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2008年8月31日 (日)

龍馬に影響を与えた姉・坂本乙女

 

明治十二年(1879年)8月31日、坂本龍馬の姉・坂本乙女が、47歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

ご存知、坂本龍馬には、歳の離れた兄と、その間に三人の姉がいますが、ドラマなどで描かれる時に登場するのは、必ずと言っていいほど、この坂本乙女(おとめ)さん・・・。

乙女と龍馬は3歳違いですが、龍馬が12歳の時に母親が亡くなったため、多感な思春期を、母親代わりに世話をしたのが、すぐ上の姉・乙女で、「龍馬の精神的成長に多大な影響を与えたのではないか?」とされ、兄弟の中では、ひと際、注目されている人なのです。

龍馬の少年時代は、たいへんな泣き虫で、塾などへ行っても、大抵泣かされて帰ってきていたそうですが、それは、小さい頃は病弱だったため、母親が腫れ物にさわるように育て、その母親が亡くなってからは、弟を可愛がる三人の姉・・・となると、どんな雰囲気の少年だったかは、だいたい想像がつきますよね。

ところが、そんな龍馬の性格を見かねて、立ち上がったのが乙女です。

「小さい頃はカワイイで済まされるが、思春期になってコレでは先が思いやられる」とばかりに、その教育方針を一転!・・・龍馬の性格改造に乗り出します。

彼女は、身長五百八寸(176cm)、体重三十貫(130kg)はあったいう当時としてはかなりの大女・・・「坂本の仁王さま」というニックネームがついていたと言います。

そんな彼女が、その巨漢をもろともせず、剣術をこなし、強弓を引き、泳ぎも上手で、馬術もたしなむ(馬が・・・)というから大したモンです。

しかも、和歌や三味線、謡曲などの芸事も一通りこなしていたというのですから、その性格も想像できます。

男まさりで、負けず嫌い、こうだと思ったら最後まで信念をつらぬく・・・そんな彼女が、本腰を入れて、弟の教育に乗り出したのですから、その厳しさもハンパじゃありません。

行儀作法に始まり、読み書き、剣術・・・

おかげで、龍馬が近くの剣術道場に通う頃には、すっかり腕も上達し、やがて、その剣術の修行のため、故郷を離れ、江戸へと向かう事になります。

その江戸で、北辰一刀流の小千葉道場に入門するわけですが、時代は、まさに幕末・・・佐久間象山(7月11日参照>>)に出会い、そして、あのペリーの黒船来航(6月3日参照>>)にも影響され、龍馬の中では、何かが目覚め始めるのです。

8年間の剣術修行を終え、北辰一刀流免許皆伝(免許皆伝ではないという説もあります)となった龍馬は、故郷・土佐(高知県)へ戻ってきますが、その頃には、もうすっかり志士となっていました。

その後、決起したばかりの土佐勤王党に参加し、さらに脱藩・・・。

一方の乙女は、龍馬が江戸にいる間に、近所のお医者さん・岡上樹庵(おかうえじゅあん)と結婚し、男の子を設けていましたが、龍馬が土佐に戻ったこの頃には、すでに離婚していたようです。

・・・というのも、龍馬は、近況報告として、乙女にしょっちゅう手紙を出しているのですが、この脱藩の頃の手紙からは、ダンナさんの事を、いっさい書かなくなってしまっているので、おそらく、もう、交流が無かったんでしょうね。

離婚の理由は、夫の暴力、夫の浮気、姑との渡鬼・・・などなど、結局のところはよくわかっていません。

そんな姉・乙女の事を、龍馬は・・・
「親に死なれてからは、乙女姉さんに育てられたようなモンやきに・・・親の恩よりも、姉さんの恩のほうが大きいぜよ」
と、奥さんのお龍によく話していたそうです。

その話といい、上記の大量の手紙のやりとりといい、やっぱり龍馬は、兄弟の中では、乙女と一番仲が良かったようですね。

そんな、仲のよかった弟を、彼女は、先に見送らなければなりませんでした。

慶応三年(1867年)11月15日・・・彼女は暗殺という形で、かわいい弟を失いました(11月15日参照>>)

思えば、ひ弱な弟に、「強くなれ!」と叱咤激励した彼女・・・。

強くなるために江戸に向かい、多感な青春時代をそこで過ごし、大いなる志を持ってしまったために、その命を縮める事になってしまった・・・ひょっとして、ひ弱な弟がひ弱なままだったら、土佐の故郷で天寿をまっとうできていたのかも知れません。

果たして、最愛の弟を失った彼女の心の内は、どのようなものだったのでしょうね。

自分の思いが、結果的に、弟の命を縮めてしまった事に対する後悔の念なのでしょうか?

はたまた、維新の礎となって華々しく散った弟へ「よくやった」とのねぎらいの思いなのでしょうか?

私は、おそらく、後者だと・・・いや、そうであってほしいと願っています。

龍馬の功績は、その生前は、ほとんど評価される事がありませんでした。

いえ、現在でさえ、彼がやったとされる事が、本当に彼がやった事なのか?それとも、小説による空想の産物なのか?の論議が分かれるところです。

Ryoumakucc ♪世の人は
 われを何とも
 言はゞいへ
 わがなすことは
 我のみぞしる

これは、龍馬が詠んだとされる歌・・・

いつも、どんな時も、人がなんと言おうと、乙女は龍馬の一番の理解者だったと言います。

どこで、何をしているのか・・・細かな事はわからなくても、我が弟の成す事を、彼女は、ずっと信じていたに違いありません。

「他人が何と言おうと、姉のみぞ知る」と・・・

そんな彼女は、龍馬の死から13年の後の明治十二年(1879年)8月31日壊血病(かいけつびょう)で47歳の生涯を閉じたのです。

信念を貫く、豪快で強気な姉は、あの世で、また、「維新を見ぬ前に死んでしもたぜよ」と嘆く、泣き虫の弟を、叱咤激励しているのかも知れません。
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2008年8月29日 (金)

第三次川中島の合戦~上野原の戦い

弘治三年(1557年)8月29日、甲斐武田信玄と、越後上杉謙信による川中島の合戦・・・合計5回の合戦のうちの第三次川中島の合戦=上野原の戦いがありました。

・・・・・・・・・

領地拡大を狙う甲斐(山梨県)武田信玄信濃(長野県)へと進攻し、葛尾(かつらお)を奪われた村上義清が、その奪回をはたすべく越後(新潟県)上杉謙信(長尾景虎)を頼った事から勃発した信玄VS謙信の一連の戦い・・・(4月22日参照>>)

弘治元年(1555年)に勃発した第二次川中島の合戦=犀川の戦いでは、まさに(さい)を挟んで3ヶ月に及ぶにらみ合いを続けたにも関わらず決着がつく事はなく今川義元が間に入って、何とか講和を成立させました(7月19日参照>>)

しかし、その翌年の信玄と謙信・・・二人の行動はまったく相反するものとなります。

この時、ちょうど起こっていた家中での内紛のドロドロ感に嫌気がさしたのか?謙信は、いきなり「出家する~!」と言って高野山(もしくは比叡山)へ向かい、一方の信玄は、先の合戦での講和を破り、信濃北部への進攻を再開するのです。

さらに、信玄は、謙信の家臣である大熊朝秀(ともひで)と内通・・・朝秀をそそのかして越中(富山県)にて乱を起こさせます(6月28日参照>>)

この乱自体は、駒返(駒帰:こまがえし=新潟県糸魚川市)の戦いにて、すみやかに鎮圧され、失敗に終わりますが、これによって、信玄は、先の合戦での講和を破棄する事を明言し、講和の条件で領地を安堵されていた上杉方の国人衆に寝返りを促する事で、切り崩し作戦を始めたのです。

身内の裏切りと、信玄の宣戦布告に、少なからずショックを受ける上杉方の諸将たち・・・やがて信玄は、弘治三年(1557年)2月15日に、上杉側のものとなっていた葛山(かつらやま)城を奪回します。

すでに、家臣に説得され、高野山から越後に戻っていた正義の人・謙信は、もちろん、この信玄の約束やぶりに激怒です。

すぐにでも兵を招集して出陣しようとしますが、なにぶん時期は2月の真冬・・・雪に閉ざされた越後で、くやしい思いをしながらも、春を待つ事になりますますが、この間にも、信濃の国人たちは次々と武田方へと降っていきます。

やがて、訪れた春・・・4月18日やっと謙信は春日山城を出陣し、周辺の支城を次々と落しながら、いざ!川中島へ・・・この時の、上杉方の兵力は1万。

対して2万の兵力を持つ信玄は、川中島への誘い出しには乗らず北方へのにらみを効かせるため深志城(ふかしじょう・長野県松本市)へと入城し、準備万端整えます。

かくして弘治三年(1557年)8月29日善光寺の北方・上野原で両者は激突します。

・・・とは言いますが、実は、この合戦の詳細は、あまりくわしくはわかっていないのです。

実際に、激突した場所が上野原だったのかも、その激突に信玄自身が参加していたのかどうかも、今のところは明白ではありません。

更なる史料の発見に期待したいところですが、とにもかくにも、この日の合戦は、上杉方がやや有利という程度の引き分けに終わります。

またも、双方に大打撃を受ける事も与える事もなく、戦いはこう着状態に・・・。

しかし、この合戦・・・謙信にとっては、そう長くは続けていられません。

実は、謙信は、このところ三好長慶(ながよし)松永久秀によって、ヤバイ状況に追い込まれている室町幕府第13代将軍・足利義輝に、すでに春の開戦前の段階から、一刻も早く休戦して、上洛するようにせがまれていたのです。

結局、謙信は、コレという成果も無いまま、9月に兵を撤退させ、翌・10月には、信玄も兵を退いたのでした。

こうして、第三次川中島の合戦=上野原の戦いは終わりを告げ、翌年4月に謙信は上洛し(4月27日参照>>)、将軍からの「北信濃・争乱の平定の御内書」なる物を与えられ、信玄を討つ大義名分を得る事に・・・

一方の信玄は、最前線の地に、新たな海津城(長野県長野市)を構築・・・

そう、このままで終るワケがありません。

いえ、むしろ、この後は、信玄VS謙信の最大の戦い・・・一般的に川中島の合戦と言えば、この戦いを指す運命の合戦・第四次川中島の合戦=八幡原の戦いへと向かう事になります。

第四次川中島の合戦については9月10日のページへ>>
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2008年8月28日 (木)

小谷落城の生き残り~海北友松の熱い思い

 

天正元年(1573年)8月28日、織田信長による攻撃で、城主・浅井長政が自刃し、小谷城が落城しました。

*長政の自刃は、8月29日とも9月1日とも言われますが、とりあえず本日の話題として書かせていただきます

・・・・・・・・・・

天正元年(1573年)8月20日、越前朝倉義景を自刃(8月6日参照>>)に追い込んだ織田信長は、8月27日、孤立した小谷城への攻撃に主力を投入します。

羽柴(豊臣)秀吉の怒涛の攻撃で城内が分断され、その日のうちに父・浅井久政が自刃、そして、翌8月28日、城主・浅井長政の自刃によって小谷城は落城・・・浅井氏は滅亡しました(8月27日参照>>)

この小谷城・落城の日、城主・浅井長政と運命をともにした海北綱親(かいほうつなちか)・・・彼は、「家中第一の剛の者」と称された浅井家の重臣で、近江源氏の流れを汲む武門の家柄の人物でした。

赤尾清綱雨森清貞とともに浅井(海赤雨)三将と恐れられた綱親も、この日の落城にとともに主君に殉じ、長男もろとも命果てました。

しかし、綱親には、他にもまだ、紹益という息子がいました。

幼い頃から京都・東福寺に預けられていたため、落城の難を逃れた紹益は、父や兄の死を知ると、すぐに還俗(仏教の道に入っていた人が、一般人に戻る事)して、海北家再興のために奔走するのです。

弓・馬・剣と武芸に励むかたわら、狩野永徳(永徳の祖父・元信とも)に教えを乞い、絵画の修行もし、里村紹巴(じょうは)には連歌を習い、茶の湯にも親しみます。

ただし、この一連の修行・・・あくまで、前者の武芸のほうが主流で、後者の芸術面の修行は、彼にとっては、名のある武将と交流を持つための手段であり、自分自身の価値を高めるためのステップだったのです。

力のある武将と親しくなって、自分の事を認めてもらう事ができたら、お家再興の道も、より早くなるかも知れませんからね。

おかげで、明智光秀の家老だった斉藤利三や、天台宗の僧侶・真如堂東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)らとも、かなり親しくなっていたようです。

利三が、かの山崎の合戦で敗れた後に処刑された(6月11日参照>>)時は、東陽坊とともに、その遺体を奪い、真如堂へ埋葬するなんて事もしています。

しかし、世の中、思い通りにはいかないものです。

文禄二年(1593年)、紹益60歳の時、施薬院全宗(やくいんぜんそう・秀吉の側近の医者)の開いた茶会で、今や、天下人となった豊臣秀吉に、その絵画の才能のほうを見いだされたのです。

その時から彼は、絵画の道に生きる事になりました。

Yuusyouunryuzucc_2  

海北友松
「雲龍図」

本物は貴重なので、パンフレットの転載ですが、ご参考までに・・・

 

 
妙心寺
「花卉図」や、建仁寺「雲龍図」「竹林七賢図」などの傑作で知られる、桃山時代~江戸時代初期を代表する絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)が、その人です。

そんな彼は、一般的には、秀吉に画才を認められてからは、画業に専念して武士への道を諦めたと言われていますが、どうやら、そうではなさそうです。

・・・というのも、友松の孫にあたる海北友竹「海北友松夫婦像」という作品があるのですが、その(絵に題することば)には、友松自身の言葉として・・・

「近江源氏の流れを汲む武門に生まれたにも関わらず、こともあろうに芸家に身を落としてしもた・・・もしも、まだ、この先にチャンスがあるなら、何とかして海北の武門復興したい」
てな事が記されているのです。

つまり、彼は、絵師として成功した後でも、まだ、お家の復興を諦めていなかったという事です。

彼の作品は、簡素な水墨画からも、煌びやかな金箔画からも・・・いずれも力強く、息を呑むほどの鋭さ、野心、意気込みを感じとる事ができます。

それは、きっと彼が、元和元年(1615年)の6月2日に、83歳で亡くなるその日まで、武門・海北家への思いを捨てなかった・・・その気迫が、作品の中に込められているからこそ、独特の美しさが感じられるのでしょう。

彼のお墓は、その遺言に従って、真如堂の斉藤利三のお墓の隣にあるそうです。

お家再興を願って寺を飛び出したものの、武士にはなりきれなかった友松の、最初で最後の武功・・・それが、親友・利三の遺体の確保にあったのかも知れません。

利三の娘で、後に大奥で実権を握った春日局(かすがのつぼね)が、友松の妻・妙貞と、息子・忠左衛門を優遇するのも、そこに、武門としての熱い思いを感じたから・・・というところではないでしょうか。
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2008年8月27日 (水)

白村江の戦い~その敗戦の原因は?

 

天智称制二年(663年)8月27日、百済の救援要請に応じて海外出兵をした日本が、唐・新羅を相手に大敗を喫した白村江の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

当時、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)百済(くだら)の三国がひしめき合って、緊迫状態にあった朝鮮半島・・・。

そんな中、新羅が唐(中国)の支援を受けて百済を攻撃・・・百済王・義慈(ぎし)を捕らえて、百済を滅亡に追いやります。

そこで、重臣・鬼室福信(きしつふくしん)は、当時、在日中だった事で難を逃れた義慈の息子・余豊璋(よほうしょう)を旗印に掲げ、百済の再興をはかるため、日本に救援を要請します。

百済は、朝鮮半島における唯一の友好国であり、そこが、唐に制圧されれば、大陸からの防衛拠点を失う事にもなる日本は、その要請に答えて海外出兵を行い・・・と、白村江(はくすきのえ)の戦いに至る経緯などは、一昨年の8月27日(一昨年のページを見る>>)にも書かせていただいたのですが・・・

それにしても、この見事な負けっぷりの原因は、いったい何だったのでしょうか?

