、近江2万石に転封され、謹慎処分に・・・。

ところが慶長三年(1598年)、いきなり丹波(兵庫県・北東部)3万6千石を与えられ、見事大名に返り咲きます。

それは、やはり信包の優秀さを秀吉が認めていたからなのでしょう・・・慶長三年と言えば、そう、秀吉が亡くなった年です。

日に々々老いを感じ、もう、あまり長くないのでは?と悟った秀吉が、信包を大名に復帰させ、そして、遺言として、息子・秀頼の補佐役に彼を任命するのです。

やがて起こった関ヶ原の合戦でも、彼は西軍に属し、1万5千の兵とともに、細川忠興の居城・丹後(京都府・北部)田辺城(7月21日参照>>)を攻撃しています。

この時は、ご存知のように、忠興は、徳川家康とともに、会津征伐の名目で東国に行っていて留守・・・城の守りは手薄でした。

ただ、留守を預かるのが文武両道に長けた忠興の父・細川幽斎だったためか、なかなか落す事ができず、結局、朝廷の仲裁によって田辺城は開城されました。

しかし、信包が参戦したのが、この田辺攻めのみだったせいか、合戦後も、その罪を問われる事はなく、領地は安堵、秀頼の補佐役というのも、家康公認のもとで続けていく事になるのです。

そのまま補佐役として大坂城にいた信包・・・運命の慶長十九年(1614年)7月17日大坂城内での会議中に突然血を吐き、そのまま帰らぬ人となってしまうのです。

慶長十九年7月17日と言えば、大坂の陣のきっかけとなった、あの『方広寺鐘銘事件』(7月21日参照>>)・・・家康が豊臣家にイチャモンをつける4日前の出来事です。

以前、『加藤清正疑惑の死』(6月24日参照>>)でもチラッと書かせていただきましたが、関ヶ原の後、次々と豊臣恩顧の武将がこの世を去っていく中、慶長十七年(1612年)頃から、なぜか写経を趣味としだした家康が、翌年の慶長十八年には、キッパリとその趣味を止めてしまった・・・つまり、それまでは、何となく「そうしたいなぁ」という程度だったのが、ここで、はっきりと豊臣を潰す決意をしたのだとも考えられます。

そして、家康は、その潰す口実を探しはじめる・・・それは、いずれ豊臣方にも読めてきます。

ひょっとしたら、先の大坂城内での会議は、来るべき大きな戦の対応策を話し合う会議だったかも・・・

信包は、その来るべき合戦でも、重要な任務を帯びていたと推測できます。
そんな彼が突然の死です。

当然のように囁かれる毒殺説・・・その犯人は片桐且元(かつもと)(片桐さんについては8月20日参照>>)だとも言われています。

しかしながら、犯人はもちろん、その死因さえ、未だはっきりとはしていません。

毒殺か?病死か?

信長と秀吉・・・二人の天下人から、その後継者の補佐役を任された頼れる男・信包・・・その真相は神のみぞ知るといったところでしょうか。
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2008年7月16日 (水)

長宗我部元親・土佐統一!四万十川の戦い

 

天正三年(1575年)7月16日、「土佐の出来人」の異名を持つ長宗我部元親が、甲浦城を攻略し、土佐統一を果たしました。

・・・・・・・・・・・

土佐(高知県)西部にある幡多(はた)は、鎌倉時代の昔から公家・一条氏所有の荘園でした。

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)・・・京都の町を焼き尽くして繰り広げられた市街戦に嫌気がさした一条教房(のりふさ)は、早々に京都を脱出し、この幡多荘へと移り住んだのです(9月6日参照>>)

やがて、その一条氏は幡多郡の中村城(高知県四万十市)を居城とする戦国大名となるのですが、その間も、もともと出自が雅なお方の一条氏ですから、何をどうすると言った事をしなくても、この地の人々からは、「お公家大名」と呼ばれ、尊敬され続けていたのです。

ところが、教房から数えて5代目の一条兼定(かねさだ)の頃になると、この一条氏も戦国の波に呑みこまれる事となります。

この頃には、その本拠地を岡豊(おこう)に移していた兼定でしたが、度重なる失政に家臣からの信頼を失い、その地位が揺らいで来た中、登場してきたのは、宿命のライバルである本山を倒し(4月7日参照>>安芸城を攻略して(8月11日参照>>)土佐中央部を支配化に治めた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。

そんなこんなの天正二年(1574年)、とうとう兼定は、不満爆発の家老たちから隠居を迫られ、豊後(大分県)に追放されてしまうという事態になってしまいます。

絶好のチャンス!
・・・ただし、この兼定さんは、以前、元親が倒した安芸国虎の妹婿で、彼と組んで長宗我部を攻撃しようとした事もある人なので、ひょっとしたらこのチャンスは、元親の策略による人工のチャンスである可能性もありですね~。

とにかく、チャンスはチャンス!
この時を逃してはならずとばかりに元親は、後を継いで当主となったばかりの兼定の長男・内政(ただまさ)と、自分の娘を結婚させます。

さらに、何だかんだとウマイ事言って、その内政を岡豊城外に住まわせて実権を奪い、もう一つの中村城には、弟の吉良親貞(きらちかさだ)を送り込み、完全に一条氏を乗っ取ってしまったのです。

そうなると、兼定さんも黙ってはいられません。

嫁の実家の大友氏や、伊予(愛媛県)の武将たちの支援を受け、「打倒!長宗我部」を掲げて挙兵・・・四万十川(渡川)の西側に陣を敷き、防護施設の構築をしはじめます。

この時の、一条軍・3500。

この異変を知った元親は、即座に兵を集め対応します・・・その数7300。
これぞ、土佐の「一領具足(いちりょうぐそく)です。

一領具足とは甲冑一式という意味で、普段は農業に勤しんでいる農民ですが、いざという時は、その甲冑一式だけを持って即座に参戦する土着の武士団の事・・・こういう風に、一声かければ、瞬時にして兵団となるのが強味でした。

四万十川を挟んでにらみ合う両軍・・・やがて、長宗我部軍が川を渡りはじめ、四万十川の戦いが開始」されます。

川を渡らせてなるものか!と、一斉に、進軍する兵に向かって弓矢を射掛ける一条軍・・・この一条軍の攻撃を確認した長宗我部軍の別働隊が、一斉に上流へと移動しはじめます。

上記の通り、兵の数で劣る一条軍は、上流から回りこまれて攻撃されてはマズイとばかりに、軍を二手に分け、半分は上流の部隊への対応に当たらせます。

しかし、これは元親の陽動作戦・・・少ない兵をさらに分散させて余裕の長宗我部軍は、やすやすと四万十川を渡りきったのです。

動揺した一条軍は総崩れとなり、2百数十名の死者を出し、散り々々に敗走してしまいました。

さらに、この勢いに乗った元親は、天正三年(1575年)7月16日甲浦城(かんのうら)を攻略し、土佐の統一に成功します

兼定は、命こそ助かりますが、戦国大名としての一条氏は、ここに滅亡する事となります。

そして、元親の更なる夢は・・・そう、四国統一ですが、続きのお話は9月21日の【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】でどうぞ>>
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2008年7月15日 (火)

動かぬ西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算

 

慶長五年(1600年)7月15日、三奉行の連署状を受け取った毛利輝元が、大坂へ向けて、広島城を出陣しました。

・・・・・・・・・・・・

慶長三年(1598年)、幼い秀頼を五大老と五奉行に託し、あの豊臣秀吉が亡くなりました(8月18日参照>>)

それでも、重鎮の前田利家が踏ん張ってた間は、何とかバランスを保っていたものの、利家の死とともに、必然的に豊臣家臣団のトップとなった徳川家康は、豊臣家を軽視しはじめ、横暴な振る舞いが目立つようになります。

亡き秀吉の恩に報いるためにも、家康を許してはおけない・・・五奉行の一人であった石田三成は、家康を排除する決意を固めるのです。

ご存知、関ヶ原の合戦です。

慶長五年(1600年)の正月に、五大老の一人・上杉景勝が、年賀の挨拶をしに上洛しなかったのを「謀反の疑いあり」として、景勝を討つという名目で、伏見城を後にし、一路東へ兵を進める家康・・・

これを絶好のチャンスと見た三成は、7月2日、家康に合流して会津征伐に向かおうとしていた大谷吉継を、自らの居城・佐和山城に呼び出し、「打倒家康」の気持ちを打ち明けたのです。

初めは、「軽率な行動である」と三成を諫めて、一旦、会津征伐に加わった吉継でしたが、やはり、そこは無二の親友・・・考え直して、もう一度三成と会う事にします。

そして、吉継が三成の計画に賛同する決意をした7月11日(7月11日参照>>)・・・二人の間で話合われたのは、「実際に戦うとなれば、家康に対抗できる大物に総大将になってもらわねばならない」という大将選び・・・

そこで、白羽の矢が立ったのが、家康と同じく五大老の一人であった毛利輝元だったのです。

この輝元は、あの西国の雄=毛利元就の孫にあたります。

元就の嫡男であった隆元が早くに亡くなり(8月4日参照>>)、幼い頃から後継者とされた輝元・・・「毛利の両川(りょうせん)と呼ばれた元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景が、甥っ子の輝元を盛りたてて、元就亡き後の毛利家を大きくしてきましたが、一方では、この盛りたて方がやや過保護気味だったため、輝元はかなりのお坊ちゃんとして成長したとも言われますが・・・

毛利が秀吉の傘下となってからは、四国征伐九州征伐にも出陣していますが、その時の主力となったのは、やっぱり吉川隊と小早川隊・・・輝元が五大老の一人に名を連ねる事ができたのも、この両おじ様の活躍による物でした。

関ヶ原の頃には、吉川家は元春の息子・広家が当主に・・・、小早川家は隆景の養子の秀秋(秀吉の正室・ねねの甥)が後を継いでいました。

そんな輝元に、三成と吉継は、五奉行のうちの三人・・・前田玄以増田長盛長束正家の名前を連ねた「大坂へ来てちょーだい」という内容の連署状を送りと届けるのです。

7月12日付けのその書状には・・・
「詳細は安国寺に聞いて、早々に大坂に来てね」
・・・と、どうやら、輝元の説得には、安国寺恵瓊(えけい)があたったようです。

この書状を受け取った輝元は、即、準備し、慶長五年(1600年)7月15日広島城を出陣・・・船に乗り、瀬戸内海を一路、大坂へ向かいます。

これに驚いたのは、吉川家を継いでいた広家です。

彼は、「もはや時代は家康である」と読んで、独断で密かに家康と通じ、毛利の領地を安堵してもらう約束で、東軍につく事を決めていたのです。

ただ、輝元自身は、まだこの時点では総大将に担ぎあげられるとは思ってもいなかったようで、単に「呼ばれたから来た」といった感じだったようですが・・・

確かに、この日、輝元が大坂に呼ばれた時点では、まだ、三成以下の西軍のほうでも、総大将に決定していたわけではなく、反対意見もあったようですが、結局は三成が推した輝元に総大将を頼む事になり、先の安国寺恵瓊が毛利家の参謀という立場を利用し、言葉巧みに輝元を説得し、あれよあれよと言う間に、総大将に決定してしまったのです。

従兄弟で養子となっていた毛利秀元が・・・
「なに簡単に大坂城に入っとんねん!家康にバレたらどうするんじゃ!」
と、嘆いているところを見ても、この時の毛利家内にも、この西軍参戦に積極派と慎重派があった事をうかがわせます。

とは言え・・・とにもかくにも、輝元は、西軍の総大将になっちゃいました。

・・・で、結局、関ヶ原の合戦の当日、毛利の軍勢がとった行動は・・・

秀頼の補佐という名目で、輝元自身は関ヶ原へは行かず、大坂城に留まり、かの秀元を大将にして現地へ派遣。

そして、現地では、家康と約束を交わしている広家が、秀元の前面に陣取り、一歩も動かない・・・これで、一応は、東西両軍への義理立てができる事になる・・・かな?

西軍が勝った場合は、はなから西軍として参戦しているわけですから、何の問題もありませんし、東軍が勝った場合でも、密約がすでに交わされているので、こちらもOK!

もしかして、合戦がスゴイ事になって、東西両軍が大ダメージを受けた場合、実際には戦っていない毛利軍は戦力を保持したままなので、天下が向うから転がり込んで来る可能性さえあるかも・・・です。

「どう転んでも損はない」・・・それが毛利の勝算だったかも知れません。

結果・・・ご存知のように東軍の大勝利(9月15日参照>>)となりますが、毛利の思惑とはうらはらに、家康の見事な約束やぶりで、領地は大幅に削られてしまいます(9月28日参照>>)

しかし、まぁ、考えてみれば、石田三成や安国寺恵瓊は斬首(10月1日参照>>)されちゃってますから、負けチームの総大将でありながら、家名が残っただけでも儲けモンっちゃぁ、儲けモンなんですが・・・。 
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2008年7月14日 (月)

一か八かの廃藩置県~県名の由来は戊辰戦争の復讐?

 

明治四年(1871年)7月14日、明治政府により、藩を廃止して県を設置する詔書・・・いわゆる廃藩置県が発布されました。

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江戸時代には、藩という独立国家の集合体であった日本・・・戊辰戦争(6月18日参照>>)に勝利した明治新政府は、旧徳川の領地を直轄地としたものの、未だ、それ以外の場所は未だ江戸時代の統治の状況のままでした。

欧米列強が徐々にアジアに進出してくる中、日本が植民地とならないためにも、一刻も早く全国が一つの国家=中央集権国家になる事が必要です。

そこで、行われたのが明治二年(1869年)の藩籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)という藩の領地と領民の戸籍を天皇・新政府に返すという物でしたが、それは結局、藩主が知藩事という名前に変わっただけで、政治的なシステムとしてはほとんど変わらない状態・・・何とか、中央に力を集めようと、各藩の兵力の縮小を行えば、かえって反感を買うばかり、といった状況でした。

「これではいかん!何とか中央集権を推し進めなければ・・・」
・・・と、新政府メンバーは考えるのですが、実はこの時、バラバラだったのは日本の国だけではなく、新政府のメンバーもまったくバラバラの状態だったのです。

改革をしなければいけないという思いだけは同じですが、なら、具体的にどうする?となると意見はまとまらない・・・それぞれの出身藩の思惑もからむし、それぞれが個性的なメンバーばかりですし・・・。

制度改革の会議を開けば、あの大久保利通は初日から欠席。

「そんなんされたら、まともに会議でけへんやんけ!」
と、大久保の欠席を知った西郷隆盛が途中から欠席し始めると、今度は、それを見た木戸孝允も欠席・・・。

こりゃ、アカン!と、政府内の人事を大改造・・・全参議が辞任し、西郷と木戸が新参議となり、三条実美(さねとみ)岩倉具視以外の公卿は、全員排除される事に・・・。

そして、このゴチャゴチャ状態を一気に打開するため、長州(山口県)出身の鳥尾小弥太野村靖井上馨(かおる)らによって行われたのが廃藩置県です。

全国の知藩事を東京に集め、密かに長州・薩摩・土佐から約1万人の兵=御親兵(ごしんぺい)を用意し、武力にで断行・・・つまり、彼ら知藩事を人質に取った状態で、有無を言わさず彼ら全員をクビにし、藩は305府県・・・さらに併合されて75府県という地方行政区とし、中央政府からの地方官として知事と県令を派遣したのです。

知藩事という人たちは、ほぼ、江戸時代の藩主たちですから、諸藩からの抵抗が爆発しかねない一か八かのクーデターとも言えるほど、半強制的に行われた廃藩置県でしたが、これが、意外にも、あまり抵抗なく(…っても、事実上の人質に取られてるからなぁ)進み、一気に中央集権がなされて、日本は一つにまとまる事となったのです。

ところで、この廃藩置県の時の県名の命名に関するウワサがあるのをご存知でしょうか?

