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2008年7月 2日 (水)

保元の乱のきっかけを作った鳥羽天皇の死

 

保元元年(1156年)7月2日、第74代・鳥羽天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・

第73代・堀河天皇第一皇子として生まれた鳥羽天皇(宗仁親王)は、生まれてすぐに母を亡くしたため、祖父の第72代天皇・白河法皇のもとで育てられます。

その後、父の堀河天皇が亡くなったため、わずか5歳で即位する事になるのですが、当然5歳の子供に政務がこなせるわけもなく、すべてが白河法皇の思いのままに行われる事になります。

やがて、鳥羽天皇が15歳になった時、やはり白河法皇の強い意向で、権大納言藤原公実(きんざね)の娘で、白河法皇の養女となっていた璋子(しょうし)女御として入内しますが、この璋子さん、白河法皇の養女とは名ばかりで、実はカノ女・・・もちろん、元カノではなく、現役です。

彼女が、翌年、中宮になっても、その関係は続いていたようです。

なぜなら、まもなく璋子さんは、男の子・顕仁(あきひと)親王を出産するのですが、鳥羽天皇は、この顕仁親王の事を「叔父子(おじこ)」と呼んでいたと・・・つまり、自分の子ではなく、ジッチャンの子供(叔父)だと思っていたらしいのです。

もちろん、この時代にDNA鑑定できませんから、それは憶測でしかないのでしょうが、それだけ鳥羽天皇は、璋子さんとは関係が薄かったのかも知れませんね。

なんせ、この顕仁親王が生まれた翌年・保安元年(1120年)には、白河法皇が熊野に参詣しているスキを狙って、関白の藤原忠実(ただざね)の娘・泰子(たいし)入内させて、白河法皇のご機嫌をそこねていますから・・・。

おかげで、忠実は、関白の座を追われ、宇治に引きこもってしまいます。

やがて、顕仁親王が5歳になった時、白河法皇は、まだ21歳の鳥羽天皇をムリやり退位させ、その顕仁親王を即位させようとします。

「絶対、白河さんの子供やん!」と思いたくなる行動ですが、圧倒的な権力の違いに、鳥羽天皇は、しかたなく皇位を譲り、上皇となって、顕仁親王が第75代・崇徳天皇として即位します。

こうなっても、まだ白河法皇と璋子の関係は続いていたようですが、そんなこんなの大治二年(1127年)、璋子は雅仁親王を産みます。

どうやら、今度は鳥羽上皇の子供のようです。

なんせ、その二年後の大治四年には、白河法皇は77歳でお亡くなりになっているので、さすがの絶倫ジッチャンも寄る年波には勝てず、その少し前から、璋子との関係も薄れていたのです。

その白河法皇の崩御により、「待ってました!」とばかりに、ジッチャン同様、あれやこれやと思いのままにやり始める鳥羽上皇・・・。

この頃には、ジッチャンの元カノだった璋子を遠ざけ、あの泰子ちゃんを女御から皇后へと出世させ、宇治の引きこもり・忠実も呼び戻し、その息子の頼長(よりなが)を重用します。

さらに、権中納言藤原長実(ながざね)の娘・得子(とくし)を、女御として入内させ、ラブラブモード全開の中、その得子が体仁(なりひと)親王を産むと、ジッチャンの息子と思われる崇徳天皇に退位を迫ります。

そう、100%自分の子供に間違いない体仁親王を皇位につけるためです。

結局、今度は、鳥羽上皇の圧倒的な権力に屈した崇徳天皇が、しかたなく皇位を譲り、体仁親王は、わずか3歳で第76代・近衛天皇として即位し、崇徳天皇は上皇となり、鳥羽上皇は法皇となります。

しかし、この近衛天皇が、わずか17歳で亡くなってしまいます。

近衛天皇には、まだ子供がいなかった事から、崇徳上皇は・・・
「僕が、もっかい天皇やりましょか?それか、僕の息子・重仁(しげひと)親王を天皇にしったってもらえませんやろか?」
と、希望しますが、ジッチャンに虐げられた怨みが、まだ癒えない鳥羽法皇が、それを許すはずもなく、あっさりと拒否

