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2008年10月31日 (金)

栄西が伝えたお茶・その後~闘茶と御茶壷道中

 

建久二年(1191年)10月31日、この日、臨済宗の開祖・栄西(7月5日参照>>)(中国)から帰国し、お土産として持ち帰ったお茶が、後に全国に広まった事から、今日10月31日は・・・といっても、旧暦に10月31日は無いので、おそらくは「1191年10月31日=建久二年10月5日」なのだと思うのですが、とりあえず、今日10月31日が日本茶の日・・・という事なので、本日はお茶のお話をさせていただきます。

とは言うものの、栄西さんとお茶のお話は一昨年書かせていただきましたので(2006年のページを見る>>)、今日は、その続きのお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

鎌倉時代の初めに栄西がもたらし、臨済宗の僧の間で飲まれるようになったお茶は、室町時代は南北朝動乱になって、明日をも知れぬ時代を生き抜くに武士・・・特に婆沙羅(バサラ)大名と呼ばれるハヤリ物好きの武士の間で大流行します。

しかし、僧たちが眠気覚ましや薬感覚で飲んでいたのに対して、こちらは、さすがにバサラ・・・ド派手な飲み方です。

それは、『闘茶』・・・いわゆる賭け事で、茶寄合という会合を開いて、そこで出されたお茶の産地を当てる勝負です。

最初は、「本茶」「非茶」かを当てるのを10番で1回とし、一晩で何回も行われ、膨大な賭け物が動いたと言います。

この「本茶」というのが、当時、最高のお茶とされていた栂尾(とがのお)産のお茶の事で、それ以外の産地の物が「非茶」という事になります。

栄西が持ち帰ったお茶の種を明恵という僧が栂尾・高山寺で栽培したのが、栂尾産のお茶の始まりだそうですが、これを見ると、すでに、この頃、お茶の栽培が各地で行われ、それが都・京都に集荷されるという流通ルートが出来上がっていた事がわかりますね。

やがて、この闘茶は、栂尾産と同時に、各地のお茶の産地をも当てる複雑なものになっていくのですが、それとともに足利尊氏式目で禁止を呼びかけるという事もあり、徐々に南北朝の動乱がおさまるにつれ衰退していきました。

さらに、この頃から、茶所の最上位とされていた栂尾に強力なライバルが出現します。

それが、宇治・・・。

もともと、お茶の栽培というものは、寒肥・春肥などなど年7~8回は肥料を与えないといけないらしいのですが、当時の肥料といえば・・・そう、出物腫れ物ところ嫌わずのアレです。

今でこそ、全国各地、様々な食べ物がいきわたり、地域によって栄養の摂取の仕方が変わるなんて事はありませんが、当時は、まだまだ、都と地方の差がはげしく、栄養豊富な都の人々が排泄するアレが、一番栄養価の高い良質の肥料とされていたのです。

都に近い宇治なら、その良質の肥料を手に入れる事が容易だった・・・って、「栂尾も京都やん!」と現代人は思ってしまいますが、今とは交通の便がまるで違うのです。

当時は、嵐山高雄パークウェイもありませんので、栂尾へは周山街道一本・・・しかも、道幅が狭く、たくさんの荷物を一度に運ぶ事は困難でした。

その点、宇治には、あの宇治川が流れています。

当時は、一度に大量の物を運ぶには、船が一番・・・なんせ、肥料はその新鮮さが第一ですから・・・。

かくして、宇治茶は、良質のお茶の大量生産に成功し、一方の栂尾は良質ではあるものの大量生産する事ができなかったのです。

この事は、この後、訪れる茶の湯ブームに大きく関わってきます。

武野紹鷗(じょうおう)(10月29日参照>>)らが起した茶の湯は、千利休を以って完成し、戦国武将の間でステータスとなるにつれて、その需要が高まり、大量生産は第1の条件となります。

こうして、宇治茶は日本一の座を獲得する事になるのですが、やがて、幕府が江戸に移っても、やはり宇治茶が日本一・・・定期的に、京都から江戸へ運ばれるのですが、これが、あの有名な御茶壷道中です。

毎年、5月下旬から6月上旬に、約半月かけて京都から江戸へ運ばれ、大名行列でさえ道を開けなければならない御茶壷のお通りは、将軍のお通りと同じだったと言います。

皆さんご存知の「ずいずいずっころばし」・・・

♪ずいずいずっころばし ごまみそずい
 ちゃつぼに追われて ドッピンシャン
 抜けたら どんどこしょ
 俵のねずみが 米食ってチュウ
 チュウ チュウ チュウ
 おっ父さんが呼んでも おっ母さんが呼んでも
 行きっこな~し~よ
 井戸のまわりで お茶碗かいたのだ~れ♪

これは、御茶壷道中が村を通る時に、「もしかして粗相があって斬り捨てられたら大変!」とばかりに、慌てて家の中に入って、戸をピシャリと閉め、ねずみが米を食べても、お父さんが呼んでも、お母さんが呼んでも、お茶壷が通り抜けていくまで出てきちゃダメよと、子供に教え込んだ歌だと言われています。

そんな御茶壷道中は、慶長十八年(1613年)から慶応二年(1866年)まで、まさに江戸時代を通じて続けられていたと言います。
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2008年10月30日 (木)

謀略の達人・宇喜多直家~本当はけっこうイイ人?

 

天正七年(1579年)10月30日、宇喜多直家の名代として、従兄弟の宇喜多基家織田信忠に謁見し、降伏を申し出・・・織田信長が直家の降伏を受け入れました。

・・・・・・・・・・

戦国の梟雄(きょうゆう)と称される宇喜多直家(うきたなおいえ)・・・。

下克上はなはだしい戦国乱世・・・キレイ事を言ってると背後から襲われ、油断してると寝首を掻かれる・・・とは言え、この人ほど腹黒いと言われる人はなかなかいません。

刺客を放って敵将を暗殺したり、邪魔だからと毒殺したり、狩りに誘い出して間違えて撃っちゃった事にして殺したり・・・と、合戦での華々しい勝利より、なにやら陰険でじっとりとした感じが目立ちます。

しかし、大国に挟まれた小さな国の武将は、多かれ少なかれ、そういったやり方でないと伸し上がっていけないのも確か・・・直家さんだけを責める事はできません。

直家が生まれた宇喜多家は、もともと備前(岡山県東部)を治める浦上家の家臣でしたが、祖父の代に家中での権力争いに巻き込まれて祖父は殺され、父とともに命からがら脱出し、直家は6歳にして放浪生活という不遇の歳月を味わっています。

やがて、成人する頃になって帰参が許され、再び浦上家の家臣となるのですが、その頭角はすぐに現れます。

亀山城(岡山市)砥石城(といしじょう・岡山市)を奪って、あっと言う間に備前南部を手中に収めた後、戦上手で聞こえた穝所元常が城主を務める龍ノ口城(岡山市)を攻めるのですが、難攻不落と言われたこの城をなかなか落す事ができなかったところ、この城主が男色であるとの噂を耳にし、岡剛介なる美少年刺客を送り込んで色仕掛け作戦を決行したりなんかします。

「そんなアホな!なんぼ美少年好きでも、相手は戦上手なんやから・・・」と思いきや、元常はあっさりとこの美少年に寝首を掻かれ、龍ノ口城を、いとも簡単に陥落させてしまいます。

やがて、浦上家でも一番の有力者になった直家は、さらに勢力を拡大し、徐々に主君である浦上家当主・宗景を脅かすようになります。

この頃には、すでに直家は安芸(広島県西部)毛利氏の後ろ盾を得ており、まさに、主家・浦上家を乗っ取る勢い・・・脅威を感じた宗景は、織田信長に後押しを頼みますが、ついに、天正五年(1577年)、宗景を天神山城(岡山県)から追い払い、備中(岡山県西部)の一部も手中に収めました。

そして、その同じ年には、毛利氏傘下の一員として、信長傘下の山中鹿介が城番を務める上月城(こうづきじょう・兵庫県)(11月29日参照>>)を、一旦は攻め落としますが、翌年の3月には、信長の中国平定担当のあの羽柴(豊臣)秀吉が鹿介ら尼子氏を支援して総攻撃を仕掛けて来たために、あえなく上月城を手放してしまいました。

しかし、その翌月に、すぐさま、その上月城を取り戻すべく3万の軍勢を率いてやってきた吉川元春(毛利元就の次男)小早川隆景(元就の三男)上月城に総攻撃を仕掛けた時には、直家は参戦しませんでした。

『備前軍記』によれば、この時、直家は、仮病を使って日和見・・・つまり二股をかけていたのだとか・・・。

直家は、どうやら、この上月城の攻防戦は、信長が勝つとみていたようです。

しかし、この攻防戦に信長自身が兵を出す事はなく、中国担当の秀吉は別所長治三木城(兵庫県)への攻撃に忙しく(3月29日参照>>)、多くの支援を得られなかった上月城は、3ヵ月後の7月3日、尼子勝久の切腹によって攻防戦の幕を閉じたのです(7月3日参照>>)

・・・で、慌てて「病気が治った」と称して、毛利軍の陣へと勝利のお祝いに駆けつけた直家は、「どうぞ、お帰りになる時は、わが領内を通って、わが城へ・・・最高のおもてなしをしますから・・・」とのゴマすりトークで弁解しますが、元春と隆景は、完全無視で安芸へ帰ってしまいました。

直家は、この時、もし、毛利軍が立ち寄ったなら、元春と隆景を討ち取って、その首を手土産に信長の傘下に収まるつもりでいたようですが、さすがの元春と隆景は、直家お得意の暗殺・謀殺の手の内を見切っていたようです。

そう、もう、このあたりから、直家は、毛利から織田へ寝返る事を心に決めていたわけなのですが、さすがに、つい何ヶ月か前まで、思いっきり毛利の配下として戦ってたわけですから、信長から、なかなか、その許しが出ず、翌年の天正七年(1579年)10月30日、従兄弟の宇喜多基家が、直家の名代として信長の息子・信忠に謁見し、ようやく承諾を得たのです。

これには、かの秀吉が仲介役として奔走したようです。

そのためか、その後の直家は、秀吉に対しては、あの謀略しまくりの陰険さを忘れたかのように、誠心誠意、尽くしに尽くし、最前線で毛利相手に戦う事になります。

そんな直家さんですが、さすがに、晩年に病気が重くなった時は気弱になっていたようで、『武将感状記』では、家臣たちを集めて、「もし自分が死んだら、殉死(後追い自殺)してくれるか?」なんて聞いたりしてします。

多くの家臣が気をつかって、「あの世までお供します!」と答える中、戸川秀安(ひでやす)なる者が・・・
「人には向き不向きっちゅーのがあります。俺は、戦に関しては誰にも負けませんが殉死はできません。それに、多くの者を手にかけた家臣では、お供をしても地獄に落ちるだけ・・・殉死してもらいたいなら、僧侶にでもしてもらいなはれ」と、直家の気弱な発言を一蹴します。

これは、多くの者を、意味無く死出の道連れにする事をヨシとしない秀安の忠告だったわけですが、これに対して直家は、すなおに「気が動転してしまった・・・スマン、誰も死ななくていい・・・」と謝ったと言います。

やがて天正十年(1582年)2月14日(1月9日とも)岡山城にて53歳の生涯を閉じます。

平気で人を騙すところから、戦国武将としては、あまり人気がないと言われている直家さんですが、冒頭に書いた通り、それは、戦国を生き抜くための手段であって、ネはけっこうイイ人なのかも知れません。

天正七年の10月に信長傘下となり、天正十年の2月に亡くなるのですから、結局、直家と秀吉とのイイ関係は、わずか二年間だった事になりますが、

直家が亡くなった時に、わずか10歳だった彼の息子に父の家督を継ぐダンドリをしてやったり、秀家の名を与えて養子にして五大老の一人に任命したり、自らの養女にした前田利家の娘・豪姫と結婚させたり(5月23日参照>>)と、秀吉の宇喜多家への親切ぶりは尋常じゃないです。

秀吉の事ですから、多少の打算はあったでしょうが、やはり、直家との関係が、相当良いものだったからなのではないでしょうか。

もちろん、その息子・秀家は、ご存知のように、秀吉亡きあとの豊臣家を命がけで守る事になりますが・・・(8月6日参照>>)
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2008年10月29日 (水)

水戸黄門の大日本史が皇室系図に与えた影響

 

享保五年(1720年)10月29日、水戸藩『大日本史』240巻を幕府に献上しました・・・と、実は昨年の10月29日にも、この大日本史の事を書かせていただきました。

昨年は、かの水戸黄門さまが、日本の歴史を一冊にまとめようという考えに至った経緯や、その関連から行った古墳の発掘調査について書かせていただきました(昨年のページを見る>>)が、本日は、一部完成した(すべてが完成するのは明治三十九年=1906年です)この大日本史が、後の世に与えた影響など、お話したいと思います。

・・・・・・・・・・・

もし、お手元に歴史の教科書をお持ちでしたら・・・、なければ、ネットで確認していただいても良いのですが、今の『皇室の系図』には、初代・神武天皇から、現在の125代・今上天皇まで、神話時代の天皇の実在か架空かの問題はともかく、脈々と受け継がれてきた第○○代という順位があるわけですが、実のところ、いくつかのややこしい部分があります。

そのややこしい部分を決定したと思われるのが、この大日本史・・・というか、この大日本史の天皇の在位の記述に従って、現在の教科書等にも第○○代という書き方がされているのです。

大日本史は、初代の神武天皇から第100代の後小松天皇までの100代(厳密には南北朝合一まで)の天皇を、ほぼ年代順に追う形で、様々な事が書かれているわけですが、たとえば、一番ややこしい南北朝時代・・・。

ご存知のように、この時代は、南朝と北朝・・・この両方に天皇がいたわけですから、同時に二人の天皇が存在した事になります。

Nanbokutyoukeizucc ・・・で、現在の教科書等では、第96代・後醍醐天皇の次の第97代は、その息子・九男の後村上天皇、そして第98代は、その後村上天皇の第一子・長慶天皇・・・南朝の天皇が代々その順番を継いでいくのです。

(以前、【南北朝の動乱~ある公家の悲しい都落ち】10月27日参照>>で掲載した系図ですが、ご参考まで→)

この間の北朝の天皇である光厳天皇光明天皇崇光天皇・・・は、それぞれ、北朝第1代・北朝第2代・北朝第3代として歴代天皇には数えません。

この南朝を正統とする書き方の基本となったのが大日本史。

南北朝時代は、おおむね北朝が都である京都に居を構え、北朝中心に事が運ばれたにも関わらず南朝を正統としたのは、三種の神器の行方も影響しています。

ご存知、三種の神器・・・

あの天照大御神(天照大神・アマテラスオオミカミ)天岩戸に隠れた時に(7月6日参照>>)、連れ出す手段として、榊に結びつけた八咫鏡(やたのかがみ)八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、そして、須佐之男命(素戔鳴尊・スサノヲノミコト)八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に尻尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)の3つです。

これは、歴代天皇に受け継がれている物なので、とにかく、この3つのお宝を持ってる人が天皇という事なのですが、実は、この南北朝の動乱の最初の段階で、一旦、北朝側に捕まった後醍醐天皇は、その命と引き換えに三種の神器を北朝側に渡すのですが、後日、幽閉先から逃げ出して、「北朝に渡したアレはニセ物だった」と主張し、吉野にて南朝という朝廷を誕生させる事になり、最後の南北朝合一(10月5日参照>>)のところでも、南朝側の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に、三種の神器を渡して合一となるので、一応、この南北朝の時代は、南朝が持っていたのが本物という事になってます。

ただし、大日本史で、南朝側が正統とされるのは、この三種の神器もさることながら、後醍醐天皇に味方した新田義貞の影響が大きいんでしょうけどね。

それは、徳川家康が新田氏の子孫の言い張っていたので・・・

つまりは、徳川家のご先祖が味方したほうに軍配を上げた感が拭えません・・・まぁ、徳川御三家の水戸の黄門さまが編さんしたわけですから・・・。

この大日本史が南朝を正統とした事は、幕末の勤皇の志士たちにも大きな影響を与えたとされます。

ただし、教科書で南朝を正統とするのには、即決されたわけではなく、明治期には一波乱もありました。

・・・というのも、明治天皇が北朝第3代の崇光天皇の子孫にあたるため、明治の頃の皇室や公家が北朝を正統としていたからで、明治のはじめ頃の教科書では、両方が正統だとされていたようです。

しかし、明治の終わり頃に、「両方が正統とすれば、この国が二つに分裂していた事を認める事になる」と歴史学会で大議論となり、当時、明治天皇が所持していた三種の神器が、例の南北朝合一の時に、南朝から北朝へ渡された三種の神器だとして、大日本史の記述を採用し、北朝の天皇は数えないものとなったのです。
(現在では、後醍醐天皇の「アレはニセ物」という主張もアヤシイという事で、北朝の天皇は、歴代天皇に数えはしないものの、どちらか一方が正統という考えはないようです)

さらに、第39代・弘文天皇を、第39代とするのにも、大日本史の影響があると思われます。

この弘文天皇とは、あの壬申の乱(6月24日参照>>)で敗れた大友皇子の事です。

第38代・天智天皇が、弟の大海人皇子「皇位を譲りたい」と言ったのを、大海人皇子が蹴って、出家して吉野に入るわけですが(10月19日参照>>)、その天智天皇が亡くなった後に挙兵して、壬申の乱で天智天皇の息子・大友皇子を倒して天武天皇となるアレです。

天智天皇が亡くなってから、大友皇子が敗れるまで、わずか半年ちょっとであったため、それまでは歴代天皇に数えられはいませんでしたが、明治三年(1870年)に第39代・弘文天皇という事になりました・・・大日本史の記述と同じになったのです。

また、第14代・仲哀天皇の奥さん・神功皇后は、仲哀天皇が亡くなってから応神天皇が継ぐまで、かなりの空白期間がある事から(9月5日参照>>)、それまでは天皇の一人として数えられていましたが、神功皇后は大友皇子とは逆に、大正十五年(1926年)に歴代天皇から外されています・・・神功皇后も、大日本史では天皇とされていません。

「南朝の正統」
「大友皇子を弘文天皇とする」
「神功皇后は天皇に数えない」

・・・と、それぞれの大日本史の記述が、どのような経緯で現在の皇室系図や教科書に採用されたかのもっともっと細かな事は、私も、まだまだ勉強しなくてはいけないところなのですが、こうしてみると、少なからず影響を与えた事は確かだと思いますね。
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2008年10月28日 (火)

徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?

 

慶長元年(1596年)10月28日、徳川家の重臣で徳川四天王の一人・酒井忠次が病没しました・・・享年70歳でした。

・・・・・・・・・

徳川四天王と言えば、榊原康政井伊直政本多忠勝・・・そして、その四天王の筆頭が、本日の酒井忠次(ただつぐ)です。

そんな忠次は、『酒井の太鼓』で有名・・・その逸話は、あの家康のおもらし事件で知られる三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で登場します。

ご存知のように、徳川家康武田信玄の生涯唯一の合戦となるこの戦いは、まだまだケツの青かった家康の惨敗となるのですが、この時、命からがら居城の浜松城に逃げ帰った家康がやった一か八かの作戦が『空城の計(くうじょうのけい)・・・。

これは、こちら側が兵力で劣り、完全に勝負にならないと判断した時に、敵の攻撃をかわすために、あの三国志の中で諸葛孔明(しょかつこうめい)が行った作戦なのですが・・・

はっきり言って、その三国志の丸写し・・・はたして実際に家康が行ったのかどうかは微妙なところではあります。

まぁ、当時の家康も、三国志や孫子は読んでいたでしょうから、その逸話をヒントに実際にやった可能性もありますが、家康が読んでるなら、信玄も読んでいるはずですから、三国志の司馬仲達(しばちゅうたつ)が騙されるまったく同じ方法で、見事に騙されるのもなんだかなぁ・・・って感じなので、おそらくは、天下泰平の徳川時代の人物が、東照大権現・家康公の賛美のために付け加えた可能性大なのですが、とりあえず、どのようなものかと言いますと・・・

諸葛孔明が、わずか2500の兵で、西城にいる時、司馬仲達が15万の大軍で攻めてきたのですが、さすがの孔明も、この兵力の差ではとても勝ち目がありません。

そこで、孔明は四方の城門を開け放ち、防具を脱ぎ捨てたわずかの人数で、城楼に上り、そこで香を焚いて、琴を奏で宴会を開いたのです。

すると、それを見た仲達が、「孔明は用意周到な人物なのに、敵兵の前であのように城門を開け放っているのは、きっと、多くの伏兵を隠して、何かの仕掛けを造り、俺らをおびき寄せて、城内で一網打尽にする作戦に違いない」と思って、城を攻めるのをやめて、兵を退いた・・・というものです。

家康の場合も、おもらしするほど恐怖におののいて逃げ帰った浜松城の城門を開け放ち、思いっきりガンガンにかがり火を焚いて、琴ならぬ大きな太鼓をドンドンと打ち鳴らしたのです。

そう、この時、自ら櫓に登って太鼓を打ち鳴らしたのが、酒井忠次・・・もちろん、敗走した家康を追撃してきた武田軍は、三国志の逸話の通りに何か、計略があるのではないか?」と疑って、浜松城へは入らなかったというわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

酒井忠次は、家康の父の代からの松平家譜代の家臣・・・家康とは姻戚関係もあり、子供の時から、すでに行動をともにしていた重臣です。

家康が人質となって今川義元のもとにいた時(8月2日参照>>)も、彼はそばに仕え、身の回りの世話をしていたと言います。

もちろん、家康が今川から離れて独立(5月19日参照>>)した後も、家老として大活躍!

多くの者が家康のもとを離れた三河一向一揆(9月5日参照>>)でも、決して主君の側を離れる事はありませんでした。

その後、家康が豊臣秀吉の傘下となってからも、その秀吉から、家康一番の家臣として重要視されていました。

長い長い年月をかけて築き上げてきた主君と家臣の信頼関係・・・だからこそ、家臣の中の家臣である徳川四天王の中でも、忠次が筆頭だったのです。

ところがです。

小田原征伐が終って、いよいよ秀吉の天下となり、家康が関東への転封を言渡された時(7月13日参照>>)の事です。

今までの領地にプラスされたのではなく、三河を譲っての江戸への引越しですから、当然、家臣たちへもそれぞれ新たな所領が与えられる事になるわけですが、その時、井伊直政が12万石本多忠勝と榊原康政にはそれぞれ10万石が与えられたにも関わらず、忠次の後を継いでいた息子・家次には、わずか3万石だったのです。

忠次がすでに、隠居しているとは言え、これは、さすがに他の四天王と格差ありすぎではありませんか!

