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2008年9月 7日 (日)

北条時宗が元との徹底抗戦を決意した日

 

建治元年(1275年)9月7日、鎌倉幕府の時の執権・北条時宗が、瀧口にて、元の使節・5名を斬殺しました。

・・・・・・・・・・

12世紀の後半、モンゴルに現れたチンギス・ハーンは、またたく間にモンゴルを平定し、騎馬民族を率いて、西へ・・・ついには、ヨーロッパに及ぶモンゴル帝国を築きました。

その孫のフビライ・ハーンは、その目を東へと向け、首都を北京に、国名を元に改め、朝鮮半島へ進出・・・やがて、その手を日本へと伸ばします。

文永五年(1268年)以来、フビライは7回にわたって、服属の要求をする国書を日本へと送るのです。

「あんなぁ、高麗(こうらい)は、俺ンとこの属国やねんで。
君とこって、昔から高麗と仲えぇし、中国に使い送ったりしとったやんか。

せやのに、俺の代になってから、いっこも使いよこさんと、ぜんぜん交流ないやん。

ひょっとして、俺ンとこの国の事、ようわかってないんちゃうかな?って思て、心配してんねやんか。

せやから、こっちから使いを出して、手紙渡して、俺の気持ちわかってもらおかなって・・・・俺かて、できたら武力行使はしたないしなぁ・・・」

この時、事実上の鎌倉幕府の責任者・執権をやっていたのは、第7代・北条政村(まさむら)・・・すでに、この時点で64歳、しかも彼は、第3代執権の北条泰時の弟・・・つまり分家の出身でした。

実は、その7年前に、本来、執権を継ぐべき宗家の北条時宗(ときむね)は、わずか11歳で家督を継いだのですが、あまりに年若いという事で、当時は、まだ、執権に次ぐ連署という役職に着き、政村を補佐する形の見習い期間中だったのです。

しかし、モンゴルからの国書を受け取った今、そのモンゴルとの交渉もしなければいけんませんし、ヘタすりゃ、攻めて来られるかもしれません。

そこで、幕府は、フビライの初めての国書を受け取った直後、若いとは言え、18歳になった宗家の時宗を執権に、ベテラン政村を連署に・・・と、役職を入れ替えてモンゴル対策にあたったのです。

そんなこんなで、第8代執権になった北条時宗・・・やがて、ご存知のように、文永十一年(1274年)10月19日、すでに壱岐・対馬を制圧した(10月5日参照>>)元の船が博多湾に進入して来るわけです文永の役:10月19日参照>>)

そして、海岸べりで一戦交えたその夜に、夜襲を恐れて船に戻った元軍は、例の神風で壊滅状態になって、しかたなく撤退するわけですが、以前も書かせていただいたように、どうやら、それは神風・・・というよりは、元の船の造りが、も一つだったようです。

なんせ、海を知らない騎馬民族が、征服した漢軍や高麗軍の技術に頼り、やっつけで造った船でしたからね・・・

ところが、性懲りも無くその翌年の建治元年(1275年)、またまた元の使者が来日します。

杜世忠(とせいちゅう)をリーダーに、現在の山口県に上陸した5人の使者は、すぐに捕らえられ、大宰府に送られます。

その後、時宗に謁見するという名目で、鎌倉に送られた杜世忠らは、建治元年(1275年)9月7日瀧口にて斬首されるのです。

この斬首については、この直後から賛否両論あるようですが、彼らが、単なる使者ではなく、スパイ行為を行っていたという話もあるようですし、第一、大挙押し寄せ、侵略に失敗した敵国から、「降伏しろ」という使者が送られて来ても、「ハイそうですか」と、すんなり降伏するワケにもいかないわけで・・・

それまで、何度も送られてきた国書に、まともな返事をしてこなかった結果が文永の役なら、ここで明白な返答をしようという幕府の姿勢が、この一件だったようにも思います。

これ以降、時宗自身、もはや徹底抗戦をも辞さずという決意が固まったようです。

まずは、九州の御家人を中心に、異国警固番役(いこくけいごばんやく)という役職を設けて九州や中国地方の防備を固め、さらに、翌年の3月~8月にかけて九州の領主たちに命じて、博多湾に防塁を築かせます。

それは、西は今津長浜から、東は箱崎まで、高さ2.4m、幅3m、総延長20kmにも及ぶものでした(3月10日参照>>)

かくして、元軍はふたたび現れ、弘安四年(1281年)の弘安の役(6月6日参照>>)となるのです。

日本人の感覚なら「まともな返事をしない=NO!」なんですが、国際的には、そんな暗黙の了解は通じませんからねぇ・・・

ちなみに、大阪では「また、今度にします」「考えときます」というのも「NO!」という意味ですが・・・国際問題の難しいところです。

ところで、この時、築かれた防塁・・・一部は、現在も残っているようですが、市街地など、ほとんど跡形もなくなってしまっていますが・・・。

実は、これ・・・自然に壊れたものや、埋もれてしまったものではなくて、あの毛利元就の三男で、事実上乗っ取る形で小早川家に養子に入った小早川隆景(こばやかわたかかげ)が、名島城を築城する際に、石垣として再利用するために、大量に持ち出したのだそうです。 
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