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2008年10月 8日 (水)

伊達政宗の父親射殺事件の謎

 

天正十三年(1585年)10月8日、父・伊達輝宗を拉致して逃走した畠山義継を、追撃した伊達政宗が、父もろとも義継を銃殺しました。

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西では、織田信長亡き後、その後継者の位置をキープした羽柴(豊臣)秀吉が、畿内を平定し、さらに西の四国へと手を伸ばした頃・・・東北は、未だ、群雄割拠の状態でした。

米沢城(米沢市)を本拠地とする伊達氏山形城(山形市)最上氏寺池城(宮城県北部)葛西氏名主城(宮城県北部)大崎氏小高城(福島県相馬市)相馬氏大館城(福島県いわき市)岩城氏黒川城(福島県会津若松市)芦名氏など・・・さらに南の常陸(茨城県)には佐竹氏が控えます。

これらは、お互いの家族・親戚による複雑な政略結婚でつながり、敵対と和睦をくりかえしながら、一応の力関係が保たれてはいましたが、そのぶん、いつ誰が敵に回るかの予測もつかない状況でした。

さらに、これらの諸大名に囲まれた場所に位置しているのが、二本松城(福島県二本松市)畠山氏小浜城(福島県二本松市)大内氏三春城(福島県田村郡)田村氏須賀川城(福島県須賀川市)二階堂氏石川城(福島県石川郡)石川氏といった面々・・・。

そんな中、徐々に、勢力を拡大しつつあった伊達氏は、芦名氏の勢力圏とのぶつかりを見せるようになります。

ちょうど、その両勢力に挟まれた形となったのが、小浜城主の大内定綱と二本松城主の畠山義継・・・彼らがどちらにつくかで、その勢力範囲は大きく変わる事になります。

そんなこんなの天正十二年(1584年)10月、伊達政宗は、父・輝宗から家督を譲られます。

輝宗は41歳の現役バリバリで、政宗はまだ18歳の若さという、一見、不自然な家督相続は、政宗の母・義姫が、次男の竺丸(じくまる・後の小次郎)ばかりを可愛がるため、徐々に伊達家内に、「政宗ではなく弟を後継者に・・・」という空気が流れ始めた事を心配しての父の配慮でした。

母が冷たくする事で、不憫に思った父は、政宗の事を可愛がっていましたし、何より、その武将としての器を評価しての決定でした。

しかし、その当主の交代をチャンスと見た畠山義継は、もともと芦名寄りだった姿勢をさらに強調し、一旦、伊達に恭順の態度を示していた大内定綱を寝返らせたのです。

これに激怒した政宗は、早速、定綱の支城・小手森城(おてのもりじょう・二本松市)を攻撃・・・城兵から女子供にいたるまで約8百人を、一人残らず殺してしまったのです。

定綱自身は、いち早く小手森城を脱出し、義継の二本松城へ逃げ込みます。

これに慌てふためいたのが義継・・・「このままでは、俺んとこも皆殺しにされるがな!(´Д`;≡;´Д`)」とばかりに、すぐさま、領地の半分を差し出す条件で、降伏を願い出ますが、ここで、政宗の出した条件は、『5つの村を残して、ほとんどの領地の没収と、後継者である国王丸を人質として差し出す』という義継にとって、たいへん厳しいものでした。

しかし、背に腹は変えられません・・・義継は、内心不満に思いながらも、表面は穏やかに、天正十三年(1585年)10月6日、伊達と畠山の和睦が成立したのです。

その2日後・・・10月8日の事です。

当時、宮森城(みやのもりじょう・二本松市)にいた輝宗のもとに、「和睦成立の御礼に来ました~」と、義継が面会を求めてきたのです。

彼らは30人ほどの団体でしたが、義継と家老の3名だけが中に入り、残りの者は城門の外に待たせていましたので、輝宗も、家臣たちも、誰も疑う事なく、すんなりと彼らを城内へと招き入れました。

やがて、和やかムードの会見も終わり、義継が玄関へと向かうと、輝宗もその見送りにと表へ向かいます。

その時、義継の家老・鹿子田(かのこだ)和泉が、なにやら、義継にコソコソと耳うちをしたかと思うと、「なんやと!?」と、叫び、いきなり義継は、輝宗の胸ぐらを掴み、持っていた脇差を突きつけ「ホンマか!俺を殺そうとしとるんか!」と言いながら、引きずるように表へと連れ出し、自分の馬に乗せて、そのまま拉致してしまったのです。

建物から、外へ出るまで、ずっと脇差の刃が輝宗に向けられていましたから、回りにいた家臣たちも、どうする事もできませんでした。

そばにいた重臣・留守(伊達)政景伊達成実(しげざね)は、すぐに追手を出して追撃を開始するとともに、この日、小浜城外で鷹狩りを楽しんでいた政宗に、この事を知らせます