驚いた忠次は、早速家康のもとへ不服を申し立てるのですが、そんな忠次を見て家康、は一言・・・
「そんなお前でも、わが子はカワイイんやな」

実は、この忠次冷遇の原因は、以前書かせていただいたあの築山殿と信康の事件(8月29日9月15日参照>>)にあると言われています。

そう、あの時、娘・徳姫の手紙で、家康の妻・築山殿と長男・信康に謀反の疑いを持った織田信長に、その弁明のために、家康から派遣されたのが、忠次だったのです。

結局は、忠次が、その弁明に失敗したために、信長からの、築山殿と信康の殺害命令が出てしまう事で、家康は、わが手で妻と息子を葬らねばならなくなったわけです。

その事をずっと恨みに思っていたと・・・。

しかし、そのページでも書かせていただいたように、その時、徳姫の手紙や信長の命令が本当にあったのかどうかは、非常に疑わしい部分もありますので、なんともいえませんが・・・。

ただし、四天王の筆頭であった忠次が、晩年になって冷遇されたのは事実・・・いったい、家康と忠次の間に何があったのでしょうか?

果たして、人質時代からの、一番の家臣との信頼関係が崩れるほどの出来事とは?

とても気になります。
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2008年10月27日 (月)

天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長

 

弘治三年(1557年)10月27日、後奈良天皇の崩御のため、第106代・正親町天皇が践祚(せんそ・皇位を受け継ぐ事)しました。

・・・・・・・・・・

群雄割拠した戦国時代も後半に入って、天下統一の実力を持つ武将が登場します。

ご存知、織田信長豊臣秀吉徳川家康・・・。

以前も書かせていただきましたが、この三人の天下人と、ほぼ同じ時代を生きる天皇も三人・・・

徳川家康には、家康の孫・徳川和子を中宮に迎え、その徳川の血を引く娘に皇位を譲る後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)

豊臣秀吉には、常に天皇家を大事にしてくれる秀吉に、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と同等の貴種・豊臣の姓を与える後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)

そして、織田信長と時代をともにしたのが、本日の第106代・正親町(おおぎまち)天皇です。

この二人の関係は・・・
悪く言えば癒着した政治家と企業のような、良く言えば持ちつ持たれつの関係・・・そう、この正親町天皇は、天皇というよりも、政治家なみの駆け引き手腕を発揮してくれます。

・・・というのも、あの応仁の乱(5月20日参照>>)以来続く戦乱の世・・・有名無実のような室町幕府では、地方からの税もままならず、朝廷は常に貧窮状態

この頃は、先祖代々受け継いできた儀式も中止せざるを得なくなり、亡くなった先の天皇の葬式さえ行えない状態で、その権威も地に落ちていたのです。

現に、この正親町天皇の父の後奈良天皇(9月5日参照>>)も、そのまた父・祖父の後柏原天皇も、費用不足で皇位を継いでから20年以上もの間、即位の礼をまともに行う事ができなかったのです。

もちろん、即位の礼を行えない状況は、今回の正親町天皇も同じ・・・。

冒頭にも書いた通り、正親町天皇が皇位を継いだのは、弘治三年(1557年)10月27日・・・信長がようやく弟・信行との後継者争いに終止符を打ち(11月2日参照>>)、あの武田信玄上杉謙信川中島で3度目の合戦(8月29日参照>>)をおっぱじめていた頃です。

そんな正親町天皇が即位の礼を行う事ができたのは、皇位を継いでから4年目の事・・・この時、そのための費用を出したのが、あの毛利元就でした。

元就は、弘治元年(1555年)に厳島の戦い(10月1日参照>>)に勝利して、名門・大内氏を滅亡させ、さらに南北朝から続く尼子氏を脅かしつつある、まさに新進気鋭の上り調子真っ只中!

この時、正親町天皇は元就を陸奥守に任じ桐菊の紋を与えています。

そうです・・・ここから、正親町天皇の、由緒正しくない新参者の戦国武将たちに、天皇家との関係を持つ事で、その権威のおすそ分けをし、反対に寄付や御殿の修理を頼むという持ちつ持たれつの関係をフル活用する天皇家復活作戦の始まりです。

そして、この正親町天皇が皇位を継いでから即位の礼をする4年の間に、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で全国ネットに躍り出たのが、かの信長・・・。

やがて、その信長は、足利義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)する事になりますが、この際には、正親町天皇は、安寧を祈願するとともに、応仁の乱以来のたびたびの戦火の怯える公家たちへの根回しするかたわら、信長に対しては、京の人々に危害を加えぬよう軍の規律をしっかりと保つようにと伝えています。

これによって、信長軍は、抵抗勢力の六角氏を撃ち破りさえすれば(9月13日参照>>)、何の問題もなくすんなりと京に入る事ができ、京の人々にもすこぶる評判が良かったのです。

その後、信長は、ともに上洛して第15代室町幕府将軍となった義昭との関係が悪化(1月23日参照>>)しても、天皇家へは皇室御用地や公家の領地回復、紫宸殿や清涼殿の修理、借金返済に困った公家のための徳政令を発布・・・などなど、様々な援助を続けます。

時には、信長が、義昭への攻撃を口実に御所の近くである上京を焼き討ち(4月4日参照>>)したりもしたものの、正親町天皇のほうも、天正二年(1774年)3月28日には、大事な大事な正倉院のお宝の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を削らせてあげたり(3月28日参照>>)天正六年(1578年)の11月4日には、信長の要請に答えて、石山本願寺&毛利との和解の仲裁に入ったりと大サービス!

しかし、その良好な関係の中、信長は、たびたび正親町天皇に譲位するよう求めるようになるのです。

なので、天正九年(1581年)に天皇の前で行った、御馬揃(おうまぞろえ)なる軍事パレード(2月28日参照>>)も、一説には、天皇にその武力を誇示するため・・・なんて事も言われたりしますが、実はそこには、天皇と朝廷のモロモロがあるのですが、そのお話は2011年11月4日のページでどうぞ>>

やがて正親町天皇は、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任命する事で、良好な関係を維持する決意を固めるのですが・・・

しかし・・・
ご存知のように、信長は、そのいずれかが欲しいのか?それとも、すべてを蹴るのか?の返答もしないまま、あの本能寺で自害する事になってしまいました(6月2日参照>>)

謎多き本能寺の変の黒幕として、天皇をはじめとする朝廷内の公家の名前が、推理の一つとしてあがるのも、上記のように、正親町天皇と信長の関係が、徐々に壊れつつあったからなのでは?・・・という観点からなのです。

やがて、信長を討った明智光秀山崎の合戦(6月13日参照>>)で破った秀吉を、天正十三年(1585年)に関白に任じ、正親町天皇は孫の和仁(周仁・後陽成天皇)親王に皇位を譲り、自らは上皇となりました。

この譲位というのも、第102代・後花園天皇(在位:1428年~1464年=永享の乱とかの時代です・2月10日参照>>から、約120年ぶりの事となります。

つまり、この120年間は、先の天皇が亡くなったので、しかたなく次の天皇が・・・という権威もクソもなかった状態から、正親町天皇が信長や力のある戦国武将との連携をうまく保った事によって、天皇家の地位を回復させたというわけです。

そして冒頭に書いたように、この次は、戦国天下人篇・第二幕・・・後陽成天皇と秀吉の関係へとつながっていきます。
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2008年10月26日 (日)

伊藤博文・暗殺~真犯人は別にいる?

 

明治四十二年(1909年)10月26日、初代総理大臣を務めた事でも知られる明治政府の中心人物の一人・伊藤博文が、ハルピン駅で銃弾に倒れ、死亡しました。

・・・・・・・・・・

この日、ロシア側と満州・韓国問題に関する非公式の会談を行う予定だった伊藤博文(12月22日参照>>)が、ハルピン駅に到着したのは午前9時でした。

東清鉄道の用意した特別貴賓車から降り立った伊藤を迎えたのは、ロシア蔵相ココフツォーフ

駅のホームに、ピッシリと整列したロシア兵たちを、「どうぞご覧になってください」と蔵相が伊藤に促し、伊藤は彼ら一人一人に目を向けながら、ゆっくりとその前を歩き始めました。

その時です!
いきなり、その場に倒れ込む伊藤・・・身体に撃ち込まれた3発の銃弾は、すべてが致命傷でした。

撃たれた伊藤は、再び貴賓車に運ばれ、その場にいた医者の手当てを受けますが、見る見るうちに血の気が無くなり、30分後に死亡します

逮捕された犯人は、安重根(アンジュングン)という韓国人の青年・・・ロシア兵の兵列の間から突き出した銃での狙撃でした。

すぐに、日本に護送された彼への尋問は、10月30日から翌年の1月まで続きました。

彼の自供によれば、その動機は「個人的恨みからではなく、国を思っての行為」・・・つまり、この時期に推し進められていた日韓併合を阻止するために、朝鮮半島政策を提唱する伊藤を襲ったというのです。

結局、大政治家の暗殺犯として処刑された彼ですが、祖国では英雄・・・。

この時代は、日本だけでなく、アメリカもフィリピンの支配を、イギリスもインドの支配を推し進めていた時代で、韓国内には、安重根のような反対派もいれば、14万人の会員を持つ一進会という親日の組織もあり、この日韓併合の問題は、とても複雑・・・右に左に意見が別れる中、未だ不勉強な私が、安易に語るべき問題ではないと考えますので、それにつきましては、専門家の方のサイトなり著書なりを見ていただくとして・・・、

本日は、ひょっとしたら、伊藤博文・暗殺犯は安重根ではないかも知れないというお話をさせていただきます。

それは、この日のハルピンのホームで、伊藤のすぐ後ろを歩いていた貴族院議員の室田義文の証言・・・彼によれば、「安重根が撃ったのは自分であり、伊藤を撃ったのは別の銃である」というのです。

確かに、彼は膝に銃撃を受けていて、着ていたコートにも数個の銃弾の跡があったのだそうです。

そして、安重根の持っていた銃はブローニング式七連発銃という物だそうですが、そのうち6発を、兵列の影に隠れるようにしゃがんで撃ったとされています。

しかし、伊藤の体に撃ちこまれたのは、フランス式の騎馬銃で、弾痕は右上から左下へと入っている・・・つまり、上から狙われたのだと・・・

ただし、これは、その室田の証言のみ・・・公式の記録には、弾痕の角度も弾の種類も記録されていないのです。

とにかく、伊藤博文という明治政府屈指の人物の暗殺事件でありながら、なぜか、現場検証がかなりの手抜きっぽいのです。

そのため、この事件は様々な憶測を呼ぶ結果となってしまいます。

かの室田さん自身は、「犯人はロシア兵だ」との考えだそうですが、それ以外にも、安重根の単独犯行ではなく、他にも韓国人の仲間がいて、その者の撃った弾が伊藤に命中したのだとの推理もあります。

さらに、その場にいた日本人の軍人だという意見も・・・。

一般的には、韓国併合を強く推し進めていた感のある伊藤ですが、実は、実際の彼の考えは、併合は併合でも、ゆるやかな支配を考えていたとも言われ、強い支配を主張する軍人からは、伊藤ではぬるいとの意見もあったのだとか・・・

果たして真実はいかなるものなのでしょう。
もはや、迫るすべはないのでしょうか・・・
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2008年10月25日 (土)

祝!1000ページ~ありがとうございます

 

わたくし事で恐縮ですが、本日のこのページで、ちょうど1000ページめという記念すべき日を迎えさせていただきました。

いつも「今日は何の日?徒然日記」にご訪問下さり、まことにありがとうございます。

ここまでやってこれたのも、徐々に増えてくださった閲覧者の皆様のおかげ・・・感謝しております。

2006年2月12日という、まったく記念でも何でもない日に、ふと始めてみたブログ・・・

最初のうちは、使い方もわからず、まさに題名通りの、ただの日記でありましたが、徐々に大好きな歴史の方向へと向き始め、今は「歴史ブログ」という形で、ほぼ毎日、日本史に関する記事を書かせていただいております。

そこで、1000ページを記念して、少し振り返ってみますと・・・

自分自身では、どのページも全力投球・・・その都度頑張っているつもりでおりますので、自分では、どれもこれも甲乙つけがたいのですが、やはり、ブログにはアクセス数という閲覧者の方からの甲乙という物があるもので、手前味噌ではありますが、これまでアクセス数の多かったページを、ここで、ご紹介させていただきます。

ただ、総アクセスとなると、記事がネット上に乗ってから今日までの期間の差というものがありますので、今回は、1日で多くのアクセスをいただいたページを書き出しさせていただきます。

まず、栄光の1位は・・・
【三くだり半~江戸の離婚事情】
 このページは、「日本最古の離婚状(三くだり半)が福井県で発見された」というニュースが報道された時に、Yahhoニュースで参照サイトとして紹介していただいた事で、8月28日の一日で21477のアクセスをいただきました。
 この日は、ブログ全体で34050ものアクセスしていただいて、翌日のココログランキングの1位を獲得させていただきました。

【戦国時代の食べ物事情】
 このページも、昨年の10月31日に、「大阪城から慶長年間の宴会の跡が発見された」というニュースの参照ページとして紹介され、その日に4072、翌日に4302のアクセスをいただきました。

【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
 こちらは、8月26日に、ホラー系の人気のサイトからリンクしていただき、一日で3710アクセスしていただきました。

【大奥スキャンダル絵島の真相】
 こちらは、記事をupしたその日に、話題のブログとして@niftyのトップページに掲載していただき、685のアクセスをいただきました。

【織田信長と黒人さん】
 現在はレギュラー放送となっている『日本史サスペンス』という番組が、まだ単発のスペシャル番組だった頃に、番組内で信長の家臣となった黒人の弥介さんの事が取り上げられましたが、弥介さんの事を書いているサイトがあまりなかったようで、検索サイトを中心に554のアクセスがありました。

【「天璋院・篤姫展」に行ってきました~】
 ちょうど、大河ドラマ・篤姫の放送日に「篤姫展」に行った話題を書かせていただき414アクセスしていただきました。

【一休さんのとんちは本当?】
 こちらも、@niftyのトップページに話題の記事として掲載していただき、310のアクセスをいただきました。

あと、最近では
【ポッチャリ型が好み?小松帯刀と二人の妻】
【皇女・和宮とガラスの写真】
の2つのページが、日曜日の大河ドラマ放送日になると100以上アクセスしていただいています。

こうしてみると、かなりメディアに依存した感のある内容になってしまいましたが、このように特出した一つのページがあると、その翌日から、リピートして訪問してくださる方がグンと増えるという事があり、書く身としては、大変ありがたく思っています。

おかげ様で、最近では、メディアに関係なく、その日のトップアクセスのページが100を越える事が多々あり、毎日1000人前後の方に、2000ページほど閲覧していただいており、うれしい限りです。

意外なのは、ここ1ヶ月ほど前から、イラストギャラリーの【流水に紅葉】のイラストが、毎日150~200ほどアクセスしていただいて、何だかとまどい気味です・・・やはり、秋だからでしょうか。

何となく始めたブログですが、今となってはライフワーク・・・この先、5年・・・10年・・・
たまには、休ませていただきながら、末永く続けていきたいと思いますので、今後とも「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします

今日は、歴史のお話でなくて申し訳ありませんが、とにかく1000ページに達したお礼を・・・と思いのたけを書いてみました~

ありがとうございました。
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2008年10月24日 (金)

明智光秀と丹波・福知山の明智藪

 

天正七年(1579年)10月24日、明智光秀が安土で織田信長に謁見し、丹波国を平定した事を報告しました。

・・・・・・・・・・・・・

明智光秀と言えば、どうしてもあの本能寺の変を思い出してしまいます。

主君の織田信長に叱責され、足蹴にされて、柱だか欄干だかに頭を打ち付けられながらも耐えて耐えて・・・そして本能寺で大爆発!(6月2日参照>>)

・・・と、ドラマなどでは、大抵こんな感じで描かれますが、皆さんご存知の通り、アレはほとんど後世の創作です。

そりゃぁ、何か失敗をすれば怒られもしたでしょうが、それは他の家臣も同じで、光秀だけが怒られてたわけではありませんし、実際には、信長さんのパワーハラスメント的な記録は皆無です。

石山本願寺と和解した頃から、信長は、あの佐久間信盛(7月24日参照>>)を筆頭に、古い家臣たちを一掃して新しい人材登用を試みはじめますが、そんな家中改革の出世頭は、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉です。

しかも、光秀と秀吉では光秀のほうが一歩リード、家臣団の中で最も早く一国一城の主となっています。

パワーハラスメントどころか、信長一番のお気に入り家臣だったのです。

そんな光秀さん・・・以前書かせていただいたように、その経歴は謎に包まれています(10月18日参照>>)

清和源氏土岐氏の流れを汲む明智氏(9月20日参照>>)というのも、本当のところはわからないし、生まれた年さえはっきりしないのですから・・・

ところが、室町15代将軍・足利義昭が信長を頼った時に、いきなりその家臣として登場し、知識が豊富で教養にあふれ、京で使われている室町言葉を話し、しかも礼儀作法がしっかりしている・・・その上、最近出回り出したばかりの鉄砲の腕もイイとくれば、信長が食いつかないわけがありません。

なんせ、信長の家臣は、ほとんど尾張の人・・・室町言葉を話せなきゃ、朝廷や幕府との交渉もおぼつかない状況だし、特に朝廷からは田舎者扱いされますからね。

ここは一つ、洗練された雰囲気のシュッとしたお兄さんに広告塔になっていただいて、中央の方々に、「織田君って、なかなか都会的~」と言わせたい。

それにしても、光秀は、そんな教養をどこで身につけたんでしょうか。

越前(福井県)朝倉氏に仕える前に、諸国を流浪していたって言うけれど、ただ流浪しただけでそう簡単に身につきませんからねぇ。

光秀のこの洗練された雰囲気と比較されるのが、同じように出世した、かの秀吉です。

出自が低い秀吉の武器は、持ち前の要領の良さと斬新なアイデアと愛想の良いキャラクター・・・対する光秀は、正反対の・・・と言いたいところですが、私としては、光秀も秀吉と同じような環境で育ったのではないか?と思っています。

もちろん、謎に包まれているので、自分勝手な印象ですが・・・。

秀吉は、自分の出自や無学をさらけ出して、自分自身を貶め、負けを認めておいて相手を上の立場にあげておきながら、いつの間にか逆転してしまう。

光秀は、それができないタイプの人だったのではないでしょうか?

もともとの出自が良いのではなくて、出自が低いぶん、バカにされたくないから影で努力する・・・負けを認めたくないから頑張る・・・そんな感じの人ではなかったかと思います。

・・・・・・・・・・・

あ・・・そうそう、今日は光秀が信長に、丹波国を平定した事を報告したという話でしたね。

かのルイス・フロイスによれば、その性格は、独裁的で秘密主義、残酷で策謀家で平気で人を裏切り、自分を偽装する事が得意・・・と散々な言い方をされている光秀ですが、この平定した丹波一国を与えられ、亀山福知山に城を築き、内政には、なかなかの手腕を発揮しています。

その城下町の基礎を築いた福知山では、今も、毎年8月14日~16日と25日・26日の5日間、『ドッコイセまつり』が開催されています。

このお祭り・・・全国ネットのガイドブックなどでは、『福知山踊り』という名前で紹介されたりしていますが、地元では『ドッコイセまつり』と呼ぶのが一般的で、この「ドッコイセ」というのは、福知山城の築城に携わった領民たちの作業の時のかけ声だったのだとか・・・

領民たちが「ドッコイセ」と唄いながら作業する中、いつしかそこに踊りがついて年に一度の祭となり、それが400年もの長きに渡って受け継がれる・・・これこそが、光秀の内政が成功していた事の証しと言えるものなのかも・・・。

Aketuyabufukutiyama 明智藪:右後ろが福知山城です。

福知山市内を流れる由良川には、その氾濫防止と海運の発展を願って光秀が築いた『明智藪(あけちやぶ)と呼ばれる大堤防が今も残ります。

福知山の歴史散歩はホームページでどうぞ>>
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2008年10月23日 (木)

小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城奪取事件

 

天正十七年(1589年)10月23日、北条氏直配下の沼田城を預かる猪俣邦憲が、真田の名胡桃城を突然奪った事件・・・名胡桃城奪取事件がありました。

・・・・・・・・・・

ご存知のように、もともと甲斐(山梨県)武田の家臣だった真田昌幸は、あの天目山で武田勝頼が自刃(3月11日参照>>)して武田が滅亡した後、武田の旧領地は、勝者である織田信長のものとなるであろうと考え、織田の傘下となっていました。

ところが、その信長が、そのわずか3ヶ月後の天正十年6月に、本能寺で倒れてしまうのです(6月2日参照>>)

直後、宙に浮いた形の旧武田領は、たちまちのうちに、三河(愛知県東部)徳川相模(神奈川県)北条越後(新潟県)上杉三強から狙われる事になりました。

そんな中、父・幸綱の時代から、本拠地の信濃(長野県)小県(ちいさがた)上野(こうずけ・群馬県)東部に位置する沼田領(利根・吾妻の2郡)を、勝頼からまかされていた真田昌幸にとっては、本来は、この領地を維持したまま、独立した戦国大名になるのが目標でしたが、なんせ、その三強が、真田氏とはケタ違いの大大名ですから、この時点では、とりあえず直接対決を避けるしかありませんでした。

そのため、不満ながらも、その7月に小県に進攻してきた北条氏直主従関係を結んだ昌幸でしたが、今度は、その北条と交戦中の徳川家康から、小県と沼田はもちろん、それプラス上野の箕輪と信濃の諏訪郡をあげるから・・・という好条件でのお誘いがあり、わずか2ヶ月後の9月には、徳川の傘下となります。

ところが、その家康が、翌月の10月に、北条と和睦を結んでしまうのです。

しかも、その条件が「旧武田領争奪戦から手を退くかわりに、関東上野領を全部チョーダイな」という事だったのです。

上野領全部という事は、当然、沼田領が入ってます。

ここは、昌幸が父とともに自力で沼田城を落として、その北条から勝ち取った場所・・・こないだ主人になったばっかりの家康に勝手に決められて、「渡せ」と言われても、納得できるわけがありません。

沼田城の北条への返還を拒否し続けながら、後に居城となる上田城の建設にとりかかる昌幸でしたが、ちょうどこの頃、家康は、天正十二年(1584年)3月から始まった信長の後継者を巡っての羽柴(豊臣)秀吉との小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)に必死で、徳川VS真田の関係にはラッキーな空白が生まれる事になります。

その年の11月に信長の次男・織田信雄の秀吉との単独講和で終焉を迎えた小牧長久手の戦い(11月16日参照>>)・・・やがて、翌年の4月になって、家康は、棚上げになっていた返還要求を再開したのです。

危機感を抱いた昌幸は、その7月、三強の残りの一人・越後の上杉景勝(かげかつ)に、次男・弁丸(後の幸村)人質に差し出して親交を深めますが、それにブチ切れた家康が、いよいよ真田討伐に取りかかります。

