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2008年11月29日 (土)

黒田如水~ジッチャンの目薬で先を見る目を養った?

 

天文十五年(1546年)11月29日、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛孝高が誕生しました。

・・・・・・・・・

あの竹中半兵衛(6月13日参照>>)と並んで、豊臣秀吉名軍師として名高い黒田官兵衛孝高(よしたか)・・・後に、剃髪して名乗った如水(じょすい)という名前が有名なので、本日は如水と呼ばせていただきますが、彼らが称される軍師という職業は、現在の私たちが抱くイメージとはちょっと違います。

現在の軍師のイメージは、おそらく三国志諸葛孔明の影響なのでしょうが、実際には、日本では、諸葛孔明のような軍師とは、ちと違う感じです。

以前も、山本勘助のところで書かせていただいたのですが(5月23日参照>>)、日本における軍師というのは、必勝祈願を行ったり、出陣の儀式を仕切ったり、「明日は運勢が良いので、明日出陣しましょう」なんていう占い師のような仕事が主で、どこから攻めるなどと進言する時も、それは、風水の方角の吉凶を根拠にしての発言で、軍事的な作戦というものではありませんでした。

如水や半兵衛の場合は、確かに武勇で名を馳せたというよりは、その智謀によって作戦や戦術を発案したり、主君の相談役になったりという事ではありますが、実際に、自ら兵を率いて出陣して戦場に行きますので、あくまで、軍師<武将という事になりますが、大きく間口を広げれば、軍奉行与力といった人たちも軍師の部類に入るので(10月7日参照>>)、間違いではありません。

ところで、本日の主役・黒田如水さん・・・ドラマなどでは、大抵、秀吉を通じて織田信長の傘下となった頃から登場し、あの荒木村重の謀反(5月4日参照>>)での説得役としてスポットと浴びる事もあり、何かと、幼い頃を想像し難いのですが、それこそ、いきなりオッサンで生まれてくるはずはなく、誰にでも子供時代というものがあるわけで、本日は、その信長傘下となるまでの事を少し書かせていただきます。

・・・とは言え、如水さんはともかく、その先代・先々代となると、史料も少なく、あくまで「・・・と言われている」という類のものではありますが・・・

如水の生まれた黒田家は、近江(滋賀県)北部の黒田村(木之本町)の出身で、近江源氏の流れを汲むお家柄・・・ひいお爺ちゃんの黒田高政は、第10代室町幕府将軍・足利義稙(よしたね)に仕えていたものの、その命令に反したため、一族郎党を連れて、逃げるように備前国(岡山県)邑久郡(おくぐん・瀬戸内市)に移り住んだと言います。

やがて、祖父・黒田重隆(しげたか)の代になって播磨(兵庫県)小寺氏の家臣となり、その実力でみるみる出世し、小寺氏の城の一つであった姫路城の城代を任されるほどの重臣となります。

この重隆という人は、夢に出てきた目薬を、実際に作って売り出して大儲けをしたというアイデア商売人でもあったらしいのですが、後に如水と九州での勢力を二分する薩摩(鹿児島県)島津家が、如水に「目薬屋」というニックネームを着けているところからみても、その夢の話はともかく、目薬が大ヒット商品となっていた事は確かでしょうね。

そして、その重隆の後を継いだのが黒田職高(もとたか)・・・如水は、この職高の息子として天文十五年(1546年)11月29日に生まれます。

この頃には、職高は、小寺氏の家老にまで出世していて、主君の小寺政職(まさもと)からの信頼もあつく、小寺姓を賜って小寺職高と名乗っていました。

やがて、幼いなりにもその頭角を現してくる息子に信頼をおく職高は、永禄十年(1567年)、22歳になった如水に家督を譲り、自らは隠居の身となります。

そんなこんなの天正三年(1575年)、長篠の合戦(5月21日参照>>)武田勝頼を破った信長が、いよいよ天下統一へと動きはじめ、、徐々に、その勢力範囲を拡大してくる事になります。

西の毛利と東の織田の2大勢力に挟まれる形となった如水らの播磨・・・小大名でしかない小寺氏は、毛利につくか織田につくかで家中は騒然となるのですが、やはり、主君・政職をはじめ、多くの家臣は、毛利につく事を提案しますが、その中で、如水ひとりが、織田の傘下となる事を主張します。

どうやら、この時、すでに水面下で秀吉と接触していた如水は、信長の実力を見抜いていたようですね。

やはりそのスルドイ心眼は、ジッチャンの目薬のおかげ?

如水は、毛利に傾く家中において、秀吉から聞いた信長の話を、主君らにとくとくと話して皆を説得し、小寺氏は、信長の傘下となる事に決定しました。

この小寺氏の織田傘下の表明には、如水自らが信長のもとへと赴いて直接報告し、信長は大いに喜ぶとともに、そんな如水の事を大変気に入って、愛用の刀を授けたのだとか・・・

かくして、その信長の命で、中国の平定を担当する事になった秀吉とともに、彼は、西の最前線で、その智謀と戦略を大いに発揮する事となるのです。
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2008年11月28日 (金)

月山富田城・開城~山陰の雄・尼子氏の敗因は?

 

永禄九年(1566年)11月28日、すでに毛利元就の攻撃に耐え切れずに降伏を表明していた尼子義久月山富田城を開城しました。

・・・・・・・・・

先代・尼子晴久の死(12月24日参照>>)によって、山陰の雄・出雲(島根県)の尼子氏を継いだ若き当主・尼子義久・・・しかし、この当主交代を絶好のチャンスと見たのは、中国地方に君臨した名門・周防(山口県)大内氏を滅ぼし、今や中国地方全土を手に入れようとする安芸(広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

永禄八年(1565年)4月20日に毛利によって開始された、尼子氏の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)への攻撃・・・『富田三面作戦』と称された伝説の総攻撃にも絶えた城でしたが、やがて、兵糧の補給路を断たれ、万策つきた当主の義久は、翌・永禄九年(1566年)11月19日、自らと弟の倫久(ともひさ)秀久3名の助命と、家臣の領土の安堵を条件に、毛利に対して降伏を表明し、11月21日には、元就がその条件を約束しました(11月21日参照>>)

かくして永禄九年(1566年)11月28日月山富田城は開城されたのです。

この時、元就の息子たち・吉川元春(きっかわもとはる・次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ・三男)の兄弟は、「その約束をほごにして、尼子氏を滅亡させるべき」と、父・元就に詰め寄りましたが、元就は「相手が生きたいって言うてる時は、その命を取らへんのが大将っちゅーもんやと、断固として譲らなかったと言います。

その代わりに、この尼子三兄弟から「2度と毛利には刃向かいません」との起請文を書かせています。

この開城の時点で、月山富田城に残っていた尼子の家臣は、わずか140人ほどだったそうですが、もちろん、その中には、あの山中鹿之介(鹿介)もいました。

やがて、毛利の本拠地である安芸へと送られる尼子三兄弟・・・家臣たちの「主君を最後まで見送りたい!」という希望は叶えられる事なく、鹿之介らは散り々々に、どこへともなく去っていきました。

12月14日、元就の居城・郡山城にほど近い円妙寺に送られた尼子三兄弟・・・元就の孫・毛利輝元豊臣秀吉の傘下となる天正十七年(1589年)まで続く事になる彼らの幽閉生活は、大変厳しいもので、旧家臣に会う事はいっさい許されず、面会に訪れた者たちは、全員、その場で斬り捨てられたと言います。

また、もう一つの約束であった、尼子家臣の所領の安堵は、ほとんど守られず、先の面会者の斬り捨てとも相まって、この二つの事は、後に鹿之介が、尼子勝久(京都で僧になっていた尼子氏の生き残り)を担いで再起する時、その一声で、6000もの尼子の残党が集まってしまうような遺恨を残す事にもなってしまったワケですが、そちらのお話は、7月3日のページ>>でご覧」いただくとして・・・

ところで、山陰の雄とうたわれた尼子氏が、なぜ?滅亡してしまったのか?

もちろん、先代の晴久の死によって、突然、当主となった義久が、まだ21歳という若さであった事や、一方の元就が、酸いも甘いも噛み分けた、しかも、大内氏を倒しての上り調子である事もあります。

また、広大な領地を配下に治めていた感のあった尼子氏ですが、直轄の本領は意外に少なく、ほとんどは、傘下となっている国人たちの領地・・・つまり、どちらかというと連合国のようなもので、それらの国人たちは、尼子氏が強力であるが故に、傘下となっているのであって、いざという時は、簡単に敵側の傘下となってしまう存在であったというような事があげられます。

そして、もう一つ、尼子氏には、武勇に優れた『新宮党(しんぐうとう)という精鋭部隊がいたのですが、彼らが、先代の晴久の代に潰されてしまった事が、いわゆる片翼をもぎ取られたような形となってしまったという事が考えられます。

しかも、その新宮党壊滅の原因は元就の謀略にあるのだとか・・・

その新宮党というのは、晴久の祖父・経久(つねひさ)の代に枝分かれした尼子の支族で、当時は尼子国久と、その息子・誠久(さねひさ)が中心にいて、合戦のたびに功績をあげていたのです。

そこで、元就は、自国の死刑囚を一人呼びつけ、
「敵国へ使いを頼みたい・・・危険な仕事やけど、そのかわり成功したら、罪を許したる」
と、手紙を一通渡します。

渡された男は、何と言っても死刑囚ですから、このままじっとしていても100%死が待っているわけで、いくら危険と言っても、何%か助かる可能性のあるコチラの話に乗ったほうが得なのは、すぐにわかります。

男は、巡礼姿に身を包み、いざ、敵国・尼子の領内へ・・・

ところが、領内に入ったところで、強盗の仕業に見せかけて、元就の家臣が彼を殺害・・・当然、見つかった死体は、尼子領内の役人が調べを行う事になりますが、その被害者のふところを探ってみると、あの元就の手紙が・・・

そこには、
「約束通りに、晴久ちゃんを殺っちゃってくれたら、出雲と伯耆(ほうき・鳥取県)と石見をあげちゃうよん!」
と、書かれてあり、宛名は、あの国久・・・

この手紙の発覚で、国久の謀反を確信した晴久は、天文二十三年(1554年)1月1日・・・自ら出陣し、彼らの一族を根絶やしにしたのです。

ただし、上記の元就の謀略の話は、いわゆる軍記物と呼ばれる、今で言うところの「事実をもとにしたフィクション」のようなものに書かれている事なので、どこまで信じられるかアヤシイ部分もありますが、ここで、新宮党が壊滅するのも事実で、それによって、元就が尼子を攻めやすくなるのも事実ですから、このような形ではないにしろ、何らかの策略を張りめぐらせていた可能性は大です。

ちなみに、この時、晴久に追われて討死した誠久の幼い息子が、命からがら京都へと脱出するのですが、その子が、後に鹿之介が、後継者として担ぎ上げ、尼子氏の再興をはかる勝久です。

こう考えると、若い義久が当主となった時・・・というよりも、その少し前から尼子氏の終焉が見えていたのかも知れませんね。
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2008年11月27日 (木)

高杉晋作が作った奇兵隊~維新後の悲しい結末

 

明治二年(1869年)11月27日、奇兵隊をはじめとする長州藩の諸隊に、解散命令が出されました。

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文久三年(1863年)5月の関門海峡に停泊中のアメリカ商船への砲撃(5月10日参照>>)を皮切りに、攘夷に踏み切った長州(山口県)・・・。