・・・で、璋子さんが産んだとは言え、崇徳さんよりかは、おそらく自分の子供である確立が高い、あの雅仁親王を、次の天皇・・・第77代・後白河天皇として即位させたのです(10月26日参照>>)

この皇位交代のドタバタ劇が、それぞれの天皇にそれぞれの公家・武士が味方をして、やがて保元の乱(7月11日参照>>)へ・・・。

さすがに、晩年の鳥羽法皇は、大乱の予感という雰囲気の不穏な空気を察知し、関係を修復しようと、流行の疱瘡(ほうそう)にかかった崇徳上皇を、自らお見舞いに行ったりなんかしていたようですが、時すでに遅し・・・保元元年(1156年)7月2日鳥羽法皇は54歳でこの世を去り、そのわずか9日後に、後白河天皇VS崇徳上皇の保元の乱が勃発する事となるのです。

まぁ、最初の最初に文字通りのタネをまいたのは、ジッチャンの白河天皇ですが、まさに後悔先にたたず・・・

結局、その保元の乱をきっかけに、それまで貴族の護衛でしかなかった武士が歴史の表舞台で活躍する事になり、やがては、天皇をしのぐ権力を持つようになるのですから・・・。
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コメント

はじめまして。
いつも楽しく拝見させていただいております。
さて、気になることがあったので書かせて頂きます。
璋子二度目の出産で雅仁親王(後白河天皇)出産とありますが、実は二度目ではなく六度目の出産なのです。
璋子は顕仁親王(崇徳天皇)のあと親王3人(含む雅仁親王)
内親王2人を出産しています。
ただし、顕仁のすぐ下の二人の親王は体に障害があり、内親王の一人は早死にします。
結局無事に育ったのは顕仁(崇徳)、雅仁(後白河)、統子(上西門院)だけです。

また、雅仁が生まれた頃にはもはや白河法皇とのそのように噂される関係は消滅していたと考えられているようです。

泰子の入内は白河法皇が生存中のうちは結局実現せず、白河法皇死去の後子供を産む可能性が薄くなったころにやって入内がかないました。

細かいところをつつくような長文コメントをしてごめんなさい。

これからも楽しみに読ませていただきます。

投稿: さがみ | 2008年7月 3日 (木) 06時04分

さがみ様、ご指摘ありがとうございます。

一つ一つ返答させていただきます。

>二度目ではなく六度目の出産・・・
●その日の話の筋書きに関係のない人物を、やたら登場させると、ややこしくなって内容が読みとり難くなると思い、他の親王・内親王の事は、すっ飛ばしてしまいましたが、おっしゃる通り2度目ではないので、本文からその「2度目」という部分は削除させていただきました。

>雅仁が生まれた頃にはもはや白河法皇とのそのように噂される関係は消滅していたと・・・
●記事本文にも、そのようなニュアンスで書いておりますが・・・

>泰子の入内は白河法皇が生存中のうちは結局実現せず・・・
●手持ちの史料(歴代天皇事典:PHP研究所版)に、「保安元年(1120年):入内、長承三年(1134年):立后」とありましたので、そのように書かせていただきましたが、どこかに別の記述がないか調べてみます。

投稿: 茶々 | 2008年7月 3日 (木) 09時13分

ごていねいなお返事をいただきありがとうございました。
後白河の出生に関してはこちらの読み落としでした(汗)。失礼しました。

ところで泰子の入内に関しては次のような書籍がありますので、よろしければご参考に。
「歴代皇后人物総覧」(新人物往来社、2002年10月)
「歴史と旅 臨時増刊号 歴代皇后総覧」(秋田書店、1994年5月)

投稿: さがみ | 2008年7月 4日 (金) 05時20分

さがみ様、ありがとうございます

投稿: 茶々 | 2008年7月 5日 (土) 00時50分

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