本日は、その戦いぶりを中心に書かせていただきたいと思いますが、なにぶん古い話でありまして、肝心の『日本書紀』にも、様々な矛盾点がある事は確かで、あくまで諸説ありますが・・・という前置きのもと、お話をさせていただく事にします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

百済滅亡後も、わずかに死守した任存城において抗戦を続けていた鬼室福信らは、豊璋を護送するかたちで到着した日本軍の第一陣に活気づき、先に唐に奪われて、今は、敵の拠点となっている熊津城や四此城を牽制します。

その後、白江の河口付近の周留城にて豊璋を国王に立て、以後、この周留城を拠点として、百済南部に進攻していた新羅・唐軍との抗戦を繰り返して勢いづいていきます。

しかし、善戦もこれまで・・・ここらあたりから、徐々におかしくなってくるのです。

その発端は、まず拠点を周留城から、少し南にある避城に移動した事に始まります。

移転の理由は、諸兵に疲れが生じてきた事と、なによりも周留周辺が農業に適さなかった事から兵糧の確保ができないと判断したようです。

しかし、軍事面においては周留は要所であり、この移転に福信は反対し、日本からの援軍の将である朴市田来津(えちのたくつ)も・・・
「飢は後なり、亡(ほろび)は先なり」と助言しますが、聞き入れられず、拠点は避城に移転されます。

そして、それ以来、豊璋と福信の意見は、ことごとく対立するようになってしまったのです。

百済の再興を願い、戦い続ける兵士たちにとって、豊璋は国の象徴であり、福信は戦術のリーダー・・・この二人がタッグを組んでこそ、その士気も上がるっちゅーもんです。

しかし、日本からの大軍を目の当たりにした豊璋は、気が大きくなったというか、勝てると思い込んでしまったというか・・・。

やがて、あまりの意見の対立に、豊璋は、「福信が謀反をくわだてているのではないか?」との疑いを抱いてしまうのです。

実際のところ、その福信も、仮病を使って、お見舞いに来た豊璋を暗殺する計画を立てていたとも言われますが、とにかく、謀反が本当であろうがなかろうが、その前に、豊璋は福信を処刑してしまいました

そう、これが白村江の戦いのターニングポイントです。

実は、この福信は、この地域の気候風土・地形や潮流などを熟知していて、これまでの作戦にも、その知識をフルに活用していたのですが、彼がいなくなった事で、まるで作戦が立てられなくなってしまったのです。

その事は、敵も充分お見通し・・・ここがチャンスだとばかりに、新羅は周留城を一気に攻撃し、唐軍も陸路と海路に分かれて、一斉に進撃を開始します。

Hakusukinoezucc *このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません

もちろん、日本も急遽、第2陣を派遣しますが、この段階になっても、まだ、豊璋の立てた作戦は・・・
「地形も潮流も関係あるかい!とにかく、突っ込んで行ったら敵は撤退しよるに決まってるやんけ!」
と、やっぱり、援軍の数に頼った、ずさんな作戦だったとか・・・

確かに、記録によれば、この時の百済・日本連合軍の船の数は400隻、対する唐・新羅連合軍は170隻、それぞれの数は多少オーバーなところがあるかも知れませんが、日本・百済連合軍の数ほうが圧倒的に多かった事は確かでしょう。

はたして、天智称制二年(663年)8月27日、朝鮮半島西側の海上で起こった戦いは、作戦らしい作戦もないまま、我先にと唐軍に突入し、結局は挟み撃ちにされて、あえなく敗退する事になってしまったのです。

この白村江の戦いは、その完膚なきまでの負けっぷりに、大国である唐に挑んだ無謀な戦いのように思われがちですが、実は、そうではなく、百済勢の内部分裂による士気の低下と、戦闘態勢の乱れが引き起こした敗戦と言えるかも知れませんね。
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2008年8月26日 (火)

天下泰平のために・・・皇女・和宮の決意

 

万延元年(1860年)8月26日、孝明天皇の妹・和宮と有栖川宮熾仁親王との婚約が解消されました。

・・・・・・・・・

ペリーの来航(6月3日参照>>)以来、開国か攘夷(外国排除)の意見が飛び交う中、大老・井伊直弼(なおすけ)が、天皇の許可なく日米修好通称条約を結び、反対派を弾圧する安政の大獄(10月7日参照>>)を決行した事で、ますます高まる尊皇攘夷運動・・・。

それは、徳川全盛の頃には、あまり政治に関わる事がなかった朝廷をも、大いに揺るがす事になりました。

時の天皇・第121代孝明天皇の当時の手紙にも「進退きわまった思いである」とか「伊勢神宮や歴代天皇の御霊に対して、愚かな自分が申し訳ない」などの文面があり、天皇も、かなり心を痛めておられたご様子です。

そんな中、かの井伊大老が桜田門外の変(3月3日参照>>)で亡くなるのですが、大老の存命中から、すでに発案されていたのが公武合体論・・・。

幕府(武)と朝廷(公)が融合し、その関係を修復するとともに、国内の意見を一つにまとめ、地に落ちた幕府の威信も回復しようというものです。

その要として考えられたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)結婚です。

今年の大河ドラマ・篤姫でも、先週・先々週と、掘北真希ちゃん演じる和宮さんが登場し、ちょうどこのあたりのお話が展開されています。

ドラマでもそのように描かれていましたが、最初に、この縁談の話が持ち上がった時には、孝明天皇自身は、あまり乗り気ではなかったようです。

それは、話が出た当時は、和宮がまだ13歳であった事と、すでに、10年以上前に、有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)という婚約者も決まっていたからです。

当の和宮も、もはや、気持ちが熾仁親王にイッちゃってますから、断固として拒否します。

しかし、幕府は有力公卿を金品で丸め込んだり、和宮の母の実家の橋本家に脅しをかけたりして猛烈アピール。

結局、万延元年(1860年)8月26日、婚礼の予定日を目前にして、天皇の気持ちは公武合体へと動き、有栖川宮と和宮の婚約は解消されるのです。

この、天皇の気持ちの変化は、ドラマでもあったように、岩倉具視(いわくらともみ)の説得・・・というのが、大いに関わっているようです。

「結婚を許す代わりに、今後の幕政は、すべて朝廷に伺いを立ててから・・・という条件をつけるんです。ほんで、まずは、日米条約の破棄を命ずる・・・てな具合ですわ。」

幕府の考えた公武合体は、朝廷を利用して幕府の権威を回復するという目的でしたが、岩倉にとっては、逆にそれを利用して、幕府の上に朝廷が立つ絶好のチャンスと見たようです。

とにかく、外国を排除したい孝明天皇は、この意見に心を動かされたようです。

そして、もう一人、ドラマには登場してなかったと思いますが、孝明天皇の相談相手だった中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう・青蓮院宮)(2009年8月18日参照>>)という人の意見にも影響されたようです。

外界がら遮断されたような世界に生きる天皇ですから、どうしても世情にうとくなりがちな中、この中川宮が、世の中の事を話して聞かせていた親友とも言える間柄なわけですから、この人の意見に左右されるのは、当然と言えば当然・・・。

この中川宮さんは、あの八月十八日に政変(8月18日参照>>)中心人物の一人ですから、ガチガチの公武合体派ですので・・・。

ただ、この時、意見を同じくしていた天皇・岩倉・中川宮でしたが、後に、岩倉は袂を分かつ事になります。

孝明天皇の不可解な死(12月25日参照>>)にあたって、真相はともかく、岩倉の黒い噂が立つのも、その意見の食い違いによるところかも知れません。

とにもかくにも、彼ら公武合体派の影響で、将軍・家茂と妹との結婚を決めた孝明天皇の説得に、和宮も「天下泰平のため、いやいやながらお受けします」と、イヤミ丸出しの返事で承諾することになります。

しかし、天璋院(篤姫)との渡鬼バリの嫁姑バトルはあるものの、嫌々ながら嫁に行ったワリには、家茂さんとは、仲睦まじかった(このお話は9月2日参照>>)とも言われる和宮さんですが、わずか三年半・・・家茂の死という形で、その結婚生活が終ります。

そして、彼女には、新たな運命のイタズラが用意されていました。

彼女の居る江戸城に向かって進攻する新政府軍の総督は、かつての婚約者有栖川宮だったのです。

そして、和宮は、朝廷に・・・(1月17日参照>>)
天璋院は、薩摩に・・・(4月11日参照>>)

この頃には、すっかりうち解けた嫁と姑がタッグを組んで、ふたりは、徳川家の存続のために奔走する事になります。

かつて、涙ながらにイヤイヤ・・・と泣き崩れたお姫様は、やさしい夫と、きびしい姑に支えられ、もう、揺らぐ事のない徳川の女となっていたのです。

「こうと決めたら、女の道は一本道!」ですね。
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2008年8月25日 (月)

徳川家治・暗殺疑惑~犯人は誰だ!

 

天明六年(1786年)8月25日、江戸幕府・第10代将軍の徳川家治が、50歳でこの世を去りました。

・・・という事で、今日はちょっと雰囲気を変えて、サスペンス風に、問題定義してみました~。

ご一緒に、推理を楽しんでみてください。

・・・・・・・・・・・

さて、賢明なる探偵諸君!

今日、君たちに集まってもらったのは、他でもない。

この将軍・徳川家治の死・・・どうも、以前から毒殺説が耐えないのだ。

そもそも、疑惑の死は彼の息子から始まる。

彼がもうけた二男二女は、いずれも早世しているのだが、特に後継ぎとされていた家基(いえもと)・・・この家基が生きていれば、なんの問題もなく後継者になったはずなのだが、彼は安永八年(1779年)2月に、鷹狩の帰りに寄った寺で突然苦しみだし、その3日後に18歳の若さで急死している。

その時、息子を失った家治の落ち込みようは、大変なものだったらしい・・・なんせ、聡明の誉れ高かった家治が、それからは、幕政のほとんどの事を、老中の田沼意次にまかせっきりになってしまったようだからね。

そのために、この家基の急死は、その死の直後から、田沼が毒殺したのではないか?との噂が流れているのだが、とりあえず、今日は、この一件とは切り離して、家治の死についての推理をしよう。

息子・家基の死から7年後に訪れた家治の死・・・これも、病死でないとしたら、やはり毒殺?という事になるのだが、まずは容疑者の洗いだしだ。

容疑者1:田沼意次

病床の将軍・家治の治療担当が、彼の紹介した町医者に変わったとたんの死であった事から、彼が犯人ではないか?との噂が流れている。

田沼は、諸君もご存知のように、土地政策や経済政策に腕を振るった政治家だが、多くの商人との癒着も噂され、賄賂政治家(10月2日参照>>)のイメージも強い事から、「田沼ならやりかねない」と、誰もが思うのは確かなのだが、動機の面では薄い・・・

田沼は、先代の徳川家重の代から、2代に渡って重要視されているが、むしろ、こちらのほうが異例であって、本来は、将軍が交代すれば、重役や側近も交代するのが常であったわけだ。

現に、家治の死とともに、田沼は失脚している。

将軍が、代われば、自分の立場も悪くなる事が、予想がついていた田沼が、家治を暗殺しても、何の得も無い事になるな。

容疑者2:徳川治済(はるさだ)

逆に、動機ありありなのが、この一橋徳川家の当主・治済だ。

家治の息子・家基が亡くなった事で、将軍の跡取りがいなくなったわけだが、そういう場合は、御三家とともに、暴れん坊・吉宗の時代に定められた田安・一橋・清水御三卿の中から世継ぎが選ばれる。

結果、第11代将軍になったのは徳川家斉(いえなり)・・・家斉は一橋家の出身だから、つまりは治済の息子だ。

よって、家治が死んだ事で一番得をしたのは一橋家という事になるな・・・もちろん、これには、冒頭の家基・暗殺疑惑もからんでくるのだが・・・。

実は、先の田沼の弟が一橋家の家老を勤めていた事で、この家斉擁立には、父の治済だけではなく、田沼の力も働いたとされ、暗殺説には、田沼+治済・共謀説も浮上するのだが、やはり、ここでも、協力したところで田沼には何の得もない。

容疑者3:松平定信

田沼が賄賂政治家であるというレッテルを貼ったのも、毒殺の犯人であるとの噂を流したのも、多分この定信だろうが、将軍が代わって田沼が失脚し、その次に老中になるのだから、この人も得をした者の一人という事になるかな?

しかも、この人には、怨恨という動機までからんできそうだ。

なぜなら、この定信は、先の御三卿の一つ、田安家の出身・・・本来なら、一番目に名前が上がってもおかしくない将軍候補だったのだ。

ところが、田沼のゴリ押しで松平定邦の養子に決められてしまう(6月19日参照>>)・・・さらに、病弱な兄が亡くなり、後継ぎがいなくなった田安家には、家斉の弟・・・つまり治済の息子・斉匡(なりまさ)が入る。

定信から見れは、実家が一橋に乗っ取られた事になる。

だいたい、この老中になったのも、まだ15歳で将軍になった家斉を、28歳というバリバリの年齢の定信が補佐するという意味合いがあったと言われているが、もし、定信がそのまま田安家に居れば、年齢的にも、当然のごとく将軍の座がまわってきそうな事を考えると、確かに、怨みは強そうだ。

しかし、恨むなら家治ではなくて、一橋家か、田沼だろう。

実際に、田沼にはそうとうな怨みがあったようで、だからこそ賄賂政治家だとか、暗殺しただとかの悪口を言いまくったわけだが、その田沼を失脚させるための暗殺なら、そんな回りくどい事をせずとも、田沼本人を暗殺すればいい事になる。

せっかく、恨む気持ちを理性で抑え、地道に出世してきたのに、何も、ここで手を汚す事は無いのだからね。

以上、三人の容疑者を考えてみたが、もちろん他にも疑わしい者がいるかも知れないし、単なる病死かも知れない・・・。

はてさて、君たちはどう推理するかな?

さぁ、意見を聞かせてくれたまえ!

・‥…━━━☆投票結果☆・‥…━━━☆

  • 田沼意次・・・7票
  • 徳川治済・・・24票
  • 松平定信・・・18票
  • 田沼+治済・・・8票
  • その他・・・9票
  • 病死・・・22票

以上のような結果となりました。

ご協力、まことに感謝しますo(_ _)oペコッ
ありがとうございました!

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2008年8月24日 (日)

船岡山の戦い~いよいよ戦国の幕が上がる

 

永正八年(1511年)8月24日、室町幕府の管領・細川政元亡き後に勃発した、一連の後継者争いの中の、『船岡山の戦い』がありました。

・・・・・・・・・

乱世の梟雄と呼ばれた管領・細川政元・・・

彼が、その時代の実力者の意向によって幕府の将軍が交代するというクーデター『明応の政変』をやってのけた事は、すでに、先日書かせていただきましたが(6月23日参照>>)下克上を以って、自ら戦国の幕を開けた男は、家臣の暗殺という下克上で命を落しました。

そんな政元は、生前、女性をまったく寄せ付けず、はなから男一本の生活を送っていたために、当然の事ながら、その子供は養子ばかりが三人・・・

関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)

そして、備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)・・・。

実は、政元の暗殺は、先に澄之が後継者に指名されていたにも関わらず、政元が、後からやってきた澄元を新たな後継者と指名したために、危機感を抱いた澄之の家臣の仕業による暗殺と言われています。

永正四年(1507年)に、政元を暗殺した彼らは、すぐに、時の室町幕府将軍・第11代足利義澄(よしずみ)に働きかけ、澄之を細川管領家の後継者と認めさせる事に成功します。

この異変に危機感を感じ、一旦、近江へ逃れていた澄元は、地元の国人たちを味方につけ、阿波時代からの重臣・三好之長とともに挙兵・・・三人目の養子である高国は、養父の遺志もあってか、この澄元に従い、ともに澄之討伐に立ち上がり、見事、澄之を討ち取ります(8月1日参照>>)

なので、当然ですが、将軍・義澄は、今度は澄元が細川管領家の後継者である事を、認める事に・・・

あっちへフラフラ、こっちへフラフラ・・・将軍たる者が何やってんだ!と思ってしまいますが、この将軍・義澄は、亡き養父・政元がかの『明応の政変でまつり上げた、あやつり人形的将軍ですから、そりゃ、言われるがままに、認めますわな。

しかし、この家督争いのゴタゴタを好機と見て、虎視眈々とチャンスを狙っていたのが、周防(山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)でした。

そんな中、永正五年(1508年)頃から、澄元と対立するようになった高国が、その義興と手を組み、再三に渡って澄元を攻撃するようになります。

こうして、一連の合戦を優勢に導いた高国らは、政元に追放されていた前(10代)将軍・足利義稙(よしたね・義材)を奉じて京に上り、強引にも、現在の将軍・義澄を追放し、義稙を将軍に復活させてしまったのです。

さらに、高国らは、澄元の本拠地・阿波から助っ人が大挙押し寄せては困る!とばかりに、永正八年(1511年)7月26日、摂津の芦屋河原(あしやがわら・兵庫県芦屋市)に、澄元方の細川尚春(ひさはる)を攻めて勝利をおさめます(芦屋河原の戦い)

しかし、船岡山の前哨戦とも言えるこの合戦の直後、一族の細川政賢(まさたか)と、播磨(兵庫県)赤松義村が、相次いで澄元側へ寝返ってしまったのです。

特に、義村は猛将として知られた人物で、その影響は大きく、形成は一気に澄元側有利へと展開します。

この勢いに乗って高国を討つべく、8月15日に京都へと侵攻した政賢と義村に対して、このまま戦っては不利と考えた高国らは、一旦、丹波(京都府)まで退き、そこで兵を集め、態勢を立て直すのでした。

やがて、短期間に2万の軍勢を整える事に成功した高国・・・いざ、京都へと進撃し、高雄(京都市)に陣を敷きます。

一方の澄元も、高国の動向を知り、こちらは、船岡山(京都市)防御施設を構築し、敵の進入に備えます。

Dscf0132pa1200
船岡山頂上より京都市街を望む

かくして永正八年(1511年)8月24日、両者は船岡山の付近で激突する事となります。

この時の高国の軍勢は、高国と義興の兵に、丹波で集めた兵を加えて2万5千だったと言います。

Dscf0141a1000 対する澄元は・・・実は、阿波から援軍が駆けつける事になってはいましたが、この24日の時点では未だ到着せず、総勢6千程度・・・しかも船岡山に構築した防御も未完成でした。

さらに、澄元側が掲げている将軍・義澄も、この間に病死してしまいました。

それでも、士気だけは衰えず、何とか踏ん張りますが、やはり数の差は大きく、澄元勢はしだいに劣勢となっていきます。

やがて、政賢をはじめとする名だたる武将が討死し、澄元は摂津へ敗走・・・高国側の勝利となり、事実上、京は高国が制する形になりました。

この合戦の後、義興は約10年間、高国を補佐するために京都に在住する事になるのですが、その間に、世の中は各地の戦国武将が群雄割拠する乱世の時代へと変化していく事になります(8月27日参照>>)

そして、その義興が国許へ帰国した事をキッカケに、澄元が動き始めるのですが、そのお話は
【管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い】>>
【室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い】でどうぞ>>
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2008年8月23日 (土)

白虎隊・飯盛山に散る

 

慶応四年(明治元年・1868年)8月23日、戊辰戦争で、新政府軍の攻撃を受けた会津藩の白虎隊が、城下の飯盛山で自刃しました。

8月23日は『白虎隊の日』という記念日にもなっているそうです。

・・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)正月の鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城(4月11日参照>>)を経て、舞台は北へと向かいます。

7月29日に越後(新潟県)長岡城を陥落させた(8月16日参照>>)新政府軍の、次のターゲットは会津・・・なんせ、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、京都から追われた長州の討幕派は、新撰組によって徹底的に弾圧された過去がありますから・・・。

その新撰組は、当時、京都守護職だった会津藩の松平容保(かたもり)の指揮下にあったわけで、新政府軍にとって会津は、何としてでも倒しておきたい相手だったのです。

もちろん、その事は会津も承知・・・徹底抗戦になるのは間違いないとばかりに、新政府軍の来襲に備えて、正規軍を年齢別の4隊に分けて、日々訓練に励んでいました。

50歳以上の玄武(げんぶ)
36歳~49歳の青龍(せいりゅう)
18歳~35歳の朱雀(すざく)
そして、15歳~18歳の若者で構成された白虎(びゃっこ)です。

白虎隊の総人数は350人程で、身分の差によって士中白虎隊寄合白虎隊足軽白虎隊の3隊に分けられており、それぞれの隊はさらに二中隊に分けられていました。

新政府軍の二本松城攻撃に始まった会津戦争が激烈を極める中、若き白虎隊にも出撃命令が下されます。

ただし、出陣と言っても、彼らはまだまだ若すぎるため、猪苗代湖畔の戸ノ口原方面を守る部隊を陣中見舞いする藩主の松平容保を護衛するという役目でした。

従うのは、士中白虎隊の二番中隊の彼ら・・・。

ところが、道を進むうち、戸ノ口原の部隊から、緊急の援軍要請が入ります(8月22日参照>>)