現在の全国47都道府県の中で、県名とその県庁所在地の名前が同じでない県が18県あるのですが、これは、その県名を命名した明治新政府による戊辰戦争の復讐・処罰であるというのです。

これは、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・宮武外骨(みやたけがいこつ)が、そのミョーな法則に気づき、指摘した物なのですが・・・

最初に廃藩置県が成った305府県(北海道開拓使をのぞく)の時は、すべての県名が以前の藩名と一致していたものの、それが75府県に統合されていく中で、戊辰戦争で新政府軍についた藩の藩名はそのまま県名と県庁所在地名にし、幕府軍についた藩には、藩名より格下の郡や村などの名前を県名という冠にして、その下に来る県庁所在地名に藩名を持ってくるというイケズをやったのではないか?と言うのです。

たとえば、鹿児島・山口・高知・秋田・広島・岡山・鳥取・佐賀・福岡などは、藩の名前が県名となり、しかも県庁所在地も同じ名前です。

逆に、宮城(仙台藩)島根(松江藩)石川(金沢藩)などは、確かに県名の下に来る県庁所在地の名前が旧藩の名前となってます。

しかし、もちろん、これには異論もあります。

幕末期に歴史での重要な役割を果たし、新政府側であった宇和島藩の名前は県名にはなっていません。

また、仙台県が宮城県に変更されたのには、「藩の名前のままだと、県民がいつまでたっても、藩の時代の習慣から抜けきれない」との訴えがあったからで、強制的に名前を変えたのではないという事も伝わっているとの事・・・。

それに、当時の一般的な考えとして、戦いに敗れた場所ほど、「その名前を一新して、新たなステップを踏み出したい」と願ったとも考えられます。

なんせ、この時代は、新たな気持ちで出発点に立った時には、人も自分自身で、名前を変えていた時代ですから、一つの名前を、ずっと貫くという事にさほどこだわりがなかったかも知れません。

果たして、この論争・・・決着がつく日が来るのやら・・・。

ただ、本当に戊辰戦争の復讐だとしたら、誰かが、後にそのパターンに気づく前に、県名が決まった時点で、すでにウワサになっていなきゃオカシイ気がしないではありませんが・・・。
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2008年7月13日 (日)

秀吉の失策?小田原城での論功行賞

 

天正十八年(1590年)7月13日、小田原城内において、小田原征伐についての論功行賞が行われました。

・・・・・・・・・・

論功行賞手柄に応じて賞を与える事・・・つまり、先の小田原征伐(7月5日参照>>)によって滅亡した北条氏の領地をどうするか?はたまた、誰に新たな領地を与えるか?などが,、豊臣秀吉によって決められ、参戦した皆に伝えられたという事です。

ここで、徳川家康は、秀吉から、今までの東海(三河・信濃・甲斐・遠江・駿河など)に代わって、旧北条氏の領地であった関東一帯・・・いわゆる関八州を与えられるわけですが、もちろん、この恩賞を心の中で「いややな」と思っても、恩賞=命令なので拒否する事はできません。

現に、この時、家康が関東へ行く代わりに、旧・家康の領地を与えられた織田信雄(のぶお・のぶかつ:信長の次男)は、それを拒否したため改易されています。

ただし、この家康の関東へのお引越しは、結果的には秀吉の失策だったかも・・・

神様が味方についているんじゃないか?と思わせるくらい、やる事なす事が的中し、出世街道まっしぐらの秀吉の人生の中で、この家康の関東転封命令は、ちょっと・・・

それこそ、天下の秀吉ですから、彼なりに、当時の情勢を考えて行ったのでしょうが・・・

秀吉にしてみれば、「とにかく嫌なヤツを遠ざけたい」という気持ちと、「統治するに難しい場所を家康にやらせよう」というもくろみがあったのかも知れません。

確かに、関八州とは、関東8カ国という事ですが、この時点では、常陸(茨城県)には佐竹氏安房(千葉県)には里見氏下野(栃木県)には宇都宮氏那須氏などなど・・・まだまだ、戦国大名が群雄割拠していて実質的に北条氏が支配していたのは4カ国程度

しかも、その北条氏を滅亡させてのお国入りですから、地元が好意を持って受け入れるとは考え難い状況だったのですからね。

しかも、秀吉は、その後の家康の居場所まで、それとなく提示していたのです。

それは、まだ、小田原城を包囲してまもなくの石垣山城での陣中で、かの小田原城を見下ろしながら・・・

「もし、この城が落ちたら、君にあげよかなって思ってるんやけど、そうなったら、君はここに住むんか?」
秀吉の質問に、家康は・・・
「まぁ、そうなるでしょうね」
すると、秀吉は、小さく首を左右に振りながら・・・
「ここは、軍事的に重要で危ない場所やから、誰かイケイケムードの血気盛んな家臣に守らして、君はもっと東にある江戸っちゅーとこに居城を構えたほうがええでぇ」
と、ツレションをしながら言ったのだとか・・・ちなみに、これを『関東の連れションベン』と言います(*^.^*)

で、この時の何気ない立ち話で、家康は江戸城に入る決意をしたとされていますが、当時の江戸は、小さな漁村があるだけのかなりのド田舎・・・やはり、家康をなるべく遠くへ、そして、城下町の片鱗すらない場所に追いやってやろうという魂胆が見え隠れする気がします。

この時期には、「天下を取りたい」などという本心を、おくびにも出していない家康ですから、素直に秀吉の言う通りにしたように見せかけていたのでしょうが、ひょっとしたら、すでに遠い将来への青写真を考え始めていたかも知れませんね。

なんせ、この関東という場所はかなりのクセモノです。

秀吉は、この関東の歴史を知らなかったのか?
それとも、知っていてもなお、家康を遠くへ追いやりたかったのか?
はたまた、何やら、我等凡人には計り知れない意図があったのか?

そうです。
関東は、あの平将門(2月14日参照>>)の時代から、何度も、中央に反旗をひるがえす独立国家としての歴史を持っているのが関東です。

このブログで何度か登場している鎌倉公方(2月10日参照>>)も・・・。

しかも、おもしろい事に、その公方の一つ、堀越公方を倒して(10月11日参照>>)関東支配に乗り出した北条氏も、その独立国家の歴史を受け継いでいるのです。

もちろん、ご存知のように、北条氏があからさまに、朝廷や中央に対して弓を引いたという事実はありませんが、よ~く考えてみて下さい。

この戦国時代において、多くの武将が夢見た上洛・・・皆が、上洛し、朝廷に認めてもらって、そこから天下に号令しようと考える中で、あれだけ関東に君臨しておきながら、北条氏には、その気配が見えないのではないでしょうか?

中央にこびる事なく、ただひたすら関東の支配に取りくむ・・・

この歴史を見る限りでは、一番怖い存在である家康に関東を支配させた事は、虎に翼をつけて送り出すようなもの・・・

果たして、一方の家康は、この関東の歴史を熟知していたのか?していなかったのか?

いずれにしても、この天正十八年(1590年)7月13日家康の関東への転封が、その後の豊臣家の運命を左右したと言えるかこ知れませんね。

そして関東を貰った家康は・・・と、補足のお話は2011年の7月13日のページでどうぞ>>
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2008年7月12日 (土)

歴史人物辞典~「ほ」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ほ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

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★ボース(ラース・ビハーリー・ボース)
  ●インド独立に貢献したボースと頭山満】

★穂井田元祐(庄元資)
  ●猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…

★芳春院(まつ)
  ●前田利家の妻・まつの江戸下向の謎
  ●利家を…前田家を支えた良妻賢母・芳春院まつ

★北条氏政
★北条氏綱
★北条氏直
★北条氏康
★北条早雲
  ●【北条五代の年表】へ

★北条氏照
  ●小田原攻めで最も悲惨~八王子城の怖い伝説

★北条氏規
  ●北条家最後の人~北条氏直の肌の守りと督姫と

★北条高時
  ●滅亡へのカウントダウン?鎌倉幕府14代執権・北条高時
  ●鎌倉討幕を内に秘め足利高氏が上洛
  ●鎌倉炎上…北条高時・自刃
  ●「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に…
  ●鎌倉幕府の滅亡

★北条綱成
  ●信玄・強気の深沢城矢文~深沢城攻防戦
  ●「地黄八幡」の闘将…北条綱成

★北条時政
  ●鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱
  ●畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦
  ●若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚

★北条時宗
  ●フビライの日本侵略計画はあったのか?
  ●蒙古襲来・文永の役
  ●北条時宗が元との徹底抗戦を決意した日
  ●準備万端!北条時宗の元寇防塁
  ●第2次蒙古襲来~弘安の役
  ●第2次蒙古襲来~弘安の役に神風が…
  ●「蒙古襲来絵詞」に隠された元寇のその後

★北条時行
  ●北条復興を願って…中先代・時行の反乱

★北条時頼
  ●「いざ!鎌倉」の語源~鉢の木と北条時頼

★北条仲時
  ●足利高氏の六波羅探題攻撃…守る北条仲時
  ●432名の忠臣と供に…北条仲時・自刃

★北条治時(阿蘇治時)
★北条高直(大仏高直)
  ●鎌倉幕府軍…最後の全面降伏

★北条夫人(桂林院・小田原御前・武田勝頼夫人)
  ●内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院

★北条政子
  ●伊豆に白旗!頼朝挙兵
  ●源頼朝・鎌倉で再起
  ●鶴岡八幡宮・静の舞
  ●鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱
  ●父に愛され、母に抹殺された鎌倉2代将軍・源頼家
  ●承久の乱勃発で北条政子・涙の演説
  ●北条政子~尼将軍・誕生への道

★北条泰家
  ●起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い

★北条義時
  ●みちのくの勇者・佐藤忠信の最期
  ●幕府を揺るがす和田合戦
  ●迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎
  ●実朝~暗殺事件の謎・パート2
  ●鎌倉幕府・第2代執権~北条義時の最期の謎

★宝蔵国師(鉄眼道光)
  ●1万人を救った救世大士…宝蔵国師・鉄眼

★法然
  ●法然に見守られ~甘糟忠綱・最期の時
  ●法然の流罪は、イケメン弟子のサービス過剰?

★保科正之
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之
  ●官のムダを省いて被災者優先…保科正之の英断
  ●初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』

★細川顕氏
  ●南朝VS北朝…楠木正行の藤井寺の戦い
  ●室町幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い

★細川氏綱
  ●最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転

★細川勝元
  ●応仁の乱のきっかけとなった足利義視
  ●応仁の乱の口火を切る御霊合戦
  ●応仁の乱・勃発
  ●足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦
  ●2人の将軍に2つの幕府…足利義視トンズラ事件
  ●無骨な総大将~応仁の乱を率いた山名宗全

★細川ガラシャ
  ●関ヶ原に花と散る~細川ガラシャ=明智玉の壮絶最期

★細川清氏
  ●南北朝・東寺合戦(京軍)の終結
  ●南北朝動乱~北朝執事の細川清氏が南朝へ…
  ●南北朝~新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀

★細川澄元
  ●政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い
  ●船岡山の戦い~いよいよ戦国の幕が上がる
  ●管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い
  ●室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い
  ●高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い

★細川澄之
  ●政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い

★細川重賢
  ●見事な財政立て直し~肥後の鳳凰・細川重賢

★細川高国
  ●政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い
  ●船岡山の戦い~いよいよ戦国の幕が上がる
  ●管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い
  ●室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い
  ●高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い

★細川忠興
  ●細川忠興の意外な才能
  ●細川ガラシャ・最期の日
  ●関ヶ原余波~忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦

★細川晴元
  ●高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い
  ●祇園祭の長刀鉾は宗教戦争の証…天文法華の乱
  ●最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い
  ●三好長慶の八上城攻略戦
  ●足利義輝VS三好長慶~白川口(北白川)の戦い
  ●剣豪将軍・足利義輝~京都奪回作戦の日々
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い
  ●やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶

★細川晴之
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

★細川政元
  ●「鬼瓦」と呼ばれた細川勝元の娘・赤松洞松院
  ●下克上の至り,山城の国一揆
  ●加賀一向一揆の支配は、なぜ100年続いたか?
  ●世界一有名な日本庭園…龍安寺の石庭が完成
  ●前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡合戦
  ●赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国
  ●朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い
  ●戦国の幕を開けた男~細川政元・暗殺
  ●政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い

★細川宗孝
  ●肥後細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷事件

★細川持常
  ●永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

★細川幽斎(藤孝)
  ●孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!
  ●明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道
  ●たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?田辺城・攻防戦
  ●関ヶ原余波~細川VS小野木の福知山城攻防戦
  ●齢77!芸は身を助く~幽斎の長寿の秘訣

★細川頼之
  ●南禅寺事件~坊さんどうしのケンカに幕府が…

★菩提僊那
  ●奈良時代にやって来たインド僧…菩提僊那

★堀田正俊
  ●死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件

★牡丹花肖栢
  ●星月夜の織姫~大阪・池田の民話

★仏御前
  ●平清盛の寵愛を受けた祇王と仏御前

★骨皮道賢
  ●足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦

★母里太兵衛友信
  ●母里太兵衛友信~これぞ真の黒田武士

★堀内氏久
  ●熊野・北山一揆in大坂の陣

★堀越貞基
  ●今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

★堀利煕
  ●外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃

★堀直政
  ●豊臣秀吉をうならせた天下の陪臣・堀直政

★堀秀政が病死
  ●織田信長の高野山攻め
  ●大器が満たぬうちに…堀秀政・無念の病死

★堀秀村
  ●信長&秀吉VS浅井長政~箕浦の戦い

★堀主水
  ●会津騒動で改易…会津藩主・加藤明成

★本因坊算砂(本行因日海)
  ●今日は本能寺の変~信長の首は静岡に?

