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2008年10月11日 (土)

明治十四年の政変~大隈重信・失脚の原因は?

 

明治十四年(1881年)10月11日、一連の明治十四年の政変で、明治政府内の薩長藩閥勢力が御前会議を開き、大隈重信らの参議罷免を決定しました。

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明治新政府のもと進められた北海道開拓事業・・・(1月12日参照>>)

その北海道開拓のために、政府内には、明治二年(1869年)から、開拓使という官庁が設けられていたのですが、ここにきて、おおむね開拓も進み、政府としての所定の役目を果たしたという事で、明治十五年(1822年)には、その開拓使は廃止になる事が決定していたのです。

そこで、この明治十四年(1881年)、開拓使が行っていた様々の事業が関西貿易会社という会社に払い下げられる事になったのですが、その払い下げられた金額が不当に安い値段であったため大問題となるのです。

当時、開拓使長官であったのが黒田清隆(8月23日参照>>)、関西貿易会社を経営していたのが五代友厚・・・彼らは同じ薩摩藩の出身

同郷のよしみでの汚職として、新聞紙上で大きく取り上げられました。

この開拓使官有物払い下げ事件で、ちょうど盛り上がりを見せていた自由民権派を中心にした世論全体が、ここぞとばかりに薩長中心の藩閥政治を非難し、国会の即時開設を要求したため、明治政府は大ピンチに立たされる事になったのです。

・・・で、ここで、なぜか、開拓使払い下げに反対し、薩長藩閥政治の抵抗勢力の代表格として、マスコミが掲げたのが大隈重信でした。

実際には、この払い下げに対して、大隈個人が特に反対したという事はないようですが、彼が肥前藩(佐賀)出身だったからなのでしょうか?

とにかく、薩長中心で進んでいく政府に対抗する人物として、マスコミに祭り上げられてしまったようです。

逆に、薩長藩閥勢力は、「この事件を利用して自分たちを追い落とそうと、大隈がマスコミをたきつけている!これは大隈の陰謀だ」と判断・・・それまで、なんやかんやとモメ続けていた薩摩&長州勢力が、VS大隈で一致団結し、大隈が天皇の行幸に同行して留守の間に準備を重ねます。

そして、天皇が帰京した明治十四年(1881年)10月11日、自分たちだけで御前会議を開き、世論の批判を避けて民権運動を沈静化させるため、官有物払い下げの中止と十年後には国会を開催するという事を決定するとともに、大隈を罷免(クビ)にしたのです。

これを明治十四年の政変と言いますが、実は、これには、払い下げ事件以前からの大隈重信と伊藤博文(12月22日参照>>)の考え方の違いが絡んでいるのです。

この一年前頃から、すでに政界を去った板垣退助らを中心とする自由民権派全国的に国会開設運動を展開していて、もはや、日本の津々浦々へと運動は浸透し、年が明けて明治十四年に入った頃には、政府内の各参議からも、もう、国会開設しちゃうしかないんじゃないの?」てな意見が出始めていたのです。

特に、国会を開く事に前向きだったのが、かの大隈重信と伊藤博文、そして井上馨(かおる)の三人で、彼らは、この年の1月に会談して、「近く、国会を開いて、政党政治をやって行こうね」と約束していたのです。

ところが、その2ヵ月後の3月に、大隈は、伊藤や井上にナイショで、『国会開設に関する意見書』を左大臣の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に提出してしまうのです。

もちろん、伊藤や井上との約束がありますから、大隈は、あくまで内密に・・・「くれぐれも、ナイショにしといてね」と言いながら提出しているのですが、残念ながら、有栖川宮は、これを、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)に、「実はナイショやねんけど・・・」ってしゃべってしまうのです。

当時の太政大臣は三条実美(さねとみ)・・・彼は、ご存知のように、あの幕末の八月十八日の政変(8月18日参照>>)以来の長州との仲良しコンビ。

そして、右大臣の岩倉も、やっぱり、薩長ドップリ・・・その点、有栖川宮はどちらにベッタリする事もなく、明治天皇の信頼も厚いという事で、大隈は有栖川宮に意見書を提出したようですが、しゃべってしまっちゃぁしょうがない・・・

保守派で国会開設に反対な岩倉は、急進的な大隈の意見書に驚き、即座に伊藤に、これまた、「ナイショやねんけどな・・・」としゃべります。

・・・と、これに、伊藤が激怒!