これが、第一次上田合戦=神川の戦いです(8月2日参照>>)

見事なゲリラ作戦で、徳川の総攻撃をかわした真田勢・・・やがて、徳川の重臣・石川数正の秀吉への寝返りという、徳川家内のサプライズで動揺した家康が、兵を退いた事で上田城は守られました。

その後、昌幸は、上杉の人質となっていた弁丸を、今度は秀吉のもとに出仕させ、秀吉の傘下となりますが、対する秀吉も「近々、あの家康のアホをやったるさかいに安心しとき」と、なかなか好意的・・・。

しかし、実は、秀吉は家康にも、「近々、真田をやったるさかいに・・・」と、言ったりなんかしてます。

なんせ、この頃は、妹&母親総動員で、何とか家康を自分の臣下にしようと必死の頃でしたから・・・(10月17日参照>>)

・・・で、結局、その秀吉のとりなしで、天正十七年(1589年)春に、昌幸と家康は仲直り・・・なんせ、今となっては、二人ともが秀吉の臣下ですからね。

秀吉も、一応、元家康の家臣という事で、名目上、真田を徳川の臣下とし、羽柴>徳川>真田という関係にしていますが、事実上は、昌幸は秀吉の直臣のような状況で、かなり重要視していたようです。

そして、モメにモメていた先の沼田領の問題は、3分の2を北条に返還し、残りの3分の1と箕輪を足して昌幸の領地とし、そのかわり北条氏直が秀吉の傘下となり、その証しとして大坂城に臣下に加わった挨拶に来るよう要求します。

「氏直が秀吉の臣下となるなら・・・」と、沼田城を明渡す決意をした昌幸は、沼田城から手を退き、利根川を挟んで向かい側にある名胡桃城(なぐるみじょう)に、家臣の鈴木重則(主水)を配置し、一方の北条は、北条氏邦(氏直の叔父)の家臣・猪俣邦憲(くにのり)沼田城に入城しました。

ところが、その明け渡しから半年もたたない天正十七年(1589年)10月23日邦憲は突然、名胡桃城を襲撃し奪ってしまったのです。

北条の誘いで、その時、城を留守にしていた重則は、騙されたと知り、切腹をしてその無念さをアピールして死んでいきました。

昌幸からこの報告を受けた秀吉・・・当然、許すわけにはいきません。

そう、この名胡桃城奪取事件が、きっかけで、あの小田原征伐が開始される事になるのです(11月24日【秀吉の宣戦布告状】参照>>)

もちろん、天下統一を狙う秀吉にとっては渡りに船・・・臣下に入らないんなら、潰すしかない北条に、格好の攻撃理由ができたわけですから・・・。

この小田原攻めの時、秀吉は、大大名の家康をはじめ、配下の名だたる武将がいる中、城を奪われ、一番隅っこのほうで小さくなっていた昌幸に、「中山道の先手はお前に任せる」と言ったのだとか・・・地の利を生かせる信濃の地で先頭に立って仇を討てと・・・(12月10日【小田原征伐軍議】参照>>)

さすがは人たらし・・・いや、部下の使い方がウマイなぁ・・・秀吉さん。

もちろん、この小田原征伐が初陣となる(初陣については第一次上田城の戦いの説もあり)、かの弁丸真田幸村(信繁)も、後の名将を予感させる大活躍をする事になります。
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2008年10月22日 (水)

道三より大物?斉藤義龍の「親から国盗り物語」

 

弘治元年(1555年)10月22日、美濃・稲葉山城内で、斉藤道三の嫡男・斉藤義龍が弟の孫四郎と喜平次を騙まし討ちしました。

・・・・・・・・・

一介の油売りから、美濃(岐阜県)の実力者・長井長弘の家臣となって、主君である長井氏を乗っ取り、その長井氏の主君だった守護代・斉藤利長の斉藤氏を乗っ取り、さらにその上の主君だった守護・土岐頼芸(ときよりなり)も追放して、ついに美濃一国を手にした斉藤道三(さいとうどうさん)・・・ご存知『国盗り物語』の主人公で、戦国下極上の代表格です。

まぁ、現在では、この国盗り劇は父子2代の物語ってのが定説(1月13日参照>>)となってますが、それでも、代表格は代表格・・・

で・・・天文二十一年(1552年)に、その美濃乗っ取り劇を行った道三は、天文二十三年(1554年)には、すでに隠居して稲葉山城から鷺山城へと移り、嫡男の斉藤義龍(よしたつ)に家督を譲ったとされますが、それが事実だとすると、一国一城の主という状態は、たった2年間だったという事になります。

ただし、この隠居劇は、江戸時代以降の軍記物に出て来るお話で、おそらく道三は天文二十三年の時点では、まだ、隠居はしておらず、この10月22日の嫡男・義龍の弟・殺害事件を以って、息子によるクーデターが決行されたと考えるべきでしょう。

もちろん、その火種は、もっと以前からありました。

かの『信長公記』によれば・・・
「道三は長男・義龍の事を「アホ」と罵り、次男の孫四郎や三男の喜平次「利口」として、下の二人ばかりを溺愛した事で、義龍との間に亀裂が入った」とあります。

この道三の態度から、次第に、二人の弟も、兄を侮るようになり、道三+弟二人VS義龍の構図ができあがっていく事になります。

やがて、弘治元年(1555年)の10月に入った頃から、義龍は病と称して、稲葉山城の奥に引きこもってしまうのです。

そして、訪れた弘治元年(1555年)10月22日、この日、稲葉山城の麓にある井口(いのくち)にある私邸に向かった道三・・・義龍は、このスキを狙って、二人の弟をそばに呼び寄せ、殺害を謀ったのです。

この報を聞いて驚いた道三は、急遽手勢を集めて、稲葉山城下を焼き払い、長良川を渡って対岸へと逃走します。

・・・つまり、ここで道三は鷺山城へ入り、義龍が家督を継いだという事になるのではないか?と思います。

なぜなら、天文二十三年の時点で、道三が隠居して鷺山城に居るなら、わざわざ井口に出かけているスキを狙う必要もありませんし、すでに家督を譲られているのなら、あえて強硬手段に出なくても・・・という気がするのです。

道三が井口に出かけている間に弟を殺害するのは、何より、道三がまだ稲葉山城にいたからであり、家督を弟のどちらかに譲ろうとしていたからに他ならないのではないでしょうか。

ところで、弟二人を騙まし討ちして、父親を追放して・・・というと、なにやら義龍さん、極悪非道な人のようにも思いますが、どうやらそうでもないようです。

・・・と言うのは、以前、道三のご命日となる長良川の戦いの日に書かせていただきましたが(4月20日参照>>)、この後、道三・義龍父子が決着をつけるべく戦ったその合戦での、お互いの手勢の数です。

この合戦は、斉藤家の父子の戦い・・・つまり、どちらの兵も、斉藤家の家臣なわけですが、道三の呼びかけに答えたのは約2千

一方の義龍に味方した者は、1万7千と言われています。

義龍が極悪非道で強引なクーデターを決行していたなら、たとえ、彼が稲葉山城に陣取っていたとしても、これほど多くの家臣の支持を得たとは、とても考え難い・・・ここに、単に弟のデキがいいから可愛がったというだけの親子の衝突でない事がうかがえます。

よく、耳にするのは、義龍が道三の実子ではなかったという話です。

義龍の母である深芳野(みよしの・三芳ノ方)は、もともと、かの土岐頼芸の側室だったのですが、彼女は評判の美人・・・どこかで、彼女を見かけた道三はたちまちのうちに一目惚れしてしまい、半ば脅す雰囲気で、当時は主君であった頼芸に頼み込んで、「そんなに好きならば・・・」と、譲り受けた女性だったのです。

しかし、その後、ほどなく義龍を生んだ事から、「譲り受けた時には、すでに妊娠していた」という噂が・・・もちろん、その子供が義龍なのですが、そうなると、その後の土岐氏は道三によって乗っ取られるのですから、当然、義龍にとっては道三は父の仇という事になります。

ただし、今のところ、これは事実ではなく後世の創作とされています。

ただ、そうでなくても、噂があったのは確かなようで、義龍は、むしろ、これを利用したようです。

なんせ、土岐氏を乗っ取っての国主・・・たとえ新参者のトップであれ、乗っ取られた以上、傘下に入らざるを得ないものの、以前からの土岐氏の家臣が、斉藤家にはたくさんいたわけですから、もしかしたら土岐氏の血を引くかもしれない・・・となると、名門のプライド高い彼らは、俄然、義龍の味方となるのです。

さらに、もう一つ・・・『信長公記』には、
「道三は、大した罪でもない者を、牛裂きにしたり、釜を置いて奥さんや親兄弟に火を焚かせて煮殺したりの凄まじい成敗をした」というような事が書かれてあり、どうやら道三は、その力ずくの下克上さながらの、強引な統治の仕方をしていたようです。

土岐氏を倒してから、この義龍のクーデターまで、わずか3年ですから、それだけで道三の領国統治能力をうんぬんする事はできないかも知れませんが、わりと早いうちから、家臣の信望を失い、領国経営がうまくいっていなかったのは確かなようです。

乗っ取りがウマイから経営もウマイとは限りませんからねぇ。

そして、道三が嫌っていた事や実子ではないの噂が流れる事でも垣間見えるように、義龍は父親には似ず、母親似で、心穏やかなイケメン(イケメンは家臣となるのに関係ないが・・・)、その人望もあつく、多くの家臣の心を掌握したという事なのです。

結果、長良川の戦いでの数の差というものが生まれてくる事になるわけです。

親子の亀裂というよりは、家臣・領民のために起こるべくして起こったクーデター・・・かくして、親子による国盗り物語の行方は・・・2012年4月20日のページでどうぞ>>

・‥…━━━☆

長良川の戦いの関連ページ:10月19日【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】もどうぞ>>
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2008年10月21日 (火)

楠木正成のゲリラ術炸裂!元弘の変・赤坂城の戦い

 

元弘元年(1331年)10月21日、鎌倉幕府軍に囲まれた赤坂城に籠っていた楠木正成が城に火を放ち、脱出しました。

・・・・・・・・・・

文保二年(1318年)、第96代の天皇として即位した後醍醐天皇(8月16日参照>>)・・・彼の理想は、摂関政治でもなく院政政治でもなく、ましてや武家政治でもない、天皇自らが行う政治でした。

しかし、現実は、あの源頼朝から続く武士政権=鎌倉幕府の時代・・・源氏の嫡流は3代で絶えたものの、北条高時第14代執権として君臨しています。

密かに、幕府を倒す計画を練る天皇でしたが、正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)が、事前にバレて失敗に終わります。

やがて、嘉暦元年(1326年)3月頃から、再び討幕しようと、息子・護良(もりよし・もりなが)親王たちに命じて各地の僧兵に声をかけ、側近の日野俊基(としもと)には、畿内の悪党(幕府傘下でない武士や土豪)たちを集めさせはじめるのです。

しかし、これが、また幕府の知るところとなり、後醍醐天皇を流刑に、息子の護良親王を死刑にするための使者がやって来ると聞いた天皇は、元弘元年(1331年)8月27日に三種の神器を持って、奈良の笠置山に逃走します(8月27日参照>>)

この笠置山で、楠木正成という頼れる男を味方につけた後醍醐天皇でしたが、その間に、幕府側は、三種の神器のないまま、光厳天皇を即位させ、その新天皇の命を受けた官軍として、大仏貞直(おおらぎさだなお)金沢貞冬率いる幕府軍が、9月27日、笠置山に総攻撃を仕掛けます・・・もちろん、迎え撃つ後醍醐天皇・・・元弘の変の勃発です(9月28日参照>>)

しかし、なんだかんだ言っても、幕府軍は戦いのプロ集団・・・笠置山はたちまちのうちに陥落して、29日には、山中を逃げまくっていた天皇も捕らえられてしまいました。

一方、後醍醐天皇の味方となった正成の籠っていた赤坂城にも、同時に、20万の幕府の軍勢が攻め寄せます。

当時、赤坂城は、前にある護りの城・上赤坂城と、その後ろにある本城・下赤坂城の二つに分かれていましたが、上赤坂城は未だ完成しておらず、正成らは、500の手勢で本城の下赤坂城に籠って応戦します。

10月15日、ここらへんでカタをつけようと総攻撃を開始した幕府軍・・・下赤坂城は、東西北の3方を川に囲まれた天然の要害でしたが、南側の堀は浅く、幕府軍はその南側に手勢を集中させ、一気に攻め入ろうと試みます。

しかし、城内からは、何本もの矢が放たれ、容易に近づく事ができません。

仕方なく撤退する幕府軍・・・すると突然、後方の山影から楠木勢が現れ、猛攻撃を仕掛けたかと思うと、今度は城内から兵が飛び出して更なる攻撃!

全員で籠城していると見せかけておいて、実は、半分以上の兵を、先に外の搦(から)め手に潜伏させておいて、敵を引きつけてから挟み撃ちにする見事な作戦でした。

幕府軍の総攻撃は翌日も続きます。

今度は、その数にまかせて、群がるアリのごとく城の塀によじ登ろうする幕府軍・・・
しかし、塀の半分あたりのところまでやって来ると、突然、その塀が、よじ登っている兵士とともに落下・・・実は、それは敵をおびき寄せるための囮(おとり)の塀で、本物の塀の外側に作られた張りぼて・・・縄を切れば、下に落ちる仕掛けになっていたのです。

3日目・・・

今度は、慎重に・・・、
一気に突入するような事をせず、一かたまりとなって、ゆっくりと進んでくる幕府軍・・・すると、哀れ塀の上からひしゃくでの熱湯あびせ攻撃に見舞われ、またまた撃沈。

この3日間の攻撃で疲れ果てた幕府軍は、ムリな攻撃をやめ、長期戦を視野に入れて、作戦を練り直す事にします。

20万対500・・・おそらく、とてつもなく誇張した数ではありましょうが、幕府軍がかなり多かった事は確か・・・男・正成、見事なゲリラ戦です。
(ただし、正成の戦略に関しては、三国志の諸葛孔明にそっくりという部分もありますが、今回は、あくまで『太平記』によれば・・・という事で・・・)

しかし、勝利に酔ってるヒマはありません。

赤坂城は、城といっても砦に近い小さな物・・・このまま、長期戦に持ち込まれては、耐えれるはずがありません。

20万はオーバーにしても、敵は幕府。
いつ援軍が派遣されるかわかりませんし、はなから完全勝利できる見込みは万に一つ・・・まして、肝心の後醍醐天皇が捕らえられてしまっては、赤坂城を守りきる意味も、それほどありません。

ここは、一つ、別の機会に別の場所で決起すべきと考えた正成は、元弘元年(1331年)10月21日赤坂城に火をかけて、金剛山の奥へと脱出したのです。

その後、炎に包まれた城を呆然と見る幕府軍・・・やがて、火の手が収まった城内に入ると、誰のものともわからない焼死体が山のように積み重なっていました。

またぞろ、何か企んでいるのではないか?としばらく囲みを解かず様子を見ていた幕府軍でしたが、それからいっこうに音沙汰もなく・・・11月に入ってからは、あの山のような死体を、長期戦には耐えられないとみた楠木一族郎党の自害と判断し、関東へと引き上げを開始しました。

翌年3月、後醍醐天皇は隠岐へ流され、俊基は死罪となり(3月7日参照>>)、もちろん、正成は死んだ事になりました。

彼らが、再び動きはじめるのは一年後・・・今度は、笠置山で逃げ切った護良親王のもと、正成らも再び挙兵する事になるのですが、そのお話は、2月1日【護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂・攻防戦へ】でどうぞ>>
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2008年10月20日 (月)

皇女・和宮~替え玉説について

 

文久元年(1861年)10月20日、第14代将軍・徳川家茂との結婚のため、皇女和宮が京都を出発しました。

・・・・・・・・・・

幕府の威信回復のため、公武合体の象徴として行われた将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚・・・。

その経緯と状況については、以前、書かせていただいた通り、すでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という婚約者がいたにも関わらず、その婚約を解消してまでもの結婚に、和宮本人は、まったく乗り気ではなく、「天下泰平のために、いやいやながらお受けします」と、いった感じの完全なる政略結婚ではありましたが(8月26日参照>>)、決意を固めた皇女・和宮(かずのみや)・・・文久三年(1861年)の10月20日彼女は京都を出発します。

行列は中山道を通って11月15日には、江戸へ到着。

華やかな花嫁行列は前代未聞の規模で行われ、通る宿場町の中には、和宮様にために、町の形を変えたところもあったのだとか・・・

そして、翌年の2月11日に婚礼が行われる事になるのですが、今日は、実は、この時、江戸にお嫁に行ったのは、和宮さん本人ではないのではないか?というお話を書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは、有吉佐和子さんの小説『和宮様御留』で有名になった替え玉説・・・

小説では、家茂との結婚が決まった時の和宮のあまりの嘆きっぷりを、不憫に思った母・観行院(かんぎょういん)が、独断で女中をその身代わりとする事にし、礼儀作法や御所言葉を身につけさせて、江戸へ送るのですが、あまりの環境の変化についていけず、その女性は、江戸へ向かう途中で、精神的に参ってしまい、「わたしは和宮ではない!」と叫び出したため、急遽もう一人の女性を代役に立てて江戸城に入り、風邪をひいた事にして、1ヶ月間の特訓の後、和宮として生きた・・・というものです。

もちろん、この話自体は小説ですから、その内容は有吉さんの創作なわけですが、「ひょっとしたら、江戸へ行った和宮はニセ者ではないか?」と疑いを持たれるようになったきっかけというのが、実際にあった様々な謎だったわけです。

それは、例の増上寺にある和宮さんのお墓・・・

先日、和宮さんのご命日のページ(9月2日参照>>)に書かせていただいたように、徳川家の菩提寺である増上寺の墓地が改葬された際に、発掘調査が行われたのですが、そこにいた和宮さんは、まるで少女がうたた寝をするような雰囲気だったと言われるくらい、キレイな状態で埋葬されていたわけです。

しかし、それにも関わらず、なぜか左手の手首から先の骨が見つからなかったというのです。

亡くなったのが明治十年(1887年)で、調査されたのが昭和三十五年(1960年)なら、まだ77年しか経っていないわけですし、もし、病気やその時の栄養状態で、極端に骨がもろくなっていたとしても、一部だけが無くなるというのは、とても考え難い事です。

おそらくは、生まれつき、あるいは、何らかの事故か病気で、生前に左手を失ったものと考えられますが、実際の和宮さんの記録には、そのような事は一切出てきません。

逆に、和宮さんは、小さい時から関節炎を患っていて、足のほうが不自由だったとされているのですが、増上寺のお墓の主は、極端な内股ではあるものの、足が悪かった形跡は見当たらなかったのです。

そして、それに関しては、勝海舟の書いた『氷川清話』に、「御殿の庭の踏み石に、姑・篤姫と和宮のぞうりだけが置いてあり、将軍のぞうりが下に落ちていたのを見つけて、ポンと庭に飛び降りて、自分のを下におろし、将軍のを石の上にあげた」という、江戸城でのエピソードが書かれているのですが、伝えられるように足が悪いのであるなら、ポンと呼び降りるなんて事はできないし、第一、そのような行動は公家のお姫様がなさるような行動ではないのではないか?というのです。

また、和宮さんとされる遺骸の頭髪は赤毛でしたが、家茂の棺に収められていた和宮さんの遺髪は黒髪であったという話もあります。

これらのお墓に関する事実と、有吉さん自身が耳にした、替え玉となった女性の姪という人から聞いた話が、先の小説のもととなっているようです。

上記以外にも、京都時代の和宮と江戸に行ってからの和宮の歌の趣味が違っているとか、京都に和宮さんの遺骨を納めたお墓が別に存在するなど、替え玉説を裏付けるような話もチラホラ・・・。

とは、言え、やっぱり、替え玉説は仮説の域を越えないものではあります。

かく言う私も、江戸へお嫁に行った和宮さんは、やはりホンモノの和宮さんであったと思っています。

というのは、その増上寺のお墓の調査報告によると、その遺骸は、当時の一般の人々とは明らかに違う様子だったという事を小耳に挟んだからなのですが・・・。

現在と違って、当時のお公家さん、しかも、天皇の妹なんていう人は、一般人とはかけ離れた生活をしていて、それこそ重い物など持った事もないし、激しい運動なんてした事がないなんて事が多々あり、お公家さん独特の骨の形成になっているのだそうですが、増上寺の和宮さんとされる遺骸は、その特徴をしっかりと持っているのだそうです。

骨の形成なんていうのは、ちょっとやそっとの年数では特徴は出ませんから、やはり幼い時から、そのような生活をなさっていた人物なのではないかと思います。

そして、それよりも、さらに、江戸の和宮さんがホンモノだとの証しだと思うのは、何と言っても、徳川最後の時の活躍です。

篤姫が、徳川存続の願いを込めて、西郷隆盛に手紙を書いたお話(4月11日参照>>)は、以前書かせていただきましたが、この時、和宮も、朝廷に手紙を書いています。

この時の手紙という物に効果があるとすれば、それは本人の直筆による物であるからであって、別人の手紙なら、何の効果も得られない事になりますからね。

また、徳川から朝廷へ送る手紙も、彼女がチェックして、「こんな書き方ではダメ」なんて、何度も書き直させていた(1月17日参照>>)といいますから、そのような事は、ちょっとやそっとのお姫様教育を受けただけの人では、到底できない事なのではないか?と思います。

もちろん、替え玉であろうが、ホンモノであろうが、いずれにしても、謎は残りますが、また、その謎が、更なる推理へと導いてくれる歴史のおもしろさでもあるんですよね。

いつか、解決する時が来てほしいような・・・
謎は謎のままのほうがいいような・・・(*^m^)
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2008年10月19日 (日)

希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発

 

天智十年(671年)10月19日、第38代・天智天皇からの皇位継承を固辞した弟・大海人皇子が、吉野に向かって出発しました。

・・・・・・・・・

20歳の時に、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)とともに乙巳の変(6月12日参照>>)蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)父子を倒し、その後即位した第36代孝徳天皇(6月14日参照>>)のもと大化の改新を支え、次の第37代・斉明天皇(7月24日参照>>)をサポートし、白村江の戦い(8月27日参照>>)という海外出兵も経験するという波乱の皇太子時代を送った中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、近江(滋賀県)大津宮に都を遷し(3月19日参照>>)天智天皇として即位したのは、天智七年(668年)・・・天皇が43歳の時でした。

しかし、その翌年には、ともに歩んできた鎌足が亡くなり(10月15日参照>>)、その頃には、大化の改新の直後には手を組んで政務をこなしていた弟の大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)との間にも、大きなズレが生じるようになっていました。

それは、天智天皇と大海人皇子の二人を手玉に取った額田王(ぬかたのおおきみ)という女性との三角関係も噂されますが(1月6日参照>>)、それよりも、むしろ、二人の方向性の違い・・・描く未来に差があったというところでしょうか。

