« 思いは兄・信玄のため~補佐役に徹した武田信繁 | トップページ | 魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違 »

2008年9月11日 (木)

織田信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱

 

天正九年(1581年)9月11日、第二次天正伊賀の乱と呼ばれる織田信長の伊賀攻めで、最後に残った柏原城が開城されました。

・・・・・・・・・・

武田信玄には出抜(すっぱ)上杉謙信には軒猿(のきざる)というお抱えの忍者集団がいたと言います。

徳川家康服部半蔵真田幸村真田十勇士は超有名ですし、北条にも風魔一族が・・・。

なのに、織田信長が忍者を使った話はあまり聞きませんねぇ・・・唯一、一昨日、書かせていただいた滝川一益(9月9日参照>>)くらいですが、そのページでも書かせていただいたように、一益も甲賀出身というだけで、忍者とは決めつけられないというのが一般的な見方です。

しかし、合理主義者の信長さんですから使える者は誰でも使っただろうし、戦国乱世に敵情を知るスパイ行為が、合戦そのものよりも重要な事は孫子の時代からの常識(10月16日参照>>)・・・ただ、ヤル時は徹底的にヤルといった雰囲気の信長さんの性格からか、忍者を使ったゲリラ戦法や暗殺といった類の話は、あまり表に出てきませんねぇ。

逆に、やりかたがウマすぎて、本当に闇から闇へと消えちゃってるのかも知れませんが・・・。

そんな信長さんが、やはり徹底的にやちゃったのが今回の伊賀攻めです。

伊賀の里は、伊勢(三重県)大和(奈良県)を結ぶ交通の要所にありましたが、山深い事もあって、大きな勢力の及ばない場所でもありました。

各地で、戦乱が繰り返された戦国時代でも、小さな土豪(半士半農の地侍や名字百姓)が割拠してはいるものの合戦を起こして領地を奪い合うといった事もなく、むしろ、心を一つにして一揆を起こし、天正六年(1578年)には、守護・仁木氏を追放し、惣国による独立自治を行っていました。

そんな中、伊勢に進攻した信長によって北畠氏に養子として入り、その乗っ取りに成功した次男・織田信雄(のぶかつ)(11月25日参照>>)、その勢いに乗りまくって、父・信長に無断で、伊賀攻めを開始しますが、伊賀軍団のゲリラ戦法にしてやられ、ほうほうのていで逃げ帰ってきます(第一次天正伊賀の乱)

無計画な攻撃をしかけたバカ息子に激怒する信長ですが、一方で、かわいい息子の命を脅かした伊賀軍団をそのままにしておくわけもありません。

あの信雄の敗走から、ちょうど2年後の天正九年(1581年)9月3日、天下統一目前となった信長は、大量の兵を繰り出して、再び、信雄を総大将に、伊賀攻めを開始するのです。

この時、羽柴(豊臣)秀吉が中国方面で、柴田勝家前田利家が北陸方面で奮戦中であったため、彼らこそいないものの、滝川一益丹羽長秀蒲生氏郷堀政秀筒井順慶浅野長政と、残りの織田軍を総動員しての、約4万5千の大軍を用意します。

大名でもない小土豪集団に対して、いくらゲリラ作戦を駆使しても、立ち向かう事ができないほどの大軍での進攻・・・

織田軍は、その数に物を言わせて、伊賀へと進入する要路4箇所から軍勢を分けて進攻させ、すべてを焼き尽くす徹底した焦土作戦を決行します。

北伊賀の雨請山(あまごうやま)では稲増(いなます)、西伊賀の比自山(ひじやま)でも、それぞれの土豪たちがゲリラ作戦で抵抗しますが、小さな砦は次々と落とされていきます。

そして、最後に残ったのが、総大将・滝野吉政(たきのよしまさ)百地丹波(三太夫:丹波と三太夫は別人という説もあり)以下1600名が籠る柏原城でした。

天正九年(1581年)9月11日、落城寸前の柏原城に、信長は「和睦・無血開城」を持ちかけ、吉政は、自らの嫡男を信雄に預ける条件で、柏原城を開城・・・進攻開始から、わずか2週間足らずで、伊賀は平定されました。

この間に、織田軍が繰り返した殺戮は、老若男女、一日300人以上と言われ、まさに、あの長島一向一揆(9月29日参照>>)の悲劇が、再び繰り返されました。

伊賀を焼き尽くすその炎は、遠く奈良からも見えたという事で、興福寺の僧侶の日記には、「惣国一時に亡所」=「伊賀一国があっという間に消滅した」と書き残されています。

この時、逃げ惑う人々を哀れに思い、見逃してやった筒井順慶は、後に、信長に激しく叱責されていますが、これを、魔王の殺戮ととらえるか、天下人の完璧主義ととらえるかは、一言では語れない難しいところではあります(私見は翌日:9月12日のページで>>)

かの平清盛源頼朝に情けをかけなければ、平家の滅亡は無かったかも知れないわけで、どこに火種があるかわからない乱世では、すべての根源を断ち切っておく必要もあるのかも知れません。