どうやら、現地は、一触即発の状態になっているようで、それならば・・・と、とにかく若い彼らが即行、現地へ先に向かう事に・・・。

着いてみると、確かに緊迫状態・・・しかし、ここで、彼らは兵糧を持たずに出発してしまった事に気づき、あわてて、隊長の日向内記(ひなたないき)が、食糧調達のために隊を離れますが、行ったっきりで、なかなか帰ってきません。

やがて始まった戦闘・・・西洋式の最新鋭の装備を持った新政府軍相手に、旧式の軍隊しか持たない会津はたちまち劣勢となってしまいます。

大混乱の中、血気盛んな白虎隊は、焦らされる事に我慢ができず、隊長がいないまま我先に勝手な行動に出てしまい、敵の一斉攻撃のターゲットとなってしまいます。

大混乱がさらに大混乱となって、もはや戦うどころではなくなった彼らは、とにかく二手に分かれて逃走・・・その半分の19名は、山道を這うように、一路、会津・鶴ヶ城へと向かいました。

「鶴ヶ城へ戻れば何とかなる・・・そして、もう一度、出陣して、次は必ず敵を討つ!」

そう、心に言いきかし、険しい山中を行く19名の少年たち・・・やがて洞穴を抜けて、飯盛山までたどりつきました。

飯盛山まで来れば、鶴ヶ城は目の前です。

「助かった・・・」と、ホッとしながら山頂から眼下に広がる城下を眺めた彼らが見たものは・・・煙に包まれる鶴ヶ城でした。

「すべては終った・・・」
「わが城は落城した」

愕然とする少年たち・・・。

誰からともなく
「主君の後を追おう・・」
という声があがります。

まだ、あどけなさの残る若い彼ら・・・誰も、その行動を止める者はいませんでした。

かくして、彼ら19名・・・ある者は自らの腹を裂いて自刃し、ある者はお互いをその刀で斬り、散っていったのでした。

しかし、以前書かせていただいたように、この時点では、まだ、鶴ヶ城は落城していませんし、主君・容保も無事でした。

城下の民家が燃えた煙が風になびいて、飯盛山から見ると、鶴ヶ城が炎上しているように見えていただけだったのです。

混乱の中の勘違いとは言え、健気で純粋な若き命が散っていったさまは、やはり涙を誘うもので、昔から、お芝居にドラマに歌にと、彼らは引っ張りだこ・・・人気も未だ衰えずって感じですね。

だたし、ドラマの感動のままに、ここで白虎隊が全滅したイメージがありますが、冒頭で書かせていただいたように、白虎隊は全部で300名以上ですから、200名あまりが、その後も生き残った事になります。

また、自刃した19名のうち、まだ息があるうちに発見され、助けられた人も1名いますが、そのお話は次ぎの機会にさせていただきたいと思います。

しかし、結局1ヶ月後には、鶴ヶ城は開城され、会津が降伏(9月22日参照>>)する事には変わりなく、やはり、散りゆく者の悲劇を感じずにはいられません。
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2008年8月22日 (金)

瀬戸内水軍の全盛期と没落を見た村上武吉

 

慶長九年(1604年)8月22日、瀬戸内・村上水軍の頭領・村上武吉が、周防(山口県)屋代(やしろ)島にて、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

「その島には日本最大の海賊が住んでいる。
大きな城を構え、多数の部下と多くの船舶を持ち、強大な勢力を誇るこの海賊は能島殿と呼ばれ、海辺の住民たちは、皆、貢物を献上していた」

天正十四年(1586年)に、から九州までの船旅をした宣教師・ルイス・フロイスは、瀬戸内の海上で目の当たりにした村上武吉(たけよし)率いる能島村上水軍の姿を、このように書き残しています。

そんな村上水軍の名が史料に登場しはじめるのは、室町時代の南北朝の頃から・・・。

後醍醐天皇の参謀として有名な北畠親房(きたばたけちかふさ)の孫・師清(もろきよ)が、当時、瀬戸内で活躍していた村上義弘なる人物を倒し、初代・村上水軍を名乗ったと言います。

伝承によれば、その師清の三人の孫が、能島(のしま)来島(くるしま)因島(いんのしま)の3つの島に移り住み、それぞれ独立した村上水軍として発展したのだそうです。

武吉は、その中の能島村上水軍の子孫・・・親類との家督争いを経て、天文二十一年(1552年)頃に、能島村上氏の頭領としての地位を確立し、来島村上氏の当主・村上通康(みちやす)の娘を妻にします。

この頃は、瀬戸内を航行する船の警固をする代わりに通行料をを徴収したり、通行許可書などを発行して、船の安全を保証するという事を本業としていました。

そんな武吉と能島水軍が、歴史の表舞台に登場するのは、あの戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い(9月28日参照>>)です。

この時の毛利元就(もとなり)の手勢は、わずか4千程度・・・対する陶晴賢(すえはるかた・隆房)は、事実上、あの名門の大内氏を乗っ取って(8月27日参照>>)、今まさにノリノリ状態ですから、2万という大軍を率いて厳島へ乗り込んで来ます。

元就の作戦は、この狭い厳島に晴賢の大軍をおびき寄せ、身動き取れない状態にして奇襲をかける作戦ですが、これには海上封鎖ができなくては意味がありません。

いくら、狭い島内の陸地で追い詰めても、海に逃げられてはもともこもありませんからね。

しかし、なんせ手駒が少ない・・・。

そこで、元就は、息子の小早川隆景を通じて、武吉に働きかけ、水軍の動員を求めました。

しかし、村上水軍は大名の直接支配を受けない独立した集団ですから、果たして毛利の味方についてくれるのやらどうやら・・・。

そんな不安の中、狙い通り、晴賢の軍は、元就がおとりのために厳島に構築した宮ノ城を取り囲み、猛攻撃を仕掛けます。

それを、周囲から取り囲む毛利軍・・・しかし、水軍の姿を確認できない元就が、なかなか陸上での作戦に踏み切れないでいたところ、まさに宮ノ城が落ちようとする直前、武吉が、舅である来島水軍とともに、2~300艘の船を率いて現れたのです。

歓喜に湧く毛利軍・・・それによって、勇気づけられた元就は、陶軍への攻撃を開始し、毛利軍は勝利を収める事となったのです。

その後、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)にかけて石山本願寺織田信長が戦った石山合戦でも、やはり本願寺に味方していた毛利とともに、海上からの物資の補給を行ったり、大阪湾内で信長軍と交戦したりと大活躍をします(7月13日参照>>)

結局は、信長の鉄甲船に阻まれはしたものの、この戦いによって、信長をはじめとする戦国大名は、水軍の重要性を知る事となります。

しかし、信長の死後、天下を掌握した豊臣秀吉は、天正十六年(1588年)7月8日、あの『刀狩令』とともに、海の刀狩りである『海上賊船禁止令』を発布します。

海賊行為を厳しく取り締まるこの法律・・・秀吉の言う海賊行為というのは、航行する船を警固して通行料を徴収する行為も海賊行為に含まれるとみなし、まさに村上水軍の本来の行為を指していて、水軍は戦国大名の配下に収まるよう命令したのです。

すでに、秀吉の傘下となっていた来島水軍は庇護を受けますが、能島と因島水軍は、その生きる道を奪われ、拠点をも無くし、武吉は毛利を頼る事になるのですが、その毛利も関ヶ原の合戦でその領地を大幅にカットされてしまいます(2009年9月28日参照>>)

そして、周防を転々としていた武吉は、慶長九年(1604年)8月22日周防の屋代島にて、72歳の生涯を終えました。

やがて、能島と因島の村上水軍の生き残りは毛利水軍となり、関ヶ原で東軍についた来島も、徳川の政権下で豊後(大分)に領地を与えられ、その後は水軍を名乗る事はありませんでした。

戦国時代に広大な制海権を有し、戦国大名からの支配を受けない独立した水軍の時代は、ここに終わりを告げたのです。

ちなみに、因島村上水軍が、ウチのご先祖様です。
秀吉に禁止されたので、今は海賊ではありませんが・・・
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2008年8月21日 (木)

意外!?中世の名も無き人の名前とは?

 

建武元年(1334年)8月21日、若狭国(福井県)太良荘(たらのしょう)にて、百姓・59名が、地頭代官の交代を要求して起請文を提出し、一揆を起こしました。

・・・・・・・・・・

今、某大統領候補と名前が同じという事で話題の、福井県は小浜(おばま)の市街地にほど近く、今も、当時を彷彿とさせる、のどかな農村地帯・・・ここにあった良荘は、鎌倉時代中期から室町時代の中期までの約250年間、京都は東寺の荘園でした。

以前、『たまがきの恋物語』(7月26日参照>>)新見荘(岡山県)も東寺の荘園で、東寺には、今も多くの史料が残されている事を書かせていただきましたが、新見同様、この太良荘に関する文書も、東寺には多数残されているのです。

そんな史料の中の一つである今回の起請文ですが・・・

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉でもおわかりのように、そもそもは鎌倉時代から、もともとある田畑に、なんだかんだと理由をつけちゃぁ、新たな税を徴収したり、用水を利用すりゃぁ、お金を払え!払わないと水泥棒として捕まえる・・・なんて事が、くりかえし行われていて、農民たちは、幾度となく、六波羅探題に訴えたりしていました。

しかし、そんな鎌倉幕府が崩壊した混乱の中、ますます治安は悪くなり、略奪行為がひんぱんに行われるようになり、その警固のために、新たな地頭代官が任命され、この太良荘にやってきたのですが、この脇袋という代官・・・荘園内の家屋をぶっ潰して勝手に城を構築したり、私用の無理難題をふっかけてきたりと、やりたい放題・・・。

その横暴ぶりを、何度も東寺に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず・・・そこで、建武元年(1334年)8月21日、あの建武の新政(6月6日参照>>)を風刺した落書が二条河原に立ったと同じ月、堪忍袋の緒が切れた農民・59名が立ち上がり、代官の交代を求める起請文を提出し、一揆に踏み切ったのです。

・・・という事で、本日は、この太良荘の一揆の起請文の署名から、当時の一般の人々の名前について迫ってみたいのですが、かくいう私も、この太良荘の事を知るまでは、ほどんど一般人の名前という物がどんな風だったのか知りませんでした。

武将や公家の名前は教科書に出てきますが、一般人の名前は出てきませんから・・・。

明治になって、「国民全員、苗字つけろ」の令が出るまで、皆、苗字が無いものと思っていましたし、時代劇や昔話などでよく登場する権兵衛さんとか、三太とかっていう名前が多いのかな?と思ってましたが・・・

太良荘を形成していた人々は、2~3町の土地を所有する本百姓の名主クラスが数名と、あまり良くない土地の小百姓・・・さらにその下に属する農地を持たない下層の人々です。

以前、『一揆へ行こう』(6月9日参照>>)のページで書かせていただいたように一揆の署名は順不同という事なので、まずは、同じような名前の人をグループ分けしてご紹介します。

  1. 僧実円・僧禅勝・僧長弁
  2. 大山貞重・大山正弘・中原吉安・六人部国正・秦正守・物部宗弘
  3. 沙弥法円・沙弥浄法・沙弥善阿弥・沙弥妙阿弥・沙弥本阿弥
  4. 浄妙
  5. 中大夫・平大夫・矢大夫・矢二郎大夫・五郎大夫・新大夫・惣大夫・角大夫・美濃大夫
  6. 中介・江介・三郎介・和山介・豊前介
  7. 新検校・惣別当・安寿
  8. かい丸・牛丸
  9. 細工大夫・中細工・孫太郎細工
  10. 藤内・源内・
  11. 中江
  12. 孫太郎・孫二郎×2・孫四郎・孫五郎・彦二郎×2・彦三郎・弥二郎・中二郎・中三郎・平二郎・藤二郎・惣四郎・進士二郎・二郎太郎・三郎太郎×2

以上、1名分だけ、文字が読めなくなっている部分があるため、合計58名です。

この中のグループ1の「僧」がつく3名は、花押(ハンコ代わりのサイン)も持っていて一般農民とは別格なようです。

一応、僧実円僧禅勝が、この一揆のリーダーだったと言われています。

そして、グループ2の6名も、姓と名の実名を署名している事からやはり別格・・・「秦(はた)「物部(もののべ)などは、古代の豪族の名前ですが、子孫という事ではなく、勝手に名乗ってるわけで、このような名前を名乗っても、もはや怒られない時代になっていたって事なのでしょう。

この1と2のグループの中の何人かが名主クラスだったと思われます。

次に、グループ5と6の「大夫」「介」は、古代の官位名ですが、これは本名というのではなく、ある一定の年齢になると儀式を行って、それ以降は「大夫」や「介」をつけて呼ぶ通称というヤツです。

武士が元服して、大人っぽい名前に変えるのとよく似ていますね。

グループ7の「検校(けんぎょう)」「別当」「安寿」などは、寺院や官庁の役職名・・・たとえば、別当なんかも、以前は、○○別当=○○長官みたいな感じで使われていましたが、これも、この時代には、もうお百姓が名乗っても怒られなかったって事なんでしょうね。

このグループ7あたりまでが、小百姓クラスの人ではないでしょうか?(自信ないですが・・・)

グループ8の「丸」は本来は、武士の幼名に使用する名前ですが、起請文の署名という物は各家庭の代表者がするものなので、このお二人はおそらく成人した方・・・ただし、運搬業にたずさわる人は、成人しても「丸」を名乗っていたらしいので、牛丸さんなんかは、おそらく、牛を使って運搬業を営んでいたのかも知れません。

グループ9の「細工」というのは、ご想像通り、細工師=手工業者の方々・・・この「細工」の中には、「大夫」のつく人もおられますが、先ほどもあったように、「大夫」は大人という意味を表すので、この細工大夫さんは、細工師の中でも重鎮だったんでしょう。

最後に、グループ12・・・「太郎」とか「二郎」「三郎」とかっていうのは、お察しの通り、おそらく生まれた順でしょうね。

「孫」「彦」「弥」は、この時代の標準的な名前で、「藤」「平」「源」は、グループ10や11にもありますが、藤原氏・源氏・平氏などの姓を名前に取り入れたものです。

この中で、もし、女性がいるとしたら、鎌倉時代に同じ名前の女性がいるようなので、「浄妙」という名前のかた・・・この時代、一家の代表は、やはり成人男性という事になりますので、必然的に女性の名前が少なくなるでしょうね。

以上、起請文の署名を見てみましたが、本来、名主クラスのお百姓と、下層の人たちとでは、それぞれに確執があって、普段はなかなかうち解けあえるものではなかったでしょうが、相手が地頭となると、一揆を結んで、このように名を連ね、ともに立ち上がった・・・

その名前を見るだけで、中世の名も無き人々が、その命を賭けて、家族と土地を守った、その強い情熱を感じます。

歴史を作ったのは、名のある武将や貴族だけではない事を、ひしひしと感じる次第です。
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2008年8月20日 (水)

齢77!芸は身を助く~細川幽斎の長寿の秘訣

 

慶長十五年(1610年)8月20日、細川幽斎が京三条屋敷にて、77歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

つい先日、79歳でお亡くなりになった朝倉宗滴さん(8月13日参照>>)をご紹介した時に、亡くなる2~3週間前まで、合戦の最前線で活躍し、生涯現役を貫いたのが、長寿の秘訣ではないか?と書かせていただきました。

しかし、今日ご紹介する細川幽斎(ゆうさい・藤孝)さんも、宗滴さんとは、正反対の人生を送りながらも、77歳という、戦国の当時としては、かなりのご長寿さんです。

では、幽斎さんの場合の、長寿の秘訣は何だったのでしょうか?

・・・・・・・・・

細川幽斎は、室町幕府に仕えた三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれますが、6歳の時に叔父である細川元常の養子になり、後に義輝と名を変えて第13代室町幕府将軍となる義藤の一字をもらって、細川藤孝と名乗ります。

実は、この幽斎さん、第12代室町幕府将軍・足利義晴ご落胤だったという噂もあり、そうなると、13代の義輝と、その弟・義昭とは兄弟の間柄になるわけで、この名前の事を考えると、ひょっとして?という気がしないでもありません。

その後、将軍となった義輝に仕えますが、永禄八年(1565年)に、その義輝が暗殺されると、幽閉状態にあった弟・義昭を救出し、朝倉義景を頼って越前(福井県)へ逃れます。

そこで、何とか義昭を将軍にできないものかと奔走していたところ(やっぱ兄弟かも・・・)、朝倉に仕えていた明智光秀を通じて織田信長にめぐり会い、例のごとく、信長が義昭を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、見事、義昭さんは15代将軍の座を射止めます。

しかし、義昭と信長の仲がしっくりいかなくなると、あっさりと将軍に見切りをつけて信長に仕え、明智光秀の傘下に収まります。(やっぱ、兄弟じゃないのかも・・・)

そして、光秀とともに石山合戦などで大いに活躍するかたわら、息子・忠興の嫁に、光秀の娘・お玉(ガラシャ)を迎え、その関係をより強固な物にしますが、ここで、勃発したのが、あの本能寺の変(6月2日参照>>)です。

さぁ~て!困ったー
現に、細川家と同じく、光秀の娘を妻にしていた津田信澄は、信長の息子・神戸信孝に、その関与を疑われ、襲われちゃいました~。

さらに、光秀からは「味方になってぇ~」と、涙まじりの再三のお誘い・・・。

・・・と、ここで、名を藤孝から幽斎へと改め、信長への弔意を示す意味で剃髪して、即座に隠居・・・家督を息子の忠興に譲って、嫁のお玉を丹波の山中に幽閉し、あっさりと光秀に見切りをつけました(6月9日参照>>)

その後、行われた清洲会議(6月27日参照>>)の時には、もうバッチリ秀吉の傘下に属しています。

ただし、先ほど書きましたように、すでに隠居していますので、ここから先は、武将としてではなく、文人として、秀吉のそばに仕える事になります。

そう、実は、この幽斎さん・・・武勇の誉れ高き武将である反面、その趣味が、茶の湯や料理、古典や歌道などなど、ありとあらゆる日本文化に関して、プロ並み・・・いえ、もはや、その分野での第一人者と言えるくらいの領域に達していたのです。

幽斎が、まだ若い頃・・・官位をもらって、御所に昇殿された時と言いますから、18歳の頃の事でしょうか。

その文化的才能があまりにも有名だったため、それを妬んだ意地悪な公家に、宮殿の階段から突き落とされ・・・
「お前は、歌の名人やて言われてるらしいけど、こんな時でも一首詠めんのか?
詠めるもんなら読んでみぃ!」