もちろん、伊藤の激怒は、岩倉の驚きとはまったく別のところ・・・意見書の内容ではなく、約束していたにも関わらず、勝手に意見書を提出した事に激怒したのですが、それこそ、1月に会談を行って三人で約束した事はナイショですから、表向きは「こんな急進的な意見を持つヤツとはいっしょにやってられん!俺やめる!」と参議の辞職を口にします。

この伊藤の怒りっぷりを見て慌てた岩倉が仲裁に入り、大隈と伊藤との話し合いの末、この時は、丸くおさまってはいたのですが、結局、払い下げ事件が引き金となって、今回の明治十四年の政変は起こってしまいました。

ただ、その大隈の約束やぶりには、ちゃんと理由があります。

実は、大隈と伊藤・・・ともに国会開設には前向きではありましたが、決定的に違うところがあったのです。

それは、大隈がイギリス型の議員内閣制を導入しようとしていたのに対し、伊藤はプロセイン(プロシア)を手本にした君主制憲法を導入しようとしていた事です。

結局、この政変で大隈が失脚してしまったので、ご存知のように、明治憲法はプロセインの憲法を元にしたものとなり、約束通りの明治二十三年(1890年)第一回帝国議会召集(11月24日参照>>)が行われました。

この時、政界を去った大隈は、その十年後の国会開設に向けて、立憲改進党を結成(10月18日参照>>)するとともに、東京専門学校=現在の早稲田大学を設立しました。

歴史に「もし」は禁物ですが、この時の大隈の失脚がなかったら、明治憲法はイギリス寄りのものになっていたかも知れませんね。
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

払い下げ事件の裏にこんな事実があったんですね。イギリス流とドイツ流の分岐点とも言える、のちの日本の方向性を影響する重大な事件だったんですね。なるほど。

投稿: いわごん | 2015年7月20日 (月) 15時32分

いわごんさん、こんばんは~

政治家と利権は、いつの時代も切っても切れない物なのでしょうかね?

投稿: 茶々 | 2015年7月21日 (火) 01時12分

茶々さん、おはようございます。
法学部にいましたので少々こういう事は存じています。プロイセン憲法、イギリス憲法云々についてですが、簡単に言いますと成分法か慣習法です。
ドイツは長い間成文法のローマ法か慣習法のゲルマン法かで論争になりましたし、ドイツは今でもバイエルンみたいに独立した地域もあります。そういう所ではとても慣習法のゲルマン法でまとめきれなく成文法のローマ法によりました。ところでプロイセン憲法はベルギーの憲法を元にしています。イギリスは国王中心にまとまっていますが、マグナカルタ以前から議会が中心に法律を制定ました。だからつい最近まで最高裁が無く上院である貴族院がその代わりでした。法廷貴族と言われる人は裁判官も兼ねました。フランスの絶対君主制もつい最近のイギリスと同じ体制です。その為に慣習を用いた法律をしていました。でもどちらが民主的で君主的かは比較できませんし、それぞれの習慣や歴史事情に基づいています。でも日本の場合だと民間憲法には植木枝盛みたいな革命権を求める等の極端な急進主義もいましたので、とてもイギリスみたいな2大政党になれないし、イギリスでさえも混乱に混乱を重ねていました。共和制を求めると言う議員がいたぐらいです。それを考えますとプロイセン憲法を基礎にするのは自然の成り行きですし、慣習だけと言いますと革命的な明治維新を否定しかねないので成文法になったと思いますが、明治憲法にはプロイセンみたいに天皇の拒否権は無いし、今と内容は殆ど変りません。おまけに枢密院みたいに規定外の機関も出来るなど日本の習慣も多く取り入れています。憲法の父の一人の井上毅に至っては記紀に基づくべきだと言っています。その言葉にしらすと言うのを井上案には出ています。その中でできた憲法なので内外でも評価は高いし、役所や官僚規定についてはどちらかと言いますとプロイセンでなく中央集権のフランスに倣っていますので、日本型と言うのが正しいと思います。教育制度もフランスが基礎です。すみません長々と書きましたが、単純に明治憲法はプロイセン型でなく、その後の内閣を見ましてもどちらかと言いますとプロイセンと言うよりもイタリアみたいです。プロイセンだと決定権は国王ですが、日本は重臣と相談した上なので今のタイみたいな立憲君主制で、その当時ですと一番近い制度はイタリアと言えます。実際にイタリアみたいに政権交代は早いです。現在もそうです。