二人ともがデキル人物であるが故に、その方向性に違いが生じると、修復が困難な亀裂ができてしまう・・・それは、やがて、天智天皇の後継者という問題に発展します。

早々と、大海人皇子を皇太子に立てていた天智天皇ですが、天皇には日々成長を続ける大友皇子(おおとものみこ)という息子がいます。

ご本人たちの意思はともかく、朝廷内には、天皇と考えの違う皇太子・大海人皇子より、天皇の意思を継ぐ大友皇子のほうが後継者にふさわしいのではないか?という意見が生まれる事になります。

そんな中、天智十年(671年)の秋頃から、天智天皇は病に臥せるようになります。

10月17日、天皇は蘇我安麻呂(そがのやすまろ)を使者に立て、病床の枕元に大海人皇子を呼びました。

この時、すでに大海人皇子と親しい関係にあった安麻呂は、天皇との対面に向かう大海人皇子に対して「用心しなはれや~」と言ったとか言わなかったとか・・・

この時の大海人皇子の出方しだいでは、宮殿を出た直後に殺害する準備もしていた・・・なんて話もありますが、天皇が、そこまで、息子の大友皇子を後継者にしたかったどうかは、疑わしい部分もあります。

なんせ、天智天皇は、その生涯で一言も、息子に天皇の座を譲ってくれと大海人皇子に言った事もないし、皇太子を交代してくれとも言った事がないわけで、後に、壬申の乱という大乱が起こるのだから、この時点で、後継者争いがあったのだろうと、後の世の人間が勝手に思っているだけかも知れないわけですから・・・。

現に、この日、大海人皇子と面会した天智天皇は、「後をよろしく」と、大海人皇子に皇位を継承するように頼んでいるのです。

しかし、大海人皇子自身が、「僕は病気がちなんでできません・・・倭姫王(やまとひめのおおきみ・天智天皇の皇后)に皇位を譲って、大友皇子に政務をやってもらってください」と、断ってしまいます。

そして、「出家する」と言って退室し、その場で剃髪し、身につけていた武器を返上するのです。

もちろん、安麻呂が言ったように、その言葉通りに受け止めて、大海人皇子が皇位継承をOKしていたら、その場で殺害・・・なんて事になってたかも知れませんが、逆に、天皇は本気で皇位を譲ろうと思っていたかも知れません・・・お互いの心の内までは、計り知れませんからねぇ。

かくして、天智十年(671年)10月19日未明・・・大海人皇子は妃の鵜野讃良々皇女(うののさららのおうじょ・天智天皇の娘)、息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)以下、舎人(とねり)や女官ら数十名とともに、大津宮を出発したのです。

『日本書紀』では、この日、天智天皇に、行き先が吉野である事を告げ、その許しを得てからの出発という事ですが、未明という事は、その夜中のうちに許しを得たのか?それとも事後報告だったのか?という感じですが、出発に際しては、天智天皇の重臣である蘇我赤兄(そがのあかえ)中臣金(なかとみのかね)蘇我果安(そがのはたやす)の三人が宇治まで見送ったという事です。

この見送りに関しても、都を出てから大海人皇子を殺害しようとしていたとか、大海人皇子に疑いを持っていた彼らが本当に大海人皇子が吉野に行くのかどうか確認しようとしたとか、別れる事になった兄弟に本当は仲良くしてもらいたかったという純粋な気持ちからの見送りだったとか、様々な解釈がされていますが、この中のひとりが、虎に翼を着けて放つようなものだ」と言ったというのが、もし本当であったなら、やはり、すでに未来に起こる大乱のきざしがあったという事なのでしょう。

虎とは、もちろん大海人皇子の事・・・ただでさえ強い虎に翼を着けて放つのですから、いかに危険かという意味です。

しかし、当の大海人皇子は、それほど強気の吉野行きではなかったと思います。

かつて、蘇我入鹿が次期天皇にと願っていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ・天智天皇と大海人皇子の異母兄)も、入鹿が中大兄皇子に暗殺された時に、逃げるように吉野に入っていますが、その後、弟・天智天皇の手によって殺害されています。

たとえ、この吉野行きが、近江朝廷を倒すための準備のためであったとしても、そのタイミングで予定通りの確かな準備が整うかどうかも、それまでの間に古人大兄皇子のように追手が放たれるかどうかも、現時点では予測不可能なわけで、必ず生きて帰れるかどうかの保証ない旅立ちだったでしょう。

三人の重臣に見送られて旅立った大海人皇子ご一行は、その日のうちに明日香に到着し、翌・20日には吉野に向かって峠越えをするのですが、その時詠んだ大海人皇子の歌が『万葉集』に残っています。

♪ み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
  時なくそ 雪は落
(ふ)りける
  間なくそ 雨は零
(ふ)りける
  その雪の 時なきが如
(ごと)
  その雨の 間なきが如
  隈
(くま)も落ちず 思ひつつぞ来(こ)
  その山道を   ♪

「吉野の耳我峯に、深々と雪は降り、絶え間なく雨が降る・・・まるで、その雪は永遠に降り続くかのように、その雨は止む事がないかのように・・・そんな思いを抱きながら山道をひたすら歩いた・・・」

降り続く雨など無いのに、まるでその雨が永遠のように思える・・・明日は晴れるという見通しのたたない不安な時、人は、このような心境になるのではないでしょうか?

虎に例えられた男でさえ不安なこの山道を、夫・大海人皇子とともに、この日、この道を歩いたであろう鵜野讃良皇女は、時に前を見据え、時に後ろをふりかえりながら、ただ一縷の望みを持って着いて行った事でしょう。

そんな思いを抱えながら歩いた山道・・・それが、先日ご紹介した奥明日香(9月5日参照>>)・・・あの芋峠を越える飛鳥川沿いの道だったとされています。

Yosinoikiasukagawa 飛鳥川・上流

そのページでも書かせていただいた通り、後に持統天皇となった鵜野讃良皇女は、その生涯で、合計31回も吉野へ通います。

彼女が、吉野に、そして、この道にそこまでこだわったのは、おそらく、この日の吉野行きこそが、夫婦二人の転機であったからではないでしょうか。

やがて、一と月半後の12月3日、天智天皇はこの世を去り(12月3日参照>>)、大海人皇子が吉野を出る時が刻々と近づく事となりますが、そのお話は6月25日のページで>>
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2008年10月18日 (土)

日本初の政党・自由党誕生!

 

明治十四年(1881年)10月18日、日本初の政党・自由党の結成大会がありました。

・・・・・・・・・

まずは、明治六年(1873年)10月の明治六年の政変(10月24日参照>>)・・・征韓論論争で辞職した西郷隆盛とともに野に下った板垣退助が、故郷の土佐(高知県)に戻って打ち立てた自由民権のための結社・立志社から始まります。

庶民の自由や参政権を求める自由民権運動ですが、この最初の頃は、後の自由民権運動とは少し違ったものでした。

・・・というのも、上記の通り、板垣が故郷の友人に声をかけて作った立志社ですから、当然、、その構成は、ほとんどが土佐の士族です。

同じように野に下った西郷のまわりがそうであったように、やはり、ここも武士の特権を奪った政府への不満を抱く士族たちの集まりで、自由民権というよりは、もっぱら打倒!藩閥政府ばかりが中心となっていたのでした。

やがて起こった西南戦争(9月24日参照>>)でも、当然のごとく同調の声が上がり、密かに兵を集めて、政府転覆計画なんかを立てたりもしましたが、この時は、大久保利通の同郷・西郷への見事なまでの裏切りぶりに、彼らの立ち入る隙間はありませんでした。

そのうち、彼ら土佐の士族たちは、自由民権運動から離れ、その後に、運動を支えたのは豪農と呼ばれた人々でした。

それまでの江戸時代では、いくら財力があっても、いくら学問ができても、農民は政治に参加する事はできませんでしたが、時代は明治に変わり、「ひょっとしたら、我々も参政権を持つ事ができるのではなか?」・・・そう思い始めた裕福な農民たちにとって、自由民権運動は、まさにピッタシだったわけです。

彼らは、全国各地で同盟を結成し、集会を開いて期成をあげ、国会開設に向けての運動を展開します。

やがて、それは一般農民にまで広がり、その運動が最高潮に達した時・・・先日、書かせていただいたばかりの明治十四年の政変(10月11日参照>>)です。

世論の風に脅威を感じた政府が出した苦肉の約束・・・「10年後に国会を開く」

「10年あれば、その間に運動も沈静化するだろう」というちょっとした期待を持って、この約束をした政府でしたが、板垣は、すでに、政党を立ち上げる準備を、ちゃっかりやってたんですねぇ・・・なんせ、10月12日に「国会開設の勅諭(ちょくゆ・天皇のお言葉)」が出され、10月18日に結成大会ですから・・・。

こうして、明治十四年(1881年)10月18日日本で初めての政党・自由党が誕生したのです。

そして、翌・明治十五年(1882年)には、その明治十四年の政変で、失脚した大隈重信立憲改進党も誕生します。

二つの政党は・・・

自 由 党 =主権在民
         一院制
         普通選挙
         支持層:農民
         手本:フランス

立憲改進党=君民同治
         二院制
         制限選挙
         支持層:資本家・知識人
         手本:イギリス

と、このような違いがありましたが、当時の藩閥政府・打倒の目標は同じ・・・

危機感を抱いた政府は、すぐに、現政府を支持する政党・立憲帝政党を結成しますが、不人気のため、わずか一年で潰れちゃいました。

しかし、自由党も立憲改進党も、ともに正面の敵は現政府であったものの、やはり、方針の違いからか、がっちりとスクラムを組む事はなく、お互いに反発し合う間柄でした。

そんな中、自由党に危機が訪れます。

先の西南戦争での戦費調達で、世はインフレ真っ只中・・・この状況を打開するため、時の大蔵卿・松方正義(まさよし)が行ったデフレへの誘導政策・松方デフレによって、様々な物価が大暴落!

これで、自由党を支えていた多くの農民が破産してしまい、先が見えなくなった彼らは、その矛先を政府に向けようとします・・・それも、武力で・・・。

血気にはやる党員を、「もはや統率しきれない」と判断した板垣は、明治十七年(1884年)10月・・・自由党の解散を決意しました。

日本で初めての政党は、わずか、3年の命でした。

そして、一方の立憲改進党も、この同じ年、大隈の離党によってその勢いを失い、もはや虫の息となってしまいます。

しかし、これらの政党は、しっかりと将来へ夢をつなぎます。

やがて、自由党は再結成され、立憲改進党も息を吹き返し、初の選挙(11月24日参照>>)へ向けて、ともに形を変えながら、大きく羽ばたいていく事となるのです。
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2008年10月17日 (金)

負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業

 

天正十四年(1586)10月17日、羽柴(豊臣)秀吉からの再三の要請に応じて、徳川家康が上洛を決意・・・この時から家康は、秀吉の臣下という事になります。

・・・・・・・・・・・

日本の歴史に、天下人としてその名を残す二人・・・豊臣秀吉徳川家康

この二人の生涯たった一度の直接対決が、かの小牧長久手の戦いです。

天正十二年(1584年)3月12日の亀山城攻防戦(3月12日参照>>)を皮切りに、前半の小牧の戦い(犬山城攻略戦と羽黒の戦いの総称)と後半の長久手の戦い、そしてラストの蟹江城攻防戦・・・これらをひっくるめて小牧長久手の戦いと呼びますが、果たしてこの戦いは、家康の勝利なのか?それとも秀吉の勝利なのか?

そもそもは、織田信長亡き後の織田家後継者の中で、まんまと秀吉の口車に乗せられ、弟の神戸信孝(かんべのぶたか=信長の三男)を葬り去った(5月2日参照>>)兄・織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)が、遅ればせながら「秀吉は、家臣として織田家後継者を支えようとしているのではなく、自らが信長の後継者だと思っている」という事に気づいて、徳川家康を頼って、秀吉に対抗しようとしたのが、小牧長久手の戦いの発端です。

その信雄と家康の動きを察した秀吉・・・まずは、天正十二年(1584年)3月13日に信雄傘下の中川定家が城主を務める犬山城を、配下の池田恒興(つねおき)に攻略させました(3月13日参照>>)

しかし、秀吉勢の調子が良かったのは、この犬山城攻略戦だけ・・・。

直後の羽黒の戦い(3月17日参照>>)では、森長可(ながよし)が見事に家康にしてやられ、4月9日の長久手の戦い(07年4月9日参照>>)に至っては、犬山城を攻略した恒興も、汚名返上を賭けた長可も討死してしまう(08年4月9日参照>>)という大惨事となってしまいます。

さらに、最終戦となった蟹江合戦(6月15日参照>>)では、一旦手に入れた蟹江城を奪い返され、屈辱的な敗退となってしまいました。

つまり、一連の小牧長久手の戦いのそれぞれの戦いは、ほぼ、織田・徳川連合軍の勝利に終っているのです。

ところが・・・です。

ところが、冒頭に書いた通り・・・
家康はこれだけ勝っておきながら、秀吉の臣下となるのです。

局地戦に勝ったのは家康・・・しかし、一連の小牧長久手の戦いに勝ったのは秀吉なのです。

この奇妙な現象は、ひとえに、合戦ではないところでの秀吉の巧みさと、その秀吉に策略に見事なまでに乗ってくれた戦国屈指の憎めないキャラ・信雄くん(その生涯は4月30日参照>>)の成せるワザ・・・

おそらく、その時点での総兵力は秀吉のほうがまさっていたでしょうから、その蟹江合戦の後に、秀吉が全勢力を傾けて家康に対したなら、普通に合戦して勝利したかも知れません。

しかし、秀吉には、まだまだ他に、平定したい相手がいました。

信長がやろうとしていた西国の毛利や四国の長宗我部(ちょうそかべ)、さらに紀州(和歌山県)根来衆も・・・。

されど、片手間にそっちをやりながら、家康と相まみえても、勝利できない事は、この小牧長久手で充分悟りました。

そこで、秀吉は、作戦変更・・・強い家康をそのままほっといて、丸めこめそうな信雄にターゲットにを絞るのです。

蟹江合戦のあと、一旦大坂城に戻っていた秀吉は、8月に再び出陣し、家康がすぐには駆けつけられない距離にある戸木城(へきじょう・三重県津市)を、蒲生氏郷(がもううじさと)に落とさせて、信雄を圧迫した後、そっと講和を持ちかけるのです。

どこをどうウマくやったのか・・・
家康にまったく悟られる事なく、信雄ひとりに接近し、11月15日(または11日)、伊勢4郡を信雄に戻すという条件で、見事に講和を成功させます(11月16日参照>>)

家康にとっては青天の霹靂です。

もともとは、信雄から「一緒に戦かってぇ~」と持ちかけられた合戦です。
それを、独断で勝手に講和されちゃぁ・・・何のために戦ってるんだか・・・。

こっちはそうでもないのに、「好き好き」言われて、しかたなくつき合った彼女に、思いっきりフラれるようなもんです。
「お前から言うて来たんやないかい!」と返したいくらいです。

この時の、家康派の動揺は、あの佐々成政(さっさなりまさ)が、命がけで極寒の北アルプス越え(11月11日参照>>)をして、家康に会いに来た事でも伺えます。

信雄の単独講和で、秀吉と戦う大義名分を無くした家康は、振り上げたこぶしを収めるしかなくなってしまい、10日後の11月21日、家康も秀吉との講和を結んで浜松へ帰還(11月21日参照>>)・・・これで、小牧長久手の戦いは終了するわけですが、その後、秀吉は、家康に対し、再三の上洛を求めます。

しぶる家康に、妹・(あさひ・朝日)を嫁として差し出しますが、この時代の政略結婚はイコール人質です。

この時、秀吉の妹・旭は44歳・・・10代での結婚があたりまえで、22歳のお市の方でさえ、晩婚の部類に入るこの時代に44歳はケタ違い・・・しかも、別の人と結婚していたにも関わらず、それを離縁させてまでの家康との結婚です(4月28日参照>>)

さらに、その旭姫の病気見舞いと称して、実母・なかまでもを、家康のもとへ差し出した秀吉・・・。

こうして、結局、家康は、天正十四年(1586)10月17日上洛して秀吉との会見をする決意をしたワケです。

その10日後に、大坂城で行われる事になった会見・・・その前日、大坂に入って、秀吉の弟・秀長の屋敷に宿泊していた家康のもとへ、秀吉は、こっそりやってきます。

「わが弟よ!よく来てくれた!」と、大喜び。

そして・・・
「明日、大坂城で、皆に君を紹介するから、一瞬だけ頭を下げて、皆に挨拶してちょ」
と、メチャメチャ軽いノリで頼んだのです。

とりあえず、「わかりました」と返答した家康・・・。

かくして、10月27日の大坂城・・・

大広間に諸大名が居並ぶ中、「三河殿」と呼ばれて、約束通り、チョコッとだけ、挨拶がわりのつもりで頭を下げた家康・・・そこに間髪入れず・・・

「上洛、大儀であった!」
と、昨晩の軽いノリからは、想像もできない、りんとした態度で、力強く言い放った秀吉・・・この一瞬、さすがの家康も、「してやられた・・・」と思ったに違いありません。

威厳たっぷりに家康を見下ろす秀吉と、頭を下げた家康・・・まわりの大名から見れば、どこをどう見ても、家康が秀吉の臣下に入ったとしか見えないこの状況・・・。

あの信長にでさえ、同盟関係であって家臣ではなかった家康が・・・

こうして、秀吉はその人たらしの見事なワザで、小牧長久手の戦いに負けながら勝ったのです。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2008年10月16日 (木)

武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い

 

大永元年(1521年)10月16日、甲斐(山梨県)に進攻した福島正成を、武田信虎が撃退した飯田河原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

とにかく、謎の多い戦いです。

中世甲斐国の基本史料である『勝山記』にも、どのような状況だったのか、くわしい記述はなく、そもそもの福島正成甲斐進攻に関しても、当時、駿河(静岡県東部)の戦国大名だった今川氏親(うじちか)命令によって・・・という話と、逆に、正成が氏親と対立した末の独断での進攻であったという話の両方があります。

また、この飯田河原の戦いに続く上条河原の戦いで討死したとされる、その正成自身も、討たれた者が正成本人だったか、福島を名乗る別人であったかの判断が難しいとされています。

・・・・・・・・

この年の2月末頃、駿河の今川氏の重臣であった土方城主・福島正成が、1万5千の大軍を率いて、甲斐の南部へやって来ます。

この時、甲斐一国をほぼ手中に収めていたのは武田信虎でしたが、それは、今川の支援を受けながら、最後まで抵抗していた甲斐西部の国人・大井信達の娘・後の大井夫人嫁に取って成された和睦で、しかも、たった一年前の事・・・甲斐国内の国人たちは、一応傘下の姿勢は見せているものの、未だどう動くかわからない状況でした。

そんな中、9月には、甲斐国内の富田城勝山城などの諸城を攻略しながら、さらに北上をした福島勢は、信虎の本拠地・躑躅(つつじ)ヶ崎館(甲府市)に迫ります。

10月に入って、いよいよ危機感をつのらせた信虎は、当時妊娠中だった大井夫人を要害山城(もしくは積翠寺)に非難させると、大永元年(1521年)10月16日自ら2千の兵を率いて、飯田河原にて、これを迎え撃つ事になりました。

この時は、数の上でも絶対的に不利だった武田方でしたが、わずかに地の利はコチラにアリ・・・信虎は虚兵の計(兵の数をゴマかして多く見せる)など駆使して、敵の将兵数百騎を撃ち取るという大勝利を収めます。

しかし、これでも、福島勢はわずかに後退しただけで、軍勢そのものが国元へ退いたわけではありませんので、まだまだ余談を許さない状態でしたが、そんな中、かの大井夫人が、11月3日に男の子を出産したというニュースが陣中に舞い込みます。

御曹子の誕生に士気上がる武田勢・・・この男の子は勝千代と名付けられますが、そう、すでにお気づきの、後の晴信=武田信玄です。

将兵たちの士気の上昇は、そのまま武田方の追い風となり、11月22日、再び両者は上条河原の戦いに突入します。

今度の衝突は、日中の戦いこそ引き分けに終ったものの、22日から23日にかけての深夜の武田勢の夜襲によって勝敗が決したという事です。

武田勢は、またまた数百騎の敵を討ち、福島勢の総死者は4千に及び、大将の正成以下、多くの重臣が討死し、武田方の大勝利とされていますが、そのワリには、福島方が撤退したのが、翌年になってから・・・という事なので、やはり謎多き合戦です。

しかし、いかに謎多き戦いでも、この戦いの後に福島勢が撤退したという事は確かな事・・・これだけの兵力の差がありながら、敵を退けた要因としては、例のどちらに動くかわからない状態あった甲斐の国人たちが、外敵の侵入に危機感を抱き、数多く、武田の味方として参戦したからとも言われていますが、それも、推理の域を出ないようです。

ただ、不可解な部分はあるものの、勝利した信虎は、これで、名実ともに甲斐統一を成し遂げた事になります。

また、この戦いの軍功によって板垣信方が、信玄のもり役に抜擢され、信玄の将来に大きく影響を与える事になるであろう予感を感じさせる一戦でした。
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2008年10月15日 (水)

政治から美術へ~岡倉天心を転身させた奥さんのご乱心

 

明治三十一年(1898年)10月15日、岡倉天心らが、美術研究団体・日本美術院を結成しました。

・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)、明治政府は神仏分離令を発令します。

国のトップが徳川家から明治天皇になった事で、日本古来の神道が国の宗教とされ、それまでの混在する状態から、「神と仏を、きっちりと分離せよ」と言うのです。

それは、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動に発展し、それまで、同じ敷地内にあった神社とお寺が移動させられたり、あるいは壊されたり・・・同時に、多くの仏像や仏教美術が破壊されたり、外国に流出したりしたのです。

あの奈良興福寺五重塔が250円で売りに出されたのも、この頃・・・しかも、その250円はてっぺんに着いている相輪の金具代で、建物には価値がないとみなされていたのですから驚きです。

以前、書かせていただいた金毘羅(こんぴら)さんも、この時に紆余曲折・・・イロイロありました(10月9日参照>>)

しかも、その廃仏毀釈とともに、押し寄せた西洋化の波で、美術の世界でも西洋一色となり、日本画は西洋画よりも劣るという考えが蔓延していったのです。

そんな中、日本美術の素晴らしさを説き、後進を育て、日本画改革運動や古美術の保存に力を注いで、近代日本美術の発展に尽くした人・・・それが、岡倉天心(てんしん)なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

岡倉天心は、本名を岡倉覚三(かくぞう)と言い、生糸の輸出業を営む元福井藩士・岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として、文久二年(1863年)に横浜で生まれました。