と、からかわれます。

すると、幽斎はスクッと立ち上がって、すかさす・・・
♪とんと突く ころりと転ぶ 幽斎が
 いかでこの間
(ま)に 歌を詠むべき♪
と、返したのだとか・・・

・・・って、この時、まだ幽斎って名乗ってませんやん!
てな、固い事は言わずに・・・まぁ、そんな逸話が残るくらいその趣味は趣味の領域を超えていたって事でしょうね。

言わば、これが、幽斎さんの長寿の秘訣です。

考えてみると、この戦国時代・・・病気よりもはるかに高い確率で、死に至る戦がらみの刃傷沙汰・・・その危険をかいくぐって、時々の権力者に一目置かれるのも、実は、その趣味のおかげなのです。

それは、秀吉が亡くなって、次ぎに、しっかりと徳川家康傘下に入った幽斎&忠興親子を襲った関ヶ原の合戦の時・・・家康に従って会津征伐に参加していた忠興の留守中を狙って、石田三成派の西軍に囲まれてしまった田辺城・・・。

隠居の身とは言え、息子が留守にしている以上、先頭に立って死を覚悟して守りにつく幽斎でしたが、その合戦を止めに入ったのは、なんと、時の天皇・後陽成(ごようぜい)天皇でした。

それは、『古今伝授』が耐えては困ると、天皇が心配しての行動でした。

古今伝授・・・つまり、『古今和歌集』を後世に正しく伝える知識ですが、当時は、印刷技術や録音機器もありませんし、ましてやCD-Rにも収められませんから、人から人へと伝わるうち、その解釈かゆがんでしまうため、ちゃんと、その知識を身に着けた人が次ぎの人に伝え、次の人が完璧にマスターした時点で、バトンタッチしなくては、ちゃんと伝わらないわけです。

幽斎は、元亀三年(1572年)に三条西実枝から、その古今伝授を受け、奥義をマスターしていたわけで、彼がいなくなると、古今和歌集を正確に読み解く人がいなくなるという事で、後陽成天皇が合戦を止めに入ったわけです(7月21日参照>>)

まさに、「芸は身を助ける」ってヤツです。

徳川家康までもが、幽斎に、室町文化について教えを請うたり、幕府の創設について相談したりもしていたようです。

もともと、あの田辺城の時以外は、隠居してからは、ほとんど息子にまかせっきりだった幽斎は、そのぶん権力への執着もないので、逆に、権力者たちは安心して、彼に教えを請いに来るのです。

それに、その人生を見てもわかるように、彼は世渡り上手ですしね。

結局、息子・忠興が九州の肥後(熊本県)に栄転となった時も、幽斎は九州へは行かず京都に残ります。

そして、慶長十五年(1610年)8月20日77歳でこの世を去るのです。

彼の場合は、まさに天寿をまっとうしたと言うにふさわしい最後だったのではないかと思います。

趣味に没頭する・・・これも長寿の秘訣かも知れませんね。
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2008年8月19日 (火)

信長・秀吉・家康だけが成しえた城割の重要性とは?

 

天正八年(1580年)8月19日、織田信長の命により筒井順慶が、筒井氏の本城・筒井城の破却を開始しました。

・・・・・・・・・

この半月前の8月2日、筒井順慶に上り、織田信長に会います。

そこで、順慶は信長から、郡山城だけを残して、それ以外の大和(奈良県)の国中の城を破却するように命じられ、翌3日、本城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市)(11月18日参照>>)に戻ってきますが、8日には、今度は「摂津・河内(大阪府)にある諸城も破却せよ」との命令が下ったために、順慶は即座に河内に向かいます。

17日には、河内国の城の破却が完了し、順慶は再び大和に戻って、大和の城郭を次々と破却・・・そして、天正八年(1580年)8月19日には、筒井城の破却に取り掛かるのです。

奈良中の人夫が狩りだされて、その工事にあたり、20日には、すでに大和国中の城のほとんどが破却され、順慶は郡山城に入りました。

以上は、多聞院英俊(えいしゅん)が書いた『多聞院日記』に書かれている記述ですが、これを書いた英俊本人も・・・
「国中おおむね城を破ると云々。残る所無きか」
と驚きを隠せません。

確かに、ものすごいスピードで、次々と城が壊されたようですね。

このお城の破却の事を『城割(しろわり)と言いますが、この城割は、「天下統一は城割なしではありえなかった」とまで言われるほど重要な事なのですが、事が地味なせいか、時代劇などではほとんど扱われる事がありません。

確かに、派手な合戦シーンや、武将同士の巧みな駆け引きなんかのほうが、ドラマとしてはオモシロイのでしかたないですが・・・。

もともと、城割の前身とも言える城の破却自体は以前から行われていましたが、それは、単に倒した相手の城を壊したり、あるいは、敵に奪われそうになると破壊して逃走したりといった類の物で、これだけ一斉に、かつ計画的に、そして大々的に行ったのは、やはり信長・・・。

そして、信長の城割は、豊臣秀吉の城割へと受け継がれ、さらに元和元年(1615年)6月13日に徳川幕府が発布する『一国一城令』完成形となるのですが・・・、

上記のように、信長・秀吉・家康の三人だけが成しえた城割・・・という事は、やはり、それが天下統一と密接に関係している事がわかります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも戦国武将が群雄割拠していた時代、その領内には、支城という物が網の目のように張りめぐらされていました

それは、当時の戦国大名が、その配下の国人(こくじん)土豪(どごう)たちによってその兵力を維持していた事を意味しています。

国人・土豪とは、普段は農業に従事し、いざという時に鎧を着て槍を持って支城に馳せ参じ、合戦におもむく兵士たちの事・・・もちろん、この支城というのも、お城と言ってすぐ思いつくような天守閣のような立派なお城ではなく、お屋敷に毛の生えたような小さな物が大多数なのですが・・・。

その建てかたと言えば、ある支城から吹き鳴らすほら貝・太鼓などの聞こえる範囲に次ぎの支城を、そして、また、その支城から音が聞こえる範囲に、また支城を・・・という感じで建てられ、先ほどのいざという時を知らせるのがほら貝であり太鼓であるわけですから、その音で、兵を召集し、さらに次ぎの支城にも急を知らせるわけですね。

また、『つなぎの城』『対(つい)の城』といった感じで、支城が建てられる場合もあります。

それは、いつ国境を越えて攻めてくるかも知れない敵を見張るためや防ぐために、その最前線に建てたり、あるいは、現在の領地の北側に位置する隣国を攻める時に、その国境近くの北の端に支城を建て、攻撃の拠点にするといった具合です。

しかし、そんな支城というのは、戦国大名にとって両刃の剣でもありました。

それは、支城の城主となった国人が、そのまま敵に寝返ってしまうと、あたりは即座に敵の領地になってしまいますし、国人が大名に反抗する場合には、その拠点を与えてしまう事にもなるからです。

敵国からの防御のためには、必要な支城・・・しかし、領国内の治安を維持するためには不必要な支城・・・多くの戦国大名は、この支城の存在に悩まされ続けてきました。

そんなスパイラルから脱却したのが信長です。

信長は、合戦に勝利して征服した地にある城を、本城だけを残して破却=城割をする・・・ただ単に一つの支城を破却するのとは明らかに違う統合整理を行ったのです。

もちろん、これには、支城を破壊するだけではなく、本城を強化するという事が必要です。
城も大きくし、城下町も整備しなければなりません。

信長が行った城割は、支城を潰す=無くすという事ではなく、本城に支城を吸収するといったほうがわかりやすいでしょうか。

国人や土豪たちが拠り所としていた支城が破却され、本城に吸収されれば、その国人・土豪たちは、もといた土地を離れ、本城の城下町に常駐する事になります。

つまり、兵農分離・・・これによって信長は、季節に関係なくいつでも戦えるプロの戦闘集団を手に入れた事になります。

もちろん、ここでの兵農分離に関しては異論もありましょう。

最近では、「江戸時代になるまで兵農分離は無かった」という意見もあります。

ただ、私も、信長が完全に兵農分離できていたとは思っていませんし、それが、信長独自の考えでは無く、他の戦国武将たちも考えていた事であろうとは思っていますが、少なくとも、この時点で、ある程度の兵農分離的な事があり、それを実現しようとしていた1番バッターが信長なのでは無いか?と考えております。

そして、信長のあとに、四国、九州と次々に平定していく中で城割を行い、全国的に検地刀狩りを展開していく事で、その集中体制を強化させたのが秀吉です。

さらに、徳川幕府による一国一城令で、一つの領地に一つの城と一人の領主・・・その上に幕府があるという封建的体制が確立される事となるのです。

「次々と城を破壊」と聞くと、「せっかく建てて、まだまだ使えるのに、なんで壊すの?」と思いがちですが、城割の重要性をわかっていただけましたでしょうか。

おかげで、当時の城がほとんど現代に残っていないという、城マニアにとっては寂しいものになってしまいましたが・・・。

*城割によって強化された近世城下町の町割(まちわり)については、9月8日【大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割】へどうぞ>>>
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2008年8月18日 (月)

新撰組を表舞台に押し上げた八月十八日の政変

 

文久三年(1863年)8月18日、薩摩・会津の両藩が、尊皇攘夷派の公家を京都から追放・・・世に言う『八月十八日の政変』がありました。

・・・・・・・・・・

あのペリー来航(6月3日参照>>)以来の幕府の弱腰な外交から、攘夷派(外国人出て行け派)は天皇への期待を持つようになり、尊皇派(天皇中心派)と結びついて、尊皇攘夷派という派閥になります。

一方の佐幕派(幕府中心)の代表格であった大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、そんな尊皇攘夷派を厳しく弾圧する安政の大獄(10月7日参照>>)を決行しますが、その井伊直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)によって暗殺され、もはや幕府の権威は地に落ちてしまいました。

そこで幕府(武)は、朝廷(公)と融合してその関係を修復するとともに尊皇攘夷派を押さえ、国内を一つにまとめようとします。

これが、『公武合体』・・・その象徴として行われたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)結婚でした。

井伊直弼の後を引き継いで、その結婚を成功させた安藤信正でしたが、彼もまた、水戸脱藩浪士たちに襲われた坂下門外の変で失脚してしまいます(1月15日参照>>)

その後、公武合体の政策を引き継いだ薩摩藩主の父・島津久光が、尊皇攘夷派を一掃しようと動きはじめ、江戸に乗り込んで幕府改革を要求・・・政事総裁職に松平慶永(よしなが)が、将軍後見職に徳川慶喜(よしのぶ)が、京都守護職に会津藩の松平容保(かたもり)が任命されます。

しかし、当時は、朝廷内でも、尊皇攘夷派と公武合体派に分かれていて、その尊皇攘夷派の三条実美(さねとみ)らが、やはり尊皇攘夷派に傾いていた長州藩と接触し、文久三年(1863年)の5月10日を以って、攘夷(外国追い払い)を実行するように主張し、各藩に命令を下したのです。

そこで、朝廷内での公武合体派であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)が、先の薩摩と会津と結びついてクーデターを起こすのです。

文久三年(1863年)8月18日、武装した薩摩・会津・淀藩の兵が京都御所内に入ると、すべての門が閉ざされ、尊皇攘夷派の公家が御所に入る事を禁止し、それまで長州藩が守っていた堺町御門の警備を解任し、交代に薩摩藩が警備する事としました。

宮廷内は公武合体派で固められ、尊皇攘夷派の公家たちは、中に入れてもらえず、長州藩兵も、硬く閉ざされた門に近づく事さえ困難な状態・・・。

薩摩・会津藩兵とにらみ合い、一触即発の状態となりますが、「長州藩は撤兵せよ」との勅命(ちょくめい・天皇の命令)が出た事で、長州藩はやもなく撤退します。

翌日、長州藩の京都退去、尊皇攘夷派の公卿の洛外退去が命じられ、三条実美ら7人の尊皇攘夷派公卿は、長州藩を頼って京の都を去りました。

こうして、表向きは、京都から尊皇攘夷派が一掃されましたが、当然の事ながら不満モンモンの長州藩士らが、このままで終るわけもなく、京都周辺に潜伏して、水面下で勢力挽回の機会を狙う事になります。

京都の町に潜む、そんな尊皇攘夷派の探索に当たったのが、京都守護職・松平容保の配下となった、あの新撰組です。

政変直後には、孝明天皇も容保に・・・
「無茶な事、ムリヤリするさかいに、いややなぁって思って命令出したら、速やかに一掃してくれて・・・君の忠誠心には、ホンマ感謝するで」
的な手紙を送っています(12月5日に後半部分参照>>)

この一連の出来事で、京都を守る容保と新撰組は大人気となり、その活躍の頂点を迎える事になります。

この後は、起死回生を狙って、容保らの暗殺を計画していたところへ、かの新撰組が踏み込む池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・

そして、長州藩が大挙押し寄せて、御所周辺で抗争となった禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)へと続いていきます。

・・・が、しかし、この時、天皇にその忠誠心を感謝された容保と会津藩も・・・
そして配下の新撰組も・・・

その後の時代の波の中、最初の思いを貫く者と、新しい世界を夢見る者のはざまで揺れ動き、最終的には朝敵となってしまう・・・

何と、運命とは皮肉なものなのだろうと、考えさせられますね。
 .

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2008年8月17日 (日)

源範頼の自刃~頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?

 

建久四年(1193年)8月17日、伊豆・修善寺に幽閉されたいた源範頼が、兄・頼朝によって殺害されました。
(亡くなった日付には諸説ありますが、一応本日書かせていただきます)

・・・・・・・・・・

「源頼朝の弟で、兄・頼朝に殺された人物は?」
と、聞かれれば、ほとんどの人が迷わず「義経!」て、答えてしまうでしょうね。

失礼ながら、それだけ、本日の主役・範頼さんは影の薄い存在です。

源範頼(みなもとののりより)は、源氏の棟梁だった源義朝(よしとも)の六男・・・頼朝が三男で、義経が九男なので、ちょうどまん中になりますね。

母は、遠江・池田宿の遊女で、蒲御厨(かばのみくりや)で生まれた事から蒲冠者(かばのかじゃ)とも呼ばれます。

彼も、義経同様、兄・頼朝の挙兵(2006年8月17日参照>>)を知って駆けつけ、ともに木曽義仲を討って一の谷では大将を務め(2月7日参照>>)奮戦します。

天才的な発想で、奇抜な作戦を決行する義経と違って、範頼の戦い方は堅実なもので、そのぶん派手さに欠け、印象が薄いのでしょうが、彼は平家を追って中国はもちろん、九州にまで遠征しています。

ただ、頼朝・義経兄弟と比べると、コレというスゴイ業績がないのも確かです。

それは、やはり、彼の性格にあるのかも知れません。

とにかく温厚で・・・、さらに、武将としての野心が無いのか、平家追討にあたって貰った官職も、滅亡後には「必要ないから」と自ら進んで辞めちゃったりしてます。

頼朝の命令にもいつも素直に従って、義経のように、自らの意思で先走る事もありません。

ただ、そんな彼が、一度だけ頼朝の命令に従わなかった事がありました。

それは、「奥州へ逃げた義経追討軍の総大将をやれ」と言われた時です。

ご存知のように、義経は、義朝と常盤(ときわ)御前の子供で、同じ母のもとに、七男と八男という2人の兄がいます・・・つまり、六男の範頼は、異母兄弟とは言え、今となっては一番年齢が近い兄弟だったのではないでしょうか?

おそらく、彼は、非凡な才能を持ち、自分よりも目立っている弟を「うっとぉしい」なんて思う人ではなかったでしょう。

いや、むしろ、弟として親しみを感じ、快い存在であったに違いなく、だからこそ、そんな弟を討つなんていう事はできなかったんでしょうね。

これだけは、かたくなに固辞しています。

しかし、この一件で、頼朝さんに睨まれ、
「お前も、義経と一緒なんかい!」
と、脅されると、すぐに起請文を書いて忠誠を誓ったりなんかして・・・

弟を討つほど鬼にもなれないし、兄に反発する事もできない・・・やさしさは、裏を返せば頼りなさ。

強さとやさしさの両方をあわせ持つ事は、やはり難しいんでしょうね。

そんな野心のカケラもない範頼さんですから、本来、兄の脅威になろうはずもないのに、頼朝は、こんな範頼をも、義経と同様に、死に追いやってしまうのです。

その発端は、あの日本三大仇討ちの一つに数えられる曽我兄弟の仇討ち・・・(5月28日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、彼ら兄弟が狙っていたターゲットは父の仇である工藤祐経(すけつね)と、もう一人・・・頼朝の命も取ろうとしていた事は確かです。

現に、本懐を遂げたにも関わらず、さらに奥に突進していますから・・・。

その現場にいた者たちも、おそらく、そう感じたに違いなく、混乱の中、情報が錯綜してしまい、事件直後に、鎌倉に頼朝死亡の誤報が舞込んで来てしまったのです。

うろたえる鎌倉の家臣たち・・・
嘆き悲しむ妻・北条政子・・・

そんな、政子の姿を見た範頼は・・・
「大丈夫!僕がいるから・・・心配しないで」
と、やさしくなぐさめます。

・・・と、これがいけなかった!

無事に鎌倉に戻った頼朝は、この話を、政子から聞いたのか、はたまた家臣の誰かから聞いたのか、「自分にとって代わるつもりなのではないか?」という疑いを持ちはじめるのです。

それまでの範頼さんの行動、性格からして、おそらく、そんなつもりではなく、単に、悲しむ政子を勇気づけようとしただけだったと思われます。

しかし、頼朝は、そうは思ってくれなかったのです。

さらに、後日、範頼の腹心だった当麻太郎という男が、何を思ったのか、頼朝の寝所の床下に潜んでいるところを発見され捕らえられるという事件が起こります。

これが決定打となり、範頼への頼朝の不信感はゆるぎない物になってしまいました。

これに対して範頼は、やはり起請文を差し出して忠誠を誓いますが、もはや、あとの祭り・・・8月に入って範頼は捕らえられ、伊豆の修善寺に幽閉されます。

さらに、頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)を派遣して屋敷を取り囲み、攻撃を開始・・・「もはや、これまでと悟った範頼は、建久四年(1193年)8月17日屋敷に火を放ち、炎燃え盛る中、自刃したとされています。

ただし、例の『吾妻鏡』に範頼の死の記述がない事から、彼には、埼玉安楽寺で余生を送ったとか、愛媛に逃れたとかの生存説もある事も確かです。

しかし、この後、歴史上にその名が出てこないわけですから、たとえ、生きていたとしても、歴史の表舞台から抹殺された事には変わりないわけです。

それにしても、頼朝は、本当に範頼が謀反をくわだてるような人間だと思ったのでしょうか?