投稿: non | 2015年7月21日 (火) 09時28分

茶々さん、こんにちは。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%B3%95
ここに書いています様に日本はドイツ法だけでなく、フランス法、英米法の影響もあり単純にドイツ流ともいえないのです。
渡部昇一先生の本によりますと日本は外国の法律どころか今でも養老律令は有効なのです。つまり世界最古の憲法と言えるマグナカルタよりも古い憲法が残っています。こういう複雑さが日本の法律が幾通りにも解釈されることです。安保法制の議論もその一つと言えるでしょう。
でも大隈も伊藤もまだ外国に傾いていますね。だから小村寿太郎の条約交渉改正まで不平等条約が続いたと思います。
残念ながらまだ憲法が日本にあると言うのは両者とも気が付いていません。新渡戸も宗教教育に当たるのは何かという問いに答えられなかったようにこの時代は混乱していたのでしょう。その象徴だと思いました。

投稿: non | 2015年7月21日 (火) 12時18分

nonさん、こんにちは~

沢山の情報、ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2015年7月21日 (火) 17時16分

茶々さん、こんばんは。
長々と書いてすみません。実は私は外書購読で西洋法制史を学びました。そこから啓蒙主義、ドイツの歴史法学の父のサヴィニーなどを習いました。
そうするとどうも単純に白か黒かが決められないのです。
韓流ドラマにもありましたが、薬草は薬にも毒にもなるので気を付けて扱わないといけないですが、法律は国の生命にかかわるので本当に気を付けないと良い法でも悪用されかねません。大変な事だと思います。
日本には養老律令等の律令、格式、武家諸法度などの武家法と言う伝統法、フランス法、英米法、ドイツ法、社会主義法が混じると言う世界に類がない国です。だから安保法案でも揉めます。明治の時だと革命みたいに変えたので、余計に路線で対立したでしょう。フランス系の板垣の自由党、イギリス系の大隈の改進党、政府と分かれています。日清戦争まで対立していました。よくまあ倒れなかったと不思議に思います。

投稿: non | 2015年7月22日 (水) 01時27分

nonさん、こんにちは~

法律は難しいですね~

投稿: 茶々 | 2015年7月22日 (水) 16時13分

私なりの明治14年の政変に対する印象ですが、やはり、大久保利通暗殺事件=紀尾井坂の変による影響が大きかったような気がします。何しろ、利通の死から、わずか3年後である上に、開拓使官有物払い下げ事件&憲法制定を巡っての内紛が、複合して起きた政変ですからね。仮に、利通が暗殺されなかったら、当然かもしれませんが、内務卿として、開拓使官有物払い下げ事件を上手に処理して、そのあとは、積極的に憲法制定にも力を注いだのではないでしょうか。あと、利通が暗殺されたからといって、政府が滅んだり弱体化することが全然なかったとしても、結局は、内紛が生じてしまったのは、明治政府が、まだ不安定だったからだと思います。

投稿: トト | 2015年8月21日 (金) 10時31分

トトさん、こんにちは~

大久保利通の暗殺は、影響あったでしょうね。
明治政府もまだまだ不安定だったと思います。

投稿: 茶々 | 2015年8月21日 (金) 14時54分

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