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2008年10月 6日 (月)

ポッチャリ型が好み?小松帯刀と二人の妻

 

今日は、ホントは別の話題を書くつもりでいたのですが、大河ドラマ・篤姫に、お琴さんが登場したのを見て、なんだか急に書きたくなって、小松帯刀さんについて書かせていただきます。

「今日は何の日?」とうたっている以上、本来なら、帯刀さんのご命日の7月17日か何かにupすべき話題なのですが、まぁ、人気ドラマの旬のお話という事で、お許しください。

ただし、私は原作を読んでませんので、あくまで、歴史の出来事を・・・この先、ドラマがどのように展開していくのかは、別のお楽しみという事で、よろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小松帯刀(こまつたてわき・清廉)は、それこそ、今年の大河ドラマで一躍脚光を浴びましたが、幕末・維新の立役者としての薩摩藩の中では、西郷隆盛大久保利通があまりにも有名という事で、これまでは、何となく目立たない存在でしたね。

しかし、幕末・維新の時代に、薩摩藩の政務を一手に引き受けていたのは、他ならぬ帯刀さんです。

薩摩の肝付家に生まれた帯刀さんは、幼い頃から神童と呼ばれ、10歳で漢学者の横山安容に儒学を学びました。

やがて、その神童の誉れが、第11代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の知るところとなり、斉彬の進めで、小松清猷(きよもと)の妹・千賀と結婚し、小松家の養子となって、文治二年(1862年)に27歳の若さで家老となります。

ドラマの通り、下級武士だった西郷さんや大久保さんが、活躍できるような場を作ったのも帯刀さんです。

性格がよく似た坂本龍馬とも親しく付き合い、元治元年(1864年)に海軍塾が閉鎖された時には龍馬の世話をし、龍馬のほうも、帯刀の事を『天下之人物』と絶賛しています。

慶応二年(1866年)の薩長同盟(1月21日参照>>)の舞台となったのも帯刀の京都の邸宅(京都の薩摩藩邸の説もあり)ですし、後に、あの15代将軍・徳川慶喜大政奉還の決断をさせたのも彼でした。

まさに、時代の中心人物・・・なのに、これまで、西郷さんや坂本龍馬の影に隠れて、あまり注目を浴びなかったのは・・・やっぱり、その性格でしょうか?

清廉潔白で真面目な帯刀さんは、派手で勢いのある幕末の人々の影に隠れてる感がある気がします・・・もちろん、勝手なイメージですが・・・

ドラマの主役になって映えるスター性と、実際の政治的手腕は、別物ですからねぇ。

そんな真面目な帯刀さん・・・奥さんの千賀さんを大事にしながらも、家老となった翌年の28歳の時、一生モノの恋をします。

それは、文久三年(1863年)の年の暮れ・・・斉彬の養女・貞姫の公卿・近衛忠(このえただふさ)への輿入れがあり、祝賀会を兼ねた公武合体派の忘年会が行われ、その2次会を行った祇園での事・・・。

堅苦しい祝賀会を終え、「さぁ、気のおけない仲間同士で飲みなおそう」と、座敷にあがった帯刀さん・・・

そんな彼の前に座ったのは、色白でポッチャリした美人の芸妓・・・ストラ~イク!直球ドまん中でした。

彼女の名前はお(琴仙子)・・・見事な一目ぼれで、帯刀さんは恋に落ちてしまいます。

しかも、見た目のストライクだけではなく、彼女は、芸ごとはもちろん、和歌をたしなむ学識もあり、いわゆる超一流の芸妓・・・こういう場合、一流の芸妓さんというのは、相手の殿方にペースを合わせるのが非常にウマイ。

真面目だけど、おしゃべりだった帯刀さんを前にして、聞き上手に徹していた姿が目に浮かぶようです。

さらに、彼女の頭の良さは、その職業を生かしての京都内の情報収集という形で、帯刀さんを影で支えもしました。

奥さんの千賀さんを薩摩に残したままの帯刀さん・・・お琴さんを身請けして、京都の邸宅に住まわせるようになるまでに、さほど時間はかかりませんでした。

3年後の慶応二年(1866年)、お琴さんは、男の子を出産します。

男の子は安千代と名付けられ、正妻である千賀さんとの間には子供ができなかった事から、この男の子を千賀さんが引き取って立派に育て、後に小松清直と名を改めて、小松家の家督を継ぐ事になります。

やがて、大政奉還(10月14日参照>>)があり、王政復古の大号令(12月9日参照>>)があり、鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)に始まる戊辰戦争が勃発した動乱の年・・・。

その、まさに、元号が明治と改められたばかりの、明治元年(1868年)9月・・・帯刀さんは、病に犯されてしまいます。

痛風とも糖尿病とも言われますが、もともと子供の頃から、あまり丈夫なほうではなかったようで、動乱の時代の激務がたたったのかもしれません。

それでも、大阪医学校・教師のボードウィンの治療を受けながら、参与や総裁局顧問など、新政府の重要な役職を歴任する彼でしたが、翌年、病気を理由に退職します。

明治三年(1870年)には、お琴さんが女の子・寿美を出産しますが、その直後に、帯刀さんの病気が悪化・・・献身的に看病するお琴さんの願いも空しく、その年の7月17日、34歳の若さで、この世を去りました。

22歳の若さで最愛の人を亡くしたお琴さんは、そのわずか4年後の明治七年(1874年)8月27日・・・あとを追うように病気で亡くなってしまいます。

現在、鹿児島にある小松家の墓所・園林寺跡の帯刀のお墓の横には、後の明治十七年(1884年)に亡くなった妻・千賀さんのお墓が・・・そして、帯力のお墓の後ろにはお琴さんのお墓があります。

確かに、お琴さんは、生前、「私が死んだら、帯刀はんのかたわらに葬ってほしい」と願っていたそうですが、お妾さんのお墓がその家の菩提寺の、しかも同じ場所に建てられる事は、かなり異例な事です。

これは、お琴さんの願いを聞いた千賀さんの配慮・・・最後に一人残った千賀さんが、「彼女の願いを、ぜひ叶えてあげたい」と、いったんは別の場所に葬られたのを、わざわざ移したのだそうです。

一夫多妻の時代とは言え、こんなにも心地よい三角関係をみたのは初めてです。

きっと、三人ともいい人だったんでしょうね。

その政治力と人望で、もう少し長生きをしていたら、初代・総理大臣になったかも知れないと言われる小松帯刀・・・今年の大河ドラマで、その名が全国に知れ渡って、ひょっとしたらご本人よりも、二人の奥さんが喜んでいるのかも知れません。
 

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コメント

いつも楽しく読ませていただいています

一夫多妻制うらやましいですね


投稿: ほん | 2008年10月 6日 (月) 07時48分

ほんさん、コメントありがとうございます~

一夫多妻・・・

両方の奥さんに、同じだけの愛情を注ぐというのは、なかなか難しいもので、実際には、ほとんどの場合ドロ沼・・・そんなに甘いモンじゃなかったと思います。

投稿: indoor-mama | 2008年10月 6日 (月) 16時20分

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