先ほどから書かせていただいているように、彼は権力に執着するようなタイプではありませんし、武力で他を制圧しようという気もさらさら無いように思います。

どちらかと言えば、武将としては失格とも言える性格です。

それこそ、義経ならともかく、範頼が頼朝の脅威になるとは、とても思えません。

本当に、温厚でおとなしい性格の弟に、幽閉では飽き足らず、抹殺してしまうほどの恐怖を感じたのでしょうか?

いえいえ、頼朝が怖かったのは範頼自身ではなく、おそらく、彼をかつぎあげる人間・・・

曽我兄弟の一件を見てもわかるように、反抗分子はどこにでもいます。

範頼の性格なら、そんな反抗勢力に利用されかねません。

単なる家臣の謀反と違って、源氏の血筋を全面に押し出せば、その勢力が自分に匹敵するほどの物になる可能性も無きにしもあらずです。

そう、頼朝が、本当に怖かったのは、範頼のそのやさしさではないかと・・・
「カレのやさしさがコワイ・・・」(#^0^#)←恋人か!
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2008年8月16日 (土)

長岡城落城とともに散った河井継之助~戦争回避ならず

 

慶応四年(明治元年・1868年)8月16日、越後・長岡藩の家老・河井継之助がこの世を去りました。

・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)・・・鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)に始まった戊辰戦争・・・。

江戸城が無血開城(4月11日参照>>)された後も、未だ戦い続けていたのは、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成して官軍に抵抗していた会津をはじめとする東北の諸藩です。

いえ、むしろ、戊辰戦争は、官軍が江戸城を落すまでよりも、その後の東北一帯のほうが激戦だったと言えるでしょう。

しかし、本当は、この一連の激戦・・・回避できたかも知れない戦いでした。

その鍵を握っていた人こそ、本日の主役・長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)です。

彼は、藩政改革を実行して、借金だらけだった長岡藩を建て直し、この幕末の危機を切り抜けるためにと、最新鋭の軍備を整え、戊辰戦争が始まってからでも、官軍or幕府のどちらにつく事もなく、中立の立場をとっていました。

やがて、まもなく会津への攻撃が開始されようという頃、継之助は、小千谷(おぢや)慈眼寺にて、官軍の軍監・岩村精一郎と交渉を行ったのです。

もちろん、戦争を回避するための交渉です。

「もう少し時間をくれたら、武装中立の立場から、会津などの諸藩を説得し、戦闘を回避してみせる」と・・・

しかし、精一郎は、この提案を一蹴します。

精一郎は、まだ血気盛んな23歳の若者で、彼の頭の中には「戦争を回避する」などという考えはなかったのです。

しかも、官軍には、この河井継之助という人物が才知に優れた智将であるという事が伝わっておらず、精一郎は、はなから彼の事を「夢見物語のアホ家老」と決め付けて、交渉をする気など、まるで無かったようなのです。

かくして、中立の立場をとる事が許されなくなった長岡藩は、奥羽越列藩同盟に加わり、官軍と戦う事になるのです(5月13日参照>>)

そうなって、真っ先に官軍からの攻撃を受けたのは、長岡城でした。

確かに、長岡藩は最新鋭の軍備を整えてはいましたが、それらを自由に使いこなすには未だ訓練不足・・・しかも、数のうえでは圧倒的に官軍のほうが上でした。

2ヶ月の死闘の末の5月19日、長岡城は落城してしまいます。

それでも、一旦、官軍に奪われた長岡城を奪回し、持久戦に持ち込んで冬を迎えれば、雪国に慣れていない官軍を撃破する事も可能と考えた継之助は、7月25日、長岡城を奪回すべく攻撃を仕掛け、見事、奪回に成功します。

しかし、この時、流れ弾を左ヒザに受けて重傷を負ってしまったのです。

しかも、一旦奪回した長岡城も、7月29日に再び官軍に奪われてしまいました(7月29日参照>>)

その後、会津若松に護送される中、山道で揺られる事でキズが悪化・・・8月15日、死期を悟った継之助は、自らの棺おけを所望します。

慶応四年(明治元年・1868年)8月16日朝、できあがった棺おけと納骨箱を確認して、満足そうにする継之助・・・午後、そのまま昏睡状態となり、午後8時、帰らぬ人となりました。

その後も、しばらく抵抗を続けていた長岡藩でしたが、9月に入ってついに休戦・・・10月6日、長岡藩主牧野忠訓が正式に降伏・謝罪し、長岡藩の戊辰戦争は終わりを告げました。

生前から約束ができていたのか、その責任は継之助と、やはり家老だった山本帯刀(たてわき・義路)(9月8日参照>>)の二人が負う事になり、長岡藩の他の人物が責任を問われる事は、ほとんど無かったそうです。

そして、官軍は次ぎのターゲット=会津へと駒を進める事となります(9月22日参照>>)

享年42歳・・・戦争を止めるためには、自らが強くなって中立の立場で説得する事・・・最新鋭のガトリング砲は、そのためのカードだったのかも知れません。

かくして、望まぬ戦に臨んだ勇士は、その散りぎわも見事でした。
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2008年8月15日 (金)

田手畷の戦い~佐賀の鍋島・下克上の幕開け

 

享禄三年(1530年)8月15日、肥前・田手畷で行われた大内方杉興運少弐方龍造寺家兼との田手畷の戦いの中で、鍋島清久赤熊軍団乱入作戦により、少弐方が勝利しました。

・・・・・・・・・

室町時代を通じて、九州北部の所有をめぐって争ってきた周防(山口県)大内氏肥前(佐賀県)少弐氏・・・。

一時は、九州北部のほとんどを手に入れていた少弐氏でしたが、明応六年(1497年)の大内義興(よしおき・第30代当主)の時代になって、義興が、少弐政資(しょうにまさすけ・第15代当主)とその息子・高経(たかつね)自害に追い込んで九州へ進出・・・少弐氏は肥前一国に追いやられていました。

やがて享禄三年(1530年)、それぞれ次の世代に交代したところで、義興の息子・大内義隆は、少弐氏にとどめを刺すべく、動き始めます。

4月には筑前(福岡県中央部)の守護代であった杉興運(すぎおきつら)を肥前の神埼郡へと派遣し、さらに、肥前の筑紫尚門(つくしなおかど)や、朝日頼実(あさひよりざね)らが大内側へ寝返るという事態に・・・

そして、享禄三年(1530年)8月15日、とうとう田手畷(たてなわて・佐賀県吉野ヶ里町)まで攻め寄せた大内勢に対して、政資の息子・少弐資元(すけもと)は、重臣の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)迎撃に向かわせます。

その兵力は、ともに約1万ほどと互角であったものの、はじめのうちは大内勢が優勢・・・東から押し寄せて来る敵に、少弐勢はズルズルと西へ西へと後退を余儀なくされます。

智勇に優れた武将であった家兼も、さすがに「これまでか!」と思い始めた時、突然、南から北に向かって赤熊(しやぐま)という奇妙な装束を身に着けた集団が、大内勢を横切る形で突入!

軍勢の中に躍り出たと思いきや、瞬時にして尚門と頼実を討ち取ってしまったのです。

赤熊とは、ヤク(Yahoo!きっず図鑑参照>>)というウシ科の動物の毛を赤く染めた物・・・あるいは、それに似せて作った一種の被り物のような、衣類のような物なのですが、とにかく奇抜で、とりわけ戦場にはあり得ない装束です。

そのため、大内勢の兵士の中には、「神仏の出現か、魑魅魍魎・・・あるいは妖怪か?」と恐怖におののく者が数多くいたようです。

ましてや、そのわけのわからない集団に、いきなり二人の大将を討ち取られ、大内勢は大混乱におちいり、誰もが、われ先に戦線を離脱して行ったのです。

この状況を目の当たりにした少弐勢は、勢いを取り戻し、一気に反撃を開始!
見事、勝利を収めるのです。

この田手畷の戦いの大将であった龍造寺家兼は、この合戦での活躍で、大内氏に認められる事となり、結局は頼りない小弐氏に自ら見切りをつけて、大内氏に乗り換える事になります。

そして、その家兼の寝返りに怒った資元が、一族を騙し討ちに(1月23日参照>>)・・・ただ一人、生き残った家兼のひ孫が、やがて、かつての主君・少弐氏を倒す(1月11日参照>>)・・・それが、あの肥前の熊の異名を持つ龍造寺隆信です。

ところで、このいきなり登場した赤熊軍団・・・実は、肥前に住む小土豪・鍋島清久の率いる集団でした。

この合戦での活躍をきっかけに、清久は、農民に毛の生えた程度の低い身分から、正式に龍造寺の家臣として迎えられる事になるわけですが・・・鍋島という名前を聞いて、もう、お気づきの方も多いと思いますが・・・。

そうです、戦国の世を見事に渡ってのし上がり、江戸時代を通じて佐賀・鍋島藩としての地位を維持するあの鍋島です。
(バケ猫のお話は、9月6日のページへ>>

その才知によって、この時主君となった龍造寺にとって変わるようになるのは、この清久の孫・鍋島直茂・・・。

先ほどの隆信に限らず、主君を武力で倒しての下克上が一般的な戦国の世の中で、直茂は「その才知によって主君をしのいでいく」という出世の仕方をする人なのですが、今日の赤熊軍団の逸話は、しっかりと孫へと受け継がれたDNAの片鱗を見せてもらったような気がしますね。
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2008年8月14日 (木)

刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興

 

天正元年(1573年)8月14日、越前朝倉義景への織田信長の追撃・刀禰坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

姉川の合戦(6月28日参照>>)の後も、織田信長への抵抗を続けていた越前(福井県)朝倉義景近江(滋賀県)浅井長政・・・(11月26日参照>>)

信長によって、その地位をないがしろにされた15代室町幕府将軍・足利義昭の声かけによって、一旦は敷かれた信長包囲網でしたが、一番の大物である武田信玄の死(4月12日参照>>)によって、もろくも崩れ始めます。

前後して、天正元年(1573年)の4月と7月に、上京焼き討ち(4月4日参照>>)と、槇島(まきしま)城攻撃(7月18日参照>>)を行って、将軍・義昭を京都から追放した信長は、続けて近江に攻め上ります。

もちろん、信長のターゲットは近江の浅井長政だけではなく、姉川の合戦の時から、強固な同盟関係にある越前の朝倉義景も同じです。

長政の居城・小谷城を包囲する信長軍に対して、城の北側に陣取る朝倉の援軍・・・

8月6日にこの援軍への攻撃を開始した信長・・・やがて8月12日には、この近江一帯に暴風雨が吹き荒れたのをきっかけに、朝倉の援軍への攻撃に主力を投入し北上を開始します。

信長軍に圧倒された朝倉軍は北へ北へと敗走し、すでに、木之本(滋賀県)まで来ていた義景も撤退を余儀なくされ、勢いに乗った信長軍は、そのまま追撃を開始。

義景ら朝倉軍は、追いすがる信長軍に抵抗を繰り返しながら、本拠地の一乗谷へと逃走する事になるのですが、その途中での一番の激戦が、天正元年(1573年)8月14日刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いでした。

『信長公記』によれば、「この近江北部から刀禰坂・敦賀への撤退で、武将:38人、兵:3800人が討死した」とありますが、その数字は多少オーバーではあるものの、朝倉景行(北ノ庄城主)朝倉道景といった一門をはじめ、山崎吉家河合吉統などの名だたる武将もここで討死していますので、目を覆うような激戦が繰り広げられた事はまちがいないようです。

そして、信長に稲葉山城を攻め落とされた(8月15日参照>>)、あの斉藤龍興(たつおき)も、この地で死を迎えています。

稲葉山城・落城に際に、伊勢長島へと逃れ、長島の一向一揆(5月16日参照>>)三好三人衆との同調を経て、この朝倉に身を寄せていたようですが、再び大名に返り咲く事なく散っていきました。

もちろん、激戦という限りは、朝倉勢ばかりが、倒されていたわけではなく、信長方でも、大くの死者を出しました。

そして、命こそ助かったものの、この戦いで大ケガをして、一時は危なかった武将もいます。

この時、信長勢の一人として参加していた、あの山内一豊です。

彼は、この合戦で、弓の名手・三段崎(みたざき)勘右衛門が放った矢に顔面を撃ち抜かれながらも、何とか、味方とともに勘右衛門を討ち取りますが、そのケガがかなりの深手・・・左の頬から右の奥歯の根本まで達していたのだとか・・・。

その後、部下の者に顔を踏ませて、一気に矢を引き抜いたところ血が止まらず、一度は死も覚悟しましたが、近くにあった柏の葉を傷口に当てて応急処置をとり、命を取りとめたと言います。

そうまでして討ち取ったのに、手柄は同僚に譲ったんだとか・・・ホンマかいな。

山内家の家紋が柏の葉だというのは、この逸話に由来するものだそうです。

・・・で、何とか一乗谷にたどり着いた義景でしたが、そこも攻撃され、信じていた家臣にも裏切られ、最終的には朝倉氏は滅亡するのですが、そのお話は8月6日の【朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方へ・・・】で、最初のほう内容かぶってますが、どうぞ>>

本日の合戦を刀禰坂の戦いと呼び、この戦いと後半の一乗谷城での攻防戦を合わせて一乗谷城の戦いと呼んだりもしますが、この信長が朝倉氏を滅亡させた一連の戦いを越前征伐と呼ぶ・・・というのが一般的なようです。
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2008年8月13日 (水)

齢79!生涯現役~朝倉宗滴の長寿の秘訣

 

弘治元年(1555年)8月13日、朝倉宗滴が加賀一向一揆を高尾山におびき出し、一揆衆を撃破しました。

・・・・・・・・・・

朝倉宗滴(そうてき)は、越前(福井県)の朝倉氏の第7代当主・朝倉孝景(たかかげ)の末っ子として生まれ、孝景の孫である第9代当主・朝倉貞景(さだかげ)の叔父として支え、朝倉氏を全盛期へと導いた武将です。

今よりず~と平均寿命が短かった戦国時代に、彼は79歳まで生きた長寿の武将です。

宗滴のほかにも、毛利元就:75歳、細川幽斎:77歳(8月20日参照>>)藤堂高虎:75歳、本多正信:79歳、大久保彦左衛門:80歳(2月1日参照>>)、さらに最高齢は北条幻庵:97歳・・・などなど、

意外にも多くの長生きさんがおられますが、ほとんどの方が、晩年は家督を譲ったり、隠居したり、趣味に生きたりと、いわゆる戦国武将の現場である合戦の場からは遠ざかっている方が多い中、この宗滴さんは、生涯、現場主義の現役をつらぬいた人です。
(*北条幻庵は、生年があいまいなため、実際にはもう少し若かったのでは?と言われていますが、一応、記録上は97歳ですので・・・)

宗滴さんは、その生涯の中で、12回の合戦に出陣しているのですが、その中の最後の戦いとなったのが、この加賀一向一揆との戦いでした。

ご存知のように、加賀は、長享二年(1488年)の6月に、守護・富樫正親(とがしまさちか)の籠る高尾城を包囲して自刃に追い込んでからは、一向宗門徒の王国となっていた場所でした(6月9日参照>>)

そんな加賀一向一揆衆は、その勢力を拡大すべく、それから後も、たびたび隣国である越前に進攻を繰り返していて、永正三年(1506年)の3月にも、宗滴が総大将となって、一揆衆を迎え撃ち、越前を守り抜いています。

そして、弘治元年(1555年)8月13日・・・この時も宗滴さんは、一揆討伐のため、総大将として出陣し、一揆衆を撃破・・・さらに、この後も、戦況は朝倉勢が優位に進んでいくのですが、さすがの彼も、もはや、老骨に鞭打つ状態だったようで、間もなく、陣中にて、病に倒れてしまいます。

静養のため、越前・一乗谷に戻り、手当てを受けていましたが、残念ながら、9月8日、帰らぬ人となります。

享年79歳・・・まさに生涯現役です。

そんな宗滴さんの長寿の秘訣が、彼の家臣が書いた『朝倉宗滴話記』に残ります。

もちろん、これは、どちらかというと合戦のためのマニュアルのような本で、そこに「長寿の秘訣」として書いてあるわけではありませんが、彼が語ったとされる様々な語録の中に、「そういうものの考え方だから長寿なんだなぁ・・・」と感心させられる部分がいくつかあるのです。

「武士は、たとえ犬畜生って言われても、ただ勝つ事だけを目的にせなアカン。それに、勝つためには、戦場だけでガンバッってたんではアカンで、日頃から心身を鍛えとかな。」

「殿様を支えて、常に敵と戦わなアカンねんから、毎日、緊張の連続やで」

「殿様と二人で、敵をやっつけて天下を取る話をしてたら、ホンマおもしろうて時間忘れるわ。気ぃついたら朝になってる事が何回もあんねん。」

「毎日のように生きがいを見つけられるし、楽しいてしゃぁないのに、なんで、世の中の年寄りは、退屈やとか、夜も寝られへんとか言うんやろ・・・ホンマわからんわ」

これ、みんな、かなりお歳を召してからのお言葉です。

天下を取る夢を、一晩中、ワクワクしながら語り明かすなんて、まるで少年のようです。

毎日、新しい発見をして、生きる事が楽しくて仕方が無いなんて・・・。

しかも、それは、勝手にそうなるのではなく、日頃から、ちゃんと意識して積み重ねていってるんですね~。

ホント、いつまでも、こうありたいものです。

戦国という時代に、79歳という年齢・・・さぞかし、天寿をまっとうして、思い残す事もなかったんだろうなぁ~

・・・と、思いきや、宗滴さん、最後の最後に、こんな事をおっしゃってます。

「ここまで生きたんやから、今すぐ死んでも言い残す事はないで~。けど、もうちょっとだけ生きていたいなぁ。なんでて、織田んとこのバカ息子が、この先、どないしよるか見てみたいもん。」

宗滴さんが、亡くなった弘治元年(1555年)と言えば、織田んとこのバカ息子=信長さんは、まだ、21歳・・・織田家の家臣の中にでも、未だ弟・信行のほうが後継者にふさわしいと思う人がたくさんいた時代です。

斉藤道三の娘・濃姫と結婚したのが、天文十八年(1549年)なので、二人の結婚前に道三が信長を見て「わが国はムコ殿の引き出物になるだろう」と言ったという、あの逸話が本当だったとしたら、道三はすでに、信長がただのうつけ者ではない事を見抜いていたわけですが、宗滴さんも、「この先どうするか見たい」という事は、やはり、信長の器量を見抜いていた数少ない中の一人という事になります。

この、「時代の波を見る」という事も、長寿の秘訣だと思います。

今、世間はどのように動いているのか?
何が求められているのか?
どんなものが流行ってる?なんてミーハーもアリだと思います。

そして、何よりも重要な事は、志半ば・・・という事・・・。

人生、これで満足と思ってしまっては、できる事もできなくなってしまいそうです。

あれもやりたい!これもやりたい!

