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2008年10月28日 (火)

徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?

 

慶長元年(1596年)10月28日、徳川家の重臣で徳川四天王の一人・酒井忠次が病没しました・・・享年70歳でした。

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徳川四天王と言えば、榊原康政井伊直政本多忠勝・・・そして、その四天王の筆頭が、本日の酒井忠次(ただつぐ)です。

そんな忠次は、『酒井の太鼓』で有名・・・その逸話は、あの家康のおもらし事件で知られる三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で登場します。

ご存知のように、徳川家康武田信玄の生涯唯一の合戦となるこの戦いは、まだまだケツの青かった家康の惨敗となるのですが、この時、命からがら居城の浜松城に逃げ帰った家康がやった一か八かの作戦が『空城の計(くうじょうのけい)・・・。

これは、こちら側が兵力で劣り、完全に勝負にならないと判断した時に、敵の攻撃をかわすために、あの三国志の中で諸葛孔明(しょかつこうめい)が行った作戦なのですが・・・

はっきり言って、その三国志の丸写し・・・はたして実際に家康が行ったのかどうかは微妙なところではあります。

まぁ、当時の家康も、三国志や孫子は読んでいたでしょうから、その逸話をヒントに実際にやった可能性もありますが、家康が読んでるなら、信玄も読んでいるはずですから、三国志の司馬仲達(しばちゅうたつ)が騙されるまったく同じ方法で、見事に騙されるのもなんだかなぁ・・・って感じなので、おそらくは、天下泰平の徳川時代の人物が、東照大権現・家康公の賛美のために付け加えた可能性大なのですが、とりあえず、どのようなものかと言いますと・・・

諸葛孔明が、わずか2500の兵で、西城にいる時、司馬仲達が15万の大軍で攻めてきたのですが、さすがの孔明も、この兵力の差ではとても勝ち目がありません。

そこで、孔明は四方の城門を開け放ち、防具を脱ぎ捨てたわずかの人数で、城楼に上り、そこで香を焚いて、琴を奏で宴会を開いたのです。

すると、それを見た仲達が、「孔明は用意周到な人物なのに、敵兵の前であのように城門を開け放っているのは、きっと、多くの伏兵を隠して、何かの仕掛けを造り、俺らをおびき寄せて、城内で一網打尽にする作戦に違いない」と思って、城を攻めるのをやめて、兵を退いた・・・というものです。

家康の場合も、おもらしするほど恐怖におののいて逃げ帰った浜松城の城門を開け放ち、思いっきりガンガンにかがり火を焚いて、琴ならぬ大きな太鼓をドンドンと打ち鳴らしたのです。

そう、この時、自ら櫓に登って太鼓を打ち鳴らしたのが、酒井忠次・・・もちろん、敗走した家康を追撃してきた武田軍は、三国志の逸話の通りに何か、計略があるのではないか?」と疑って、浜松城へは入らなかったというわけです。

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酒井忠次は、家康の父の代からの松平家譜代の家臣・・・家康とは姻戚関係もあり、子供の時から、すでに行動をともにしていた重臣です。

家康が人質となって今川義元のもとにいた時(8月2日参照>>)も、彼はそばに仕え、身の回りの世話をしていたと言います。

もちろん、家康が今川から離れて独立(5月19日参照>>)した後も、家老として大活躍!

多くの者が家康のもとを離れた三河一向一揆(9月5日参照>>)でも、決して主君の側を離れる事はありませんでした。

その後、家康が豊臣秀吉の傘下となってからも、その秀吉から、家康一番の家臣として重要視されていました。

長い長い年月をかけて築き上げてきた主君と家臣の信頼関係・・・だからこそ、家臣の中の家臣である徳川四天王の中でも、忠次が筆頭だったのです。

ところがです。

小田原征伐が終って、いよいよ秀吉の天下となり、家康が関東への転封を言渡された時(7月13日参照>>)の事です。

今までの領地にプラスされたのではなく、三河を譲っての江戸への引越しですから、当然、家臣たちへもそれぞれ新たな所領が与えられる事になるわけですが、その時、井伊直政が12万石本多忠勝と榊原康政にはそれぞれ10万石が与えられたにも関わらず、忠次の後を継いでいた息子・家次には、わずか3万石だったのです。

忠次がすでに、隠居しているとは言え、これは、さすがに他の四天王と格差ありすぎではありませんか!

驚いた忠次は、早速家康のもとへ不服を申し立てるのですが、そんな忠次を見て家康、は一言・・・
「そんなお前でも、わが子はカワイイんやな」

実は、この忠次冷遇の原因は、以前書かせていただいたあの築山殿と信康の事件(8月29日9月15日参照>>)にあると言われています。

そう、あの時、娘・徳姫の手紙で、家康の妻・築山殿と長男・信康に謀反の疑いを持った織田信長に、その弁明のために、家康から派遣されたのが、忠次だったのです。

結局は、忠次が、その弁明に失敗したために、信長からの、築山殿と信康の殺害命令が出てしまう事で、家康は、わが手で妻と息子を葬らねばならなくなったわけです。

その事をずっと恨みに思っていたと・・・。

しかし、そのページでも書かせていただいたように、その時、徳姫の手紙や信長の命令が本当にあったのかどうかは、非常に疑わしい部分もありますので、なんともいえませんが・・・。

ただし、四天王の筆頭であった忠次が、晩年になって冷遇されたのは事実・・・いったい、家康と忠次の間に何があったのでしょうか?

果たして、人質時代からの、一番の家臣との信頼関係が崩れるほどの出来事とは?

とても気になります。
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