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2008年10月 2日 (木)

黒衣の宰相・天海=明智光秀説

 

寛永二十年(1643年)10月2日、天台宗の僧で、家康・秀忠・家光の徳川三代に渡ってブレーンとして活躍した慈眼大師・南光坊天海僧正が、推定・108歳(120歳説もあり)で亡くなっています。

・・・・・・・・・

黒衣の宰相(さいしょう)と呼ばれた南光坊天海(なんこうぼうてんかい)・・・

その手腕といい、謎めいたところといい、数々の噂といい・・・とにかく、とても興味をそそられる人物です。

天海は、陸奥国(青森県)会津高田に生まれ、18歳の時に比叡山に入山したとか、上州(長野県)世良田長楽寺で真言の灌頂(かんじょう・仏教の継承者の入門儀式)を受けたとか、将軍・足利義澄の隠し子だとか、様々な噂があります。

ご本人が、自らの過去を、ほとんど語らなかったせいもあり、実際のところ、その前半生はまったくわかっていません。

天正十八年(1590年)とも、慶長十三年(1608年)とも言われますが、とにかく、その関ヶ原の合戦前後のあたりに、突然、現れ、あの徳川家康に、「天海は生き仏や!なんで、もっと早く会えなかったんやろ」と言わせるほど、急激に信頼を得る事になるのです。

二人が出会った時、家康は60歳前後で、天海はすでに70歳を越えた老人であったという事なので、確かにお互いの人生から考えると遅い出会いでした。

関ヶ原の合戦以降、事実上、天下を握った家康は、僧・金地院崇伝こんちいんすうでん)とともに、この天海を相談役として重用します。

崇伝は、主に法律や行政面で力を尽くし、武家諸法度』の整備などを担当し、天海は関東一円の天台宗の僧のまとめ役となるとともに、江戸の町づくりなどを担当しました。

ご存知のように、江戸の町は、千年の都・平安京と同様の四神相応の地(10月22日参照>>)・・・江戸城を中心に、鬼門に当たる位置に浅草寺寛永寺を配置して、風水の力を最大限に発揮できるような設計となっていますが、それらを考えたのが、天海なのです。

また、豊臣家最後の戦いとなった大坂の陣の、きっかけとなった京都・方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)・・・これを家康に進言したのも天海と言われています。

さらに、家康の死後、久能山に葬られていた家康の慰霊が、天海の一言で、わずか一年後に日光に改葬されるところを見ても、いかに、徳川政権下で力を持っていたかがわかります。

しかも、天海の相談役としての天下は、家康だけにとどまらず、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の時代にまで続くのですから、その信頼度たるや、他に並ぶ者がいない状況であった事でしょう。

そんな天海僧正・・・彼の数ある噂の中でも最も有名で、最も大胆な噂が『天海=明智光秀説』です。

確かに、この説は、歴史を学問として見る側からは、トンデモ説に分類されるものですが、単に趣味で歴史を楽しんでいる側としては、じつにオモシロく、胸おどる仮説です。

まずは、その発端となる『光秀・生存説』・・・光秀さんが生きててくれないと、天海にはなれませんからねぇ・・・。

本能寺の変の後に、その弔い合戦と称して畿内に戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉との山崎の合戦(6月13日参照>>)に敗れた光秀は、近江(滋賀県)に戻る途中の山科小栗栖(おぐるす)で、落ち武者狩りの手によって殺害され、その近くに遺体が隠されたわけですが、光秀を討ち取ったのも名も無き農民なら、近臣によって隠されたはずのその首を発見するのも名も無き農民なのです。

つまり、光秀本人を知らない農民が持参した首を確認するという、うさん臭さ満載の首実権となるわけですが、旧暦の6月は夏の盛り・・・すでに首は腐敗して、本人かどうかの確認ができない状態だったわけです。

『光秀=天海説』に否定的な人でも、ここで、光秀が死んだかどうかという事については、きっと、100%死んだとの断言はできないのではないでしょうか。

本能寺の変の時は、光秀は55歳か57歳・・・って事は、家康と出会って天海が歴史の舞台に登場する関ヶ原の前後は70歳くらい・・・と、年齢もピッタシカンカンだゎ!

・・・て事で、死んでないかも知れない・・・となると、次に期待するのは、生きていたという証し・・・。

そこで、登場するのが、比叡山との関係です。

織田信長が比叡山を焼き討ちしようとした時、光秀は、家臣の中でただ一人、かたくなに反対をしたらしいのですが、そんな比叡山には、「慶長二十年二月一七日 奉寄進 願主光秀」と刻まれた石灯籠が存在します。

もし、これがホントだとしたら・・・慶長二十年とは、あの本能寺から二十年・・・しかも2月と言えば、前年の12月に大坂冬の陣が和睦し、一段落がついた頃で、翌月の3月には、もう家康が夏の陣の準備に入ろうとするので、そのちょうどハザマのあたりですが、とりあえず、本来なら光秀が生きているはずはない年代です。