人生、最後の最後まで、志半ばというのが、若さの秘訣なのかも知れません。

宗滴さん・・・たとえ、それがいくつであっても、「信長の行く末を見てみたい」という志半ばの無念の死であった事でしょう。
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2008年8月12日 (火)

大友宗麟~理想のキリシタン国家・ムシカに到着

 

天正六年(1578年)8月12日、大友宗麟が3万5千の大軍を率いて、日向無鹿に着陣しました。

・・・・・・・・・・

日向(宮崎県)中央部に一大勢力を築いていた伊東義祐(よしすけ)が、島津の攻撃に遭い、本拠地である佐土原城を追われ、豊後(大分県)大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃げ込んだのは天正五年(1577年)12月9日の事でした(8月5日参照>>)

宗麟と義祐の関係は、宗麟の娘婿である土佐の一条兼定の娘が、義祐の息子・義益(よします)に嫁いでいるという縁戚関係にあったのです。

義祐の求めに応じて、日向奪回を決意する宗麟・・・しかし、これには多くの反対意見もありました。

着々と領土を広げ、もはや九州にまで、勢力を広げつつある中国の覇者・毛利元就(もうりもとなり)(5月3日参照>>)肥前(佐賀県)の熊の異名を持つ龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(11月26日参照>>)・・・宗麟が南に向かって出陣すれば、彼らに背後から脅かされる可能性もなきにしもあらずですから・・・。

しかし、宗麟の決意は固かった・・・

それは、義祐の
「日向を奪回できたら、その半分をあ・げ・る」
という言葉・・・

フランシスコ・ザビエルに会って以来、深くキリスト教を信仰するようになった宗麟は、その日向の地に、以前から夢見ていたキリシタンの国を造りたいと・・・そして、何より、キリスト教とは切っても切れない南蛮貿易・・・

九州の地図を見ればわかる通り、豊後に外国船が入港するためには、必ず日向灘を通らねばならないわけで、そこが敵に渡れば、当然、船も危険にさらされる事になります。

この頃の南蛮貿易の最重要品は、硝石・・・大砲や鉄砲に使用する黒色火薬は、この硝石と硫黄と木炭を混ぜて作られていましたが、硫黄と木炭は国内で手に入りますが、硝石だけは100%輸入に頼っていました。

種子島に鉄砲が伝来して以来、日本人はまたたく間にその鉄砲を量産する技術を編み出しましたが、その鉄砲をいくらたくさん持っていても、火薬が無ければお話になりません。

宗麟に限らず、この頃の戦国大名にとって、南蛮貿易のルートを確保し、その航海の安全を図る事は、最重要課題だったのです。

天正六年(1578年)3月、義祐の息子・伊東義兵(すけたか)を道案内に、宗麟の息子・大友義統(よしむね)が、日向北部の土持親成(つちもちちかしげ)攻略に向けて出陣します。

親成は、以前は大友傘下の武将でしたが、例の伊東氏が島津にコテンパンにやられた木崎原の合戦に乗じて、その領地を奪い取って、島津氏に寝返っていたのでした。

その時は、親成だけでなく、多くの伊東氏配下の者が島津に走っていましたが、ここに来ての大友の参戦を知り、再び寝返り、義統の軍勢は3万もの大軍となり、一挙日向に進入・・・またたく間に親成の籠る松尾城(宮崎県延岡市)を陥落させ、土持氏は滅亡しました。

土持氏の滅亡を受けて、気持ちも新たに、キリスト教国家の建設を内外に表明した宗麟は、キリスト教に反対する奥さんと離婚して、正式に洗礼を受け、身も心もキリシタンとなって、海路、日向へと向かいます。

その船には、白地に赤い十字架をデザインした旗が掲げられ、その胸にはロザリオが輝き、ヨーロッパの十字軍を彷彿とさせる進軍だったと言います。

そして、天正六年(1578年)8月12日、延岡付近に上陸した宗麟は、無鹿(むしか・宮崎県延岡市無鹿)に着陣・・・理想国家の建設に着手したのです。

無鹿は、音楽=ミュージックを意味するポルトガル語・・・教会では、ビオラの演奏に合わせて賛美歌を歌い、キリストにまつわる音楽劇なども、盛んに行われていたようですから、そこから命名されたのかも知れません。

まずは、農地の開発とともに、神父や修道士たちの宿舎を建設・・・やがては、豊後のように、入院設備の整った病院や孤児を収容する施設もある一大福祉都市を目指していた事でしょう。

しかし、その理想国家が、正式始動する前に、大きく事態が動きます。

海路で日向に向かった宗麟の別働隊として陸路で南下した重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢・・・ちょうど、この頃、その軍勢が、大友氏と島津氏の勢力範囲の境目である耳川を渡ったのです。

これは、イコール島津への進攻を意味します。

これを知った島津義久(よしひさ)は、当然の事ながら、迎え撃つべく臨戦態勢・・・

やがて、10月、田原隊は、山田有信が守る島津の前線基地である児湯郡高城(たかじょう)へと迫ります。

大友氏の将来を左右する耳川の戦いの始まりですが、そのお話は、まずは高城への攻撃が開始される10月20日【耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…】へどうぞ>>

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2008年8月11日 (月)

迫る関ヶ原!先発隊の進軍~その時家康は・・・

 

慶長五年(1600年)8月11日、東軍=徳川家康方の先鋒が三河岡崎城に到着しました。

・・・・・・・・・

この東軍というのは、ご存知、関ヶ原の合戦の東軍です。

そのメンバーは、浅野幸長(よしなが)有馬豊氏池田輝政生駒一正加藤嘉明桑山元晴黒田長政田中吉政藤堂高虎一柳(ひとつやなぎ)直盛福島正則細川忠興堀尾忠氏山内一豊らといった面々・・・。

7月25日に行われた例の小山の軍儀(7月25日参照>>)で、徳川家康につく事を表明し、この先、自分の城を東軍の拠点にと提供した面々が多く含まれています。

・・・・・・・・

話はさかのぼりますが、そもそもは、豊臣秀吉亡きあとの豊臣家臣団の内部分裂を利用して、石田三成のほうから挙兵させようと、「豊臣家への謀反をたくらむ会津の上杉景勝を攻撃する」と称して、居座っていた伏見城を後にした家康・・・。

案の定、三成は、家康が留守にした伏見城を攻撃します(7月19日参照>>)

・・・で、家康は、会津への攻撃ををとりやめて、三成への攻撃に変更するわけですが、今、連れている大軍は、上杉を討つために出陣したと信じている豊臣の家臣たちです。

そこで、開かれたのが、先ほどの小山の軍儀・・・

「この先、自分につく者は残り、三成につく者は西軍へどうぞ」とやったわけです。

ちなみに、この小山の軍儀では、前日からの根回しのおかげもあり、さすがに本人目の前にして「サヨナラ」は言い難いしで、その場では「家康様についていきます!」感で盛り上がったようです。

しかし、小山と言えば、江戸よりもさらに北・・・そこから、再び畿内に戻るためには、途中途中に拠点が必要となります。

そこで、この軍儀の時点で、味方につく事を表明した諸将が、「自分の城をどうぞ使って」と提供したのです。

横須賀城=有馬豊氏、吉田城=池田輝政、興国寺城&駿府城=中村一忠、沼津城=中村一栄、掛川城=山内一豊、岡崎城&西尾城=田中吉政、浜松城=堀尾忠氏、刈谷城=水野勝成、清洲城=福島正則・・・これらの城が家康に提供されました。

そして、徳川譜代の本多忠勝井伊直政を軍監(軍目付)とし、8月1日に小山を出発した彼ら先鋒は、慶長五年(1600年)8月11日田中吉政が提供した岡崎城に到着したのです。

このあと、彼らは、福島正則の提供した清洲城へと向かい、清洲を拠点に、西軍についた織田秀信(信長の孫=三法師)岐阜城を攻める事になります(8月22日参照>>)

ところで、彼ら先鋒が、どんどん西へと向かっている間、家康はどうしていたのでしょうか?

先鋒から遅れること3日・・・8月4日に小山を出発した家康は、翌、5日には、居城である江戸城に入り、せっせと手紙を書いていたんです

加藤清正伊達政宗をはじめ、多くの武将に合戦後の恩賞をチラつかせて、東軍に参戦するよう呼びかけの手紙です。

なんせ、今でも家康の立場は豊臣の一家臣・・・この合戦は豊臣家同士の内紛ですから、ひとりでも多く味方につけ、味方につかなかった者を合戦で一掃する・・・そうすれば、残った者は、豊臣の家臣でも、皆、自分の味方ですから・・・。

もちろん、先鋒として向かった福島正則や、堀忠政らのサポートも忘れていません。

彼らも、一旦、東軍に属する事を表明していても、妻子を大坂に残したままの者も多くいましたから、いつ寝返るかわかりません。

さらに、大坂にいたため、そのまま西軍になってしまった脇坂安治伊藤祐兵(すけたか)らにも連絡をとり、決戦の際に寝返るよう切り崩し作戦も展開。

この時に、家康が書いた手紙は150通を越えると言います。

大坂に残った妻子を大坂城へ召し出させて、人質として味方につけようとした三成と比べるのも何ですが、やはり、人の扱いに関しては、家康のほうがずっとウワテだったようですね。

ただ一つ・・・三成の挙兵や、諸将の寝返りを予想していた家康にとって、一番の予想外だったのは、西軍の総大将に毛利輝元がなってしまった事(7月15日参照>>)・・・毛利の影響は大きいですから・・・。

これには、黒田長政を通じて、吉川広家の不参戦と小早川秀秋の寝返りを画策(9月14日参照>>)・・・ご存知のように、関ヶ原当日のこの二人の行動は、戦況を大きく左右しました。(関ヶ原の合戦・参照>>)

かくして、8月中に、事前の対策をやりまくった家康さん・・・9月1日におもむろに江戸城を出発・・・西へと向かう事になります(9月1日参照>>)

『慶長記』によれば・・・
「9月1日に出陣する」
と言い出した家康に、石川日向守
「9月1日は、暦では西ふさがりの悪日、大事のスタートには良くない日です」
と言うと、家康は一言・・・
「西はすでにふさがっている・・・今からそれを自分で開けに行くのだ」
と言ったのだとか・・・

家康さん、今日はなんだかカッコイイ・・・
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2008年8月10日 (日)

阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡

 

文治五年(1189年)8月10日、源頼朝の奥州遠征軍が、阿津賀志山の戦いで藤原泰衡軍を撃破しました。

・・・・・・・・・

兄・源頼朝(みなもとのよりとも)の命に従って、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)で平家を滅亡させた弟・源義経(よしつね)でしたが、その後、兄弟の不和は決定的となり(5月24日参照>>)、昔お世話になった藤原秀衡(ひでひら)を頼って、奥州へと落ちのびます(11月3日参照>>)

~くわしくは源義経の年表で>>~

しかし、義経到着後まもなく、大黒柱の秀衡が亡くなり、その後を継いだ息子の藤原泰衡(やすひら)・・・頼朝は、朝廷から義経追討の院宣(天皇の命令)を取りつけ、この若き当主に、「天下の謀反人をかくまうと大軍で攻めちゃうよん」と、散々プレッシャーをかけます。

この間、院宣が出るたび、頼朝の使いが来るたびに、泰衡は、「おっしゃるとおりにやりまっせ!」との返事をしながら、まったく動く気配を見せませんでした。

この泰衡の行動は、「冷静沈着に鎌倉の出かたを見ていた」との見方と、「頼朝は怖いわ義経は頼るわで、どうしていいかわからなかった」との、二つの解釈に分かれるところです。

実際、頼朝も「泰衡の心中、測りがたし」と思っていたようですが、結局、泰衡は、文治五年(1189年)の4月30日、義経の衣川の館を攻めて自刃に追い込み、義経の首を頼朝に差出します。(4月30日参照>>)

ただ、これも、上記のように泰衡が冷静沈着で聡明な人物だと見る前者の場合は、義経を実際に攻めたのは当主の泰衡ではなく、兄弟の誰かであったとの見方が強いようですし、逆に、泰衡が臆病者の愚将だったとする『吾妻鏡』を重視する後者の場合なら、泰衡が恐怖に怯えて頼朝に屈したとの、2種類の見方ができるのでしょうが、吾妻鏡は、この時代を語る基本の史料ではありますが、あくまで鎌倉幕府の正史・・・つまり、頼朝・北条側の言い分である事も踏まえておかねばならないでしょう。

・・・とは言いつつも、吾妻鏡に沿ってお話を進めていきますと・・・

とりあえず、ここで義経は死に、万事解決・・・と思いきや、頼朝は義経の首を確認したわずか8日後の6月25日、朝廷に『泰衡追討の院宣』を求めるのです。

かくして、文治五年(1189年)7月19日、頼朝率いる奥州遠征軍は鎌倉を出発します。

この時、遠征軍は3つのルートに分かれて進軍します。

Yoritomoousyuurootcc 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

頼朝自らが、畠山重忠とともに率いる本隊はまん中のルート。
千葉常胤(ちばつねたね)率いる別働隊は太平洋側。
比企能員(ひきよしかず)率いる別働隊は日本海側。

この3つのルート・・・本隊が進むのはまさに、東北新幹線と東北自動車道のルート。

太平洋側の別働隊は常磐線・常磐自動車道で、日本海側の別働隊は上越線・関越自動車道のルートです。

今でこそ、こういう風に地図を眺めて、東北に行くならこのルート・・・と、判断する事ができますが、約千年の昔に、この3つのルートを押えての北上は、見事なものですね。

片や、泰衡は・・・
「阿津賀志山において城壁を築き、要害を固め、国見宿と、かの山との中間に、にわかに口五丈の堀を構え、逢隈川(阿武隈川)の流れを堰(せ)き入れて柵とし、異母兄西木戸国衡をもって大将軍となし・・・」

福島県伊達郡国見町、今も防塁跡が残るという阿津賀志山(あつかしやま)・・・ここを、泰衡は防御の要とみたようです。

さらに、その後方、苅田郡にも城廊を築き、名取・広瀬の両川に大縄を引いて柵とし、自らは国分原鞭楯(むちのたて・仙台市宮城野区)に陣を敷きます。

私、このあたりに地の利が無いのですが、確かに地図で見る限りでは、東北新幹線がトンネルに次ぐトンネルで、おそらくは大変険しい、天然の要害のような地形である事は察しがつきます。

先ほどの見事なルートで進軍する頼朝を迎え撃つ泰衡も、確かに、ここを押えると、この先への北上は難しいと思われる見事な選択です。

・・・が、しかし、文治五年(1189年)8月8日から、9日・10日・・・と、3日間にわたる激戦が繰り広げられ、10日には、大将であり泰衡の異母兄である西木戸国衡(くにひら)和田義盛に討たれ、副将クラスであった金剛秀綱(こんごうひでつな)小山朝光(おやまともみつ)に討たれるに至って、この鉄壁の防御線は、頼朝軍に突破される事になります。

完璧とみられた防御でしたが、逆に、そこを突破されてしまうと、その先は防ぎようもなく、簡単に、更なる北上を許してしまう事になってしまい、泰衡は撤退を余儀なくされ、平泉をも捨てて、北へ逃亡するしかなくなってしまうのです。

では、この敗戦の原因はどこにあったのでしょう?

どうやら、それは兵力の差にあったようです。

俗に奥州17万騎と言われて、中央から恐れられた藤原氏の兵力ですが、悲しいかな、この兵力は農民の延長上にある武装集団であり、プロの戦闘集団ではありません。

8月と言えど、これは旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったので、この8月10日を太陽暦に換算すると、1189年9月28日となります・・・ひょっとして、東北では刈り入れの最盛期頃なのでは?

なので、実際に泰衡が召集できたのは、1万~2万ではなかったか?と言われています。

対する頼朝軍は・・・24万4千騎とありますが、さすがにこれは多すぎ・・・その前の源平の合戦の事を踏まえて、おそらくは数万騎強くらい?

その3分の一が日本海側の別働隊としても、4万~5万はくだらなかった・・・とすれば、泰衡軍の倍ほどの兵力があった事になります。

こういう場合、数で劣る側は、神出鬼没なゲリラ戦を展開するのが鉄則ですが、泰衡は徹底した防御戦に挑んだ・・・結果論になるかも知れませんが、それが、敗因だったかも知れません。

防御線を突破された泰衡は、平泉に火を放ち、さらに北へ逃亡し、厨川柵(岩手県盛岡市)にて家臣の河田次郎に殺害され、奥州藤原氏は滅亡する事になるのですが・・・

ただし、先ほどから書いているこの逃亡というのも、吾妻鏡の記述・・・さらに、その中では、「泰衡周章(しゅうしょう)度を失いて逃亡し・・・」
つまり、メチャメチャ慌てふためいて逃げたと書かれていますが、お察しの通り、泰衡が慌てふためいたかどうかは、彼の側近は見ていたかも知れませんが、鎌倉側の人間である吾妻鏡の筆者が見る事は無かったはず・・・

もしかして、泰衡が吾妻鏡に書かれているような愚将ではなく、もう一方の冷静沈着な智将だったとしたら、頼朝の大軍が怖くて逃げたのではなく、何か再起の手立てがあって北へ向かったのかも知れません。

一説には、衣川を脱出して北へ向かった義経と合流するはずだった・・・なんて、荒唐無稽な伝説もあるくらいです。

だからこそ、阿津賀志山の戦いで防御一本に徹したのかと・・・

刈り入れがピークという事は、あと少し待てば、農繁期を終えた大量の兵力が期待できます。

しかも、東北の冬は早い。
その頃には、もう空はみぞれまじり・・・鎌倉武士よりも、はるかに山岳移動に長け、雪道に慣れた奥州17万騎が、そこにいたかも知れません。

頼朝が、奥州17万騎を活用できない農繁期を狙って合戦を仕掛けたなら、泰衡は、それを逆手に取って、抵抗しつつ合戦を引き延ばし、冬が来るのを待とうとした・・・なんだか、互いの作戦にワクワクしますね~

ただ、さすがの智将も、一旦撤退して身を寄せた身内に殺害されるかどうかまでは、予想ができなかった・・・ひょっとしたら泰衡は、志半ばで無念の末路を迎えたのかも・・・

またまた悪いクセの判官びいきですが、つい、味方をしてみたくなります。
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2008年8月 8日 (金)

徳川幕府も新政府も借金まみれ~その原因は?

