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2008年9月30日 (火)

箕輪城落城~あの新陰流・誕生の影に・・・

 

永禄九年(1566年)9月30日、武田信玄の攻撃を受けていた箕輪城が落城し、長野業盛が自刃・・・長野氏が滅亡しました。

なお、箕輪(みのわ)の落城には、その文献によって永禄四年または六年または八年・・・と諸説あり、また、日付も9月29日とする場合もありますが、今回は永禄九年の9月30日とさせていただきました。

・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)武田信玄が、越後(新潟県)上杉謙信と、一連の川中島の合戦(8月3日参照>>)を繰り広げていた永禄のはじめ頃・・・信玄は同時に、この上野(こうずけ・群馬県)にも、再三再四の進攻を繰り返していました

当時、この上野西部に位置する箕輪城の城主だったのは、長野業正(なりまさ)・・・関東屈指の智将です。

しかも、その家臣には、武芸の誉れ高い、上泉信綱(かみいずみのぶつな)疋田景兼(ひきたかげかね)といった面々が控えており、さすがの信玄も攻めあぐねていたのです。

そんな上野箕輪城・・・永禄四年(1561年)11月22日に、城主・業正が病死してしまいます。

その後を継いだのは、嫡男の長野業盛(なりもり)・・・わずか14歳で家督を継ぐ事になった業盛でしたが、なかなかどうして、彼も父に似て、かなりのキレ者で、しかも武勇にも優れた武将でした。

業正の死後まもなく、その死に乗じて信玄が攻めてきた時も、信綱らの補佐を受けながら、見事、撃退しています。

しかも、その彼らが守る箕輪城は、複雑な地形の天然の要害の上に構築され、徹底した補強が繰り返されている難攻不落の城でした。

しかし、いくら難攻不落の城に若き智将と言えど、相手は、天下にも手をかけんばかりの勢いの信玄です。

再三再四にわたる攻めは、徐々に彼らの勢力範囲を狭めていき、逆に、信玄の包囲は、じわじわと強くなっていきます。

次第に孤立していく箕輪城・・・やがて、永禄九年(1566年)9月信玄が2万の大軍で、この箕輪城の包囲を固めた頃には、城内に残る城兵は、わずか2百ほどになっていたのです。

9月27日武田軍は総攻撃を開始します。

少ないながらも死力を尽くして戦う長野勢・・・しかし、これだけの多勢に無勢では、いかんともしがたい・・・

総攻撃が開始されて3日目の永禄九年(1566年)9月30日・・・業盛は最後の戦いに挑みます。

自らが、先頭に立ち、城門から撃って出て、敵の真っ只中に躍り込んで奮戦する業盛・・・。

その数の少なさゆえ、敵に大ダメージを与える事は不可能でしたが、予想以上の混乱を招き、一矢報いた形に満足した業盛は、再び城に戻り、本丸の北側に位置する曲輪にて自刃を遂げました・・・享年19歳。

若き智将は、信玄という大きな壁に押しつぶされ、ここに、戦国大名としての長野氏は滅亡しました。

ただし、家臣とともに脱出した2歳の息子が、後に井伊直政の家臣となったという事なので、血筋は残った事になりますが・・・。
 

ところで、ここで主君の自刃を見送った武芸に優れた二人の忠臣・・・上泉信綱と疋田景兼。

業盛亡き後、主君に習って城外へ撃って出ようとしますが、武田方に説得され、まもなく箕輪城を開城して降伏します。

その腕を見込まれて、「武田の家臣にならないか?」との誘いを断り、彼ら二人は、ともに、以前から極めたいと思っていた兵法の修行に専念するための旅に出るのです。

武者修行で諸国を巡るうちに身に着けた念流・陰流・神道流・・・これらの剣術を踏まえて、信綱は新たな流派を起こします。

その名は、新陰流・・・(1月16日参照>>)

信綱の弟子の柳生宗厳(むねよし)の息子・柳生宗矩(むねのり)柳生新陰流は、徳川幕府のもとで大きく栄えますので(4月19日参照>>)、ご存知のかたも多いでしょう。

一方の景兼も、やはり信綱の弟子となって新陰流を継ぎ、疋田新陰流と呼ばれるようになり、織田家や豊臣家の指南役となっています(2010年9月30日参照>>)

あの神道無念流も、この新陰流から生まれた事を考えると、新陰流は、後の剣術の発展に大きく影響している事がわかりますが、もし、箕輪城が落城せずに、彼らがずっと長野氏の家臣で、武者修行の旅に出なかったら・・・それでもやっぱり新陰流は誕生したのでしょうか?

いろんな想像をかきたてずにはいられない箕輪城の落城でした。
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2008年9月29日 (月)

「招き猫の日」なので招き猫の由来

 

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」=来る福の語呂合わせで、日本招き猫倶楽部が制定した『招き猫の日』という記念日なのだそうです。

この日は・・・
伊勢神宮「おかげ横丁」
愛知県瀬戸市
熊本県島原市

などで、「来る福・招き猫まつり」が開催されるそうです。

ちなみに、今からお話する招き猫の由来の一つとして登場する彦根では、「い(1)い(1)ふ(2)く(9)」=いい福の語呂合わせで、11月2日~9日に「招き猫まつり」が開催されるそうです。

・・・てな事で、今日は『招き猫の由来』を書かせていただきたいと思いますが、そもそもの由来としては、中国は唐の時代の『酉陽雑俎(ゆうようざっそなる書物に「俗に言はく。猫、面を洗いて耳を過ぐればすなわち客到(いた)る」というのがありますので、もともとの出典は、これなのでしょうが、それが日本に伝わって、その猫の姿を、招き猫という人形にして、置物として飾る事に関しての起源については諸説あります。

まず、一番有名なところでは、東京・世田谷区豪徳寺に残る第2代・彦根藩主の井伊直孝さんの逸話・・・って、第2代藩主は井伊直継(直勝)さんじゃ無かったの?と思いきや、「直継さんは、病弱だったため実権は弟の直孝さんが握っていて、直継さんは藩主に数えない場合がある」のだそうです。

以前書かせていただいた彦根城の人柱の逸話(11月4日参照>>)の時は、元気そうだったんですけどね~まぁ、招き猫とは直接関係ないので、今日のところは、そこンとこのお家騒動はスルーしてお話を進めさせていただきますが・・・。

ある時、その直孝さんが、この豪徳寺の前を通りかかると、門のところで、猫が手招きをして、しきりに彼を呼ぶのです。

不思議に思って、猫に近づき、門の中に入った途端!ゴロゴロド~ンthunderの音とともに、今、立っていた場所に落雷が・・・

急死に一生を得た直孝さん・・・

この猫が、豪徳寺の住職の飼い猫だった事から、この後、豪徳寺は井伊家の菩提寺となって、大きく発展する事となるのです~・・・って、コレ、井伊家に福を招いたんじゃなくて、自分トコの寺に福を招いてるような気がしないでもありませんが、ともかく、この逸話から招き猫が生まれたというもの・・・

そのほかにも、江戸時代の天明年間(1781年~1788年)に両国にあった金猫銀猫という女郎屋の飼い猫が、「顔を洗うたびに客が入る」と評判になり、その猫をモデルにした置物を、店の名前にちなんで金と銀の色に塗って、店先に飾ったのが始まりというのも・・・

また、吉原の伝説の花魁・薄雪太夫の忠猫をモデルに人形を造り、太夫の人気にあやかろうと花街で猫の人形が大流行し、やがて、近くの飲食店や商店に広まっていったという話もあります。

その後、養蚕の敵であるネズミを退治してくれる動物である事から、商店や飲食店だけでなく、農家にも飾られるようにもなったのだとか・・・。

それにしても、その起源も謎ですが、なぜ?これほど全国に、招き猫が普及したのか?というのも、かなりの謎です。

最近でこそ、一般家庭では少なくなりましたが、商店などでは、今でもたくさん見ます・・・
さすがにフレンチ・レストランなどでは見られませんが・・・

信楽のタヌキか、亀の剥製か、というくらい、いや、それ以上に普及してる招き猫・・・しかも、種類も一つじゃありません。

一般的には、左手を挙げたものが客を招くとして商店や飲食店に飾られ、右手を挙げたものが金運を招くとして普通の家庭で飾るのだそうです。

関西では、京都の称念寺が有名で、こちらの招き猫は、色で分かれています。

金色のものが金運を招き、白色のものが福を招き、黒色のものは病気にかからないのだそうです(もはや招いてないゾsweat02

幕末の頃には、座ってる以外にも、ふせた姿勢の招き猫もいたらしいので、また別の何かを招いてくれるのかも知れませんね。

この種類の豊富さは、それだけ、人に身近な動物という事なのでしょう。

古くは遣唐使とともに大陸からやってきた猫・・・(2月22日参照>>)

時には、化け猫として妖怪扱い(9月6日参照>>)されたりもしますが、その妖しい魅力が、何か不思議な事を起こしてくれるような気持ちにさせてくれるのでしょう。

金運招福・無病息災・家内安全・千客万来・・・
一家に一匹福を呼ぶ・・・招き猫は小さな巨人です。

Manekinekocc 久しぶりにイラストを書いてみました~

もちろん、招き猫で・・・

ちょっと欲張って、色んな福が来るように、左手の右手も挙げて、白に黒に金銀も、ぜ~んぶ○

これで、余生は酒池肉林の左ウチワでぃ!
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2008年9月28日 (日)

斎藤一~警察官になっても新撰組魂は消えず

 

大正四年(1915年)9月28日、元新撰組隊士で、後に警察官として西南戦争でも活躍した斉藤一が72歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

以前は、斉藤一(さいとうはじめ・斎藤一)と言えば、新撰組時代の謎多き人物をイメージしたものですが、少年ジャンプに連載されていた人気漫画『るろうに剣心』の中で、維新後の姿が準主役の頻度で登場して牙突しまくってたせいか、最近では、斉藤一が、新撰組なき後、明治新政府のもとで警察官となっていた事は、かなり有名な話となりました。

多くの人物が幕末の動乱の中で命を落す新撰組・・・その中でも、どちらかというと血なまぐささがプンプンする感じのこの人が、後に警察官となって長寿をまっとうするのは、失礼ながら、ちょっと意外な気もします。

江戸にいた頃から、近藤勇の道場に出入りしていた仲間だったとかorなかったとか・・・
途中で、一旦、新撰組を離脱するのは、高台寺党にスパイとして潜入するためだったとかorなかったとか・・・

とにかく、イロイロある人なので、異論・反論多々あろうかとは思いますが、とりあえず、諸説ある中の一つとして、心に留めていただきたく、本日は、新撰組・三番組組長・斉藤一を書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

幕臣の子として江戸に生まれた斉藤一は、若い頃から剣術の腕が立ち、近藤勇(こんどういさみ)の剣術道場・試衛館に出入りしていた時には、すでに無外流の達人でした。

しかし、19歳の時に、誤って人を斬ってしまい、江戸を脱出して京都にいたところ、例のごとく、文久三年(1863年)、浪士組として近藤たちが京都へやってくるわけです。

しかし、これまた例のごとく、集められた浪士組は空中分解して江戸に戻る事になってしまい、それに反発して京都に残ったのは近藤と試衛館の者たち、そして芹沢鴨(せりざわかも)の一派のわずかな人数だけだったため、新たに隊士を募集する事になります(例のごとくのくわしい内容は9月18日参照>>)

斉藤一は、この時に、後に新撰組となる壬生浪士組に入隊するのです。

その後、20歳にして副長助勤という新撰組幹部に抜擢された斉藤でしたが、慶応三年(1867年)3月、新撰組の参謀だった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が、孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえじ・陵墓の守衛)を拝命し、新撰組から脱退して高台寺党を結成した時、ともに新撰組から離脱します。

しかし、その8ヶ月後の11月・・・突然、新撰組の屯所に姿を見せ、「伊東一派による近藤暗殺計画がある」と密告したのです。

早速、その一週間後の18日、近藤らは、伊東を自分の妾宅に招いて、しこたまお酒を飲ませて泥酔させた後、帰宅途中に襲い、その遺体を放置して仲間をおびき寄せ、その仲間たちも斬ってしまうという事件を起こします・・・世に言う油小路の変です(11月18日参照>>)

この油小路の変の発端となった密告を機に、斉藤は新撰組に復帰するので、スパイだったのどうの・・・との噂が流れる事になるわけです。

やがて訪れた戊辰戦争・・・鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)でも、新撰組が甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)となっても最前線で奮戦する彼でしたが、局長の近藤が捕まった(4月25日参照>>)後は、土方歳三(ひじかたとしぞう)らとは別れて会津に残り、やがて会津にて新政府軍と激突する中、斉藤は会津若松郊外の如来堂に布陣します。

多くの者が他の場所に救援に駆けつけて留守となった中、少ない兵で本営を守ってたところ、敵の奇襲攻撃に遭い、混乱の中、如来堂にいた留守番部隊は全員討死に・・・やがて、会津藩は降伏し、鶴ヶ城も開城されます(9月22日参照>>)

しかし、斉藤はまだ、生き残っていました。

新撰組でも一番の剣客だったと言われるあの永倉新八が、「沖田総司と斉藤一はスゴイ」と書き残しでいるくらいなので、やっぱり相当強かったんでしょうね。

決死の戦いの中で命を拾った斉藤は、会津藩が降伏した後も、抵抗を続けようとしますが、藩主・松平容保(かたもり)の説得ですなおに投降し、捕虜となって、他の会津藩士の生き残りとともに謹慎生活を送ります。

一旦、潰されていた会津藩は、維新が成った後の明治二年(1869年)、斗南(となみ)と名を変え、陸奥国(青森県)内に3万石を与えられた事で、斉藤も斗南藩士として、その領地で暮らし、名前を一戸伝八(いちのへでんぱち)と改めます。

その後、旧会津藩主の容保から藤田五郎の名を賜り、やはり容保の仲人で、会津藩士・高木小十郎の娘・時尾(ときお)と結婚します。

やがて、明治四年(1871年)~明治七年に上京した斉藤は、明治政府が元幕府側の者を、警察官として多く採用していたという事もあって警視局(警視庁)に勤務します。

明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(9月24日参照>>)では、最強と言われた薩摩士族に対抗すべく組織された抜刀隊の一員として、新聞に載るほどの大活躍・・・この西南戦争では、旧幕府側出身の警察官たちが、戊辰戦争の時の薩摩への恨みから、大いに奮戦とたと言われていますが、斉藤も、そんな旧幕府側出身の警察官の一人だったのかも知れません。

その後、警部補や巡査部長を経て、警察を退職した後は、博物館の警備をしたり、学校の警備員をしたりもし、やがておとずれた大正四年(1915年)9月28日・・・床の間の上で正座した姿のまま、お亡くなりになったのだとか・・・。
 

その剣の腕一本を武器に、戦の最前線で奮戦するイメージの斉藤さんが、明治の世になって警察官として長生きされた事が意外だと冒頭で書かせていただきましたが、その後半生や死に様を知った今となっては、明治になっても、やはり、幕末の頃と変わりなく、その腕一本を武器に、合戦の最前線で奮戦する武士の姿が垣間見えるような気がします。

るろ剣では、ちょっと悪役っぽかったですが・・・それでも、新撰組魂は抜けてませんでした~
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2008年9月27日 (土)

討幕の先駆け・天誅組~吉村寅太郎の最期

 

文久三年(1863年)9月27日、土佐脱藩の志士で、天誅組を組織した吉村寅太郎が自刃しました。

・・・・・・・・・

天保八年(1837年)、土佐の庄屋の子として生まれた吉村寅太郎(虎太郎・とらたろう)は、父の後を継ぐとともに、学問や剣術にまい進する日々を送っていましたが、剣術の師匠である武市半平太(たけちはんぺいた=瑞山)(5月11日参照>>)の影響で、徐々に、攘夷(外国人排除)思想へと傾きはじめます。

やがて24歳の時、半平太によって結成された土佐勤皇党に参加・・・翌年、その半平太の使いとして久坂玄瑞(くさがげんずい)(7月19日参照>>)と会い、その思想に大いに感化されて土佐脱藩を決意し、坂本龍馬らとともに脱藩します。

藩の誓約に縛られなくなった寅太郎はへと上り、いよいよ志士として活動しはじめたものの、文久二年(1862年)4月23日に起こった寺田屋事件(4月23日参照>>)に関与していたとされて逮捕・・・土佐に護送されて投獄されてしまいます。

その後、尊王攘夷派である長州(山口県)が、度重なる朝廷との接触で力をつけてきた事によって罪が許され、翌・文久三年の2月には、再び京に舞い戻ってきます。

ちょうど同じ頃、上洛していた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、「来たる5月10日を以って攘夷を決行する」という約束を、朝廷と交わしてしまった事から、士気上がる尊王攘夷派・・・一方の寅太郎も、明治天皇の母方の叔父にあたる中山忠光(11月15日参照>>)と知り合った事をきっかけに、攘夷派志士たちとの輪が、ますます広がる事となります。

そして、いよいよやってきた約束の5月10日。

攘夷派の代表格である長州藩が、関門海峡を通る外国船に向かって砲撃を開始・・・下関戦争(5月10日参照>>)が勃発したのです。

やがて8月13日、今度は、久留米の志士・真木和泉守保臣(やすおみ)らの画策により、三条実美(さねとみ)ら攘夷派の公卿たちから、孝明天皇の大和行幸が発表されます。

大和行幸の目的は、時の天皇である孝明天皇が大和(奈良)にある初代・神武天皇の陵に参拝し、攘夷親征(天皇自らが戦争する事)を誓うというのです。

このニュースを聞いた寅太郎は、備前(岡山県)藤本鉄石(てつせき)三河(愛知県)松本奎堂(けいどう)らとともに、先の中山忠光を大将に担ぎ、天皇の大和行幸の先駆けとして、大和に乗り込もう天誅組(てんちゅうぐみ)を結成し、14日に京都を出陣しました。

3日後の8月17日には、大和国五条代官所を襲撃して代官・鈴木源内以下5名を殺害し、その勢いのまま桜井寺に本陣を置き、代官支配の土地を天皇直轄の領地とする事を発表しました・・・世に言う天誅組の変の勃発です。

彼ら天誅組は、まさに、いの一番に討幕の旗を揚げたわけです・・・が、しかし、わずか一日で、その事態は急変してしまいます。

そう、翌日・八月十八日の政変(8月18日参照>>)です。

尊王攘夷派に反対する中川宮(青蓮院宮)朝彦親王を中心とする公武合体派の公家たちが、会津(福島県)薩摩(鹿児島県)と組んで、攘夷派を中央政界から一掃するクーデターを決行したのです。

かの三条実美ら攘夷派の公卿も、長州藩も、京都を追われる事になります。

政治的な後ろ盾を失ってしまった天誅組・・・というか、実は、もともと、彼ら天誅組は、大和行幸の黒幕である真木和泉とも、長州藩とも、まったく関わりの無い別団体

しかも、孝明天皇自身も、考えとしては攘夷派ではあるものの、討幕する気も、武力に訴える気も最初からなく、むしろ過激に走りすぎる長州の攘夷派たちには反対で、大和行幸も、政変のあるなしに関わらず、自らの意思で延期を申し出ていた事が明らかとなり、天誅組は、まったくの孤立状態となってしまいます。

当然の事ながら、彼ら天誅組に向けて、幕府の討伐軍が派遣される事になるわけですが、それに対抗すべく、以前から尊王攘夷派の住民が多く住む十津川郷へと逃れ、そこで、1000人ばかりの兵をかき集め、対立する大和・高取城を攻める彼らですが、もはや坂道を転がり始めた天誅組に、にわか仕込みの素人兵が加わっただけの集団には、プロの戦闘集団に対抗できるほどの力はありません。

結局、高取城での戦いで大敗を喫してしまい、重症を負った寅太郎は、吉野郡鷲家口へと逃れますが、9月に入って、天誅組の看板だった中山忠光に逆賊の詔(天皇の敵である事を天皇自らが発表)が発せられるに至って、もはや天誅組は壊滅状態となります。

そんな中の、文久三年(1863年)9月27日、隠れていたところを、天誅組討伐の命を受けた紀州彦根津藩の兵に見つかり、激しい銃撃を受け「もはや、これまで」と、自刃を決意した寅太郎は、忠光だけを何とか逃亡させ、自ら命を絶ちます。

享年・27歳・・・疾風のごとく駆けた人生でした。

残りの者も、ほとんどが討死するか捕縛され、天誅組は、ここに終焉を迎えたのです。
 

♪吉野山 風に乱るる もみじ葉は
  我が打つ太刀の 血煙と見よ♪
 吉村寅太郎・辞世

逆賊として死んだ寅太郎ですが、明治の世になって名誉回復され、坂本龍馬らとともに官位も送られています。

大和行幸とは、まったく関係がなかった天誅組が、大和行幸の先駆けとして挙兵したのは、義兵を挙げたかったからだとも言われています。

義兵=道義を貫くための挙兵・・・
つまり、世の中に、何が正義であるかを知らしめたかったと・・・

それが、天誅組の最大の目的であったならば、後の世の官位は、寅太郎にとって何よりのプレゼントだった事でしょう。
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2008年9月26日 (金)

京都~萩の名所・梨木神社と源氏物語の廬山寺

 

昨日は、秋の花だよりを追って、京都萩の名所梨木(なしのき)神社へ行ってまいりました~。

そして・・・
ついでにと言っては失礼ですが、梨木神社のお迎えにあます廬山寺(ろざんじ)へ・・・

廬山寺は、以前から何度も、その前を通りながらも、すでに閉門のあとだったり、別の用事があったりで、なかなか中に入れなかったのです。

Nasinokirozantizucc ただ、昨日は欲張って、この後、別の場所へも行き、そこで、エライこと道に迷って右往左往して疲れ果ててしまい、家に帰って、そのまま眠ってしまいましたので、ちゃんとした紹介は、後々、ホームページのほうにupさせていただく事として、本日はとりあえず・・・という形で、少しばかりの写真とともに、ご報告させていただきます。