★本寿院(尾張藩主・徳川吉通の生母)
  ●尾張藩主・徳川吉通の生母・本寿院のご乱行

★本多重次(作左衛門)
  ●家康の兄代わり~鬼作左・本多重次が一筆啓上

★本多忠朝
  ●VS本毛利勝永~大坂夏の陣・天王寺口の戦い

★本多平八郎忠勝
  ●家康に過ぎたるもの~本多忠勝・一言坂の戦い
  ●ヒデヨシ感激!本多忠勝の後方支援in長久手の戦い
  ●家康とともに半世紀…四天王・本多忠勝

★本多利久
★本多俊政
★本多正広
  ●関ヶ原合戦~最初の戦い…高取城の攻防

★本多政重
  ●エリートから波乱万丈へ~本多政重・流転の半生

★本多正純
  ●宇都宮釣天井の仕掛け人・亀姫のド根性

★本多正信
  ●三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ!

★本間重氏
  ●新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義

★本間(羽茂)高茂・(河原田)高統・(沢根)左馬助
  ●金のなる木は俺のモノ!景勝と兼続の佐渡攻略

 
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歴史人物辞典~「へ」から始まる歴史人物

 

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★平城天皇
  ●悪女・藤原薬子の乱
  ●「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成

★平中(平貞文)
  ●モテモテ平中=平貞文の失恋話

★戸次鑑連(立花道雪)
  ●毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城・攻防
  ●ハンディを克服して大友氏を支えた立花道雪

★別所長治
  ●秀吉包囲網・三木城籠城戦
  ●三木の干殺し~別所長治の籠城戦

★ペリー
  ●黒船来航~そこには琉球の運命も・・・
  ●ペリーが予測した「ものづくり日本」
  ●ペリーのお土産…電信機

★弁仙(南蓮上院)
  ●織田信長の高野山攻め

 
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歴史人物辞典~「ふ」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ふ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★フェノロサ(アーネスト・フェノロサ)
  ●日本美術の救世主=フェノロサと岡倉天心

★福井小次郎
  ●会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦

★福沢諭吉
  ●幕末・「遣欧使節団」珍道中
  ●福沢諭吉の『学問のすゝめ』刊行
  ●漢学→蘭学→英学そして再び…夢止まぬ諭吉

★福島正則
  ●家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事
  ●老獪・家康…西へUターンの小山評定
  ●関ヶ原に向けて~徳川家康が江戸城を出陣
  ●関ヶ原~福束城攻防戦
  ●関ヶ原~高須城&駒野城&津屋城の戦い
  ●関ヶ原~竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝
  ●戦国の終わりとともに…福島正則の転落人生

★福田盛雅
  ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦

★福地源一朗(桜痴)
  ●幕末・「遣欧使節団」珍道中

★福原越後(元僴)
  ●長州を守るため~福原越後の政治責任

★福原助就
★福原則尚
  ●秀吉の中国攻め~二兵衛が迫る福原城の戦い

★藤方朝成
  ●織田信長の三瀬の変…名門・北畠の最後

★藤田小四郎
  ●父の遺志継ぐ藤田小四郎~天狗党誕生
  ●尊王と敬幕と・・・攘夷の魁・天狗党の模索
  ●天狗党大暴れ!下妻夜襲
  ●総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党の誕生
  ●天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争
  ●尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い
  ●天狗党・雪の行軍~運命の新保入り
  ●天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状
  ●早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期
  ●維新のさきがけ~天狗党・概要

★藤田嗣治
  ●最後まで日本を忘れなかった世界のフジタ

★藤田東湖
  ●水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死
  ●父の遺志継ぐ藤田小四郎~天狗党誕生

★藤野斎(山国隊)
  ●時代祭の先頭を行く「山国隊」と北野天満宮   

★伏見天皇
  ●南北朝の前ぶれ?皇位の綱引き・伏見天皇

★藤原顕信
  ●満月の陰り…道長の息子・藤原顕信の出家

★藤原(平)景清
  ●源平・屋島の戦い~弓流し
  ●頼朝暗殺計画・37回~平家の生き残り・平景清

★藤原鎌足(中臣鎌足)
  ●入鹿暗殺≠大化の改新
  ●蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説
  ●中臣鎌足,藤原の姓を賜る

★藤原清衡
  ●奥州・藤原氏の誕生
  ●5年なのに「後三年の役」?
  ●奥州藤原氏・100年の基礎を築いた藤原清衡

★藤原薬子
  ●悪女・藤原薬子の乱
  ●「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成

★藤原維畿
  ●平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!

★藤原定家
  ●百人一首に隠された暗号
  ●恋の歌姫~式子内親王と藤原定家

★藤原実頼
  ●藤原一族最後の陰謀?「安和の変」

★藤原輔子(大納言典侍)
  ●平家の公達・平重衡と輔子

★藤原純友
  ●海賊将軍~藤原純友・天慶の乱
  ●天慶の純友・瀬戸内に散る

★藤原忠平
  ●『延喜式』ってどんな物?

★藤原経清
  ●奥州藤原氏・100年の基礎を築いた藤原清衡

★藤原定子
  ●中宮・定子と清少納言
  ●一条天皇、悲しみの譲位

★藤原俊成
  ●忠度の都落ち~平家物語~

★藤原時平
  ●菅原道真の策謀的政治手腕
  ●時平の七笑~意外に敏腕?左大臣・藤原時平
  ●『延喜式』ってどんな物?

★藤原得子(美福門院)
  ●平治の乱~清盛の天皇救出劇

★藤原仲成
  ●「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成

★藤原仲麻呂(恵美押勝)
  ●歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱
  ●盛者必衰~藤原仲麻呂の乱
  ●没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇

★藤原成親
★藤原成経
  ●浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀
  ●鬼界ヶ島に1人ぼっち~俊寛の悲しい最期

★藤原信頼
  ●平治の乱を引っ掻き回した主人公
  ●平治の乱に敗れ「さらし首」となった信西
  ●平治の乱~清盛の天皇救出劇
  ●平治の乱・終結

★藤原秀衡
  ●源義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑
  ●【義経と牛若は同一人物か?】

★藤原広嗣
  ●身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱

★藤原不比等
  ●律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人・藤原不比等
  ●1300年のタイムカプセル…誕生記念「多胡碑」

★藤原道長
  ●一条天皇、悲しみの譲位
  ●藤原道長・栄華物語
  ●満月の陰り…道長の息子・藤原顕信の出家
  ●全盛を誇った藤原道長の最期

★藤原基経
  ●関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇
  ●御室桜のごとき返り咲き~宇多天皇の「寛平の治」

★藤原元命
  ●役人の不正は許さん!「尾張国郡司百姓等解文」

★藤原保則
  ●善政で蝦夷を制圧した藤原保則

★藤原泰衡
  ●頼朝が「泰衡追討の院宣」を要求
  ●阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡
  ●奥州・藤原氏の滅亡
  ●謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説

★藤原良房
  ●藤原氏繁栄の基礎…実に怪しい承和の変
  ●藤原北家・独占!摂関政治の始まり
  ●「応天門炎上事件」真犯人は誰だ!

★藤原頼長
  ●保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路
  ●天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

★藤原頼通
  ●藤原頼通と平等院と末法
  ●藤原頼通の平等院鳳凰堂の見どころ

★プチャーチン
  ●吹き荒れる開国の嵐に不幸続きのプチャーチン
  ●江戸総攻撃の予定日に散った忠義の幕臣・川路聖謨

★不動明王
  ●不動明王のお話

★舟戸久左衛門
  ●長束正家、自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い

★フビライ・ハーン
  ●フビライの日本侵略計画はあったのか?
  ●蒙古襲来・文永の役
  ●北条時宗が元との徹底抗戦を決意した日
  ●第2次蒙古襲来~弘安の役

★不昧(松平治郷)
  ●名君か否か?茶人藩主・松平治郷の侘びっぷり

★フランシスコ・ザビエル
  ●ザビエルが以後よく広めるキリスト教
  ●ザビエル死して奇跡を残す

★古市澄胤
  ●赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い

★古田織部
  ●家康暗殺計画は本当にあったのか?

★古人大兄皇子
  ●蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説

★武烈天皇
  ●武烈天皇の汚名を晴らしたい

★フロイス(ルイス・フロイス)
  ●信長とキリスト教~彼は神になろうとしたのか?

★不破源六広綱
  ●秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「ひ」から始まる歴史人物

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★稗田阿礼
  ●古事記編さんに関わった稗田阿礼ってどんな人?

★東久世通禧
  ●幕末~日本最大の危機?アメリカ水兵射殺事件
  ●泉州堺事件~土佐藩兵のフランス兵殺傷

★比企能員
  ●鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱

★疋田景兼
  ●三剣聖に次ぐ屈指の剣豪・疋田景兼
  ●箕輪城落城~あの新陰流・誕生の影に・・・
  ●男・柳生宗厳~68歳でつかんだ大きな一歩

★樋口兼光
  ●無残やな 甲の下の篠原の合戦

★樋口定次(又七郎)
  ●村上天流VS樋口定次~烏川原の決闘

★土方雄久
  ●小牧長久手の戦いへ…織田信雄の重臣殺害事件

★土方歳三
  ●新撰組・絶好調!池田屋事件
  ●新撰組・山南敬助の心の内は・・・
  ●甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤勇の失敗
  ●函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い
  ●函館戦争・総攻撃開始~土方歳三・最期の日
  ●土方歳三の最後の命令を預かった市村鉄之助

★肥田忠政
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦

★左甚五郎
  ●謎の彫刻師・左甚五郎

★羊
  ●1300年のタイムカプセル…誕生記念「多胡碑」

★尾藤主膳
  ●徳川家康、徹底根絶やし~気賀堀川城一揆

★一言主神
  ●空飛ぶヒーロー・役行者の流罪のウラに利権問題?

★人見勝太郎
  ●遊撃隊奮戦!ここが最後の箱根戦争

★人見絹枝
  ●なでしこジャパンの先駆者・人見絹枝と8月2日

★日野富子
  ●応仁の乱・勃発
  ●室町幕府・崩壊の張本人~足利義政
  ●2人の将軍に2つの幕府…足利義視トンズラ事件
  ●応仁の乱のきっかけとなった足利義視
  ●応仁の乱・終結~ゴネ得?大内政弘の帰国
  ●悪女?有能政治家?将軍の嫁・日野富子

★美福門院(藤原得子)
  ●平治の乱~清盛の天皇救出劇

★卑弥呼
  ●邪馬台国はどこか?を見て

★百武賢兼
  ●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

★平井加尾
  ●龍馬伝の「よくわからない」&加尾ちゃんへの手紙

★平賀源内
  ●夏バテに鰻は万葉の昔から…土用の丑に因んで
  ●新田義興の怨念?神霊矢口の渡し
  ●非常の人・平賀源内,殺人で逮捕

★平賀朝雅
  ●畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦
  ●若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚

★平沢貞通
  ●謎の帝銀事件

★平田靭負
  ●宝暦治水事件~薩摩義士・平田靭負 男の決断

★平塚為広
  ●関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束

★平塚らいてう(雷鳥)
  ●女性は太陽、男はツバメby平塚らいてう

★平手汎秀
  ●三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦いと平手汎秀の死

★平手政秀
  ●織田信長の傅役・平手政秀の死

★広沢真臣
  ●維新動乱の未解決事件~広沢真臣・暗殺

★広瀬武夫
  ●日露戦争・旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫

★広瀬兵庫助
  ●三成・大垣城に…関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2

★弘中隆兼(隆包)
  ●厳島の戦い~勇将・弘中隆兼の場合

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「は」から始まる歴史人物~

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★萩原新三郎
  ●三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」

★橋口壮助
  ●寺田屋事件に散った有馬新七と薩摩九烈士

★間人皇女(皇后)
  ●天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎

★橋姫(宇治・瀬田)
  ●橋の日なので橋姫の怖い話

★橋本左内
  ●橋本左内と安政の大獄

★長谷川五郎右衛門
★長谷川彦右衛門
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦

★長谷川等伯
  ●智積院と長谷川等伯・障壁画

★支倉常長
  ●伊達政宗の幕府転覆計画

★畠山重忠
  ●この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明・衣笠城の合戦
  ●義仲追討へ義経が動く
  ●宇治川の先陣争い
  ●畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦

★畠山高政
  ●久米田の戦い~三好実休が討死す

★畠山尚順
  ●応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い
  ●前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡合戦

★畠山政長
  ●畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い
  ●応仁の乱の口火を切る御霊合戦
  ●応仁の乱・激戦~相国寺の戦い
  ●応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

★畠山義堯
  ●京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

★畠山義豊
  ●応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い
  ●前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡合戦

★畠山義就
  ●畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い
  ●応仁の乱の口火を切る御霊合戦
  ●応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い
  ●応仁の乱後も最後まで戦い続けた男・畠山義就

★畠山義英
  ●前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡合戦

★波多野秀治
  ●八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?