そして、冒頭で書かせていただいたように、天海は比叡山で修行していたとされていますし、家康と天海が出会った場所とされる川越喜多院は、比叡山の傘下のお寺です。

さらに、後に、天海は焼き討ちされた比叡山の復興に尽力したとして、麓の坂本には、慈眼廟(じげんびょう)という天海を祀る廟があるのですが、この慈眼というのは、天海が、亡くなった五年後に、朝廷から贈られた諡号(しごう・死んでから贈られる名)で、冒頭に書いたように、天海は、号が贈られた後は慈眼大師(じげんだいし)と呼ばれるわけです。

3代将軍・家光も、かの喜多院の境内に慈眼堂という天海を偲ぶお堂を建てています。

ところが、ここに、もう一つ・・・京都市右京区に慈眼寺というお寺があるのですが、残念ながら、ここは天海とは関係ない・・・と思いきや、逆に、ここには明智光秀の像と位牌が置かれているのです。

とてもとても、興味深いですね~。

さらに、小耳に挟んだ情報によると、家光が建てた喜多院の慈眼堂には、大奥を仕切っていたあの春日局が、足しげく通っていたのだとか・・・

春日局と言えば、光秀の家臣・斉藤利三の娘で、その利三の母は光秀の妹だったとも言われています(6月11日参照>>)・・・そんな彼女が慈眼堂に・・・ますます、ワクワクしますね~。

もちろん、すべては仮説の域を超えないものですが、空想するだけで、実にオモシロイ!

さらに膨らむ妄想・・・

3代将軍・家光は、慶長九年(1604年)7月17日の生まれとされていますが、彼を生んだとされる2代将軍・秀忠の正室・お江与の方は、前年の8月下旬に、京都で女の子を産んでますので、どう考えても、7月に出産するのはオカシイ。

当然ですが、家光がお江与の方の子供ではないのではないか?と、昔から囁かれ、病弱で、後継者から外されそうになった家光を、春日局が、家康に直談判してまで、将軍に推しあげた事から、家光は春日局の子供ではないか?という話が出てきます(これはけっこう有名ですが・・・)

それは、単なる噂にとどまらず、実際に江戸城の『紅葉山文庫』に収蔵されている『松のさかえ』という文書には「秀忠公御嫡男 竹千代君(家光) 御腹 春日局・・・」とはっきり書いてあるのだそうです。

御腹」とは、つまり、お腹を痛めた・・・という事です。

もし、そうなら、将軍の後継者の父親は秀忠か家康・・・直談判の一件から、家康の線が濃いですね~

そんな事になると、天海(光秀)→春日局→家光と明智三代・・・もはや江戸時代を築いたのは、徳川ではなく、明智家の人々という、とんでもない事になってしまって、文字通りトンデモ説になってしまいますが、仮説とは言え、ここまでくるとかえって、ワクワクしてしまいませんか?。

もちろん、天海が光秀であるには、あの本能寺の変の時に、すでに家康とタッグを組んでいなければなりません・・・それでないと、家康は光秀を生かしておく意味も、徳川政権下で登用する理由もありませんからね・・・家康黒幕説については5月29日でどうぞ>>
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

私も光秀のファンです。
一時、本能寺の変の真相を知りたいと思ったこともありますが、黒幕がいれば完全に証拠隠滅したでしょうし、そうでなくても、関係者が光秀にかかわるものを焼いたりしたでしょうから、結局真相は永遠に闇の中。そこが面白いのかもしれません。
天海さんが光秀さんというのも、面白いですが、やっぱり小栗栖で自刃というのが、締めくくりがキチンとして?良いような気がします( ̄ー ̄)ニヤリ

投稿: ななみみず | 2008年10月 3日 (金) 23時44分

ななみみず さん、こんにちは~

私も、基本的には、以前、別のページで書かせていただいたように、「信長が少ない人数で京都に滞在していた事に身震いするほどのチャンスを感じた光秀の突発的な単独犯」だと思っています。

もちろん小栗栖で死んでいると・・・

でもでも・・・イロイロ想像するのは、楽しいんですよね~( ̄ー+ ̄)

光秀の犯行じゃなかった説や豊臣秀吉黒幕説なんかのページもあるので、また見てやってください

投稿: 茶々 | 2008年10月 4日 (土) 11時52分

こんにちは。
大変興味ありますね・・。
私は、最近ブログを創めまして、まだ使い方を熟知していない織田信長を探求している者です。実は現在私の居住地である備中高松城跡地から「本能寺の変の真相を追究する旅」というタイトルでブログを進めています。
私もいろんな文献を読んで素人なりの考えを申しますと・・
<本能寺クーデターに関する不審なこと>
●光秀は堺に滞在していた家康のことは知っていたが、家康を討ちにいく行動は敢えてしていない。家康も海路も使えたが、伊賀超えという世間から見ると厳しいと思われるコースを選択して、死に物狂いで逃げ帰ったということを強調して後世に伝え残している。
●秀吉は備中高松城の水攻め時に本能寺のクーデター勃発の数日前ぐらいから”そわそわ”となにか連絡を待っているような不審な行動をとっていたと地元には伝えられている。
●朝廷の権威を信長が潰そうと策略していたことへの不安
●日光東照宮には光秀の家紋である桔梗の彫り細工が多数あること
● 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
まだまだありますが、あとは茶々さんのご推察と、ほぼ同意見です。
ただ、一つだけ光秀・天海同一人物は違うと思います。明智家の関係者で素姓を隠すよう指示されていた人物のように思えます。