そんな長州藩の藩主・毛利敬親(たかちか)から、下関の防備の強化を任された高杉晋作新たな軍隊を結成したのは、翌月の6月7日でした。

幕藩体制下の武士で組織される正規軍とは違い、武士に限らず、農民や町民などから広く参加を募り、実力主義で運営されるこの軍隊『奇兵隊』と名付けられました。

・・・と言っても、戦国時代にあった半士半農のような有事にのみ戦闘員となるものではなく、正式に藩の統制下に置かれた常備軍で、その給料も充分なくらい藩から支給されるプロの軍隊だったのですが、上記のように、初めて武器を手にする者も多く含まれていますから、その訓練も、その統制をとるための規律も大変厳しいものでした。

剣術や銃・大砲などの軍事的な訓練の他にも、読み書きや秩序正しい行いなど、未だ、ちゃんとした教育を受けた事がない者にとっては、学校の役目をも果たすようなものだったそうです。

最初の総督となった高杉は、正規軍とのモメ事で、わずか3ヶ月で、総督を辞任しますが、その後も奇兵隊は、冒頭に書いた攘夷決行の結果として起こった下関戦争(8月8日参照>>)でも重要な役割を果たしました。

さらに、分裂していた長州藩を一つにまとめるべく起した、高杉の功山寺での挙兵(12月16日参照>>)にも、一部の兵士が参戦し、その名を大いに高めました。

その頃には、すでに奇兵隊に続いて、有志による様々な軍隊が次々と結成されていて、ごく短いものも含めると、その数は160にも及んだと言います。

有名なところでは遊撃隊というのも、この時期に結成された軍隊です。

やがて、戊辰戦争(1月2日参照>>)の時には、いくつかの部隊に再編制され、幕府の大軍相手に大活躍し、官軍を勝利へと導きました。

ところが、いざ、維新が成ってしまうと、突然、彼らは不要な存在となってしまうのです。

当然と言えば当然ですが、平和な時代には、そんなに沢山の兵はいりません。

かくして明治二年(1869年)11月27日、藩知事の毛利元徳(もとのり)は、元奇兵隊を含む諸隊を、第1大隊~第4大隊の常備軍として再編制する事を発表します。

しかし、蓋を開けてみると、これは完全なリストラ。

編制後の新部隊に残れるのは、5000人ほどの中の約2000人ほど・・・しかも、もともと、身分に関わらず結成され、実力主義でのし上がっていけるはずだった奇兵隊と諸隊に、いつの間にやら家柄での格差が・・・。

確かに、伊藤博文山県有朋(やまがたありとも)のように、武士階級でも底辺の低い身分から、新政府の要職についた人もいましたが、それこそ、ごく一握りです。

結局は、身分の格差がイコール幹部と一般兵士の格差となってしまっている現状・・・しかも、首を切られるのは階級の低い兵士ばかりで、その後の彼らには何の保障もありませんでした。

不満がつのるのは当然です。

怒った一部兵士は脱走し、近くの農民たちの一揆と結びつき、藩に対して反乱ののろしを上げ、山口県庁を包囲します。

この知らせを受けた木戸孝允は、早速、現地に向かい、鎮圧軍の総指揮官となって、乱の収拾にあたり、翌・明治三年(1870年)2月、反乱は終結を迎えます。

多くの兵士が死に、生き残って捕らえられた者のうち133名が処刑され、遺体はそのままうち捨てられて、遺族は墓を造る事さえ許されない状況だったそうです。

首謀者とみられた大楽(だいらく)源太郎も、翌年、久留米にて殺害され(3月16日参照>>)、運良く逃げのびた者も、その後、10年に渡って指名手配され、過酷な逃亡生活を送ったと言います。

新政府のため、現地に向かった木戸・・・潰す相手は、かつて、桂小五郎と名乗っていた不遇の時代に苦労をともにした高杉の作った奇兵隊の生き残り・・・

九死に一生を何度もくぐり抜けてきたであろう彼も、維新を見る事なく散っていった同志へ、このような未来を見せたくはなかったはずです。

悲しい結末を迎えた奇兵隊・・・心が痛みます。
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2008年11月26日 (水)

姉川の後に・・・信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い

 

元亀元年(1570年)11月26日、織田信長VS浅井長政・朝倉義景連合軍による『堅田の戦い』がありました。

・・・・・・・

元亀元年(1570年)6月28日の姉川の合戦(6月28日参照>>)で、近江(滋賀県)浅井長政越前(福井県)朝倉義景の連合軍に勝利した織田信長は、「このまま、長政の本拠地・小谷城を攻めるべきでは?」との家臣の進言を振り切り、小谷城の近くの虎御前山(とらごぜんやま)に築いた砦と横山城(滋賀県長浜市)木下(豊臣)秀吉に守らせただけで、それ以上の深追いをする事はありませんでした。

京都へと戻る道すがら、姉川の戦場から逃げ帰った磯野員昌(いそのかずまさ・浅井の家臣)らが籠る佐和山城(滋賀県彦根市)丹羽長秀(にわながひで)らに囲ませ、自らは、7月4日に京都へ入り、将軍・足利義昭牽制をかけます。

しかし、この時期は、その義昭の呼びかけによって、まさに信長包囲網が敷かれた頃・・・まわりは、もう、敵ばっかりです。

信長上洛の時に追いやられていた三好一族(9月29日参照>>)は、阿波(徳島県)を出て摂津(大阪府)に集結して牽制をかけ(8月26日参照>>)、その戦いに、ご存知、本願寺顕如(けんにょ)が参戦して(9月12日参照>>)、全国の信徒に「打倒!信長」を呼びかけ、以後、近江での一向一揆も活発になります(9月3日参照>>)

しかも、これに気をよくした浅井・朝倉軍が態勢を立て直して、琵琶湖の西岸を、いざ!京都へと向かってきます。

9月19日・・・琵琶湖のほとり・坂本まで迫り来る浅井・朝倉軍に宇佐山城(滋賀県大津市)を守る森可成(もりよしなり)は、信長の弟・信治とともに、わずかの兵を率いて撃って出ますが、奮戦空しく、その半数ほどが討死するという悲劇の敗北となります(9月20日参照>>)

この二人の死に、さすがの信長も、畿内に散らばっていた兵を京都に集結させ、急ぎ、3万の軍勢を整えて、坂本方面へと向かわせます。

これに気づいた浅井・朝倉軍は、比叡山に逃げ込み、当然のごとく彼らを保護する延暦寺・・・追う信長は、延暦寺に武装解除して中立の立場を取るように呼びかけますが、延暦寺はこれを拒否。

さらに、10月には、朝倉義景自らが、新たな2万の軍勢を率いて越前から駆けつけるという事態になり、こうなったら衝突必至・・・信長自身も、かの宇佐山城に入って、ここでの決戦を決意し、準備します。

かくして元亀元年(1570年)11月26日、地元の土豪を味方につけた信長の重臣・坂井政尚(まさひろ)が、まずは先鋒として堅田の砦に入ります。


大きな地図で見る

堅田は比叡山の北東・・・ここを押えられては、朝倉は福井に戻れません。

地元の一向一揆と連携した朝倉軍は、即座に、この堅田砦に奇襲をかけるのです。

砦に入って間もなくの奇襲・・・しかも、守る政尚の持つ兵が、わずかに1000では、とても押えきれず、この日の戦闘では、政尚以下、多くの死者を出してしまいました。

その後も、小競り合いを続けていた両者でしたが、もはや、信長の周囲は包囲しつくされて身動きがとれない状態・・・一方の義景も、雪深い故郷・越前の事を考えると、この状況のまま冬を迎える事は避けたい・・・。

しかも、信長&義景の思惑も去ることながら、都の近くでドンパチやられては、天皇や公家にとっても、安心して正月が越せないというモンです。

・・・よって、12月14日、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下され、一応の講和が結ばれました。

一応・・・というのは、この和睦は、年が明けて、すぐに破られる事になるからです。

実は、先に、丹羽長秀が囲んでいた佐和山城・・・和睦が成った後も、横山城にいた秀吉が、「佐和山城はこの長秀の囲みで陥落し、城主の磯野員昌は信長の傘下になった」とのウソ情報を、近江一帯で流し続けていたのです。

その情報を信じた長政は、籠城を続ける佐和山城への兵糧の補給を断ち、自らの家臣を、自らの手で窮地に追い込んでしまっていたのですが、やがて、2月・・・いよいよ兵糧に困った員昌が、「部下もろとも飢え死にするくらいなら」と、自ら佐和山城を開城し、本当に信長のもとに走ってしまったのです。

やりました信長さん!
佐和山城は、琵琶湖の東岸・・・これで、本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した事になります。

ただし、先ほども言いましたように、現在のところ、信長の敵は、浅井・朝倉だけではありません。

途中、長島の一向一揆(5月16日参照>>)、そして、あの比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)、さらに、未だプライドを捨てない足利義昭との関係(4月4日参照>>)などなどを、一つずつ崩しながらも、シーソーゲームを繰り返していた浅井・朝倉との戦いに終止符を打つべく、信長の巻き返しが始まるのは、2年後の天正元年(1573年)8月の事でした(8月14日参照>>)
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2008年11月25日 (火)

毛利元就の三矢の訓え・・・その願いは?

 

弘治三年(1557年)11月25日、毛利元就三人の息子に教訓状を送りました

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先日の毛利秀元さん誕生のページ(11月7日参照>>)でも書かせていただきました、毛利元就(もうりもとなり)の逸話の中でも、超有名な『三矢(さんし)の訓(おし)え』・・・。

三人の子供たちに矢を折らせて、「1本なら簡単に折れる矢も、3本なら折れ難い」と、家族の結束がいかに重要であるかを説いたというものです。

そのページでも、このお話が後世の創作(前橋旧蔵聞書)であるという事とともに、まったくのウソではなく、そのもととなった元就が三人の息子に送った書状がある事を書かせていただきましたが、その『三子(さんし)教訓状』なる書状を送ったのが弘治三年(1557年)11月25日なのです。

これは、14か条からなる箇条書きの、いわゆる家訓なのですが、その全文はwikiなどで見ていただくとして、最も有名な、その逸話のもととなった部分は・・・

“三人の半(なかば)、少(すこし)にてもかけごへだても候(そうら)はば、ただただ三人御滅亡と思召(おぼしめ)さるべく候々(そうろう)

この「かけご=懸子」というのは隔たりを持たせる壁の事で、要は「三人の間に少しでも壁が生じたら、三人とも滅亡するよ思え」って事です。

この書状を受け取った三人の息子たちは、すぐに連盟の起請文を差し出して、その意向に従う事を誓ったのです。

時に元就61歳・・・三人の息子は、長男・毛利隆元(たかもと)35歳、次男・吉川元春(きっかわもとはる)28歳、三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)25歳でした。

この書状を書いた翌年に、元就は長男・隆元に家督を譲りますが、その隆元はその4年後に亡くなってしまいますので(8月4日参照>>)、実質的には、この家訓は、その息子・・・つまり、元就の孫の輝元(てるもと)に引き継がれる事になるのですが、元就が、これだけ家族の結束を強調するのも、このタイミングで書状を出すのも、もちろんですが理由があります。