★波多野稙通
  ●高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い
  ●畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
  ●三好長慶の八上城攻略戦

★波多野宗長
★波多野宗貞
  ●織田信長軍による福知山攻略戦

★八条宮智仁親王
  ●2人の天下人に運命を翻弄された八条宮智仁親王

★鉢かつぎ姫(初瀬)
  ●大阪の昔話~ちょっと色っぽい「鉢かづき姫」

★蜂須賀家政
  ●阿波の古ダヌキ~蜂須賀家政

★蜂須賀小六正勝
  ●信長&秀吉VS浅井長政~箕浦の戦い

★蜂須賀一角
  ●阿波踊りを踊っただけで…お取り潰しの蜂須賀一角

★初(常高院)
  ●ホタル大名・京極高次…一世一代の決断
  ●大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原
  ●勲功1番の戦いぶり~京極高次の関ヶ原
  ●浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣
  ●事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち

★服部(小平太)一忠
  ●桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠

★服部半蔵正成(2代)
  ●徳川家康・決死の伊賀越え
  ●服部半蔵に影はあったか?
  ●忍者の教科書『万川集海』

★服部半蔵正就(3代)
  ●意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者

★八百比丘尼
  ●不老長寿は幸せ?人魚伝説・八百比丘尼

★花井お梅
 ●『明治一代女』花井お梅の心意気

★花房職之(職秀)
  ●「小山評定」前夜…徳川家康と花房職之

★馬場信春
  ●【決戦!長篠の戦い】

★濱口梧陵
  ●安政南海地震と濱口梧陵~稲むらの火

★頓宮又次郎・孫三郎
  ●赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

★林権助
  ●敗者だからこそわかる平和…外交官・林権助

★林忠崇
  ●遊撃隊奮戦!ここが最後の箱根戦争
  ●前代未聞!藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇

★林為忠
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦
  ●本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦

★林正武(神戸与五郎)
  ●小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

★林美作守通具
  ●織田信長の大声で信行に勝利?稲生の戦い

★林通政
  ●織田信長ピンチ!~第二次長島一向一揆戦

★早野勘平(萱野三平)
  ●忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平

★原市之進
  ●徳川慶喜の参謀・原市之進

★原田左之助(新撰組十番隊組長)
  ●「もっと生きていて…」~死にぞこね原田左之助

★原マルチノ
  ●天正遣欧少年使節の帰国

★ハリー(エドモンド・ハリー)
  ●ハリーとハレー彗星の話

★ハリス
  ●日本の思い出を胸に…初代駐日総領事・ハリス
  ●ハリスと唐人お吉

★パルマー
  ●黒船来航のペリーが予測した「ものづくり日本」

★幡随院長兵衛
  ●旗本奴VS町奴…幡随院長兵衛・殺害
  ●屈しない男=チーム旗本奴の水野十郎左衛門成之

★塙団右衛門直之
  ●岩見重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち
  ●夜討ちの大将・塙団右衛門in大坂冬の陣
  ●豊臣滅亡を決定づけた?大坂夏の陣・樫井の戦い
  ●私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦いin大坂夏の陣

 
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2008年7月11日 (金)

天才思想家・佐久間象山~幕末の京に散る

 

元治元年(1864年)7月11日、京都の三条木屋町にて、佐久間象山が河上彦斎に斬殺されました。

・・・・・・・・・・・

佐久間象山(さくましょうざん)は、幕末期を代表する思想家・・・はじめは儒学を学び、私塾を開いていましたが、外国との緊迫ムードが高まった事で、藩主の命により洋学研究に当たるとともに兵学を学ぶようになり、それからは、西洋への強い関心を持つようになります。

そこから、儒教道徳を保ちながら西洋の技術も取り入れるという、彼独特の思想が生まれ、その考えは多くの人物に影響を与えます。

象山の門弟には、吉田松陰勝海舟などがいますが、ご存知のように松陰の松下村塾(11月5日参照>>)からは、高杉晋作伊藤博文といった幕末のそうそうたるメンバーが輩出されていますし、勝海舟を通じては、あの坂本龍馬象山に出会い、その考えに心惹かれています。

Sakumasyouzan600 そう考えれば、彼の存在が幕末の志士たちに与えた影響が非常に大きい事がわかります。

しかし、そんな象山の主張は一部の尊皇攘夷派の反感を買う事になり、元治元年(1864年)7月11日、人斬りとして恐れられていた肥後(熊本県)河上彦斎(かわかみげんさい)によって、京都・三条木屋町にて暗殺されるのです(12月4日参照>>)

この彦斎は、後に、象山がどのような人物であったのかを知り、それ以来、人斬りをやめたとも言われていて、あの少年ジャンプに連載されていた『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心の幕末時代・人斬り抜刀斎は、この彦斎をモデルにしているのだとか・・・

ところで、そんなエライ象山さん・・・学識豊かで、とても聡明な方なのですが、その才能が子供の頃から抜きんでていて、周囲からも天才児ともてはやされたせいか、ちょっと変わったところのある人だったようです。

彼は、相当な女好きで、いつも周囲に
「女を紹介してくれ」「女を紹介してくれ」
と頼みまくっていたそうなのです。

それも・・・
「ケツのデカイ女!」
と決まっていて、あちこちのつてを使って探しまくっていたのだとか・・・。

しかし、これは、単なる女好きではなく、遺伝子の法則に基づいての天才らしい発想・・・彼は日頃から自分の才能に相当な自信を持っていて・・・

「俺のような優秀な人間と、体格のえぇ女との間に子供が生まれたら、優秀で健康な理想的日本人が生まれるに違いない・・・特に、ケツのデカイ安産型の女なら、次々と子供を産む可能性が高い!」
と、真剣に思っていたのです。

もちろん、そこに、美人という条件が加わっていたのも、面食いなのではなく、聡明で健康で、さらに見た目も美しい子孫を残したいがためというのが理由でした。

儒学を学んだにしては、ちょっと・・・ですね。

そんな象山は、勝海舟の妹の順子さんを妻に迎えますが、上記のような考えじゃぁ、夫婦仲がうまくいくはずもなく、象山が自信過剰なら海舟も自信過剰ですから、義理の兄弟としてもソリが合わず、「学問の教えは請うても、人としては、つき合いたくない」というのが、海舟のホンネだったようです。

結局、冷え切った夫婦仲の順子さんとの間には子供が生まれず、お妾さんのお菊さんとの間に男の子・格二郎が生まれますが、この格二郎も、象山に似たのは、女が好きなところだけで、学問のほうはサッパリ・・・という予想外の展開に・・・(2月26日参照>>)

やはり、男と女の関係は愛あればこそ・・・物事が計算通りにいかない事を、自分の子供の成長を見るにつけ、彼も痛感したのかも・・・

佐久間象山・享年54歳・・・
いくら変わり者でも、天才と呼ばれた人が、志半ばで暗殺という無念の最期を遂げるのは、心が痛みます。

~夷を以って夷を制す~
「外国の技術で外国を倒す」

「西洋かぶれ」と危険視された彼の思想は、日本を守りたいがための物・・・

女性への愛情はうまくコントロールできなかった幕末の天才も、母国への愛情は、人一倍持っていたに違いないでしょう。

日本の夜明けのためにも、あと、もう少し・・・彼に教えを請いたかったですね。
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2008年7月10日 (木)

佐々成政の失態~肥後・国人一揆

 

天正十五年(1587年)7月10日、肥後・隈府城隈部親永が、領主の佐々成政反発して挙兵・・・肥後国人一揆が勃発しました。

・・・・・・・・・・

もともと織田信長の直参で、柴田勝家前田利家とともに、信長の天下統一の北陸平定担当だった佐々成政(さっさなりまさ)・・・。

信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉と勝家が対立した時には、富山城にありながら勝家側に、秀吉と徳川家康が対立した時には家康につき(8月23日参照>>)、さらに、極秘で家康に会うため、登山史上に残る軽装備での厳寒の北アルプスさらさら越えを決行(11月11日参照>>)・・・と、ことごとく秀吉に反発していたわりには、命を落す事なく秀吉の傘下に入り、大幅に領地はカットされるものの、富山新川を安堵され(8月29日参照>>)お伽衆として生き残っていました

その後、秀吉の九州征伐に参加した事で、肥後(熊本県)五十万石を与えられ、見事、隈本城主となって大名に返り咲きますが、この肥後領主への大抜擢が、本当に大抜擢であったのか?、はたまた、秀吉の策略による物なのか?は、微妙なところです。

・・・というのも、以前、成政さんのご命日の日のページ(5月14日参照>>)に書かせていただいたように、秀吉の正室・ねねさんとの「黒百合事件」や、富山に伝わる「黒百合伝説」などあるものの、それは、あくまで、複線であり、伝説であって、後付けの可能性も大・・・

で、史実としては、最終的に、彼が切腹を命じられる直接の原因は、この肥後の国人一揆の勃発にあるわけですが、この一揆の勃発は、どちらかというと、秀吉にとって想定の範囲内・・・予想できる事だったからです。

国人というのは、地元に根付いた大名の下に位置する武士・・・国侍、あるいは国衆とも呼ばれる人たちの事です。

領主が、中央から任命され、いきなりその地にやってくるのに対して、彼ら国人は何代も前からずっとその地に住みついて、それぞれの小国を仕切っているわけですから、お上の命令で新たにやって来た領主としては、なかなか、その扱いが難しい・・・しかも、肥後という場所は特にその国人勢力の強い場所であったために、うまく統治する事が困難である事を、秀吉は知っていたに違いないのです。

さらに、そこに、成政の性格です。

実は、この成政さん・・・信長の配下の時代には、優れた武士20人を選んで編制する「母衣衆(ほろしゅう)の、しかも、隊長に選ばれています。

この母衣衆というのは、合戦の時に、戦いの最前線と本陣の総大将との間の連絡係の事ですが、あくまで係なので、本来の武将としての仕事もこなしつつ、弓矢や弾丸飛び交う戦場を行き来するという大変な役どころ・・・それを、彼は見事にこなし、その迅速・果敢な戦いぶりで、何度も首級をあげているのです。

これは、ひとえに成政の負けず嫌いで強引な性格の成せるワザ・・・そんな成政の性格を、秀吉は、あまり快く思っていなかったとも言われています。

快く思っていなかった・・・つまり、成政の性格を、秀吉はよく知っていたわけで、そんな強引で我の強い性格の彼を、国人勢力の強い場所へ行かせたなら、どうなるのか?

ただ、見方を変えれば、これは、秀吉の策略というよりも、成政がもう一回り大きくなる事を希望して与えた試練という事もあり得ます。

なぜなら、秀吉は、この時の成政に対して・・・
「統治の難しい所だから、じっくりと時間をかけて・・・三年間は、国人たちの領地を安堵し、検地も行わないように」
と、アドバイスしているからです。

しかし、人の性格という物は、なかなかすぐに変えられないものです。

成政は、その性格通り、強引に、そして迅速に、国人たちを支配下に納めようと、秀吉のアドバイスを無視して、すぐさま国人たちの領地の一部を削減し、検地を開始してしまうのです。

かくして、天正十五年(1587年)7月10日、国人の一人・隈府城の隈部親永(くまべちかなが)が、成政に反発して挙兵しました。

それを知った他の国人たちも次々と挙兵し、一揆に発展したその兵力は総勢3万となり、成政の居城・隈本城を囲みます。

9月になって、隈本城を助けるすべく、筑後(福岡県)柳河城主・立花宗茂が援軍を派遣しますが、成政軍と宗茂軍の両方を合わせても1万にもならない状態で、とても一揆軍をけちらす事はできず、さらに隈本城は孤立してしまいます。

結局、この始末は秀吉が着けねばならなくなり、秀吉は四国や九州の大名を総動員して編制した一揆鎮圧軍を出す事になります。

10月下旬には、この鎮圧軍に毛利輝元が加わり、一揆軍の拠点である田中城を包囲すると同時に、寝返り工作を仕掛けて、切り崩し作戦を実施します。

やがて、12月2日、最初の反逆者であり、一揆の中心人物であった親永が降伏し、事実上一揆は終わりを迎えたのです。

難しい場所とは言え、その期待を裏切って、最終的には、秀吉の手をわずらわす事になってしまった成政・・・その責任のとりかたは、切腹しかありませんでした。

そして、その後の肥後は、小西行長が南部、加藤清正が北部の領主となり、その時、清正の入った隈本城は、後に熊本城と名を変え、天下の名城と呼ばれる事になります。
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2008年7月 9日 (水)

日の丸はいつから国旗になった?

 

安政元年(1854年)7月9日、江戸幕府が日の丸=日章旗を日本船の船印と定めました。

・・・・・・・・・

平成十一年(1999年)8月13日、4日前の衆議院本会議にて賛成多数で可決された『国旗及び国歌に関する法律』が公布・施行されました。

小渕内閣の時です。

その条文は、わずかに二つ・・・「国旗は日章旗(日の丸)とする」「国歌は君が代とする」

意外な事に、日の丸が日本の国旗だと正式に定められたのは、つい最近なんですね。

暗黙の了解のうちに、国の旗印として使用され、その歴史では、デンマークに次いで、世界で2番目に古いと言われている日の丸ですが、正式となると、こんなに最近・・・そこには、その誕生が、古いが故の、曖昧な慣例という生い立ちがあるのです。

・・・・・・・・

日の丸の最も古い記録としては、『続日本紀』の中に、大宝元年(701年)「大極殿に、日の幡(はた)を掲げた」というのが出てきます。

大宝元年と言えば、まさに律令法典の完全版である『大宝律令』が施行された年・・・その時代に、朝廷の正殿である大極殿に掲げられたのですから、もはや、この時点で国の印しとして用いられていたようですね。

そんな日の丸が絵巻物などに頻繁に登場するようになるのは、平安時代の末期から・・・。

武士が持つ扇子などに描かれていますが、この時点では、まだ白地に赤だけではなく、赤地に白や、黒丸、金地に赤など様々な色の物でした。

ちなみに『平家物語』の中の源平合戦の名場面・扇の的(2月19日参照>>)に登場する扇は、「みな紅の扇の日出したるを・・・」って事で、赤地に金箔の日の丸です。

やがて、戦国時代に入ると、多くの大名が、国家の象徴として、日の丸の旗を戦場で掲げる事もありました。

現存する最古の日の丸は、雲峰寺(山梨県)の、あの武田家の遺品の中から、戦場での傷跡も痛々しい状況で発見された日の丸です。

約1.8m四方の白い布に、大きく描かれた朱色の日の丸・・・白地に赤が定着するのも、この頃からです。

豊臣秀吉朝鮮出兵(4月13日参照>>)の際の船印として日の丸を使用していますが、まだ、ここでも、暗黙の了解・・・正式に日の丸が認められていたわけではありません。

やがて、江戸幕府が成立した頃、朱印船制度が実施されるようになって、フィリピンタイなど、東南アジアとの交易が盛んになると、幕府は、外国船と区別するために、日本の船に日の丸をつけるように指導したようですが、まだ、ここでも正式ではありません。

そして、安政元年(1854年)7月9日、もはやペリーも来航した後の幕末期、薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)の提言によって、初めて正式に日本船の船印と認め、幕府から政令での公布という形になりました。

やがて、訪れた戊辰戦争(1月2日参照>>)では、江戸幕府は国旗として日の丸を掲げ、新政府は国旗として錦の御旗を掲げました。

・・・って事は、この時点での日の丸は、日本の旗というよりは、徳川幕府の旗だったわけですね。

そして、誕生した明治新政府は、明治三年(1870年)1月27日、日の丸を日本船の目印として商船規則に太政官布告(だいじょうかんふこく)・・・やっとここで、正式に日の丸が国旗として認められる事になります。

しかし、明治十八年(1885年)に内閣が発足し、太政官制が廃止になってしまいました。

さらに、現在の日本国憲法の下で、明治初期の太政官布告が有効なのか?無効なのか?という事が明確にされていないために、戦後の日本では、日の丸を国旗とする事に賛否の意見が飛び交う事になるのです。

結果、冒頭に書いたように平成十一年、正式に日の丸が国旗として定められる事になったわけです。

Nissyouki300 ちなみに、正式な日の丸は・・・
縦の長さは横の3分の2。
赤い丸(色名=紅)の直系は縦の長さの5分の3で、位置はドまん中とされているそうです。
(こんな感じ→)

私は、賛否両論できるほど、近代史には強くないので、そこのところは棚上げさせていただいて、デザインとして見た日の丸は大好きです。

なんたって、万国旗がズラリと並んだ中で、一番目立ちますから・・・
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2008年7月 8日 (火)