Nasinokihagi1cc 京都御苑の敷地内と言っても過言ではない場所にある梨木神社は、明治維新の功労者・三条実萬(さねつむ)三条実美(さねとみ)父子を祀るため、明治十八年(1855年)に創建された神社で、三条邸が梨木町にあった事から梨木神社という名前になりました。

Nasinokihagiupcc

Nasinokihagi2cc_2 ここは、京都・屈指の萩の名所で、毎年9月の半ばからお彼岸の頃にかけて、萩まつりが行われ、今回はその直後・・・萩に下げられた短冊は、そのお祭りの時に飾られたものです。

Nasinokimeisuicc また、境内にある染井の井戸は、京の三名水の一つに数えられ、いつも行列のできる井戸として有名です。

 

 

そして、その梨木神社のお向かいにあるのが、廬山寺・・・。

ここは、あの紫式部の邸宅のあった場所です。

Rozanzicc もちろん、平安期の敷地はもっと広く、お向かいのその梨木神社のあたりから、現在の河原町通のあたりまであり、その中の建物が建っていた部分が、現在の廬山寺の建っているあたりなのだそうです。

河原町通は、文字通り、昔は、鴨川の河原だった場所なので、紫式部は、その邸宅から、毎日、すぐ東を流れる鴨川を眺めながら、源氏物語の執筆にあたっていたんですね~。

寺内には、源氏の庭と呼ばれる桔梗の名所のお庭があります。
山難まがら、昨日は、少しシーズンが終ってしまい、チラホラと言った感じですが・・・

Genzinoniwap2cc_3

転勤族だった父親とともに地方に行った幼少の頃はともかく、大人になってからは、藤原宣考との結婚生活や、一人娘の子育てなど、生活のほとんどをこの邸宅で過ごしていたので、おそらく、源氏物語はここで書かれたであろうという事だそうです。

ロマンあふれる、静かなひとときを過ごさせていただきました~。
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2008年9月25日 (木)

シーボルト事件のウラのウラ

 

文政十二年(1829年)9月25日、幕府の禁制品を持ち出そうとしたドイツ人医師・シーボルトに、国外退去・再入国禁止の処分が下されました。

・・・・・・・・・・

当時、長崎出島にあったオランダ商館付きの医者として文政六年(1823年)に来日したドイツ人医師・シーボルト

学校と病院を兼ねた鳴瀧(なるたき)を開きながらも、その学識は医学だけにとどまらず、動・植物学や地理学・自然科学などにも通じ、多くの弟子たちを育てた事で知られ、日本の西洋学の恩人とまで言われます。

そして、シーボルト自身も、全国から教えを請いに来る弟子たちの協力を得て、日本の風俗や歴史・地理・自然などを調査し、それらをヨーロッパに向けて紹介するという事もしています。

そんな彼が、5年間の日本滞在を経て、帰国しようとした文政十一年(1828年)8月10日、その荷物の中に、伊能忠敬の日本地図(9月4日参照>>)が入っていた事で、一大事件となります。

幕府の天文方(てんもんかた)の役人だった高橋景保(かげやす)なる人物が、かねてから欲しかった洋書をシーボルトに譲ってもらい、そのお礼として渡したのが、その地図だったのです。

しかし、地図という物は軍事利用も可能である事から、当時の幕府は海外への持ち出し禁止・・・つまり、ご禁制の品だったわけです。

当然、それを持ち出そうとしたシーボルトにはスパイ容疑がかかり、渡した景保は売国奴として投獄されてしまいます。

シーボルトにしてみれば、あくまで学術的な興味で持ち帰ろうとしたのでしょうが、ご禁制はご禁制・・・で、事件発覚から一年後の文政十二年(1829年)9月25日国外退去・再入国禁止の処分が下されたのです。

ところで、この事件の決定的証拠となったその日本地図が、シーボルトの荷物の中に入っている事、それを渡したのが高橋景保である事を幕府にチクッたのが、あの樺太探検で有名な間宮林蔵(まみやりんぞう)である事は、以前に書かせていただきました(5月17日参照>>)

林蔵は、シーボルトから自分へ送られて来る手紙が、直接、自分に送られてくるのではなく、景保を通じて送られてきた事から、二人の密接な関係に気づき、調べ上げたようです。

なんせ、探検家は仮の姿・・・林蔵の本職は公儀隠密なのですから・・・。

かくして、景保さんはお気の毒にも獄中で病死し(2月16日参照>>)、シーボルトは国外追放!となって、このシーボルト事件も一件落着・・・と、思いきや、何やら、まだ謎があるようです。

・・・というのも、この時期、シーボルト以外にも、ご禁制の品を海外に持ち出した外国人がいないわけではなかったのです。

シーボルト以前にも、何人ものオランダ人が同じような事をやっていながら、幕府はそれらを見て見ぬふりをしていたのに、なぜか、このシーボルトの一件だけは、見逃さなかったのです。

それは、いったい・・・?

実は、シーボルトにかけられた容疑は、スパイ容疑だけではなく、密輸の疑いもかけられていたようなのです。

そして、そこには、もう一人の大物がからんで来ます。

密輸関連で、シーボルトと親しい関係にあったとされるのは、第8代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)・・・彼は、自らもオランダ語を話す事ができたというくらい大変な蘭学好きで、長崎のオランダ商館へも出入りしていましたし、共謀して密輸をするほど親しかったかどうかはともかく、シーボルトとも面識があった事は事実です。

しかも、彼の娘・茂姫は、時の将軍・徳川家斉(いえなり)御台所(将軍の正室)・・・もし、本当に密輸をしていたとしても、なかなか手が出せる相手ではありません。

つまり、このシーボルト事件は、以前から密輸の疑いがかけられていた重豪への牽制ではなかったか?という事・・・親しい関係にあるシーボルトを罰し、もしかしたら共謀して密輸をしているかも知れない重豪をビビらせるのが、幕府の本来の目的であったのかも知れません。
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2008年9月24日 (水)

愚将か?名君か?朝倉義景の汚名を晴らしたい

 

天文二年(1533年)9月24日、越前の戦国大名として君臨した名門・朝倉氏の最後の当主朝倉義景が誕生しました。

・・・・・・・・・

天文二年(1533年)9月24日に、越前(福井県)の名門・朝倉氏の10代当主・朝倉孝景(たかかげ)の長男として、一乗谷(4月11日参照>>)に生まれた朝倉義景(よしかげ)

父の死によって、わずか15歳で11代当主となった時には、まさに朝倉氏が最盛の頃でした。

家督を継いだ当初こそ、一族の名将である朝倉宗滴(そうてき)に支えられたものの、宗滴が亡くなった(8月13日参照>>)弘治元年(1555年)からは、自らが政務をこなすようになりました。

ただ、その人となりとしては、なにかと愚将呼ばわりされている義景さん・・・

その主な理由としては、将軍候補の足利義昭(秋)がせっかく越前に亡命してきているのに、義昭を奉じての上洛というチャンスをみすみす逃してしまい、あっさりと織田信長に横取りされて、先に上洛されてしまった事や、

その後15代・室町幕府将軍となった義昭の呼びかけに答えて武田信玄石山本願寺などによって信長包囲網がしかれていた元亀三年(1572年)の12月に、近江(滋賀県)浅井氏小谷城を囲んだ信長に対して、浅井の救援に駆けつけたにも関わらず、まったく攻撃もせずに帰ってしまった事で、ちょうど三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に勝利して西に向かっていた信玄から「今やったら協力して信長を倒せたのに、アホみたいに帰国してからに・・・全部、水の泡やんけ!」と激怒された事などがあげられます。

また、永禄五年(1562年)の8月21日には、一乗谷の景勝地に公家たちを招いて曲水の宴を開いたりしています。

曲水の宴とは、小川に流れる水に盃を浮かべて、その盃が自分の前に流れて来るまでに詩歌を吟じるという優雅な遊び・・・招かれた公家たちは大いに喜んだと言います。

その翌年の永禄六年の8月23日にも、秋十五番歌合わせを興行したりと、様々な遊びに興じていた事から「文に溺れ、武を忘れた」と揶揄(やゆ)されたりもします。

しかし、これらの遊興は、そこらへんの愚将にありがちな、国内は乱れて一般庶民が苦しんでいるにも関わらず、お殿様だけがノンビリと・・・というのではなく、義景の場合は、それだけ越前の国内が平和だったという事なのです。

永禄五年の曲水の宴の時も、招かれた公家たちは、越前の治安の良さをうらやましがり、「義景はんはたいへんよく治めてはる」褒め称えたというエピソードも残っています。

また、地元・福井の伝説には、当時、米を奪ったり、旅人を襲ったりしていた盗賊の噂を聞いた義景が、その盗賊を諭して改心させたという話もあります。

この盗賊の話が、本当かどうかはともかく、そのような話が、一般庶民の口から口へと伝えられ、今に残るというのは、、少なくとも庶民レベルでも、当時の越前が平和だったという証しではないでしょうか。

そもそも、永禄八年(1565年)に、時の将軍・13代足利義輝松永久秀三好三人衆に殺害され(5月19日参照>>)、命からがら脱出し流浪の身となった義昭が、近江若狭を点々とした後、この一乗谷に転がり込んできたのも、その治安の良さによるものなのですから・・・。

しかし、そんな義昭が、再三に渡って義景に頼み込んだ、「自分を奉じて上洛してほしい」という希望を、義景は断り続けます

・・・で、結局、義昭は上り調子で上洛する気満々の信長に乗りかえる(10月4日参照>>)わけで、それが、先に書いた、まんまと上洛を横取りされる・・・という事になるのです・・・

・・・が、しかし、考えても見てください。

前将軍・義輝を攻めた久秀らが、その後、自分たちの思い通りになる将軍=14代足利義栄(よしひさ)を立てているところに、彼らが殺した前将軍の弟・義昭を奉じて京に乗り込んで行く・・・となると、久秀らとの決戦は必至です。

つまり、義景は、義昭を奉じて上洛する事を躊躇(ちゅうちょ)したのではなく、その時におこるであろう久秀&三好との合戦に勝機があるかどうかを判断したのではないでしょうか?

現在の朝倉の力では難しい・・・それが義景の答えだったのかも知れません。

また、信玄が指摘した信長への攻撃に関しても、越前国内の内政に重きをおいていた義景にとって、国内を揺るがす事にもなる無謀な賭けは避けるべきであり、やはり、勝てない戦はしない・・・という考えが働いたのではないでしょうか?

結局、信玄は上洛する事なく亡くなってしまうわけですし・・・。

さらに、その後、義昭を奉じて上洛し、見事、義昭を15代将軍に立てた信長が、新将軍・義昭へ挨拶に来るように義景に要請するのですが、それを、義景は拒否し続けるのです。

これが、最終的に、信長に越前征伐(8月6日参照>>)の大義名分を与えてしまう事になるのですが、これも、義景の天下を狙う事よりも、内政を優先させる考えからでしょう。

ただし、この最後の上洛拒否には、もう一つ、彼のプライドも関わっています。

もともと尾張・越前の守護大名だった斯波(しば)の被官だった朝倉氏と織田氏・・・しかし、朝倉が直臣であるのに対し、織田は陪臣(ばいしん・家臣の家臣)

信長の奉じた将軍への挨拶は、イコール信長の下につくという事でもあるため、「格下の者の配下になれるか!」となったわけですが、彼が、愚将ではなく、内政に長けた名君であるなら、それなりのプライドを持っていた事も、別にカッコ悪い事ではありません。

結果から言えば、朝倉氏最後の当主となってしまった義景ですが、一般的に思われているような、遊びに興じた愚将ではなく案外、誇り高き名君であったのかも知れません。
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2008年9月23日 (火)

戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗

 

慶長五年(1600年)9月23日、関ヶ原の合戦に敗れて逃走し、京都に潜伏していた安国寺恵瓊が捕らえられました。

・・・・・・・・・・

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、幼名・竹若丸・・・源頼義を祖に持つ安芸(あき・広島県)の名族・武田信重の子として生まれました。

あの武田信玄とは、9代前の信武の時に枝分かれした同族です。

しかし、当時、中国地方で一大勢力を築いていた大内氏に攻められ、父は自害・・・武田氏も滅亡してしまいます。

その時、まだ、4~5歳の幼児だった恵瓊は、家臣たちに守られて脱出し、安芸・安国寺(不動院)に逃れ、その安国寺にて出家する事で、何とか命救われる事となりました。

やがて、京に上り、臨済宗の総本山・東福寺にて禅の修行にはげみ、35歳で安国寺の住持(住職)となり、やがて東福寺や南禅寺の住持にもなり、さらに中央禅林最高の位にもつきますが、幼い頃に保護された安国寺の住持だけは生涯に渡って努めていたので、安国寺恵瓊と呼ばれます。

修行時代の多くを京都で過ごした恵瓊が、天正元年(1573年)の秋に書き記したという文が残っています。

その天正元年という年は、夏に織田信長越前(福井県)浅井氏近江(滋賀県)朝倉氏を滅ぼす(8月27日参照>>)という出来事があった年・・・まさに信長が上り調子真っ只中の年だったのですが、恵瓊は、信長と当時まだ出世途中だった秀吉について書き残しているのです。

「信長の時代は3~5年くらいはもつやろな。
来年くらいは公家をもしのぐ勢いになるやろけど、その後は高いとこから仰向けに転がり落ちるような事になるやろ。
藤吉郎
(豊臣秀吉)は、なかなか見どころのあるやっちゃ」

果たして、恵瓊の予想通り(年数はちょっとズレましたが・・・)その10年後に信長は本能寺で死に、秀吉は天下を握りました。

まだまだ、大いに神仏に依存していた当時の人たちから見れば、僧侶である彼のこの言葉が、占いや予言の類に聞こえたかも知れませんが、現在の私たちには、その言葉が、単なる予想ではなく、彼のスルドイ観察力から導き出した根拠のある見解だという事がわかりますよね。

そんな、彼の優秀さを見抜いていた人が、この戦国の世にもいました・・・恵瓊の生涯の師である恵心です。

その恵心に帰依していたのが、あの大内氏を滅ぼして中国一帯に勢力を伸ばしてきた毛利氏元就(もとなり)(4月3日参照>>)・・・その関係から、恵心を通じて、恵瓊は毛利氏の外交担当に抜擢されるのです。

現在もそうですが、とかく外交というのは難しい・・・できれば、その交渉には敵対する両者の利害に関わらない人が行うのがベストなわけで、俗世間から離れた立場にある僧侶という中立の人物がうってつけだったわけです。

ただ・・・皮肉な事です。
実は、冒頭で、“武田氏は大内氏に滅ぼされた”と書きましたが、実際に父を死に追いやったのは、当時まだ大内氏の傘下にあった元就なのです(10月22日参照>>)

恵瓊に葛藤はなかったのでしょうか?
それとも、大役を紹介してくれた師の面目を潰さないためなのでしょうか?

その心の奥深くはわかりませんが、とにかく恵瓊は、その毛利氏の対外交渉を一手に引き受け、その手腕を発揮する事になります。

そんなこんなの天正十年(1582年)、彼の転機が訪れます。

信長の命を受け、中国平定に遠征してきた羽柴(豊臣)秀吉が、備中・高松城水攻めを開始(4月27日参照>>)します。

知らせを聞いて援軍に駆けつけた毛利の両川・吉川元春(元就の次男)小早川隆景(元就の三男)も、湖中に浮かぶ高松城になすすべもなく、長期戦に入った籠城戦の交渉は、恵瓊をもってしても難航を極めるのですが、その交渉中・・・あの能寺の変が勃発(6月2日参照>>)するのです。

主君の仇を討って、家臣団から一歩抜きんでるためにも、一刻も早く、畿内へ戻りたい秀吉は、それまで譲らなかった毛利の領国の割譲を、あっさりと後回しにし、とにかく高松城主・清水宗治(むねはる一人の自刃のみで和睦する事に方向転換・・・。

その変わり身の向うにどんな思惑があるのかを、恵瓊は、すでに、気づいていたのかどうか・・・ともかく、その後の交渉はトントン拍子に進み、6月4日に和睦が成立(6月4日参照>>)、そして、ご存知の中国大返し(6月6日参照>>)山崎の合戦(6月13日参照>>)と、こなして、秀吉は、見事に信長の後継者の位置をキープする事となったのです。

さて、残るは、領国に関しての和睦交渉・・・翌月、秀吉に会いに行った恵瓊に、秀吉は、伯箒(ほうき・鳥取県中部)備中(岡山県)美作(みまさか・岡山県北東部)の三国をこっちにチョーダイo(*^▽^*)o でないと合戦をおっぱじめちゃうかもよ」と、案の定、領国のの割譲を要求してきたのです。

その後、何度となく行われた交渉で、何とか、吉川広家(元春の三男)毛利秀包(元就の九男)を人質として、秀吉のもとにおく事で、領地を安堵するという条件にこぎつけました。

さぁ、今度は、この条件を持って、毛利氏への説得です。

恵瓊は、毛利氏と秀吉との戦力の差を包み隠さず告げ、合戦になれば、おそらく毛利が負けるであろう事、その経済力においても、全国ネットの秀吉に比べ、現在の毛利は所詮、地方大名である事などを、すべてを失った柴田勝家(4月23日参照>>)などを例にあげて説得し続けるのです。

やがて、天正十三年(1585年)、ようやく和睦が成立します。

その年の12月、恵瓊は小早川隆景をはじめとする毛利の家老たちとともに大坂へ向かい、秀吉と会見します。

秀吉は、平和裏に毛利が傘下となった事を大いに喜び、茶会などを催して毛利の一行を迎えるのですが、その会見の席で・・・

秀吉を前に、毛利の一行は、当然、客人席に・・・
しかし、恵瓊は、その反対となる主人席に着席した
のです。

隆景ら毛利の一行は、この時、初めて、恵瓊が中立の交渉人ではなく、すでに秀吉の家臣となっていた事に気づかされたのです。

人たらしの秀吉と、その秀吉が見込んだ恵瓊・・・

その後の恵瓊は、秀吉のもとで重用され、僧侶の身分のまま6万石の大名という異例の立場となって、豊臣政権下で大いに活躍する事になります。

しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦・・・今度は、その秀吉恩顧が仇となります。

豊臣家第一の立場から、石田三成側についた恵瓊は、毛利輝元(元就の孫)を説得し、西軍の総大将へと押し上げたのです(7月15日参照>>)

しかし、この合戦は徳川家康に勝算ありと見ていた吉川広家は、水面下で家康と通じ、輝元を大坂城から出ないように仕向けるとともに、合戦当日はまったく戦いに参加せず、東軍勝利という結果に大きな影響を与えたのです(9月15日参照>>)

広家が動かず、その後方に位置する毛利秀元も動かなかった事から、結局、恵瓊自身も、戦う事なく関ヶ原を敗走する事になってしまいました。

戦場を脱出した恵瓊は、伊勢近江を経て古巣の京都にて潜伏中に発見され、慶長五年(1600年)9月23日捕縛されるのです。

すでに9月19日に捕らえられていた小西行長(9月19日参照>>)、21日に捕らえられた三成(9月21日参照>>)とともに、10月1日に京都・六条河原にて、恵瓊は処刑されます。

あれだけ、観察力が鋭かった恵瓊が・・・
秀吉への恩からか?
はたまた、大名という立場に浸り過ぎたのか?
彼の心眼では、関ヶ原での家康の器量を見抜けなかったのか?