実は、元就には、家督争いで弟を殺害したという過去があります。

もともと、元就には兄・興元(おきもと)がいましたので、若い頃は毛利家の家督を継ぐ事など考えてもいなかったのですが、その兄が24歳という若さで亡くなってしまい、その遺児も幼くして病死した時の事でした。

その頃、出雲(島根県)尼子氏周防(山口県)大内氏の2代勢力挟まれていた毛利氏は、あっちへ着いたりこっちへついたり・・・そんな毛利のかく乱を狙って、尼子氏が、元就の異母弟・元綱を焚きつけたのです。

尼子氏の術中にハマッた元綱と彼を擁立する家臣が、元就殺害計画を立てたため、元就は、自らの手で、弟を始末し、大内氏の傘下となりました。

しかし、そんな一大勢力を誇っていた大内氏も、その家中のゴタゴタから、家臣・陶晴賢(すえはるかた・隆房)にクーデターを起され、実権を握られたばかりか(8月27日参照>>)、その内紛に乗じて、元就自身がその晴賢を厳島の戦い(10月1日参照>>)で倒して、彼に擁立されていた大内義長を自刃に追い込んだばかりだったのです(4月3日参照>>)

そう、この書状を息子たちに送ったのは、大内氏を滅亡させ、山陽の戦国大名のトップに躍り出た、まさに、その年だったのです。

確かに、長男の隆元は、愚将というほど悪くはないのだけれど、いたって普通の武将・・・先の陶晴賢のクーデターの時にも、情に走って「大内へ援軍を出す!」と騒ぐ隆元と、「出さない」という元就の間で、大モメにもめた事もありました。

智謀に長けた元就から見れば、「こいつに家督を任せていいものか?」と悩んでいた事も事実だったのです。

そんな元就からの目線では、三人の息子の中で、一番、武将としての器量が良いと睨んでいたのは、小早川家に養子に出した三男・隆景だったようです。

もし、家臣たちの目にもそのように見えているとしたら、いつなんどき、隆景を担ぎ上げて家中を騒がす輩が出ないとも限りません。

しかも、成長したとは言え、もともと毛利は大内の傘下にいた土豪に毛の映えたような国人・・・未だ、周りには、同じように大内氏の傘下だった国人たちが、そんな内紛をてぐすね引いて待っているかも知れません。

さらに、ここにきて、その隆景と吉川家に養子に出した次男・元春が、あまり毛利家の本拠地に長く滞在する事がなくなってきていたのです。

もちろん、これは兄弟に亀裂が走ったというのではなく、もともと他家を乗っ取るために養子に出した弟たちですが(9月27日参照>>)、その家の当主ともなれば、自国の領内を治める仕事も多々あるわけで、単に、それらの政務を優先していただけなのですが、今まさに、名門・大内氏の内紛による自滅を目の当たりにし、長男の自虐、弟たちの独立を垣間見た元就は、「このままでは、アカン!」と思ったのでしょうね。

よくよく見れば、この書状・・・教訓というよりは、元就の願いのようにも思えます。

謀略に謀略を重ねて、相手のミスに漬け込んで、たった一代で、山陽一の大名にのし上がった元就だからこそ、息子たちの周りに満ち溢れる謀略を一番、心配していたのかも知れません。

ただし、元就さん・・・
この書状を見てみますと、さすがに隆元は長男なので別格になってますが・・・
「隆元之事者隆景元春をちからにして・・・」
とか・・・
「又隆景元春事者、当家他に堅固に候はゝ・・・」
とか・・・

二人が同時に登場するところで、本来ならすべてを次男の元春を先に書かないといかないと思うんですが、半分は、次男の元春より三男の隆景の名前を先に書いちゃって、隆景推しなのがバレバレなんですけど・・・

でも、元就さんの事ですから、ひょっとして、わざと、こう書いたのかも知れませんが・・・(同等という事かも)

その気持ちを察したのか、次男の元春・・・彼が、決して、兄貴の権力を振りかざす事なく、見事2番手に徹してくれたおかげで、少々危なかった元就の死の前後も、その教訓は、かろうじて守られたような気がします。
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2008年11月24日 (月)

信長を一番困らせた男~本願寺・顕如

 

文禄元年(1592年)11月24日、浄土真宗・本願寺の第11代法主(ほっす)顕如が50歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

考えて見れば、あの織田信長を一番悩ませた人は、当時、群雄割拠していた戦国武将ではなく、この顕如(けんにょ)だったのかも知れませんね。

浄土真宗の中興の祖・第8代の蓮如(れんにょ)の時代に大きく信徒を増やした真宗は、蓮如がいさめるにも関わらず、長享二年(1488年)6月、加賀一向一揆を起し、武士の支配下とならない百姓の持ちたる国を誕生させました(6月6日参照>>)

以来、武力を持つ巨大な集団は、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら・・・第10代・証如(しょうにょ)の頃には、「戦って討死した者の極楽浄土は間違いない!」というような考えが蔓延し、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンのもと、各地に巨大な信徒の都を造りあげていました。

その証如の時代に、本願寺は、京都・山科から、大坂・石山(現在の大阪城公園付近)へと本拠地を移し、堀をめぐらし土塁を築き、大阪湾のデルタ地帯に、一大自由都市として出現するのです。

Isiyamahonganzimokei330 石山本願寺(模型)

天下統一を狙う信長にとって、支配下に治まらない自由都市はあってはならない物・・・宗教が政治に圧力をかける事もあってはならない物・・・

やがて、証如の後を継いだ第11代・顕如は、ことごとく対立する信長を仏敵とみなし、元亀元年(1570年)8月、「打倒!信長」を、諸国の信徒に呼びかけるのです。

10年にわたる石山合戦の勃発です。

各地から信徒たちが、続々と石山本願寺に集結するとともに、越前(福井県)長島をはじめ、各地で大規模な同時多発一揆。

特に長島一向一揆では、信長の弟・信興が一揆衆の攻撃によって自刃に追い込まれただけでなく、信長自身もが命の危険を感じるという、最大のピンチを経験しています(5月16日参照>>)

さらに顕如は、信徒だけでなく、奥さん・如春(にょしゅん)の姉が武田信玄の正室・三条の方であるという戦国武将の政略結婚さながらのパイプを使って信玄をも動かし姉川の合戦(6月28日参照>>)で信長に負けた浅井・朝倉とも連携し、越後の上杉とも和解して支援を求めます。

Nobunagahouimouisiyama 以前、長島一向一揆のページにupした図ですが・・・

西国の雄・毛利などは、わざわざ大量の水軍を動員して、海からの兵糧補給に努める大サービス!

信長にそのプライドをズタズタにされた15代将軍・足利義昭がらみとは言え、信長を360度取り囲むこの包囲網を造りあげるあたりの顕如さん、僧侶にしておくのはもったいないくらいの大した政治力です。

もはや、信長も風前のともしび・・・・と思いきや、やがて、信玄と謙信が亡くなり、大阪湾での海上戦に毛利が敗れた(11月6日参照>>)頃から、徐々に形勢が逆転しはじめます。

海上が信長に制圧されてしまっては、さすがの石山本願寺も、いずれ飢えが訪れる事は必至・・・ちょうど、そのタイミングで、信長から正親町(おおぎまち)天皇を通じての、講和が持ちかけられます。

信長とて、すべての敵を一度に相手にすれば己が危ない・・・一つ一つ個々にケリを着ける作戦に路線変更したのです。

天正八年(1580年)3月17日、顕如は、7月までに本願寺を明け渡す約束で、信長との講和を成立させ、ここに石山合戦が終了しました。

約束に従って、顕如は、4月9日に本願寺を退去し、紀州(和歌山県)鷺森(さぎのもり)へと身を寄せましたが、顕如の長男・教如(きょうにょ)は、なおも、本願寺内に居座りつづけ、各地の信徒に戦い続けるよう檄文を送ります。

対して、顕如は、各地の信徒に「戦いをやめよう」との手紙を送り、従わない教如に代わって、弟・准如(じゅんにょ)を、自分の後継者に指名します。

ただし、この親子の反目には、本当は芝居だったというウワサもあります。

つまり、ともに信長のその後の行動に不審を持っていた二人が協力して・・・
父・顕如が先に本願寺を出て信長の様子を見ぃ~の、教如が期限ギリギリまで踏ん張りぃ~の、牽制しぃ~ので、講和を守らせようとした・・・というのです。

本当のところは、藪の中ですが、結果的に講和は守られ、教如は期限ギリギリの4ヶ月後に本願寺を退去・・・8月2日に信長に引き渡されました。

しかし、この引渡しの前後で失火が起こり、石山本願寺は炎上してしまいます。

しかも、こうまでして手に入れた石山本願寺の跡地に、何の手を加える事もないまま、信長は2年後の本能寺の変で亡くなってしまいます。

その後、天下を取った豊臣秀吉と、顕如は良好な関係を築き、引き籠っていた紀州から、和泉・願泉寺へとその身を移しますが、この時期に、あの徳川家康が動きます。

それは、以前、三河領内で起こった一向一揆(9月5日参照>>)で、手痛い目に遭った家康が、それ以来、領内で浄土真宗を禁止にしていたのを、突如として禁制を解除したのです。

おそらく、秀吉と本願寺が、あまりに親密な関係になる事を恐れたものと思われますが、これは、あまり効果がなかったようですね・・・。

なぜなら、その後、秀吉と家康の間で勃発した、あの小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)の時に、その武力に期待して、家康は顕如に支援を求めますが、顕如はあっさりと断っています。

そのおかげか、一旦、大坂・天満に移っていた顕如は、天正十九年(1591年)1月19日に、あの山科本願寺以来(8月23日参照>>)の京都、しかも七条堀川という一等地に広大な土地を、秀吉から寄進して貰い、ここに本願寺を再興するのです。

これが、現在の西本願寺・・・・。

しかし、その伽藍造営中の文禄元年(1592年)11月24日顕如は、新しい本願寺を見る事なく、50歳でこの世を去りました。

・・・で、完成した本願寺で第12代法主となったのは、教如・・・って、顕如さんは、あの時に、「弟の准如を後継者に・・」って、言ってなかったっすかぁ?

そうなんです。

ここで勃発しちゃうのが、後継者問題・・・結局、ここで二つの派閥に分かれてしまった事で、本願寺には、西本願寺と東本願寺があるわけですが、そのお話は、1月19日のページでどうぞ>>

ちなみに、このページでも散々、一向一揆、一向一揆と言ってますが、実は、浄土真宗と一向宗は、別物・・・本当は、・・・と、これも別のページで書いていますので、そのお話は11月28日のページでどうぞ>>
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2008年11月23日 (日)

勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事?