太閤検地と刀狩り

 

天正十年(1582年)7月8日に豊臣(羽柴)秀吉による初めての太閤検地が近江にて実施され、天正十六年(1588年)7月8日には刀狩令が発布されました。

・・・・・・・・・・

戦国時代に誰もが夢見た天下統一、そして、全国を統一した者だけが実現できる中央集権化・・・

主君・織田信長本能寺で討った明智光秀山崎で破り清洲会議で実権を握った豊臣(羽柴)秀吉は、天正十年(1582年)7月8日最初の検地で、その夢の実現に着手し、やがて訪れる天正十六年(1588年)7月8日刀狩で、それを成し遂げたと言えるでしょう。

中世の荘園という物は、一つの土地に多くの人が群がる複雑な物で、現在の感覚の土地の所有とは明らかに違う物でした。

単純な物でも、一つの土地に対して、その土地を耕す作職、その上に名主職、その上に荘園の荘官、そのまた上に荘園領主がいて、それぞれが自分の地位にともなう取り分を、その土地から得ていたわけです。

多くの場合は、その領主にも本家と分家あったり、土地を耕す者にも、その下に小作がいたりなんかして、さらに複雑・・・。

そんな荘園制度に終止符を打って、一つの土地に一作人と決めたのが太閤検地です。

Taikoukenticc

秀吉は全国に検地奉行を派遣し、六尺三寸(約191cm)四方を一歩(ぶ)とし、さらに、三十歩が一畝(せ)、十畝が一段、十段が一町という単位で面積を計測し、その面積から獲れる穀物の分量を、全国一律の京枡で量り、一段あたりの生産力を、お米の収穫量で表すようにしたのです。

この枡で量る生産量の単位が合・升・斗・石で、この一段あたりの標準収穫量を石盛(こくもり)と言い、この石盛に面積をかけたのが、いわゆる石高・・・ちなみに一石は約140kgでした。

Taikoukentisyocc たとえば、石盛が一石五斗の畑が2段あったなら、石高は三石・・・これには、屋敷の面積も含まれていて、村ごとの田畑や屋敷地の石盛を出し、そこから村の石高を計算して、村の石高を登録し、その3分の2を年貢として領主の大名に納めるのです(村請制=むらうけせい)

大名たちに、この石高制を導入する事で、大名の上下関係も明白になるとともに、合戦時の奉仕もその石高によって負担の差が生まれる事になりました。

もちろん、制度を一新するわけですから、かなりの抵抗もあったようです。

秀吉は・・・、
「武士や土豪・百姓を問わず、なんで検地をするのかを、納得のいくまで説明して、それでもわかれへんねやったら、たとえ城主クラスであっても斬ってえぇ、村中で抵抗するようやったら村ぐるみで斬って、誰も耕すことのない土地になったってかまへん!
お前ら検地奉行がでけへんねやったら、俺が直接行ってやったる!」

・・・とまで言ってます。

一方の刀狩は、「方広寺の大仏建立のための釘や鎹(かすがい)に使用する・・・」
なんていう名目で、
百姓の持つ刀や脇差・槍・鉄砲などの武器を提出しろ」
という事ですが、・・・

当然、それは百姓から武器を取り上げるため・・・理由のない武器を持たせておいて、年貢を納めず、一揆などされては、困りますからねぇ・・・。

農民は、商人や職人と兼業する事も禁止し、農業だけに専念するようにさせました。

織田信長が始めて行った兵農分離を、ここに、秀吉が完成させたのです。

こうして、封建的な身分制度の基礎ができあがりました。

ちなみに秀吉が『刀狩令』とともに出す、海の刀狩り『海上賊船禁止令』によって衰退する村上水軍のお話2008年8月22日のページでどうぞ>>
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京阪電車・新車両と七夕イベント

 

今年もまたまた、京阪電車・私市駅の七夕イベント・『おりひめとひこぼしの出逢い』へ行ってまいりました~

京阪電車で七夕の日になぜイベントが行われるのか?
おりひめとひこぼしの出逢いって何?

という事については、昨年のブログ書いておりますので、まずは、そちらのページをご一読くださいませ(コチラからどうぞ>>)

・・・で、昨年は、7月7日が休日であったため、少しいつもと違って5回もの出逢いがありましたが、今年はいつも通りの一回だけ・・・

ただし、やはり、ダイヤの調整が難しいのでしょうか、交野線を走る普通列車に「おりひめ」のヘッドマークを掲出し、19時4分からの3分間、私市駅にて、準急「ひこぼし」と出逢うという事でした。

Tanabata2008cc 今年の「おりひめ」「ひこぼし」です

しかし、それでも、今年のイベントは、おけいはん(京阪電車を利用する人の事です)の私にとって、感慨もひとしおなのです。

・・・というのも、この秋に営業開始する京阪・中之島線への新車両導入にともなって、他の車両も、そのカラーを一新するため、現在のこの車両の色での出逢いは、今回が最後になると思われるからです。

Nakanosimanewcc これが中之島線に乗り入れる新車両・・・試運転中をゲット!

Keihanknewcc新カラーの特急車両
色の上下が反対です

Keihannewcc
新カラーの普通車両
グリーンは上部のみ

長年、親しんできた京阪カラーですので、思い出もたっぷり・・・なので、このページは、いつもの「歴史」ではなく、昨日の七夕イベントとともに、個人的に思い出に浸りながら撮影した写真を載せさせていただきました。

Keihanikisakibancc これはめずらしい!
以前使用されていた行き先板をつけた電車が・・・

実は、これも、知る人ぞ知る七夕イベントの一つなのです。

いつもと違う形でのおりひめの登場に、旧型の特急用車両がまん中にある特急マークを裏返して走るため、行き先を板で表示する・・・この日だけのサプライズ列車なのです。

Keihanorihimecc 朝のラッシュ時のみに走る「おりひめ」・・・このカラーも見納めかな?

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ご覧のとおり、歴史ブログにあるまじき歴史の話題ではないページですが、中之島線の最新車両の“走ってるとこ”をゲットした執念を賞して、
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2008年7月 7日 (月)

日本の七夕伝説・天稚彦物語~牽牛を彦星と呼ぶのは?

 

本日は、七夕にちなんで、日本の七夕伝説『天稚彦物語』を、ツッコミを交えて、ご紹介します。

*七夕行事の起源・中国の七夕伝説については、昨年の7月7日のページで>>

天稚彦(あめわかひこ)は、古事記では天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子・天若日子という表記で登場します。

天照大神(あまてらすおおみかみ)から、葦原中国(あしはらのなかつくに・日本の事)を統治するために高天原(たかまがはら)から派遣されたにも関わらず、出雲を統治していた大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘・下照比売(したてるひめ)と、あっさりと恋に落ち、まったく命令を遂行せず・・・

「お前、何やっとんねん!はよ、征服せいや!」
と、高天原から催促に使わされた雉名鳴女(きじしななきめ)を矢で撃ち殺してしまい、それを知った高天原から撃ち返された矢に当たって命を落す・・・という何とも、いいところのない神様(高天原に反発したため神様扱いされない場合もあり)です。

まぁ、この後に、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)国譲り邇邇芸命(ににぎのみこと)天孫降臨へと続くので、それのひきたて役にされているのがミエミエのところもあるのですが・・・

そんな天稚彦ですが、室町時代の『御伽草子』で見事主役に大抜擢!

この物語は、中国の七夕・・・あの有名な牽牛と織女の物語をベースに、昔話のありとあらゆる要素を盛り込んで、和洋中で「もう、お腹いっぱい~」ってな感じの壮大なSFアドベンチャーです。

・・・・・・・・

昔あるところに三人の美しい娘を持つ長者がいました。

ある日、その家の下女が洗濯をしに湖に行くと、口に手紙をくわえた大蛇が現れ、
「言う通りにせんと、絞め殺すゾ!」
と脅します。

下女が、慌てて逃げ帰り、長者にその手紙を見せますと・・・
「娘を三人ともよこせ!さもないと皆殺しにする」
と、書かれてありました。

姉ふたりが、「絶対にイヤ!」と拒む中、「なら、私が参ります」と、末の娘が犠牲になる事に・・・
【ありがちな化け物・人身御供ストーリー】

娘が湖のほとりで待っていると、やがて雷鳴轟き、大波が立ち、大蛇が姿を現します。

パクリと食われると思いきや、意外にも、普通に・・・
「姉ちゃん、もし、刀持っとったら、この頭を斬ってみぃ」

娘が、震える手で大蛇の頭を斬り落すと、なんと、そこから、この世のものとは思えないイケメンが・・・
「我こそは、海竜王の息子・天稚彦である!」ジャ~ン!
【出た~!ヘンな物からイケメン登場!】

ふたりは、その場で恋に落ち、その場でシッポリ・・・娘は別の意味で、パクリと食われる事に・・・(#^o^#)ポッ。

天稚彦と娘は、しばらくの間、天稚彦が持っていた宝物で、裕福な新婚生活を楽しんでいましたが、やがてある時・・・

「実は、俺は天にも用事があって、そろそろ帰らあかんねん・・・けど、絶対戻って来るって・・・もし、21日経っても戻ってけぇへんかったら、西の京のはずれに行くと一夜瓢(いちやひさご・一夜で天までのびる瓜で夕顔の事らしい)を持ってる女がおるから、それを買うて天まで昇って来いや。
それと、唐びつを置いて帰るけど、絶対に開けたらあかんで」

【見てはいけないシリーズだ!】

そう言って天稚彦は、天へ去っていきました。

彼が去った後も、残された宝物で、幸せそうにしている娘を妬んで、やってきた姉二人が、宝物や着物を、さも欲しそうにさわりまくります。
【シンデレラっぽいゾ・・・】

やがて、二人の姉は、娘からムリヤリ鍵を奪い、止めるのも聞かずに唐びつを開けてしまいます。

しかし、出たのは白い煙だけ・・・
【浦島太郎・・・】

中には何もありませんでした。
(ないんかい!)

そうこうしているうちに、結局、21日経っても、天稚彦が帰って来ない事に我慢しきれなくなった娘は、言われた通りに西の京へ行き、一夜瓢を買い求め、一晩で天まで伸びたツルに乗って天上界へと向かいます。
【ジャックと豆の木…もしくは、スーパーマリオ】

しかし、天上界も広い・・・
どこに行けば、彼がいるのかわからず、途方にくれながら、しばし歩いて行きますと、白い狩衣(かりぎぬ)をつけた夕づつ=宵の明星と出会い、彼の居場所を訪ねますが「知らない」という返事・・・。

次に、箒木(ほうき)を持った童子・ははき星=彗星?に出会いますが、やはり、わからず、次の七人の童子すばる星=昴も知りませんでした。

最後に、玉の輿に乗った立派な人物である明月(あかつき)の明星に出会って、やっと居場所がわかり、二人はめでたく再会します。
う~ん、SFファンタジーアドベンチャーだ!】
(夜空にきらめくファンタジ~byゴ~★ジャス)

しかし、それも、つかの間、天稚彦のオヤジが登場!
これが、何と!・・・(って竜王やったんちゃうんかい!)

とにかく、鬼なので・・・見つかってはマズイ(なんで?紹介したれや!)、オヤジが天稚彦の部屋にやってくるたびに、娘を脇息(ひじかけ)に変身させたり、枕に変えたりして隠していましたが、ある日、うっかり昼寝をしていて見つかってしまいます。

するとオヤジは・・・
「お前が好きな子なら、しゃぁないけど、一つ、嫁にふさわしいかどうかテストする!」
と言いだします。(やっぱり先に紹介しとくべき)

まずは、牛舎で飼っている1000頭の牛を、朝には野に放ち、夜には再び牛舎に追い込むカウボーイの仕事を娘に言いつけます。

「とても、女の私にはムリだわ・・・」
と困惑する娘に、天稚彦は、そっと自分の着物の袖を渡します。

そして、その袖を「天稚彦の袖々」と唱えながら振ってみると、牛は見事に言う事を聞いてくれて、娘の指示通りに動いてくれたので、何とかこなせました。

次に、米倉にある米を、すべて、別の米倉へ移すよう命じられます。
しかし、これも、天稚彦の袖を振ると、どこからともなく、大量のアリが現れ運んでくれました。

最後に、娘は蛇やムカデのいる部屋に閉じ込められてしまいますが、これも、天稚彦の袖のおかげで、蛇もムカデもおとなしくなり、無事、一夜を過ごす事ができました。
【古事記のオオクニヌシの試練にそっくり】(12月21日参照>>)

さすがにオヤジも観念して・・
「しゃぁない。息子の嫁として認めよ・・・ただし、二人が会うんはひと月に一度やぞ!

すると、娘は・・・
「えっ?何て?一年に一度って言いはりましたん?」
と聞き違いをしてしまいます。
(ひとつき→いちねん・・・一文字も合うてへん!娘、耳掃除せぇ!)
(天稚彦も天稚彦や!なんでお前も聞いとけへんねん!)

これ幸いとオヤジは一年に一度という事にして、一つの瓜を手にとって投げると、中から水がドバッと出て、天稚彦と娘、二人の間の天の川となりました。

こうして、天稚彦は彦星に、娘は織女星となって、一年に一度、7月7日の夜にだけ会う事になったのです。

・・・・・・・・・・

うぇ~い・・・もう、盛りだくさんすぎて、何が何やら・・・

でも、一つわかりました!

これで、牽牛の事を日本では彦星って呼ぶんですね・・・天稚彦の彦なんだ・・・
(でも、織姫は一回も、機織ってない気が・・・)

・・・と、なんだか、突っ込みどころ満載で、海外の童話も交えての最近作られたような感じのお話でしたが、ベルリン東洋美術博物館には、15世紀半ばに造られた『天稚彦草子』なるすばらしい絵巻物も現存しており、由緒正しき昔話なのです。

中国から伝わった七夕伝説もいいですが、今年は一つ、日本の彦星と織姫に思いを馳せて、ロマンチックな一夜を過ごしてみようではありませんか。

Tanabatasasacc 今日のイラストは、
やはり、日本の七夕らしく・・・
短冊揺れる笹の葉に、織姫と彦星で・・・
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2008年7月 6日 (日)

歴史人物辞典~「の」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「の」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・

★ノア
  ●ノアの方舟・洪水伝説

★濃姫(帰蝶)
  ●こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は何処へ?

