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2008年8月 6日 (水)

意外に快適?八丈島での宇喜多秀家

 

慶長八年(1603年)8月6日、関ヶ原の合戦で敗走し、薩摩の島津家久のもとに身を寄せていた宇喜多秀家が、京都・伏見に護送されました。

・・・・・・・・・・・

備前(岡山県)岡山城主であった父・直家が亡くなり、宇喜多秀家(うきたひでいえ)が家督を継いだのは、わずか10歳の時でした。

幼くして家督を継ぐ息子を心配した父は、死のまぎわに、息子の後見を豊臣秀吉に託したのです。

子供がいなかったため、親友の前田利家の娘・豪姫を養女にしていた秀吉は、その豪姫と秀家を結婚させ(5月23日参照>>)まるでわが子のように面倒をみていたようです。

乱世の梟雄(きょうゆう)と呼ばれた父・直家と違って、秀家の性格はかなりノホホンとしたお坊ちゃんだったようですが、性格は大らかでも、彼は、なかなかの戦上手・・・四国征伐小田原攻めでも大活躍し、朝鮮出兵でも武功を挙げて、やがて、五大老の一人として名を連ねるまでになりました。

そして、今度はその五大老として、秀吉から、その死のまぎわに、幼い息子・秀頼将来を託される事になるのです。

やがて起こる関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で、彼を、徳川家康側の東軍へと誘う細川忠興に対して、きっぱりと断るだけでなく、忠興の事を裏切り者と批判するのも、やはり、幼い頃に受けた秀吉のやさしさに恩を感じていたからではないでしょうか。

その豊臣への忠誠心を示すかのように、関ヶ原では西軍の副将として奮戦する秀家でしたが、ご存知のように、合戦は東軍の勝利に終ります

合戦のドサクサで、伊吹山の山中へと逃げ込んだ秀家は、その後、島津家久を頼って、薩摩(鹿児島県)へと逃れたのでした。

しかし、彼ほどの武将・・・そのまま隠し通せるはずもありません。

ほどなく、秀家が薩摩にいる事が噂となって家康の耳に届く頃、意を決した家久は、自ら、秀家の事を家康に報告し、彼の奥さんの実兄である前田利長とともに、助命を嘆願したのです。

そして、慶長八年(1603年)8月6日、未だ家康の心中のわからぬまま、秀家は京都・伏見へと護送されました

結局、島津と前田の後押しが効いたのか、何とか、死罪は免れた秀家・・・一旦、駿河(静岡県)久能に幽閉された後、息子二人とともに、八丈島への流罪が決定します。

「鳥もかよわぬ八丈島」・・・江戸時代には、島流しの定番となる八丈島ですが、実は、八丈島への流人第一号は、彼、秀家なのです。

34歳で、八丈島に流され、それから50年間に渡って流人生活を送る秀家さん・・・八丈島の幕府代官に招かれた時、食事をごちそうになった彼は、2杯おかわりをし、3杯めは、てぬぐいに包んでふところへ・・・

「こんないい食事は島では食べられないから、家の者に持って帰ってやろうと思って・・・」なんて、涙を誘う逸話も残っていて、さぞかし、坊ちゃん暮らしだった彼には、苦悩の流人生活だった事でしょう。

・・・と、思いきや、意外に快適な島暮らしだったという話もあります。

なんせ、奥さんの実家は、加賀百万石の前田家です。

島に流されるにあたって、嫁の豪姫は実家へと戻るのですが、夫・秀家には家人をつけ、息子二人には乳母をつけ、専属の医師までも同行させたのは、すべて彼女の指示・・・

しかも、その後も前田家は、二年に一度の間隔で、金銀や米・食糧・衣服をはじめ、医薬品までもを送り続けているのですが、その前田家の仕送りは、秀家が84歳で亡くなるまで・・・どころか、徳川幕府が崩壊する明治まで続けられているのです。

これには、父の利家が遺言として「五大老の一人として豊臣家を守れ」と言い残した(8月8日参照>>)にも関わらず、徳川についてしまった利長の罪滅ぼし・・・という話もありますが、私としては、あの真田昌幸信幸親子と同様の(7月21日参照>>)「どっちへ転んでも生き残り作戦」のような気がしてなりません。