 

11月23日は勤労感謝の日という祝日です。

勤労感謝の日は、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」日なのだそうですが、もともと戦前は、この11月23日は新嘗祭(にいなめさい)という祝日で、その新嘗祭の日付をそのまま、勤労感謝の日といふうに改めたものなのです。

新嘗祭の「嘗」という字は、中国の秋の祭りを意味する文字で、『古事記』『日本書紀』に登場する「爾比那閇」「爾波能阿」の文字を、「新嘗」に置き換えたもの・・・もともと「ナメ」という言葉が「食する」とか「試みる」とかの意味を持っているそうなので、要するに、新嘗祭とは収穫祭の事で、その秋に収穫された新しい穀物を神前に供えてともに喜び、祭典や祝宴を開いて、それを食するお祭りだったわけです。

しかし、昔から新嘗祭という名称で、この行事が行われてきたのは宮中で、天皇自らが行う新嘗と関連の神社で行われる新嘗祭があって、一般庶民が行うこの行事の事は「田の神祭り」「猪の子祭り」「十日夜(とおかんや)」「刈り上げ祭り」などと呼ばれていたのです。

戦前は新嘗祭だったのが、戦後に勤労感謝の日に変わるのは、そこンとこが引っかかったのかもかも知れませんが、まぁ、もともと農耕民族だった日本にとって、昔は、労働と言えば、イコール農業に従事する事でしたが、現在は、ありとあらゆる労働があるわけで、そのすべての成果に感謝するとすれば、農業における収穫だけではなく、「すべての労働、すべての生産に感謝する」という意味の勤労感謝の日っていうのも悪くはないでしょうね。

ところで、その新嘗祭・・・もともとは、毎年、旧暦の11月の2回目の卯(う)の日に行われていたのを、明治五年(1872年)の太陽暦が採用された時(11月9日参照>>)に、そのまま新暦に置き換えて新嘗祭を行うと、翌年の1月になってしまうため、それならば・・・と、新暦の11月の2回目の卯の日に行う事になり、それが、たまたま11月23日だったので、その年から、新嘗祭は11月23日に行われるようになったそうです。

wikiをはじめ、多くの新嘗祭の解説で・・・
「たまたま、日本が太陽暦を導入した年の11月の2回目の卯の日が11月23日だったために、その日が新嘗祭と決定されたが、11月23日という日付自体には深い意味がない」
とされているところが多いのですが、どうやら、そうではないかも知れませんよ。

11月23日は、昔からけっこう重要視されていた日付だったのです。

・・・・・・・・・・・・・

現在、一年のスタートの日・・・と言えば、お正月

この正月は、今でも「新春」「初春」なんていう挨拶をする事でもおわかりのように、一年を24に分けた二十四節季(10月8日参照>>)の立春の事で、現在の日付では、2月4日前後・・・あの「鬼は~外~」豆まきが、一年の邪気を祓う年末行事の名残り(2月3日参照>>)で、そうやって、昔は厄を祓ってから、新年(立春)を迎えていたわけですが、日本には、昔から、もう一つ、スタートの日と呼べる日があったんです。

それは、冬至・・・。

昨年、【えと・十二支の由来と意味】(11月9日参照>>)で書かせていただいたように、十二支は、もともと一年を12に分けた月の呼び名として生まれ、その場合は、冬至の日がスタートの日となります。

最初の月にねずみが当てられたのも、「陰と陽の分かれ道=すべてが0になって新しくスタートする」から・・・という事も書かせていただきました。

つまり、この冬至の日がゼロの日という事になります。

・・・で、今の太陽暦では、冬至は12月23日前後ですが、旧暦を見てみると・・・そう、これが11月23日前後なんですね~。

しかも、昔は、陰陽師や占い師ならともかく、一般庶民は、そこまで正確に暦を知っていたわけではないので、ほとんどの人が、11月23日を冬至と考えて行動していたのです。

その名残りが大師講だと言われています。

一般的には、11月23日の大師講の大師は弘法大師の事だと言われ、その忌日の24日に行われる事もありますが、以前、書かせていただいたように、この日は弘法大師が村にやってきて雪を降らせるという伝説(2007年11月23日参照>>)の日でもあり、ご紹介した丹波以外に、東北北陸にもこの弘法大師の伝説が残っています。

また、慈恵大師良源の忌日(実際のご命日は1月3日です>>)でもある事から大師講の大師は慈恵大師とする説も、そして、中国天台大師(天台宗の開祖・知顗、智者大師とも)の大師だとも、さらに、職人さんの間では、大師がたいしとも読める事から聖徳太子の大師であるなどという様々な説がありますが、それだけ沢山の説あるという事は、イコールそれらの説が生まれるずっと前から、その日が「たいしの日」と呼ばれていた事を意味するのではないでしょうか?

おそらく、それらの説のおおもととなったのが、日本に仏教が伝わる以前から信仰されていた越年に福をもたらす冬至の神=大子神(おおいこがみ・たいしがみ)であったと考えられます。

つまり大師講の大師は大子神の大子?・・・

その昔、村々を訪れて収穫をもたらしてくれる大子神にめずらしい食べ物をお供えしてすべてをゼロにして新たなスタートを切る日が冬至=11月23日だったんです。

大子神信仰と新嘗祭・・・どちらも、その年の収穫を祝い、来年の収穫を願う行事・・・無縁ではないように思えます。

しかも、新嘗祭がはっきりと文献に登場するのは、皇極天皇元年(642年)の11月の2回目の卯の日で、残念ながら、この年は11月23日ではなく11月16日ですが、昔の新嘗祭では、前日に鎮魂祭(たましずめのまつり)という明らかに邪気を祓う行事が行われていて、新嘗祭が新年を祝う行事である可能性大です。

さらに、中国の唐の時代の『祠令』には、「天子は夏至に地神を祭り、冬至に天を祭る」とのくだりもあり、その中国の思想も、影響があったかも知れません。

・・・とは言え、新嘗祭が、そして現在の新嘗祭=勤労感謝の日が11月23日になったのも、偶然ではないかも知れない・・・という事は、心の隅に置いておいて、とりあえずは、本日の休日を、勤労に感謝しながら、楽しく過ごさせていただく事といたしましょう。
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2008年11月22日 (土)

徳川幕府・最後の将軍~徳川慶喜の晩年は?

 

大正二年(1913年)11月22日、徳川幕府最後のの将軍となった第15代徳川慶喜が亡くなっています。

・・・・・・・・・・

長州征伐の真っ最中に急死した、第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の後を継いで、慶応二年(1866年)12月5日に第15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)・・・しかし、その時、すでに薩摩と長州は同盟を結び(1月21日参照>>)、世は倒幕の嵐へと突入していました。

翌年の慶応三年(1867年)10月14日には、朝廷に政権を返す大政奉還(10月14日参照>>)を行い、何とか幕府の政治体制を維持しようとしますが、その2ヶ月後の12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)が出され、慶喜には内大臣の辞職と領地の返上が言渡されます。

衝突を避けるため、京都二条城から大坂城へ退去する慶喜でしたが、1ヶ月後の慶応四年(1868年)1月3日、『討薩ノ表(薩摩を攻撃するという意思表明の書状)を朝廷に提出すべく京都へと進む幕府の行列に、薩摩からの砲撃が行われ、ご存知、鳥羽伏見の戦いが勃発します(1月3日参照>>)

この戦いでの大敗を聞いて1月6日に大坂城を抜け出し、単身江戸城に戻った事で、先日の大河ドラマでも散々に叱責されていた慶喜さんですが、彼には彼の言い分があるようで・・・この事に関しては現在も賛否両論、一部では多大なる犠牲を避けた行為として評価される部分もあるようです(1月6日参照>>)

とにかく、こうして、鳥羽伏見に始まった戦いは、戊辰戦争と名を変え、やがて薩長率いる官軍は江戸に迫りますが、西郷隆盛(さいごうたかもり)勝海舟(かつかいしゅう)の会談によって、歴史的な江戸城無血開城が成されます(3月14日参照>>)

この時の慶喜は、ただただ恭順な態度をとり、すぐに江戸城を出て上野寛永寺に蟄居した事で、その命は奪われる事なく、故郷・水戸に戻って謹慎の生活を送る事になります(1月17日参照>>)

やがて、徳川の所領が駿河(静岡県東部)と決まったと同時に、徳川宗家を継いでいた第16代徳川家達(いえさと)(5月24日参照>>)居候という形で静岡に移住し、明治二年(1869年)9月には、彼への謹慎処分も解かれ、やっと将軍・慶喜としてのすべての役目を終えたのです。

将軍として過ごした、わずか2年足らずの波乱万丈な苦悩の日々・・・それ以後、慶喜が、歴史の表舞台に登場する事はありません。

普段の生活も、彼は自分の世界に引きこもり、ほとんど外出する事もありませんでした。

もちろん、将軍時代の事を人に語る事もなかったと言います。

ただ、もともと、多彩な趣味を持っていた慶喜さん・・・まだ、政治の世界に入るまでの一橋家にいた頃には、フランス語を学んだり、絵画や和歌・能などの芸術を好み、乗馬や狩猟にも興じていた大らかな時代もあった彼は、ここで、写真という趣味に出会います。

日頃は、人目を避けるようにひっそりと暮らしている彼ですが、写真撮影する時だけはフットワーク軽くあちこちへ出かけ、農作業をしている農民や、港に集まる漁師たちに気軽に声をかけ、その姿をカメラに収めたと言います。

彼が、日本で3番目の自動車購入者となったのも、ひょっとしたら、その写真撮影のアシとして利用したかったのかも知れませんね。

その後、徳川宗家とは別の公爵家として独立が許された明治十七年(1884年)からは、少しはましになりますが、それでも出歩くのは、ほとんど写真撮影の時だけでした。

やがて、維新の事が過ぎ去った過去の出来事と世間の認識が変わるにつれ、速やかに政権を返上し、恭順な態度で沙汰を待った慶喜への評価の声もではじめ、61歳になった明治三十年(1897年)からは、東京に移り住みますが、その後も、下町の長屋の子供たちなど、庶民生活を題材にした写真を撮り続けます。

当時人気だった『華影(はなのかげ)という写真投降雑誌に、何度も写真を投稿していたようで、その趣味に没頭していた様子が伺えますね。

そして、77歳になった大正二年(1913年)11月22日、政権を返上した明治天皇よりも長く生き、歴代の徳川将軍の中でも最も長命だった最後の将軍・慶喜は、肺炎を起してこの世を去ったのです。

「なんや~趣味に没頭して、悠々自適の老後で、けっこう幸せやん」
と思ってしまいますが、彼は、自らの心の内を語る事が、ほとんどありませんでしたから、その晩年に生活の中で、どのような心情であったのかを伺い知る事はできません。

ただ、少しだけ垣間見えるのは、この晩年の句・・・
♪取り分けて 言うべしふしは あらねども
   ただ面白く 今日も暮らしつ♪

何も報告するような事がない一日が、幸せだと感じる・・・

そこに、将軍という重荷を、生涯にわたって背負いつつ、自分への賛否両論を受け止めながら、されど多くを語らず、静かに亡くなっていった慶喜さんの苦悩が見え隠れする気がするのです。

その晩年が幸せだったかどうかは、彼の心の中のみに・・・
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2008年11月21日 (金)

結城秀康~その運命の分かれ道

 

天正十二年(1584年)11月21日、羽柴秀吉徳川家康の講和が成立し、小牧長久手の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、その後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)で、信長の孫・三法師を立てて自らが後見人となり、実権を握ろうとする羽柴(豊臣)秀吉に対して、納得がいかない信長の次男・織田信雄が、徳川家康を味方につけて秀吉に対抗した、一連の小牧長久手の戦い・・・

 小牧長久手の戦いの詳細はコチラで・・・
  ・犬山城・攻略戦>>
  ・羽黒の戦い>>
  ・長久手の戦い>>
  ・蟹江城・攻防戦>>

この中で、最初の犬山城攻略戦以外は、ほぼ勝利を収めていた信雄+家康連合軍でしたが、秀吉の人たらしの術中にハマった信雄が、単独で秀吉との講和を結んでしまい(11月16日参照>>)、肝心の担ぐ後継者がいなくなった家康は、その振り上げたこぶしを下ろすしかなく、天正十二年(1584年)11月21日家康も、秀吉との講和を成立させたのです

