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2008年9月 9日 (火)

滝川一益の人生波乱万丈

 

天正十四年(1586年)9月9日、流浪の身から関東管領へと大出世した滝川一益が、隠居先の越前にて、62歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

近江(滋賀県)滝川一勝の息子・滝川一益(かずます)は、甲賀忍者の本拠地・甲賀郡で生まれ育ちます。

甲賀の出身だから忍者であると、安易に決めつけられないという見方もありますが、もともと前半生が謎に包まれている人なので、なきにしもあらず・・・忍者だったほうが何かとオモシロイので、そうあってほしいという願いも込めて、お話を進めていきましょう。

それに、少年の頃から観音寺城主・六角義賢(ろっかくよしかた)に仕えたという事を考えると、幼い頃からある程度の武術的な訓練を受けていた可能性も考えられますしね。

ところが、そんな少年・一益は、ある日、些細な事で同僚とモメ事を起こしてしまい、相手を殺害してしまいます。

これが、主君・義賢の怒りに触れて追放され、しかたなく、叔父の家に厄介になるのですが、今度は、ここで、叔父のお妾さんとデキちゃったために、またまた叔父の怒りを買ってしまいます。

怒った叔父が、一益を殺そうとした事で、逆に叔父を殺害・・・殺人の罪を背負ったまま流浪の身となった一益・・・

当時、一番、活気のある町・へとやってきます。

その堺の町で、鉄砲職人と知り合いになった彼は、その職人の弟子となり、その製造法や使い方を学び、銃の腕も磨きます。

そんな一益の前にに登場するのが、若き日の織田信長です。

鉄砲に興味を持っていた信長が、度々、堺の商人たちと接触しているのを目の当たりにした一益は、「自分が仕えるなら、この人しかない!」と思うのでした。

早速、信長に働きかける一益・・・運良く、信長に面会が叶った彼は、仕官したいと思っている事を伝え、自分自身を猛アピールします。

もともと、良いと思えば、新しい物をどんどん取り入れる革新派の信長さん・・・それは人材に関しても同じ事・・・。

この時一益は、信長の目の前で、銃の腕を披露し、100発中72発を命中させたと言います。

その鉄砲の腕を買われて、見事、信長の配下となった一益は、次々と武功を挙げていきます。

まずは、徳川家康(松平元康)との同盟を成功させ、永禄十年(1567年)から始まった伊勢討伐では蟹江城を奪取し、自らが傘下に加えた九鬼水軍とともに大活躍・・・それは、信長に「先駆けは一益 殿(しんがり)も一益」と言わせるくらいの評価を受けました。

その後の、長島一向一揆や、石山本願寺との合戦でも、配下の水軍を擁して戦い、天正十年(1582年)の甲州征伐では、まだ年若き織田信忠(信長の長男)をサポートして、武田勝頼を自刃に追い込みます(3月11日参照>>)

この時の活躍で、事実上の関東管領職まで任せれるようになった一益(3月24日参照>>)・・・殺人を犯して故郷を追われ、流浪した頃から見ると、とてつもない出世を果たしました。

しかし、ここで、ご存知の本能寺の変・・・信長が亡くなってしまいます(6月2日参照>>)

やはり、信長あっての一益だったのでしょうか?

ここから、一益の人生も大きく狂いはじめます。

まずは、主君の急を知って、すぐに上洛を果たそうとしますが、やはり信長の死を知って、目の前に立ちはだかった北条氏政氏直親子に神流川の戦いで敗れて上洛できず・・・(6月18日参照>>)

その余波で、信長の後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にも出席できず、その後の羽柴(豊臣)秀吉柴田勝家との対立では、勝家につきますが、ご存知のように賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で、勝家は大敗を喫して自刃してしまい、一益自身も攻められて降伏・・・その後は、秀吉の配下となります。

しかし、そこも安住の地ではありませんでした。

家康を味方につけた信長の次男・織田信雄と秀吉が戦った小牧・長久手の戦い蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)で、せっかく手に入れた城を開城し、徳川方に降るという大失態・・・。