あの日、元就の刃から、命からがら逃れた幼子は、五十数年後に、再び毛利によって、その人生を狂わされる事に・・・

何やら因縁めいたものを感じてしまいます。
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2008年9月22日 (月)

信長&濃姫の結婚へと向かわせた加納口の戦い

 

天文十六年(1547年)9月22日、尾張の戦国大名・織田信秀が、美濃斉藤道三の居城・稲葉山城を攻めた加納口の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

天文十一年(1542年)、美濃(岐阜県)斉藤道三は、主君であり美濃の守護であった土岐頼芸(ときよりあき)を追放し、美濃一国を手中に収めます(4月20日参照>>)

ご存知、『国盗り物語』でお馴染み・・・上記の4月20日のページでは、この物語は、実際には、親子2代の話であろうという事を書かせてはいただきましたが、どこまで真実かはともかく、一介の油売りから一国一城の主へと出世する道三のお話は、豊臣秀吉『太閤記』と並んで、戦国・下克上の代表格に挙げられる出世物語です。

そんな美濃との境界線を争って、度々、抗争をくりかえしていたのが、隣国・尾張(愛知県・西部)の戦国大名・織田信秀・・・あの織田信長のお父さんです。

信秀は、すでに天文十三年(1544年)9月にも、美濃へと進攻していましたが、戦略に優れた道三に翻弄され、撤退を余儀なくさせられていました(9月23日参照>>)

しかし、それでも美濃への進攻をあきらめない信秀・・・やがて天文十五年(1546年)頃からは、越前(福井県)の戦国大名・朝倉氏の助力を得る事に成功するとともに、先に道三に追放された土岐氏の旧臣や残党たちも織田軍に加わるようになり、一時は美濃大垣城を落すなど、徐々に道三を苦しめるようになっていきます。

そして、翌・天文十六年(1547年)の9月初め、さらに多くの土岐氏の残党を加え、その勢いに勝機を感じた信秀は、いよいよ、本格的に美濃攻略を開始したのです。

天文十六年(1547年)9月22日・・・道三の居城・稲葉山城下への放火を開始した織田軍・・・火は、またたく間に城下に燃え広がり、城下町は陥落寸前となります。

しかし、さすがに道三が築いた難攻不落の稲葉山城・・・城自体はちょっとやそっと落せるもんじゃありませんから、とりあえず本日の成果に満足した織田軍は、夜になって一旦、野営地へ戻ろう兵の引き揚げを開始します。

その時を攻撃のチャンスと狙っていた道三・・・すかさず、付近に潜伏していた兵が、撤収する織田軍に奇襲を仕掛けたのです。

不意を襲われた織田軍は、一瞬にして大混乱となり、われ先に城外へ逃げようと、加納口へと殺到します。

なおも攻撃を続ける道三は、信秀軍を荒田川へと追い詰め、ある者は討死し、ある者は逃げ場を失って川で溺れ・・・信秀は、この河岸で多くの兵を亡くしてしまいます。

この時の織田軍の兵力は、一説には1万とも言われ、この荒田川での死者は、そのうちの半数・・・5千に及んだと言われています。

弟の信康や清洲三奉行の一人・織田稲葉守達広をはじめとする副将クラスの武将も多数命を落とし、まさに壊滅状態となった織田軍・・・信秀自身も、やっとの事で命からがら尾張へ逃げ帰るという状況でした。

この加納口の戦いで、大敗を喫した信秀は、ここで方針を転換・・・道三との同盟を決意します。

この同盟締結に尽力したのが、家老・平手政秀・・・その同盟の証しが、信秀の息子・信長と、道三の娘・濃姫との結婚(2月24日参照>>)だったわけです。

尾張と美濃の同盟関係は、道三が息子・斉藤義龍に討たれるまで続き、道三が亡くなった途端、信長は、『義父の弔い合戦』と称して、美濃への進攻を開始する事になります(8月15日参照>>)
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2008年9月21日 (日)

ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定

 

天正十年(1582年)9月21日、長宗我部元親十河存保勝瑞城を落とし、阿波を平定しました。

・・・・・・・・

天正三年(1575年)7月の四万十川の戦い(7月16日参照>>)に勝利し、土佐(高知県)を統一してルンルン気分の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、その3ヶ月前の5月に長篠の合戦(5月21日参照>>)武田勝頼に勝利して、やはりルンルン気分の織田信長に一声かけていました・・・なんせ、時の一番の権力者ですから、一応気を使っとかないとね。

「この勢いのまま四国を統一しちゃっていいかな?」by元親
「いいとも~(*゚▽゚)ノ」by信長

上機嫌の信長から、四国統一の許可を得た元親は、早速、阿波(徳島)へ進攻を開始、同時に讃岐(香川県)へも出兵して、徐々にその勢力範囲を広げていったのです。

ところが、途中で気が変わった信長さん、
「やっぱ、讃岐と阿波の北半分は三好康長君にあげる~。
長宗我部君は土佐と阿波の南部でガマンしといてよ」

と、言い出し、その先鋒として、康長を阿波北部の勝瑞城(しょうずいじょう)へと送り込みます。

この康長は、もともと阿波の岩倉城主だった人物で、現在は信長の配下となり、河内(大阪府)に領地を与えてもらっている人・・・つまり、信長は完全に四国を自分の配下としようと考えを変えたのです。

もちろん「ハイそうですか」と、納得するわけにはいかない元親は、徹底抗戦する覚悟・・・信長は信長で、三男の神戸信孝(かんべのぶたか)に重臣・丹羽長秀(にわながひで)をつけて、四国に送り込む準備を始めさせます。

これが、天正十年(1582年)の事・・・しかし、今まさに信孝が出陣しようとした直前、ご存知、本能寺の変(6月2日参照>>)が勃発したのです。

信長の異変を知った信孝ら四国攻め組は四国どころではなくなり、勝瑞城にいた康長も、慌てて河内へと向かいました。

留守になった勝瑞城を守るのは、康長の兄の孫に当たる十河存保(とごうまさやす)

一方、織田家の異変は、ほどなく長宗我部の知るところとなりますが、血気にはやって、すぐに勝瑞城を攻め落とそうと海部城(かいふじょう)に入った長男・信親(のぶちか)をなだめて、岡豊城(おこうじょう)にて、じっくりと作戦を練る元親・・・

Mototikaawaheiteicc もともと、信長との直接対決を覚悟していた元親にとっては、「織田家の後ろ盾を失った三好勢など、敵ではない!」てな感じだったのかも知れません。

じっくりと、軍儀を重ねた元親らは、8月27日に海岸沿いと吉野川沿いの二手に分かれて出陣・・・吉野川の南岸にて合流した2万3千の大軍の指揮を任されたのは、元親の弟・香宗我部親泰(こうそかべちかやす)・・・。

一方、勝瑞城を出て、勝興寺に本陣を置いた存保率いる三好軍は約6千。

翌・8月28日、中富川を挟んで決戦は開始されます。

まずは、先に川に乗り入れた三好軍に対して、あらかじめ構築してあった堰(せき)を破り、上流からの水を一気に流してダメージを与え、ころあいを見計らって、川に乗り入れる長宗我部軍・・・。

壮絶な戦いの中、やがて、一人、また一人と三好軍の有力武将が討ち取られ、壊滅状態になった中、存保は、勝瑞城へと逃げ帰り、その日のうちに中富川の戦いは終結・・・その後は勝瑞城での籠城戦となります。

さらに、本格的な籠城戦の前に、周辺にある一宮城牛岐城(うしきじょう)のなどの城も落した後、勝瑞城を取り囲む長宗我部軍でしたが、しばらくの間、豪雨が続き、さすがの元親も攻めあぐねます。

やがて、約1ヶ月ほど経った天正十年(1582年)9月21日、ついに勝瑞城は落城・・・存保は、讃岐の虎丸城(とらまるじょう)へと逃れ、ここに、長宗我部元親の阿波平定が成されのです。

多くの戦国大名に影響を与えた信長さんの死ですが、元親にとっては、この上なくラッキーな出来事となった事は確かです。

信長の大軍が相手なら、四国統一はちょっと難しかったかも知れませんからね。

もちろん、今回は、ラッキーなサプライズにはやる事なく、じっくりと見据えて勝瑞城への攻撃を仕掛けた元親の好判断の勝利でもありますが・・・。

さてさて、次に狙うは存保が逃れた讃岐・・・そのお話=引田表の戦い4月21日のページでどうぞ>>
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2008年9月20日 (土)

「お手玉の日」にお手玉の歴史

 

平成四年(1992年)9月20日に、第一回全国お手玉遊び大会愛媛県新居浜市で開催された事を記念して、今日9月2日は『お手玉の日』という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日は例のごとくお手玉の歴史について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

「おむく」「おのせ」「おこんめ」「おひと」「いしなんご」「なっこ」「いっついこ」「ななつご」・・・などなど、地方によっていろんな呼びかたがあるお手玉ですが、大阪で生まれ育った私は、おじゃみ」と呼んでおりました。

♪おひと~つ おふた~つで お~さらい
  とってんしゃん~で お~さらい♪

という歌に乗せて、お手玉を投げたりつかんだり、あるいは手の甲ではじいたりラジバンダリ・・・

今、お手玉と言って、すぐに思い浮かべる小石や小豆、じゅず玉などを入れた布の袋のお手玉が普及するのは、江戸時代になってからですが、その原型とも言える石や動物の骨での遊びの歴史は大変古く、古代ギリシャにさかのぼるのだとか・・・

今に伝わるお手玉の遊び方は、大きく分けて、お手玉を上に投げて、取ってという「振り技(ゆり玉)という遊び方と、一つを投げている間に下に散らばったお手玉を寄せ集める「拾い技(よせ玉)という遊び方の2種類に分かれますよね。

古代ギリシャのお手玉の原型は、後者の「拾い技」と同じような遊びで、「アストラガリ」と呼ばれ、羊のかかとの骨を使って遊んでいたそうです。

それが、やがて、インド中国を経てアジア全体へと広がるにつれて、手に入り難い羊の骨から、近くにある石を使って遊ぶようになったようです。

お手玉自身の形や、使用する素材に違いはあれど、同じルーツを持つお手玉遊びは、今も世界中の人たちが楽しんでいるようです。

そんなお手玉の原型が、日本の文献に登場するのは平安時代・・・。

主に女の子の間で楽しまれた「いしなどり」という遊びがソレです。

この「いしなどり」は、あらかじめ、数個の小石をばらまいておいて、そのうちの一つを上に投げ、その石が落ちてこない間に、まいてある石をつかみ、石をつかんだその手で、落ちてくる石をつかむ・・・そして、順番に次々と石を拾っては投げ、拾っては投げ、すべての石を拾いつくしたほうが勝ちというルール・・・これは、まさしく「拾い技」ですね。

私たちは「おひとつ」と呼んでいましたが・・・平安時代からあったとは!

平安時代の歴史物語『栄花物語』には、第62代・村上天皇が、宮廷で女御たちの「いしなどり」を見物するシーンが出てきたり、あの西行法師(10月15日参照>>)が・・・
♪石なご(いしなどり)の 
 玉のおちくる ほどなきに
 過ぐる月日は かはりやはする♪

と、歌に詠んだりなんかしていますから、「やってみた」というよりは、「すでに流行していた」んだと思いますね。

一方、『源平盛衰記』には、知康という名手が、源頼朝の孫・一幡に呼ばれて、その目の前で、4個の小石を投げては受けるという芸を見せた」という記述があり、こちらは「振り技」・・・まさに「ジャグリング」ですね。

しかも、この時代に、すでに曲芸として見せるプロがいたって事ですね。
 

では、最後に、♪おさらい♪というフレーズが、お手玉歌の中で、最もよく聞くフレーズではないかという事で福井のお手玉歌=『おさらい』をご紹介します。

私の知ってるのとは、ちょっと違いますが、こちらの方が歴史が古そうなので・・・

 
~おさらい~

1月落して落して落して落しておさら~い
2月落して落して おさら~い
おみんな おさら~い
おてしゃみおてしゃみ おさら~い
おはさみおはさみ おさら~い
おちりんこおちりんこ おさら~い
お~ひ~ ら~り
ら~り ら~りらり
ひとよせ なかよせ おさら~い
しもづけ おさら~い

 

今、歌の途中に小倉ゆうこりんいませんでしたっけ?(笑)
しかも、脱字をするとヤバイ事になりそうなフレーズ・・・
  冷や汗出たsweat01
 

そんなこんなで、最近は、遊んでいる子供たちの姿も、見かけなくなったお手玉・・・しかし、平安の宮中で、天皇がご覧になった雅な遊びとあらば、是非とも、次の時代の子供たちに、伝えていってもらいたいものですね~。
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2008年9月19日 (金)

「キリシタンゆえ自害はできぬ」小西行長・自首

 

慶長五年(1600年)9月19日、関ヶ原の合戦で敗れた西軍に属していた小西行長が、伊吹山山中にて捕らえられました。

・・・・・・・・・

それは、慶長五年(1600年)9月19日の事・・・・

関ヶ原の庄屋・林蔵主(りんぞうず)が、伊吹山の山中を歩いていると、やや遠くのほうから・・・
「そこの人・・・ちょっと来てくれ」
と、声をかけられます。

見れば、相手は落人・・・

そう言えば、4日前の9月15日、関ヶ原で大きな合戦があり(9月15日参照>>)、あたりは、網の目のように張りめぐらされた落ち武者狩りで、ものものしい雰囲気でしたが、こういう時の周囲の村人の態度としては、二つに一つ・・・

進んで落ち武者狩りに参加して褒美に預かるか、とばっちりを被らないためにも、関わりを持たないで見て見ぬふりをするか・・・。

林蔵主の場合は後者でした。

このあたりは石田三成の居城・佐和山城にも近く、合戦自体は東軍の勝利に終ったとは言え、一般庶民たちには、この先どうなるのやら見当もつきませんから、林蔵主の村では、「落人を捕らえたり、むごい仕打ちをするような事をせず、関わりを持たないようにしよう」と、村の取り決めで決めたばかりだったのです。

「ワテには、関わりのない事で・・・どっかへ早う、逃げなはれ」
林蔵主は、落人との距離を縮める事なく、その場から、それでいて気づかれないように小声で叫びました。

しかし、その落人は
「ええから・・・頼みたい事があるんや、是非ともこっちに来てほしい」
と、言って譲りません。

しかたなく、その落人のところへ行くと、彼は
「俺は、小西摂津守(せっつのかみ)や」
と、名乗ります。

名前を聞いてまたまたびっくり・・・そして、やっぱり
「はよ逃げてくださいや」
と、言います。

しかし、まだ、彼は、
「俺を内府(徳川家康の事)のもとに連れていって、褒美を貰え」
と言います。

「とんでもない!」

「見たやろ?ここらあたりは、落人狩りの者らがウヨウヨしてる・・・このまま敵に捕まるのはもちろん、褒美目当てに落ち武者狩りに加わってる姑息なヤツに捕まるのもくやしい。

自害するのはたやすい事やけど、俺はキリシタン・・・キリシタンの教えでは、自害は禁じられてるんや・・・俺は、アンタのような人に捕まえてもらいたい」
行長を名乗る落人は、そう言って譲りません。

ひとしきりのやり取りの末、林蔵主は説き伏せられ、やむなく、その落人を自宅に連れ帰ります。

その後、関ヶ原領主の竹中重門(10月16日参照>>)の家老に相談し、ともにその落人を連れて、家康の配下である草津村越茂助の陣へ・・・。

茂助は、その落人に縄をかけ、林蔵主には金十両が与えられます。

そう、その落人は本物・・・小西行長、その人だったのです。

 

行長は、堺の豪商・小西立佐(りゅうさ)の次男坊として京都で生まれました。

熱心なキリスト教信者だった父の影響で行長自身もキリシタンとなり、ルイス・フロイス織田信長に謁見する際に父と兄が案内役をした事や、商売の関係で宇喜多秀家の家に出入りしていた縁で、豊臣(羽柴)秀吉と出会います。

もともと商売人ですから、地元・堺の商人とのつながりもあり、さらに、その経済や流通に精通した頭脳が買われ、秀吉配下で出世していくようになります。

やがて、天正十六年(1588年)、佐々成政の失脚(7月10日参照>>)で、肥後国宇土24万石を与えられ、大名となりました。

領国には、キリスト教信者らしく、修道院教会をはじめ、孤児院ハンセン病施療院などの建築にも力を注ぎ、堺や大坂にある病院にも寄付を怠らず、周囲からは、「大きな領地を持っていながら、金の残せない人だ・・・」なんて、陰口をたたかれるほどでした。

武将としては、とても優秀で、部下をまとめる器量もあり、その強さも見事でしたが、キリシタンとしての平和主義は、戦いぶりにも影響を与えます。

慶長・文禄の役(11月20日参照>>)でも、勇猛果敢に戦う一方で、早々と講和の交渉を開始したり、犠牲者を出さないためにコチラの進軍ルートを敵に教えたり女・子供を逃がしたりしています。

どうやら、そこンところが、ともに肥後を与えられて同期で大名となった加藤清正とはソリが合わなかったようで・・・清正さんは、その武勇がウリですからね。

まぁ・・・
「なるべく、犠牲者をおさえたい」という行長さんの考えも納得ですが、「犠牲が出るのが戦いという物・・・それがイヤなら、はなから戦争すんな!」っていう清正さんの考えも一理あります。

そんな、二人の確執が、秀吉が亡くなった後にも続き、やがては、関ヶ原での東西の別につながったのかも知れません。

この日、逮捕・・・いえ、自ら名乗り出て捕縛された行長は、2日後の21日に捕らえた三成(9月21日参照>>)、23日に捕らえられた安国寺恵瓊(えけい)(9月23日参照>>)とともに、10月1日に六条河原で処刑されます(10月1日参照>>)

あとに残ったのは、行長の着物に縫い付けられていた妻子宛ての遺書・・・
「この度は、意外な出来事に遭遇して、今まで生きてきた中で、一番、辛く苦しんだが、これも、今まで自分が犯してきた罪の償いを、来世ではなく、現世でしているのだと思い、特別の恵みを与えてくれたデウス(神)に感謝しています」

最後の最後に、武将としてではなく、キリスト教徒として死ぬ事を選んだ行長・・・遠い異国で、彼の死を聞いたローマ法王は、行長の死を殉教として扱い、市民に「ともに行長のために祈ろう」と呼びかけたのだとか・・・。

戦いを好まず、私欲を抑えて施設の建設に励んだ遠いアジアの武士の事を、ローマ法王はご存知だったようです。
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2008年9月18日 (木)

わずか半年の新撰組・初代局長~芹沢鴨

 

文久三年(1863年)9月18日、近藤勇の意を受けた土方歳三らによって、新撰組・局長の芹沢鴨が暗殺されました。

・・・・・・・・・

新撰組・初代局長=芹沢鴨・・・このかたはお気の毒なくらい、いつも悪役として描かれますね。

時代劇やお芝居なんかで、坂本龍馬が主役なら、新撰組は敵役・・・新撰組が主役なら、勤皇の志士は敵役・・・と、相場は決まってますが、この芹沢さんだけは、誰が主役であろうが悪役・・・

実際のところは、背が高くて、色白で、なかなかの男前・・・しかも「尽忠報国之士芹澤鴨」と刻んだ鉄扇を常に持ち歩き、神道無念流の免許皆伝・師範役で、居合いも相当な腕前だったそうなので、おそらく志も高かった事でしょう。

ただ、モテるがゆえの女好きのせいで、(かさ・梅毒)を患っていたようで、病気への恐怖を、お酒で紛らわすようになって、徐々に自暴自棄になっていったのかも知れませんね。

先日の松原忠司のページ(9月1日参照>>)でも、チョコッと書かせていただきましたが、この文久三年の初め、幕府は、3月に予定されている第14代将軍・徳川家茂の上洛に先駆けて京に上り、将軍上洛後にはその身辺警固をするための浪士組を募集します。

その呼びかけに答えて参加した水戸天狗党出身の芹沢さん。

ところが、いざ、京に着いてみると、浪士組の先導者であった清河八郎から「京に来たのは、将軍警固のためではなく、尊皇攘夷の先鋒となるためという内容が発表され、老中・板倉勝静(かつきよ)は、慌てて浪士組に江戸に戻るよう命令します(2月23日参照>>)

この時、浪士組に参加したほとんどの者は、清河とともに江戸に戻りますが、それに反発して京に留まったのが、芹沢を中心とする水戸一派・5人と、近藤勇の道場の門弟たち・8人の計13名でした。

その後、4名を加えて17名となり、壬生村の前川邸・八木邸・南部邸に分かれて宿を借りる彼らでしたが、幕府募集の浪士組とは別離したわけですから、当然無職・・・このままでは、生活していけません。

それで、「せめて、将軍が京に滞在する期間だけでも働かせて~!」という嘆願書を、京都守護職に就任したばかりの会津藩主・松平容保(かたもり)に提出・・・もともと尊皇攘夷の志士たちが暗躍する京の町の安全を何とかしたい容保は、彼らを会津藩の預かりとして、京の治安維持に当たらせる事にします。

会津藩・配下となった彼らは、さらに隊士を募集し、7月頃には総勢52人の団体となったうえ・・・
・士道に背くな
・局を離脱するな
・勝手に金策するな
・勝手に訴訟を取り扱うな

の禁令も決まり、芹沢・近藤の二人の局長のもと「壬生浪士組」として再スタートしました。

あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)では、御所の禁門(蛤御門)を警備し、その機動力と俊敏さが評価され、「新撰組」という名前もいただいて、一介の浪士から、華々しく歴史の表舞台に登場する事になります。

しかし、芹沢・近藤の二人の局長・・・というところからでもわかる通り、スタート当初から、芹沢派と近藤派の間には確執が存在していた中、ここに来て、事件が起こります。

もともと芹沢は、四条堀川の太物(ふともの)問屋・菱屋のお妾であるお梅を自分の妾にしたり、公家の姉小路公知(あねがこうじきんとも)のお妾を寝取ったりという女性問題もあったうえ、新撰組の軍資金を工面するのに豪商を脅してムリヤリ出させる・・・といった問題を、度々起していて、その度に、預かりである会津藩へ苦情が殺到していたのですが、とうとう、お金を出さない商家に大砲をぶち込んで火事を起してしまったのです。

しかも、その大砲は、会津藩の持ち物で、「町の治安維持のために」と、新撰組に貸し出していた物でした。

これでは、京の治安を守る京都守護職の会津藩自身が、京の治安を乱してしまう事になります。

たまりかねた容保が、先の新撰組内の確執を利用して、もう一人の局長・近藤に芹沢の暗殺を命じたのです。

文久三年(1863年)9月18日、副長の土方歳三は、「島原遊郭にある角屋(すみや)で、新撰組の会合兼宴会を開く」と言って、芹沢と彼の仲間・平山五郎平間重助の三人を誘い出し、泥酔するまでお酒を飲ませます

なんせ、冒頭に書いた通り、芹沢さんは免許皆伝ですから・・・。

さらに、土方と芹沢らは、屯所である八木邸に帰宅してからも飲み続け、普段は少々酔っぱらって酒乱にこそなっても、足にはくる事はない芹沢が、何度も袴の裾をふんずけてこけてしまうくらいに泥酔状態となって、ごきげんなまま、お梅とともにご就寝・・・

残りの二人も、それぞれ馴染みの芸妓を部屋に誘い込んで爆睡します。

三人が寝静まったのを確認した後、土方と沖田総司は芹沢の部屋に・・・、山南敬助原田佐之助が平山の部屋に・・・それぞれ息を殺して侵入します。
(*メンバーについては、諸説あり)

『新撰組始末記』によれば・・・
まずは沖田が襲いかかるも、即座に身をかわした芹沢が脇差で応戦・・・沖田は顔に負傷してしまいますが、その間に襲い掛かった土方が布団に芹沢の顔を押し付け、屏風越しに一突き・・・。

それでも起き上がった芹沢でしたが、なんせ泥酔状態で足が追いつかず、転がるように出た縁側で土方にとどめを刺されました。

この時、そばにいたお梅も、巻き添えで死んでしまいます。

この間に、一方の平山も首をはねられて死亡・・・ただし、平間は暗殺の対象外という事で命拾いしたようです。
 

思えば・・・
2月27日に、江戸にて結成された浪士組・・・(2月27日参照>>)
3月13日に、会津の配下となって新たなスタートを切った壬生浪士組・・・
8月18日の活躍で武家伝奏から新撰組の名を賜り・・・
そして9月18日・・・

天狗党での暴れっぷりで、その名を馳せた芹沢・・・
そんな彼も、京に上った時は、きっと大いなる志を抱いていたはず・・・

そんな自分が、わずか半年で、新撰組としての芹沢に終止符を打つ事になるとは・・・

果たして、聡明な芹沢にとって、これは想定の範囲内だったのでしょうか?