12歳で東京開成学校(後の東京大学)に入学し、アメリカから講師として招かれていたフェノロサから政治経済を学びますが、そのフェノロサが、美術の専門知識もあり、日本の古美術や仏教美術にも関心があった事から、彼の通訳として、一緒に寺院など各所を巡った事で、天心本人も、徐々に美術に興味を持つようになります。

在学中、16歳で大岡もと(基子)という女性と結婚・・・やがて、17歳で学校を卒業して文部省へ就職した天心は、そこで命じられた全国の社寺調査を行ううち、日本美術の素晴らしさを知ると同時に、冒頭に書いたように、それが軽視されている事を肌で感じ、「これを守っていかねば!」という思いを抱くようになるのです(6月25日参照>>)

明治十九年(1886年)に、フェノロサとともに、欧米の美術教育を目の当たりにした天心は、帰国後、東京美術学校(後の東京芸術大学)の開校に携わり、4年後の明治二十三年(1890年)には、27歳の若さで、その校長にも就任します。

その天心のもとで学んだのが、あの横山大観(たいかん)菱田春草(しゅんそう)といった、この先、日本画を革新的にリードする面々です。

しかし、以前の欧米視察で学んだ西洋絵画の手法を取り入れ、新しい日本画のありかたを目指す天心の方針は、伝統美術から抜けきれない周囲のおエラ方からの非難を浴びる事になってしまいます。

その圧力に耐えかねて、校長を退職した天心は、自分を慕ってついてきた大観・春草らの同志26名とともに、その半年後の明治三十一年(1898年)10月15日日本美術院を創立したのです。

ところで、このように、美術ドップリの人生を送っている天心ですが、実は、本当は、美術の道に進むはずではなかったのです。

確かに、生涯の師とも言えるフェノロサの影響で美術が大好きになりました。

しかし、先に書いた通り、学校で学んでいたのは政治経済・・・天心は、自分を育ててくれた乳母の話す、安政の大獄(10月7日参照>>)で散った尊皇攘夷論者・橋本左内(10月7日参照>>)が大好きで、もともと政治の事を勉強したくて入学したワケで、もちろん専門も政治だったのです。

そんな彼の卒業論文のテーマは『国家論』・・・美術とはまったく関係ありません。

実は、政治の世界を目指していた天心を、美術の世界へと転身させたのは、あの16歳で結婚した奥さんなのです。

学生結婚した天心・・・卒業を間近にひかえ、論文も完成し、後は提出日を待つばかりとなった頃、ちょうど奥さんは妊娠中・・・。

この時、二人はささいな事で夫婦ゲンカをしてしまったのですが、そこで、怒りにまかせて奥さんご乱心!・・・目の前にあった卒業論文をビリビリに破り捨ててしまったのです。

「あぁ!まだコピーとってないのに~!」とは言わないでしょうが、その時は、すでに、期限は2週間後に・・・とても、今から同じ物を書きなおす余裕はなく、「どうしたもんか」考え抜いた結果、天心は、以前、あこがれのフェノロサ先生から聞いた美術に関しての話を思い出し、わずか2週間で『美術論』を書き上げて、何とか期限までに提出したのです。

つまり、卒論のテーマが美術だったので、就職した文部省で、美術行政を担当する事になったわけで、ひょっとして、それがなかったら、別の部門の担当になっていたかも知れないのです。

無論、これだけ、美術の発展に尽くした人ですから、もしかしたら、その時、美術行政の担当になっていなくても、結局は、美術の道に進んだのかも知れませんが、奥さんの怒りのご乱心が、美術への近道を作ってくれた事は確かかも知れません。

人間、何が幸いするかわかりませんねぇ・・・論文もたまには破ってみるもんだ!・・・って~違うかぁ?
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2008年10月14日 (火)

吹き荒れる開国の嵐に不幸続きのプチャーチン

 

嘉永六年(1853年)10月14日、ロシア使節・プチャーチンが率いる艦隊が下田に入港しました。

・・・・・・・・・・・

いやぁ、残念!一歩遅かったですね。

あのペリーの黒船が、あれだけ大々的に教科書で扱われ、ドラマなどでも、ほとんどペリーの黒船しか、この時代の日本に来ていないような描かれ方をしますが、今回のプチャーチンさん率いるロシア艦隊・・・わずか1ヶ月半の差で、ペリーの黒船に先を越されてしまっってたんです。

しかも、母国を出航したのは、完全にコチラのほうが先ですから、もし、プチャーチンさんが先に日本に到着していたら、教科書にもババ~ンと載り、今年の大河でも、あの将軍・徳川家定公と面会するのは、彼だったかも・・・ですね。

・・・・・・・・・・

ペリー提督率いるアメリカ合衆国艦隊=黒船(6月3日参照>>)から、遅れる事、一と月半の嘉永六年(1853年)7月18日・・・プチャーチン率いる旗船・ディアナ号を中心に、4隻のロシア艦隊が長崎に入港しました

冒頭にも書かせていただいたように、この1ヶ月半の遅れと、長崎に入港したという事が、プチャーチンさんにとっては不運でしたね。

結局、長崎では、外国との交渉を、どうする事もこうする事もできず、嘉永六年(1853年)10月14日に、こうしてふたたび下田に入港する事となり、結果的には、ペリーより、さらに4ヶ月半の遅れをとってしまった形となります。

しかも、アメリカ同様、一度目の交渉は成されず、さらに、クリミア戦争真っ最中の本国の情勢がすこぶる悪い状態になり、この時ロシア艦隊は、一旦上海へと戻ります。

そして、翌年の安政元年(1854年)、再び来日したプチャーチンは、アメリカより9ヶ月送れではありますが、見事、日露和親条約を締結させました。

「大役を果たせた」と一安心・・・
これで、「堂々とロシアへ帰れるゾ」と、胸をなでおろした11月4日・・・姉さん!事件です。

駿河湾から伊豆相模(神奈川県)一帯が、推定・マグニチュード8.4、死者1万人の大地震に襲われ、下田に停泊中だった最新鋭のディアナ号は座礁し、船底に穴が開いてしまいました。

しばらくして、ようやく落ち着き、ならば修理をしようと、設備の整った戸田(へだ)へ曳航中、今度は、暴風雨に見舞われ、なんと、ディアナ号は沈没してしまうのです。

大砲60問、全長69m、排水量2000トン・・・ロシアの技術のすいを集めて造られた巨大戦艦は、海のもくずと消えてしまいました。

どこまで、運が無いんだ!プチャーチン・・・。

しかし、落ち込んではいられません。

大事な条約締結書を、本国に持って帰らねば、プチャーチンの男がすたる!

最初の地震で5人の死者を出してはいますが、幸いな事に、それ以外の40人ほどの乗組員は無事です。

プチャーチンは、幕府に造船の許可を申し出、戸田の船大工や漁師など2000人の手を借りて、船を造る事になりました。

日本で初めての西洋式帆船の製造です。

下田よりは、マシとは言え、戸田も、なんだかんだで伊豆の小さな漁港・・・いえ、小さな漁港でなくとも、西洋式の船なんて、どこの船大工だって初めてなワケですから、うまくいきようもありません。

一つ一つ、西洋の技術を教わりながら、それでも何とか2隻の帆船が出来上がったのは、翌年の3月でした。

ディアナ号には、とても追いつかない、わずか100トンの帆船でしたが、ロシア人と日本人、皆、心を一つにして、一所懸命・・・おかげで、たった3ヶ月で見事、造りあげました。

彼らの働きに感激して、自らが乗る船をヘダ号と名付けたプチャーチンは、大切な条約締結書を握りしめ、安政二年(1855年)3月20日乗組員たちとともに、日本を去っていきました。

ロシアに帰国したプチャーチンは、日本との条約を成功させた業績によって、伯爵に叙されて、出世もして・・・どうやら、ロシアには貧乏神は連れていかなかったようですね。

よかった、よかった。
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2008年10月12日 (日)

バカ殿を演じきった二代目藩主・前田利常

 

万治元年(1658年)10月12日、加賀藩・第2代藩主の前田利常が64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

前田利常は、あの前田利家の四男・・・母は、まつさんではなく、側室の千代という人です。

そのせいか、幼い頃は、一番上の姉・さんの嫁入り先の越中(富山県)守山城で育てられ、父の利家には、ほとんど会った事がなかったそうです。

その上、6歳の時、関ヶ原の合戦とともに起こった浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)の和睦の代償として、相手方の丹羽長重(にわながしげのもとへ人質として出されてしまいました。

やがて13歳の時に、後継ぎの男子がいなかった兄・利長の養子となって加賀百万石の二代目藩主となりました。

現在の金沢は、武家屋敷をはじめとする城下町の街並みや、加賀友禅九谷焼蒔絵など、全国屈指の伝統をを誇る都市ですが、そのような伝統産業が発達したのも、外様大名でありながら、全国一の石高を誇る大大名となった加賀藩の宿命ともいうべきもの・・・利常さんをはじめとする代々の加賀藩主たちが歩き続けた一筋の道があったからなのです。

それは、豊臣政権下において、父・利家が五大老の一人として、徳川家康対抗できる立場にある唯一の人であったというところから始まります。

ご存知のように、前田利家と豊臣秀吉は、織田信長の家臣であった頃からの家族ぐるみの親友・・・秀吉が死の間際に、利家の手を握りしめ「秀頼を頼む・・・」と願った話は有名です。

しかし、慶長三年(1598年)8月に秀吉が亡くなると(8月18日参照>>)その後を追うように、翌年の3月に利家も亡くなってしまいます。

父のあとを継いで五大老になり、秀頼のもり役として大坂城にいた利長でしたが、例の豊臣家内での武闘派と文治派の政権争いの激化(3月4日参照>>)に嫌気がさし、父の遺言を破って金沢に戻ってしまいます。

そこに、言いがかりをつけて来たのが家康・・・「利長が金沢に戻ったのは、家康暗殺計画の首謀者であるからだ」として、圧迫をかけてきたのです。

利家亡き今、もはや、家康とまともにやり合う事は命取り・・・この時は、母・まつが人質として江戸に行く(5月17日参照>>)事と、利常と家康の孫娘・珠姫との婚姻とで、何とか、家康への誠意をアピールし、疑いを晴らしました。

その後の関ヶ原の合戦でも、冒頭に書いた浅井畷の戦いをはじめ、西軍に組する北陸の諸将を、自ら先頭に立って迎え撃ち、前田家が徳川の味方である事を強調したのです。

そう、この時から、前田家は、ずっと徳川ににらまれ続け、ことあるごとに謀反の疑いをかけられ、その都度、恭順な態度をとって弁明し、永遠の臣下であり続ける事をアピールし、お家の安泰をはからねばならなかったのです。

大大名であるが故の悩みです。

そんな中の二代目藩主・利常さんは、なかなかのキレ者・・・下々の事にも気を使い、知行体制を改革して、江戸時代を通じて脈々と受けづかれる加賀藩の体制の基盤を築いた人です。

ところが、寛永八年(1631年)、金沢城が火災に遭ってしまったため城の修理をしている時の事・・・あらぬ噂が、利常のもとに舞込んできます。

「加賀藩の利常は、この機に乗じて、他国から船を買い、城をより強固なものに造り変え、謀反を企てている」と・・・。

この機とは・・・実は、この時、すでに3代目・徳川家光に家督を譲って隠居していた前将軍・徳川秀忠が、ちょうど病にふせっていて、明日をも知れぬ状態であったのです。

もちろん、そんなつもりなど、まったくない利常は、あわてて江戸へと赴き、必死の弁明をして、何とか疑いを晴らすのですが、ここで、利常さん、一大決意をします。

それ以来、利常は常に鼻毛を伸ばし、宴会を開いちゃぁ裸踊りで大はしゃぎしてみたり・・・という奇行に走るようになるのです。

そう、アホのふりをしたのです。

彼は、なるべく国もとへは帰らず、できるだけ江戸にいてバカ殿の演技をし続けました。

江戸という幕府のお膝元で、アホな事をし続ける事によって、謀反の疑いをかけられる事を避け、命を賭けてお家の安泰をはかった義母・まつと兄・利家にならって前田家を守ったのです。

その演技は、万治元年(1658年)10月12日亡くなる時まで続けられていたそうです。

そして、利常さんのあとを継いだ代々藩主も、その膨大な石高から得られる収入を、武器などには極力使用せず、伝統工芸や伝統文化の育成にお金を注いで、目をつけられないよう気を配ったわけです。

おかげで、見事、前田家は、明治維新が成るその時まで、加賀百万石を維持できるとともに、今に残る伝統文化も受け継がれる事となりました。
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2008年10月11日 (土)

明治十四年の政変~大隈重信・失脚の原因は?

 

明治十四年(1881年)10月11日、一連の明治十四年の政変で、明治政府内の薩長藩閥勢力が御前会議を開き、大隈重信らの参議罷免を決定しました。

・・・・・・・・・・

明治新政府のもと進められた北海道開拓事業・・・(1月12日参照>>)

その北海道開拓のために、政府内には、明治二年(1869年)から、開拓使という官庁が設けられていたのですが、ここにきて、おおむね開拓も進み、政府としての所定の役目を果たしたという事で、明治十五年(1822年)には、その開拓使は廃止になる事が決定していたのです。

そこで、この明治十四年(1881年)、開拓使が行っていた様々の事業が関西貿易会社という会社に払い下げられる事になったのですが、その払い下げられた金額が不当に安い値段であったため大問題となるのです。

当時、開拓使長官であったのが黒田清隆(8月23日参照>>)、関西貿易会社を経営していたのが五代友厚・・・彼らは同じ薩摩藩の出身

同郷のよしみでの汚職として、新聞紙上で大きく取り上げられました。

この開拓使官有物払い下げ事件で、ちょうど盛り上がりを見せていた自由民権派を中心にした世論全体が、ここぞとばかりに薩長中心の藩閥政治を非難し、国会の即時開設を要求したため、明治政府は大ピンチに立たされる事になったのです。

・・・で、ここで、なぜか、開拓使払い下げに反対し、薩長藩閥政治の抵抗勢力の代表格として、マスコミが掲げたのが大隈重信でした。

実際には、この払い下げに対して、大隈個人が特に反対したという事はないようですが、彼が肥前藩(佐賀)出身だったからなのでしょうか?

とにかく、薩長中心で進んでいく政府に対抗する人物として、マスコミに祭り上げられてしまったようです。

逆に、薩長藩閥勢力は、「この事件を利用して自分たちを追い落とそうと、大隈がマスコミをたきつけている!これは大隈の陰謀だ」と判断・・・それまで、なんやかんやとモメ続けていた薩摩&長州勢力が、VS大隈で一致団結し、大隈が天皇の行幸に同行して留守の間に準備を重ねます。

そして、天皇が帰京した明治十四年(1881年)10月11日、自分たちだけで御前会議を開き、世論の批判を避けて民権運動を沈静化させるため、官有物払い下げの中止と十年後には国会を開催するという事を決定するとともに、大隈を罷免(クビ)にしたのです。

これを明治十四年の政変と言いますが、実は、これには、払い下げ事件以前からの大隈重信と伊藤博文(12月22日参照>>)の考え方の違いが絡んでいるのです。

この一年前頃から、すでに政界を去った板垣退助らを中心とする自由民権派全国的に国会開設運動を展開していて、もはや、日本の津々浦々へと運動は浸透し、年が明けて明治十四年に入った頃には、政府内の各参議からも、もう、国会開設しちゃうしかないんじゃないの?」てな意見が出始めていたのです。

特に、国会を開く事に前向きだったのが、かの大隈重信と伊藤博文、そして井上馨(かおる)の三人で、彼らは、この年の1月に会談して、「近く、国会を開いて、政党政治をやって行こうね」と約束していたのです。

ところが、その2ヵ月後の3月に、大隈は、伊藤や井上にナイショで、『国会開設に関する意見書』を左大臣の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に提出してしまうのです。

もちろん、伊藤や井上との約束がありますから、大隈は、あくまで内密に・・・「くれぐれも、ナイショにしといてね」と言いながら提出しているのですが、残念ながら、有栖川宮は、これを、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)に、「実はナイショやねんけど・・・」ってしゃべってしまうのです。

当時の太政大臣は三条実美(さねとみ)・・・彼は、ご存知のように、あの幕末の八月十八日の政変(8月18日参照>>)以来の長州との仲良しコンビ。

そして、右大臣の岩倉も、やっぱり、薩長ドップリ・・・その点、有栖川宮はどちらにベッタリする事もなく、明治天皇の信頼も厚いという事で、大隈は有栖川宮に意見書を提出したようですが、しゃべってしまっちゃぁしょうがない・・・

保守派で国会開設に反対な岩倉は、急進的な大隈の意見書に驚き、即座に伊藤に、これまた、「ナイショやねんけどな・・・」としゃべります。

・・・と、これに、伊藤が激怒!

もちろん、伊藤の激怒は、岩倉の驚きとはまったく別のところ・・・意見書の内容ではなく、約束していたにも関わらず、勝手に意見書を提出した事に激怒したのですが、それこそ、1月に会談を行って三人で約束した事はナイショですから、表向きは「こんな急進的な意見を持つヤツとはいっしょにやってられん!俺やめる!」と参議の辞職を口にします。

この伊藤の怒りっぷりを見て慌てた岩倉が仲裁に入り、大隈と伊藤との話し合いの末、この時は、丸くおさまってはいたのですが、結局、払い下げ事件が引き金となって、今回の明治十四年の政変は起こってしまいました。

ただ、その大隈の約束やぶりには、ちゃんと理由があります。

実は、大隈と伊藤・・・ともに国会開設には前向きではありましたが、決定的に違うところがあったのです。

それは、大隈がイギリス型の議員内閣制を導入しようとしていたのに対し、伊藤はプロセイン(プロシア)を手本にした君主制憲法を導入しようとしていた事です。

結局、この政変で大隈が失脚してしまったので、ご存知のように、明治憲法はプロセインの憲法を元にしたものとなり、約束通りの明治二十三年(1890年)第一回帝国議会召集(11月24日参照>>)が行われました。

この時、政界を去った大隈は、その十年後の国会開設に向けて、立憲改進党を結成(10月18日参照>>)するとともに、東京専門学校=現在の早稲田大学を設立しました。

歴史に「もし」は禁物ですが、この時の大隈の失脚がなかったら、明治憲法はイギリス寄りのものになっていたかも知れませんね。
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2008年10月10日 (金)

謀反人の娘で殺人犯?春日局が天下を握る

 

嘉永六年(1629年)10月10日、江戸幕府3代将軍・徳川家光乳母・お福が、第108代・後水尾天皇に拝謁し、春日局の称号を賜りました。

・・・・・・・・・・

徳川家康の孫で第3代将軍の徳川家光乳母として江戸城に入り、大奥で頂点を極めた、ご存知、春日局(かすがのつぼね)・・・。

彼女は、本名を斉藤福(ふく)と言い、明智光秀の重臣だった斉藤利三(としみつ)を父に、稲葉良通(よしみち・一鉄)の娘・(あん)を母に持つ、なかなかの家柄の出身です。

しかし、ご存知のように、光秀が本能寺の変(6月2日参照>>)で主君・織田信長を討ち、父もそれに従っていた事で、彼女の運命は大きく変わります。

山崎の合戦(6月13日参照>>)で、羽柴(豊臣)秀吉に大敗した光秀は、落ち武者狩りで命を落し、捕らえられた父・利三は、謀反人として六条河原で斬首されました(6月11日参照>>)

当時、4歳だった彼女は、その父の処刑を目の当たりにしたという事ですが、(はりつけ)あるいは車裂きにされたとの話もあり、もし本当にその姿を見たとしたら、その思いはいかばかりであったのでしょうか・・・。

当然、一家は離散して、幼い彼女は母と行動をともにする事になるのですが、この後、父の友人だった海北友松(かいほうゆうしょう)(8月26日参照>>)の保護のもと、比叡山の麓で身を潜めていたとか、父の妹が土佐(高知県)長宗我元親(ちょうそかべもとちか)の妻となっていた縁で四国で隠れ住んだなどと伝えられていますが、とにかく、この間は流浪の身なので、くわしい事はわかりません。

やがて、母の実家である稲葉家の働きかけによって罪が許され、母の兄である稲葉重通(しげみち)清水城(岐阜県)に引き取られます。

そんな彼女は、なかなか気の強い女性だったようです・・・というか、強くなければ生き抜いていけませんわなぁ。

父の死をその目でみて、さらに不遇な少女時代・・・しかも、幼い時に天然痘を患ったため、顔はあばただらけで、とても美しいとは言いがたい・・・しかし、そんな不幸に屈する事なく、むしろ「負けへんぞ~!」という感じの不屈の気の強さが、後の春日局を作ったとも言えるわけですからね。

やがて、17歳になった彼女は、重通の娘婿・稲葉正成と結婚します。

娘婿・・・つまり、彼は子持ちの再婚です。

彼は、重通の娘と結婚し、婿養子となって稲葉姓を継いでいたのですが、その娘が、すでに亡くなってしまっていたので、重通の姪でもあり、面影の似ている彼女との結婚・・・という事になったのです。

不幸な過去と、あばたの顔を持つ彼女に贅沢は言えませんが、それでも新婚時代の二人は仲睦まじく、三人の男の子ももうけて、幸せな結婚生活を送っていました。

ところが、舅の重通が隠居して京都に移ると、正成は徐々に本性を現します。

そう、彼は無類の女好き・・・何人もの愛人を作っては、妻と同居させていました・・・と言っても、この頃の一夫多妻は男の甲斐性、そこンところは、彼女もわきまえていますから、くやしいながらも耐えに耐え抜いておりました。

しかし、問題は、関ヶ原の合戦の後に起こります。

実は、彼女の夫・正成は、小早川秀秋の家臣で、あの関ヶ原の合戦の時に、東軍に寝返るように秀秋に進言したのが彼だったのです(9月14日参照>>)

その功績によって恩賞も貰い、出世街道まっしぐらだったこの時期は、その浮気グセも何とか耐える事ができましたが、その主君の秀秋が、合戦後、わずか二年で亡くなってしまい、お家は断絶し、正成は浪人の身となってしまうのです。

ところが、それでも治らぬ浮気グセ・・・「無職のくせに何しとんねん!もう、我慢できるか!」と、ここで彼女はブチ切れたのです。

なんと、愛人の一人を刺殺し、そのまま離婚状を叩きつけて家出・・・京都の重通のもとに身を寄せながら、「何かいい仕事はないものか?」と職探しをしていたところ、粟田口の高札場にて、一本の立て札を目にします。

『将軍家の孫、竹千代君の乳母を募集』

彼女は早速、京都所司代の板倉勝重を訪ね、乳母に応募・・・そして、見事に採用されるのです。

もちろん、この部分に関しては諸説あります。

結婚しているにも関わらず勝手に乳母に応募した彼女に対して正成のほうが激怒して離婚したとか、乳母に採用された妻に食わせてもらうのはカッコ悪いとして離婚したとか、夫の出世の道を開こうと乳母に応募するも結婚していては採用されないので夫婦二人の納得づくで離婚したなどなど・・・

