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2008年10月21日 (火)

楠木正成のゲリラ術炸裂!元弘の変・赤坂城の戦い

 

元弘元年(1331年)10月21日、鎌倉幕府軍に囲まれた赤坂城に籠っていた楠木正成が城に火を放ち、脱出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

文保二年(1318年)、第96代の天皇として即位した後醍醐天皇(8月16日参照>>)・・・彼の理想は、摂関政治でもなく院政政治でもなく、ましてや武家政治でもない、天皇自らが行う政治でした。

しかし、現実は、あの源頼朝から続く武士政権=鎌倉幕府の時代・・・源氏の嫡流は3代で絶えたものの、北条高時第14代執権として君臨しています。

密かに、幕府を倒す計画を練る天皇でしたが、正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)が、事前にバレて失敗に終わります。

やがて、嘉暦元年(1326年)3月頃から、再び討幕しようと、息子・護良(もりよし・もりなが)親王たちに命じて各地の僧兵に声をかけ、側近の日野俊基(としもと)には、畿内の悪党(幕府傘下でない武士や土豪)たちを集めさせはじめるのです。

しかし、これが、また幕府の知るところとなり、後醍醐天皇を流刑に、息子の護良親王を死刑にするための使者がやって来ると聞いた天皇は、元弘元年(1331年)8月27日に三種の神器を持って、奈良の笠置山に逃走します(8月27日参照>>)

この笠置山で、楠木正成という頼れる男を味方につけた後醍醐天皇でしたが、その間に、幕府側は、三種の神器のないまま、光厳天皇を即位させ、その新天皇の命を受けた官軍として、大仏貞直(おおらぎさだなお)金沢貞冬率いる幕府軍が、9月27日、笠置山に総攻撃を仕掛けます・・・もちろん、迎え撃つ後醍醐天皇・・・元弘の変の勃発です(9月28日参照>>)

しかし、なんだかんだ言っても、幕府軍は戦いのプロ集団・・・笠置山はたちまちのうちに陥落して、29日には、山中を逃げまくっていた天皇も捕らえられてしまいました。

一方、後醍醐天皇の味方となった正成の籠っていた赤坂城にも、同時に、20万の幕府の軍勢が攻め寄せます。

当時、赤坂城は、前にある護りの城・上赤坂城と、その後ろにある本城・下赤坂城の二つに分かれていましたが、上赤坂城は未だ完成しておらず、正成らは、500の手勢で本城の下赤坂城に籠って応戦します。

10月15日、ここらへんでカタをつけようと総攻撃を開始した幕府軍・・・下赤坂城は、東西北の3方を川に囲まれた天然の要害でしたが、南側の堀は浅く、幕府軍はその南側に手勢を集中させ、一気に攻め入ろうと試みます。

しかし、城内からは、何本もの矢が放たれ、容易に近づく事ができません。

仕方なく撤退する幕府軍・・・すると突然、後方の山影から楠木勢が現れ、猛攻撃を仕掛けたかと思うと、今度は城内から兵が飛び出して更なる攻撃!

全員で籠城していると見せかけておいて、実は、半分以上の兵を、先に外の搦(から)め手に潜伏させておいて、敵を引きつけてから挟み撃ちにする見事な作戦でした。

幕府軍の総攻撃は翌日も続きます。

今度は、その数にまかせて、群がるアリのごとく城の塀によじ登ろうする幕府軍・・・
しかし、塀の半分あたりのところまでやって来ると、突然、その塀が、よじ登っている兵士とともに落下・・・実は、それは敵をおびき寄せるための囮(おとり)の塀で、本物の塀の外側に作られた張りぼて・・・縄を切れば、下に落ちる仕掛けになっていたのです。

3日目・・・

今度は、慎重に・・・、
一気に突入するような事をせず、一かたまりとなって、ゆっくりと進んでくる幕府軍・・・すると、哀れ塀の上からひしゃくでの熱湯あびせ攻撃に見舞われ、またまた撃沈。

この3日間の攻撃で疲れ果てた幕府軍は、ムリな攻撃をやめ、長期戦を視野に入れて、作戦を練り直す事にします。

20万対500・・・おそらく、とてつもなく誇張した数ではありましょうが、幕府軍がかなり多かった事は確か・・・男・正成、見事なゲリラ戦です。
(ただし、正成の戦略に関しては、三国志の諸葛孔明にそっくりという部分もありますが、今回は、あくまで『太平記』によれば・・・という事で・・・)

しかし、勝利に酔ってるヒマはありません。

赤坂城は、城といっても砦に近い小さな物・・・このまま、長期戦に持ち込まれては、耐えれるはずがありません。

20万はオーバーにしても、敵は幕府。
いつ援軍が派遣されるかわかりませんし、はなから完全勝利できる見込みは万に一つ・・・まして、肝心の後醍醐天皇が捕らえられてしまっては、赤坂城を守りきる意味も、それほどありません。

ここは、一つ、別の機会に別の場所で決起すべきと考えた正成は、元弘元年(1331年)10月21日赤坂城に火をかけて、金剛山の奥へと脱出したのです。

その後、炎に包まれた城を呆然と見る幕府軍・・・やがて、火の手が収まった城内に入ると、誰のものともわからない焼死体が山のように積み重なっていました。

またぞろ、何か企んでいるのではないか?としばらく囲みを解かず様子を見ていた幕府軍でしたが、それからいっこうに音沙汰もなく・・・11月に入ってからは、あの山のような死体を、長期戦には耐えられないとみた楠木一族郎党の自害と判断し、関東へと引き上げを開始しました。

翌年3月、後醍醐天皇は隠岐へ流され、俊基は死罪となり(3月7日参照>>)、もちろん、正成は死んだ事になりました。

彼らが、再び動きはじめるのは一年後・・・今度は、笠置山で逃げ切った護良親王のもと、正成らも再び挙兵する事になるのですが、そのお話は、2月1日【護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂・攻防戦へ】でどうぞ>>
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