それとも、病という大きな壁に押しつぶされ、変わっていく自分を、誰かに止めてもらいたかったのでしょうか?
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2008年9月17日 (水)

落城寸前・大垣城~「おあむ物語」戦国女性の生き様

 

慶長五年(1600年)9月17日、3日前の15日から、東軍の攻撃を受けていた美濃大垣城で、二の丸・三の丸が開城されました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)・・・名だたる有名どころが決戦したという事で、どうしても関ヶ原ばかりが注目されますが、この同じ15日、西軍に属していた大垣城にも同時に、東軍の攻撃が開始されていたのです。

関ヶ原の合戦の前日のページ(9月14日参照>>)に書かせていただいたように、開戦前に、この大垣城を前線本部としていた石田三成は、大垣城での籠城戦をやめて、関ヶ原での野戦を決意し、娘婿の福原長堯(ながたか・直高)に、備えの兵を預け、残りの全軍を率いて、関ヶ原に向かいました。

一方、三成が大垣城を出た事を確認した徳川家康は、籠城戦にならなかった事を密かに喜びながら、押さえの兵を大垣城に残し、主力部隊とともに関ヶ原へ向かいます。

かくして、大垣城に残った将兵たち・・・大垣城への攻撃は、関ヶ原の開戦より早く、15日の夜明けとともに開始されました。

守る西軍は、本丸長堯熊谷直盛(くまがいなおもり)二の丸垣見一直(かきみかずなお=家純)木村由信(よしのぶ)相良長毎(さがらながつね・頼房)三の丸秋月種長(たねなが)高橋元種(もとたね)以下7千5百の兵・・・。

攻める東軍は、水野勝成(かつなり)堀尾忠氏(ただうじ)西尾光教(みつのり)1万5千・・・。

とかく、籠城戦というのは、籠る側は1にも2にも防戦・・・攻める側は長期も視野に入れての心理作戦で迫るのが定番です。

東軍は、大砲のような石火矢(いしびのや)を用意し、それを射掛ける時は、城の近くまで寄ってきて、大きな声で「今から撃つぞ!」と脅しをかけまくってから射掛け、一斉に撃ったかと思うと、シ~ンと止み、しばらくしてまた、一斉に撃ってくる・・・

鉄砲も同じで、撃つ時は一斉に撃って・・・何度も何度もそのような攻撃が繰り返されるのですが、この時、まず、矢おもてに立たされたのが三の丸でした。

防戦一方で落城寸前の三の丸・・・やがて、関ヶ原での西軍の敗戦と三成逃亡の知らせが舞い込み、城内が動揺する中、「もはやこれまで」と感じた秋月ら三の丸の筆頭は、水野勝成に和睦を申し入れる事に・・・

そして、合戦勃発から2日後の慶長五年(1600年)9月17日、三の丸の彼らは、二の丸に籠る垣見と木村、そして熊谷を殺害して、二の丸と三の丸を開城してしまうのです。

長堯だけは、寸前のところで彼らの寝返りを知り、なんとか暗殺を免れて、本丸の籠城をさらに続けます。

その後も、昼夜を問わず、忘れた頃に仕掛けられる一斉射撃・・・大きな地響きとともに櫓が揺れ、身を縮めんばかりにうずくまっていると、急に音がしなくなりシ~ンと・・・静まり返った城内には、今度は、誰のものともわからないうめき声や泣き声・・・

「もう、ダメか・・・」と、落胆しているところへ、城外から兵士が戻り、「敵は去った」と慰める・・・しかし、その直後にまたしても鉄砲の乱れ撃ち・・・

もう、気が変になりそうな状況です。

しかし、そんな状況でもたくましく生き抜くのは、城内にいた女性たち・・・そう、一般的に戦場は男の世界ですが、それが籠城となると、そこには多くの女・子供がいるのです。

やがて、籠城も何日か経つと、あれほど怖かった一斉狙撃も、「またかいな」という程度にしかならなくなり、女性たちは、天守に集まっては、一所懸命に鉄砲玉を鋳造します。

その横では、味方が取ってきた敵兵の首を並べて、一つ一つに名札をつけて、キレイに洗い、なるべく身分の高い武将に見えるようお歯黒やお化粧をほどこします。

夜になれば、その生首が転がりまくった横で、平気で眠れるようにもなりました。

・・・って、なんで、こんなにもくわしく大垣城内の様子がわかるのか?

実は、落城寸前の大垣城から脱出し、この時の様子を子供たちに語り継いだ女性がいるのです。

彼女の名前はおあむ(おあん)・・・三成の家臣だった山田去暦(きょれき)という武将の娘で、関ヶ原の合戦当時は16歳前後。
(昨年書いた【関ヶ原の合戦・大反省会】でアシスタントをしてもらった女性ですww・・・反省会を見る>>

徳川の時代まで生きた彼女は、近所の子供たちを集めては、昔の話をするのが大好きなおばあちゃんだったのです。

もちろん、語っただけでは後世まで残るのは難しいですが、彼女の昔語りを聞き、書きとめた人がいるのです。

書いた人の名前はわかりませんが、その筆録者のつけ書きによれば・・・
「正徳の此(ころ)は予すでに孫共を集て此物語をして・・・」とあるところから、正徳年間(1711年~16年)か、そのすぐ後に書きとめられたようです。

彼女の語ったお話は・・・
「子どもあつまりて、おあん様、むかし物がたりなされませといへば、おれが親父(しんぷ)は、山田去暦というて、石田治部少輔殿(いしだぢぶせふどの)に奉公し、あふみのひこ根に居られたが、そのゝち、治部(ぢぶ)どの御謀反の時、美濃の国おほ垣のしろへこもりて・・・」
という書き出しではじまる『おあむ(おあん)物語』として後世に伝えられました。

実は、彼女の父・去暦が、以前、家康の家庭教師をやっていた事があり、籠城中の大垣城に矢文(やぶみ)が届けられ、「城を出る気があるなら助けてやろう」という知らせがあったのです。

彼女ら一家は、すでにこの籠城戦で、14歳の弟を亡くしたあとでしたが、母が妊娠中という事もあり、塀をはしごで越え、石垣から縄をつたい、船が無かったためにたらいで堀を渡り、密かに城から脱出したのです。

何百メートルか歩いたところで、母親のお腹が痛み出し、その場で女の子を出産・・・その後、一家寄り添うように落ちのびていったのです。

おあむたちが脱出した後も、結局、一週間経っても落城しなかった大垣城・・・早く決着をつけたい家康が、城兵の助命を条件に降伏するよう勧告したところ、長堯がそれを受け入れ、9月23日に本丸が開城されました。

その後、長堯は剃髪して伊勢朝熊山(あさまやま)にて、家康の許しを待っていましたが、やはり三成の娘婿という関係の濃さから切腹を命じられ、10月2日に自害しました

おあむさんのおかげで、戦火にさらされた城内にいる女性たちの細かな様子が、現代の私たちにも伝えられる事となって、歴史好きとしてはうれしいのですが、何となく、自分たち一家だけ脱出って・・・て、ちょっと・・・思ったりもします。

しかし、考えてみれば、この関ヶ原の合戦が、家康が天下を手中に納める天下分け目の戦いだとわかるのは、この後の歴史を知ってる私たちだからこそ・・・この時点では、まだ関ヶ原の合戦は、豊臣家の内紛で、なりゆきで東と西に分かれてしまったものの、どちらも豊臣家の家臣なわけで、三成や加藤清正やといった自分の意志がはっきりと決まっていた人以外は、皆、悩みに悩み抜いていたはずです。

現に、真田前田のように二股かけてたんじゃないの?って人もいるわけですからね。

おあむさんのお父さんの去暦さんも、三の丸で寝返った彼らも、上司の都合で、そうなったものの、内心は悩んでいた人たちなのかも知れません。

おかげで、戦国の女性たちの生き様が垣間見えた・・・という事でヨシとしましょう。
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2008年9月16日 (火)

関ヶ原に最後まで~敵中突破の「島津の背進」

 

慶長五年(1600年)9月16日、関ヶ原の戦場から脱出した島津義弘が時村へ到着・・・水口を経て、大坂へ向かいました。

・・・・・・・・・・

さて、昨日の関ヶ原の合戦(昨日のページ参照>>)・・・何と言っても、その後が気になるのは、西軍として最後まで戦場に残っていた島津隊です。

昨日も書かせていただいたように、島津隊は、合戦の最中、まったく兵を動かす事なく、見かねた石田三成が使者をよこして参戦を促しても、「俺らは、俺らの戦いをする」と言って、結局は最後まで見物していただけだったのです。

島津隊を率いていた島津義弘は、兄・義久と二人の弟・歳久家久らとともに「島津四兄弟」として知られた薩摩(鹿児島県)の武将です。

もともと島津は、徳川家康と誓詞を交わしてる仲で、義弘がわざわざ薩摩を離れ、今この地にいるのも、本当は家康のため・・・

開戦前に、まだ伏見城にいた家康の元を訪問した義弘は、その時、家康から「自分は、これから会津征伐に向かうので、伏見城の留守を頼む」と言われたのです。

それで、「今、連れている手勢では、格好がつかない」と薩摩の兄に人数をそろえてもらうよう要請しますが、当時、薩摩は内戦状態だったため、あまり多くの兵を費やす事は難しいものの、何とか1500ほどの手勢を畿内へ派遣してもらっていたのです(9月15日「長寿院盛淳・討死」参照>>)

そして、家康が会津に向かった後、留守となった伏見城へ赴くのですが、この時、伏見城の留守を預かっていたのが鳥居元忠(8月1日参照>>)・・・その忠義一徹の性格のため、義久の真意を疑い、入城を断ったと言うのですが・・・

ひょっとしたら、真意を疑ったというよりは、すでに捨て駒となる覚悟を決めていた元忠が、その死出の道に、他家の武将を引きずり込む事を拒んだのではないか?とも思っています。

ご存知のように、関ヶ原の合戦の発端となった三成の伏見城への攻撃(7月19日参照>>)・・・三成から、武力行使をさせるためのおとりとなった伏見城ですから、はなから、攻撃を受けての落城は目に見えています。

真面目で実直な元忠は、そこに島津を巻き込みたくなかったのではないでしょうか?

同じ頃、小早川秀秋の実父・木下家定も、人質として伏見城に入る事を申し入れていますが、元忠はこれも断ってます。

やはり、「攻撃を受け、全滅必至の伏見城に、攻撃を防ぐ目的の人質はいらない」という元忠の実直さから出た判断ではなかったでしょうか?
(だとしたら、ちょっとカッコ良すぎだが・・・)

とにかく、留守役の元忠に、伏見城への入城をかたくなに断られた義弘は、その後、たまたま大坂に滞在していて、その時に三成が挙兵したために、なりゆきで西軍に加わってしまったわけです。

とは言え、西軍の敗色が濃くなった戦場で、当の三成まで敗走した今、何とかせねばなりません。

かと言って、東軍に降伏するなど薩摩の男のプライドが許しません。

こうなったら、敵中に斬り込んで、華々しく討死するか、戦場を脱出するか、二つに一つ・・・。

義弘は、華々しく散る事を希望しましたが、これには、ともに出陣していた甥の島津豊久が猛反対!

話し合いの末、結局、戦場を脱出する事に決まりますが、それには道はただ一つ、東軍の後方にある伊勢路を行くしかありません・・・まさに、敵中突破作戦!

午後2時・・・島津隊は、義弘以下、一丸となって、ただひたすら伊勢路を目指しはじめます。

Sekigaharafuzin14hcc これを見た東軍の井伊直政本田忠勝が、両側から包み込むように、島津隊を追います。

島津隊は、地面に点々と一定間隔で、兵が座り込んで鉄砲を撃つという坐禅陣を組み、後ろの兵が鉄砲を撃っている間に、前の兵がその兵の後ろに回りこみ、次ぎにその兵が鉄砲を撃ち、その間に前の兵が・・・という動作を繰り返し、攻撃をしながら、徐々に後退していったのです。

それでも、打ち寄せる大軍・・・すさまじい戦いの中、甥の豊久は、義弘の陣羽織を着用して奮闘・・・そう、何とか大将を守ろうと、自らがおとりとなったのです。

この脱出劇は、他の者が全員討死しようとも、義弘一人が生き残れば、薩摩の勝利なのですから・・・

しかし、奮闘空しく、その豊久は討死・・・。

今度は、それを見た家老・長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)(2010年9月15日参照>>)が、「我こそが、島津義弘なり!」と叫び、敵の注意を必死で惹きつけますが、やはり彼も、討ち取られてしまいます。

二人の身代わりの奮戦のおかげで、何とか戦場からの脱出に成功した義弘・・・慶長五年(1600年)9月16日時村へ到着し、水口を経て、このあと大坂へ向かいました。

18日後、故郷の富隈(とみのくま)にたどり着いた時は、わずか80騎となっていました。

この島津の脱出劇は、「島津の背進」と称され、敵である東軍からも絶賛されたと言いますが、無事に薩摩に帰ったとは言え、当然の事ながら、島津がこのまま無事でいられるわけはありません。

この後、家康は、「島津征伐」の命令を下すのですが、果たして島津の運命やいかに・・・と言いたいところですが、ご存知のように、島津が、ここで潰れる事はありません。

これから、その見事な交渉術での生き残りを披露していただく事になるのですが、そのお話は、4月11日【見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原】でどうぞ>>ご覧あれ!
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2008年9月15日 (月)

関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束

 

慶長五年(1600年)9月15日・・・関ヶ原の合戦

本日は、その日、壮絶な最期を遂げた大谷吉継を中心に、合戦の流れをご紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・

前日の夜、関ヶ原での決戦を決意して大垣城を出た石田三成率いる4万の軍勢が(昨日のページ参照>>)、現地・関ヶ原に到着したのは、日付が変わった午前1時頃・・・三成自身は、すでに南宮山に布陣していた長束正家安国寺恵瓊(えけい)らと最終打ち合わせをして、関ヶ原の北西に位置する笹尾山に本陣を置きました。

続いて午前2時、三成の真夜中の移動を知った徳川家康は、全軍に出撃命令を発し、自らも、その最後尾の位置から移動を開始します。

そして、午前4時に西軍、午前6時に東軍が布陣を完了・・・また、南西の松尾山には、前日のうちに、すでに小早川秀秋が到着済みでした(昨年の9月14日参照>>)

かくして、立ち込めた霧が晴れた午前8時、徳川の斬り込み隊長・井伊直政による宇喜多秀家への攻撃をきっかけに(2月1日参照>>)天下分け目の合戦の幕があがりました。

Sekigaharafuzinzu1cc 双方の兵力はともに、8万~10万と言われてはいるのですが、この時に、東軍の根回し役だった黒田長政の家臣・毛屋主人(けやもんど)が、家康に向かって「敵は2万にすぎず」言ったとか・・・この2万というのは、多少オーバーなところはあるものの、もう、皆さんご存知のように、その長政の根回しによって、すでに開戦前から、何人かの西軍の武将が、東軍に内通しているのが現状でした。

まず、南宮山周辺では吉川広家・・・吉川は毛利の分家で、毛利軍の先陣ですから、彼が動かない限りその後方で陣取る毛利秀元も動きません。

その秀元は、西軍・総大将の毛利輝元大坂城に留まったゆえの代理のような形での現地入り(7月15日参照>>)ですから、彼が動かない限り、回りはどうしていいかわからないわけで、結局、この南宮山周辺の西軍は、終始、動かず・・・よって、戦力的には期待ゼロ。

次に、三成のすぐ近くに陣取っていた島津義弘・・・もともと島津は、家康寄りだったにも関わらず、たまたま三成と一緒にいた時に合戦が始まったために、なりゆきで西軍に入っただけですし、前日、せっかくの夜襲作戦を三成に一蹴されて、義弘さんは少々ご立腹・・・、はなから関ヶ原で戦う気はまったくなし・・・よって、ここも戦力的には期待ゼロ

結果、開戦と同時に激突したのは・・・
石田隊VS黒田&細川隊、
宇喜多隊
VS福島正則隊、
小西行長隊
VS寺沢広高隊、
大谷吉継隊
VS藤堂高虎&京極高知隊、

最初の1時間ほどこそ、一進一退・・・いえ、やや西軍優位であったものの、石田隊の先鋒だった、かの島左近が負傷し、戦乱の中に姿を消す頃(2009年9月15日参照>>)には、形勢が逆転します。

たまらず三成は午前11時頃総攻撃の烽火(のろし)を上げますが、動かない人は動かないまま・・・さらに、三成は、動かない島津隊へ向けて使者まで出しますが、やっぱり動かず・・・。

Sekigaharafuzin12hcc そして、合戦開始から4時間経った正午頃小早川秀秋隊がとうとう松尾山を下山し、大谷隊へと攻撃を開始・・・彼の心の内まではわかりませんが、前日から家康は手ごたえアリと睨んでいて、その予想通り、秀秋は東軍に寝返りましたので、ここは、戦力ゼロどころか、西軍:マイナスで東軍:プラスに・・・これは大きい。

しかも、秀秋に触発されて、その周辺にいた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊もが東軍へ寝返り、一斉に大谷隊へ突入しました。

大谷吉継は、この関ヶ原の合戦において、三成が最も信頼を寄せていた武将・・・三成が、家康を討つ決意をし、最初に相談したのも吉継でした(7月11日参照>>)

相談を受けた吉継は、初め「無茶な事をするな!賛成できない」と反対し、一旦は家康とともに会津征伐に従軍しながらも、北上途中で、やっぱり舞い戻り、三成に全面協力する事を誓ったうえ、(ハンセン病らしい)を押しての出陣でした。

それでも、持ち前の知略で、要所々々に馬防柵を構築し、藤堂&京極相手に一歩もひけをとりません。

この時、吉継は、不自由な身体で、すでに視力もほとんど無く、籠に乗っての指揮・・・しかも、死を覚悟してか、甲冑をつけず、損傷した皮膚を隠すため、顔には覆面をし、手足には白い布を巻きつけていたのだとか・・・。

そんな吉継の手足となって指揮・命令をサポートしたのが平塚為広という武将でした。

しかし、ここに来て、最初からの藤堂&京極隊に加え、小早川隊をはじめとする寝返り組・・・それらの総攻撃を受けて、大谷隊の名だたる武将が次々と倒されていく中、いよいよ最期を覚悟した為広は、敵将の首一つ一つに歌を添えて主君・吉継のもとへ送るよう指示した後、押し寄せる敵中に突入して果てたと言います。

その様子を、使者から聞いた吉継・・・
「武勇と言い、和歌と言い、感動した!今から、アイツに会いに行く」
と言い、家臣の湯浅五助に介錯を命じた後、腹を十文字に斬り裂き、壮絶な自刃を遂げました。

大谷隊の壊滅で、ますます敗戦に色濃くなる西軍・・・やがて、宇喜多隊、小西隊が次々と戦線離脱し、秀家も行長も伊吹山へと姿を消し、三成自身も敗走します

Sekigaharafuzin14hcc 午後2時頃、最後まで関ヶ原にいた島津隊が、決死の敵中突破で南東側の伊勢路へ退却を開始し(9月16日参照>>)、南宮山にいた軍団も、やはり伊勢路へと退却・・・関ヶ原の合戦は、わずか半日で終焉を迎える事になりました。

そんな、合戦終了間近の時の事・・・藤堂高虎の甥・藤堂高刑(たかのり)は、やっと合戦の緊張から解き放たれた開放感からか、ドッと疲れか押し寄せ、水を求めて山中に入り込みました。

すると、目の前の木の影に、一人の武将がうずくまっているのが見えました。

近づいてみると、相手は自分以上に疲れているうえ、ケガもしている様子で、ほとんど動けません・・・よく見ると、その武将は、かの湯浅五助ではありませんか!