投稿: うつけ者 | 2008年10月 5日 (日) 12時42分

うつけ者さん、こんにちは~
コメントありがとうございます。

>秀吉は備中高松城の水攻め時に本能寺のクーデター勃発の数日前ぐらいから”そわそわ”となにか連絡を待っているような・・・

これに関して、
「光秀が放った毛利への使者が、誤って秀吉の陣に迷い込んで密書を見られた」というのが通説になってますが、「実は、この密書は、光秀が秀吉に宛てた戦勝報告だった」なんて話もありますもんね。

本能寺の変に関しては。新しい書籍を購入するたびに、イロイロな妄想が浮かんできて実にオモシロイです。

ひょっとしたら、真相はもっと単純なものなのかも知れませんが・・・

投稿: 茶々 | 2008年10月 5日 (日) 15時14分

光秀=天海とは確信出来ませんが、二人の繋がりは伊賀の天台真盛宗別核本山西蓮寺にあります。この寺の最高の寺宝は天海自筆の書がある藤堂高虎公画像です。この寺の本山は明智家の奥津城がある西教寺で、更に明智神社がある福井大味に同じ名称の寺があります。天正伊賀の乱激戦地比自山麓にある西蓮寺は光秀公の信長征伐に関わっているそうです。
 東照宮を造った家光は、関ヶ原の戦いで焼失した南宮大社の復興を春日局の願いを受けて行いました。
 南宮大社には今も北村(喜多村)氏の名が見れます。喜多村とは明智家の子孫の苗字です。

投稿: 鎌倉街道 | 2008年12月15日 (月) 20時40分

鎌倉街道さん、こんばんは~

天海=光秀説・・・
俄然、真実味をおびてきましたね・

投稿: 茶々 | 2008年12月15日 (月) 22時35分

こんばんは 、茶々さま

僕は 天海=光秀説を信じています。

東照宮の桔梗紋といい筆跡といい 実際の歴史の学者にも信じている方が多数いるとか...

 天海の前半生は謎..というのがミソじゃないですか

 光秀が(天海)なら 光秀をかくまうとき家康は家臣の力量を考えたら"合格"を出していたのはまずまちがいないでしょう。
 

投稿: zebra | 2010年10月 1日 (金) 23時06分

zebraさん、こんばんは~

ホントに…
この類のお話は、あれこれ妄想がとまりませんね~。

投稿: 茶々 | 2010年10月 1日 (金) 23時15分

普通に考えるとこの時代の人の寿命の2倍以上生きた人ですね。年齢をサバ読んだ可能性はあるんですか?
前半生が謎なので、サバ読んだ可能性もあり得ますが。

投稿: えびすこ | 2011年6月26日 (日) 17時06分

えびすこさん、こんばんは~

この時代の方々は、自分自身の誕生日を知らない方も多いので、サバ読んでるというよりは、「文献にそう書かれている」という事だと思います。

天海でなくとも、もっと有名な方…たとえば家康だって、記録にそう書いてあるだけで、それが正しいかどうかはわかりません。

投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 02時19分

南光坊天海=明智光秀説というのは、私自身も聞いたことがありますが、私は、同一人物説に対しては、否定的です。個人的な推測ですが、天海は、光秀の親戚=明智一族の生き残りの可能性が高いのではないかと思ってます。なぜなら、光秀に関連した書籍の数々の中に、光秀の家系図が掲載されていることがあるのですが、その家系図の一つに、光秀の弟らしき人物が2人出てきました。「明智信教」と「明智康秀」という名前の人物です。もちろん、名前以外は謎のままですが、弟らしき2人のいずれかが天海になって、歴史の表舞台に登場したような気がします。

投稿: トト | 2016年1月 6日 (水) 09時04分

トトさん、こんにちは~

光秀も謎が多いですからね~

投稿: 茶々 | 2016年1月 6日 (水) 14時35分

比叡山に寄進したとされる、「慶長二十年二月十七日 奉寄進 願主光秀」という文字が彫られている石灯籠についても、話には聞いたことがあります。その石灯籠についての個人的な推測ですが、もしかしたら、寄進したのは、明智光秀自身ではなく、(こうしゅう)という名前の読み方をする、謎の人物のような気がします。光秀という名前は、読み方次第では、(みつひで)と読んだり、(こうしゅう)と読んだりすることができるからです。人の名前というのは、読み方が違うだけで、別人と解釈することができるのです。

投稿: トト | 2016年1月 9日 (土) 09時13分

トトさん、こんばんは~

歴史の色々を妄想するのは楽しいですね。
でも、それを裏付けするのは難しいです。
光秀に関しては、もう少し、史料が欲しいです(><)。

投稿: 茶々 | 2016年1月10日 (日) 02時05分

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