★野口英世
★野口シカ
  ●母から息子への思い~野口シカの手紙

★乃木希典
  ●福岡で怒った士族の反乱~秋月の乱
  ●西南戦争~熊本城・攻防戦
  ●日清戦争~旅順口攻略
  ●日露戦争のキーポイント~旅順・陥落
  ●日露戦争~日本軍・極寒の奉天占領!
  ●ミス日本に選ばれて退学処分
  ●最後の武士・乃木希典

★野口健司
  ●新選組・野口健司の切腹

★ノストラダムス
  ●ノストラダムスの大予言

★野田正氏
  ●千早城攻防戦・秘話~はりぼての野田城

★野見宿禰
  ●七夕の夜に日本最古のK-1ファイト

★野村望東尼
  ●強き勤王の母・野村望東尼

★式子内親王
  ●恋の歌姫~式子内親王と藤原定家

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「ね」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』ね」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★祢(おね・ねね)
  ●秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
  ●秀吉の妻・ねねさんのご命日なので・・・
  ●秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割

★根津小次郎
  ●足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い

★鼠小僧次郎吉
  ●鼠小僧次郎吉 御用だ!

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「ぬ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』ぬ」から始まる歴史人物です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

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★額田王
  ●額田王を巡る三角関係
  ●額田王を巡る三角関係2

★額田十郎左衛門
  ●薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「に」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「に」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・

★ニール(ジョン・ニール)
  ●薩英戦争前々日~未遂に終った「スイカ売り決死隊」
  ●薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ

★新島襄
  ●新しい時代を担う後継者を育てたい~新島襄の思い

★新島八重(山本八重・八重子)
  ●山本八重の会津戦争
  ●会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道
  ●「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重

★邇芸速日命(饒速日命)
  ●仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏

★ニコライ2世
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・1
  ●ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2
  ●ポーツマス条約の調印と日比谷焼き討ち

★仁科信盛
  ●滅びゆく勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信

★西野虎吉
  ●空前のヒット!「鉄道唱歌」のプロモーション

★二条天皇
  ●平治の乱~清盛の天皇救出劇

★日蓮
  ●蒙古襲来を予言して流罪となった日蓮

★新田義顕
  ●壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦

★新田義興
  ●足利尊氏VS新田義興…小手指原の戦い
  ●足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い
  ●新田義興の怨念?神霊矢口の渡し

★新田義貞
  ●鎌倉討幕…新田義貞の挙兵
  ●起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い
  ●新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説
  ●鎌倉炎上…北条高時・自刃
  ●「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に…
  ●鎌倉幕府の滅亡
  ●朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞
  ●新田義貞・京を奪回!
  ●足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦
  ●足利尊氏・再起~多々良浜の戦い
  ●いよいよ上洛…足利尊氏・大宰府を出発!
  ●新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義
  ●足利尊氏VS新田義貞・幻の一騎打ち?京都合戦
  ●南北朝の幕開け…光明天皇の即位
  ●新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?
  ●壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦
  ●運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期
  ●恋に戦に・新田義貞の純情

★新田義宗
  ●足利尊氏VS新田義興…小手指原の戦い
  ●足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い

★日本佐衛門
  ●大泥棒・日本佐衛門ってどんな人?

★邇邇芸命(瓊瓊杵尊)
  ●異常気象と富士山信仰

★二宮尊徳(金次郎)
  ●二宮金次郎像のヒミツ…その隆盛と衰退

★二宮忠八
  ●ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す

★仁保隆康
  ●毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城・攻防

★丹羽長国
  ●心やさしき藩主の二本松戦争…丹羽長国

★丹羽長重
  ●北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦

★丹羽長秀
  ●織田信長軍による福知山攻略戦
  ●丹羽長秀・人生最後の抵抗

★仁賢天皇
  ●天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇

★忍性
  ●「衆生救済」…北山十八間戸と忍性
  ●奈良に始まる福祉の歴史

★仁徳天皇
  ●最古の治水工事・茨田堤の物語
  ●大阪マイナー史跡~日本最古の「つるのはし」
  ●世界最大の陵墓の主?~仁徳天皇

 
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歴史人物辞典~「な」から始まる歴史人物~

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「な」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★内藤昌豊
  ●信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

★内藤宗勝(松永長頼)
  ●将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い

★内藤元盛(佐野道可)
  ●陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭け佐野道可事件

★直江兼続
  ●謙信・暗殺説~容疑者・信長&兼続の本心
  ●上杉に仕えた軍師・清源寺是鑑
  ●上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事
  ●金のなる木は俺のモノ!景勝と兼続の佐渡攻略
  ●小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦
  ●ブラック兼続~閻魔大王に夜露死苦
  ●秀吉の置きみやげ~上杉景勝の会津転封
  ●関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否
  ●本物か?ニセ物か?直江兼続の「直江状」
  ●関ヶ原に向けて~直江兼続・越後一揆を扇動
  ●関ヶ原~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携
  ●関ヶ原の前にやったるで!直江兼続・最上に侵攻
  ●直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い
  ●自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退
  ●長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!
  ●領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機
  ●関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城
  ●激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
  ●直江兼続を手玉に取った最上の重臣・鮭延秀綱
  ●大河ドラマ「天地人」に思う事
  ●大河ドラマ「天地人」に、どうしてもツッコミたい!
  ●ツンデレ満載「天地人」~忘れちゃいけない新発田城
  ●「天地人」での、世にも不思議な真田一家
  ●ここに来て 「千(姫)」も救うか 天地人

★中井正清
  ●築城の匠~家康専属大工・中井正清

★長井雅楽
  ●長州一の知弁:長井雅楽~無念の死

★長井政重
  ●秀吉の中国攻略戦~野口城の戦い・青麦合戦

★長井道利
  ●光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?
  ●織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦

★永井甚七郎
  ●天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状
  ●早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期

★中浦ジュリアン
  ●天正遣欧少年使節の帰国

★中江兆民
  ●ガンと戦いながらの執筆~東洋のルソー・中江兆民

★中江藤樹
  ●近江聖人・中江藤樹の「心の学問」

★長尾幾子
  ●千里眼・御船千鶴子と長尾幾子

★長尾景直(椎名小四郎)
  ●上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦
  ●織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野の戦い

★長尾景春
  ●足軽戦法炸裂~大田道灌の江古田・沼袋の戦い
  ●太田道灌とライバル・長尾景春~用土原の戦い

★長尾忠政
  ●永享の乱~鎌倉公方・足利持氏の自刃

★長尾政景
  ●上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い
  ●宇佐美定満~長尾政景とともに池の中

★中岡慎太郎
  ●中岡慎太郎・薩長同盟への決意を語る
  ●いよいよ「龍馬伝」に登場する中岡慎太郎と陸援隊

★長岡謙吉
  ●どうなった?龍馬亡き後の海援隊

★永岡久茂
  ●東京での士族の反乱~永岡久茂の思案橋事件

★長尾為景
  ●長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩
  ●長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い
  ●永正の乱~越後・上杉定実VS長尾為景

★長尾弾正(南北朝)
  ●足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い

★長尾能景
  ●謙信の祖父・長尾能景が討死~般若野の戦い

★中川宮朝彦親王
  ●苦労人の宮さま~八月十八日の政変の中川宮

★中島三郎助
  ●函館戦争に散ったサムライ…中島三郎助

★中条景泰
  ●富山・魚津の攻防戦

★中臣真人(定恵)
  ●可愛い子には旅を…鎌足の息子=定恵の留学

★中臣宅守
  ●万葉の恋歌・別れ歌

★中野孝子
★中野竹子
★中野優子
  ●戦場の華と散った会津娘子軍・中野竹子

★長野主膳義言
  ●井伊直弼の女スパイ・村山たか

★長野業正
★長野業盛
  ●箕輪城落城~あの新陰流・誕生の影に・・・

★中浜万次郎(ジョン万次郎)
  ●ジョン万次郎の帰国
  ●海援隊の生みの親~龍馬も憧れた河田小龍

★中原兼遠
  ●義仲が木曽にいたワケは?
  ●義仲・初陣!市原の戦い

★中原章賢
  ●室町幕府の誕生?「建武式目」の制定

★永見長良
  ●徳川綱吉の恨みつらみ?~越後騒動の結末

★中村一氏
  ●小牧長久手~岸和田城・攻防戦

★中村半次郎(桐野利秋)
  ●西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋
  ●西南戦争で敗れた西郷隆盛が星になった?   

★長屋王
  ●孤軍奮闘も空しく~長屋王の悲劇
  ●長屋王の邸宅跡の木簡発見で…

★中山修理介
  ●北条に仕えた謎の名軍師・中山修理介

★中山忠光
  ●討幕の先駆けとなって散った中山忠光

★中山愛親
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件

★中山みき
  ●中山みきと天理教

★永山弥一郎
  ●西南戦争~熊本城・救出作戦

★那須与一
  ●屋島の合戦・扇の的の後に

★長束正家
  ●東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!
  ●正家、無念の自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い
  ●豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原

★夏目漱石
  ●夏目漱石をも悩ませた一高生の投身自殺
  ●ペンネーム・夏目漱石~ご命日によせて
  ●「明暗」を書き終えたら・・・漱石のやり残した事

★夏目吉信
  ●三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ!
  ●家康惨敗・三方ヶ原の戦い
  ●家康の影武者となって討死…夏目吉信in三方ヶ原

★鍋島勝茂
  ●東か西か?生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原

★鍋島清久
  ●田手畷の戦い~佐賀の鍋島・下克上の幕開け

★鍋島直茂
  ●鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い
  ●東か西か?生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原
  ●佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相

★鍋島直正(閑叟)
  ●幕末の名君…「肥前の妖怪」佐賀藩主・鍋島直正

★名村石見
  ●大坂夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話      

★楢崎龍
  ●恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍

★奈良原繁
  ●今日は、寺田屋事件
  ●寺田屋事件に散った有馬新七と薩摩九烈士

★成田氏長
  ●成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と

★成田氏長夫人
  ●忍城攻防戦…留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫

★成松信勝
  ●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

★成島柳北
  ●明治のジャーナリスト・成島柳北

★名和長年
  ●後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場

★南部尚吉
  ●上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い

★南部信直
  ●盛岡の基礎を築いた中興の祖・南部信直

 
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2008年7月 5日 (土)

小田原城・開城への道

 

天正十八年(1590年)7月5日、豊臣秀吉の小田原征伐にて、小田原城が開城されました

・・・・・・・・・

天正十八年(1590年)3月の山中城と韮山城の総攻撃(3月29日参照>>)に始まった豊臣秀吉小田原征伐・・・二つの城のうち、山中城をわずか2時間ほどで落城させた秀吉軍は、その勢いのまま箱根を越え、4月3日には、小田原城包囲を完します(4月3日参照>>)

小田原は、その城下町ごと城郭の中に収まった鉄壁の城塞都市ですし、そもそも籠城は、北条氏お得意の作戦・・・。

しかし、最初こそ余裕があったものの、秀吉が小田原城を包囲する本隊とは別に進めていた別働隊による関東一円の支城攻撃(6月9日参照>>)により、支城が次々と落とされていくという状況を目の当たりにして、その余裕は徐々に消え始めていくのです。

中でも、6月24日の韮山城の開城と、6月26日の石垣山城の完成(6月26日参照>>)が、北条の運命を大きく変える事になります。

韮山城は、冒頭に書いた通り、最初の段階から、織田信雄を総大将に約3万5千の兵による攻撃を受けていたにも関わらず、その日まで持ちこたえた強固な城だったわけですが、その開城は、落城というよりは、城主・北条氏規(うじのり・氏康の五男)方針転換にあったようです。

実は、この氏規さん・・・幼い頃に今川の人質に出されたいたという過去があります。

そう、あの徳川家康と同時期に、まったく同じ境遇で、今川でともに過ごしていたのです。

おそらくは、幼なじみとも言える家康から、何かの工作があったものと推測されますが、その6月24日に韮山城を開城した氏規が、そのまま小田原城へと入り、当主・北条氏直に、降伏をうながしたのではないでしょうか?

例の長い長い小田原評定が行われる中、秀吉の裏工作によって、城内には次々と内応者も出始めます。

かくして天正十八年(1590年)7月5日、氏直は弟・氏房をともなって、滝川雄利(一益の娘婿)の陣を訪れるのです。

「自分が切腹をするので、城兵の命は助けてほしい・・・」
北条最後の当主・氏直の命を賭けた決断でした。

氏直の申し出は、すぐさま、秀吉のもとへと伝えられます。

結果、氏直は高野山へ追放・・・その代わりに、氏直の父・北条氏政と、その弟・氏照、家臣の大道寺政繁松田憲秀切腹を命じます。

これは、北条氏の当主は氏直であっても、主導権は氏政と氏照が握っていたであろうと推測される事と、氏直が家康の娘婿である事に配慮しての処置と思われます。

翌日の7月6日には、家康が自軍の兵を小田原城に入城させ、それに交代するように7日には、城兵が小田原城を出て家康の陣に入りました。

やはり、ここにも、「家康が氏規を説得→韮山城開城→氏規が氏直を説得」という流れが見え隠れするような気がします。

10日には、氏政と氏照が城をあとにし、翌11日には、城下にて切腹をし、ここに、北条氏は滅亡し、秀吉の小田原征伐は終了しました。

その後、秀吉は奥州征伐へと取りかかります(11月24日参照>>)
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2008年7月 4日 (金)

戦国にタイムスリップ!環濠集落・今井町

 

そこは、まるで江戸時代に迷い込んだような町並みです。

Imaityoucc

東西約600m、南北約400mの濠に囲まれた場所に、約800戸の家がびっしりと立ち並び、そのうち80%が江戸時代の建物。

Imaityoutizucc 国の重要文化財が8軒、県指定文化財が3軒、市の指定文化財が5つあるのです。

本日は、奈良にある今井町をご紹介しましょう。

大阪からですと、難波から近鉄・奈良線で大和西大寺で橿原線に乗り換え橿原神宮前方面へ・・・京都からなら、近鉄・京都線一本で・・・八木西口駅が今井町の最寄駅です。

Sobubasiinimaicc_2 駅を降り、JRの線路を越えたら、斜め右手に見えてくる蘇武(そぶ)

ここを渡れば、もう、別世界・・・樹齢400年のエノキが、古のままに出迎えてくれます。

とにかく、古い町並みは路地が入り組んでいて、わかり難いので、まずは、地図が書いてあるパンフレットを手に入れてください。

Hanairakainimaicc パンフレットは、町の案内所である今井まちづくりセンターか、今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)でもらえますが、まちづくりセンターは、あまりにも周囲の町並みに溶け込んでいるので、そこを探すのもひと苦労・・・なので、個人的には、町に着いたら、まず華甍へ向かう事をおすすめします。

華甍なら、蘇武橋をわたった1つ目の筋(一番東の筋)をまっすぐ南に行った、ひときわ大きな目立つ建物なので、すぐに見つけられるはずです。

この華甍も、江戸時代とまではいかないものの、明治三十六年に建てられた立派な建物ですし、中は資料館になっていますので、やはり、ここで歴史のお勉強をしてから町にくり出すのがベストでしょう。