五助は、東軍でもその名が知られている武将でしたから、「これは、チャンス!」とばかりに、五助に挑む高刑ですが、疲れきった五助は、もはや抵抗もできず、あっさりと組み敷かれてしまいます。

しかも、何だか様子もオカシイ・・・挙動不審です。

すると、そんな高刑の心を察し・・・
「待て!今、俺は、この周辺に主君・吉継殿の首を埋めたんや
けど、それは、絶対に探さんといてくれ!
もちろん、人にも言わんといてくれ・・・頼む。
俺は、吉継殿から『病気の顔を敵に見られとうない!絶対に見つからん所へ埋めてくれ』との命を受けた。

主君の命令を守れんかったら、俺かて死んでも死にきれん。
武士の情けや!約束してくれたら、俺の首をお前にやる!」

五助の主君への思いに感動した高刑は、
「わかった・・・約束する!神に誓って誰にも言わん」
と・・・快諾。

喜んだ五助は、その言葉通り、ほとんど無抵抗のまま高刑に討ち取られました。

陣に戻り、その首を、叔父・高虎に見せると、高虎は「でかした!」と大喜び、早速、二人で本陣の家康のもとへ行き、報告します。

もちろん、家康も大いに喜びます。

ただし、やはり、さすがは家康さん・・・
「そら大手柄やけど、五助ほどの武将が、そないにあっさりと・・・いったい、どんな手を使て五助を討ち取ったんや?」

聞かれた高刑は、吉継の首の話の部分だけは伏せて、おおまかな話をしますが、まだ納得いかない家康・・・

「五助が、主君の最期を見届けんと、死ぬとは思えん。
ひょっとして、吉継の首を処理したんは、五助とちゃうんか?
お前、その周辺探したか?」

と、やはりスルドイところを突かれました。

高刑は覚悟を決め・・・そして答えました。

「ハイ、実は知ってます。
けど、五助と、『誰にも話さない』という約束をして首を取ったので、たとえ家康様でも話す事はできません。
どうぞ、いかようにも処分してください。」

その場に緊張が走ります。

主君の「話せ」という命令に「イヤです」と逆らったわけですから、その場で手打ちにされても、仕方が無いほどの前代未聞の出来事です。

シ~ンと静まりかえった、あたり一面・・・
しばらくの静寂の後・・・

「ハッハッハッハッ・・・・」
家康の大きな笑い声・・・

「なんと!律儀な若者もいたもんや!正直にじゃべったら、吉継の首もお前の手柄になるのに・・・」
と、言いながら、高刑を近くへと呼び、自らの刀と槍を褒美に手渡したのでした。

現在の関ヶ原古戦場には、吉継の墓に寄りそうように、五助の墓が・・・その墓は、藤堂家によって、その地に立てられたそうです。

♪契りあらば 六の巷に 待てしばし
 遅れ先立つ 事はありとも♪
 
大谷吉継・辞世

主君の手足となり、楯となって死んでいった家臣・・・
先立った家臣に会いに行くと言って死を選んだ主君・・・
その主君の首を自らの命を賭けて守った家臣・・・

三人は、きっとあの世(六の巷=六道の辻)で再会を果たした事でしょう。

そして、もう一人・・・
同じく、その命を賭けて、敵との約束を守った男も・・・
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2008年9月14日 (日)

関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦い~石田三成の決断

 

慶長五年(1600年)9月14日、関ヶ原の合戦の前哨戦・杭瀬川の戦いが行われるとともに、徳川家康は岡山に布陣し、石田三成は大垣城を出ました

・・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月14日、朝早くに岐阜城を出た徳川家康は、正午過ぎに、赤坂城から美濃岡山(勝山)に到着、ここを東軍の本営として陣を敷きました。

早速、開かれた軍儀の席で、「敵の本営である大垣城には、わずかばかりの押さえの兵を残し、主力は佐和山城を攻め、その勢いで大坂城へ向かう」という方針が確認されますが、以前から何度か書かせていただいている通り、これは、あくまでポーズ・・・家康の本心は、やはり関ヶ原で決着をつける事でした。

なので、東軍がこの事を聞きつけたなら「おそらく石田三成は、大垣城から撃ってでるだろう」という予想のもとに、この方針は、わざと西軍へ流されますが、三成が予想通りに大垣城を出るかどうかはわかりませんから、三成が、もし大垣城で籠城作戦をとった場合は、先に大垣城を攻めるつもりであったと言われています。

・・・というのも、実は、9月の初めの時点では、家康は、「三成はおそらく籠城するであろうから、大垣城を水攻めにするつもりだ」とはっきりと言っていたんです。

ところが、ここに来て、家康には大きな誤算が生じていたのです。

それは、東海道を進んだ家康ら(8月10日参照>>)とは反対に中山道を進軍した息子・秀忠の軍が、あの真田昌幸幸村親子の守る上田城で足止めされ(9月7日参照>>)、前日の13日に時点で、未だ到着していなかった事です。

秀忠には、この合戦最多の3万8千の軍勢をつけています・・・つまり、この合戦の東軍の本隊は秀忠の軍だったかも知れないワケで、そうだとすると、現時点での東軍の状況は、「本隊が到着していない」というありえないミスとなっていたワケです。

籠城する敵を崩すためには、圧倒的な数の軍勢で城を囲まねばならないですから、本隊がいない時点では、逆に三成に籠城されては困るのです。

しかも、籠城戦は時間もかかりますから、その間に、西軍総大将の毛利輝元に、豊臣秀頼を掲げて出陣でもされたなら、必死で根回しして味方につけた豊臣恩顧の武将たちが一斉に西軍に寝返る可能性も出てきますから、家康としては、何としてでも、三成に出てきてもらって野戦に持ち込み、素早く決着をつけたい・・・

さらに、途中で天皇が介入してきて、中途半端に和睦させられ、三成派を一掃する事ができなくなっても困るので、あまりに京都に近い場所ではダメ・・・是非とも関ヶ原あたりで・・・というのが、家康のホンネだった?のです。

一方、同じく9月14日・・・西軍本営大垣城には、三成をはじめ宇喜多秀家島津義弘小西行長らがいたのですが、敵のミョーな動きを察したところで、家康の馬印を確認し、愕然とします。

どうやら、彼らは、上杉攻めのため、未だ、家康は東国に釘付けのままだと思っていたらしい・・・。

しかし、この状況を捨て置くわけにはいきませんから、ここは一発景気づけにと、三成は、腹心・島左近勝猛(かつたけ・清興)に500ほどの手勢を預け、敵陣の偵察に向かわせます。

Swkigaharakuisecc

夕暮れを間近にひかえて、東に大垣城、西に岡山、その間を南北に流れる杭瀬川(くいせがわ)・・・静かに川を渡った島隊は、敵陣の間近まで迫って放火し、敵を挑発します。

東軍からは中村一栄(かずひで)有馬豊氏(とようじ)が進み出て応戦します。

しばらくの小競り合いの後、一斉に再び川を渡って戻ろうとする島隊・・・
追う中村隊と有馬隊・・・
ところが、中村隊と有馬隊が川を渡ったその時・・・
そこに伏兵として潜んでいた宇喜多隊が一斉に銃撃!

本陣で夕食をとりながら、この様子を見ていた家康は、バタバタと倒れる自軍を見て、慌てて兵を撤収させました。

関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いは、西軍の圧勝となったのです。

早速開かれた直後の軍儀で、島津義弘は、
「よっしゃ!この勢いで、家康の本陣に先制攻撃や!」
と、提案しますが、三成は、「家康は、本当に、このまま大垣城を無視し、さらに西へ向かうのでは?」と考えます。

西は近江・・・そう、三成の居城・佐和山城があります

「佐和山城下を戦火に巻き込む事は避けたい・・・」
三成の脳裏に市街戦の悲惨な光景が浮かびます。

しかも、すでに9月7日の時点で、毛利秀元長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)長束正家らの西軍主力部隊が、関ヶ原近くの南宮山に着陣しています(9月7日参照>>)

三成の心は決まりました。
決戦は関ヶ原!と・・・

慶長五年(1600年)9月14日午後7時・・・三成は、大垣城の守りとして、娘婿の福原長堯(ながたか・直高)に7千5百の兵を預け、残り4万の全軍を率いて、運命の関ヶ原へと向かったのです。

・・・と、その前に、あの小早川秀秋くんに、寝返りをしないよう、釘を刺しておかなくちゃ!
(そのお話は、昨年の9月14日のページで>>)
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2008年9月13日 (土)

七尾城・攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」

 

天正五年(1577年)9月13日、能登・七尾城を攻略中上杉謙信が、城中からの密書を受け取り勝利を確信しました。

・・・・・・・・・

越後(新潟県)上杉謙信と、甲斐(山梨県)武田信玄・・・。

この永遠のライバルが5回にわたる川中島の合戦(武田信玄と勝頼の年表を参照>>)を繰り広げている間に、情勢は大きく変わりました。

群雄割拠する戦国時代・・・もともと、謙信の敵は信玄だけではなく、信玄の敵も謙信だけではなかったわけですが、ここに来て、桶狭間(5月19日参照>>)今川義元という大物を倒し、一気に全国ネットの表舞台に登場してきたのが、尾張(愛知県)織田信長です。

その信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて(9月7日参照>>)上洛を果たしたのもつかの間、信長と義昭の関係はすぐに、ギクシャクし始めます。

やがて、将軍としての地位をないがしろにされて怒り心頭の義昭は挙兵し【(2月20日参照>>)各地の戦国大名に密書を乱発し、信長包囲網を造ろうとします(1月23日参照>>)

その動きに合わせるように、信玄は、東海へとターゲットを変更するのですが、志半ばで病に倒れた上に、その包囲網の一翼であった越前(福井県)朝倉近江(滋賀県)浅井が織田の前に葬り去られます(8月27日参照>>)

さらに、信玄の後を継いだ武田勝頼が、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、織田・徳川連合軍に敗れ、武田氏は急激に衰えを見せ始めるのとは逆に、信長は越前一向一揆を制し、加賀へと向かって前進(8月12日参照>>)・・・

ここにきて、謙信はいよいよ対信長を表明(3月17日参照>>)・・・義昭の仲介にて、長年敵対関係にあった石山本願寺と同盟を結んで(5月18日参照>>)、迫りくる織田軍を迎え撃つ事になります。

天正四年(1576年)10月、謙信の七尾城包囲によって、第一次の攻防戦が開始されます。

この時の七尾城主は、長年の重臣同士の争いから、次々と城主を失った後に擁立された、まだ幼い畠山春王丸・・・それゆえ、実質的に実権を握っていたのは重臣の長続連(ちょうつぐつら)と、その息子・綱連(つなつら)でした。

周囲の支城を次々と落として、包囲した七尾城を孤立させる謙信でしたが、やはり、そこは、代々の畠山氏が構築した難攻不落の名城の呼び名も高い七尾城・・・結局、謙信は、七尾城を落せないまま、年を越してしまいました。

・・・と、天正五年(1577年)の3月・・・ここに来て、関東北条氏が、謙信の領地である上野(こうずけ・群馬県)に進攻し始めます。

そう、川中島に夢中になって、ついつい忘れそうになってましたが、謙信は関東管領職にもついていますので、未だ、北条氏も敵なわけです。

七尾城の攻略を一旦中止し、北条の討伐へ向かう謙信・・・その北条を破って、再び謙信が七尾城を包囲したのは、4ヵ月後の閏7月の事でした。

続連・綱連親子は、再び、強固な七尾城を楯に、以前と同じように籠城の構えでしたが、いくら難攻不落といっても、そう何度もうまく事は運びません。

以前とは、明らかに違うところが一つ・・・そう、季節です。

7月という最も暑い時期・・・城内で、疫病が発生してしまうのです。

しかも、続連らは、謙信の大軍を相手にするため、ここ七尾城に多くの領民をにわか兵士として向かえ入れていたため、次々と人から人へと病魔が広がり、とうとう、幼い城主までが命を落します。

城内のありさまに危機感を抱いた続連は、次男・連龍(つらたつ)を城から脱出させ、畿内にいる信長のもとへ救援要請に向かわせました。

ところが、ここに、もう一つ、以前とは明らかに違うところが・・・それは、謙信の作戦です。

先の第一次攻防戦で、難攻不落の七尾城を攻めあぐねた謙信・・・今度は、包囲した最初の段階から、お抱えの忍びの軍団・軒猿(のきざる)を城内に派遣し、内通者を探らせていたのです。

その呼びかけに答えたのが、畠山氏に仕える重臣の一人・遊佐続光(ゆさつぐみつ)でした。

天正五年(1577年)9月13日、続光は、謙信への寝返りを決意し、その思いを綴った密書を送ったのです。

煌々(こうこう)と月が照る中、届いた密書を読んだ謙信は、この時、勝利を確信・・・おもむろに大好きなお酒を用意し、諸兵たちに振舞うとともに、自身も勝利の美酒に酔ったと言います。

この時に詠んだ詩が、有名な『九月十三夜』です。

霜満軍営 秋気清

 数行過雁 月三更

 越山併得 能州景

 遮莫 家郷憶遠征

霜は軍営(ぐんえい)に満ちて 秋気(しゅうき)清し
 数行(すうこう)の過雁(かがん) 月三更(さんこう)
 越山(えつざん)併せ得たり 能州(のうしゅう)の景
 遮莫(さもあらばあれ) 家郷(かきょう)の遠征を憶(おも)ふを

遠く遠征した能登の地で、月の照る空を雁が飛んでいく・・・その光景に故郷・越後の風景をダブらせて、郷愁に浸る・・・

カッコイイなぁ・・・
できれば、このシーン、昨年の大河のGacktで見てみたかった気がしないでもないですが、来年の阿部謙信でもOKなので、是非とも見てみたい~

・・・と、ノスタルジックなシーンに浸っている場合ではない!

結局、この2日後の9月15日、上杉側に寝返った続光によって続連・綱連親子は殺害され、七尾城は開城となり、危険を冒して要請した織田の援軍は、間に合わなかった事に・・・。

そのため、信長への救援に向かっていて一人生き残った次男の連龍には、復讐の炎がメラメラと燃え上がる事になるのです(10月22日参照>>)

この後、さらに加賀(石川県)へと進攻し、柴田勝家率いる織田軍を撃ち破る謙信・・・ここで、冬を迎えたため、一旦越後に戻り、次の春には大軍を擁して上洛し、信長を討つつもりだったと言われてる謙信ですが、ご存知のように、その前に急死してしまいます(3月13日参照>>)

そして、謙信の二人の養子、景勝(かげかつ)景虎(かげとら)の間での後継者争い・御館の乱(3月17日参照>>)が勃発し、信長は命拾いすることとなるのです。
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2008年9月12日 (金)

魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違

 

元亀元年(1571年)9月12日は、織田信長による、あの比叡山の焼き討ちがあったとされる日ですし、昨日は昨日で、ちょうど第二次天正伊賀の乱を書かせていただいたので、それに関連して感じたお話なのですが・・・

昨日、チョコっと触れさせていただいたように、老若男女・武士・僧侶・一般人の区別なく、ヤル時は徹底的にヤッちゃう信長さんのこれらの行為を、魔王の殺戮ととらえるか、天下人の完璧主義ととらえるかは難しいところだという事・・・。

その事に関して、私なりに、少し思うところがありますので、今日は、その事を書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・

今日の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)をはじめ、昨日の伊賀攻め(昨日のページを見る>>)長島一向一揆(9月29日参照>>)上京焼き討ち(4月4日参照>>)と、まさに魔王のごとき行動がクローズアップされる信長さん・・・

それゆえか、最近の若い方々の中には、
「信長は、あんなに大量に殺人してるのに、なんでエライの?なんで皆、尊敬するの?」という疑問を持つ人を多くみかけます。

学校で、「戦争=大量殺人」「殺人=悪いこと」と教えられ、その価値観を、そのまま戦国にあてはめてしまうと、そういう疑問になってしまうのも無理はありません。

しかし、少し、考えてみて下さい。

まずは、上記の比叡山と長島一向一揆・・・これはどちらも宗教がらみの団体で、伊賀は宗教ではありませんが、惣国という独立国家を主張する団体・・・しかも、彼らはともに武装しています。

これらが、ゲリラ戦を駆使して、国を平定しようとする信長に対抗するわけで、ゲリラ戦は、言い換えればテロ行為・・・

彼らから見ればレジスタンスの独立運動でも、信長から見れば、彼らの行為はテロ行為以外の何物でもないわけで、そのテロ行為は、武士・農民に関わらず、その団体に属するすべての老若男女が行う可能性があるわけです。

現代においてでも、世界には自爆テロを女性が行った例もありますから、テロ行為をされる側からみれば、「根絶やしにしなければ、どこに火種が残っているかわからない」という状況もありうるわけです。

・・かと言って、もちろん信長さんの報復が100%正しいかどうかは別問題で、どちらが先にケンカを売ったのか?というのも含めて、賛否両論渦巻くところですが、少なくともそういう状況を踏まえて議論なり、考えるなりしないといけないという事です。

また、このように信長さんばかりが強調されていますが、戦国の世において、戦いに一般市民を巻き込む事は、多々あったわけで、たとえば、徳川家康・・・

有名な関ヶ原の合戦は、近所の農民たちが、弁当を持って合戦見物をしていたくらい一般市民が巻き込まれなかった合戦ですが、むしろこちらの方がまれです。

これは、徹底的に石田三成派を潰したいがために、天皇をはじめとする公家に介入されて、合戦が中途半端に和睦させられてしまう事を恐れた家康の作戦で、わざわざ、ひと気のない関ヶ原に、敵をおびき寄せて合戦をしたのです(9月14日参照>>)

しかし、そんな家康も、ひとたび市街戦となれば、やはり、一般市民への殺戮と無縁ではありません。

あの大坂夏の陣(5月7日参照>>)がそれです。

少し前の話になりますが、NHKの「その時歴史が動いた」の6月25日の放送で、「戦国のゲルニカ~大坂夏の陣 惨劇はなぜ起きたのか」と題して、黒田家に残された大坂夏の陣屏風を題材に、そこに描かれた様々なおぞましい光景について語られていました。

*番組の内容については、NHKの番組サイトで・・・リンクフリーではないそうので、URL表示させていただいときます↓
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_06.html#04

Oosakanatunozinzubyouburouba2 その夏の陣屏風には、大坂城に突入する兵士などの姿とともに、逃げ惑う大坂市民と、そんな一般市民から金品を奪おうとする兵士、一般市民の首を取って武将の首と偽り褒美にあやかろうとする兵士、逃げる女性を取り囲み陵辱しようとする兵士・・・
(橋の下で呆然とする老婆→)
と、確かに目を覆うような光景が描かれています。

このような殺戮が大坂夏の陣で展開された事を、その放送で初めて知ってショックを受けた人も多いようです。

ただ、確かに、あのような地獄絵図が展開された事は確かですが、同時に、その時代背景や、経緯、価値観なども含めて考えなくては、冒頭に書いた信長さんと同じで、「こんなヒドイ行為をした家康はなんでエライの?」という事になってしまいます。

たとえば、「非戦闘員の大量殺戮」・・・
この非戦闘員と戦闘員の区別が非常につき難いのも、戦時下の特徴です。

山崎の合戦(6月13日参照>>)に敗れた明智光秀が、自国へ帰る途中に農民に殺された話は有名です。

それまで、合戦を見物していただけの農民(非戦闘員)が、合戦の勝敗が決した途端、その恩賞目当てに、自らすすんで落ち武者狩りに参加する戦闘員に変身するわけで、 合戦終焉のドタバタで、戦闘員か非戦闘員かを見極めるのは大変難しいです。

Oosakanatunozinzubyoubuzyoseitati
襲われる女性たち

しかも、この夏の陣の時の商人や一般人の中には、それぞれのつながり、それぞれの損得によって、豊臣方・徳川方に分かれ、密かに加担していた人も少なくないのです。

もう、誰が無関係かなんて判断できない状況だったでしょう。

「罪のない女子供にまで・・・」というニュアンスの事も、その番組内で言ってたような気がしますが、「女子供に罪がない」というのは、それこそ、戦争を実感できない現代の日本人の感覚・・・

昨今の世界情勢を見れば、戦時下では女子供も戦闘員になる可能性がある事は、充分に予想できます。

今もって戦時下にある国境線では、10歳に満たない男の子がマシンガンを持って戦闘に加わっているのが現状です。

実際、この夏の陣の時には、群集にまぎれて、豊臣秀頼の息子も、京都方面へ逃亡しています(10月17日参照>>)

子供とは言え、男の子は、討つべき対象となります・・・なんせ、こういう状況の場合、やがてはその子を担いで反旗をひるがえす事も多々あり、未だ多くの元・豊臣家臣を配下にしている家康にとっては、豊臣を旗印に反旗をひるがえされる事は、かなりの痛手となりますから・・・。

Oosakanatunozinzubyoubuyatou
野盗に襲われる市民たち

確かに、一般市民を巻き込む殺戮の嵐ではありましたが、ここで完全にその根を絶ち、この大坂夏の陣を最後に、長きに渡る戦乱の世に終止符を打ったからこそ、家康は偉人となるわけです。

このように考えていくと、すべてではありませんが、少しずつ、理解できるような気がします。

もちろん、「戦争=大量殺人」「殺人=悪いこと」の考えは重要です。

信長も家康も、決して最善ではなく、血を流さず、殺戮をせずに平和をもたらすのがベストである事は言うまでもありません。

これからも、日本が戦争にならない事を願ってやみませんが、歴史を考える時は、時代による価値観の相違を踏まえて、現代と同じ尺度では測れない時もあるのでは?と思う次第です。
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2008年9月11日 (木)

織田信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱

 

天正九年(1581年)9月11日、第二次天正伊賀の乱と呼ばれる織田信長の伊賀攻めで、最後に残った柏原城が開城されました。

・・・・・・・・・・

武田信玄には出抜(すっぱ)上杉謙信には軒猿(のきざる)というお抱えの忍者集団がいたと言います。

徳川家康服部半蔵真田幸村真田十勇士は超有名ですし、北条にも風魔一族が・・・。

なのに、織田信長が忍者を使った話はあまり聞きませんねぇ・・・唯一、一昨日、書かせていただいた滝川一益(9月9日参照>>)くらいですが、そのページでも書かせていただいたように、一益も甲賀出身というだけで、忍者とは決めつけられないというのが一般的な見方です。

しかし、合理主義者の信長さんですから使える者は誰でも使っただろうし、戦国乱世に敵情を知るスパイ行為が、合戦そのものよりも重要な事は孫子の時代からの常識(10月16日参照>>)・・・ただ、ヤル時は徹底的にヤルといった雰囲気の信長さんの性格からか、忍者を使ったゲリラ戦法や暗殺といった類の話は、あまり表に出てきませんねぇ。

逆に、やりかたがウマすぎて、本当に闇から闇へと消えちゃってるのかも知れませんが・・・。

そんな信長さんが、やはり徹底的にやちゃったのが今回の伊賀攻めです。

伊賀の里は、伊勢(三重県)大和(奈良県)を結ぶ交通の要所にありましたが、山深い事もあって、大きな勢力の及ばない場所でもありました。

各地で、戦乱が繰り返された戦国時代でも、小さな土豪(半士半農の地侍や名字百姓)が割拠してはいるものの合戦を起こして領地を奪い合うといった事もなく、むしろ、心を一つにして一揆を起こし、天正六年(1578年)には、守護・仁木氏を追放し、惣国による独立自治を行っていました。