前田家の場合は、利長の弟・前田利政も、西軍を表明して関ヶ原には行きませんでした。

東軍・西軍、どちらが勝っても良いように、「勝ったほうが負けたほうを末代まで援助する」という約束事ができていたのかも知れません。

もちろん、先に書いた豊臣への忠誠心もウソではありません。

いや、ひょっとしたら利長にも、豊臣への思いがあったのかも知れません。

しかし、その心情とはウラハラに、風が家康に向いていると判断した利長が、前田家生き残りのために、代表として家康に味方した・・・というような気がします。

もう一つ、秀家さんの八丈島での暮らしが、意外に快適だったのではないか?という事を裏付ける話として、島民との交流があります。

先にも書きました通り、備前での秀家さんはかなりの坊ちゃん暮らし・・・当時の坊ちゃん暮らしとなれば、最高水準の教育を受けているわけですが、その知識を惜しみなく島民たちに与えて、八丈島・島民の知的水準がかなり上がったという噂もあります。

いずれにしても、明暦元年(1655年)の11月20日の84歳まで、当時の平均寿命をはるかに越える年齢を真っ当されたのですから・・・

確かに勝者としての殿さま暮らしという風にはいかないでしょうが、かと言って、せっぱつまった非常な暮らしをしていたのではないような気もしますね。

いや、そうであってほしいなぁ・・・(願望)

家康の敵に回ったというだけで、人として罪を犯して島流しされたわけではないのですから、是非とも、秀家さんには、快適な暮らしをしておいていただきたいと思います。

・・・でないと、いっしょに行かされる乳母や医者も、たまったもんじゃありません。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

Wikipediaソースですが、忠恒が家久を名乗ったのは1606年ですよ。

投稿: | 2008年8月 6日 (水) 11時13分

ご指摘ありがとうございます。

家久さんは、このページでは主役ではないので、知られた名前のほうを表記させていただきました。

このブログでは、歴史が初めてのかたにもわかりやすいようにと、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、真田幸村・・・等々、名前がその日のテーマの重要なポイントになる時以外は、基本的に一番有名な名前(有名な名前というのも、個人的主観ではありますが…)で表記させていただく事が多々ありますので、その点をご理解いただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2008年8月 6日 (水) 23時34分

待ってました!秀家さんですね。
八丈島へ流された秀家さんは、妻の豪姫が見送ったんですね。
豪姫は確か前田利家の4女やと思いますね。


ちょうど、私のブログに6月10,11,13日記事の八丈島での豪姫のイラストがあります。
八丈島はホンマに暑いかもね。

投稿: sisi | 2008年8月 7日 (木) 00時31分

sisiさん、コメントありがとうございます。

たぶん、四女であってるとおもいます・・・自信はありませんが・・・

>八丈島はホンマに暑いかもね。

暑いと思えば苦痛かも知れませんが、南国の楽園と解釈すれば、意外と快適かも・・・ですね。

投稿: 茶々 | 2008年8月 7日 (木) 10時31分

岡山城に行ってきました。そこで宇喜多秀家のことを知り、八丈島へ送られた後の生活を知りたいと思って探していました。
私も、今の平均寿命より長く生きていたのだから、それなりに良い生活ができていたんだろうと思いたいです。
良いお話、ありがとうございました。

投稿: おすぎ | 2011年7月13日 (水) 21時53分

おすぎさん、こんばんは~

>それなりに良い生活ができていたんだろうと思いたいです。

やっぱり、そう思いたいですよね~

ご訪問ありがとうございましたo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2011年7月14日 (木) 01時45分

宇喜多秀家が、関ヶ原の合戦後に、八丈島へ島流しにされて、最終的には、84歳の生涯を閉じたことを考えると、秀家は、どんなことを生きる糧にしていたのか、興味が沸いてきますし、2代将軍の徳川秀忠&3代将軍の徳川家光よりも長生きしたことがすごいですね。あと、秀家が、義兄の前田利長や島民らの支援で、生活できたのは、秀家のことが哀れに思ったのかもしれません。

投稿: トト | 2016年7月 1日 (金) 08時00分

トトさん、こんにちは~

哀れ…というよりは、今で言うところの政治犯か、政権を握れなかった野党みたいな感じでしょうかね?

さらに、前田家と秀家とは「東西に分かれて勝った側が負けた側を支援する約束」ができていたでしょうし…
利家は、秀家と同様に西軍についた弟の利政>>にも支援を送り続けていますから…

投稿: 茶々 | 2016年7月 1日 (金) 15時56分

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