結局は、その後、秀吉の要請に応じて上洛し、その臣下となるわけですが(10月17日参照>>)、この講和を結んだ時、その条件として、秀吉のもとに人質として送られたのが、家康の次男で、この時10歳だった於義伊(於義丸)・・・後の結城秀康(ゆうきひでやす)です。

ご存知のように家康は、長男・信康を自刃に追い込んでいます(9月15日参照>>)から、本来なら、この秀康がその後継者となるべき息子だったわけですが・・・

・・・てな事で、本日は、この小牧長久手の戦いの講和によって、その運命が大きく変わる結城秀康さんについて書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

この時、運命が変わる・・・とは言いましたが、実は、彼が生まれた時から、その兆しともいうべきものはありました。

彼は、なぜか、家康に嫌われている・・・というか冷淡な扱いをされていたんです。

当時の家康の居城は浜松城でしたが、彼は、別の場所で生まれ、育てられています・・・いや、それだけではなく、3歳になるまで、一度も、父・家康に会った事がなかったんです。

まだ、長男の信康が健在の頃に、さすがに、この冷酷な仕打ちをかわそうに思い、彼のとりなして親子の対面が果たされた・・・それが、その3歳の時。

家康が彼に会わなかった理由としては・・・
自分の子供かどうか疑っていたとか、
顔がブサイクだったとか
(コレはヒドイ!)
正室の築山殿に気をつかったとか言われていますが・・・

秀康のお母さんは、その築山殿の奥女中をしていた於万の方・・・つまり、家康さんは、嫁の侍女に手を出しちゃったって事で、それで気をつかったのか?とも思えますが、それにしても、まだ妊娠中の間に、於万の方を重臣の本多重次(7月16日於参照>>)のもとに預けて、そのまま、そのお屋敷で出産して、その後も会おうとしないなんて、ちょっと冷たすぎやしませんか!って感じですね。

しかも、結局、人質として手放すんかい!と文句の一つも言いたくなりますが、秀康にとっては、この時、秀吉のもとへ行った事は、案外良かったのかも知れません。

・・・というのも、誇り高く、豪快で武勇優れた彼を、秀吉はたいそう気に入って羽柴秀康と名乗らせて、実子がいないぶん、本当の子供のように可愛がっていたようですから・・・。

その気持ちに答えるべく、秀康も、九州征伐小田原征伐朝鮮出兵と次々と大活躍・・・しかし、例のごとく、秀吉に実子・鶴松が生まれた事で、またまた彼の運命が変わります。

ここで、秀吉の勧めによって、下総(千葉県)結城晴友の姪と結婚して養子となり、結城秀康となったのです。

それでも、結城家は関東の名族ですし、その後継者として11万石を継いだのですから、そのまま秀吉のもとにいて、鶴松の母である、あの淀殿に、後々睨まれるよりは、よっぽど幸せっちゅーもんです。

やがて、秀吉が亡くなった後に、再び、彼が武勇を発揮できるチャンスが訪れます。

それは、あの関ヶ原の合戦・・・。

もともと、越後(新潟県)上杉景勝を征伐すると言って、畿内を後にした家康・・・その留守に乗じて石田三成が挙兵して始まった合戦ですから、その後、家康が決戦のために西へ戻るとなると、当然、その景勝に対する牽制も必要になります。

秀康は、関ヶ原に向かうのではなく、東国に残り、その牽制の役を任されます。

次男の秀康に上杉を任せ、三男の秀忠に大軍を預けて東山道を西に、自らは東海道を西へ・・・この家康の采配を、またまた秀康への冷遇とする見方もあるようですが、ここでの上杉対策は、地味ではありますが、徳川の本拠地である関東を守るという重要な役割ですから、そうとも言えないでしょう。

現に、この関ヶ原の合戦から、家康の彼を見る目が変わります。

ご存知のように、東山道を進んだ秀忠は、真田昌幸・幸村父子の守る上田城の攻略に手こずって(9月7日参照>>)肝心の関ヶ原の合戦に間に合わなかったという大失態を起してしまいます。

逆に、秀康は宇都宮城に入って睨みをきかして、上杉の南下を防ぐという任務を、見事に果たしました。

この時、家康は、すでに秀忠を後継者に決めていたにも関わらず、徳川家の家督問題について、新たに重臣たちに、その意見を聞いたとされています。

もちろん、秀忠より秀康を後継者にしたほうが良いのではないか?・・・という話です。

結局は、2代将軍は秀忠って事に変わりはなかったのですが、それは、やはり、他家を継いだ秀康をを後継者にといのはマズイ・・・というのと、関ヶ原に勝利した家康には、すでに天下が見えていますから、天下を取った後の事を考えると武勇に優れた秀康より、実直な秀忠のほうが良いのでは?・・・というのとを合わせての決断で、この時ばかりは、決してえこひいきではないようです。

その証拠と言ってはなんですが、この関ヶ原の合戦の第1位の恩賞を彼に与えています。

秀康は、越前(福井県)北ノ庄75万石を与えられ、松平の姓に戻り、「御制外」という特権も貰っています。

「御制外」とは、将軍も命令が出せない・・・つまり、将軍の臣下ではなく同等という事・・・石高の75万石も、後にできる御三家の尾張=62万石、紀州=55万石と比較しても負けない、水戸=25万石なんか及びもしない大判振る舞いです。

しかし、そうは言っても、やはり、秀康にとって、弟である将軍・秀忠の次・・・二番手という意識が拭えなかったのも確かなようです。

そのささやかな抵抗が伺えるのは、彼は、この時、上記の通り、松平姓に戻る事を許されたにも関わらず、死ぬまで結城秀康という名前を使用したのだとか・・・。

なので、歴史人物として紹介される彼の名も結城秀康・・・松平とは、ほとんど書かれません。

そのせいか、飲むお酒の量も多く、慶長十二年(1607年)4月8日34歳の若さで、父よりも先に亡くなってしまいます。

自らも秀頼を弟のようにかわいがり「もし、徳川が大坂城を攻めたら、俺は秀頼を守りに行く」と言っていたという秀康さん・・・ひょっとしたら、秀吉のもとで、本当の子供のように可愛がられたあの頃が、一番幸せだったのかも知れません。

父親に翻弄された悲しい運命・・・彼が心配した家康の大坂攻め=大坂冬の陣は、その死から7年後に勃発します。 

*秀康の息子・松平忠直も悲しい運命をたどります・・・そのお話は6月10日のページで>>
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2008年11月19日 (水)

和宮ゆかりの紅葉の名所~京都・宝鏡寺の公開

 

昨日、「応仁の乱のゆかりの地を訪ねたい」と、京都の相国寺から千本釈迦堂(大報恩寺)までを歩いてきたのですが、そちらの散策コースについては、本家ホームページの京都歴史散歩「応仁の乱ゆかりの地を歩く」>>(←別窓で開きます)でご覧いただくとして、本日は、その中の宝鏡寺(ほうきょうじ)をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・

この宝鏡寺には、歴史雑誌などでよく紹介される日野富子の木像が安置されているという事でお邪魔したのですが、実は、このお寺は、今年話題の和宮さまゆかりのお寺でもあるのです。

 ●和宮・関連ページ
    
・天下泰平のために・・・皇女・和宮の決意>>
    ・皇女和宮・替え玉説について>>
    ・皇女和宮とガラスの写真>>

・・・と、言っても、ここに来るのは、今回で2度目・・・

Houkyouzihagi2330 一度目は萩の盛りの季節でした

本当は、9月に一度、お邪魔したのですが、ここは、普段は非公開で、門前の広場までしか入れなかったため、その時は断念して、今回の公開の日に合わせて再びお邪魔したのです。

人形供養でも知られる宝鏡寺の公開は、年二回・・・
 ●春の人形展=3月1日~4月3日
 ●秋の人形展=11月の2~3週間
だけなのです。

・・・で、今回は秋の人形展の期間という事で訪問させていただきましたが、今年の秋の人形展は、11月1日~30日まで・・・という事ですので、まだ、間に合います!

・・・というか、むしろ、これから先の2週間ほどが、ベストとも言える季節です。

なぜなら、まだ昨日は、紅葉には、少し早かった・・・

Dscn6589a800_2 お庭はダメでも門ならいいだろうと撮ってしまいました~門に続く塀の向こうに、少し色づいた木々を確認できますか?・・・あそこがお庭です。

実は、この宝鏡寺のお庭は、知る人ぞ知る紅葉の名所・・・穴場中の穴場です。

京都には、嵐山や、以前ご紹介した東福寺(11月13日参照>>)など、紅葉の名所がたくさんあります。

確かに嵐山は全山をあげて見事な紅葉、東福寺も紅葉の波という表現がぴったりのすばらしい眺めの名所ですが、もちろん、こちらはお庭なので、そういった「圧巻」という感じではありませんが、何と言っても、バス停が近くて歩かずにすむ(お年寄りには好評だそうです)、しかも、街の中心部に・・・です。

Houkyouzitizu 「あちらこちらを見回って、少しだけ時間に余裕が出た!・・・けど、遠くへは行けない・・・歩くのも疲れた」という時に、現地のタクシー運転手がオススメするのが、こちらの紅葉なのです。

残念ながら、宝物・庭園を含めた建物内部は、撮影禁止なので、お庭を写真入りでご紹介できませんが、確かに、「ピークの頃は、さぞかし・・・」といった雰囲気のお庭です。

何度も、言いますが、昨日はまだ早かったのです
(;´д`)トホホ…

Dscn6578a800_2 こちらは、唯一撮影が許可されている「使者の間」と呼ばれるお部屋で、お越しになったお客様には、ここでお待ち戴き、許しがあってから、奥へと通されるのだそうです。

現在のお部屋では、十二単の和宮さまを再現したお人形がお出迎えしてくださいます。
 

・・・で、肝心の和宮さまとの関係ですが・・・

上記の「使者の間」で、お許しがないと奥へ行けない・・・つまり、お寺におられる方が特別なかたという事になります。

開山されたのが、北朝・初代の光厳天皇の皇女・華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼であった事から、もともと皇室にはゆかりのあったお寺だったのですが、その後、第108代後水尾天皇(4月12日参照>>)の皇女・久厳理昌(くごんりしょう)禅尼がお寺に入られてからは、より関係が深まり、以後、歴代の皇女が住持を勤められるようになりました。

この宝鏡寺が、人形の寺となったのも、歴代天皇が、この寺に入られた皇女たちのために、折に触れて人形を贈られていた事に由来するのです。

現在も、今年の大河に登場した第121代 孝明天皇のご遺愛のお人形をはじめ、様々な貴重なお人形が保存されています。

つまりは、お寺の尼僧が、元皇室の方・・・という事ですね。

そのような事から、このお寺は百々(どどの)御所とも呼ばれ、幼い和宮さまがたびたび訪れられて、貝合わせやかるたに興じられたほか、、一時は住まわれた事もあるのだとか・・・

境内には、和宮さまが遊ばれたお庭も現存していますし、今回は、ご愛用の品々なども拝見できました。

さぁ・・・
今年話題の和宮さま・・・
11月30日までの公開・・・
これからが紅葉のピーク・・・

Houkyouzi2a330

ここまで条件が揃えば、この秋、是非とも訪れたい宝鏡寺です。
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2008年11月18日 (火)

新撰組・最後の粛清~血煙!油小路の変

 

慶応三年(1867年)11月18日、元新撰組隊士で、高台寺党の伊東甲子太郎が新撰組に襲われて命を落とした『油小路の変』がありました。

・・・・・・・・・

常陸(ひたち・茨城県)志筑(しづく)出身の伊東甲子太郎(かしたろう)は、元治元年(1864年)の11月、友人の藤堂平助(2010年11月18日参照>>)の紹介で、弟・鈴木美樹三郎(みきさぶろう)ら7人とともに新撰組に入隊しました。

入隊してまもなく参謀という要職に抜擢され、隊長の近藤勇から重用されますが、もともと、水戸江戸で学問や剣術を学んでいた頃から、彼は、尊皇攘夷派・・・幕府側の人間となる人ではなかったのです。

しかし、そんな彼を、近藤は、尊皇攘夷派と知ったうえで、新撰組に入隊させました。

それほど、彼がキレ者だったのか?
それとも、尊皇攘夷派との接点をを持っておいて、相手の状況を探るためなのか?