そんな中、伊勢に進攻した信長によって北畠氏に養子として入り、その乗っ取りに成功した次男・織田信雄(のぶかつ)(11月25日参照>>)、その勢いに乗りまくって、父・信長に無断で、伊賀攻めを開始しますが、伊賀軍団のゲリラ戦法にしてやられ、ほうほうのていで逃げ帰ってきます(第一次天正伊賀の乱)

無計画な攻撃をしかけたバカ息子に激怒する信長ですが、一方で、かわいい息子の命を脅かした伊賀軍団をそのままにしておくわけもありません。

あの信雄の敗走から、ちょうど2年後の天正九年(1581年)9月3日、天下統一目前となった信長は、大量の兵を繰り出して、再び、信雄を総大将に、伊賀攻めを開始するのです。

この時、羽柴(豊臣)秀吉が中国方面で、柴田勝家前田利家が北陸方面で奮戦中であったため、彼らこそいないものの、滝川一益丹羽長秀蒲生氏郷堀政秀筒井順慶浅野長政と、残りの織田軍を総動員しての、約4万5千の大軍を用意します。

大名でもない小土豪集団に対して、いくらゲリラ作戦を駆使しても、立ち向かう事ができないほどの大軍での進攻・・・

織田軍は、その数に物を言わせて、伊賀へと進入する要路4箇所から軍勢を分けて進攻させ、すべてを焼き尽くす徹底した焦土作戦を決行します。

北伊賀の雨請山(あまごうやま)では稲増(いなます)、西伊賀の比自山(ひじやま)でも、それぞれの土豪たちがゲリラ作戦で抵抗しますが、小さな砦は次々と落とされていきます。

そして、最後に残ったのが、総大将・滝野吉政(たきのよしまさ)百地丹波(三太夫:丹波と三太夫は別人という説もあり)以下1600名が籠る柏原城でした。

天正九年(1581年)9月11日、落城寸前の柏原城に、信長は「和睦・無血開城」を持ちかけ、吉政は、自らの嫡男を信雄に預ける条件で、柏原城を開城・・・進攻開始から、わずか2週間足らずで、伊賀は平定されました。

この間に、織田軍が繰り返した殺戮は、老若男女、一日300人以上と言われ、まさに、あの長島一向一揆(9月29日参照>>)の悲劇が、再び繰り返されました。

伊賀を焼き尽くすその炎は、遠く奈良からも見えたという事で、興福寺の僧侶の日記には、「惣国一時に亡所」=「伊賀一国があっという間に消滅した」と書き残されています。

この時、逃げ惑う人々を哀れに思い、見逃してやった筒井順慶は、後に、信長に激しく叱責されていますが、これを、魔王の殺戮ととらえるか、天下人の完璧主義ととらえるかは、一言では語れない難しいところではあります(私見は翌日:9月12日のページで>>)

かの平清盛源頼朝に情けをかけなければ、平家の滅亡は無かったかも知れないわけで、どこに火種があるかわからない乱世では、すべての根源を断ち切っておく必要もあるのかも知れません。

信長さんの味方をするわけではありませんが、現代と同じ尺度で測れない事は確かです。

もちろん、伊賀衆のすべてが滅びたわけではなく、百地丹波などは千人以上の配下の者を連れて、根来へ落ち延びたとも言われています。

現に、信長が横死した本能寺の変の後の後継者争いの時期に合わせて、どこからともなく集まり、先の柏原城や砦に立てこもり、織田軍と戦ったりもしています(第三次天正伊賀の乱)が、やはり、もとの伊賀の里に戻る事はありませんでした。

この次に、彼ら伊賀衆の名前が表舞台に登場するのは、徳川家康が天下を牛耳る時・・・そう、その本能寺の変の直後に、三方ヶ原と並ぶ家康最大のピンチを助けたのが、この時、逃げ切った伊賀者たちで、その後、多くの者がそまま家康の配下となっているのですが、そのお話は、6月4日【徳川家康・決死の伊賀越え】のページでどうぞ>>
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2008年9月10日 (水)

思いは兄・信玄のため~補佐役に徹した武田信繁

 

永禄四年(1561年)9月10日は、ご存知、第四次川中島の合戦・八幡原の戦いで、越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄激突した日であります。

全部で、5回に渡って繰り広げられるこの川中島の戦い・・・その流れについては、すでに何度か書かせていただいているので、それぞれのページをご覧くさだいませ。

このうち、今日9月10日に行われた第四次の合戦が最も激しく、一般的に川中島の合戦と言うと、この9月10日の戦いの事を指します。

一昨年には、その流れを・・・昨年には、ひょっとしたら、川中島の戦いは無かったのでは?(昨年のページ参照>>)という事を書かせていただきましたが、それは、そのページでも書かせていただいた通り、いわゆる車がかりの戦法や、啄木鳥(きつつき)戦法・・・そして、両大将による一騎撃ちなどが無かったのではないか?という事で、決して戦い事態が無かったという意味ではありません。

架空の人物かも知れない山本勘助はともかく、信玄の右腕だった弟・武田信繁(のぶしげ)が、この合戦で命を落としている事は確かで、しかも、副将とも言える重要人物でありながら、誰に討たれたかが不明というミステリーつきの最期ですから、何らかの戦いが繰り広げられた事は間違いありません。

前置きが長くなりましたが、本日は、今日の川中島の合戦で命を落す事になったその人・・・陰・日なたになって信玄を守り、補佐役に徹した武田信繁について書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

武田信繁は、その父が武田信虎、母が大井夫人と、兄・信玄と同じ父母を持つ4歳下の弟です。

同じ師匠から学問を学び、同じ環境のもと武芸を磨き、その体格も顔も信玄によく似ていたそうですが、信玄よりは、ずっと真面目で、その性格も穏やかな少年だったようです。

気性の激しい父・信虎は、自分と同じように気性の激しい信玄を嫌い、心穏やかな弟が可愛くてしかたがなかったようで、何かとえこひいきしまくりで、あからさまに信玄にイケズな態度をとっていました。

戦国時代でのこういう場合・・・ひいきされてる弟が、兄を差し置いて後継者になる夢を見て、家督争いが巻き起こるのが常ですが、武田家がそうならなかったのは、やはり、信繁さんの性格の良さによるものでしょう。

父が、そこまでひいきしているにも関わらず、信繁は、あくまでも兄を立て、自分はその次という意識を捨てませんでした。

天文十年(1541年)に、信玄が家老たちと結託して、父・信虎を追放した時(6月14日参照>>)も、その作戦が、ものの見事に成功する影には、父一押しの弟の協力が大きく影響している事でしょう。

もし、父に推される信繁がその気になっていたら、家臣団が二つに分かれ、おそらくは、うまくいってなかったはずですからね。

信玄が武田家の当主となってからは、信繁は、その補佐として、主に国人たちの掌握に努力します。

まだ、兵農分離がされていないこの時代・・・直属の家臣が子会社なら、国人たちは、いわゆる業務提携をしている会社みたいな存在です。

主従関係ではなく、対等な立場で契約しているに過ぎませんから、不満があれば、反乱を起すし、向こうが有利となれば、敵に寝返る事も多々アリ。

しかも、彼らは、その土地に根付いた半士半農ですから、彼らが敵に回れば、その領地がそのまま敵の傘下となるわけで、彼らの裏切りは、戦わずして領地を失う事になってしまうワケです。

さらに、そんな国人たちも一枚岩ではない、人それぞれですから、そんな軍団をまとめるのは容易な事ではないうえ、まとめられなけらば、お家の存亡にも関わる重大事件に発展する可能性もあるので、ある意味、合戦で武功を挙げる事よりも、はるかに重要な任務だったのです。

そんな難しい仕事を、信繁は20年に渡って、見事にこなしています。

事実、彼が、この第四次川中島の合戦で討ち死にしてから、それまでには影を潜めていた信濃の国人の反乱が、度々起こるようになっているのです。

その業務内容が地味であるがゆえ、ドラマや小説などでは、あまりスポットライトを浴びる事がありませんが、信繁の国人衆の掌握なくしては、信玄の領地拡大も無かったかも知れないのです。

そんな信繁も、一たび合戦となれば、当然、出陣します。

上田原の合戦(2月14日参照>>)や、塩尻峠の合戦などなど・・・そんな時、信繁は徹底して、信玄のいる本陣を守る事に専念していたようです。

「とにかく、兄を守ろう」と・・・

真偽のほどはさておき、この日、上杉謙信の背後を突くため妻女山(さいじょさん)へ向かった別働隊・・・しかし、作戦を見破った謙信は、夜のうちに下山して、しらじらと夜が開け、霧がやわらいだその時には、すでに武田軍・本隊の目の前に・・・

ふいをつかれた武田勢・・・しかも、別働隊が戻ってくるまでは、明らかに兵の数が劣っています。

この光景を目の当たりにした時、おそらく信繁は、死を覚悟して本陣を守る決意を固めた事でしょう。

「兄に代わり、自分が上杉勢の注意をひきつけて奮戦する間に、おそらく別働隊が到着するに違いない」と・・・

それには、できるだけ目立って、より多くの敵兵の目を自分に向けさせなければなりません。

信繁は、家臣・春日源之丞(げんのじょう)を呼んで、兄・信玄には愛用の母衣(ほろ・背後からの矢を防ぐ布製の防具)を、嫡男・信豊には自身の髪を渡すようにと言い含めて預けます。

そして、おとなしく、いつも穏やかな信繁が、おそらく、今まで発した事もないであろう大きな声で、自分が副将である事、信玄の弟である事を告げる名乗りを挙げ、敵の真っ只中へと突入・・・舞い上がる土煙の中にその姿は消え、吐き捨てる怒号の中にその声はかき消されました。

信繁のいない本陣を見た謙信が、単身突入するも、やがて、別働隊が到着し、数で不利になった上杉軍は、善光寺へと兵を退きます。

雑然とした八幡原に静寂が戻ったそこには、信繁の死体を抱き、号泣する信玄の姿があったとか・・・

武田信繁・・・永禄四年(1561年)9月10日川中島にて討死、享年37歳でした。

彼が息子に残した『信繁家訓』99ヵ条は、一族と家臣が守るべき道を、古典などを引用して事細かく説いた物で、江戸の時代になっても武士の心得として読み継がれたと言います。
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2008年9月 9日 (火)

滝川一益の人生波乱万丈

 

天正十四年(1586年)9月9日、流浪の身から関東管領へと大出世した滝川一益が、隠居先の越前にて、62歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

近江(滋賀県)滝川一勝の息子・滝川一益(かずます)は、甲賀忍者の本拠地・甲賀郡で生まれ育ちます。

甲賀の出身だから忍者であると、安易に決めつけられないという見方もありますが、もともと前半生が謎に包まれている人なので、なきにしもあらず・・・忍者だったほうが何かとオモシロイので、そうあってほしいという願いも込めて、お話を進めていきましょう。

それに、少年の頃から観音寺城主・六角義賢(ろっかくよしかた)に仕えたという事を考えると、幼い頃からある程度の武術的な訓練を受けていた可能性も考えられますしね。

ところが、そんな少年・一益は、ある日、些細な事で同僚とモメ事を起こしてしまい、相手を殺害してしまいます。

これが、主君・義賢の怒りに触れて追放され、しかたなく、叔父の家に厄介になるのですが、今度は、ここで、叔父のお妾さんとデキちゃったために、またまた叔父の怒りを買ってしまいます。

怒った叔父が、一益を殺そうとした事で、逆に叔父を殺害・・・殺人の罪を背負ったまま流浪の身となった一益・・・

当時、一番、活気のある町・へとやってきます。

その堺の町で、鉄砲職人と知り合いになった彼は、その職人の弟子となり、その製造法や使い方を学び、銃の腕も磨きます。

そんな一益の前にに登場するのが、若き日の織田信長です。

鉄砲に興味を持っていた信長が、度々、堺の商人たちと接触しているのを目の当たりにした一益は、「自分が仕えるなら、この人しかない!」と思うのでした。

早速、信長に働きかける一益・・・運良く、信長に面会が叶った彼は、仕官したいと思っている事を伝え、自分自身を猛アピールします。

もともと、良いと思えば、新しい物をどんどん取り入れる革新派の信長さん・・・それは人材に関しても同じ事・・・。

この時一益は、信長の目の前で、銃の腕を披露し、100発中72発を命中させたと言います。

その鉄砲の腕を買われて、見事、信長の配下となった一益は、次々と武功を挙げていきます。

まずは、徳川家康(松平元康)との同盟を成功させ、永禄十年(1567年)から始まった伊勢討伐では蟹江城を奪取し、自らが傘下に加えた九鬼水軍とともに大活躍・・・それは、信長に「先駆けは一益 殿(しんがり)も一益」と言わせるくらいの評価を受けました。

その後の、長島一向一揆や、石山本願寺との合戦でも、配下の水軍を擁して戦い、天正十年(1582年)の甲州征伐では、まだ年若き織田信忠(信長の長男)をサポートして、武田勝頼を自刃に追い込みます(3月11日参照>>)

この時の活躍で、事実上の関東管領職まで任せれるようになった一益(3月24日参照>>)・・・殺人を犯して故郷を追われ、流浪した頃から見ると、とてつもない出世を果たしました。

しかし、ここで、ご存知の本能寺の変・・・信長が亡くなってしまいます(6月2日参照>>)

やはり、信長あっての一益だったのでしょうか?

ここから、一益の人生も大きく狂いはじめます。

まずは、主君の急を知って、すぐに上洛を果たそうとしますが、やはり信長の死を知って、目の前に立ちはだかった北条氏政氏直親子に神流川の戦いで敗れて上洛できず・・・(6月18日参照>>)

その余波で、信長の後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にも出席できず、その後の羽柴(豊臣)秀吉柴田勝家との対立では、勝家につきますが、ご存知のように賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で、勝家は大敗を喫して自刃してしまい、一益自身も攻められて降伏・・・その後は、秀吉の配下となります。

しかし、そこも安住の地ではありませんでした。

家康を味方につけた信長の次男・織田信雄と秀吉が戦った小牧・長久手の戦い蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)で、せっかく手に入れた城を開城し、徳川方に降るという大失態・・・。

しかも、その3ヶ月後には和睦が成立してしまい、居場所が無くなった一益は、京都妙心寺にて剃髪し、越前大野で隠居暮らしをする事に・・・。

『小牧戦話』『老人雑話』では、「居場所が無くなった一益が、あちこちと、さまよい歩き、最後には餓死した」と失意の行き倒れになった事にされてしまっていますが、さすがに、実際に餓死する事なかったようですが、そんな噂が立つほどに、悲惨な転落ぶりだった事がうかがえます。

ただ、関東管領に大抜擢された頃の京都の知人に宛てた手紙には・・・
「武田討伐の褒美には、小茄子(こなすび・名物茶器の名前)を貰うつもりでおったんやけど、上野(こうずけ)というえらい遠い国を貰てしもて・・・これで、しばらく茶の湯から遠のいてしまうますわ~」
と、いうような心情を話してもいるので、もし、その気持ちが本心だとしたら、秀吉と家康のハザマで、苦悩するよりも、案外、越前での隠居生活が気楽で良かったのかも知れません。

天正十四年(1586年)9月9日、そんな滝川一益が、隠居先の越前にて、波乱万丈の人生を終えました。
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2008年9月 8日 (月)

大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割

 

今日は、以前からチョコッとだけシリーズ化している大阪マイナー史跡のご紹介・・・と言いたいところですが、写真を見ておわかりの通り、史跡というよりは、普通の橋です。

Ootebasicc

この橋は、大阪城の大手から、西へ伸びる大手通りの東横堀川に架かる大手橋という橋。

現在は、東横堀川の上を阪神高速道路が走っているので、この橋の上にも、阪神高速が思いっきりかぶさっております。

この東横堀川に架かる橋は、北から・・・
まずは、今橋、それから、以前、【東海道は五十七次】(8月10日参照>>)で書かせていただいた、江戸時代の東海道の大阪の基点・高麗橋、次に平野橋、そして、この大手橋、さらに本町橋農人橋・・・という具合に続いていきます。

この大手橋が、現在のようなコンクリートになり、大手橋という名前になるのは、大正十五年(1926年)の事で、それまでは、木製で、思案橋と呼ばれていたのですが・・・それは、写真をアップで見ていただくとわかると思いますが、この橋を渡ると、すぐに突き当たりとなっていて、右か左にしかいけないわけです。

それで、かの豊臣秀吉の五奉行の一人であった増田(ました)長盛が、大坂城を出てこの橋を渡った時に、右に行こうか?左に行こうか?と思案したから思案橋・・・あるいは、その長盛が、橋の命名を任されて、どんな名前にしようか?と思案したから思案橋となった、などと言われてます。

・・・で、なぜ、現在も利用されている、ごく普通の橋を、マイナー史跡としてご紹介するかと言いますと・・・それは、思案橋の名の由来でもある、渡ったら行き止まり・・・というのに関係があります。

地図を参照していただくとわかりやすいと思うのですが・・・

Ootebasitizucc この地図・・・縮尺はムチャクチャですし、自分なりにいらない部分は省略してしまってますので、もし、手元に大阪市の地図をお持ちであれば、そちらを見ていただいたほうが正確でよいと思います~

実は、この東横堀川を挟んで東側は、豊臣秀吉の時代に区画整理された町並みで、西側は、その後、天下を取った徳川家康によって区画整理された町並みだと言われています。

つまり、違う都市計画のもとに造られた町並みが、ここで統合されたために、道が微妙にズレて、大手橋だけではなく、この東横堀川沿いのあっちこっちで行き止まりの道がたくさんできてしまっているのです。

町の名前にも、その名残りがあります。

東横堀川の西側は、豊臣時代の町の外側なので淡路町、そして、東側は内側なので内淡路町・・・本町内本町も、平野町内平野町北と南の久宝寺町内久宝寺町も・・・東横堀川の内と外という意味ではないかと・・・。

これは、大阪だけではなく、東京や、そのほかの町でも言える事ですが、町の名前は、現在でも当時の名残りを留めているものがあり、じっくり見ていくと、実におもしろいです。

先日、信長・秀吉・家康の三人だけが成しえた城割(しろわり)について書かせていただきましたが(8月19日参照>>)、一つの国に一人の大名・・・そして、その大名の居城となる城を中心に発展していく近世城下町・・・。

これは、それまでの戦国城下町とは明らかに異なる都市計画で造られました

最も違う部分は、戦国城下町では、そこに住んでいるのは、重臣クラスくらいまででしたが、近世城下町では、上記の城割によって、兵農が分離され、常時戦闘可能なプロの戦闘集団である家臣団が、皆、主君の居城の城下町に住むようになり、武士の数が非常に増えた事・・・

もちろん、町が発展すれば、町民も増えますから、戦国時代には入り混じっていたその居住区域を、はっきりと分けて整備したのも、近世城下町と戦国城下町の違いです。

・・・とは、言っても、どのような街づくりを行うか?という事細かなプランは、天下人の指示ではなく、それぞれの大名にまかされていたようで、各城下町によって様々です。

このような、都市計画の事を町割(まちわり)と言いますが、だからこそ、豊臣時代の大坂城を跡形も無く潰して、まったく新しい城を構築した家康も、町割に関しては、すべてを潰すのではなく、豊臣時代の物をそのまま利用し、その外側に新たな町割を配置したというわけです。

当時の一般的な町割は、お城に近い部分に武家屋敷・・・それも、より近い場所に重臣クラスの屋敷を置き、遠くなるにつれて石高の低い武士の屋敷が配置されます。

大阪の場合は、大阪城の北西、地下鉄南森町駅ちかくに、与力町同心町といった地名が、今も残ります。

・・・で、その外側に商人町職人町が配置されるのですが、場所によっては、境目に足軽長屋などを建てて、一線を画す場合もあり、その往来が厳しく制限される事もあったようです(井伊さんの彦根城下はかなり厳しかったらしい)

もちろん、外側にある商人町、職人町の配置も決められ、大阪にも、糸屋町・槍屋町などという地名が、今も残っていますが、大抵は、交通・運輸に関わる場所(大阪では博労町船場は、街道筋や大手筋に設けられる事が多く、魚(肴)を扱う商人の町は、臭うからと幹線道路を外して配置されたりしたようです。

面白いのは、冒頭で書いた思案橋(大手橋)・・・江戸時代(1846年)の記録には、この思案橋の東側に、18軒の塩干魚・松前物(北海道産の昆布とか・・・)の店があった事が書かれているのですが、その江戸時代には、同時期に、現在の西区の(うつぼ)公園のあたりに大きな塩干魚の市場があった事が確認されてます。

・・・で、この18軒の塩干魚屋・松前物さんは、実は豊臣時代のお店の名残り・・・つまり、豊臣時代は東横堀川の内側(地下鉄・北浜駅の東付近)にあった塩干魚屋・松前物屋さんが、徳川時代には、外側へ移動したという事です。

それだけ城下町が大きくなったって事なんでしょう。

もちろん、豊臣時代には、日本海から敦賀・琵琶湖そして淀川を通って運ばれて来た松前物が、江戸時代後半には、瀬戸内海を通る大きな船で大量に運ばれて来たという事もあり、より海に近い運輸に便利な場所に移動したという事もありますが・・・。

他にも、火薬を扱う鉄砲職人や鍛冶屋などの町も、危険という事で城下町のはずれに配置される事が多かったようです。

そして、もちろん処刑場も・・・。

これは、やはり、身分の低い人たちが、その手伝いや死体処理をしていた関連から、城下と城下外の境界線に居住させられる事が多かったためだそうですが、大阪では千日前が元・処刑場として有名・・・って事は、そのあたりが城下町のはずれだったという事なのですね。
(江戸時代の「市中引き回し」のルートを歩いた史跡巡りは2010年12月17日のページへ>>