 

元治元年(1864年)8月8日、四国連合艦隊の攻撃により、下関にあった長州藩の砲台が壊滅状態となり、下関戦争の戦闘が終了しました。

・・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)のペリーによる黒船来航(6月3日参照>>)で、日米和親条約を締結させた幕府・・・そんな幕府に不満を持つ攘夷派(外国人を追い払いたい派)は、外国人を極度に嫌っていた時の天皇・孝明天皇と結びつき『尊皇攘夷派』となります。

その尊皇攘夷派の代表格が長州でした。

そんな長州藩が、文久三年(1863年)の5月に、関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃(5月10日参照>>)したのを皮切りに、海峡を通る外国船に次々と大砲撃ち込んだ戦いと、それに対する報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4ヶ国の連合艦隊が、下関を襲撃した戦いを合わせて、『下関戦争』と呼びます。

・・・で、元治元年(1864年)8月8日のこの日、四国連合艦隊に完膚なきまでにヤラレてしまった長州藩・・・この日の戦闘で、長州藩の砲台が壊滅状態になった事で、下関戦争は終りを迎えるわけです。

そして、ここから始まるのが戦後処理・・・講和の話し合いなのですが、さすがに血気盛んな長州藩の武士たちも、相手が外国となると、誰も行きたがらない。

適当な人物が見つからないため、その交渉役として抜擢されたのが、幕府の命令を聞かずにウロチョロして、つい先日まで投獄されていた、あの高杉晋作です。

この時、イギリス側の通訳であったアーネスト・サトウ(8月26日参照>>)は・・・
「彼は、大紋の衣服に黒の烏帽子を冠り、堂々とイギリス軍艦に乗り込んで来て、家老の息子・宍戸刑馬(ししどきょうま)と名乗った・・・その姿は魔王のように傲然としていて、どちらが勝者かわからないくらいだった」
てな事を言っています。

ただ、態度がデカいわりには、
1、関門海峡の外国船の通行の自由
2、石炭・食物・水などの必要品の売却
3、悪天候時の船員の上陸
4、砲台の撤去
5、賠償金・300万ドルの支払い
の5つの条件を、すんなり受け入れちゃってますが・・・

しかも、最後の賠償金は、「幕府の命令に従っただけ」として、長州藩ではなく幕府に貰ってね!と一蹴。

ただし、「下関沖にある彦島を租借(自国の領土として借り受ける)したい」という要求に関しては、神代からの日本の歴史について語りはじめたかと思うと、延々と話し続け、相手が唖然としてる間に、うまくごまかして、ウヤムヤのまま終らせてしまってます。

さすがの晋作さん、彦島が外国の領土になってしまう事を回避したのは、お見事!・・・なのですが、問題は賠償金。

「幕府の命令に従ったから」と言ってますが、実は、そんな大金、長州藩には支払い能力が無かったというのが正直なところだったようです。

・・・と、いうか、300万ドルなんて金額は、長州藩どころか、幕府にも支払い能力がないほどの金額でした。

それもそのはず、もともと、これはイギリス公使・オールコック瀬戸内海沿岸の港を開かせるために、あえて高額な賠償金にして、「賠償金を支払うか、港を開くか!」と迫ったものだったのです。

もちろん、彼らの予測は・・・
「そんな多額な賠償金を支払うくらいなら開港するだろう」
というもくろみです。

ところが、幕府は賠償金を支払う事を選んだのです。

それは、もし、列強の求め通り、瀬戸内海沿岸の港を開くとすれば、兵庫下関かという事になるのですが、兵庫は天皇のおわす京都に近いのでダメ・・・かと言って、今、外国と戦争したばかりで、しかもわずか1ヶ月前に蛤御門の変(10月21日参照>>)で幕府とモメてる長州藩内の下関でもマズイ・・・

・・・って事で、幕府は300万ドルを支払う事に・・・

結局、この賠償金は、末期を迎えた幕府の経済を圧迫し、長州藩が最終的に望んだ討幕への道は早まる事になるのですが、あまりに多額だったため、幕府は、この賠償金を払いきる事なく崩壊してしまいます。

未払いの賠償金は、明治新政府が受け継いで支払い続ける事になるのですが、そんな明治政府だって、やはり、その支払いに四苦八苦・・・。

実は、下関戦争と同時期に起こった薩英戦争(7月2日参照>>)でも、イギリスから要求された2万5千ポンドの賠償金を、薩摩藩は支払う事ができず、幕府から借りて支払っているのですが、結局、薩摩藩は、その借金を幕府に返さずじまいです(9月28日参照>>)

明治新政府が、薩摩と長州中心だった事を考えれば、結局、幕府の末期を、経済的に苦しめた原因を作った薩摩と長州が、それによって、またまた経済的に苦しめられる事に・・・因果応報というか、人を呪わば穴二つというか・・・世の中、皮肉なもんです。
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2008年8月 7日 (木)

加藤清正の熊本城~築城にまつわる怖い話

 

慶長六年(1601年)8月7日、加藤清正が熊本城の築城に着工しました。

・・・・・・・・

江戸時代のほとんどを通じて、肥後熊本を統治していたのは細川家・・・にも関わらず、今も熊本県民の皆様にとって、加藤清正さんは特別な人のようです。

『清正公』と書いて「きよまさこう」とは呼ばずに、「せいしょこ(さん)と親しみを込めて呼ぶのだそうです。

洪水が頻繁に起こっていた川に堤防を築いて肥沃な大地に変え、隈本城と呼ばれていた城を、堂々たる大城郭の熊本城に立替え、現在の熊本という城下町の基礎を築いたのは、やはり清正公・・・大阪人の私が、現在残る大阪城の石垣を築いた家康さんよりも、どうしても太閤さんのほうに親しみを感じてしまうのと同じ感覚でしょうか。

例の「虎退治」の逸話でもわかる通り、清正公は武勇に優れた武将でしたが、築城や治水工事、新田開発にも手腕を発揮した政治家でもありました。

現在の熊本城天守閣は、昭和の時代に再建されたものですが、それは、清正公の築いた当時の熊本城の、瓦の数までを忠実に再現しているのだそうです。

大坂城・名古屋城とともに、日本三名城(諸説あるようですが・・・)に数えられる熊本城・・・。

三名城のうち、熊本城以外に名古屋城も清正公の手によるものなのですから、まさに築城の名人ですね。

そんな清正さん・・・天正十五年(1587年)に起こった肥後国人一揆(7月10日参照>>)の責任をとって自刃した佐々成政(さっさなりまさ)亡き後に、肥後北部・19万5千石を与えられ、その後の関ヶ原の合戦での功績により、肥後52万石の領主となります。

そうなると、その52万石にふさわしい名城を造りたくなるもの・・・で、慶長六年(1601年)8月7日天下一の名城を目指して、築城に取り掛かったわけです。

しかし、さすがに広大な規模を誇る名城・・・それは、7年間にわたる大工事となりました。

ところで、そんな熊本城の、築城にまつわるちょっと怖い逸話があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

広大な敷地では、幾人かのグループに別れ、あちこちで、同時進行の工事が行われていたのですが、その中の、ある工事現場に、ひと際力持ちの男がおり、「2~3人がかりで持ち上げねばならないほどの資材を、ひとりで軽々と持ち上げる」と評判の者がおりました。

しかし、ある時、その男の正体を知っているという者が現れ、その者が言うには・・・
「あれは、木山弾正の息子の横手五郎という男だ」というのです。

木山弾正とは、豊臣秀吉の九州平定後、北部を与えられた清正と、ともに肥後南部の領主となった小西行長に反発した天草五人衆の一人で、その天草合戦の時に、清正との一騎打ちによって命を落としていた武将です。

その息子なのですから・・・
「敵情を探るために人夫となって紛れ込み、仇討ちの機会を狙っているのではないか?」
と、思ってしまうのも、無理はありません。

早速、清正は男を呼び出し・・・
「誰よりも早く、誰よりも深い井戸を掘ったら、褒美をやるぞ
と言い、男がハリキって、深い深い井戸を掘ったところで、上から石や土を投げ入れて生き埋めにしてしまう・・・という、何とも後味の悪い騙まし討ちで亡き者にしてしまったのです。

その後、しばらくして、基礎工事ができあがったところで、無事の完成を願って祈祷をしてもらう事となり、ある修験者を呼び寄せたところ、祈祷が始まるやいなや、その修験者は・・・
「この地には怨霊の呪いがかかっておる!
ひとつは、騙されて生き埋めにされた男の呪い。
もうひとつは、戦場にて討ち取られたその父の呪い。
親子2代の呪いなれば、この地を清める事はできませぬ」

それを聞いた清正は
「ほな、お前が人柱になれ」
と、一刀両断でその修験者を斬り捨てたのです。

死のまぎわに修験者は
「私を人柱にしても呪いは無くなりません・・・きっと殿様の家は滅びるでしょう」
と言い残し、命果てました。

・・・と、これは、あくまでも伝説です。

書いてる私自身、武勇の誉れ高い清正さんのイメージからは、考えられないようなダーティな逸話で、にわかには信じ難い・・・

とても、本当の話とは思えませんが、確かに清正さんは、この10年後に突然亡くなり(6月24日参照>>)、その嫡男である加藤忠広も、わけのわからない理由で配流となり(12月6日参照>>)、戦国武将としての加藤家は、わずか2代で、事実上、滅亡する事となります

おそらくは、この加藤家のあまりに早い没落を目の当たりにした人々による「何かの祟りなんとちゃうんか?」という疑惑が、このような恐ろしい伝説を生んだのではないか?と考えますが・・・
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2008年8月 6日 (水)

意外に快適?八丈島での宇喜多秀家

 

慶長八年(1603年)8月6日、関ヶ原の合戦で敗走し、薩摩の島津家久のもとに身を寄せていた宇喜多秀家が、京都・伏見に護送されました。

・・・・・・・・・・・

備前(岡山県)岡山城主であった父・直家が亡くなり、宇喜多秀家(うきたひでいえ)が家督を継いだのは、わずか10歳の時でした。

幼くして家督を継ぐ息子を心配した父は、死のまぎわに、息子の後見を豊臣秀吉に託したのです。

子供がいなかったため、親友の前田利家の娘・豪姫を養女にしていた秀吉は、その豪姫と秀家を結婚させ(5月23日参照>>)まるでわが子のように面倒をみていたようです。

乱世の梟雄(きょうゆう)と呼ばれた父・直家と違って、秀家の性格はかなりノホホンとしたお坊ちゃんだったようですが、性格は大らかでも、彼は、なかなかの戦上手・・・四国征伐小田原攻めでも大活躍し、朝鮮出兵でも武功を挙げて、やがて、五大老の一人として名を連ねるまでになりました。

そして、今度はその五大老として、秀吉から、その死のまぎわに、幼い息子・秀頼将来を託される事になるのです。

やがて起こる関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で、彼を、徳川家康側の東軍へと誘う細川忠興に対して、きっぱりと断るだけでなく、忠興の事を裏切り者と批判するのも、やはり、幼い頃に受けた秀吉のやさしさに恩を感じていたからではないでしょうか。

その豊臣への忠誠心を示すかのように、関ヶ原では西軍の副将として奮戦する秀家でしたが、ご存知のように、合戦は東軍の勝利に終ります

合戦のドサクサで、伊吹山の山中へと逃げ込んだ秀家は、その後、島津家久を頼って、薩摩(鹿児島県)へと逃れたのでした。

しかし、彼ほどの武将・・・そのまま隠し通せるはずもありません。

ほどなく、秀家が薩摩にいる事が噂となって家康の耳に届く頃、意を決した家久は、自ら、秀家の事を家康に報告し、彼の奥さんの実兄である前田利長とともに、助命を嘆願したのです。

そして、慶長八年(1603年)8月6日、未だ家康の心中のわからぬまま、秀家は京都・伏見へと護送されました

結局、島津と前田の後押しが効いたのか、何とか、死罪は免れた秀家・・・一旦、駿河(静岡県)久能に幽閉された後、息子二人とともに、八丈島への流罪が決定します。

「鳥もかよわぬ八丈島」・・・江戸時代には、島流しの定番となる八丈島ですが、実は、八丈島への流人第一号は、彼、秀家なのです。

34歳で、八丈島に流され、それから50年間に渡って流人生活を送る秀家さん・・・八丈島の幕府代官に招かれた時、食事をごちそうになった彼は、2杯おかわりをし、3杯めは、てぬぐいに包んでふところへ・・・

「こんないい食事は島では食べられないから、家の者に持って帰ってやろうと思って・・・」なんて、涙を誘う逸話も残っていて、さぞかし、坊ちゃん暮らしだった彼には、苦悩の流人生活だった事でしょう。

・・・と、思いきや、意外に快適な島暮らしだったという話もあります。

なんせ、奥さんの実家は、加賀百万石の前田家です。

島に流されるにあたって、嫁の豪姫は実家へと戻るのですが、夫・秀家には家人をつけ、息子二人には乳母をつけ、専属の医師までも同行させたのは、すべて彼女の指示・・・

しかも、その後も前田家は、二年に一度の間隔で、金銀や米・食糧・衣服をはじめ、医薬品までもを送り続けているのですが、その前田家の仕送りは、秀家が84歳で亡くなるまで・・・どころか、徳川幕府が崩壊する明治まで続けられているのです。

これには、父の利家が遺言として「五大老の一人として豊臣家を守れ」と言い残した(8月8日参照>>)にも関わらず、徳川についてしまった利長の罪滅ぼし・・・という話もありますが、私としては、あの真田昌幸信幸親子と同様の(7月21日参照>>)「どっちへ転んでも生き残り作戦」のような気がしてなりません。

前田家の場合は、利長の弟・前田利政も、西軍を表明して関ヶ原には行きませんでした。

東軍・西軍、どちらが勝っても良いように、「勝ったほうが負けたほうを末代まで援助する」という約束事ができていたのかも知れません。

もちろん、先に書いた豊臣への忠誠心もウソではありません。

いや、ひょっとしたら利長にも、豊臣への思いがあったのかも知れません。

しかし、その心情とはウラハラに、風が家康に向いていると判断した利長が、前田家生き残りのために、代表として家康に味方した・・・というような気がします。

もう一つ、秀家さんの八丈島での暮らしが、意外に快適だったのではないか?という事を裏付ける話として、島民との交流があります。

先にも書きました通り、備前での秀家さんはかなりの坊ちゃん暮らし・・・当時の坊ちゃん暮らしとなれば、最高水準の教育を受けているわけですが、その知識を惜しみなく島民たちに与えて、八丈島・島民の知的水準がかなり上がったという噂もあります。

いずれにしても、明暦元年(1655年)の11月20日の84歳まで、当時の平均寿命をはるかに越える年齢を真っ当されたのですから・・・

確かに勝者としての殿さま暮らしという風にはいかないでしょうが、かと言って、せっぱつまった非常な暮らしをしていたのではないような気もしますね。

いや、そうであってほしいなぁ・・・(願望)

家康の敵に回ったというだけで、人として罪を犯して島流しされたわけではないのですから、是非とも、秀家さんには、快適な暮らしをしておいていただきたいと思います。

・・・でないと、いっしょに行かされる乳母や医者も、たまったもんじゃありません。
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2008年8月 5日 (火)

雅を夢みた日向の王者~伊東義祐の最期

 

天正十三年(1585年)8月5日、自ら「三州太守」と称した日向の戦国大名・伊東義祐が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

日向(宮崎県)中央部に勢力を誇る伊東氏・・・室町時代から続く名門の10代目・当主となったのは、武勇に優れた伊東義祐(よしすけ)でした。

義祐は、婚姻を結んでいた木原氏家督相続争いに乗じて木原氏を滅ぼした後、代々、日向南部を巡って繰り返されていた島津氏との抗争でも、分家の島津忠親(ただちか)を倒して飫肥(おび・宮崎県日南市)一帯を手に入れます。

さらに、佐土原城(さどはらじょう・宮崎市)を本拠地に、「伊東惣四十八城」と呼ばれる48の支城を日向国内に配置し、自らを、日向・薩摩・大隈「三州太守(さんしゅうたいしゅ)と称して、まさに、頂点を向かえます。

義祐の上り調子は、留まるところを知らず、あの豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)も、何とかよしみを通じようと縁戚関係を結んできます。

しかし、義祐さん・・・ここで、ちょっとばかり調子に乗りすぎました~。

「わが世の春」とばかりに、本拠地・佐土原に京風文化を取り入れ、酒池肉林の贅沢三昧・・・金閣寺をまねて金箔を張りめぐらした仏殿を造ってみたり、貴族にあこがれ、歌や酒に溺れる生活を続けます。

いくら戦上手でも、これでは・・・

しかも、お隣の島津では、新たに当主となった島津義久(よしひさ)が虎視眈々と挽回のチャンスを狙っています。

そんなこんなの元亀二年(1572年)5月、島津方に属する飯野城(宮崎県えびの市)を攻めるべく進軍する伊東勢・3000を、木崎原(きざきばる)で待ち受ける島津義弘(よしひろ・義久の弟)率いるわずか300の兵が奇襲します。

不意をつかれた伊東勢は総崩れとなり、またたく間に大敗・・・この木崎原の合戦は、無勢が多勢を倒したところから「九州の桶狭間」とも呼ばれます。

この敗戦をきっかけに、伊東氏は坂道を転げ落ちるように衰退していきます。

四年後の天正四年(1576年)になって、攻撃の手を強めた義久に対して、あの48もあった支城は、ほとんど戦わずして次々と降伏し、島津の勢いに押されて寝返る者も数知れず・・・。

さらに、翌・天正五年(1577年)になって、譜代の家臣までもが寝返るという状況に至り、12月8日には義弘が野尻に着陣・・・たまりかねた義祐は、翌日の12月9日、佐土原城を捨てて、命からがら大友宗麟のもとへ逃げ込みました。

この伊東氏のあまりの衰退ぶりは「伊東崩れ」と呼ばれ、これで、宮崎の南半分は島津の物となってしまいました。

ちょうど、その頃の宗麟は、キリスト教にどっぷりと浸かりたいがため、奥さんとも離婚し、家督も息子に譲っていて、自由このうえない身の上です。

そこに転がり込んできた義祐が言うには・・・
「日向を取り返してくれたら、その半分をあ・げ・る」
と、これまた、魅力たっぷりなお誘い・・・。

「そうだ!日向にキリシタンの王国を造ろう。ついでに南蛮貿易で大儲けしよう。」
宗麟は、島津を相手に戦う決意を固めます。

この大友VS島津の一連の戦いのクライマックスがあの耳川の戦い(11月12日参照>>)です。

もちろん、義祐も、大友勢の片翼として参戦しますが、この合戦が、大友氏をも傾けさせるほどの大敗を喫してしまします。

この敗戦では、宗麟でさえ、ギリギリで母国へ逃げ帰ったような状況でしたから、当然、居候の義祐が、またまた大友氏を頼るわけにもいきません。

義祐は、そのまま、元家臣や知り合いのところを転々とする流浪生活に入ります。

やがて、息子・伊東祐兵(すけたか)が、羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになった縁で、「秀吉傘下に入らないか?」というお誘いを受けますが・・・
「従三位の俺が、秀吉ごときの臣下になれるか!」
と、この期におよんでも、名門のプライドを捨てきれない強気の発言で、さらに流浪生活を続ける義祐さん・・・。

そして、天正十三年(1585年)8月5日、大阪は堺の浜辺で行き倒れになっているところを発見されたのです。

享年74歳・・・豪腕の誉れ高き武将は、雅な貴族にあこがれて、没落の一途をたどりながらも、その夢を曲げる事ができませんでした。

うまく立ち回って生き残るのか?
死んでも信念を貫くのか?