ところが、彼はキレ者でもあるかわりにクセ者でもあります。

もともと友人だった藤堂・・・そして斉藤一(9月28日参照>>)ら、何人かの新撰組隊士を、自らの派閥へと誘い込み、慶応三年(1867年)3月、「孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえし・陵墓の守衛係)を拝命した」と言って、新撰組を脱退すると、6月には派閥の12人を引き連れて、東山の月真院(げっしんいん)を屯所にして活動し始めます。

この月真院が高台寺塔頭(たっちゅう本寺の敷地内の小さな寺)であるため、彼ら一派は高台寺党と呼ばれる事になるのですが、それにしても、確か、新撰組の規律で局からの離脱は認めてられていなかったはず・・・

それには、伊東が「薩長の動静を知るために、決別したフリをしておこう」と言ったのを、近藤が信じたからだと・・・いや、近藤が信じたと、伊東は思っていたようです。

少なくとも、伊東は、近藤局長に疑われているなんて、コレッぽっちも思って無かったみたいですね。

だからこそ、「近藤を暗殺して新撰組を乗っ取り、討幕に利用するんだ!」何て計画を、ベラベラとしゃべっちゃう事に・・・

誰に?って・・・、伊東とともに、新撰組を抜けた斉藤一に・・・です。

彼は、斉藤が新撰組を捨てて、自分について来てくれた事で、見事、斉藤の引き抜きに成功したと思っていたようですが、実は、斉藤は、近藤から派遣されたスパイ・・・斉藤は、この情報を持って、近藤のもとへと走ります。

斉藤が、本当にスパイだったかどうかという確かな証拠があるわけではありませんが、先ほども書きましたように、もともと新撰組を抜ける事すら禁止のはずが、斉藤は、この事件の後、何事もなかったように、再び、新撰組に戻っています・・・実にアヤシイでしょ?

とにもかくにも、斉藤から自分の暗殺計画を聞いた近藤は、すぐさま行動を起します。

慶応三年(1867年)11月18日
「敵(薩長)情視察の費用を渡すから、俺のコレ(妾)のトコへ来てよ」と、伊東を誘い出します。

この時、彼は、実際に薩摩(鹿児島県)長州(山口県)と接触を持ち、討幕についての話し合いなどをしていたのですが、それこそ、「その行動は、敵情視察の一環だと、近藤たちは信じ込んでいる」と、伊東は信じ込んでいたのです。

だからこそ、たった一人で近藤のカノジョの家へ向かい、しこたまお酒を飲まされ、ヘベレケになってしまうのです。

Honkouzitizu 国の事情や、この先の事や、あれやこれやを楽しくしゃべりまくった後、気分上々で月明かりの木津屋橋通を、屯所の月真院への帰路につく伊藤・・・。

しかし、その先の、油小路(あぶらのこうじ)には、新撰組の刺客が待ち構えていたのです。

まずは、大石鍬次郎(くわじろう)の槍がキラリと光り、伊東の肩を貫きます。

よろけながらも、刀を抜いて応戦する伊東・・・一人を斬り伏せますが、相手は大勢、自分は一人・・・。

ついに、油小路通の本光寺の門前の石塔にもたれかかり絶命しました

Dscn7450170 本光寺・・・右の石碑には「伊東甲子太郎殉難の碑」の文字が・・・

門前に「ご用のかたはインターホンを・・・」と書かれてあったので、押してみましたが、お留守のようでした(p_q*)

甲子太郎さんが、最期にもたれかかった石は、門の中にあるようです。

 

伊東の死を確認した近藤と土方歳三は、すぐに、屯所の月真院に使者を送ります。

「伊東が土佐藩士の襲撃に遭って負傷した」と・・・

そして、伊東の死体を、七条通と油小路通の交差点へと運び、今度は、この伊東を迎えにやってくる彼らを待ちうけます。

知らせを受けた高台寺党には、その日、7人の衛士がおり、
「コレは、ワナなんじゃないか?」
と思いつつも、伊東の災難と聞いて、放っておく事もできず、現場へと向かいます。

時は、ちょうど午前0時・・・高台寺党の彼らが、伊東に遺体に気づき、呆然としながらも、それを籠に乗せて連れ帰ろうとした瞬間、新撰組の一団が襲いかかります。

毛内有之助(けないありのすけ)服部武雄(はっとりたけお)・・・そして藤堂平助の3人が討死、そして、伊東の弟・美樹三郎ら4人が、その場から何とか逃れます。

その後、当日、京都を留守にしていた者も含めて、その残党らによる近藤勇襲撃事件(12月18日参照>>)なども起しはしましたが、もはや、もとの状態に立ち直る事など不可能・・・

ここに、高台寺党は潰滅したのです。

多くの隊士を抱え、その統制をとるために、厳しい規律を設けて、違反した者を次々と粛清してきた新撰組・・・伊東甲子太郎の油小路の変は、その最後となるものでした。

その後・・・
鳥羽伏見の戦いに幕府軍の一員として加わった新撰組も、官軍となった薩長に敗北し、潜伏先の下総(千葉県)流山にて包囲された近藤が、大久保大和と名乗って出頭したのは、翌・慶応四年(1868年)4月の事(4月25日参照>>)・・・

しかし、この大久保大和と名乗る人物が、新撰組・局長の近藤勇である事は、すぐに官軍の知るところとなる・・・実は、近藤が護送された板橋の鎮撫総督府には、油小路でからくも逃げ切った加納鷲雄がいたのです。

油小路の変の生き残りの彼らは、それ以来、命を失った4人の仇を討つ事を誓っていたと言いますが、奇しくも、ここで再会を果たし、近藤へ引導を渡した加納・・・

その胸の内は、いかなるものであったのでしょうか。
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2008年11月17日 (月)

加賀一向一揆・完全終結と信長の政教分離の話

 

天正八年(1580年)11月17日、今なお抵抗する加賀一向一揆の拠点・鳥越城を柴田勝家が落城させました。

・・・・・・・・・・

10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長石山本願寺との合戦・・・一時は、本願寺と和睦した上杉謙信が、天正五年(1577年)9月に能登を平定し(9月13日参照>>)さらに京都に向かって西上します。

これに対して信長は、北陸担当の柴田勝家を謙信対策に当てますが、謙信は勝家を、9月に手取川で、10月に大聖寺(石川県)で破り、もはや上洛して信長と相対するのは時間の問題と思われました。

しかし、冬に入って一旦本拠地の越後(新潟県)に戻った謙信は、明けて天正九年(1578年)の3月に急死(3月13日参照>>)してしまい、上杉家内では後継者争い・御館の乱が勃発する(3月17日参照>>)という、信長にはラッキーな展開となります。

上杉が身内同士でモメてる間に、信長は反撃を開始し、翌・天正八年(1580年)の閏3月9日、勝家は、ともに北陸担当だった佐久間信盛とともに、加賀一向一揆の本拠地・金沢御坊を陥落させました(3月9日参照>>)

そのページにも書かせていただいた通り、ここで、加賀一向一揆は終焉を迎えたのです。

ただし、やはり、まだ残党は残っていました。

その残党が今日の「山内(やまのうち)衆」と呼ばれる人々です。

彼らは、白山々麓にに住む真宗門徒たちで、大日川手取川に挟まれた鳥越山加賀鳥越城を築き、ここを拠点として、抵抗を続けるのでした。

その間に、本家本元の石山本願寺が信長と和睦をし、4月には本願寺十一世・顕如(けんにょ)が本願寺を退去、息子の教如も4ヶ月後に、本願寺を明け渡し、ここに石山合戦が終結しました(8月2日参照>>)

しかし、鳥越城は、二の丸・三の丸を備えた強固な山城で、その後も、勝家はなかなか攻め落とす事ができずにいました。

そこで勝家は、鳥越城主・鈴木出羽守とその一族に講和を持ちかけて誘い出し、騙まし討ちにしてしまうのです。

天正八年(1580年)11月17日大将を失った鳥越城は、あっけなく陥落してしまい、ここにまさしく、加賀一向一揆が終焉・・・と言いたいところですが、彼ら山内衆の生き残りは、翌年、再び蜂起して鳥越城を奪回!さらに抵抗を続けました。

しかし、天正十年(1582年)2月、とうとう山内衆は信長軍の掃討作戦によって倒され、徹底的な残党狩りが行われ、捕らえられた300名の門徒は、3月1日、全員が磔刑に処せられたのです。

徹底的にやられた、この周辺の村々からは、人の姿が消え、しばらくの間は、作物も実らない不毛の地となったと言います。

あの富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んで(6月9日参照>>)掴み取った百姓の持ちたる国・加賀一向一揆は、ついに100年にわたる歴史の幕を閉じたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、今回の山内衆に対しても、長島一向一揆(9月29日参照>>)と同様に、不毛の地となるほどに、魔王のごとき徹底した姿勢と貫いた信長さんですが、本家本元の本願寺の顕如とは講和を結んでいます。

その後、抵抗した教如に対しても、抵抗している間は交戦しますが、本願寺を明け渡した後は、命を取るという事はありませんでした。

比叡山の焼き討ち(9月12日参照>>)にしても、そうです。

私自身は、あの比叡山の焼き討ちは、伝えられているよりも、ずっと規模の小さいものだったと思っていますが、たとえ、言われているような大規模な焼き討ちだったとしても、延暦寺=天台宗そのものを潰すという事はありませんでした。

そこに、信長さんの理念のような物が見え隠れするような気がします。

比叡山の焼き討ちや一向一揆への仕打ちの表面だけを見てしまうと、あたかも魔王が罪のない信者に対して、宗教弾圧を行っているがの如く映るかも知れませんが、決して、そうでない事を物語っているのが、本願寺との講和であり、延暦寺の存続なのでは?

