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2008年7月 8日 (火)

太閤検地と刀狩り

 

天正十年(1582年)7月8日に豊臣(羽柴)秀吉による初めての太閤検地が近江にて実施され、天正十六年(1588年)7月8日には刀狩令が発布されました。

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戦国時代に誰もが夢見た天下統一、そして、全国を統一した者だけが実現できる中央集権化・・・

主君・織田信長本能寺で討った明智光秀山崎で破り清洲会議で実権を握った豊臣(羽柴)秀吉は、天正十年(1582年)7月8日最初の検地で、その夢の実現に着手し、やがて訪れる天正十六年(1588年)7月8日刀狩で、それを成し遂げたと言えるでしょう。

中世の荘園という物は、一つの土地に多くの人が群がる複雑な物で、現在の感覚の土地の所有とは明らかに違う物でした。

単純な物でも、一つの土地に対して、その土地を耕す作職、その上に名主職、その上に荘園の荘官、そのまた上に荘園領主がいて、それぞれが自分の地位にともなう取り分を、その土地から得ていたわけです。

多くの場合は、その領主にも本家と分家あったり、土地を耕す者にも、その下に小作がいたりなんかして、さらに複雑・・・。

そんな荘園制度に終止符を打って、一つの土地に一作人と決めたのが太閤検地です。

Taikoukenticc

秀吉は全国に検地奉行を派遣し、六尺三寸(約191cm)四方を一歩(ぶ)とし、さらに、三十歩が一畝(せ)、十畝が一段、十段が一町という単位で面積を計測し、その面積から獲れる穀物の分量を、全国一律の京枡で量り、一段あたりの生産力を、お米の収穫量で表すようにしたのです。

この枡で量る生産量の単位が合・升・斗・石で、この一段あたりの標準収穫量を石盛(こくもり)と言い、この石盛に面積をかけたのが、いわゆる石高・・・ちなみに一石は約140kgでした。

Taikoukentisyocc たとえば、石盛が一石五斗の畑が2段あったなら、石高は三石・・・これには、屋敷の面積も含まれていて、村ごとの田畑や屋敷地の石盛を出し、そこから村の石高を計算して、村の石高を登録し、その3分の2を年貢として領主の大名に納めるのです(村請制=むらうけせい)

大名たちに、この石高制を導入する事で、大名の上下関係も明白になるとともに、合戦時の奉仕もその石高によって負担の差が生まれる事になりました。

もちろん、制度を一新するわけですから、かなりの抵抗もあったようです。

秀吉は・・・、
「武士や土豪・百姓を問わず、なんで検地をするのかを、納得のいくまで説明して、それでもわかれへんねやったら、たとえ城主クラスであっても斬ってえぇ、村中で抵抗するようやったら村ぐるみで斬って、誰も耕すことのない土地になったってかまへん!
お前ら検地奉行がでけへんねやったら、俺が直接行ってやったる!」

・・・とまで言ってます。

一方の刀狩は、「方広寺の大仏建立のための釘や鎹(かすがい)に使用する・・・」
なんていう名目で、
百姓の持つ刀や脇差・槍・鉄砲などの武器を提出しろ」
という事ですが、・・・

当然、それは百姓から武器を取り上げるため・・・理由のない武器を持たせておいて、年貢を納めず、一揆などされては、困りますからねぇ・・・。

農民は、商人や職人と兼業する事も禁止し、農業だけに専念するようにさせました。

織田信長が始めて行った兵農分離を、ここに、秀吉が完成させたのです。

こうして、封建的な身分制度の基礎ができあがりました。

ちなみに秀吉が『刀狩令』とともに出す、海の刀狩り『海上賊船禁止令』によって衰退する村上水軍のお話2008年8月22日のページでどうぞ>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

一揆・暴動の抑制に刀狩りの効果って有ったんですかねぇ。時代劇の一揆のシーンを見ても分かるとおり、いざ一揆を起すとなれば鋤・鍬・鎌などの農機具、竹槍、或いは包丁を長い棒に括り付けた手製の槍みたいな物等々、その気になれば武器はいくらでも作れますからねぇ。そんな点から僕が思うのは、刀狩りの目的って…一揆防止よりも、刀の所持を武士に限ることにより兵農分離を完成させ武士の権威を高める方に重きを置いていたと思うんですが、如何なものでしょう?

投稿: | 2008年7月 8日 (火) 11時32分

コメントありがとうございます。

おっしゃる通りですね。

本文でも最後の2行に書かせていただきましたが「兵農分離を完成させ、封建的な身分制度を確立する」のが本来の目的でしょう。

ただ、小早川家文書に残る「刀狩の命令書」には、一揆防止のためという事が書かれてあるので、上記のように書かせていただきました。

たぶん、これも名目でしょうね。

投稿: 茶々 | 2008年7月 8日 (火) 12時28分

秀吉の、として有名な検地と刀狩り。
実は明智光秀が丹波で行っていたんですね。
信長が死ななければ、光秀の手柄になっていたのに・・・。
大阪城も含め、秀吉は美味しいとこを大分もっていってますね。
勝者の特権ですか。

私の知り合いは、実は本能寺の変の原因はこれにあるのではないか、と言ってました。
丹波国人一揆=本能寺の変、だと。
明智光秀はそれに巻き込まれた・・・。
少し突飛な話だと思いますが、面白くはあります。

投稿: 今太 | 2008年7月15日 (火) 08時28分

今太さま、こちらにもコメントありがとうございます。

>検地と刀狩り・・・明智光秀が丹波で行っていた
>信長が死ななければ、光秀の手柄になっていた
>丹波国人一揆=本能寺の変

・・・という事は、検地と刀狩を行った光秀に反抗した丹波国人の犯行という事でしょうか?
それならば、最終的に光秀は討たれるので、国人たちは本望を遂げたという事になりますね。

なかなか楽しいお話ですね~ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2008年7月15日 (火) 11時24分

いつも、愉しく拝見しています。
別の記事でも、コメントさせていただきましたが、荘園の仕組みや石高制の話など、他ではあまり書かれていない話が、新鮮で面白いです。

普段、それらのことを疑問に思っても、茶々さんのような、わかりやすい記述は、あまり目にしません。

これからも引き続き徒然サーフィンさせていただきます。

通勤車中から(^^)

投稿: ひろし | 2015年1月 7日 (水) 08時00分

ひろしさん、コメントありがとうございますm(_ _)m

まだまだ説明不足ですし、未熟ゆえ、自分自身で勘違いしてるような部分もあろうかと思いますが、長~い目と広~いお心で、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2015年1月 7日 (水) 16時17分

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