また、採用に関しても、はなから公募などしておらず、知り合いに頼み込んだからとか、関ヶ原の功労者である秀秋の小早川家の断絶に家康が心を痛めていたからとか、すでに彼女は家康の愛人であったからなどなど・・・先日、光秀=天海説(10月2日参照>>)でも書かせていただいたように、家光はお福の子供では?なんて話もあるくらいです。

とにもかくにも、後の家光=竹千代の乳母となった彼女の家光への溺愛ぶりは、皆様も、よくご存知の事と思います。

家光の母のお江与の方が、弟の忠長ばかりを可愛がるため、家中に将軍の後継ぎは忠長になるのでは?の噂が広まった時には、伊勢神宮への参拝と称して江戸城を出て、自ら駿府城の家康のもとへ行き、家光を後継ぎにするように直談判してみたり、家光が天然痘にかかった時には、「生涯、薬は飲まない!」薬断ちの願をかけ、寝ずの看病をして助けたとか、ホモの趣味があって女性に興味を示さなかった家光に、尼僧を近づけて女性に開眼させたとか、その凄まじいまでの愛情エピソードは数知れず・・・

やがて、家光の成長とともに、彼女の江戸城での立場はゆるぎないものとなっていき、親類縁者を次々と江戸城に出仕させるようになれば、さらに、その取り巻きも増え、並み居る大名たちを押しのけて、その権力は絶大なものとなります。

そして、いよいよやってきました嘉永六年(1629年)10月10日・・・

彼女は、家光の妹・和子が、時の天皇・後水尾(ごみずのお)天皇に嫁いでいた事もあり、御所に昇殿して会おうとしますが、いくら、幕府内で絶大な権力を握っていても、身分は斉藤家のお福のまま・・・とても宮中に入れる身分ではありません。

そこで、三条西実条(さんじょうにしさねえだ)仮の妹という事にして宮中入りを強行し、無位無冠のまま天皇に拝謁するという前代未聞の事をやってのけるのです。

これには、さすがの後水尾天皇も激怒・・・と言いながらも、お福に対して従三位の位と春日局の称号を与えるのです。

いえ、天皇は、無位無冠で自分に会いに来た彼女個人に激怒したワケではないでしょう。

そんな事をさせておきながら、黙って官位や称号を与えねばならないほど、武家の力が大きくなってしまったのか・・・という事に、激怒というよりは、空しさを感じてしまったのかも知れません。

結局、天皇は、このわずか1ヶ月後に、徳川家の血をひく、わが娘・女一宮(おんないちのみや)への譲位を決行するのです(4月12日参照>>)

・・・という事は、後水尾天皇・退位の引き金を引いたのは春日局?・・・

父の処刑をその目で見、謀反人の娘として不遇の少女時代を送った彼女が、まさに女としての天下を手中に収めた瞬間でした。
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2008年10月 9日 (木)

道鏡事件のウラのウラ

 

天平宝字八年(764年)10月9日、藤原仲麻呂の乱に関わったとして第47代淳仁天皇が廃され、孝謙太上天皇が第48代称徳天皇として、再び即位しました。

・・・・・・・・・・

江戸時代の川柳に
♪道鏡は 
  すわるとひざが
       三つでき♪

というのがあるのだそうです。

つまり、道鏡の男性としての持ち物がそれほど大きかったと・・・

僧・道鏡(どうきょう)の出身地とされる大阪八尾弓削神社では、「笠麿(かさまる)道鏡」と呼ばれる、大木で男性のシンボルを象ったものを担いで、子孫繁栄・五穀豊穣を願って町を練り歩くお祭りがあるのだそうで、これも、物部(もののべ)系の弓削連(ゆげのむらじ)出身の道鏡巨根伝説に由来するものなのでしょうが、その噂のもととなったのは、道鏡を愛してやまなかった第46代孝謙(こうけん)天皇の存在です。

孝謙天皇は、すでにこのブログでも何度か登場していますが・・・

実を言うと、確かに、孝謙天皇は道鏡を寵愛しましたが、実際に二人の間に男女の関係があったかどうかも定かではない事で、ましてや、道鏡の持ち物という事になると、まったくもって根も葉もない噂なのです。

ただ、孝謙天皇が、あまりにも道鏡を重用し、夢中になった事から、そのような噂が・・・。

豪族の家系に生まれた道鏡が、どういう理由で出家したのかは定かではありませんが、あの葛城山で修行し、学識に富み、サンスクリット語を話し、呪験術や宿曜秘法(すくようひほう・ヨガによる健康回復)などを身につけていたという事ですから、もともと、彼はかなりのデキル人であったようです。

孝謙天皇の父である聖武天皇の時代から宮中の道場に仕えていた道鏡でしたが、そこには、彼に匹敵するような僧もたくさんいて、その中から、一歩抜きんでるとい事は、なかなか難しい事でした。

しかし、そんな彼が歴史の表舞台に登場するチャンスがやってきます。

孝謙天皇は、父・聖武天皇と、その皇后・光明子の間に生まれた長女・・・今まで書き忘れてましたが、女性天皇です( ̄○ ̄;)!。

ご存知のように、天皇の地位は、男系男子が継承していくものですから、もともとは、天皇になるはずではなかった孝謙天皇でしたが、期待されて生まれた弟が、1歳で亡くなってしまい、しかも、その間に聖武天皇の別の奥さんとの間に男の子が生まれてしまった事で、「このままでは、他家の女性が産んだ子供が、次期天皇になってしまう」とあせった光明皇后の実家の藤原家の意向で、女性でありながら皇太子となった異例の天皇だったのです。

そんな彼女は、まだ道鏡と出会う前、従兄弟の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に恋をします。

彼には奥さんがいるにも関わらず、仲麻呂の邸宅で寝泊りし、まるで、そこが宮廷のようだった・・・てな話も残るくらいに、一途な彼女・・・。

彼女の従兄弟という事は、母である光明皇后にとっても、仲麻呂はかわいい甥っ子なわけで、病気がちな聖武天皇から、すでに政務の実権を握っていた光明皇后と孝謙天皇の二人に愛されて、仲麻呂はおもしろいように出世していきます。

やがて、仲麻呂オススメの大炊王(おおいおう)に、言われるがまま皇位を譲って、太上天皇となった彼女でしたが、その大炊王が、第47代淳仁天皇となった途端、仲麻呂は、自分の理想としていた新しい都の造営に夢中になり、彼女の事を見向きもしなくなってしまうのです。

「この恋は、終ったのね・・・」と傷心の彼女に追い討ちをかけるように大好きな母・光明皇后も亡くなり(6月7日参照>>)、ひとりぼっちになった彼女は、みるみるうちに元気がなくなり、病気がちになってしまいます。

そんな彼女の病気治療の役をおおせつかったのが道鏡だったのです・・・そう、なんせヨガで元気回復の達人ですから・・・この時彼女は44歳、道鏡も同じか1~2歳年上といったところでしょうか。

病気の時にやさしくされると女は弱いもの、しかし新しい恋に出会った女は強いもの・・・孝謙太上天皇は、またたく間に快復し、元気百倍になるとともに、道鏡大好き度も百倍!

今度は、道鏡がどんどんと出世していきます。

こうなると、おもしろくないのは、仲麻呂です。

彼は、孝謙太上天皇と道鏡の関係について、宮廷内に、おおげさな噂を流し、淳仁天皇を通じて注意したりなんかし始めます。

これに怒った孝謙上皇・・・「そんな事すんねんやったら、天皇の椅子返してぇや!もう、これからは、政務は私がやる~!」
と、天皇復帰宣言をします。

「このままではいかん!」
と、孝謙太上天皇の天皇復帰を阻止しようとする仲麻呂・・・これが、藤原仲麻呂の乱です(9月11日参照>>)

結局、朝敵となった仲麻呂は、太上天皇の放った軍に追われ、命を落します。

そして、約1ヶ月後の天平宝字八年(764年)10月9日、仲麻呂の庇護のもと天皇となった淳仁天皇は失脚し(10月23日参照>>)、孝謙太上天皇が、再び、第48代称徳(しょうとく)天皇として二度目の皇位についたのです。

しかし、我が世の春は長く続きませんでした。

宇佐八幡から「道鏡を天皇にすれば、天下が太平となるだろう・・・とのお告げが下った」との報告が、大宰府から到着するのです。

皇族以外の人間が天皇になった例は未だなく、にわかに信じ難い称徳天皇は、もう一度、神託を確かめようと、側近・和気広虫(わけのひろむし)の弟・和気清麻呂(わけのきよまろ)を、宇佐八幡へ派遣します。

ところが、清麻呂が授かった神託は、「皇太子には、必ず皇緒の者(皇族)を立てよ」と、一回目とは間逆のお告げが下るのです。

この結果に激怒した道鏡一派が、清麻呂を大隈へ流罪にしてしまう・・・と、一般的な歴史では語られます。

最初の神託は、道鏡が、当時、大宰師(だざいそち)の地位にあった、同族の弓削浄人(きよひと)結託して、神主に嘘の神託を言わせたとも言われています。

これによって、道鏡は、天皇の地位を狙った天下の悪僧というレッテルを貼られる事になるのですが、以前、その清麻呂流罪のページ(本日とかなり内容かぶってますが・・・9月25日参照>>)でも書かせていただいたように、これは、この次に権力を握る人たちの正当性を印象づけるためのフィクションが多分に含まれている?と、私は思ってます。

もし、本当に道鏡が天皇の座につく事を望んで、ニセの神託を発表したのだとしたら、その天皇の座を望んだのは、道鏡本人ではなく、そのおこぼれに預かろうとするまわりの人間たちでしょう。

しかし、そうだとしても、味方である称徳天皇さえ疑いを持つバレバレのニセ神託を、道鏡の周りの者たちが作ったとは考え難いですよね。

道鏡の権力を維持するなら、もっといい方法がいくらでもあったはずです。

それよりも、ニセの神託を広めて道鏡に難くせをつけ、失脚に追い込もうとする別の勢力が、見るからにオカシイ神託を、ここぞとばかりに明らかにしたと考えるほうが納得いくのかも知れませんね?

Tennouketofuziwarakekeizu その後の清麻呂の神託だって、実際に神様が現れてお告げをしたわけではないでしょうし、こう感じたと神官や巫女が言うだけの事なら、何とでもなりますからね・・・一回目の神託と変わりゃしません。

それは、この後、間もなく称徳天皇が亡くなった時に明らかになります。

称徳天皇が亡くなると同時に道鏡は失脚して流罪となり、逆に、かの清麻呂が政界に復帰するのです。

失意の道鏡は、そのわずか2年後の宝亀三年(722年)4月7日にこの世を去っています。

しかも、その称徳天皇の後に天皇になったのが、第49代光仁天皇・・・この人は、あの天智天皇の孫なのです。

例の壬申の乱(7月22日参照>>)に打ち勝ち、天皇の座についた天武天皇以来、9代・約100年に渡って引き継がれてきた天武天皇の子孫による皇位継承・・・なのに、ここで、いきなり壬申の乱で負けたはずの天智系からの即位です。

臭いますねぇ~
注:第41代持統天皇と第43代元明天皇は、天智天皇の娘ですが、持統天皇は天武天皇の奥さんで、元明天皇は草壁皇子の奥さんで文武天皇の母・・・それぞれ、次ぎの天皇候補が幼いための中継ぎとして即位していますので、立場的には天武側となります)

ここで、行われたのは、、道鏡という僧の失脚劇ではなく、おそらく、天武派から天智派への政権交代・・・。

そして、もう一つ、藤原氏の中での権力争いの臭いがプンプンします。

あの藤原不比等の4人の子供・藤原四兄弟から枝分かれした藤原家・・・それは、武智麻呂(むちまろ)南家房前北家宇合式家麻呂京家の4つです。

この中で、まずは、麻呂には後継者がなく京家が終わり、次に先の仲麻呂が乱で殺害された事で南家が断絶しました。

そして、今回の光仁天皇は高齢のため、わずか十年で次ぎの天皇が即位するのですが、それが、その光仁天皇の息子の第50代桓武天皇

桓武天皇の平安遷都は、まさに政権交代の一大イベントだったに違いないのです。

その桓武天皇のブレーンとして、遷都のために力を注ぎ、大活躍する藤原種継宇合の孫・・・つまり、京家が潰れ、南家がつぶれた後、式家の人間が実権を握った事になります。

ただし、結局、種継は、平安京の完成を見ないまま殺害され、その娘である藤原薬子は、謀反の罪で自害して、この式家も断絶します。

残ったのは房前の北家・・・この後、実権を握り、思うがままに政界を動かすのが、房前から数えて4代目の藤原良房・・・そして、良房からさらに4代目が、あの♪望月のかけたるもなし・・・♪藤原道長です。

まわりを藤原家で固められ、思うように動くことさえできなかった聖武天皇・・・藤原家に踊らされた感の拭えない称徳天皇・・・そして、もちろん道鏡も・・・

藤原家で、最後まで残り、敵がいなくなった北家が、その全盛の平安時代を牛耳る事を考えれば、何やら壮大な思惑が見えるようです。
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2008年10月 8日 (水)

伊達政宗の父親射殺事件の謎

 

天正十三年(1585年)10月8日、父・伊達輝宗を拉致して逃走した畠山義継を、追撃した伊達政宗が、父もろとも義継を銃殺しました。

・・・・・・・・・・・

西では、織田信長亡き後、その後継者の位置をキープした羽柴(豊臣)秀吉が、畿内を平定し、さらに西の四国へと手を伸ばした頃・・・東北は、未だ、群雄割拠の状態でした。

米沢城(米沢市)を本拠地とする伊達氏山形城(山形市)最上氏寺池城(宮城県北部)葛西氏名主城(宮城県北部)大崎氏小高城(福島県相馬市)相馬氏大館城(福島県いわき市)岩城氏黒川城(福島県会津若松市)芦名氏など・・・さらに南の常陸(茨城県)には佐竹氏が控えます。

これらは、お互いの家族・親戚による複雑な政略結婚でつながり、敵対と和睦をくりかえしながら、一応の力関係が保たれてはいましたが、そのぶん、いつ誰が敵に回るかの予測もつかない状況でした。

さらに、これらの諸大名に囲まれた場所に位置しているのが、二本松城(福島県二本松市)畠山氏小浜城(福島県二本松市)大内氏三春城(福島県田村郡)田村氏須賀川城(福島県須賀川市)二階堂氏石川城(福島県石川郡)石川氏といった面々・・・。

そんな中、徐々に、勢力を拡大しつつあった伊達氏は、芦名氏の勢力圏とのぶつかりを見せるようになります。

ちょうど、その両勢力に挟まれた形となったのが、小浜城主の大内定綱と二本松城主の畠山義継・・・彼らがどちらにつくかで、その勢力範囲は大きく変わる事になります。

そんなこんなの天正十二年(1584年)10月、伊達政宗は、父・輝宗から家督を譲られます。

輝宗は41歳の現役バリバリで、政宗はまだ18歳の若さという、一見、不自然な家督相続は、政宗の母・義姫が、次男の竺丸(じくまる・後の小次郎)ばかりを可愛がるため、徐々に伊達家内に、「政宗ではなく弟を後継者に・・・」という空気が流れ始めた事を心配しての父の配慮でした。

母が冷たくする事で、不憫に思った父は、政宗の事を可愛がっていましたし、何より、その武将としての器を評価しての決定でした。

しかし、その当主の交代をチャンスと見た畠山義継は、もともと芦名寄りだった姿勢をさらに強調し、一旦、伊達に恭順の態度を示していた大内定綱を寝返らせたのです。

これに激怒した政宗は、早速、定綱の支城・小手森城(おてのもりじょう・二本松市)を攻撃・・・城兵から女子供にいたるまで約8百人を、一人残らず殺してしまったのです。

定綱自身は、いち早く小手森城を脱出し、義継の二本松城へ逃げ込みます。

これに慌てふためいたのが義継・・・「このままでは、俺んとこも皆殺しにされるがな!(´Д`;≡;´Д`)」とばかりに、すぐさま、領地の半分を差し出す条件で、降伏を願い出ますが、ここで、政宗の出した条件は、『5つの村を残して、ほとんどの領地の没収と、後継者である国王丸を人質として差し出す』という義継にとって、たいへん厳しいものでした。

しかし、背に腹は変えられません・・・義継は、内心不満に思いながらも、表面は穏やかに、天正十三年(1585年)10月6日、伊達と畠山の和睦が成立したのです。

その2日後・・・10月8日の事です。

当時、宮森城(みやのもりじょう・二本松市)にいた輝宗のもとに、「和睦成立の御礼に来ました~」と、義継が面会を求めてきたのです。

彼らは30人ほどの団体でしたが、義継と家老の3名だけが中に入り、残りの者は城門の外に待たせていましたので、輝宗も、家臣たちも、誰も疑う事なく、すんなりと彼らを城内へと招き入れました。

やがて、和やかムードの会見も終わり、義継が玄関へと向かうと、輝宗もその見送りにと表へ向かいます。

その時、義継の家老・鹿子田(かのこだ)和泉が、なにやら、義継にコソコソと耳うちをしたかと思うと、「なんやと!?」と、叫び、いきなり義継は、輝宗の胸ぐらを掴み、持っていた脇差を突きつけ「ホンマか!俺を殺そうとしとるんか!」と言いながら、引きずるように表へと連れ出し、自分の馬に乗せて、そのまま拉致してしまったのです。

建物から、外へ出るまで、ずっと脇差の刃が輝宗に向けられていましたから、回りにいた家臣たちも、どうする事もできませんでした。

そばにいた重臣・留守(伊達)政景伊達成実(しげざね)は、すぐに追手を出して追撃を開始するとともに、この日、小浜城外で鷹狩りを楽しんでいた政宗に、この事を知らせます

輝宗を連れ、居城・二本松城へと逃げる畠山勢・・・追う伊達勢・・・8kmほど進んだ阿武隈川・河畔で、政宗が彼らに追いつくと、すでに、そこには、畠山勢を取り囲む伊達の鉄砲隊の姿がありました。

川を越えれば、もう、畠山の領地です。

・・・その時、
「かまわん!ワシもろとも撃て!」

一瞬、迷った政宗でしたが、父が何度も叫ぶの聞き、心を決め、指示を出します。

猛烈な銃撃音とともに、騒然となるあたり一面・・・銃撃音が鳴り止み、静寂に戻ったそこには、畠山勢全員の横たわった姿とともに、父・輝宗の無残な姿も・・・。

自らの手で、父を死に追いやってしまった政宗・・・その無念の思いから、父の初七日を過ぎてまもなく、政宗は、挙兵するのです。

父の弔い合戦となる人取橋の合戦(11月17日参照>>)です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・という、一連の流れなのですが、どうも腑に落ちない点が・・・

まずは、輝宗と義継の会見の後の、家老とのヒソヒソ話・・・

義継の、「ホンマか!俺を殺そうとしとるんか!」という言葉通りに受け止めたなら、家老の話の内容は、「殿のお命を狙っているとの情報が・・・」てな感じが想像できます。

しかし、この家老のヒソヒソ話が、周りの家臣の油断ぶりを、その目で確かめた後に拉致を決行する合図だったとしたら、この時の訪問自体が、はなから拉致を視野に入れての謀反という事になります。

この拉致事件が、突発的に発生したものなのか?
それとも、事前に計画されたものなのか?

そこで、もう一つ気になるのは、政宗の行動・・・

上記のように、一般的には、政宗が阿武隈川・河畔にたどりついた時には、鉄砲隊が取り囲んでいて、鉄砲を撃つか撃たないかの最終判断は、政宗が下したとされていますが、伊達家側の記録によれば、この時、まだ政宗は現場に到着していなかった事になっています。

しかし、実際に輝宗が撃たれて亡くなっている以上、誰かが鉄砲隊に命令を下したわけですが、息子で、すでに家督を継いでる政宗ならともかく、家臣が殿様を撃つ命令を下すとは、とても考え難いので、やっぱり、その場に政宗がいたのだろうとは思います。

・・・が、いずれにせよ、政宗より先に鉄砲隊が到着していたという事は、疑いのないところですが・・・

不思議なのは、輝宗とともに宮森城にいて、拉致された時に慌てて追いかけた家臣たちも、突発的な出来事のために何の準備もせぬまま、とるものもとりあえず追撃したとされていますが、一緒にいたものでさえ、その状態なのに、事件発生の後に連絡を聞いて駆けつけた政宗の鉄砲隊は、見事に追いついています。

それも、すぐに銃撃できるように火縄に火をつけて・・・

鷹狩りなので、すぐに撃てる状態の鉄砲を持っていた・・・と言いますが、この時代、獲物を鉄砲で撃つという事があったのでしょうか?