信長さんの味方をするわけではありませんが、現代と同じ尺度で測れない事は確かです。

もちろん、伊賀衆のすべてが滅びたわけではなく、百地丹波などは千人以上の配下の者を連れて、根来へ落ち延びたとも言われています。

現に、信長が横死した本能寺の変の後の後継者争いの時期に合わせて、どこからともなく集まり、先の柏原城や砦に立てこもり、織田軍と戦ったりもしています(第三次天正伊賀の乱)が、やはり、もとの伊賀の里に戻る事はありませんでした。

この次に、彼ら伊賀衆の名前が表舞台に登場するのは、徳川家康が天下を牛耳る時・・・そう、その本能寺の変の直後に、三方ヶ原と並ぶ家康最大のピンチを助けたのが、この時、逃げ切った伊賀者たちで、その後、多くの者がそまま家康の配下となっているのですが、そのお話は、6月4日【徳川家康・決死の伊賀越え】のページでどうぞ>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログの人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 思いは兄・信玄のため~補佐役に徹した武田信繁 | トップページ | 魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違 »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

以仁王が平家討伐を唱えて、木曽義仲や頼朝らが一斉に挙兵してるのに、頼朝が居なければこの動きがなかったかの様な言い方は歴史を知らなすぎかと。むしろ頼朝が居なければ木曽義仲が打たれる時期が遅くなっただけのこと。

投稿: ひどすぎますね。 | 2016年1月 3日 (日) 15時54分

ひどすぎますね。さん、こんばんは~

このページのテーマは伊賀攻めなので、その部分は「クレオパトラの鼻がもう少し高ければ…」的な一つの例え話として引用したまでの「もしかも」のお話です。

また、感違いされているようですが、本文に書いています通り、その例えは「頼朝がいなければ、平家滅亡は無かったかも」であって、「打倒平家の動きが無かった」とは言って無いです。
私としては、「平家打倒の動き」があったうえでも「頼朝がいなければ平家滅亡は無かったかも」と考えております。

そもそも以仁王&頼政は頼朝&義仲が挙兵する前に鎮圧されて亡くなってますし、頼朝の挙兵に触発されて挙兵した義仲は、頼朝がいなくても、このタイミングで挙兵したでしょうか?
また、ご存じだとは思いますが、頼朝の配下の多くは坂東の平氏です。
政子さんの北条もそうですが、和田も三浦も千葉も畠山も…腹心とも言える梶原景時でさえも平氏です。
確かに、伊勢平氏出身の平家ばかりが中央で隆盛を誇る事に不満を持っていた者も多かったでしょうが、なんだかんだで同族ですから、かつて源氏と平氏をまとめて関東支配した事のある源頼信>>の直系嫡子の頼朝を看板に据えなければ、坂東平氏たちの結束は難しかったように思いますし、まして、そこに武田などの源氏が協力するような事は無かったのではないでしょうか?

差別するわけではありませんが、やはり、この時代は身分の低い遊女の愛妾腹だった義経では、プライドの高い彼らをまとめる事は、なかなかしんどいですし、この時点で何の接点も無い義経を、坂東の平氏と源氏が結束して担ぐに至るには相当ハードル高いかと…そもそも、その義経自身も、頼朝の挙兵を知って、富士川の戦いの直後に頼朝のもとにはせ参じて来るわけですので、頼朝の存在が無ければ、鞍馬か平泉に引き籠ったままだったかも知れません。

ちなみに、義経の異母兄の蒲冠者範頼、同母兄の全成&義円も、母が遊女で頼朝の挙兵を知ってから頼朝の陣に駆けつけるという、義経とまったく同じ状況ですので、頼朝の存在が無い=挙兵も無い中で彼らと坂東平氏たちが主従関係に至るのはかなり困難なのでは?
私としては、頼朝が伊豆にいて北条時政がその監視役だったからこそ担ぐに至ったと考えております。
なんせ、もう一人の監視役の伊東祐親は、生まれた孫を殺害してまで娘を頼朝から引き離してますから、それほど坂東平氏が頼朝とくっつくのはハードルが高かったんじゃないかと…

そんなこんなで、もし彼ら=坂東平氏&坂東源氏がバラバラだったとしたら、例え、歴史通りに義仲が挙兵して京へ上ったとしても、その時点で義仲に対抗できるような勢力は福原に退いた平家くらいしかいないと思いますよ。
つまり、この時点では、義仲が平家を倒すか、平家が義仲に勝って生き残るしか無いような気がするのですが…

ひどすぎますね。さんがおっしゃる
>頼朝が居なければ木曽義仲が打たれる時期が遅くなっただけのこと。

とは…頼朝がいない中で、いったい誰に義仲が討たれると考えていらっしゃるのでしょう?
もっと後に、将軍として平家を滅亡させた義仲を誰かが倒すという事ですか?
それとも、平家が盛り返して義仲を討つという事ですか?
むしろ、その人物の名前が気になります。

とは言え、あまり関連の無いページで長々と書いてしまい、申し訳なかったです。
このブログでは、これまで10年に渡って、2000ページを超える歴史のお話を書いておりますので、平家討伐や頼朝に関する記事だけでも200近くあります。
源平の事については、源平争乱の時代年表>>から見ていただき、ソチラの方にコメントしていただけるとありがたいです。

投稿: 茶々 | 2016年1月 4日 (月) 03時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/23657834

この記事へのトラックバック一覧です: 織田信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱:

« 思いは兄・信玄のため~補佐役に徹した武田信繁 | トップページ | 魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違 »