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2008年9月24日 (水)

愚将か?名君か?朝倉義景の汚名を晴らしたい

 

天文二年(1533年)9月24日、越前の戦国大名として君臨した名門・朝倉氏の最後の当主朝倉義景が誕生しました。

・・・・・・・・・

天文二年(1533年)9月24日に、越前(福井県)の名門・朝倉氏の10代当主・朝倉孝景(たかかげ)の長男として、一乗谷(4月11日参照>>)に生まれた朝倉義景(よしかげ)

父の死によって、わずか15歳で11代当主となった時には、まさに朝倉氏が最盛の頃でした。

家督を継いだ当初こそ、一族の名将である朝倉宗滴(そうてき)に支えられたものの、宗滴が亡くなった(8月13日参照>>)弘治元年(1555年)からは、自らが政務をこなすようになりました。

ただ、その人となりとしては、なにかと愚将呼ばわりされている義景さん・・・

その主な理由としては、将軍候補の足利義昭(秋)がせっかく越前に亡命してきているのに、義昭を奉じての上洛というチャンスをみすみす逃してしまい、あっさりと織田信長に横取りされて、先に上洛されてしまった事や、

その後15代・室町幕府将軍となった義昭の呼びかけに答えて武田信玄石山本願寺などによって信長包囲網がしかれていた元亀三年(1572年)の12月に、近江(滋賀県)浅井氏小谷城を囲んだ信長に対して、浅井の救援に駆けつけたにも関わらず、まったく攻撃もせずに帰ってしまった事で、ちょうど三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に勝利して西に向かっていた信玄から「今やったら協力して信長を倒せたのに、アホみたいに帰国してからに・・・全部、水の泡やんけ!」と激怒された事などがあげられます。

また、永禄五年(1562年)の8月21日には、一乗谷の景勝地に公家たちを招いて曲水の宴を開いたりしています。

曲水の宴とは、小川に流れる水に盃を浮かべて、その盃が自分の前に流れて来るまでに詩歌を吟じるという優雅な遊び・・・招かれた公家たちは大いに喜んだと言います。

その翌年の永禄六年の8月23日にも、秋十五番歌合わせを興行したりと、様々な遊びに興じていた事から「文に溺れ、武を忘れた」と揶揄(やゆ)されたりもします。

しかし、これらの遊興は、そこらへんの愚将にありがちな、国内は乱れて一般庶民が苦しんでいるにも関わらず、お殿様だけがノンビリと・・・というのではなく、義景の場合は、それだけ越前の国内が平和だったという事なのです。

永禄五年の曲水の宴の時も、招かれた公家たちは、越前の治安の良さをうらやましがり、「義景はんはたいへんよく治めてはる」褒め称えたというエピソードも残っています。

また、地元・福井の伝説には、当時、米を奪ったり、旅人を襲ったりしていた盗賊の噂を聞いた義景が、その盗賊を諭して改心させたという話もあります。

この盗賊の話が、本当かどうかはともかく、そのような話が、一般庶民の口から口へと伝えられ、今に残るというのは、、少なくとも庶民レベルでも、当時の越前が平和だったという証しではないでしょうか。

そもそも、永禄八年(1565年)に、時の将軍・13代足利義輝松永久秀三好三人衆に殺害され(5月19日参照>>)、命からがら脱出し流浪の身となった義昭が、近江若狭を点々とした後、この一乗谷に転がり込んできたのも、その治安の良さによるものなのですから・・・。

しかし、そんな義昭が、再三に渡って義景に頼み込んだ、「自分を奉じて上洛してほしい」という希望を、義景は断り続けます

・・・で、結局、義昭は上り調子で上洛する気満々の信長に乗りかえる(10月4日参照>>)わけで、それが、先に書いた、まんまと上洛を横取りされる・・・という事になるのです・・・

・・・が、しかし、考えても見てください。

前将軍・義輝を攻めた久秀らが、その後、自分たちの思い通りになる将軍=14代足利義栄(よしひさ)を立てているところに、彼らが殺した前将軍の弟・義昭を奉じて京に乗り込んで行く・・・となると、久秀らとの決戦は必至です。

つまり、義景は、義昭を奉じて上洛する事を躊躇(ちゅうちょ)したのではなく、その時におこるであろう久秀&三好との合戦に勝機があるかどうかを判断したのではないでしょうか?

現在の朝倉の力では難しい・・・それが義景の答えだったのかも知れません。

また、信玄が指摘した信長への攻撃に関しても、越前国内の内政に重きをおいていた義景にとって、国内を揺るがす事にもなる無謀な賭けは避けるべきであり、やはり、勝てない戦はしない・・・という考えが働いたのではないでしょうか?

結局、信玄は上洛する事なく亡くなってしまうわけですし・・・。

さらに、その後、義昭を奉じて上洛し、見事、義昭を15代将軍に立てた信長が、新将軍・義昭へ挨拶に来るように義景に要請するのですが、それを、義景は拒否し続けるのです。

これが、最終的に、信長に越前征伐(8月6日参照>>)の大義名分を与えてしまう事になるのですが、これも、義景の天下を狙う事よりも、内政を優先させる考えからでしょう。

ただし、この最後の上洛拒否には、もう一つ、彼のプライドも関わっています。

もともと尾張・越前の守護大名だった斯波(しば)の被官だった朝倉氏と織田氏・・・しかし、朝倉が直臣であるのに対し、織田は陪臣(ばいしん・家臣の家臣)

信長の奉じた将軍への挨拶は、イコール信長の下につくという事でもあるため、「格下の者の配下になれるか!」となったわけですが、彼が、愚将ではなく、内政に長けた名君であるなら、それなりのプライドを持っていた事も、別にカッコ悪い事ではありません。

結果から言えば、朝倉氏最後の当主となってしまった義景ですが、一般的に思われているような、遊びに興じた愚将ではなく案外、誇り高き名君であったのかも知れません。
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コメント

義景が無能というよりは、景鏡の存在が足をひっぱっている印象を受けます。
それを考慮しても名君だったかどうかはわかりませんが、今ほどの悪評を受ける武将ではないように思えますね。

投稿: | 2015年11月11日 (水) 14時38分

朝倉義景は名君だと思いますよ。

投稿: 茶々 | 2015年11月11日 (水) 16時46分

もし、江戸時代中期に義景と信長が生まれていたら、義景は名君、信長は歴史に載らない暗君と成ったでしょうね。 戦国時代で見れば、信長という天才の前には武田信玄も、上杉謙信も、義景と、五十歩百歩の無能です。

投稿: 三年寝太郎 | 2016年4月 5日 (火) 21時17分

三年寝太郎さん、こんばんは~

そう言えば、あに陸奥宗光が後藤象二郎の事を「中国の晋か唐の末期に活躍すべき逸材が、たまたま明治の日本に現れてしまった」と残念がってたという話がありますね。

やはり時代の波に乗る事も重要なのでしょう。

投稿: 茶々 | 2016年4月 6日 (水) 02時19分

基本的に朝倉義景は、足利義昭も武田信玄も前者は地に足が付いておらず、後者は為政者として不誠実といったあたりを懐疑的に見て誘いに乗らなかったということではないでしょうか?

それなら何故浅井家と組んだ(浅井家は一乗谷に屋敷があったらしいので、浅井長政が織田家と両方にいい顔をしていた八方美人なのは間違いない所)という点では愚君と思いますが、基本的には徳川家康に似た時代判断をしており、その点では分かる気がします

投稿: ほよよんほよよん | 2016年4月 6日 (水) 12時59分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

やっぱり、挨拶には行ったほうが良かったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年4月 7日 (木) 02時40分

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