それから、これらの民家はすべて、一般の個人のお宅で、もちろん現在も住んでおられますから、エチケットを守ってご迷惑をかけないように心がけなければなりません。

Matiyakaninimaicc 古い民家のうち、の今井まちや館と、旧米谷家はオーナーさんから市が借り受けていて、9時~17時まで一般開放されていて自由に見学できますので、民家内部の見学は、この二軒でさせていただくのが、良いかと思います。Matiyanakaimaicc

どちらも、町屋独特の造りの残る趣のある建物で、広い土間に大きなかまどと、農家にみられる煙返しなどがあります。

Yonetaniinimaicc
旧米谷家の裏庭には、蔵前屋敷の付いた大きな土蔵があり、この土蔵は嘉永二年(1849年)の建築という事が判明しています

Yonetaninakaimaicc_2 ここで、今井町の歴史に触れておきますが、今井町は、天文年間(1532~55年)に、本願寺の一家衆・今井兵部豊寿称念寺を開いたのが始まりとされています。

その後、お寺を中心に寺町ができあがっていきますが、当時は、まさに戦国時代・・・周囲に堀をはりめぐらし、各路地も一直線ではなく、少し行けばつきあたるという護るに強い造り・・・出入り口には、すべて門が設けられ、いざという時は、この門をぴったりと閉め、鉄壁の要塞となる環濠集落となっていったのです。
Kangouimaicc

現在は、門はすべて跡だけが残されている状態で現存しませんが、町割りは、その室町時代の頃のままで、戦国時代の惣村の面影を残したままの現役バリバリです。

Imanisi1nimaicc 堀の向うに見える白壁の家が今西家

こちらの今西家は、最も早く重要文化財の指定を受けた民家で、棟札には慶安三年(1650年)3月22日と記されています。

惣年寄の筆頭で、領主や代官などの支配の一翼も担い、自治権も持っていたという家柄にふさわしく、民家と言うより、城といった雰囲気さえ感じさせます。

町のはずれにある春日神社の石灯籠や狛犬の願主には、大阪や堺の商人の名前がズラリと並び、今井町が、都から地方への流通の要であった事をうかがわせます。

このような町並みを維持していく事は、かなり大変な事だと思いますが、今井町はZitensyahoikusyoimaicc 、町ぐるみで取り組んでおられるようで、保育所や、駅前の自転車置き場までが、町並みを壊さないように配慮されています。

 

 

農民が自分たちの身を自分たちで守り、自分たちのきまりで地域を運営していった惣村・・・

室町から戦国時代にかけて誕生した、生き生きとした庶民の時代の遺産・・・いつまでも見ていたい、いつまでも残したい風景です。

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2008年7月 3日 (木)

国書を失くした小野妹子が出世する不思議

 

推古十五年(607年)7月3日、遣隋使小野妹子が、隋の皇帝へ宛てた国書を持参し、日本を出発しました。

・・・・・・・・・・・

この日、小野妹子(おののいもこ)が持って行った(中国)の皇帝・煬帝(ようだい)へ宛てた国書・・・っていうのは、あの有名な・・・
「日出(い)ずる処(ところ)の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや」
って、ヤツです。

そもそも、本当にこの手紙を聖徳太子は書いたのか?
いや、聖徳太子って人は、実在したのか?

だいたい、中国の史書に、「こんな出だしではじまる手紙が来て皇帝が怒ってたよ」てな感じの、1行に満たないわずかな文章が書いてあるだけだし、

しかも、この7年前に、すでに誰かから派遣された日本の使者が訪問している事も、その史書には、同じように記録されているのに、日本では小野妹子が第一回めの遣隋使となってる・・・

などなど、突っ込みどころはいくつかあるのですが、それを言い出したら、とてつもない文章量になってしまいそうなので、とりあえず今日は、定説通りに、「第一回・遣隋使・小野妹子が聖徳太子の国書を持って中国へ渡った」という事で、お話を進めさせていただきます。

・・・で、皆さまご存じのように、上記の「日出ずる国の天子・・・」の手紙を読んだ煬帝さんが、かなりご立腹されたわけですが・・・そりゃ、そうでしょ。

なんせ、当時の中国は、「世界一の強国だ」と自負していて、周辺諸国は、わが国の臣下にある貢物を献上しに来る国くらいにしか思ってなかったわけですから・・・。

そんな下位な国から対等の物言いをされちゃぁ・・・しかも、「日出ずる国」と、「日没する国」じゃぁ、なんか「日出ずる国」のほうがカッコイイ気がしないでもない(←個人的な感想です)

煬帝は
「アホの国の文書は文章もアホや!こんなん二度と見たないわい!」
と、大変なお怒りだったとか・・・。

しかし、怒ったわりには、裴世清(はいせいせい)なる人物を答礼の大使として、妹子の帰国とともに日本へ行かせていますし、その妹子に返事も持たせています。

ところが、この妹子さん、その大事な煬帝からの手紙を、途中で紛失してしまうのです。

彼の言い分だと、帰国の途中に立ち寄った百済(くだら)で、百済人に襲われ、その手紙を盗まれてしまったのだとか・・・。

ホンマかいな?

もしも、本当にそんな襲撃事件があったのなら、ともに行動していた裴世清ら中国人も、その事件の事を知っているはずですが、彼らは、そんな事は一切言ってませんし、逆に、もし、紛失した事を裴世清が知って、さらに、それが煬帝の知るところとなれば、「ワシの手紙を、なんちゅー軽率な扱いしとんねん!」と、更なる怒りが爆発する事になるかも知れません。

第一、そんな大事な手紙、命に代えても守らなければ、初代・遣隋使の名がすたるっちゅーもんです。

そんな大きなミスを犯した妹子さんには、帰国すれば、さぞかし、厳しい処分が待っているんでしょう・・・と思いきや、これが咎めなし!(罰を受けた説もありますが、結局はすぐに許されてます)

それどころか、翌年に裴世清が帰国するのと同時に派遣された第二回・遣隋使に、妹子は、またまた大使として中国に渡っているのです。

しかも、その帰国後は「大徳」という官位十二階の最高位を賜っているのです。

いくら何でも、国を揺るがすようなミスをした人に、これはないでしょう・・・という事で、今では、手紙を紛失したのではなくて、わざと隠ぺいしたのではないか?という事が言われています。

では、なぜ?返事を隠す必要があったのでしょうか?

以前、【聖徳太子・死因の謎】(2月22日参照>>)のページで、冒頭の手紙の事を・・・
「これは、駆け引き無しの失態なのか?
計算ずくのハッタリなのか?
一か八かの賭けだったのか?」

と、書かせていただきましたが、このミスをしでかした妹子への対応を見る限り、これは、聖徳太子のハッタリだった可能性が高いのではないかと考えます。

今現在、煬帝の一番の関心事は、やはり朝鮮半島の情勢・・・つまり、朝鮮半島の三つの国が、いつ敵に回るかわからない状況で、日本を是非味方につけておきたいこの時期に、ちょっとやそっとで、兵を出したり、国交を断絶させたりはしないだろうとの計算から、一か八かのハッタリをかましたのではないでしょうか?

それは、もちろん、隋と対等に交易するためのハッタリでもありますが、聖徳太子にとって、それよりも重要だったのは、国内の豪族に対してのハッタリです。

当時の聖徳太子には、年齢が倍ほども違う強大なライバル・蘇我馬子がいます。

もちろん、彼以外の豪族・臣下の者も・・・おそらく、若き太子にとっては、誰もが年上のうるさがたのおエラがたですから、ちょっとばかし、自分のスゴイところも見せておかなければなりません。

そこで、対等の物言いをした手紙を送る・・・隋の皇帝への国書ですから、その内容は臣下の者も皆、知っているはずですよね。

しかし、当然、その国書を見た煬帝は怒りますから、おそらく、返事の内容は、怒り爆発でアホ・バカ連発の見るに耐えない物だった・・・当然、このまま、返事の内容を皆に発表するわけにはいきません。

そこで、失くしちゃった事にするのです。

一緒に連れて来た答礼大使の裴世清は、身分は外交官ですから、相手の国の貴族や大臣に対しては、友好ムードの社交辞令で接するはずですから、日本国内の者から見れば、何となく、あの手紙が受け入れられたように、思ってしまう・・・あぁ、これで、めでたしめでたし。

・・・てな、感じかな?(あくまで想像です)

だからこそ、国書を紛失するといった大失態を起してしまったにも関わらず、妹子は引き続き大使であり、官位も上がる・・・っと、いや、もし、この通りだとすると、むしろ妹子は、聖徳太子にとって、ナイスアシストで、メンツを守ってくれた事になりますからね。

ひょっとしたら、妹子は、失くした事にして、太子にだけは返事を見せたのかも知れませんね。

その煬帝の返事が日本に現存しないのは、見るに耐えない事が書かれた手紙を見た太子が、今度は逆に「アホ言うヤツがアホじゃ!ボケ!」と、怒り爆発で破り捨てたのかも・・・
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2008年7月 2日 (水)

保元の乱のきっかけを作った鳥羽天皇の死

 

保元元年(1156年)7月2日、第74代・鳥羽天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・

第73代・堀河天皇第一皇子として生まれた鳥羽天皇(宗仁親王)は、生まれてすぐに母を亡くしたため、祖父の第72代天皇・白河法皇のもとで育てられます。

その後、父の堀河天皇が亡くなったため、わずか5歳で即位する事になるのですが、当然5歳の子供に政務がこなせるわけもなく、すべてが白河法皇の思いのままに行われる事になります。

やがて、鳥羽天皇が15歳になった時、やはり白河法皇の強い意向で、権大納言藤原公実(きんざね)の娘で、白河法皇の養女となっていた璋子(しょうし)女御として入内しますが、この璋子さん、白河法皇の養女とは名ばかりで、実はカノ女・・・もちろん、元カノではなく、現役です。

彼女が、翌年、中宮になっても、その関係は続いていたようです。

なぜなら、まもなく璋子さんは、男の子・顕仁(あきひと)親王を出産するのですが、鳥羽天皇は、この顕仁親王の事を「叔父子(おじこ)」と呼んでいたと・・・つまり、自分の子ではなく、ジッチャンの子供(叔父)だと思っていたらしいのです。

もちろん、この時代にDNA鑑定できませんから、それは憶測でしかないのでしょうが、それだけ鳥羽天皇は、璋子さんとは関係が薄かったのかも知れませんね。

なんせ、この顕仁親王が生まれた翌年・保安元年(1120年)には、白河法皇が熊野に参詣しているスキを狙って、関白の藤原忠実(ただざね)の娘・泰子(たいし)入内させて、白河法皇のご機嫌をそこねていますから・・・。

おかげで、忠実は、関白の座を追われ、宇治に引きこもってしまいます。

やがて、顕仁親王が5歳になった時、白河法皇は、まだ21歳の鳥羽天皇をムリやり退位させ、その顕仁親王を即位させようとします。

「絶対、白河さんの子供やん!」と思いたくなる行動ですが、圧倒的な権力の違いに、鳥羽天皇は、しかたなく皇位を譲り、上皇となって、顕仁親王が第75代・崇徳天皇として即位します。

こうなっても、まだ白河法皇と璋子の関係は続いていたようですが、そんなこんなの大治二年(1127年)、璋子は雅仁親王を産みます。

どうやら、今度は鳥羽上皇の子供のようです。

なんせ、その二年後の大治四年には、白河法皇は77歳でお亡くなりになっているので、さすがの絶倫ジッチャンも寄る年波には勝てず、その少し前から、璋子との関係も薄れていたのです。

その白河法皇の崩御により、「待ってました!」とばかりに、ジッチャン同様、あれやこれやと思いのままにやり始める鳥羽上皇・・・。

この頃には、ジッチャンの元カノだった璋子を遠ざけ、あの泰子ちゃんを女御から皇后へと出世させ、宇治の引きこもり・忠実も呼び戻し、その息子の頼長(よりなが)を重用します。

さらに、権中納言藤原長実(ながざね)の娘・得子(とくし)を、女御として入内させ、ラブラブモード全開の中、その得子が体仁(なりひと)親王を産むと、ジッチャンの息子と思われる崇徳天皇に退位を迫ります。

そう、100%自分の子供に間違いない体仁親王を皇位につけるためです。

結局、今度は、鳥羽上皇の圧倒的な権力に屈した崇徳天皇が、しかたなく皇位を譲り、体仁親王は、わずか3歳で第76代・近衛天皇として即位し、崇徳天皇は上皇となり、鳥羽上皇は法皇となります。

しかし、この近衛天皇が、わずか17歳で亡くなってしまいます。

近衛天皇には、まだ子供がいなかった事から、崇徳上皇は・・・
「僕が、もっかい天皇やりましょか?それか、僕の息子・重仁(しげひと)親王を天皇にしったってもらえませんやろか?」
と、希望しますが、ジッチャンに虐げられた怨みが、まだ癒えない鳥羽法皇が、それを許すはずもなく、あっさりと拒否

・・・で、璋子さんが産んだとは言え、崇徳さんよりかは、おそらく自分の子供である確立が高い、あの雅仁親王を、次の天皇・・・第77代・後白河天皇として即位させたのです(10月26日参照>>)

この皇位交代のドタバタ劇が、それぞれの天皇にそれぞれの公家・武士が味方をして、やがて保元の乱(7月11日参照>>)へ・・・。

さすがに、晩年の鳥羽法皇は、大乱の予感という雰囲気の不穏な空気を察知し、関係を修復しようと、流行の疱瘡(ほうそう)にかかった崇徳上皇を、自らお見舞いに行ったりなんかしていたようですが、時すでに遅し・・・保元元年(1156年)7月2日鳥羽法皇は54歳でこの世を去り、そのわずか9日後に、後白河天皇VS崇徳上皇の保元の乱が勃発する事となるのです。

まぁ、最初の最初に文字通りのタネをまいたのは、ジッチャンの白河天皇ですが、まさに後悔先にたたず・・・

結局、その保元の乱をきっかけに、それまで貴族の護衛でしかなかった武士が歴史の表舞台で活躍する事になり、やがては、天皇をしのぐ権力を持つようになるのですから・・・。
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2008年7月 1日 (火)

京都・祇園祭の由来

 

今日7月1日から、京都・祇園祭が始まります。

祇園祭は、5月の葵祭、10月の時代祭と合わせて京都三大祭の一つ・・・また、東京の神田祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭の一つにも数えられる京都・東山の八坂神社のお祭です。

Gioniwatocc 一般的には、7月17日に行われる山鉾巡行と、その前日・前々日に行われる宵山・宵々山が有名ですが、お祭自体は、7月1日の吉符入長刀鉾町お千度を皮切りに、山鉾曳初め伝統芸能の奉納笠巡行などなど・・・、最終日の31日に行われる疫神社の夏越祭まで、一ヶ月間、ほぼ毎日のように、何かしらの行事が行われ、界隈は祇園祭一色に染まります。
(追記:2014年より24日の後の祭り=山鉾巡行が復活しています。)
(くわしい日程は、HPのお祭情報でどうぞ>>宵山での山鉾の位置を記した図もあります)

ところで、もはや日本で知らない人はいないんじゃないか?と思うくらいに有名な祇園祭ですが、このお祭が、もともと怨霊を鎮めるためのお祭であったという本来の意味を知る人は少ないのではないでしょうか?

