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2008年9月10日 (水)

思いは兄・信玄のため~補佐役に徹した武田信繁

 

永禄四年(1561年)9月10日は、ご存知、第四次川中島の合戦・八幡原の戦いで、越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄激突した日であります。

全部で、5回に渡って繰り広げられるこの川中島の戦い・・・その流れについては、すでに何度か書かせていただいているので、それぞれのページをご覧くさだいませ。

このうち、今日9月10日に行われた第四次の合戦が最も激しく、一般的に川中島の合戦と言うと、この9月10日の戦いの事を指します。

一昨年には、その流れを・・・昨年には、ひょっとしたら、川中島の戦いは無かったのでは?(昨年のページ参照>>)という事を書かせていただきましたが、それは、そのページでも書かせていただいた通り、いわゆる車がかりの戦法や、啄木鳥(きつつき)戦法・・・そして、両大将による一騎撃ちなどが無かったのではないか?という事で、決して戦い事態が無かったという意味ではありません。

架空の人物かも知れない山本勘助はともかく、信玄の右腕だった弟・武田信繁(のぶしげ)が、この合戦で命を落としている事は確かで、しかも、副将とも言える重要人物でありながら、誰に討たれたかが不明というミステリーつきの最期ですから、何らかの戦いが繰り広げられた事は間違いありません。

前置きが長くなりましたが、本日は、今日の川中島の合戦で命を落す事になったその人・・・陰・日なたになって信玄を守り、補佐役に徹した武田信繁について書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

武田信繁は、その父が武田信虎、母が大井夫人と、兄・信玄と同じ父母を持つ4歳下の弟です。

同じ師匠から学問を学び、同じ環境のもと武芸を磨き、その体格も顔も信玄によく似ていたそうですが、信玄よりは、ずっと真面目で、その性格も穏やかな少年だったようです。

気性の激しい父・信虎は、自分と同じように気性の激しい信玄を嫌い、心穏やかな弟が可愛くてしかたがなかったようで、何かとえこひいきしまくりで、あからさまに信玄にイケズな態度をとっていました。

戦国時代でのこういう場合・・・ひいきされてる弟が、兄を差し置いて後継者になる夢を見て、家督争いが巻き起こるのが常ですが、武田家がそうならなかったのは、やはり、信繁さんの性格の良さによるものでしょう。

父が、そこまでひいきしているにも関わらず、信繁は、あくまでも兄を立て、自分はその次という意識を捨てませんでした。

天文十年(1541年)に、信玄が家老たちと結託して、父・信虎を追放した時(6月14日参照>>)も、その作戦が、ものの見事に成功する影には、父一押しの弟の協力が大きく影響している事でしょう。

もし、父に推される信繁がその気になっていたら、家臣団が二つに分かれ、おそらくは、うまくいってなかったはずですからね。

信玄が武田家の当主となってからは、信繁は、その補佐として、主に国人たちの掌握に努力します。

まだ、兵農分離がされていないこの時代・・・直属の家臣が子会社なら、国人たちは、いわゆる業務提携をしている会社みたいな存在です。

主従関係ではなく、対等な立場で契約しているに過ぎませんから、不満があれば、反乱を起すし、向こうが有利となれば、敵に寝返る事も多々アリ。

しかも、彼らは、その土地に根付いた半士半農ですから、彼らが敵に回れば、その領地がそのまま敵の傘下となるわけで、彼らの裏切りは、戦わずして領地を失う事になってしまうワケです。

さらに、そんな国人たちも一枚岩ではない、人それぞれですから、そんな軍団をまとめるのは容易な事ではないうえ、まとめられなけらば、お家の存亡にも関わる重大事件に発展する可能性もあるので、ある意味、合戦で武功を挙げる事よりも、はるかに重要な任務だったのです。

そんな難しい仕事を、信繁は20年に渡って、見事にこなしています。

事実、彼が、この第四次川中島の合戦で討ち死にしてから、それまでには影を潜めていた信濃の国人の反乱が、度々起こるようになっているのです。

その業務内容が地味であるがゆえ、ドラマや小説などでは、あまりスポットライトを浴びる事がありませんが、信繁の国人衆の掌握なくしては、信玄の領地拡大も無かったかも知れないのです。

そんな信繁も、一たび合戦となれば、当然、出陣します。

上田原の合戦(2月14日参照>>)や、塩尻峠の合戦などなど・・・そんな時、信繁は徹底して、信玄のいる本陣を守る事に専念していたようです。

「とにかく、兄を守ろう」と・・・

真偽のほどはさておき、この日、上杉謙信の背後を突くため妻女山(さいじょさん)へ向かった別働隊・・・しかし、作戦を見破った謙信は、夜のうちに下山して、しらじらと夜が開け、霧がやわらいだその時には、すでに武田軍・本隊の目の前に・・・

ふいをつかれた武田勢・・・しかも、別働隊が戻ってくるまでは、明らかに兵の数が劣っています。

この光景を目の当たりにした時、おそらく信繁は、死を覚悟して本陣を守る決意を固めた事でしょう。

「兄に代わり、自分が上杉勢の注意をひきつけて奮戦する間に、おそらく別働隊が到着するに違いない」と・・・

それには、できるだけ目立って、より多くの敵兵の目を自分に向けさせなければなりません。

信繁は、家臣・春日源之丞(げんのじょう)を呼んで、兄・信玄には愛用の母衣(ほろ・背後からの矢を防ぐ布製の防具)を、嫡男・信豊には自身の髪を渡すようにと言い含めて預けます。

そして、おとなしく、いつも穏やかな信繁が、おそらく、今まで発した事もないであろう大きな声で、自分が副将である事、信玄の弟である事を告げる名乗りを挙げ、敵の真っ只中へと突入・・・舞い上がる土煙の中にその姿は消え、吐き捨てる怒号の中にその声はかき消されました。

信繁のいない本陣を見た謙信が、単身突入するも、やがて、別働隊が到着し、数で不利になった上杉軍は、善光寺へと兵を退きます。

雑然とした八幡原に静寂が戻ったそこには、信繁の死体を抱き、号泣する信玄の姿があったとか・・・

武田信繁・・・永禄四年(1561年)9月10日川中島にて討死、享年37歳でした。

彼が息子に残した『信繁家訓』99ヵ条は、一族と家臣が守るべき道を、古典などを引用して事細かく説いた物で、江戸の時代になっても武士の心得として読み継がれたと言います。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

管理人様、こんばんは。

先日の大河ドラマの最後に流れるコラム?的なコーナーで、武田信繁の名前を初めて聞きました。
『あっ、真田信繁と同じ名前だ』と思いながら視ていたところ、真田昌幸が次男の名前としてあやかった、という話もあるとのことで…。
息子の名前として使うくらいだから、きっと昌幸にとっても思い入れのある方なんだなと思いました。

そして、このページで詳しく武田信繁の話を知りました。
この時代、兄を支えようと頑張る弟の話が意外に多い気がします(* ̄ー ̄)
とても魅力的ですね。

乱文、失礼致しました。

投稿: ぶれす | 2016年3月 2日 (水) 23時39分

ぶれすさん、コメントありがとうございます

>真田昌幸が次男の名前としてあやかった…

確かに、そういう説もあるようです。
縁の下の力持ち的な役割を見事にこなした魅力的な人だと思います。

投稿: 茶々 | 2016年3月 3日 (木) 08時04分

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