鳥や獣を鉄砲でしとめるようになるのは、もう少し後のような気がします。

しかも、銃での狩りと鷹狩りは、明らかに別物・・・現代でさえ、別々の趣味で、お互い相まみえる事はありません。

江戸時代でも、鷹狩りは一部の身分の高い者にだけ許されるセレブな狩りで、鉄砲は下等とされていたようですので、それを同時に行うのは、どうでしょう?
考え難い気がしませんか?。

かと、言って、政宗からの連絡を受けた鉄砲隊が陣屋から出発して、別働隊として畠山勢に追撃をしたのなら、これまた、準備があまりにも早い・・・まるで、今日、出撃する事がわかっていたようなすばやさです。

なんせ、一度に30人前後を全員殺傷できる数の鉄砲ですから、1挺や2挺の鉄砲では、そうはいきませんから・・・。

そこで、気になるのは、『政宗記』の記述・・・

そこには・・・
政宗は鷹狩りには行っておらず、小浜城の陣屋にいて義継を討つべく武器の準備をしていた・・・とあります。

つまり、これを感づいた義継の家臣が、その事を報告し、先の「俺を殺そうとしとるんか!」となり、やむを得ず輝宗を拉致した・・・となるわけです。

もちろん、父親を巻き添えにしてしまったのは、政宗の予見するところではなかったのかも知れませんが、それを口実に相手を攻める事ができ、結果的に領地を拡大する事になるのですから、武士・輝宗としては、武士らしい死と言えるかも知れません。

歴史の通説では、もちろん、義継の「輝宗・拉致」という謀反が発端となるわけですが、別の角度から見てみるのも一興かと思い、書かせていただきました。
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2008年10月 7日 (火)

歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち

 

日本書紀によれば、景行四十年(110年?)の10月7日、第12代景行天皇の命令で東方征伐に向かったヤマトタケルノミコトが、伊勢神宮にてヤマトヒメノミコトから草那芸の剣を賜りました。

・・・・・・・・・

ヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)は、その景行天皇の息子・・・ヤマトタケルが生まれる時、天皇は、(うす)を背負って産屋のまわりを回るという安産祈願のまじないをやっておりました。

一人の男の子が誕生し、「よかった、よかった」と、碓をおろしかけたところ、やらもう一人生まれそうだ・・・てな事になって、再び碓を背負ってグルブルと・・・

あまりの重たさに耐えかねた天皇は「碓に誥(たけ)びたまひき」・・・つまり、「碓のアホ!」と叫んだのだとか・・・

こうして生まれた双子の男の子・・・兄がオオウスノミコト(大碓命)、弟がヲウスノミコト(小碓命)、この弟のヲウスノミコトが後のヤマトタケルノミコトです。

ヲウスノミコトが15~6歳頃になったある時・・・

天皇が目をつけたエヒメ(兄比売)オトヒメ(弟比売)美人姉妹を、宮殿に連れてくるように命じられたオオウスは、姉妹に会った途端、父に渡すのが惜しくなり、自分のモノにして、二人ともに子供を生ませちゃいます。

その事で、バツが悪くなったオオウスは、いつも一緒にする事になっている朝夕の食事に姿を見せなくなってしまうのですが、親子の会話の少なさが気になった天皇は、「お前から、オオウスに、食事は一緒にする事に決まってるんやから、ちゃんと出て来いや!って言うといてくれへんかな」と、弟のヲウスに頼みました。

しかし、数日たっても、いっこうに兄は現れません。

「おい、お前、ちゃんと、兄貴に、俺の言うた事、伝えたんか?」
と、天皇がヲウスに尋ねると・・・

「ハイ!ちゃんと(オヤジが怒ってる事)伝えときましたよ」
「どんなふうに伝えたんや?」
「兄貴がトイレに入ってるとこ見計らって、手足を踏み潰してバラバラにして、ムシロに包んで裏庭に捨てときました~」

・・・っと、平然と答えるヲウスを見て、近くに置いておくのが怖くなった天皇は、「西の方の熊曾(クマソ)の地に、朝廷に従わない(タケル・猛々しい者)がいるから、ヤツらを討って来い」という命令を出すのです。

そこで、ヲウスは、叔母であるヤマトヒメノミコト(倭姫命)から衣装を借りて短剣を懐に持ち、女装してクマソタケル兄弟の宴会に忍び込み、宴もたけなわの中、油断して酔っぱらっているタケル・兄を、持っていた短剣で一突き!

逃げるタケル・弟を背後からブスリ!

虫の息のタケル・弟は・・・
「俺らは、クマソの猛々しい者という意味でクマソタケルと名乗ってたけど、俺らを討ったアンタは日本の猛々しい者・・・この先は、ヤマトタケルと名乗りなはれぇ~」
と、言って息絶えます。

その後、クマソからの帰り道、土地々々の豪族を倒し、最後にはイヅモタケル(出雲健)も討ち取って、西方を平定して、父の元へ帰って来るのです。

しかし、天皇は、その功績を褒めるどころか、すぐに・・・
「東の方にも朝廷に従わない者がいるから、平定して来い」
と、命令するのです。

かくして、(たぶん110年の)10月2日に都を出発したヤマトタケルは、10月7日東方へ旅立つ報告も兼ねて、伊勢神宮に奉仕する叔母のヤマトヒメに再び会いに行き・・・

「オヤジは、俺が死んだらえぇと思てるんやろか・・・兵も無しで東国を平定して来いと言う・・・」
と、ヤマトタケルは、叔母に訴え、嘆き悲しむのです。

ヤマトヒメは、そのかわいそうな姿に何も言う事ができず、宝剣の草那芸(草薙・くさなぎ)の剣と火打石の入った皮袋を渡し、ただ見送るだけでした。

後に、遠征先の相武(サガム)の国は焼津(ヤイヅ)で、土地の者に騙されて火に囲まれた時、この剣と袋を使って、ヤマトタケルは窮地を脱する事になります。

やがて、各地を転戦し、東国を平定して帰る途中、伊吹山の邪神を退治しようと出かけますが、その時に、草那芸の剣を尾張(愛知県)のカノジョの自宅に置いてきてしまったため、邪神に惑わされ、いつしか足が腫れあがり、三重にくびれた餅のようになってしまい、動けなくなりました。

ヤマトタケルは、そのまま伊勢の能煩野(のぼの)という所で、帰らぬ人となります・・・そこが、現在の三重だそうです。

ずいぶん前にupした【ヤマトタケルは実在したか?】のページ(7月16日参照>>)で、ヤマトタケルは、大和朝廷が西へ東へと勢力をのばしていく過程を、ヤマトタケルという一人の人格に置き換えて描かれているのだろうという事を書かせていただきました。

もちろん、その考えに変わりはありませんが、このように、少しくわしく物語りを見ていくと、様々な事が読み取れます。

ヤマトタケルノミコトの母は、針間(はりま)イナビノオオイツラメ(伊那毘能大郎女)という女性です。

針間は播磨・・・つまり、現在の兵庫県の西部のあたり・・・その昔は、朝廷にはむかう一大王国であった吉備国の勢力範囲だった場所ではないでしょうか?

吉備国と言えば、以前の【昔話・桃太郎】のモデルとなったであろうキビツヒコノミコト(吉備津彦命)のお話(12月1日参照>>)・・・。

そこで書かせていただいた通りに、ヤマトタケルの父である景行天皇の2代前の崇神天皇の時代に、大和朝廷の臣下に、吉備が組み込まれたのだとしたら、針間出身の姫の子供・・・という事は、ヤマトタケルとは、大和朝廷に征服された土地の人々の事・・・と考えると、一連の話にも納得がいきます。

恐ろしく強い吉備の兵士たちは、朝廷に征服された後、今度は西方征伐の最前線に立たされ、戦いを強いられます。

しかも、休む間もなく、次から次へと戦に狩り出され、さらに、元・敵国であった彼らには、手柄をたてても褒美などまったく望めません。

この時代の徴兵は、現地までの交通費も、食糧も、そして武器さえも自分自身で確保しなければなりませんから、それは大変だった事でしょう。

そんな彼らにも、母や妻や子供がいます・・・東方への遠征前に交された叔母との会話は、そんな彼らの心配する母や妻を、ヤマトヒメの姿を借りて描いたのという事なのかも知れません。

♪大和(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば
  (たた)なづく 青垣
  山籠
(やまごも)れる 大和うるわし♪ 倭健命

  大和は優れた国
  山々が重なり目にしみる垣を造る
  山々に囲まれた大和は心安らぐ場所・・・

Siratoriryoucc ヤマトタケル白鳥陵
白鳥陵への行きかたは、HPの大阪・歴史散歩でどうぞ>>

三重で命を落としたヤマトタケルの魂は、美しい白鳥の姿となって、河内の国に現れ、少し羽根を休めた後、再び空高く飛び去ったと言います。

古代の歴史に埋もれた英雄の悲しい最期は、1900年後の私たちにも、何かを語ってくれているようです。
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2008年10月 6日 (月)

ポッチャリ型が好み?小松帯刀と二人の妻

 

明治三年(1870年)7月17日、幕末から維新にかけて活躍し、維新の十傑の1人に数えられる小松帯刀が34歳の若さで病死しました。

・・・・・・・・・・・

小松帯刀(こまつたてわき・清廉)は、それこそ、今年の大河ドラマ「篤姫」で一躍脚光を浴びましたが、幕末・維新の立役者としての薩摩藩の中では、西郷隆盛大久保利通があまりにも有名という事で、これまでは、何となく目立たない存在でしたね。

しかし、幕末・維新の時代に、薩摩藩の政務を一手に引き受けていたのは、他ならぬ帯刀さんです。

薩摩の肝付家に生まれた帯刀さんは、幼い頃から神童と呼ばれ、10歳で漢学者の横山安容に儒学を学びました。

やがて、その神童の誉れが、第11代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の知るところとなり、斉彬の進めで、小松清猷(きよもと)の妹・千賀結婚し、小松家の養子となって、文治二年(1862年)に27歳の若さで家老となります。

ドラマの通り、下級武士だった西郷さんや大久保さんが、活躍できるような場を作ったのも帯刀さんです。

性格がよく似た坂本龍馬とも親しく付き合い、元治元年(1864年)に海軍塾が閉鎖された時には龍馬の世話をし、龍馬のほうも、帯刀の事を『天下之人物』と絶賛しています。

慶応二年(1866年)の薩長同盟(1月21日参照>>)の舞台となったのも帯刀の京都の邸宅(京都の薩摩藩邸の説もあり)ですし、後に、あの15代将軍・徳川慶喜大政奉還の決断の後押しをしたのも彼でした。

まさに、時代の中心人物・・・なのに、これまで、西郷さんや坂本龍馬の影に隠れて、あまり注目を浴びなかったのは・・・やっぱり、その性格でしょうか?

清廉潔白で真面目な帯刀さんは、派手で勢いのある幕末の人々の影に隠れてる感がある気がします・・・もちろん、勝手なイメージですが・・・

ドラマの主役になって映えるスター性と、実際の政治的手腕は、別物ですからねぇ。

そんな真面目な帯刀さん・・・奥さんの千賀さんを大事にしながらも、家老となった翌年の28歳の時、一生モノの恋をします。

それは、文久三年(1863年)の年の暮れ・・・斉彬の養女・貞姫の公卿・近衛忠房(このえただふさ)への輿入れがあり、祝賀会を兼ねた公武合体派の忘年会が行われ、その2次会を行った祇園での事・・・。

堅苦しい祝賀会を終え、「さぁ、気のおけない仲間同士で飲みなおそう」と、座敷にあがった帯刀さん・・・

そんな彼の前に座ったのは、色白でポッチャリした美人の芸妓・・・ストラ~イク!直球ドまん中でした。

彼女の名前はお(琴仙子)・・・見事な一目ぼれで、帯刀さんは恋に落ちてしまいます。

しかも、見た目のストライクだけではなく、彼女は、芸ごとはもちろん、和歌をたしなむ学識もあり、いわゆる超一流の芸妓・・・こういう場合、一流の芸妓さんというのは、相手の殿方にペースを合わせるのが非常にウマイ。

真面目だけど、おしゃべりだった帯刀さんを前にして、聞き上手に徹していた姿が目に浮かぶようです。

さらに、彼女の頭の良さは、その職業を生かしての京都内の情報収集という形で、帯刀さんを影で支えもしました。

奥さんの千賀さんを薩摩に残したままの帯刀さん・・・お琴さんを身請けして、京都の邸宅に住まわせるようになるまでに、さほど時間はかかりませんでした。

3年後の慶応二年(1866年)、お琴さんは、男の子を出産します。

男の子は安千代と名付けられ、正妻である千賀さんとの間には子供ができなかった事から、この男の子を千賀さんが引き取って立派に育て、後に小松清直と名を改めて、小松家の家督を継ぐ事になります。

やがて、大政奉還(10月14日参照>>)があり、王政復古の大号令(12月9日参照>>)があり、鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)に始まる戊辰戦争が勃発した動乱の年・・・。

その、まさに、元号が明治と改められたばかりの、明治元年(1868年)9月・・・帯刀さんは、病に犯されてしまいます

痛風とも糖尿病とも言われますが、もともと子供の頃から、あまり丈夫なほうではなかったようで、動乱の時代の激務がたたったのかもしれません。

それでも、大阪医学校・教師のボードウィンの治療を受けながら、参与や総裁局顧問など、新政府の重要な役職を歴任する彼でしたが、翌年、病気を理由に退職します。

明治三年(1870年)には、お琴さんが女の子・寿美を出産しますが、その直後に、帯刀さんの病気が悪化・・・献身的に看病するお琴さんの願いも空しく、その年の7月17日(18日とも)34歳の若さで、この世を去りました。

22歳の若さで最愛の人を亡くしたお琴さんは、そのわずか4年後の明治七年(1874年)8月27日・・・あとを追うように病気で亡くなってしまいます。

現在、鹿児島にある小松家の墓所・園林寺跡の帯刀のお墓の横には、後の明治十七年(1884年)に亡くなった妻・千賀さんのお墓が・・・そして、帯力のお墓の後ろにはお琴さんのお墓があります。

確かに、お琴さんは、生前、「私が死んだら、帯刀はんのかたわらに葬ってほしい」と願っていたそうですが、お妾さんのお墓がその家の菩提寺の、しかも同じ場所に建てられる事は、かなり異例な事です。

これは、お琴さんの願いを聞いた千賀さんの配慮・・・最後に一人残った千賀さんが、「彼女の願いを、ぜひ叶えてあげたい」と、いったんは別の場所に葬られたのを、わざわざ移したのだそうです。

一夫多妻の時代とは言え、こんなにも心地よい三角関係をみたのは初めてです。

きっと、三人ともいい人だったんでしょうね。

その政治力と人望で、もう少し長生きをしていたら、初代・総理大臣になったかも知れないと言われる小松帯刀・・・今年の大河ドラマで、その名が全国に知れ渡って、ひょっとしたらご本人よりも、二人の奥さんが喜んでいるのかも知れません。
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2008年10月 5日 (日)

フビライの日本侵略計画はあったのか?

 

文永十一年(1274年)10月5日、総勢4万と言われる元軍が、対馬西岸の佐須浦沖に姿を現しました。

・・・・・・・・・・・

元軍・2万、高麗軍・5千6百、その他の航海士や水夫・1万5千の軍勢を率いて、2日前に大陸を出発した船団は、文永十一年(1274年)10月5日対馬(つしま)沖に到着・・・夕刻にはその中の約3百の兵を、佐須浦(対馬市厳原町)に上陸させました。

世に言う元寇=蒙古襲来の第一回目・文永の役の勃発です。

この知らせを聞いた対馬国守護代の宗助国(そうすけくに・資国)は、すぐさま80騎ほどの軍勢を引き連れて佐須浦へ向かいました。

翌・6日に、現地に到着した宗勢は、いったんは、上陸軍を海に押し戻すほどの活躍をみせますが、最終的に全滅し、敵の放った火によって、佐須浦一帯は焦土と化しました。

その後、次々と上陸する元+高麗軍によって、一般島民への暴行・殺害・略奪行為が行われ対馬は壊滅します。

元+高麗軍は、一週間ほど滞在した後、今度は壱岐(いき)へと向かい、14日には、壱岐西北部から上陸・・・壱岐国守護代・平景隆(たいらのかげたか)との夜を徹しての死闘の末、平勢を全員自刃に追い込みました。

その後、さらに周囲の島を襲撃しながら九州へと向かった元+高麗軍の船団・・・やがて、文永十一年(1274年)10月19日博多湾に侵入してきたのです(10月19日参照>>)

ところで、この文永の役と、7年後の弘安の役(6月6日参照>>)・・・2度にわたって行われる元の襲来ですが、当の元の皇帝・フビライ真意はどうだったのでしょう?

本当に、日本を侵略するつもりだったのでしょうか?

そもそも、最初にフビライの国書を日本に持ってきたのは、高麗の使者でした。

文永四年(1267年)に来日した彼らから、翌年、フビライの国書と高麗の添え書きの2通を手渡さたれた筑前国(福岡県)守護少弐資能(しょうにすけよし)は、すぐに、鎌倉幕府にその書状を送りますが、「外交の事は朝廷がやるべき」と考える幕府は、それを京都に転送するのです。

受け取った朝廷は、どうしていいか戸惑うばかり・・・右往左往してるうちに、結局、幕府の「返事をすべきでない」という意見に傾き、フビライの国書を無視する・・・という結論に達したわけです。

幕府が、「返事をすべきでない」との判断をした理由の第一は、「無礼である」という事だそうです。

そのフビライの国書のおおまかな内容は、以前、時の執権・北条時宗元の使いを斬殺した日のページ(9月7日参照>>)でも書かせていただいたのですが、もう一度、ここで引用させていただくと・・・

「あんなぁ、高麗(こうらい)は、俺ンとこの属国やねんで。
君とこって、昔から高麗と仲えぇし、中国に使い送ったりしとったやんか。

せやのに、俺の代になってから、いっこも使いよこさんと、ぜんぜん交流ないやん。

ひょっとして、俺ンとこの国の事、ようわかってないんちゃうかな?って思て、心配してんねやんか。

せやから、こっちから使いを出して、手紙渡して、俺の気持ちわかってもらおかなって・・・・俺かて、できたら武力行使は、したないしなぁ・・・」

と、こんな感じです。

この最後の部分・・・「俺かて、できたら武力行使は、したないしなぁ・・・」が、無礼だという事になったのです。

つまり、幕府は、この部分を『脅迫』と判断したのです。

確かに・・・実際には、お目にかかった事はありませんが、ドラマなど見かけるぼったくりのコワイお兄さんのセリフに似てます。

「俺かて、こんな事したないんやけど・・・」と言いながら、散々暴れまくって金を巻き上げていきます。

日本人の心の奥底には、こういった言い回しが、脅しである事がインプットされているようですが、今回の相手はフビライ・・・そのお国柄も違いますから、本当に、脅しのつもりで、そう言ったのか?
はたまた、言葉通り、武力行使は避けたいと思っていたのか?

その心の奥底を読み取るのは、おそらく不可能なのでしょうが、ただ、この国書の末尾には『不宣(ふせん)という文字が書かれていたらしいのです。

この不宣というのは、中国の様式で、相手に敬意を表する場合に、末尾につけるものなのです。

少なくとも、この国書の内容と、その末尾の不宣の文字を見る限りでは、日本を、臣下にしたり、属国として元に取り込もうという姿勢は見えず、元以前の中国と日本の関係・・・つまり、貢物を持った使者をよこしての交流を復活させる事=円満なる国交回復を願っているだけのようにも思えます。

しかし、幕府はこの国書を脅迫と受け取りました・・・よって、「無礼な国書に返事はしない」との徹底した無視を繰り返すわけですが、もし、フビライの真意が、本当に友好的な国交回復にあったのだとしたら、フビライ側から見れば、「せっかく、こっちが仲良うしょ~って言うてんのに、シカトするんかい!」と怒り爆発となるわけです。

そうなると、最初のうちは、侵略目的ではなく、それこそ、「ちょっと威しをかけておいて、その後、あらためて外交交渉の席につかせて、国交回復へと持ち込みたい」という意図のもとでの出兵だったのかも知れませんね。

まぁ、結局、武装船団でやって来るので、コチラは迎え撃つしかありませんが・・・

以前も書かせていただいたように、お国柄が違えば、考え方も常識も違いますから・・・とかく、外交というのは、今も昔も難しいものです。
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2008年10月 4日 (土)

関ヶ原の合戦の年表

このページは、関ヶ原の戦いに関する出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりませんので、年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Sekigaharabyoubucc

・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1598 7 15 秀吉が諸大名に忠誠を誓う誓詞を要求
【秀吉が次世代に託した武家の家格システム】
8 9 病床の秀吉が家康らに遺言する
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】
8 18 豊臣秀吉・没
【なにわのことも夢のまた夢】
1599 3 4 加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
【徳川家康・天下へのシナリオ】
1600 4 1 上杉景勝が家康の上洛要請を拒否
【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
4 14 直江兼続が西笑承兌に返書を送る
【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
5 17 芳春院(まつ)が江戸へ向かう(20日とも)
【前田利家の妻・まつの江戸下向の謎】
7 11 大谷吉継が石田三成に賛同
【関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成】
7 14 大谷吉継が北陸諸将の勧誘に…
【関ヶ原へ向けて…北陸と越後が動く】
7 15 毛利輝元・広島城を出陣
【西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】
7 17 大坂城への入城を拒み細川ガラシャ昇天
【花と散る~細川ガラシャの壮絶最期】
7 18 高取城の攻防
【最初の戦い…高取城の攻防】
7 19 ~8/1 伏見城・攻防戦
【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
7 21 真田昌幸・幸村親子が西軍に降る
【兄は東に父・西に~真田・犬伏の別れ】
~9/13田辺城・攻防戦
【たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?】
7 22 直江兼続が越後一揆を扇動
【直江兼続・越後一揆を扇動】
7 24 家康の会津征伐軍が小山に着陣
【「小山評定」前夜…家康と花房職之】
7 25 小山評定
【老獪・家康…西へUターンの小山評定】
伊達政宗が白石城を攻略
【伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原】
真田信幸の妻が舅と弟の沼田入城拒否
【あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助】
8 1 伏見城落城
【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】
8 3 前田利長が大聖寺城を攻略
【北陸の関ヶ原~大聖寺城を攻略】
8 5 石田三成から真田昌幸への手紙
【三成&真田昌幸&上杉景勝の連携】
8 8 浅井畷の戦い
【北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦…】
8 10 西軍・石田三成が大垣城に着陣
【関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2】
8 11 東軍・先鋒が岡崎城へ入る
【迫る関ヶ原!先鋒進軍の時家康は…】
8 12 秀忠が伊達政宗に協力を要請
【関ヶ原の合戦と伊達政宗】
8 16 遠山友政が河尻秀長の苗木城を奪取
【河尻VS遠山の関ヶ原~苗木城・開城】
福束城攻防戦
【関ヶ原~福束城攻防戦】
8 19 南美濃攻防戦
【高須城&駒野城&津屋城の戦い】
8 22 加賀野井城&竹ヶ鼻城攻防戦
【竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝】
~23 岐阜城・攻防戦
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
8 23 ~25伊勢安濃津城・攻防戦
【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
9 1 ~3郡上八幡城の戦い
【稲葉VS遠藤の関ヶ原~郡上八幡城】
家康が江戸城を出陣
【関ヶ原に~徳川家康が江戸城を出陣】
9 2 ~11信濃上田城・攻防戦・開始
【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
9 3 京極高次が大津城に帰還
【ホタル大名・京極高次…一世一代の決断】
9 7 西軍主力部隊・関ヶ原南宮山に着陣
【いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力着陣】
大津城・籠城戦が始まる
【大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原】
徳川秀忠が上田城攻略を断念
【真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い】
【中山道で関ヶ原に向かった秀忠の任務は?】
9 9 上杉の執政・直江兼続が最上領に侵攻
【関ヶ原の前に!直江兼続・最上に侵攻】
9 10 大友義統が杵築城を攻撃
【黒田VS大友~石垣原へ杵築城攻撃】
9 13 九州にて石垣原の合戦・勃発
【関ヶ原で天下を狙う第三の男】
【豊後奪回を狙う男・大友義統石垣原】
鳥羽城の戦い
【九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原】
9 14 関ヶ原の合戦・前夜祭
【~前哨戦・杭瀬川の戦いと三成の決断】
【~小早川秀秋の長い夜】
9 15 関ヶ原の合戦
【天下分け目の関ヶ原】
【ともに命を賭けた戦場の約束】
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】
直江兼続が長谷堂に到着
【長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!】
9 16 大反省会(*フィクションです)
【関ヶ原・反省会~朝まで生合戦】
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
【敵中突破の「島津の背進」】
直江兼続が長谷堂城に総攻撃
【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】
9 17 佐和山城攻め
【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
伊予の関ヶ原~三津浜の戦い
【毛利の伊予出兵~宍戸景世の関ヶ原】
9 19 小西行長・自首
【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
9 20 徳川家康が大津城に入る
【勲功1番の戦い~京極高次の関ヶ原】
9 21 石田三成が捕まる
【石田三成、逮捕!】
9 23 安国寺恵瓊が捕まる
【戦国のネゴシエーター・恵瓊の失敗】
9 27 福知山城攻防戦
【細川VS小野木の福知山城攻防戦】
9 29 伊東祐慶が宮崎城を攻撃
【伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…】
10 1 三成・行長・恵瓊が死刑に
【石田三成、斬首!】
直江兼続が長谷堂から撤退開始
【自刃まで考えた~兼続の長谷堂・撤退】
10 2 富来城が開城
【九州の関ヶ原~富来城が開城】
10 3 長束正家が自刃
【長束正家~水口岡山城の戦い】
10 5 鳥取城・総攻撃
【亀井玆矩の鳥取城攻略】
10 10 岩村城が開城
【西軍・田丸直昌の岩村城が開城】
10 12 九鬼嘉隆・自刃
【戦国水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】
10 14 黒田如水が小倉城を落す
【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】
10 17 加藤清正が宇土城・八代城を制圧
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】
10 20 鍋島直茂らが久留米城を攻撃
【生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原】
10 28 家康が赤松広秀(斎村政広)を切腹させる
【豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀】
11 3 筑後柳川城・開城
【立花宗茂・最後の関ヶ原】
12 13 真田昌幸&幸村父子が高野山へ…
【真田昌幸&幸村・高野山へ…】
1601 2 1 井伊直政が近江佐和山城に国替え
【近江佐和山城~三成から直政へ】
8 24 上杉景勝に大幅減封・決定
【領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機】
9 28 毛利輝元が息子・秀就を江戸へ人質に
【関ヶ原敗戦での毛利の転落】
11 28 30万石に減封された上杉景勝が米沢入城
【関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城】
家康が文禄堤に4宿を設け東海道を整備
【東海道は五十七次!】
1602 2 1 井伊直政・没
【徳川の斬り込み隊長・井伊の赤備え】
4 11 家康が島津の所領を安堵
【見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原】
5 1 家康が諸大名に二条城の築城を命令
【二条城・・・その動乱の歴史】
5 7 前田玄以・没
【ただ一人生き残った運命の別れ道】
10 18 小早川秀秋・没
【わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】
1603 2 12 徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受ける
【徳川家康・征夷大将軍への道】
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたのか?】
7 28 家康の孫・千姫が豊臣秀頼と結婚
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
8 6 宇喜多秀家が伏見へ護送される
【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
番外編 【豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原】
【三成と恵瓊が作戦を練った茶室・作夢軒】
【三成はそんなに嫌われていたの?】
【関ヶ原から大坂の陣・徳川と豊臣の関係】
【不肖羽柴茶々、関ヶ原古戦場へ…】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【忍者の教科書『万川集海』】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】