こういう視点で、地図をみていると、なんだか当時の城下町が見えてくるようで不思議・・・話は尽きませんが、今日はこのへんで・・・
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私の書いた地図では心もとないので、一応、最後に、Googleマップを貼り付けておきます。

大きな地図で見る

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2008年9月 7日 (日)

北条時宗が元との徹底抗戦を決意した日

 

建治元年(1275年)9月7日、鎌倉幕府の時の執権・北条時宗が、瀧口にて、元の使節・5名を斬殺しました。

・・・・・・・・・・

12世紀の後半、モンゴルに現れたチンギス・ハーンは、またたく間にモンゴルを平定し、騎馬民族を率いて、西へ・・・ついには、ヨーロッパに及ぶモンゴル帝国を築きました。

その孫のフビライ・ハーンは、その目を東へと向け、首都を北京に、国名を元に改め、朝鮮半島へ進出・・・やがて、その手を日本へと伸ばします。

文永五年(1268年)以来、フビライは7回にわたって、服属の要求をする国書を日本へと送るのです。

「あんなぁ、高麗(こうらい)は、俺ンとこの属国やねんで。
君とこって、昔から高麗と仲えぇし、中国に使い送ったりしとったやんか。

せやのに、俺の代になってから、いっこも使いよこさんと、ぜんぜん交流ないやん。

ひょっとして、俺ンとこの国の事、ようわかってないんちゃうかな?って思て、心配してんねやんか。

せやから、こっちから使いを出して、手紙渡して、俺の気持ちわかってもらおかなって・・・・俺かて、できたら武力行使はしたないしなぁ・・・」

この時、事実上の鎌倉幕府の責任者・執権をやっていたのは、第7代・北条政村(まさむら)・・・すでに、この時点で64歳、しかも彼は、第3代執権の北条泰時の弟・・・つまり分家の出身でした。

実は、その7年前に、本来、執権を継ぐべき宗家の北条時宗(ときむね)は、わずか11歳で家督を継いだのですが、あまりに年若いという事で、当時は、まだ、執権に次ぐ連署という役職に着き、政村を補佐する形の見習い期間中だったのです。

しかし、モンゴルからの国書を受け取った今、そのモンゴルとの交渉もしなければいけんませんし、ヘタすりゃ、攻めて来られるかもしれません。

そこで、幕府は、フビライの初めての国書を受け取った直後、若いとは言え、18歳になった宗家の時宗を執権に、ベテラン政村を連署に・・・と、役職を入れ替えてモンゴル対策にあたったのです。

そんなこんなで、第8代執権になった北条時宗・・・やがて、ご存知のように、文永十一年(1274年)10月19日、すでに壱岐・対馬を制圧した(10月5日参照>>)元の船が博多湾に進入して来るわけです文永の役:10月19日参照>>)

そして、海岸べりで一戦交えたその夜に、夜襲を恐れて船に戻った元軍は、例の神風で壊滅状態になって、しかたなく撤退するわけですが、以前も書かせていただいたように、どうやら、それは神風・・・というよりは、元の船の造りが、も一つだったようです。

なんせ、海を知らない騎馬民族が、征服した漢軍や高麗軍の技術に頼り、やっつけで造った船でしたからね・・・

ところが、性懲りも無くその翌年の建治元年(1275年)、またまた元の使者が来日します。

杜世忠(とせいちゅう)をリーダーに、現在の山口県に上陸した5人の使者は、すぐに捕らえられ、大宰府に送られます。

その後、時宗に謁見するという名目で、鎌倉に送られた杜世忠らは、建治元年(1275年)9月7日瀧口にて斬首されるのです。

この斬首については、この直後から賛否両論あるようですが、彼らが、単なる使者ではなく、スパイ行為を行っていたという話もあるようですし、第一、大挙押し寄せ、侵略に失敗した敵国から、「降伏しろ」という使者が送られて来ても、「ハイそうですか」と、すんなり降伏するワケにもいかないわけで・・・

それまで、何度も送られてきた国書に、まともな返事をしてこなかった結果が文永の役なら、ここで明白な返答をしようという幕府の姿勢が、この一件だったようにも思います。

これ以降、時宗自身、もはや徹底抗戦をも辞さずという決意が固まったようです。

まずは、九州の御家人を中心に、異国警固番役(いこくけいごばんやく)という役職を設けて九州や中国地方の防備を固め、さらに、翌年の3月~8月にかけて九州の領主たちに命じて、博多湾に防塁を築かせます。

それは、西は今津長浜から、東は箱崎まで、高さ2.4m、幅3m、総延長20kmにも及ぶものでした(3月10日参照>>)

かくして、元軍はふたたび現れ、弘安四年(1281年)の弘安の役(6月6日参照>>)となるのです。

日本人の感覚なら「まともな返事をしない=NO!」なんですが、国際的には、そんな暗黙の了解は通じませんからねぇ・・・

ちなみに、大阪では「また、今度にします」「考えときます」というのも「NO!」という意味ですが・・・国際問題の難しいところです。

ところで、この時、築かれた防塁・・・一部は、現在も残っているようですが、市街地など、ほとんど跡形もなくなってしまっていますが・・・。

実は、これ・・・自然に壊れたものや、埋もれてしまったものではなくて、あの毛利元就の三男で、事実上乗っ取る形で小早川家に養子に入った小早川隆景(こばやかわたかかげ)が、名島城を築城する際に、石垣として再利用するために、大量に持ち出したのだそうです。 
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2008年9月 6日 (土)

佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相

 

慶長十二年(1607年)9月6日、肥前の戦国大名・龍造寺高房が急死しました。

・・・・・・・・・・・・

怪談話として知られる佐賀・鍋島藩「化け猫騒動」・・・。

有名なところでは・・・

佐賀・2代藩主の鍋島勝茂(かつしげ)が、家臣の龍造寺又一郎(りゅうぞうじまたいちろう)を騙まし討ちにしたところ、又一郎の首をその飼い猫が持ち帰り、飼い主の血をなめて、妖怪となり、側室・お豊に化けて鍋島家に入り込み、復讐を企てます。

お家騒動を画策したり、勝茂の子供を死に至らしめたり・・・その他、様々な奇怪な事が佐賀中で勃発しますが、やがて、千本本右衛門(せんぼんもとえもん)という勇者が、お豊の本性を見破り、すかさず退治・・・これによって、怪現象は無くなったという・・・

・・・と、上記以外にも、藩主が違っていたり、化けるのが側室ではなかったり・・・といくつかのパターンはあるものの、おおむね鍋島に対して怨みを持った龍造寺の思いを背負った化け猫が、復讐をしようとするものの、最終的に退治されるというのが、共通するストーリーです。

しかし、さすがに、この妖怪話が本当の出来事でない事はわかります。

ただし、こんな怪談話が生まれる土台となる出来事は、実際にあったのです。

それは、鍋島と龍造寺の主従関係・・・上記の物語では、鍋島=藩主に対して、龍造寺=家臣ですが、以前、田手畷の戦いのページ(8月15日参照>>)で書かせていただいたように、もともとは、龍造寺=主君で、鍋島=家臣だったのです。

つまり、鍋島が主君である龍造寺にとって代わったと・・・が、しかし、そんなの戦国の世では、当たり前・・・第一、鍋島の主君だった龍造寺隆信だって、その主君に当たる少弐氏を倒して肥前(佐賀県)を手に入れたわけです(1月11日参照>>)から、いちいち怨んで化けてたら、そこらへん化け猫だらけになってしまいます。

ところが、この龍造寺と鍋島の関係は、そのあたりの下克上とはちょと違う・・・そこに、この化け猫騒動の生まれる要因があったのですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正十二年(1584年)、肥前の熊と呼ばれて恐れられた、その隆信が、島津との沖田畷(おきたなわて)の戦いで討死します(3月24日参照>>)

ところが、すでに家督を譲られていた隆信の長男・龍造寺政家は、当主らしい事はまったくせず、領国内の統治のすべてを家臣である鍋島直茂にまかせっきりにしてしまうのです。

直茂は、隆信の危機を、その知恵で何度も回避した事のある智将ですし、隆信の従兄弟でもあるので、言わば身内・・・隆信自身が生前、息子・政家に「何かあったら、直茂に相談しろ」と言い聞かせていた事もありました。

さらに、政家自身が、病弱であった、あるいは障害を持っていたなどと言う話もあり、この直茂が、すべてを仕切る事に関しては、他の家臣たちも納得ずく・・・いや、むしろ、家臣たちの話し合いによって、「当主が何もできないのなら・・・」という事で決まった形態だったようです。

それでも、直茂には、主君にとって代わろうなどという気持ちはなく、あくまで、政家を当主として立てていました。

やがて、九州征伐での直茂の活躍を見た天下目前の豊臣秀吉は、主君・政家よりも直茂を重視し、領地を与えて大名扱いするばかりか、政家に隠居するように勧め、まだ5歳の政家の息子・龍造寺高房(たかふさ)に家督を譲り、直茂を、その後見人にするよう命じるのです。

もはや、事実上、完全に直茂が当主のようになってしまったものの、やはり彼の実力は、家臣の皆も認めるところで、むしろ、家臣たちも直茂寄りの状態・・・。

やがて、関ヶ原の合戦後、徳川家康の傘下に入った龍造寺氏でしたが、この頃には、高房も大きくなって、直茂の養女を妻にして、その実権を自分に戻すよう画策しますが、もはや家臣団は皆、直茂の味方・・・

そうこうしているうちに徳川2代将軍・秀忠に仕える高房は、江戸住まいをするようになり、遠く離れた佐賀が、鍋島に乗っ取られるんじゃないか?と気が気じゃない・・・

不安に不安が重なっていき、とうとうご乱心のうえ、慶長十二年(1607年)の3月3日に、妻を殺害して、自らも自殺を図ります。

この時は、何とか一命はとりとめたものの、結局その半年後の9月6日その傷が悪化して帰らぬ人となったのです。

そう、冒頭で、急死と書きましたが、どうやら、乱心の上の自殺のようなのです。

しかも、父の政家も、息子の死のショックから立ち直れず、その1ヶ月後に亡くなってしまい、龍造寺家は後継者がいない状態になってしまいます。

ただし、この龍造寺氏は、本家・・・他にも、いくつかの分家があったため、直茂は、各・龍造寺家の重臣を集め、「誰が後を継ぐのか?」を話し合ったところ、全員が、直茂の息子・鍋島勝茂を推しのだとか・・・ホンマかいな?

ちょっとアヤシイ気もしますが、同じ龍造寺と言えども、分家の場合は、あくまで本家の家臣ですから、直茂の手腕しだいでは、そういうなりゆきになるかも知れませんね。

かくして、名実ともに、佐賀35万石は、鍋島藩となります。

ところが、かの高房には、隠し子がいたのです。

それも、本人も知らなかった隠し子・・・ただし、あくまで自称のようですが、とにかく、この龍造寺季明(すえあき)なる人物が、龍造寺の復権を幕府に訴えるのです。

この人物が本物かどうかはともかく、どうやら、未だ龍造寺を推す家臣が何人かいたようです。

なんせ、いくら直茂が、周囲の家臣の心を掌握していたとしても、100%というワケにはいきませんからねぇ・・・

しかし、もはや鍋島藩として、安定した地位にある勝茂らも、訴えられた幕府も、真剣に取り合わなかったため、不満ムンムンの季明派の家臣たちが、鍋島の家臣を、次々と闇討ちにしはじめ、「高房の亡霊が復讐している」との噂を流した・・

どうやら、これが、化け猫騒動の真相のようです。

力ずくで、主君を倒しての下克上でなかっただけに、どこかで道を踏み外し、何か、おかしな事になっちゃったんでしょうね・・・。
 
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2008年9月 5日 (金)

飛鳥より奥深い~彼岸花が咲き乱れる奥明日香

 

今日は、史跡巡りのお話・・・このブログのフォトアルバムで、いくつか写真をupしていますので、すでに見ていただいてる方もおられるかと思いますが、一年でこの季節が最も美しい奥明日香をご紹介します。

Okuasukatizucc もちろん、「最も美しい」は私の勝手な意見で、四季折々、それぞれの美しさがあるのですが、やはり、秋の実りを待つ棚田に一面の彼岸花が咲き誇る9月下旬が最高に美しいのではないかと・・・

皆さんよくご存知の明日香村・・・あの高松塚古墳亀石、そして飛鳥大仏の飛鳥寺や、聖徳太子の誕生の地として知られる橘寺・・・などなど、数え切れないほどの史跡・遺跡が点在する歴史好きでなくとも、心ワクワクする場所です。

有名な石舞台には、いつもたくさんの観光客の方が訪れていますが、今日ご紹介する奥明日香は、その石舞台から飛鳥川沿いに南に向かう上市古道の周囲にあります。

この上市古道は、明日香から芋峠を越えて吉野へ抜ける昔の重要な街道・・・持統天皇も、松尾芭蕉も、そして岡寺詣での多くの善男善女が通った道なのです。

そもそも、私がこの上市古道を歩きたいと思ったきっかけは、その持統天皇でした。

持統天皇は、あの大化の改新で有名な天智天皇を父に、天智天皇の弟で壬申の乱で後継者争いをする天武天皇(6月4日参照>>)を夫とする女帝です。

そんな彼女は、その人生のなかて合計31回、吉野へ通っています。

女の身で国家という思い荷物を背負って、思い悩んだ時、疲れて倒れそうになった時、彼女は、夫・天武天皇とともに、過ごした思い出の地・吉野を訪れたように感じます。
(くわしくは、2月27日:吉野の花見の意味は?>>>
     12月22日:女帝・持統天皇の葛藤>>>をどうぞ)

すべての御幸で、この道を通ったかどうかはわかりませんが、やはり、当時、明日香⇔吉野間で一番整備されていたのがこの道だったでしょうから、おそらく、上市古道を通ったのではないかと・・・。

時には稲渕の棚田の秋の稔りを見ながら・・・、
時には栢森で飛鳥川を眺めながら・・・、
時には行者橋の美味しい水に舌鼓をうちながら・・・、
やがて到着した芋峠ではるか下界の飛鳥を振り返り・・・
彼女の吉野への旅はいつも特別な思いだったことでしょう。

私は、持統天皇が見た風景を見たくて、奥明日香へと向かいました。

だがしかし・・・
ガイドブックはおろか、ちゃんとした地図さえない、この場所に、「行けば何とかなるだろう」と見切り発車の現地入り。

Imotougehecc 結局、行けたのは石舞台から、栢森(かやのもり)まででしたが、この栢森から先は、バスもない山越えで、徒歩なら上市(かみいち)まで3時間以上かかるとの事・・・しかも、昼なお薄暗い写真(→)のような道が続きますので、やはり、上市まで制覇するとすれば、車のほうがオススメです。

しかし、石舞台から稲渕(いなぶち)を経て柏森までは、ぜひ徒歩で・・・

 

Asukagawatizucc 石舞台バス停から、石舞台を見物して、小高い丘になっている飛鳥歴史公園を越えると、そのふもとにあるのがマラ石・・・この名前から想像するその形をした石で、もとは垂直に立っていたとか・・・

Maraisicc_2 このマラ石は、対岸のフグリ山と対をなす、子孫繁栄・五穀豊穣を祈る古代信仰の遺物だとされていますが、実際には何に使用された物かわからず、明日香の謎の石造物のの一つです。

そう、この奥明日香には、おそらく、仏教が伝わる以前に古代の日本人が信仰したであろう古代信仰が今なお息づいているのです。

毎年、成人の日には、男性のシンボルを象った男綱(おづな)が稲渕地区にて、1月11日には女性のシンボルを象った女綱(めづな)が栢森地区にて、綱掛け神事が行われるのも、土だけでも種だけでも作物は実らない、五穀豊穣と子孫繁栄を祈る古代信仰に基づくものでしょう。

話を、行程に戻しますが・・・

マラ石からさらに、南へ行ったところが稲渕・・・美しい棚田が広がり、9月の下旬には彼岸花が咲き乱れ、見事な風景です。
Inabutitanada2ccjpg_2 今年も、9月21日~23日の3日間、彼岸花まつりが開催され、期間中には、案山子(かかし)コンテストをはじめ、様々なイベントで大いに賑わいます(くわしくは「彼岸花まつり情報」で>>)

Odunacc その稲淵地区の飛鳥川に掛けられているのが、先ほどの男綱

そして、近くには、
♪明日香川
 明日も渡らむ
 石橋の 
 遠き心は
 思ほえむかも♪

と万葉集にも詠まれた石橋(いわはし)が架かっています。

Iwahasicc

この石橋を渡って、恋人に会いにいった万葉人に思いを馳せながら、飛鳥川に沿って、さらに南へ・・・

Minamibutisyouancc 日本最古の墓標とされる竹野王碑のあるる竜福寺を経て、南淵請安のお墓・・・この南淵請安(みなみぶちしょうあん)は、遣唐使として中国に渡った後に帰国して、人々に儒教を教えた人(10月11日参照>>)ですが、あの中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)が、この請安に教えを乞いながら、大化の改新と蘇我入鹿・暗殺計画を練った事でも有名・・・請安先生のお墓は、今も飛鳥川を見守るように鎮座します。

Uzutakihimenomikotozinzyacc さらに、南に行くと、階段も長いけど名前も日本一長い飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社(あすかがわかみにますうずたきひめのみことじんじゃ)・・・実は、私がこの奥明日香を訪れた時、この神社で偶然お知り合いになったのが、神奈備の郷・活性化委員会「さらら」の皆さん。

皆さんは、町おこしの一環として、特産品のお店やボランティアガイドなどの活動を精力的に行われており、私も、この日、奥明日香について、イロイロ教えていただきました。

最近、この「さらら」の皆さんは、地元の特産品を食べさてくださるお店もオープンされました。
(くわしくは、このブログと相互リンクしていただいている「さらら日記」でどうぞ>>)。

いや、ホント、上記の通り、まともな地図も持たずに歩いていたので、お知り合いになれて助かりました~。

Medunacc ・・・と、そんな出会いもありつつ、柏森地区の飛鳥川に掛かる女綱へ・・・

女綱を過ぎると、柏森バス停はすぐです。

「さらら」の皆さんのアドバイスによれば、やはり、お昼頃までには、柏森を出発しないと、上市まで徒歩というのはムリらしく、この日は、すでに3時を回っていたため、芋峠越えはあきらめましたが、その分、柏森発→石舞台行きの最終バスまで、少し時間ができたので、柏森からもう少し先のゴラの滝まで行ってきました。

Goranotakicc 今回は行けませんでしたが、ゴラの滝のさらに向う、芋峠との間に架かる行者橋には、役行者(えんのぎょうじゃ)が飲んだおいしい水があるのだとか・・・

 

 
さぁ、季節は秋・・・もうすく、奥明日香は、彼岸花一色に包まれます。

皆さん、石舞台までで帰ってしまわれるのはもったいない・・・

今度の明日香観光は、文字通り明日香より奥深い奥明日香へ行かれてはどうでしょう。

Inabutihiganbanacc

ホームページではもっとくわしく、今回紹介しきれなかったすべての史跡についてご紹介しています。
よろしければコチラからどうぞ>>
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2008年9月 4日 (木)

大村益次郎・暗殺犯と海江田信義

 

明治二年(1869年)9月4日、明治新政府で兵部大輔に就任した大村益次郎が、京都で襲撃されました。

結局、この時の傷がもとで、益次郎は2ヶ月後に亡くなってしまうのですが、彼が一介の医者から新政府の中心人物となる経緯については、すでに、そのご命日の日に書かせていただきました(11月5日参照>>)ので、本日は、その暗殺と暗殺犯について書かせていただきます。

・・・・・・・・

緒方洪庵(おがたこうあん)適塾で医学を学ぶかたわら、独学で兵学を学び、長州藩の討幕運動に参加し、戊辰戦争を、その戦略で勝利に導いた大村益次郎・・・維新後は、その功績で、新政府・軍部の最高位に立ちます。

そんな益次郎が、新たに取り組んだのは、軍隊の改革でした。

それは、「もはや、武士の兵法は古く、徴兵制を設けて国民皆兵とし、西洋式の軍隊に育てあげるという物でした。

しかし、それは未だ武士のプライドを捨てきれない多くの士族(元武士)たちの反感を買う事になります。

なんせ、もともと、武士はプロの戦闘集団・・・それ故、江戸時代を通じて、特権もあり身分も高かったわけですが、それが国民皆が兵士になれるとなると、当然、その特権も亡くなり、身分制度も四民平等となるわけですから・・・。

しかも、かの戊辰戦争を命がけで戦ったのは、その武士たちです。
戦いに勝って、新しい世の中となった途端、「もう、古いからいらないよ」と言われても、納得できるはずもありません。

しかし、益次郎の言う通り、これまでの武士の戦い方で、迫り来る外国を相手に、この日本国を守り抜く事は、ほぼ不可能なのは確かですから、少し強引ながらも、彼は、その理想に向かって突き進む事になります。

・・・というのも、考えてみれば、長州藩として討幕運動に参加したとは言え、彼の基本は学者です。

その学問が兵学であったり、軍艦を造る造船術であっただけで、もともと身体を貼って討幕運動に参加していた武士とは、一線を画す存在なわけで、最前線で命を賭けた者から見れば、何の苦労もせずに、とんとん拍子に出世したように思えるのもしかたのないところです。

そんな益次郎が、さらに武士の存在を否定するかのような、新たな軍隊を目指そうとするのですから、反対分子の者たちの不満は、ますます膨れ上がります。

かくして運命の明治二年(1869年)9月4日、この日、益次郎は、新しい火薬庫と兵学寮の建設予定地の下見のため、京都へと向かいました。

下見を終え、二人の部下といっしょに、京都三条木屋町の旅館に戻っていたところを、その不満分子に襲撃されるのです。

とっさに、そばにいた一人が、行灯(あんどん)を消して、「俺は大村だ!」と叫んで、身代わりになってくれたおかげで、その場では一命を取り留めた益次郎でしたが、そのあと、犯人が立ち去るまで、1階の風呂場の湯船に身をひそめていたため、最初に一太刀あびた右足の傷が化膿してしまい、すぐに運ばれた大阪の病院では、足を切断するしかないという診断を受けてしまいます。

