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2008年7月 5日 (土)

小田原城・開城への道

 

天正十八年(1590年)7月5日、豊臣秀吉の小田原征伐にて、小田原城が開城されました

・・・・・・・・・

天正十八年(1590年)3月の山中城と韮山城の総攻撃(3月29日参照>>)に始まった豊臣秀吉小田原征伐・・・二つの城のうち、山中城をわずか2時間ほどで落城させた秀吉軍は、その勢いのまま箱根を越え、4月3日には、小田原城包囲を完します(4月3日参照>>)

小田原は、その城下町ごと城郭の中に収まった鉄壁の城塞都市ですし、そもそも籠城は、北条氏お得意の作戦・・・。

しかし、最初こそ余裕があったものの、秀吉が小田原城を包囲する本隊とは別に進めていた別働隊による関東一円の支城攻撃(6月9日参照>>)により、支城が次々と落とされていくという状況を目の当たりにして、その余裕は徐々に消え始めていくのです。

中でも、6月24日の韮山城の開城と、6月26日の石垣山城の完成(6月26日参照>>)が、北条の運命を大きく変える事になります。

韮山城は、冒頭に書いた通り、最初の段階から、織田信雄を総大将に約3万5千の兵による攻撃を受けていたにも関わらず、その日まで持ちこたえた強固な城だったわけですが、その開城は、落城というよりは、城主・北条氏規(うじのり・氏康の五男)方針転換にあったようです。

実は、この氏規さん・・・幼い頃に今川の人質に出されたいたという過去があります。

そう、あの徳川家康と同時期に、まったく同じ境遇で、今川でともに過ごしていたのです。

おそらくは、幼なじみとも言える家康から、何かの工作があったものと推測されますが、その6月24日に韮山城を開城した氏規が、そのまま小田原城へと入り、当主・北条氏直に、降伏をうながしたのではないでしょうか?

例の長い長い小田原評定が行われる中、秀吉の裏工作によって、城内には次々と内応者も出始めます。

かくして天正十八年(1590年)7月5日、氏直は弟・氏房をともなって、滝川雄利(一益の娘婿)の陣を訪れるのです。

「自分が切腹をするので、城兵の命は助けてほしい・・・」
北条最後の当主・氏直の命を賭けた決断でした。

氏直の申し出は、すぐさま、秀吉のもとへと伝えられます。

結果、氏直は高野山へ追放・・・その代わりに、氏直の父・北条氏政と、その弟・氏照、家臣の大道寺政繁松田憲秀切腹を命じます。

これは、北条氏の当主は氏直であっても、主導権は氏政と氏照が握っていたであろうと推測される事と、氏直が家康の娘婿である事に配慮しての処置と思われます。

翌日の7月6日には、家康が自軍の兵を小田原城に入城させ、それに交代するように7日には、城兵が小田原城を出て家康の陣に入りました。

やはり、ここにも、「家康が氏規を説得→韮山城開城→氏規が氏直を説得」という流れが見え隠れするような気がします。

10日には、氏政と氏照が城をあとにし、翌11日には、城下にて切腹をし、ここに、北条氏は滅亡し、秀吉の小田原征伐は終了しました。

その後、秀吉は奥州征伐へと取りかかります(11月24日参照>>)
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

やっぱ氏政は愚将だったんですなぁ。氏康が氏政と一緒に食事をした時に、氏政が湯漬けをするのに、飯に二度お湯を掛けるのを見て、自分の食べる湯漬けに、どれだけ湯を掛けたら良いかも分からず途中で湯を掛け足すなど愚かじゃ、我が家を滅ぼす者有らば、それは氏政であろうと嘆いたナンテ逸話を聞いた事がありますが、そんな氏政だったから…秀吉の力量も見誤って小田原城を完全包囲され五代に渡って関東に破を唱えた北条氏を壊滅させたんですから、氏康も草葉の陰で泣いてた事でしょうね。