しかも、その3ヶ月後には和睦が成立してしまい、居場所が無くなった一益は、京都妙心寺にて剃髪し、越前大野で隠居暮らしをする事に・・・。

『小牧戦話』『老人雑話』では、「居場所が無くなった一益が、あちこちと、さまよい歩き、最後には餓死した」と失意の行き倒れになった事にされてしまっていますが、さすがに、実際に餓死する事なかったようですが、そんな噂が立つほどに、悲惨な転落ぶりだった事がうかがえます。

ただ、関東管領に大抜擢された頃の京都の知人に宛てた手紙には・・・
「武田討伐の褒美には、小茄子(こなすび・名物茶器の名前)を貰うつもりでおったんやけど、上野(こうずけ)というえらい遠い国を貰てしもて・・・これで、しばらく茶の湯から遠のいてしまうますわ~」
と、いうような心情を話してもいるので、もし、その気持ちが本心だとしたら、秀吉と家康のハザマで、苦悩するよりも、案外、越前での隠居生活が気楽で良かったのかも知れません。

天正十四年(1586年)9月9日、そんな滝川一益が、隠居先の越前にて、波乱万丈の人生を終えました。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。「戦国武将の瀧川一益公」を調べてここに辿りつきました。一益公の嫡子の流れではありませんが、一門であります。

一益公の墓の所在を探しております。分骨されたようで、どうもはっきりしません。
何かヒントなどをお持ちでしたら、よろしくお願いいたします。

投稿: 瀧川 | 2008年9月19日 (金) 19時00分

瀧川さん、はじめまして。

ご子孫なのですね・・・ご訪問とコメントありがとうございます。

ところで、お墓ですが・・・
ゴメンナサイ
私は、京都の妙心寺しか知りません。

妙心寺のお墓は有名なので、きっと分骨された別のお墓をお探しなのでしょうね。

もし、何かわかりましたら、このコメント欄で書かせていただきますので・・・頼りなくて申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2008年9月19日 (金) 23時35分

こんにちは。
瀧川一益公は、高野山系の密教を学んでいたようです。それ故に、伝承としては、高野山にも墓があることになっていますが、現存する墓名台帳にはのっていません。 また、瀧川家は浄土宗なので、骨が妙心寺にあるとは考えにくいのです。

気長に探索しますね。

投稿: 瀧川 | 2008年9月20日 (土) 17時23分

瀧川さん、再びのコメントありがとうございます。

>浄土宗なので、骨が妙心寺にあるとは考えにくい・・・

そうなんですか?

本文にも書きましたが、剃髪したのが妙心寺なので、妙心寺にお墓がある事に違和感を感じはしなかったのですが・・・宗派が違うのですね。

お役に立てなくて申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2008年9月21日 (日) 01時07分

数年前の日付なので、書き込まれた方がご覧になるかは分かりませんが…私も瀧川の末で、北陸の者です。
他にも大阪と出雲に子孫の方がいらっしゃると聞いております。
出雲には一益の骨が分骨されたというお墓がありましたよ。一度、お参りしたことがあります。

大変面白く記事を拝見いたしました。
ありがとうございます。
ただ、一益の没年は52ではなく、61~62であったかと思われます。
信長と10歳近く年齢が違いましたので…。

投稿: | 2014年8月11日 (月) 20時56分

こんばんは~

おっしゃる通り62歳です。
戦国人名事典でもそうなってます。

ずいぶん前の記事ですが、全然気づいてませんでしたね~
ありがとうございます。
訂正しときます。

投稿: 茶々 | 2014年8月12日 (火) 01時51分

織田信長に仕えたことで、活路を見出だした滝川一益ですが、本能寺の変がきっかけとなったことで、人生の歯車が狂ってしまったのは、今の時代を生きる人々にも通じるものがあるような気がしますね。信長死後の一益は、柴田勝家と手を組んだものの、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に負けたことで、さらなる転落人生を送ってしまいました。もしも私が、一益の立場だったら、自分の運命を呪ったかもしれません。


投稿: トト | 2017年12月 2日 (土) 08時46分

トトさん、こんにちは~

一益の場合…上野と信濃を与えられて、「関東管領でガンバルぞ!」って時、わずか3ヶ月で本能寺ですからね~

タイミングが悪かったですね。

投稿: 茶々 | 2017年12月 2日 (土) 16時54分

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