信長が行いたかったのは、宗教弾圧ではなく、政教分離なのです。

あの徳川家康でさえ、三河の一向一揆(9月5日参照>>)にビビッて領地内での真宗を禁止にしていますし、豊臣秀吉キリスト教の弾圧(2月5日参照>>)や徳川時代の切支丹禁止令は、もう皆さんご存知でしょう。

しかし、信長が信仰そのものを禁止したという話は聞いた事がありません。

それは、信仰の自由を残したまま、政教分離だけをやりたかったという事だと思うのです。

この信長の時代が来るまで、宗教団体がその圧力で政治に介入する事は当たり前でした。

そんな中、21世紀となった現在に世界中の先進国が当たり前としている信仰の自由と政教分離の両立を、世界で初めてやろうとした人が信長だったのではないでしょうか。

もちろん、その方法に関しては、100%正しいとは言えません。

たとえ、信徒が武装していたとしても、もう少し穏やかな方法があった事も確かでしょう。

しかし、その理念だけは見抜いてさしあげないと、ただの無謀の殺戮に映ってしまい、それこそ、信長を殺戮の魔王に仕立てあげたい延暦寺の思う壺・・・って事になってしまうのではないでしょうか。

追記:お解かりだとは思いますが・・・
本文中の延暦寺・本願寺及び天台宗・真宗という表現は、あくまで戦国当時の団体の事であって、現在の団体は、宗教の理念は同じでも、姿勢はまったく違います事をご理解ください。

 

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2008年11月16日 (日)

どうなった?龍馬亡き後の海援隊

 

昨日はご命日という事で、坂本龍馬さんの暗殺について書かせていだたきました(11月15日参照>>)が、ふと、思うのは、ドラマなどでも、大抵、龍馬さんの死を以って終了するパターンが多く、とんと見た記憶がないのですが、その後の海援隊って、いったいどうなったんでしょうか?

まさか、ギター片手に♪贈る言葉♪を唄ってる・・・てなワケはないですよね。

って事で、今日は、その後の海援隊のお話・・・

・・・・・・・・・・・

元治元年(1864年)に、16人ほどのメンバーで、海運商社・亀山社中として始まり、後に改編して海援隊となった集団は、龍馬を隊長に据え、暗殺のあった慶応三年(1867年)には、30人ほどのメンバーになっていたそうですが、当日は、そのうちの半分以上は京都や大坂にいました。

留守役とも言える10人ほどが、本拠地である長崎にいましたが、その頃は、土佐藩の佐々木高行もまだ長崎に滞在中だったので、当面はこの人が残った隊士たちの生活費を出していたようです。

この佐々木という人は、長崎の遊郭で起こったイカルス号のイギリス人乗務員殺傷事件の捜査を任されていた人で、その探索費用として、けっこうな額の藩のお金を必要経費として使用できる立場にあり、生前の龍馬も、この人のおかげで遊郭通いができ、かなりお世話になっていた人でした。

しかし、この人の任務も永遠ではありませんから、いずれは土佐に帰る事になりますが、その時は1万両余りのお金を隊士に分配して帰っていってくれて、しばらくの間は、そのお金で何とかしのいでいたところ、ちょうど・・・というか何と言うか、長崎奉行が仕事をほっぽらかして長崎からいなくなるという事態が起こり、カラになった奉行所を占拠した彼らが、無政府状態になりつつあった長崎の治安を維持するという、渡りに船の恰好の職場が見つかり一安心・・・。

やがて、彼らは備前(岡山県)藩の振遠隊に改編され、東へと進撃していった戊辰戦争のために東北へ遠征します。

一方、京都や大坂にいた隊士たちは、大黒柱の龍馬を失ってしまったために、一旦は散り散りバラバラになって、各地に潜伏していました。

やがて、鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)官軍が勝利した事で、彼らの士気も一気に高まり、生前の龍馬からの信頼もあつく、海援隊の事務処理などを任されていた長岡謙吉が、2代目隊長となり、その下で再結集します。

おりしも慶応四年(明治元年・1868年)、土佐藩預かり地となった塩飽(しわく)諸島塩飽本島で騒動が起こり、長岡らは、その鎮圧を命じられます。

この塩飽島の騒動というのは、小坂騒動と呼ばれ、塩飽島に以前からあった身分の違いによる不平不満が一気に爆発したものです。

この島には、戦国時代に水軍として活躍し、その功績として田畑や朱印を与えられた人名と呼ばれる人たちと、それ以外の毛人(もうと)と呼ばれる人がいたのですが、この騒動をさかのぼる事3年前の慶応元年(1865年)に行われた長州征伐で、幕府が、この塩飽島に船と水夫出すよう要求した時、皆が嫌がったために、自分たちより階級が低い、小坂浦に住む毛人たちを現地に向かわせたのです。

兵役を終えて戻ってきた彼らは、その恩賞に、自分たちを人名に加えてくれるよう要求しますが、ずっと拒否され続けていました。

しかし、ここに来て維新となり、これをきっかけに、その不満が一揆となって勤番所を襲撃したりするのですが、その仕返しに、人名たちも小坂浦を襲撃して多くの毛人を殺害するといった状態で、収拾が着かなくなっていたのです。

しかし、なんだかんだ言っても、彼らの本職は漁夫・・・鎮圧を任された長岡らは、武士ですから・・・

長岡らは、あっと言う間に、見事に騒動を収め、その功績により、長岡はこの塩飽島と小豆島の統治権を与えられます。

さらに、島民たちを海援隊に加えて、隊の増強を図りますが、そうなると、人間、徐々に欲が出て来る物・・・何とか、海援隊を、正式な海軍にできないものか?と考え、新たな兵士を募って訓練を始めるとともに、土佐藩に海軍創設の建白書を提出するのです。

ところが、藩の答えはNO!

しかも、閏4月29日付けで、「海援隊の解散命令」が出てしまうのです。

長岡が隊長になって、わずか1ヶ月の事でした。

この時、土佐藩の中心的人物の一人だった後藤象二郎は、どうやら海援隊を海軍ではなく、商社として発展させたかったようです。

海軍としての海援隊は解散となりましたが、その後、例のいろは丸事故(11月15日参照>>)の処理でも手腕を発揮した土佐藩の岩崎弥太郎に引き継がれ、土佐商会から九十九商会と名を改め、やがて三菱商会から日本郵船となります(10月9日参照>>)

なるほど・・・土佐の「三つ葉柏紋」と「三菱のマーク」・・・納得ですね~。

・・・て事は、名前も変わって、人も組織も変わって、その影はまったくなく、もはや別物だけど、海援隊は、今も引き継がれてるって事になるのでしょうか?

もう一人の海援隊・後継者とも言える陸奥宗光については12月7日【龍馬亡き後の海援隊Ⅱ】でどうぞ>>
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2008年11月15日 (土)

坂本龍馬・暗殺~紀州藩・黒幕説

 

慶応三年(1867年)11月15日、京都河原町の醤油商・近江屋に潜伏していた坂本龍馬が数人の刺客に襲われ、龍馬は即死、一緒にいた中岡慎太郎も2日後に死亡しました。

・・・・・・・・・・・

戦国の本能寺の変と並んで、日本の歴史上屈指の謎とされる坂本龍馬の暗殺・・・もはや、知らない人はいないんじゃないか?と思うくらい超有名な出来事です。

一昨年の今日もこの話題を取り上げさせていただきましたが、私のホームページのほうで、【坂本龍馬・暗殺犯を推理する】という推理形式で、龍馬暗殺の事を書かせていただいているので、一昨年は、【龍馬暗殺の謎の謎】と題して、「この龍馬暗殺がいつから謎になったのか?」という事を書かせていただきました(2006年11月15日を見る>>)

そうなんですよね~。

そのページにも書かせていただきましたが、最初は、その遺留品から、新撰組の仕業と思われていて、多くの人が新撰組だと信じたまま維新を迎えた後、明治になって見廻組・隊士の今井信郎「自分がやりました」自供して刑に復し、そこで解決・・・となっていて、その当初は謎ではなかったんです。

ところが、後々になって、その今井に対する刑が異常に軽く、しかも、その減刑のために奔走したのが西郷隆盛・・・なんて話が出てきて、にわかに薩摩藩黒幕説が登場し、今では、土佐藩・後藤象二郎説岩倉具視説・・・果ては、狙われていたのは、討幕を強く推し進めていた中岡慎太郎のほうで、穏健派の龍馬はその巻き添えを喰っただけ・・・なんて説もあります。

本家ホームページの龍馬暗殺のページでも色々書いてますが本家HPへはコチラからどうぞ>>)

確かに、遺留品の刀の鞘を、新撰組の物だとチクッたのは高台寺党の伊東甲子太郎で、彼は、その3日後に新撰組によって暗殺されます(11月18日:油小路の変を参照>>)

かと言って、今井の自白通りに、見廻組が犯人だとすると、その遺留品は捜査かく乱のために、置いた・・・つまり新撰組の仕業と見せかけた事になりますが、当時は、見廻組も新撰組も松平容保の配下のはず・・・って事は味方同士ですよね。

しかも、龍馬が被害者=善犯人が加害者=悪という構図は、維新がなって後の価値観であって、暗殺当時は、大政奉還したとは言え、まだ幕府は存在し、見廻組も新撰組も、不逞浪士の排除という事を、正義だと思ってやってたはずですから、これは罪ではなく手柄なわけで、手柄をみすみすライバルの仕業に見せかけるという、不可解な行為になってしまうような気がします。

・・・と、その推理は尽きないわけですが、今日は別の疑惑をご紹介させていただきます。

それは、紀州藩説・・・

実は、この暗殺の少し前、龍馬は紀州藩から7万両もの大金をせしめているのです。

時は、慶応三年(1867年)4月23日・・・龍馬は海援隊のメンバーを率いて、伊予(愛媛県)大洲藩から借り受けたいろは丸という船に乗って備中(岡山県)六島沖瀬戸内海を航行中でした。

ところが、午後11時頃、近くを航行していた紀州藩の明光丸と衝突してしまったのです。

いろは丸は160t、明光丸は887t・・・これだけの差があれば、ひとたまりもありません。

自力で航行する事が困難となったいろは丸は、乗組員全員が明光丸に乗り移り、近くの港まで曳航される事になりますが、あわれ途中で海のもくずと消えてしまいました。

この事故の後処理がモメにモメてしまうのです。

なんせ、蒸気船同士の衝突というのが、日本初・・・どのように処理してよいのやら誰にも見当がつかずに右往左往・・・。

海路図や航海日誌片手に喧々囂々する中、話はだんだん大きくなり、土佐藩まで首を突っ込み始め、やがては、イギリス人の提督に、外国での事例で判決を下してもらおうなどと大騒ぎになってきて、結局、最後には、紀州藩が折れる形で、賠償金の支払いに合意して手打ちとなったのでした。

・・・で、この交渉中に、どうやら龍馬さん・・・あらゆる手を使って、自分たちに有利な方向へ持って行こうとしたらしいのです。

♪船を沈めたその償いは 金を取らずに国を取る♪
などという歌を巷で流行らせて世論をあおったり、「万国公正」という国際法を持ち出してみたり、使える人脈はすべて使い、駆け引きに次ぐ駆け引きで、半ば強引に、話し合いを進めていったのだとか・・・

しかも、衝突の原因は、いろは丸側の重大な運航ミスかも知れなかったといいますから、たちが悪い・・・。

なんせ龍馬自身が「ちょっとやりすぎたかも・・・」という自覚を持っていたようで、交渉の最中から、すでに「俺、アブナイかも・・・」と、死を覚悟したような事もあったようです。