投稿: | 2008年7月 5日 (土) 10時18分

コメントありがとうございます。

まさに、氏康さんの不安が的中しましたね。

投稿: 茶々 | 2008年7月 5日 (土) 10時55分

北条氏ですが、小田原戦で降伏したとは言え、命脈は保ったんですよね。確か江戸時代にも高家として存続してたと記憶してます。関ケ原後に上杉や毛利が三十万石級の大名で残った事を思うとき、北条氏もなんとか関ケ原の折に活躍して、もう少し石高をあげることは出来なかったんでしょうかね。

投稿: マー君 | 2008年7月 5日 (土) 15時58分

毎度毎度と勉強してま~すww
最近、歴史の本などを読んでいないせいで

「「懐かしい。。。」」

とついつい思ってしまいます^^;
これからも頑張ってくださいw
頑張って、思い出しつつ、ついていきますのでww

投稿: 宗兼 彩 | 2008年7月 5日 (土) 21時05分

マー君さん、こんばんは~

高野山へ追放は事実上死んだも同じですもんね・・・大名として生き残った今川でも、あの状況ですから、やっぱ復活するのは難しかったのではないでしょうか?

上杉が生き残ったのは、直江兼続の努力?
毛利が生き残ったのは、かつて秀吉を助けた四男との約束が、まだ生きていたのではないか?と思っています。(一応関ヶ原は豊臣の内戦という建前なので・・・)

投稿: 茶々 | 2008年7月 5日 (土) 22時19分

宗兼 彩さん、コメントありがとうございます。

私も、いつも、思い出しつつ書いていますww

これからも、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2008年7月 5日 (土) 22時22分

パパから見れば、息子はみ~~んな不出来に思えるようです(苦笑)
氏康公も、技量を疑われてなかなか跡を継がせてもらえなかったり(どっちもどっち)

ところで、小田原征伐で後北条方の城が次々落城してますが、
一番、悲惨な結果が、八王子城。
血みどろとなり、21世紀の今でも心霊スポットとして有名です(爆)
城主の氏輝クンは、その頃、小田原評定中で(笑)その場には居合わせませんでした
(その後、切腹ですが)

彦根の「ひこにゃん」に対抗して、八王子では「うじてるクン」のキャラを売り出し中です。。

落城の日は、地元民さえ近寄らない八王子城跡で、イベントでもやるのでしょうか(恐怖)

投稿: りゅーたん | 2008年7月 6日 (日) 00時20分

りゅーたんさん、こんばんは~

>落城の日は、地元民さえ近寄らない八王子城跡で、イベントでも・・・

おっしゃる通り、八王子城は悲惨でしたね~
だからこそ、イベントは築城の日がよいかと・・・怖いので(^^;)

投稿: 茶々 | 2008年7月 6日 (日) 00時42分

関東征伐によって、豊臣秀吉に負けた北条氏政は、勝者の側から見れば、愚かな武将と評価されるのは仕方がないかもしれませんし、祖父の北条氏綱と父親の北条氏康と比較されれば、なおさらでしょう。しかし、私の見解ですが、氏政は、決して無能とは思えないのです。なぜなら、氏政は氏康の死後に、領土を拡大することで、快進撃を続けたからです。しかも、嫡男である北条氏直に家督を譲った後も、
実権を離すことなく、北条家を牛耳っていたことを考えると、そんな気がしてなりません。もう少し、氏政のことを再評価しても良いのではないかと思います。


投稿: トト | 2017年11月16日 (木) 10時33分

トトさん、こんにちは~

>氏政は、決して無能とは思えないのです。

おっしゃる通り、無能な人では無かったと思いますよ。
ただ、小田原攻めの時に関しては、もう少し違うやり方もあったのかな?とも思いますが、それこそ、どんな策を取っていたとしても、秀吉自身が「何が何でも潰したい」と思ってたなら、何をどうしても回避できなかったかも知れませんしね。

投稿: 茶々 | 2017年11月16日 (木) 17時12分

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