しかし、彼は政府の首脳陣の一人・・・このような大手術を、勝手な判断で進めるわけにはいかなかったのです。

他の首脳陣のいる東京と、「どうする?」「こうする?」とやりとりをしている間にも、容態は悪くなる一方・・・。

やっとの事で、東京の首脳陣からの許しがでて、大阪の病院にて手術が行われましたが、その処置の遅れが災いしたのか、2ヶ月後の11月5日に、容態が急変し、益次郎は帰らぬ人となってしまいました。

一方で、彼を襲った犯人は、すぐに発見&逮捕されます。

それは、維新前の長州征伐の頃から、すでに幹部として軍隊を率いていた尊皇攘夷派の生き残り・神代直人(こうじろなおと)を中心とするメンバーでした。

一人は、すでに襲撃時に亡くなっており、主犯である直人は、長州に潜伏のところを発見され殺害(追い詰められての自刃とも)・・・残り11名が逮捕され、そのうちの主要メンバーである6名が、弾正台(警察機構)によって年内の処刑と決定するのです。

ところが、その処刑の当日、突然、京都弾正台長官海江田信義(かいえだのぶよし)が処刑に反対し、処刑停止命令を出したために、処刑が中止・・・大騒ぎになります。

実は、この海江田信義・・・薩摩藩出身で、幕末の頃には、その名前を有村俊斎と名乗っていたバリバリの尊皇攘夷派で、あの生麦事件(8月21日参照>>)でも、亡くなったイギリス人にとどめを刺したと言われる人物・・・今年の大河ドラマ・篤姫で、薩摩藩士としてただ一人、井伊直弼・暗殺の桜田門外の変(3月3日参照>>)に参加し、直弼の首をあげた事で、逆に切腹を言渡された弟・有村兼清を擁護していたお兄さんと言えば、「あぁ、あの人・・・」と、おわかりになる方も多いかと思います。
(実際にはドラマと違って、切腹を言渡されたのではなく、重傷を負ったために逃げ切れないと自らの意志で自刃したとされますが・・・)

そんな過激派だった彼は、戊辰戦争で参謀として活躍しますが、その当時から益次郎とは意見の食い違いがあり(4月4日参照>>)、維新後も、西洋風を重視する益次郎とは、ことごとく対立していて、元武士の士族に対する態度も正反対だったのです。

そんな信義が、上記の通り京都の弾正台長官・・・つまり、おそらくは益次郎との対立によって、中央である東京から追われた形となっていたため、益次郎に反感を抱く者たちからは、同情的に見られ、彼ら反対分子との親交も深かったようなのです。

もちろん、表向きには、維新の混乱で、未だ司法制度が確立しておらず、単純な書類ミスが生じた事による処刑停止命令という事なのですが・・・。

誰が考えても、怪しい気が・・・。

結局、この騒動直後から、「海江田は、大村への反発から処刑を延ばした」と噂され、果ては、実行犯を陰で操っていたのは信義であるという話まで、まことしやかに囁かれる事になったのです。

果たして、真相はいかに・・・
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2008年9月 3日 (水)

身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱

 

天平十二年(740年)9月3日、大宰府に左遷された藤原広嗣が、玄昉吉備真備の排除を願って挙兵・・・藤原広嗣の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、奈良時代に勢力を誇っていた藤原四兄弟の一人・藤原宇合(うまかい)長男という実にエリート極まりない家柄の坊ちゃんです。

ご存知のように、奈良時代~平安時代に、圧倒的な勢力を誇って頂点に君臨する藤原氏・・・その土台を築いたのが、大化の改新で有名な初代・藤原鎌足(かまたり)の息子の藤原不比等(ふひと)(8月3日参照>>)

その不比等の4人の息子が、藤原武智麻呂(むちまろ・南家)藤原房前(ふささき・北家)藤原麻呂(まろ・京家)・・・そして、広嗣の父である宇合(式家)の四兄弟で、この先、この南家・北家・京家・式家で藤原四卿と呼ばれ、平安時代の藤原道長へと続く、藤原氏全盛の時代を築き上げるわけですが、まずは、彼らの姉の宮子を第42代・文武天皇に送り込んで、宮子が皇子を出産。

その皇子が第45代・聖武天皇となり、その聖武天皇の皇后に、彼らの妹・光明子を送り込んで、政治の実権を掌握し、さらに、皇室政治の生き残り・長屋王を抹殺(2月12日参照>>)し、藤原一族の地位を不動の物とするのですが、悲しいかな天平九年(737年)、彼ら四兄弟は次々と亡くなってしまいます。

そう、聖武天皇が恐れに恐れ、次から次へと遷都を繰り返し(5月24日参照>>)、最終的に大仏建立にまで至るあの天然痘の大流行(10月15日参照>>)です。

主軸たる四兄弟を失った藤原氏・・・その隙間に入り込んで、頭角を現してきたのが、不比等の後妻だった橘三千代(たちばなのみちよ)の息子・橘諸兄(たちばなのもろえ)(11月11日参照>>)です。

諸兄をバックアップするのは、ともに中国から最新の学問を学んで帰ってきたばかり玄昉(げんぽう)吉備真備きびまきび)(4月25日参照>>)

「このままでは、藤原氏の地位が危ない!」
そう思ったのが、本日の主役・藤原広嗣です。

彼は、天平九年(737年)に、一気に3段階昇進して従五位となり、翌年には式部少輔兼大養徳(大和)守という重要な職につくという大出世の真っ只中、まさに上り調子の藤原氏のエリートだったのです・・・なんせ父親は四兄弟の一人ですから・・・。

ところが、ここに来て、藤原氏の将来を思うあまり、
「何やっとんねん!お前ら」
「このままやったら、やられてまうぞ」
「俺らの一族には、ちゃんとしたヤツおらんのか!」
「諸兄にヘラヘラして、どないするんじゃ!」

・・・藤原氏への不満をぶちまけ、悪口を言いまくる毎日を送ります。

広嗣に言わせれば、あくまで、ふがいない藤原一族を叱咤激励するための不平・不満だったのですが、この悪口があまりにヒドイという事で、彼は、九州の大宰府に左遷されてしまうのです。

左遷されれば、さらに不満がつのるのは、当たり前の事・・・かくして、天平十二年(740年)9月3日、弟の藤原綱手(つなて)とともに、1万余の兵を率いて、反乱を起こしたのです。

藤原広嗣の乱の勃発です。

その旗印は・・・
「時の政治を正し、天地の災を陳情」
「朝廷の乱人・二人
(玄昉&吉備真備)の排除」
の二つ・・・。

そうです。
広嗣の反乱は、あくまで藤原氏のためであって、VS藤原氏ではないのです。

倒したいのは、諸兄一派・・・ところがどっこい、もう怖くてたまらない聖武天皇にとっては、乱は天然痘と同じ恐怖の対象ですから、すぐさま、大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする1万7千の鎮圧軍を派遣

広嗣と綱手は、長門(山口県)から渡海する大野軍を筑後豊前(福岡県)で迎え撃つ作戦に出ますが、大野軍は「広嗣は天下の逆賊・・・すぐに神罰が下るであろう」と、自軍が官軍である事を猛アピールします。

さらに・・・
「そんなヤツに味方してるお前らにも天罰が下るゾ!」
と、まくし立てながらの進軍。

この時代は、聖武天皇がメチャメチャ怖がったように、神罰・天罰なんて事が100%信じられていた時代ですから、そのアピールを聞いて、広嗣軍から官軍に寝返る者が続出・・・。

結局、10月23日に広嗣・綱手兄弟は捕らえられ、11月1日備前・唐津(佐賀県唐津市)にて、東人の手で処刑され、乱は2ヶ月足らずで終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日のページの最後に広嗣さん、一言お願いします。
「何やっとんねん!お前ら」

やっぱり・・・そりゃ、言いたくもなりますわな。

藤原氏の事を思って頑張ったんですから・・・。

しかし、広嗣さん、ご安心を・・・
あなたの式家は脱落してしまいますが、北家はまだまだ続き、藤原氏は天下に君臨し続けるのですから・・・。

せっかくの思いが水の泡に・・・なんだかお気の毒です。
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2008年9月 2日 (火)

皇女・和宮とガラスの写真

 

明治十年(1877年)9月2日、公武合体の象徴として、第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ皇女・和宮が、その生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

第121代・孝明天皇の妹・和宮(静寛院宮・せいかんいんのみや)の降嫁については、つい先日も書かせていただきました通り、地に落ちた幕府の威厳回復のための策として行われた公武合体(皇室と幕府が協力)の象徴的なものでした(8月26日参照>>)

そのページにも、書かせていただきましたが、その時の和宮には、すでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という婚約者がいたにも関わらず、その婚約を破棄してまで徳川家茂(いえもち)との結婚・・・

「天下泰平のため、いやいやながらお受けします」
との言葉通り、本人の意向関係なしの100%の政略結婚・・・。

しかも、大奥に入っても、普段の生活で京都でのしきたりを変えないばかりか、将軍の正室の呼び名である「御台所(みだいどころ)を使わせず、「宮さま」と呼ばせたなどの話から、家茂と和宮の関係は冷えきっていたのではないか?とも言われています。

しかし、逆に、100%の政略結婚であったワリには、けっこう仲睦まじかったのでは?という見方もあります。

私は、後者・・・二人は、仲睦まじかったのではないか?と思っています。

・・・というのも、和宮との初めての対面の時に、家茂が、自分のほうから挨拶をするという禁中のしきたりを守ったように、その後も、なるべく、武家のしきたりを強要するような事をせず、極力、和宮の事を大切に扱っていたところが見えるからです。

金魚などの珍しい物が手に入ると、必ず和宮に見せたり、和宮が宮中のように歌を送ると、かんざしをプレゼントして返答するなど、そのやさしさがうかがえる逸話も残っています。

その究極が、家茂の遺品です。

二人の結婚生活は、家茂の死を以って、わずか三年半ほどで終ってしまうのですが、その間に家茂は二度上洛し、しかも、2度目の上洛は1年以上滞在していますから、実質的な結婚生活は、もっと短い事になりますが・・・

その2度目の上洛の際、家茂は、和宮に、京都の西陣織をお土産に持って帰って来る約束をするのですが、結局、上方滞在中に21歳の若さで病死してしまい(7月20日参照>>)、その遺品だけが、江戸で待つ和宮に届けられる事になります。

そうです。
その遺品の中には、しっかりと、和宮と約束した西陣織が入っていた・・・少なくとも、家茂のほうは、和宮の事を快く思っていたように感じます。

一方の和宮の心の内は・・・
何と言っても、その後の戊辰戦争で、以前は、あれだけ嫁姑バトルを繰り広げていた天璋院・篤姫とタッグを組んで、徳川家の存続と名誉を守るために、最後まで江戸城に居座ってがんばる(4月11日参照>>)うえに、亡き夫の後を継いで第15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)に、朝廷への手紙の書き方指導などして全面協力する(1月17日参照>>)わけですから、生前の家茂を嫌っていたとは、とても思えませんよね。

しかも、維新後には、一旦は京都に帰るものの、明治七年(1874年)に東京へ戻り、その後は麻布御殿で暮らしています。

しかし、東京に戻って3年後・・・脚気(かっけ)を患い、箱根搭ノ沢にて療養中の明治十年(1877年)9月2日和宮は31歳で、この世を去ってしまうのです

そのお墓は、生前の希望どおりに、徳川家の菩提寺である増上寺家茂のお墓の隣にあります。

家茂のお墓の隣に、自らのお墓を・・・これが、何よりの彼女の答えでしょう。

徳川の女として死ぬ事を希望した彼女に、家茂への愛情があった事を感じずにはいられません。

ところで、その増上寺の徳川家の墓地が改葬された昭和三十五年(1960年)に、人類学や考古学の立場から発掘調査が行われ、将軍やその奥さんたちの体格や、一緒に埋葬されている様々な貴重な遺品が調査されたのですが、中でも和宮のお墓には、調査する人々も特別な関心がありました。

・・・というのも、武家のお墓は、他にも調査された例がありますが、皇族のお墓は、宮内庁の管理下に置かれているため、調査が不可能な状態・・・徳川の女として亡くなった和宮さんですが、もとは皇族・・・その埋葬の仕方や遺品が、どうしても気になってしまうわけです。

・・・で、かの和宮は、子供がうたた寝をしているような穏やかな感じで埋葬されていたそうですが、皇族のお墓と聞いて連想するような豪華な副葬品は、何も入っていなかったのです。

ただ両腕の間に、名刺判ほどの小さなガラス板が発見されました。

「これは、何だろう?」

初めは、懐中の鏡ではないか?と思われたそのガラス板は、どうやら湿板の写真のようだと、電灯の下でかざしてみたところ烏帽子(えぼし)直垂(ひれたれ)姿の、若い男性が写っていたのだとか・・・

ところが、その翌日、もう一度その写真を確かめようと、昼間の太陽光の下でかざしてみたところ、一種の化学反応を起こしたらしく、たちまちのうちにその画像は消え、1枚のただのガラス板になってしまったのです。

両腕の間・・・おそらくは、埋葬された当時は、その胸に大事にかかえられるようにして、入れられたガラスの写真・・・。

その写真に写った若い男性とは・・・

若き日に、その思いがかなわなかった有栖川宮熾仁親王?

それとも、溢れんばかりの愛情で、自分を包んでくれた家茂?

烏帽子に直垂は、四位以上の大名に許された殿中での礼装だという事なので、これを踏まえると、おそらく、写真の主は家茂さんだと・・・。

Tokugawaiemoticc 慶応二年(1866年)か三年に、和宮に送られた家茂の肖像画というのが、徳川記念館に残っているそうですが、その肖像画が描かれる時に、和宮は、武家の戦闘服とも言える陣羽織姿を嫌い、正装での家茂の肖像画を希望したのだそうです。

ひょっとしたら、和宮は、若き日に始めて会ったあの日の、礼装の家茂が一番好きだったのかも知れません。

その思いを、しっかりと胸に抱いて、少女のように、眠るように・・・

大事に大事に抱えられたガラスの写真が、彼女の思いを代弁してくれているような気がします。
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2008年9月 1日 (月)

新撰組・松原忠司~命を賭けた2ヶ月の恋

 

慶応元年(1865年)9月1日、新撰組・四番隊組長で柔術指南の松原忠司がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

文久三年(1863年)3月、清河八郎が第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛にともなう護衛として募集した浪士組・・・。

しかし、京都に着いたその日に、この募集が将軍のためではなく、尊皇攘夷(そんのうじょうい・天皇を尊び外国を追いはらう)のための募集だった事を、清河が発表した事で、浪士組は空中分解・・・近藤勇(いさみ)芹沢鴨(せいざわかも)らの、わずか17名を残し、彼ら以外の浪士たちは、清河に従い、江戸へと戻りました(2月23日参照>>)

京都に残った近藤らは、前年の暮れに京都守護職に就任し、ちょうど京都の治安維持に頭を悩ませていた会津藩主・松平容保(かたもり)の配下となり、壬生浪士組(みぶろうしぐみ・後の新撰組)と称して、京都の治安を守る事となります。

17名では、こころもとないので、早速、大坂・京都で隊士を募集し、7月頃には約50名ほどの団体となるのですが、その時の隊士募集に応募したのが、本日の主役・松原忠司(ちゅうじ)でした。

当時の彼は、すでに大坂で柔術の道場を構えるツワモノ・・・そんな彼の活躍の場は、すぐにやって来ます。

それは、八月十八日の政変(8月18日参照>>)と呼ばれるクーデター・・・この時、坊主頭に白ハチマキといういでたちで、大長刀(おおなぎなた)を持って登場した彼には、その体格の良さも相まって、「今弁慶」なるニックネームがつき、近藤ら、幹部からの信頼も厚く、この頃には、七番隊長に抜擢されていました。

その政変での活躍が認められて、壬生浪士組は、新撰組と名前を改め、やがて絶頂期とも言える文治元年(1864年)6月5日・・・。

新撰組を一躍有名にした、この日の池田屋騒動(6月5日参照>>)にも、忠司は参加して、まさに弁慶のような大活躍・・・多くの褒美を手にしています。

そんな彼は、その巨漢から想像できないようなやさしさを持ち、屯所周辺の壬生の住人からも、新撰組一番の親切者と、とても評判が良く、慶応元年(1865年)の4月には、新撰組四番隊長柔術指南役までも任されるようになります。

しかし、そんなある日の事・・・それは、ちょうど梅雨時のムシムシした夜でした。

祇園で、しこたまお酒を呑んだ忠司は、夜風に吹かれながらの帰り道・・・ちょうど四条大橋に差し掛かったところで、通りすがりの見知らぬ浪人者と、ちょっとした事で口論になってしまいます。

いつもは穏やかな忠司なのですが、酒の回り具合もちょうどピーク・・・つい、カッとなって刀に手をかけ、相手を斬り殺してしまったのです。

激しい立ち回りの後に訪れた静寂・・・シ~ンと静まり返った夜の闇の中で、ふと我に返った忠司・・・

「エライ事をしてしもた・・・」
自分の愚かさを、しきりに反省しますが、死んだ男は、もう、生き返りはしません。

自らのしでかした過ちの責任を取ろうと、相手のふところに手を入れて、「どこの誰か、身元のわかる品はないものか?」と探ります。

男が、天神横丁の住人であると知った忠司は、残された家族に届けるべく、その遺体を背負い、家族の待つ家へと向かいます。

やがて、たどりついた、とても裕福とは思えない家の前に立って、決意を固める忠司・・・
死んだ男には、美しい妻と、病気の息子がいました。

扉の前で、あれほどしっかりと決意をしたはずなのに・・・
その心が揺らぎます。

正直で、一本気で・・・、
ウソをついてごまかす事などは最低の行為だと、自分自身が、いつも批判しているはずなのに・・・

嘆き悲しむ妻を目の前にして、忠司には本当の事がどうしても言えません。

「鴨川を通りがかったら、河原でこの人が数人のサムライと斬り合うてたんや。多勢に無勢やさかい、加勢したろと思て、駆けつけていったんやけど、間に合えへんかった・・・助けられへんで申し訳ない・・・」

「おおきに・・・ここまで連れてきてくれはって、ありがとうございました」

妻は、忠司の言葉を信じて納得し、その夜は、それで終わりました。

しかし、忠司は、それ以来、その親子の事が気になってしかたがありません。

「夫が生きていた時でさえ、見るからに貧しい暮らし・・・病気の子供を抱えて、この先どうしていくのだろう」と・・・。

数日後、彼は、ありったけのお金を持って女のもとに行き、そのお金を手渡します。

貧しい親子への哀れみと、そんな親子の夫であり、父である男の命を奪ってしまった罪悪感・・・

その後も、心配になって、何度も何度も、お金を持って家に通ううち、いつしか忠司は、哀れみでもない、罪悪感でもない感情が、そこにある事に気づきます。

それは、女のほうも同じ・・・

やがて、子供が病気で死んでしまうと、その関係は、男と女の関係へと変わるのです。

こうして、毎日のように通っていると、当然の事ながら、新撰組に二人の関係がバレてしまいます。

この事を知った副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)は、「殺した男の妻と関係を持つなど、とんでもない!」と激怒します。

100%自分に非がある事をわかっている忠司は、「もはやどうしようもない」と、ばかりに切腹を図るのですが、寸前のところで、篠原泰之進(たいのしん)に止められて未遂に終ものの、腹部に大きな傷を負ってしまいます。

この一件で、忠司は平隊士に格下げされ、真夏の暑い最中、腹部の傷も癒える事なく、空しく時が過ぎていきます。

いつしか、忠司は、隊の稽古にも出なくなり、人と話す事もしなくなり、まるで、無表情で、ただ、時を過ごすようになります。

そして・・・
ある日、こつ然と姿を消すのです。

2~3日たって、忠司の出奔を知った土方は、法度に違反する行為として罰するため、即座に篠原を女の家へと向かわせます。

慌てて駆けつけた篠原が見たものは・・・
おびただしい血の海の中、寄りそうように横たわる二人の遺体でした。

Tyuuzikouenzicc 実は、もう耐え切れなくなって、すべての事を話して、自分は一人で切腹して果てようと、彼女のもとへとやって来た忠司・・・。

しかし、もはや、亡き夫より忠司の事が忘れられない女は、すべてを聞いても、なお、「死なんといて」とすがりつきます。

「あんたが死んだら、ウチは生きていかれへん」と、・・・

そして二人は、ともに死ぬ事を選んだのです。

慶応元年(1865年)9月1日・・・殺した男の妻と心中をした松原忠司・・・

事の発端となったあの殺人から、
わずか2ヶ月の・・・
しかし、一生分の・・・
命を賭けた恋でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、まぁ、本日は、一番激しく、ドラマチックな説を書かせていただきましたが、実のところ、この忠司の死には、様々な説があります。

  • 新撰組の記録では病死。
  • まったく別の失態で切腹させられた。
  • 女との恋はあったものの、一度目の切腹の傷が悪化して亡くなったので心中ではない。
  • すべてを告白した時に、女が「夫の仇!」とばかりに忠司を殺したところに、隊士が駆けつけ、仲間を殺したとして、女を成敗した(大河ドラマ「新撰組!」では、これに、亡き夫が長州藩士というオマケがついていたと思いますが・・・)

個人的には、やはり心中がドラマチックなような気がします。

事実は、まったく、別のところにあるのかも知れませんが、四番隊の組長に抜擢されてから、わずか4ヶ月の転落人生には、やはり、何かがあるのでは?と感じてしまいます。
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