でたーっ!またまた、平安京の怨霊対策です。

【未完の都・平安京】(10月22日参照>>)
【究極の魔界封じの都・平安京】(10月22日参照>>)
【お彼岸の由来】(9月23日参照>>)
のページで書かせていただいたように、疫病や天災に恐れおののいた桓武天皇が、ありとあらゆる手段で怨霊を鎮めたおしていた平安京ですが、貞観十一年(869年)に、またまた疫病が大流行!

「これは、御霊(祟りをもたらす死者の霊)のお怒りに触れたに違いない」とばかりに、常住寺の僧・円如が、66本の(ほこ)を、御輿(みこし)の前に立てて祀り、洛中の男児たちが、八坂神社から神泉苑まで練り歩き、神泉苑に御輿を奉納し、そこで疫病退散のための御霊会(ごりょうえ)が行われたのです。

この行事は、『祇園御霊会』と呼ばれ、これが現在の祇園祭なのです。

上記のとは・・・今では巡行するあの飾られた車そのものを鉾と呼ぶようになっていますが、もともとは怨霊を鎮める神具の事で、古代の刀や矛をかたどっているとも言われています。

それでは、なぜ?、怨霊を鎮める=八坂神社なのか?

そもそも、怨霊となるのは、政争に敗れ、怨みを残してこの世を去った人たち・・・桓武天皇で言えば、その政治的野望のために死へと追いやった実の弟の早良(さわら)親王(9月23日参照>>)、そして異母弟の他戸(おさべ)親王とその母・井上内親王であり、彼らは上御霊神社に祀られています。

桓武天皇の息子の平城天皇の代には、やはり、後継者でモメた異母弟の伊予親王とその母が非業の死を遂げ、下御霊神社に祀られました。

そんな中、八坂神社の祭神は、スサノヲノミコト(須佐之男命・素戔鳴尊)・・・

そうです。
この、別名:牛頭天王(ごずてんのう)とも言われる荒ぶる神・スサノヲさんこそ、政争で敗れた怨霊の親玉・・・まつろわぬ神なのです。

桓武天皇は、平安京の東西南北の4箇所にも、大将軍神社というスサノヲノミコトを祀る神社を建立しています。

ヤマタノオロチを退治した出雲の英雄神のようにも思えるスサノヲノミコトですが、そもそも出雲に下ったのは、高天原(たかまがはら)で大暴れし、姉のアマテラスオオミカミ(天照大神)が怒って天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまったために、高天原を追われた事による物です。

しかも、スサノヲノミコトの子孫であるオオクニヌシノカミ(大国主神)が治めるその出雲を、アマテラスオオミカミの孫のニニギノミコ(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)が乗っ取るという、二重の苦渋を味わっています。

そのニニギノミコトの子孫が、かの初代天皇の神武天皇・・・神話の形を借りてはいますが、つまりは、天皇家に政争で敗れた最初の人(神)がスサノヲノミコトという事になります。

だから、怨霊の親玉なんですね。

今でこそ、疫病は、夏場に活発になる細菌やウイルスによって拡大されるものと理解できますが、昔の人にとっては、目に見えない荒ぶる疫神・怨霊が大暴れしている姿を想像したんでしょうね。

今年なら、さしずめ、ガソリン高騰の疫神を鎮めていただきたいものですな。

山鉾巡行の先頭を行く長刀鉾の長刀の由来については7月27日の天文法華の乱のページでどうぞ>>

    八坂神社などへの行き方本家HP「京都歴史散歩」
    のコチラ↓からHPへどうぞ
    八坂神社・上下御霊神社・大将軍神社>>
    神泉苑>>

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年表式サイトマップ~目次~

 

このページは、その中の「時代別年表」「歴史人物の年表」という切り口でまとめて更新していきますので、このページを起点に、お目当ての記事を探していただければ幸いです。

・‥…━━━☆

●時代別年表

先史~古墳時代の年表>>
  神代~仏教伝来まで

奈良時代前半(飛鳥・白鳳)の年表>>
  仏教伝来~平城京遷都まで

奈良時代後半(天平)の年表>>
  平城京遷都~平安京遷都まで

平安時代前期(貴族の時代)の年表>>
  平安京遷都~保元の乱まで

平安時代後期(源平争乱の時代)の年表>>
  保元の乱~源頼朝・征夷大将軍就任まで

鎌倉時代の年表>>
  源頼朝・征夷大将軍就任~北条高時・自刃まで

室町時代・前期(南北朝・足利全盛時代)の年表>>
  北条高時・自刃~北条早雲の伊豆討ち入りまで

室町時代・中期(戦国・群雄割拠)の年表>>
  北条早雲の伊豆討ち入り~織田信長が足利義昭を奉じて上洛まで

室町時代・後期1(戦国時代・安土)の年表>>
  信長が義昭を奉じて上洛~秀吉が太政大臣・豊臣の姓を賜るまで

室町時代・後期2(戦国・桃山時代)の年表>>
  秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る~大坂夏の陣・終結まで

江戸時代の年表>>
  大坂夏の陣・終結~ペリー来航まで

幕末・維新の年表>>
  ペリー来航~西南戦争・終結まで

明治・大正・昭和・平成の年表>>
  西南戦争・終結~現在まで 

 

●歴史人物・出来事別年表
*
ブログで多くの出来事を書いている人物を中心に年表にしています。
 下記以外の人物は【歴史人辞典】>>でお探しください

平清盛と平家物語の年表>>
  殿上闇討ち~大原御幸まで

源頼朝の年表>>
  源頼朝の生涯

源義経の年表>>
  源義経の生涯

源(木曽)義仲の年表>>
  源義仲の生涯

足利尊氏と南北朝の年表>>
  後醍醐天皇・即位~南北朝合一まで

北条・五代の年表>>
  伊豆討ち入り~小田原城・落城まで

武田信玄と勝頼の年表>>
  信虎・追放~天目山の戦いまで

織田信長の年表>>
  織田信長の生涯

豊臣秀吉の年表>>
  豊臣秀吉の生涯

徳川家康の年表>>
  徳川家康の生涯

関が原の合戦の年表>>
  豊臣秀吉・没~柳川城・開城まで

大坂の陣の年表>>
  神川の合戦~大坂城・落城まで

外国の出来事年表>>
  外国の出来事や外国がらみの出来事

*右サイドバーにあります【検索ボックス】もご利用下さい

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今日は何の日?歴史の出来事カレンダー~目次~

 

このページは、その中の「出来事カレンダー」という切り口で、日づけから記事を探せるようにと、まとめてみましたので、このページを起点に、お目当ての記事を探していただければ幸いです。

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1月の出来事>>

2月の出来事>>

3月の出来事>>

4月の出来事>>

5月の出来事>>

6月の出来事>>

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8月の出来事>>

9月の出来事>>

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歴史人物辞典~目次~

 

このページは、人物名から記事を探せるようにまとめた「歴史人物辞典」の目次です・・・このページを起点に、お目当ての記事を探していただければ幸いです。

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*お目当ての人物が見当たらない時は、右サイドバーの【ブログ内検索】でボックスに名前を打ち込んで検索してください
 

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参考文献

 

いつも参考にさせていただいてますm(_ _)m

・‥…━━━☆

書籍名 著者・監修/出版社
浅井三姉妹の真実 小和田哲男
新人物文庫
1週間でわかる日本史 楠木誠一郎
二見書房
Ryoma 学習研究社
意外な意外な「日本史」 「歴史ミステリー」倶楽部・  三笠書房
永遠の飛鳥川 徳永隆平
日本交通公社
駅からはじまるハイキングMAP JR西日本
大阪の史跡を訪ねて 大阪民主新報
ナンバー出版
大阪府の民話 日本児童文学者協会
偕成社
お江と戦国の女たち 小和田哲男監修
PHP文庫
大人もぞっとする原典『日本昔ばなし』 由良弥生
三笠書房
大人の遠足シリーズ JTBパブリッシング
驚きの日本史講座 河合敦
祥伝社黄金文庫
面白いほどよくわかる日本史 加来耕三・鈴木旭
日本文芸社
おもしろ雑学  
大創産業
学校では教えられない日本史読本 奥成達
青春出版社
漢字のすべて  
富士出版
京・大和・近江の昔 稲田浩二
講談社
教科書が教えない歴史 藤岡信勝・自由主義史研究会   産経新聞社
今日は何の日 話のネタ365日  
PHP研究所
京阪線歴史散歩 加来耕三
鷹書房
源氏物語五十四帖  
平凡社
源平合戦あの人のその後 日本博学倶楽部
PHP研究所
古事記  
河出書房新社
古代面白事典 邦光史郎
主婦と生活社
古代史の秘密を握る人たち 関裕二
PHP研究所
古代の大阪 奥田尚
松籟社
この一冊で「宗教」がわかる! 大島宏之
三笠書房
自分を強くする名言 櫻木健古
三笠書房
週刊・戦乱の日本史シリーズ 小学館
週刊・名将の決断シリーズ 朝日新聞出版
週刊・歴史のミステリーシリーズ デアゴスティーニ
人物・日本の女性史 円地文子
集英社
生活歳時記 樋口清之
三宝出版
戦後教科書から消された人々 濤川栄太
ごま書房
全国アホ・バカ分布考 松本修
新潮社
戦国合戦100選 川口素生
リイド文庫
戦国剣豪100選 清水昇
リイド文庫
「戦国合戦」意外・驚きエピソード 加賀康之
PHP研究所
戦国武将逸話集「常山紀談」 大津雄一・田口寛
勉誠出版
戦国驍将・知将・奇将伝 歴史群像編集部
学研M文庫
戦国軍師人名事典 川口素生
学研M文庫
戦国時代の大誤解 鈴木眞哉
PHP新書
戦国時代の裏を読む 中村彰彦
PHP文庫
戦国時代の大誤解 鈴木眞哉
PHP新書
戦国の女性たち 小和田哲男編著
河出書房新社
戦国武将100選 川口素生
リイド文庫
戦国武将・あの人の「その後」 日本博学倶楽部
PHP研究所
戦国武将「できる男」の意外な結末 日本博学倶楽部
PHP研究所
戦国名将・智将・梟将の至言 楠戸義昭
学研M文庫
その手紙が変えた日本の歴史 日本歴史研究班
リイド文庫
その時、歴史は動かなかった 鈴木眞哉
PHP新書
孫子の兵法 守屋洋
三笠書房
立山黒部の昔話 遠藤和子
立山黒部貫光株式会社
まっぷるたびまる-京都 昭文社
地名の謎 今尾恵介
新潮社
でか字まっぷ 昭文社
手にとるように民俗学がわかる本 岸祐二
かんき出版
奈良・大和路 読売新聞社
日本逸話大事典 高柳光嘉・白井喬二
人物往来社
日本史・あの事件の意外なウラ事情 長尾剛
PHP研究所
日本史あの人の言い分 歴史の謎研究会
青春出版社
日本史おもしろ謎学 渡辺誠
コスモ出版
日本史こぼれ話 古代・中世 笠原一男・児玉幸多
山川出版社
日本史史料集 山川出版社
日本史人物すいすい暗記 受験研究社
日本史世界史並列年表 後藤寿一
PHP研究所
日本史図録 山川出版社
日本史の一級史料 山本博文
光文社
日本史のウラ読本 歴史の謎研究会
青春出版社
日本史の謎 世界文化社
日本史の謎がわかる本 歴史ミステリー倶楽部
王様文庫
日本史の迷宮 三浦竜
青春出版社
日本史の名場面 加来耕三
扶桑社
日本史未解決事件ファイル 日本博学倶楽部
PHP研究所
日本史ものしり事典 奈良本辰也
主婦と生活社
日本縦断・万葉の旅 文藝春秋
日本の神様読み解き事典 川口謙二
柏書房
日本の古典50冊 阿刀田高
三笠書房
日本の城・封印されたミステリー 平川陽一
PHP研究所
日本の歴史 鈴木哲
講談社学術文庫
日本の歴史・合戦おもしろ話 大和田哲男
三笠書房
日本の歴史ミステリーまさかの展開 小和田哲男
知的生き方文庫
日本の歴史がわかる本 上・中・下 大和田哲男
三笠書房
日本昔話・謎と暗号 歴史の謎研究会
青春出版社
ニューエスト京阪神詳細図 昭文社
信長・秀吉・家康の戦略戦術 佐々克明
産業能率大出
幕末維新・あの人の「その後」 日本博学倶楽部
PHP研究所
発掘された日本史 高橋徹・天野幸弘
日本文芸社
話のネタ 会話がはずむ教養読本 毎日新聞社
PHP研究所
早わかり日本史 河合敦
日本実業出版社
枚方風土記 枚方市企画調査室
ふしぎの日本史面白読本 古相正美
青春出版社
別冊宝島 宝島社
別冊歴史読本 新人物往来社
星の神話伝説集 草下英明
文元社
魔界都市・京都の謎 火坂雅志
PHP研究所
負け組の戦国史 鈴木眞哉
平凡社新書
源義経 土橋治重
成美堂出版
名場面でわかる日本の歴史 大和田哲男
三笠書房
目からウロコの近現代史 河合敦
PHP研究所
毛利元就と戦国武将たち 古川薫
PHP研究所
要説 平家物語  
日栄社
歴史街道 PHP研究所
歴史雑学事典 毎日新聞社
歴史人 KKKベストセラーズ
「歴史人物」もの識り大百科 横山験也・勝又明幸
明治図書
歴史人物裁判所 大淵憲一
コスモ出版
歴史読本 人物往来社
歴史に消された18人のミステリー 中川文彦
PHP研究所
歴史にはウラがある ひろさちや
新潮社
歴史の意外な「ウラ事情」 日本博学倶楽部
PHP研究所
「歴史」の意外な結末 事件・人物の隠された「その後」 日本博学倶楽部
PHP研究所
歴史のウラ舞台・おもしろ人物帖 泉秀樹
三笠書房
歴史の決定的瞬間 日本博学倶楽部
PHP研究所
歴史をさわがせた女たち 日本篇 永井路子
文藝春秋
歴代天皇事典 高森明勅
PHP研究所

追記購読している産経新聞のニュース情報なども参考にさせていただいてます(*^-^)

気になった本がありましたら…

 

 

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