生きるも死ぬも両極端・・・それが、戦国の世というものなのでしょうね。
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2008年8月 4日 (月)

歴史人物辞典~「わ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「わ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・・

★和気清麻呂
  ●和気清麻呂・大隈へ流罪
  ●和気清麻呂に思いを馳せる茶臼山古墳

★和気広虫
  ●日本を2度救った慈愛の人・和気広虫

★脇屋義治
  ●足利尊氏VS新田義興…小手指原の戦い

★鷲尾三郎義久
  ●一の谷の合戦~義経の鵯越の逆落とし

★渡辺数馬
  ●荒木又右衛門は何人斬ったか?

★渡辺糺
  ●大坂夏の陣~渡辺糺と母・正栄尼の最期

★渡辺豹吉
  ●忠臣・渡辺豹吉の大芝居~会津・飯寺の戦い

★和田五郎
  ●南北朝~京都争奪の八幡合戦

★和田義盛
  ●幕府を揺るがす和田合戦

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「ろ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ろ」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・

★良弁(金鐘行者)
  ●東大寺・二月堂にまつわる奈良の昔話~良弁杉

★六角定頼
  ●室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い
  ●浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦
  ●天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い
  ●祇園祭の長刀鉾は宗教戦争の証…天文法華の乱

★六角承禎(義賢)
  ●今や父子2代の物語…斉藤道三の長井氏乗っ取り
  ●三好長慶が天下を取る~江口の戦い
  ●将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い
  ●三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い
  ●名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動
  ●信長の上洛を阻む六角承禎…観音寺城の戦い
  ●まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い

★六角高頼
  ●戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討
  ●京極の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い
  ●家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

★六角義治
  ●名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動
  ●信長の上洛を阻む六角承禎…観音寺城の戦い

★六代(平高清)
  ●生きさせては貰えなかった平家の嫡流・六代

★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「れ」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「れ」です。

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・・・・・・・・・・・

★霊誉玉念
  ●信長の命で行われた法華宗VS浄土宗の安土宗論

★霊仙院(千代姫)
  ●将軍家から尾張へ…生涯姫君だった千代姫

★蓮乗
  ●越中一向一揆~蓮乗VS石黒光義

★蓮如
  ●浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略
  ●吉崎に道場を建立
  ●吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」
  ●まさに最初の加賀一向一揆~文明一揆
  ●本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇
  ●元祖イクメンで女性ファン多し~本願寺蓮如
  ●親鸞聖人のご命日~本願寺門徒は一向宗じゃない

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「る」から始まる歴史人物

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典「る」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★ルイス・フロイス
   ●信長とキリスト教~彼は神になろうとしたのか?
   ●安土城・炎上

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「り」から始まる歴史人物

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「り」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・・・

★李鴻章
  ●下関条約締結で日清戦争・講和成立

★李舜臣
  ●文禄の役・釜山上陸

履中天皇
  ●
カノジョ寝撮られ放火され…ゴタゴタ即位の履中天皇

★龍造寺家兼
  ●田手畷の戦い~佐賀の鍋島・下克上の幕開け
  ●北九州の覇権を廻って…少弐氏と龍造寺氏

★龍造寺隆信
  ●少弐冬尚の自害で少弐氏が滅亡
  ●鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い
  ●肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈
  ●沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因
  ●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

★龍造寺高房
  ●佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相

★良寛
  ●やるね!良寛~70歳のラブソング

★良源
  ●延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源

★了源
  ●刺客に襲われて命を落とした僧・了源

★両面宿儺
  ●異形の怪物・両面宿儺の正体

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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歴史人物辞典~「ら」から始まる歴史人物~

 

このページは、人物名から目的のページを探せるようにと作成した『歴史人物辞典』「ら」です。

*お探しの方の名前が無い場合は、右サイドバーの検索ボックスで検索してみてください・・・意外な所に意外な方が登場しているかも・・・
*左サイドバーに、お楽しみメニューとして表示しておきますので、時々、気になる人をチェックしてみてください。

・・・・・・・・・・

★ラース・ビハーリー・ボース
  ●インド独立に貢献したボースと頭山満

★頼山陽
  ●鞭声粛々の作者・頼山陽
  ●「鞭声粛々…」~革命の思想家・頼山陽の死

★雷電為右衛門
  ●史上最強力士・雷電の意外な本業は?

★ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
  ●小泉八雲=ラフカディオ・ハーンの見たものは…

 
★「歴史人物辞典」の目次へ>>

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2008年8月 3日 (日)

第五次・川中島の合戦~塩崎の対陣

永禄七年(1564年)8月3日、甲斐武田信玄越後上杉謙信の間で繰り広げられた、川中島の戦いの第五回目川中島の合戦~塩崎の対陣が勃発しました。

・・・・・・・・・・・

有名な川中島の合戦は全部で5回あり、その中で一番激しい合戦だったのが、鞭声粛々でお馴染み、永禄四年(1561年)9月10日の第四次・川中島の合戦~八幡原の戦いでした(9月10日参照>>)

結果的には、引き分けに終ったものの、信玄はこの4回目の合戦で、信頼をしていた弟の信繁と、名軍師の山本勘助を失うという大きな痛手を被っていました。

それから三年・・・

謙信は、前回の第四次・川中島の直前に、上杉憲政(のりまさ)から関東管領職を譲られていたのですが、結果的にこの事が謙信の足かせとなってしまいます。

確かに謙信は、義の人・・・
第一次と第二次の間、第三次と第四次の間の二回に渡っての上洛を果たし(4月27日参照>>)戦乱平定の勅命(ちょくめい=天皇の命令)や内示を受けているのも、信濃への進攻を繰り返す信玄は悪であり、それを倒す正統な大義名分が、謙信には必要だったからです。

自らが正義でないと、謙信は戦わないのです。

そんな謙信にとって、関東管領職は、まさに、幕府公認の大義名分なわけですが、その関東管領が、本来、支配しなければならない関東には、今のところ実力でその地を支配する北条氏がいるわけで、結局、謙信は信玄に加えて北条とも戦わなければならない事になってしまったわけです(6月26日参照>>)

そんな中、永禄七年(1564年)、信玄は、陸奥南部(福島県)芦名盛氏(もりうじ)「関東に出陣中の謙信の背後を突いて欲しい」と要請し、その間に信濃(長野県)越後(新潟県)の国境付近にある上杉方の城砦を攻撃しはじめるのです。

自国が危なくなった謙信は、たまらず関東での北条との戦いを捨て、越後へと帰るのですが、これこそ義の人=謙信にとっては、許し難い行為で、この時の謙信さん・・・かなり怒ってます。

この年の5月~7月にかけて、『武田晴信(信玄)悪行之事』と題する願文を各地の寺社に奉納して、「必ず撃退する」と、信玄追討の決意をあらわにしています。

そして、同じ年の7月末・・・態勢を立て直した謙信は、信濃の善光寺平(長野盆地)に進撃、一方の信玄も、信濃の塩崎(長野市篠ノ井)に陣を敷きました。

いよいよ永禄七年(1564年)8月3日、謙信は、さらに川中島まで進み、武田方の海津城(長野市)の間近へと迫ります。

もちろん、これは、信玄を川中島へ誘い出すためで、三年前のあの時と同じです。

しかし、信玄は、その誘いに乗らず、塩崎から動こうとしません。
やはり、前回の合戦に相当なショックを受けていたのでしょうか?

かと言って謙信のほうも、積極的に攻撃を仕掛ける事はなく、両者は、一里(約4km)を挟んで、60日間ものあいだ、にらみ合いを続けます

そうです。
この第五次・川中島の合戦が塩崎の対陣と呼ばれるのは、にらみ合いだけで、戦う事が無かったからなのです。

結局、10月1日に、謙信が先に越後へ引き揚げ、続いて信玄も兵を退く事で、この戦いは終りました。

この5回目の戦いで、12年に及んだ川中島の合戦に終止符が打たれる事になるのです。

もちろん、この後も、謙信が戦う事になる関東の北条、北陸の一向一揆の背後には、信玄の影がちらついてはいますが、直接対決は今回で最後・・・

この一連の合戦が引き分けに終ったのは、やはり、謙信と信玄の軍事力が、ほぼ同等にあった事・・・そして、この一連の合戦が、ここで終了するのは、謙信・信玄ともに重要なライバルが出現してきた事にあるでしょう。

それは、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)今川義元を倒した織田信長・・・

謙信と信玄が肉薄した軍事力で一進一退を繰り返しているうちに、そのおとなりで、最も天下に近い場所に躍り出てしまった若手を何とかしなくては・・・。

時代は、次世代へと動き始めました。

この後、謙信は北陸で信長配下の柴田勝家(9月13日参照>>)
信玄は、信長と同盟を結んだ徳川家康(三方ヶ原の戦い・参照>>)と相まみえる事になります。

*参照*

  • 第一次・更級八幡の戦い>>
     天文二十二年(1553年)4月22日日
  • 第一次・布施の戦い>>
     天文二十二年(1553年)9月1日
  • 第二次・犀川の戦い>>
     弘治元年(1555年)7月19日~閏10月15日
  • 第三次・上野原の戦い>>
     弘治三年(1557年)8月29日~10月
  • 第四次・八幡原の戦い>>
     永禄四年(1561年)9月10日
  • 第五次・塩崎の対陣>>
     永禄七年(1564年)8月3日~10月1日
     .
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    2008年8月 2日 (土)

    涼を呼ぶ松花堂の水琴窟~その音色は?

     

    本日は、暑い夏に涼を呼ぶ涼しげな音を奏でてくれる水琴窟(すいきんくつ)をご紹介させていただきます。

    ・・・・・・・・・

    四季折々の美しさを見せてくれる日本庭園・・・。

    それは、計算されつくしたその手法で、人工的でありながら自然の素晴らしさを満喫させてくれる世界に誇れる日本の芸術です。

    春は咲き誇る花々・・・
    秋は染まりゆく紅葉・・・
    冬は透き通るような雪景色・・・

    そして、夏は、池や小川の水面に涼を求めて・・・

    そんな中、日本庭園には、音を楽しむ・・・という趣向も凝らされています。

    よくご存知の鹿威し(ししおどし)もそうです。

    Sisiodosicc 鹿威しは、その名の通り、もともとは、水力で自動的に音をたてる事によって、田畑に被害を与える鳥獣を脅して、追いはらうための装置でしたが、今は、その風流な音を楽しむために、日本庭園に用いられています。

    あのポンッ!という音は、脅かされるどころか、とても落ち着きのある響きですよね。

    一方、水琴窟最初から音を楽しむための装置として、江戸から明治にかけて盛んに造られた庭師の技術のすいを集めた物・・・その音は、とても涼しげで、こんな暑い夏にはぴったりの、心地よい音色です。

    私も、何年か前に某テレビ番組で「水琴窟を作ってみたい!」という視聴者の依頼に、タレント探偵が庭師さんなどに話を聞き、四苦八苦しながら作ったのを見て、その存在は知っていたのですが、なかなか本物を見る事ができずにいたのですが・・・ありました。

    京都は八幡松花堂庭園・・・

    Syoukadouteiencc 松花堂庭園
    くわしい行きかたは本家HPで紹介しています・・コチラからどうぞ>>

    松花堂庭園は、江戸時代の初期・・・寛永文化華やかなりし頃、書画や茶の湯・和歌に秀でて、当時の文化人の中心人物として活躍した松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)の趣味・嗜好を、現代に引き継いだ名園です(4月2日参照>>)

    そして、昭和の初めに吉兆の創始者である湯木貞一さんが、この松花堂にて、昭乗さんが小物入れや絵具箱などに使っていた四つ切の箱を見て、それをヒントに懐石弁当を考案・・・今や、小さく仕切られた中に、様々なおかずの入ったお弁当を松花堂弁当と呼ぶのは、ここが発祥の地だからなのです。

    そんな松花堂庭園の一角にある水琴窟・・・

    Suikinkutuzucc そのしくみは・・・
    まずは、水の流れるつくばいがあり、その近くに壷やかめをさかさまにして地中に埋め込みます。

    すると、つくばいから流れた水が、壷の底に開けた穴から少しずつ落ち、その水滴の音が壷の中で反響して、独特の音色をかもし出す・・・というわけです。

    Suikinkutucc 松花堂庭園の場合は、手前に竹が差してありましたが、これは、水琴窟の音がよく聞こえるように差してある物で、この竹のところに耳をあてると、ホント、よく聞こえます。

    水琴窟には、この竹がない物もありますが、内部は、おおむね上記の図のようなしくみになっています。

    よろしかったら、その音も聞いてみて下さい・・・

    チョロチョロ・・・という、つくばいの水の流れる音に混じって、キン!ともピン!とも聞こえる涼しげな音が水琴窟の音です。

    暑いと言えど、クーラーばかりじゃ身体に悪い・・・
    水琴窟の音色とともに、自然の風で涼をとるのも、また一興です~。
     .

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    2008年8月 1日 (金)

    家康はなぜ?江戸城を選んだか

     

    天正十八年(1590年)8月1日は、徳川家康豊臣秀吉の命により、関東に入国した日・・・『江戸御打ち入り』の日です。

    ・・・・・・・・・・・

    もちろん、実際には、もう少し前から関東入りしていた家康さんですが、一昨年書かせていただいたように、この日が『八朔(はっさく)(2006年の8月1日参照>>)という豊穣の祝日だった事で、キリの良い8月1日を記念日=入国セレモニーの日と定めたわけで、後に徳川が政権を握った江戸時代を通じて、この8月1日が『江戸御打ち入り』の日と呼ばれるようになります。

    ところで、この徳川家康の江戸入りは、あの小田原征伐の後の論功行賞(7月13日参照>>)で、滅亡した北条氏の治めていた関八州を、豊臣秀吉が家康に与えた事で、家康は、北条氏の支城であった江戸城を本拠地とする事に決め、この日の江戸入りとなったわけですが、これには、家康が・・・というより、譜代の家臣団にとって、相当なショックだったようです。

    何と言っても、父の代から三河(愛知県)に根をはり、武田今川の抗争に乗じて、駿河・遠江(静岡県)を手に入れ、織田信長亡き後に、秀吉が天下へとまい進する影で、甲斐(山梨県)信濃(長野県)を自力で切り取り、五ヶ国の大大名に成長していたにも関わらず、それを、まるまる捨てて、まだ未開発の関東への転封となるわけですから・・・。

    「それなら、せめて、居城を難攻不落の小田原城にしたい」
    それは、家臣団だけではなく、ひょっとしたら家康自身も、そう思っていたかも知れません。

    小田原は、その城下町をも含めた城塞都市・・・城は天下に聞こえた名城です。

    多少の攻防戦はあったものの、結果的には、北条氏直による降伏の申し入れで、ほとんどダメージを受ける事なく開城されています(7月5日参照>>)から、前年に駿府城を完成させたばかりの家康のホンネは、ほぼ手入れなしでOKな、この名城がよかったのかも知れません。

    また、家康が『吾妻鏡』を愛読し、自らを源頼朝の再来と位置づけていた事から、本当は、鎌倉を本拠地にしたかったのではないか?との見方もあります。

    しかし、家康は江戸を選びました。

    もちろん、それには、論功行賞の時に書かせていただいたように、秀吉の・・・
    「江戸っちゅーとこに、居城を構えたほうがえぇで」
    という言葉に、気をつかったという事もあったのかも知れませんが、あくまで最終決断を下したのは家康本人です。

    ひょっとしらた、そこには家康の、将来を見据えた大いなる構想があったのかも知れません。

    目の当たりにしてきた足利氏の衰退・・・そして信長と秀吉の生き様・・・。
    そこには、それらの人々に関与する朝廷の影が見え隠れします。

    政教をきっちりと分離し、自らが王になろうとした信長でさえ、ギクシャクしながらも天皇との関係を密にしていましたし、農民出身の秀吉などは、なりふりかまわず関白の座を手に入れました。

    それを見てきた家康は、朝廷に左右される事のない、新たな武家政権を造ろうと考えたのではないでしょうか?

    それには、天皇のおわす京の都に匹敵するような、幕府を置くための大きな都が必要となります。

    小田原城は、すでに出来上がった難攻不落の名城・・・。
    鎌倉もすでに出来上がったいにしえの都・・・。

    その点、江戸は、広い関東平野を有する未開の地・・・オソマツな江戸城は、この先いくらでも改築できますし、まわりにある小さな漁村も、いくらでも開発ができます。

    確かに、この時点で家康が300年の長きに渡る政権を見越していたとも思えませんが、少なくとも、朝廷と距離を置く事で、「足利氏や信長・秀吉の轍を踏まない」と考えたのではないでしょうか?

    家康が、京都に構築を開始した二条城(5月1日参照>>)・・・それは、主に、朝廷に睨みをきかすためと、将軍が上洛した際の宿泊所とするために建てられたわけですが、その二条城には、それを完成させた3代将軍・徳川家光から、次に訪れる幕末期の14代将軍・徳川家茂まで、230年間の長きに渡って、将軍が入城する事がなかった事を考えると、やはり、結果論ではありますが、朝廷と距離を置く事が、長期政権の鍵だったのではないでしょうか?

    果たして、家康は、その居城に、江戸城を選んだのか?選ばされたのか?

    ご本人の心の内は、想像するしかありませんが、少なくとも、家康が江戸城を居城とした事で、この先の江戸時代という時代が・・・、そして、世界一の大都市である江戸という町が生まれた事は確かです。
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