輝宗を連れ、居城・二本松城へと逃げる畠山勢・・・追う伊達勢・・・8kmほど進んだ阿武隈川・河畔で、政宗が彼らに追いつくと、すでに、そこには、畠山勢を取り囲む伊達の鉄砲隊の姿がありました。

川を越えれば、もう、畠山の領地です。

・・・その時、
「かまわん!ワシもろとも撃て!」

一瞬、迷った政宗でしたが、父が何度も叫ぶの聞き、心を決め、指示を出します。

猛烈な銃撃音とともに、騒然となるあたり一面・・・銃撃音が鳴り止み、静寂に戻ったそこには、畠山勢全員の横たわった姿とともに、父・輝宗の無残な姿も・・・。

自らの手で、父を死に追いやってしまった政宗・・・その無念の思いから、父の初七日を過ぎてまもなく、政宗は、挙兵するのです。

父の弔い合戦となる人取橋の合戦(11月17日参照>>)です。

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・・・という、一連の流れなのですが、どうも腑に落ちない点が・・・

まずは、輝宗と義継の会見の後の、家老とのヒソヒソ話・・・

義継の、「ホンマか!俺を殺そうとしとるんか!」という言葉通りに受け止めたなら、家老の話の内容は、「殿のお命を狙っているとの情報が・・・」てな感じが想像できます。

しかし、この家老のヒソヒソ話が、周りの家臣の油断ぶりを、その目で確かめた後に拉致を決行する合図だったとしたら、この時の訪問自体が、はなから拉致を視野に入れての謀反という事になります。

この拉致事件が、突発的に発生したものなのか?
それとも、事前に計画されたものなのか?

そこで、もう一つ気になるのは、政宗の行動・・・

上記のように、一般的には、政宗が阿武隈川・河畔にたどりついた時には、鉄砲隊が取り囲んでいて、鉄砲を撃つか撃たないかの最終判断は、政宗が下したとされていますが、伊達家側の記録によれば、この時、まだ政宗は現場に到着していなかった事になっています。

しかし、実際に輝宗が撃たれて亡くなっている以上、誰かが鉄砲隊に命令を下したわけですが、息子で、すでに家督を継いでる政宗ならともかく、家臣が殿様を撃つ命令を下すとは、とても考え難いので、やっぱり、その場に政宗がいたのだろうとは思います。

・・・が、いずれにせよ、政宗より先に鉄砲隊が到着していたという事は、疑いのないところですが・・・

不思議なのは、輝宗とともに宮森城にいて、拉致された時に慌てて追いかけた家臣たちも、突発的な出来事のために何の準備もせぬまま、とるものもとりあえず追撃したとされていますが、一緒にいたものでさえ、その状態なのに、事件発生の後に連絡を聞いて駆けつけた政宗の鉄砲隊は、見事に追いついています。

それも、すぐに銃撃できるように火縄に火をつけて・・・

鷹狩りなので、すぐに撃てる状態の鉄砲を持っていた・・・と言いますが、この時代、獲物を鉄砲で撃つという事があったのでしょうか?

鳥や獣を鉄砲でしとめるようになるのは、もう少し後のような気がします。

しかも、銃での狩りと鷹狩りは、明らかに別物・・・現代でさえ、別々の趣味で、お互い相まみえる事はありません。

江戸時代でも、鷹狩りは一部の身分の高い者にだけ許されるセレブな狩りで、鉄砲は下等とされていたようですので、それを同時に行うのは、どうでしょう?
考え難い気がしませんか?。

かと、言って、政宗からの連絡を受けた鉄砲隊が陣屋から出発して、別働隊として畠山勢に追撃をしたのなら、これまた、準備があまりにも早い・・・まるで、今日、出撃する事がわかっていたようなすばやさです。

なんせ、一度に30人前後を全員殺傷できる数の鉄砲ですから、1挺や2挺の鉄砲では、そうはいきませんから・・・。

そこで、気になるのは、『政宗記』の記述・・・

そこには・・・
政宗は鷹狩りには行っておらず、小浜城の陣屋にいて義継を討つべく武器の準備をしていた・・・とあります。

つまり、これを感づいた義継の家臣が、その事を報告し、先の「俺を殺そうとしとるんか!」となり、やむを得ず輝宗を拉致した・・・となるわけです。

もちろん、父親を巻き添えにしてしまったのは、政宗の予見するところではなかったのかも知れませんが、それを口実に相手を攻める事ができ、結果的に領地を拡大する事になるのですから、武士・輝宗としては、武士らしい死と言えるかも知れません。

歴史の通説では、もちろん、義継の「輝宗・拉致」という謀反が発端となるわけですが、別の角度から見てみるのも一興かと思い、書かせていただきました。
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