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2008年10月 3日 (金)

北条氏康~謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将

 

元亀二年(1571年)10月3日、戦国時代、100年にわたって関東を支配した後北条氏の3代目・北条氏康が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

北条五代と言って、まず、思い出すのは、やはり初代の北条早雲・・・。

いくら支族とは言え、幕府将軍家を、地方の一大名が倒して支配権を握った(10月11日参照>>)わけですから、まさに下克上・・・早雲は、戦国の幕を開けた一人と言えるでしょう。

そんな後北条氏ですが、関東の大部分を支配し、実際に、その勢力範囲が最大のものとなったのは、3代目の北条氏康の時代・・・ドラマなどでは、なかなかスポットが当たる事はありませんが、この氏康さんも、かなりのデキル武将なのです。

天文十年(1541年)に氏康が家督を継いだ頃の関東は、未だ、古河公方足利晴氏関東管領上杉憲政(のりまさ)が元気ビンビンの時代・・・。

氏康は、家督を継いだ3年後の天文十三年(1544年)から、7年間にわたって古河公方と関東管領相手に戦い続け、ついには、二人を追い出し、最終的に関東300万石を北条の支配下に収める事に成功しています。

中でも、天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(4月20日参照>>)は、毛利元就厳島の戦い(10月1日参照>>)織田信長桶狭間の戦い(5月19日参照>>)と並んで、戦国の三大奇襲戦として語り継がれる大勝利となりました。

しかし、それだけ勢力が大きくなると、そのぶん敵の大きさも比例して大きくなるのが世の常・・・ここから、氏康は、戦国屈指の名武将と対峙しなければならない事になります。

それは、越後(新潟県)長尾景虎・・・後の上杉謙信です。

氏康に関東を追われた上杉憲政が越後へ逃れ、謙信を頼った事から、永禄三年(1560年)8月、謙信自らが関東へと進攻してきたのです。

しかも、一旦は北条の支配下に収まったとは言え、まだまだ地盤がグズグズだった関東武士たちの多くが、関東管領の看板を背負った謙信の呼びかけに呼応し、反北条の姿勢に転じてしまい、なんと、その数は、総勢10万にもなっていたのです。

氏康さん、最大のピ~ンチ!

しかし、ここで、その最大のピンチを救ったのが、自ら手を加え続けた居城・小田原城でした。

その生涯の中で、ほとんど負け戦のない武勇優れた氏康さんですが、実は内政に関しても非常に優れていたのです。

徹底した検地を行い、家臣や領民の負担を明確にして税制改革を行ったり、大規模な都市開発で城下町を発展させたりと・・・そして、そこには、城下町の成長とともに成長し、更なる堅固な城となっていた小田原城があったのです。

氏康は、野戦をせず、この小田原城に籠城して、謙信の大軍を相手に、持久戦に持ち込む作戦に出ます。

そして、その作戦は見事に成功します。

籠城して1ヶ月・・・未だビクともしない小田原城相手に、兵士の士気もさがりつつあった上杉軍に、ころあいを見計らって反撃を仕掛けた北条勢・・。

結局、謙信は、何も得るものの無いまま、撤退を余儀なくさせられてしまうのです。

しかし、憲政から関東管領職を譲られた謙信が、このまま納まるわけもなく、その後も、上杉と北条の対峙は続く事になるのですが、やがて訪れた永禄七年(1564年)、謙信に誘発された安房(あわ・千葉県南部)里見義弘との第二次国府台(こうのだい)の合戦(1月8日参照>>)・・・またまた夜戦の奇襲で、見事、勝利したのです。

これで、下総(千葉県北部)をも、支配下に収める事に成功しました。

しかし、安心はできませんでした。

例の桶狭間の戦いにて大黒柱の今川義元を失った事で、一気にその勢力に衰えを見せ始めた駿河(静岡県東部)今川氏に、永禄十一年(1568年)、甲斐(山梨県)武田信玄が、突如、攻撃を仕掛けてきたのです(12月12日参照>>)

義元の生存中には、それぞれの息子や娘を婚姻させて、甲相駿・三国同盟を結んでいた武田と北条と今川・・・義元の後を継いでいた今川氏真は、当然、北条に助けを求める事になります。

ここからの氏康は、謙信と並ぶ、もう一人の戦国屈指の名武将・武田信玄との戦いに突入する事となったのです。

やがて、今川氏を倒して、北条の相模(神奈川県)へと進攻を開始する信玄・・・永禄十二年(1569年)の10月1日には、小田原城を包囲した武田軍に対して、またまた籠城作戦で迎え撃つ氏康・・・。

そして、またしても、その籠城作戦は成功するのですが、この時の武田軍は、兵糧の確保が不十分だった事もあり、わすか5日間で、撤退させられています。

帰国の途についた武田軍に追い討ちを仕掛ける氏康・・・自ら率いる本隊に先駆けて、北条氏輝氏邦に2万の軍勢を与えて、武田軍を追撃させましたが、残念ながら、この時は、本隊到着の前に北条勢は撃破され、氏康と信玄が直接対決する事はありませんでした(10月6日参照>>)

その後も、武田との小競り合いが続く中、対・武田の一環として謙信との和睦を結ぶ氏康でしたが、その和睦もあまり成果が得られないまま、病魔が彼を襲う事になってしまいました。

以前、戦国時代の食べ物事情のページ(2月13日参照>>)でご紹介した通り、息子・氏政の食事の仕方のドン臭さを嘆いた氏康さん・・・己の知略で戦国の世を生き抜き、関東一円に勢力を広げ、さらに領民からも慕われた名将から見れば、確かに、息子は情けなかったのかも知れません。

江戸時代の学者たちからも、「文武に徳を備え、合戦には負けず、民政にも優れた古今の名将」と評された氏康さん・・・はたして、その脳裏には、目の前の上杉や武田よりも怖い、豊臣秀吉が見えていたのかも知れません。

「楽しみは諸侯の後に楽しみ、うれいは万民の先に憂う・・・」

元亀二年(1571年)10月3日稀代の名将・北条氏康は、自慢の小田原城にて57歳の生涯を閉じました。

追記:本ページのタイトルに「隠れた名将」とさせていただきましたが、「隠れてない!」「超有名です!」とおっしゃる北条ファンの皆様・・・この「隠れた」というのは、あくまで、私の個人的主観で、「謙信や信玄に比べると、ドラマの主役になったのを、あまり見かけないなぁ」と思ったというだけなので、どうか広~いお心でのお許しを・・・
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2008年10月 2日 (木)

黒衣の宰相・天海=明智光秀説

 

寛永二十年(1643年)10月2日、天台宗の僧で、家康・秀忠・家光の徳川三代に渡ってブレーンとして活躍した慈眼大師・南光坊天海僧正が、推定・108歳(120歳説もあり)で亡くなっています。

・・・・・・・・・

黒衣の宰相(さいしょう)と呼ばれた南光坊天海(なんこうぼうてんかい)・・・

その手腕といい、謎めいたところといい、数々の噂といい・・・とにかく、とても興味をそそられる人物です。

天海は、陸奥国(青森県)会津高田に生まれ、18歳の時に比叡山に入山したとか、上州(長野県)世良田長楽寺で真言の灌頂(かんじょう・仏教の継承者の入門儀式)を受けたとか、将軍・足利義澄の隠し子だとか、様々な噂があります。

ご本人が、自らの過去を、ほとんど語らなかったせいもあり、実際のところ、その前半生はまったくわかっていません。

天正十八年(1590年)とも、慶長十三年(1608年)とも言われますが、とにかく、その関ヶ原の合戦前後のあたりに、突然、現れ、あの徳川家康に、「天海は生き仏や!なんで、もっと早く会えなかったんやろ」と言わせるほど、急激に信頼を得る事になるのです。

二人が出会った時、家康は60歳前後で、天海はすでに70歳を越えた老人であったという事なので、確かにお互いの人生から考えると遅い出会いでした。

関ヶ原の合戦以降、事実上、天下を握った家康は、僧・金地院崇伝こんちいんすうでん)とともに、この天海を相談役として重用します。

崇伝は、主に法律や行政面で力を尽くし、武家諸法度』の整備などを担当し、天海は関東一円の天台宗の僧のまとめ役となるとともに、江戸の町づくりなどを担当しました。

ご存知のように、江戸の町は、千年の都・平安京と同様の四神相応の地(10月22日参照>>)・・・江戸城を中心に、鬼門に当たる位置に浅草寺寛永寺を配置して、風水の力を最大限に発揮できるような設計となっていますが、それらを考えたのが、天海なのです。

また、豊臣家最後の戦いとなった大坂の陣の、きっかけとなった京都・方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)・・・これを家康に進言したのも天海と言われています。

さらに、家康の死後、久能山に葬られていた家康の慰霊が、天海の一言で、わずか一年後に日光に改葬されるところを見ても、いかに、徳川政権下で力を持っていたかがわかります。

しかも、天海の相談役としての天下は、家康だけにとどまらず、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の時代にまで続くのですから、その信頼度たるや、他に並ぶ者がいない状況であった事でしょう。

そんな天海僧正・・・彼の数ある噂の中でも最も有名で、最も大胆な噂が『天海=明智光秀説』です。

確かに、この説は、歴史を学問として見る側からは、トンデモ説に分類されるものですが、単に趣味で歴史を楽しんでいる側としては、じつにオモシロく、胸おどる仮説です。

まずは、その発端となる『光秀・生存説』・・・光秀さんが生きててくれないと、天海にはなれませんからねぇ・・・。

本能寺の変の後に、その弔い合戦と称して畿内に戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉との山崎の合戦(6月13日参照>>)に敗れた光秀は、近江(滋賀県)に戻る途中の山科小栗栖(おぐるす)で、落ち武者狩りの手によって殺害され、その近くに遺体が隠されたわけですが、光秀を討ち取ったのも名も無き農民なら、近臣によって隠されたはずのその首を発見するのも名も無き農民なのです。

つまり、光秀本人を知らない農民が持参した首を確認するという、うさん臭さ満載の首実権となるわけですが、旧暦の6月は夏の盛り・・・すでに首は腐敗して、本人かどうかの確認ができない状態だったわけです。

『光秀=天海説』に否定的な人でも、ここで、光秀が死んだかどうかという事については、きっと、100%死んだとの断言はできないのではないでしょうか。

本能寺の変の時は、光秀は55歳か57歳・・・って事は、家康と出会って天海が歴史の舞台に登場する関ヶ原の前後は70歳くらい・・・と、年齢もピッタシカンカンだゎ!

・・・て事で、死んでないかも知れない・・・となると、次に期待するのは、生きていたという証し・・・。

そこで、登場するのが、比叡山との関係です。

織田信長が比叡山を焼き討ちしようとした時、光秀は、家臣の中でただ一人、かたくなに反対をしたらしいのですが、そんな比叡山には、「慶長二十年二月一七日 奉寄進 願主光秀」と刻まれた石灯籠が存在します。

もし、これがホントだとしたら・・・慶長二十年とは、あの本能寺から二十年・・・しかも2月と言えば、前年の12月に大坂冬の陣が和睦し、一段落がついた頃で、翌月の3月には、もう家康が夏の陣の準備に入ろうとするので、そのちょうどハザマのあたりですが、とりあえず、本来なら光秀が生きているはずはない年代です。

そして、冒頭で書かせていただいたように、天海は比叡山で修行していたとされていますし、家康と天海が出会った場所とされる川越喜多院は、比叡山の傘下のお寺です。

さらに、後に、天海は焼き討ちされた比叡山の復興に尽力したとして、麓の坂本には、慈眼廟(じげんびょう)という天海を祀る廟があるのですが、この慈眼というのは、天海が、亡くなった五年後に、朝廷から贈られた諡号(しごう・死んでから贈られる名)で、冒頭に書いたように、天海は、号が贈られた後は慈眼大師(じげんだいし)と呼ばれるわけです。

3代将軍・家光も、かの喜多院の境内に慈眼堂という天海を偲ぶお堂を建てています。

ところが、ここに、もう一つ・・・京都市右京区に慈眼寺というお寺があるのですが、残念ながら、ここは天海とは関係ない・・・と思いきや、逆に、ここには明智光秀の像と位牌が置かれているのです。

とてもとても、興味深いですね~。

さらに、小耳に挟んだ情報によると、家光が建てた喜多院の慈眼堂には、大奥を仕切っていたあの春日局が、足しげく通っていたのだとか・・・

春日局と言えば、光秀の家臣・斉藤利三の娘で、その利三の母は光秀の妹だったとも言われています(6月11日参照>>)・・・そんな彼女が慈眼堂に・・・ますます、ワクワクしますね~。

もちろん、すべては仮説の域を超えないものですが、空想するだけで、実にオモシロイ!

さらに膨らむ妄想・・・

3代将軍・家光は、慶長九年(1604年)7月17日の生まれとされていますが、彼を生んだとされる2代将軍・秀忠の正室・お江与の方は、前年の8月下旬に、京都で女の子を産んでますので、どう考えても、7月に出産するのはオカシイ。

当然ですが、家光がお江与の方の子供ではないのではないか?と、昔から囁かれ、病弱で、後継者から外されそうになった家光を、春日局が、家康に直談判してまで、将軍に推しあげた事から、家光は春日局の子供ではないか?という話が出てきます(これはけっこう有名ですが・・・)

それは、単なる噂にとどまらず、実際に江戸城の『紅葉山文庫』に収蔵されている『松のさかえ』という文書には「秀忠公御嫡男 竹千代君(家光) 御腹 春日局・・・」とはっきり書いてあるのだそうです。

御腹」とは、つまり、お腹を痛めた・・・という事です。

もし、そうなら、将軍の後継者の父親は秀忠か家康・・・直談判の一件から、家康の線が濃いですね~

そんな事になると、天海(光秀)→春日局→家光と明智三代・・・もはや江戸時代を築いたのは、徳川ではなく、明智家の人々という、とんでもない事になってしまって、文字通りトンデモ説になってしまいますが、仮説とは言え、ここまでくるとかえって、ワクワクしてしまいませんか?。

もちろん、天海が光秀であるには、あの本能寺の変の時に、すでに家康とタッグを組んでいなければなりません・・・それでないと、家康は光秀を生かしておく意味も、徳川政権下で登用する理由もありませんからね・・・家康黒幕説については5月29日でどうぞ>>
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2008年10月 1日 (水)

「醤油の日」なので醤油の歴史

 

今日、10月1日は『醤油の日』なのだそうです。

日本醤油協会など、複数の関連団体が2003年に制定したのだとか・・・

その由来は・・・、

  • 以前は10月が新しいもろみを仕込む時期であった事。
  • その昔、醤油は、壷や甕(かめ)に詰められて運ばれていて、その甕の形から生まれた象形文字が酉であり、月を干支で表すと、酉の月は10月である事。

・・・なのだそうです。
ちょっと、ややこしい・・・

何となく10月はわかりますが、、なぜに1日なのか?という事は、今日のところは棚の上に置いとして、本日は例のごとく、醤油の日なので『醤油の歴史』を紐解いて参りましょう。

・・・・・・・・・・

とは言え、醤油の歴史は意外と新しい・・・

日本の文献に初めて「醤油」という文字が登場するのは、16世紀も終わりに近づいた慶長二年(1597年)に刊行された『易林本・節用集(えきりんぼん・せつようしゅう)・・・この節用集は戦国の広辞苑といった感じの文書です。

この頃の醤油は、現在の醤油とはちょっと違ったもので、どちらかと言えば溜り(たまり)醤油のようなものではありましたが、やっとここに来て、味噌とはっきりと分かれて、醤油という名前が着いたという事で、汁物と吸物の区別がつくのもちょうどこの頃・・・。

そうです。
先ほど、醤油の歴史は意外と新しいと書かせていただきましたが、このように、はっきりと区別されたのがこの頃だという事で、その原型となる物は古くからありました。

中国は紀元前11世紀のの時代に書かれた『周礼(しゅうらい)には、(ひしお)というものが登場します。

また、紀元前6世紀の『論語』でおなじみの孔子さんも、「醤が手に入んなかったら食べたくない」なんて事を言っていて、もう、すでに、この頃には、お食事の友・・・何はなくとも江●むらさきみたいな重要な調味料であった事がうかがえます。

ただ、この中国の醤という物は、醤油というよりは、現在の塩辛に近いもので、しかも、材料は、鹿や鳥や魚といった動物性のものでした。

やがて、紀元前1~2世紀頃のの時代になると、大豆などの穀類を材料とする醤が誕生し、肉類よりも安価に作れる事から、徐々に穀類の醤のほうが主流になっていきました。

一方、その頃の日本は、ちょうど弥生時代・・・

おそらく、中国の醤が、朝鮮半島を経由して伝わったのでしょうが、日本には、その弥生時代以前の、縄文時代の頃から、すでに、果物や野菜・海草などを材料にした醤が存在していたようです。

やがて、それらの醤は、奈良時代頃には味噌となり、平安時代には、様々な種類の味噌を売る商店なども登場しますが(お味噌の歴史のページ参照>>)、このあたりで枝分かれして独自の発展を遂げるのが、秋田に伝わる「しょっつる」能登半島「魚汁(いしる)などの魚を材料にした調味料や、富山「かぶら寿司」琵琶湖「鮒ずしなどのなれ寿司です。

「しょっつる」「魚汁」は、現在でも郷土料理として愛され、一方のなれ寿司も、ご存知のように、現在にそんそまま伝わるものと、おし寿司にぎり寿司へと変化するものに枝分かれする事になります。

さらに、醤や味噌の製造過程で、桶などの底にたまる液体が、煮物の味付けなどにピッタリな事がわかり、これがたまり醤油の原型となり、こちらも枝分かれしていきます。

醤油という名称の由来は、醤の液汁(油)から醤油となったとか、中国でよく似たものを醤湯とか豆油と呼んでいたので、両方をミックスして醤油となったなど、いくつかの説があります。

やがて、室町・戦国の頃から、あの武田信玄に、溜りを献上して気に入られ、『川中島御用醤油』の役を命じられた下総(千葉県)野田飯田市郎兵衛をはじめ、紀州(和歌山県)湯浅赤胴右馬太郎播磨(兵庫県)竜野円尾孫右衛門などなど・・・醤油の醸造が本格的に行われるようになります。

しかし、このように民間レベルで発展した醤油は、幕府や大名の管理下に置かれた米とは、まったく別の流通経路であったため、米の3~4倍の高値で取引され、お酒よりも高い高級品だったそうですが、冒頭の文献初登場の慶長頃には、大坂を中心に専門店が軒を並べるようになり、やがて、首都が江戸に遷るににつれ、江戸へと、そして全国へと広がり、いつしかお味噌と並ぶ、日本の調味料となるわけです。

ちなみに、そんな醤油が外国人の口に入るようになったのは、ごく最近の事のように思われがちですが、どうしてどうして、あの太陽王として君臨したルイ14世も醤油が大好きだったんだとか・・・

戦国の日本にやってきたオランダ人たちによって、それは、ブルボン王朝フランスにも届けられていたのだそうで、壷や瓶に入れ、木詮で密閉状態にして、はるばる船で運ばれた醤油は、さらに熟成されるうえ、もともと品質もよく、高価であった事が、よりセレブの心をくすぐり、当時の高級フランス料理には欠かせない調味料となっていたようです。

ところが、近代日本では、太平洋戦争直後の大豆不足からアミノ酸を混合させたり、スピード時代の波に乗ろうと速醸造の粗悪な醤油が多く造られた時代があり、その悪臭によって、海外からも、国内からも敬遠され、一時はそのまま衰退していくかのようになった事もあったそうですが、その状況はすぐに改善され、再び、長い年月をかけて熟成する品質のよいものが主流となって、現在は、ご存知のように、毎日の食卓に欠かせない調味料となっています。

もちろん、品質もバツグンです。

「あぁ。。。今夜は和食にしよう」
そして、はるか昔の醤の時代からの、長い長い旅の末にたどり着いた日本の味を、じっくりと味わってみようではありませんか。
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