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2008年9月16日 (火)

関ヶ原に最後まで~敵中突破の「島津の背進」

 

慶長五年(1600年)9月16日、関ヶ原の戦場から脱出した島津義弘が時村へ到着・・・水口を経て、大坂へ向かいました。

・・・・・・・・・・

さて、昨日の関ヶ原の合戦(昨日のページ参照>>)・・・何と言っても、その後が気になるのは、西軍として最後まで戦場に残っていた島津隊です。

昨日も書かせていただいたように、島津隊は、合戦の最中、まったく兵を動かす事なく、見かねた石田三成が使者をよこして参戦を促しても、「俺らは、俺らの戦いをする」と言って、結局は最後まで見物していただけだったのです。

島津隊を率いていた島津義弘は、兄・義久と二人の弟・歳久家久らとともに「島津四兄弟」として知られた薩摩(鹿児島県)の武将です。

もともと島津は、徳川家康と誓詞を交わしてる仲で、義弘がわざわざ薩摩を離れ、今この地にいるのも、本当は家康のため・・・

開戦前に、まだ伏見城にいた家康の元を訪問した義弘は、その時、家康から「自分は、これから会津征伐に向かうので、伏見城の留守を頼む」と言われたのです。

それで、「今、連れている手勢では、格好がつかない」と薩摩の兄に人数をそろえてもらうよう要請しますが、当時、薩摩は内戦状態だったため、あまり多くの兵を費やす事は難しいものの、何とか1500ほどの手勢を畿内へ派遣してもらっていたのです(9月15日「長寿院盛淳・討死」参照>>)

そして、家康が会津に向かった後、留守となった伏見城へ赴くのですが、この時、伏見城の留守を預かっていたのが鳥居元忠(8月1日参照>>)・・・その忠義一徹の性格のため、義久の真意を疑い、入城を断ったと言うのですが・・・

ひょっとしたら、真意を疑ったというよりは、すでに捨て駒となる覚悟を決めていた元忠が、その死出の道に、他家の武将を引きずり込む事を拒んだのではないか?とも思っています。

ご存知のように、関ヶ原の合戦の発端となった三成の伏見城への攻撃(7月19日参照>>)・・・三成から、武力行使をさせるためのおとりとなった伏見城ですから、はなから、攻撃を受けての落城は目に見えています。

真面目で実直な元忠は、そこに島津を巻き込みたくなかったのではないでしょうか?

同じ頃、小早川秀秋の実父・木下家定も、人質として伏見城に入る事を申し入れていますが、元忠はこれも断ってます。

やはり、「攻撃を受け、全滅必至の伏見城に、攻撃を防ぐ目的の人質はいらない」という元忠の実直さから出た判断ではなかったでしょうか?
(だとしたら、ちょっとカッコ良すぎだが・・・)

とにかく、留守役の元忠に、伏見城への入城をかたくなに断られた義弘は、その後、たまたま大坂に滞在していて、その時に三成が挙兵したために、なりゆきで西軍に加わってしまったわけです。

とは言え、西軍の敗色が濃くなった戦場で、当の三成まで敗走した今、何とかせねばなりません。

かと言って、東軍に降伏するなど薩摩の男のプライドが許しません。

こうなったら、敵中に斬り込んで、華々しく討死するか、戦場を脱出するか、二つに一つ・・・。

義弘は、華々しく散る事を希望しましたが、これには、ともに出陣していた甥の島津豊久が猛反対!

話し合いの末、結局、戦場を脱出する事に決まりますが、それには道はただ一つ、東軍の後方にある伊勢路を行くしかありません・・・まさに、敵中突破作戦!

午後2時・・・島津隊は、義弘以下、一丸となって、ただひたすら伊勢路を目指しはじめます。

Sekigaharafuzin14hcc これを見た東軍の井伊直政本田忠勝が、両側から包み込むように、島津隊を追います。

島津隊は、地面に点々と一定間隔で、兵が座り込んで鉄砲を撃つという坐禅陣を組み、後ろの兵が鉄砲を撃っている間に、前の兵がその兵の後ろに回りこみ、次ぎにその兵が鉄砲を撃ち、その間に前の兵が・・・という動作を繰り返し、攻撃をしながら、徐々に後退していったのです。

それでも、打ち寄せる大軍・・・すさまじい戦いの中、甥の豊久は、義弘の陣羽織を着用して奮闘・・・そう、何とか大将を守ろうと、自らがおとりとなったのです。

この脱出劇は、他の者が全員討死しようとも、義弘一人が生き残れば、薩摩の勝利なのですから・・・

しかし、奮闘空しく、その豊久は討死・・・。

今度は、それを見た家老・長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)(2010年9月15日参照>>)が、「我こそが、島津義弘なり!」と叫び、敵の注意を必死で惹きつけますが、やはり彼も、討ち取られてしまいます。

二人の身代わりの奮戦のおかげで、何とか戦場からの脱出に成功した義弘・・・慶長五年(1600年)9月16日時村へ到着し、水口を経て、このあと大坂へ向かいました。

18日後、故郷の富隈(とみのくま)にたどり着いた時は、わずか80騎となっていました。

この島津の脱出劇は、「島津の背進」と称され、敵である東軍からも絶賛されたと言いますが、無事に薩摩に帰ったとは言え、当然の事ながら、島津がこのまま無事でいられるわけはありません。

この後、家康は、「島津征伐」の命令を下すのですが、果たして島津の運命やいかに・・・と言いたいところですが、ご存知のように、島津が、ここで潰れる事はありません。

これから、その見事な交渉術での生き残りを披露していただく事になるのですが、そのお話は、4月11日【見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原】でどうぞ>>ご覧あれ!
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