しかも、結局は、支払われた7万両が、誰にどのように分配されたかも不明というオマケつき・・・これは、これは、疑いたくもなるじゃぁ、あ~りませんか。

もちろん、紀州藩の誰かが直接・・・ではなく、龍馬の居場所を見廻組に教えたっつーのも考えられます。

幕府が倒れかけとは言え、やっぱ御三家ですから、紀州藩なら、偽名を使いまくって京都の町をウロウロしていた龍馬の居場所を探し当てる事も可能だったでしょうから・・・。

ただし、やっぱり、これも仮説の一つに過ぎません。

冒頭に書いたように、不可解な部分は他にもいっぱいありますからね。

ホームページのほうでも、あえて結論は出していません。

あーだこーだと議論するのが、一番楽しいと思っていますので・・・。

ひょっとして、これで、ホームページのアンケートに『紀州藩』と投票してくださるかたも増えるのでは?という、淡い期待を持ちつつ、本日のページを終らせていただきたいと思います。

★紀州藩を犯人とにらんだ陸奥の報復天満屋事件については12月7日のページでどうぞ>>

★龍馬亡き後の海援隊については、次のページ:11月16日でどうぞ>>
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2008年11月14日 (金)

大阪の昔話~ちょっと色っぽい「鉢かづき姫」

 

今日は、大阪に伝わる昔話・・・『鉢かづき姫』「鉢かつぎ」とも)をご紹介します。

有名な昔話ですが、実は、このお話は、大阪の寝屋川市が舞台だったんですよ。

今回は、ちょっと色っぽい鉢かづき姫で・・・

・・・・・・・・・

昔、河内の国の交野(現在の交野市だけではなく、大阪府の枚方市と交野市と寝屋川市あたりがすべて交野と呼ばれていました)寝屋村藤原実高という貴族が住んでいました。

奥さんもたいへん美人で、仲むつまじく評判の夫婦でしたが、ふたりにはどうしても子供だけは授かりません。

そこで、夫婦は大和の国(現在の奈良県)長谷寺の観音様(5月9日参照>>)にお参りして「どうぞ、子供が授かりますように」と願かけをしました。

するとその夜に、奥さんの夢に観音様が出てきて・・・
「望みどおり、女の子を授けよう。そして、その子が13歳になったら、この鉢に宝物を入れて、頭にかぶせなさい。」
と言ったのです。

夢から覚めると、ほんとに枕元にがありました。

それからまもなく奥さんは、ご懐妊・・・そして無事、かわいい女の子を産みました。

「観音様のご利益だ!」と夫婦はおおいに喜んで女の子に初瀬(はつせ)という名前を付けてかわいがりました。

しかし、初瀬が13歳の頃、奥さんは重い病気にかかってしまいます。

自分がもう長く生きられない事をさとり
「かわいい娘に、こんな醜い鉢をかぶせるのはつらいけど、このままでは初瀬の将来が気になって死んでも死にきれない」
と思うようになりました。

しかし、観音様のお告げでもある事だから・・・と決意を固めて、初瀬に事情を話して鉢をかぶせ、悲しみのあまりそのまま息をひきとりました。

その死を知った実高はおおいに悲しみ泣き崩れましたが、同時にそばにいた鉢をかぶった初瀬を見て驚き、その鉢を外そうとしましたが、ビクともしません。

実高は、うろたえて部屋に引きこもってしまいました。

それからは、実高は人が変わったように暗くなり、初瀬も自分の姿を見ると顔色を変える父を見るのもつらく、部屋に引きこもって出てこなくなり、使用人たちも、初瀬の事をはれものにさわるようにあるいは、化け物を見るように接するようになり、家のなかの様子はすっかり変わってしまいました。

それから何年かして実高は、二度目の奥さんと結婚しました。

その継母は、鉢をかぶった初瀬を見るなりきみわるがって、ことごとくつらくあたり、継母が連れてきたふたりの娘も何かと、初瀬をいじめます。

初瀬は、毎日母親のお墓に行っては、「早く私もお母様のおそばに行きたい」と、泣いていました。

いつしかその事が継母の耳に入り、「そんなにここがイヤやねんやったら、出て行きなはれ~!」と、とうとう追い出されてしまうのです。

とぼとぼと、行くあてもなくさまよっていると、大きな川(淀川)にたどり着きました。

川に写る自分の姿を見て悲しくて・・・このまま死んでしまおう・・と川に身を投げました。

しかし、かぶっていた鉢が水に浮いて、何度飛び込んでも岸に戻ってきて、死ぬことすらできませんでした。

濡れた着物を干して乾かし、しかたなく、また、とぼとぼと歩いて行くと、道を通る人は化け物を見るように初瀬をさけ、子供は「や~い!鉢かづき~」と言って石を投げてきます。

ちょうど、そこへ山陰の三位の中将という身分の高い人が通って、その様子を見てあわれに思い、子供たちをいさめて、初瀬を下働きとして働かせようと屋敷につれて帰りました。

初瀬は鉢かづきという名前で呼ばれて、朝から晩まで台所仕事や風呂焚きをして、夜は屋敷の馬小屋のわらの上で眠り、1日中働きました。

そのお屋敷でも、気味悪がる者や、次から次へと自分の仕事を押し付けていじめる者もいましたが、もう自分の居場所はここしかないような気がして初瀬は一所懸命、働くのでした。

三位の中将には4人の息子がいました。

上の三人には、すでに奥さんがいましたが、一番下の息子は独身だったためか、何かと帰りが遅く、帰宅してお風呂に入るのが深夜になることもしばしばありました。

彼は、見た目もりりしい若者でしたが、その気だてもやさしく、いつも自分が遅くなることによって、ふろ番をしている初瀬の休む時間も遅くなる事を気にしていたのです。

ある日、自分が風呂に入ったあと「今は、夜もふけてみな寝静まっているから、今のうちに早く、湯を使いなさい」と、初瀬に風呂をすすめてくれました。

当然、初瀬は辞退しましたが、若者のあまりの薦めに風呂を使わせてもらい、あの家を出てから久ぶりに、ホッとしたひとときを過ごしました。

「ありがとうございました」と礼を言う初瀬と、若者は、この時、初めてまともに言葉をかわしましたが、その言葉、そのしぐさに、若者は、初瀬がただの娘ではない事を感じるとともに、チラリと見えた白くぬけるような肌の美しさが脳裏に焼きついてしまうのです。

それから若者は、初瀬のいる馬小屋に通いはじめます。

若者が笛を持っていけば、みごとに美しく奏で、歌を詠めば、みごとに返してくる初瀬を見て、やはりただの娘ではない、きっとどこかの、地位のある人の姫にちがいない・・・と確信するのです。

そうなると若者の気持ちは止まりません。

毎夜毎夜、馬小屋に通っては、逢瀬を重ねる二人・・・とうとう初瀬のほうも、
「最初は、すべての不幸の根源だと思ったこの醜い鉢・・・しかし、この鉢のおかげで、このかたとめぐり会えた・・・この鉢に感謝しなければ・・・」
とまで思うようになりました。

若者も、もはや、初瀬なしでは夜を過ごせないほど、彼女に夢中になります。

そうなると、まわりにもウワサが広まり、中将の耳にもふたりの事が入り、
「このままではたいへんな事になる」
と猛反対します。

何とか、息子をあきらめさせ、鉢かづきを屋敷から追い出そうと思案しますが、反対されるとさらに強くなるのが恋心・・・若者は「鉢かつぎを嫁にする~」と言いだします。

それならば・・・と、鉢かづきと上の息子の3人の嫁と嫁くらべをする事になりました。

上の息子の3人の嫁は、それぞれ良家の姫で、財産も学識もある美しい女性たちでしたから、「こんな人たちと競う事なんて、とてもできない・・・と鉢かづきは逃げるだろう」という考えでした。

嫁くらべを明日にひかえた前の晩・・・初瀬は涙をいっぱいためて、若者に言います。
「お別れはつらいですが、あなたならどんなステキな人でもお嫁に迎えられます。私はこのままここを出て行きます」

しかし、若者は・・・
「お前がいなければ生きてはいけない。どうしても、親が反対するのなら、私がこの家を出よう。さぁ!一緒に・・・」
と、初瀬の手を引いて駆け出そうとした時・・・

雷が落ちたような衝撃がはしり、一瞬、気が遠くなって、倒れてしましました。

ふと、我に返って、「鉢かづきはどうしただろう」と、あたりを見回すと、足元には、あの鉢がパッカリとふたつに割れ、その中からは金銀財宝や美しい着物が、ざくざくと出てきました。

そして、その割れた鉢の向こうにたたずむのは、この世のものとも思えない、みめうるわしい姫・・・。

「お前は・・・お前が・・・あの鉢かづきか?」

初瀬は、始めて若者に自分の身分や、鉢をかぶったいきさつを話ました。

そして、いよいよ次の日の朝・・・嫁くらべの話は寝屋村じゅうに広まっいて、屋敷には見物人も大勢集まってきていました。

「よっしゃ~、この大勢の中で、めぇいっぱい恥をかくがえぇ。そうして、いたたまれんようなって出て行ったらええねん」と中将・・・

そんな中、現れた初瀬の姿は・・・
一足進めるごとに匂うような美しさ・・・
中将の前にきて、少し挨拶をすれば、声も返せないほどの気品・・・
まわりの者を、すべてくすませてしまうような輝き・・・

やがて始まった琴の演奏や歌会・・・ひととおりの嫁くらべの中でも、初瀬のそれが1番きわだっていました。

初瀬の生い立ちを聞いた中将夫婦は、本来なら、向こうのほうがずっと身分が上・・・望んでも叶えられないような縁談に、「よくぞわが息子の嫁に来てくれた」と大喜び。

ふたりはめでたく結ばれ、初瀬はまず、母の菩提をとむらい、長谷寺の観音様にお礼参りをしました。

その頃は、父・実高も継母と離別し、両方とも行方知れずでしたが、そのお礼参りの長谷寺で一心に祈りをささげているひとりの僧に出会ったのです。

僧は、お経を唱えるように、何やら小さな声でつぶやいています・・・「娘、鉢かづきが、まだこの世にいるなら、悪いことをした・・・一目合わせたまえ・・・」

そう・・・その僧は、娘を探して全国行脚していた父・実高だったのです。

初瀬はすべてを許し、父を屋敷に迎え、夫婦仲むつまじく、子宝にもめぐまれ、末代まで末永く幸せに暮らしましたとさ。
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2008年11月13日 (木)

石川数正・出奔事件の謎

 

天正十三年(1585年)11月13日、徳川家康の幼少時代からの重臣で、徳川家の筆頭家老だった石川数正が、突然、一族郎党百余人を伴って出奔・・・豊臣秀吉の傘下となりました。

この石川数正出奔事件については、11月12日と11月13日の2つの説がありますが、とりあえず、本日書かせていただきます。

・・・・・・・・・

戦国屈指の謎とされる石川数正の出奔・・・

なんせ、数正は、徳川家譜代の家臣で、徳川家康幼少の頃からの補佐役、あの人質時代(11月6日参照>>)にも、警護役を兼ねた遊び相手として同行しているのですから、もう、その人生は徳川一色だったはずです。

そんな彼が、家康を裏切って豊臣秀吉のもとへ走るのですから、その心中が謎とされるのも無理はありません。

その家康も、当時交戦中だった真田昌幸との神川の戦いで、それまでは何度も痛い目を見ながらも諦めずに上田城(長野県上田市)を攻め続けていたのを、この数正出奔のニュースを聞いて、一気に兵を退いてしまうくらいのショックを受けたのですから・・・(8月2日参照>>)

その神川の戦いのページでも書かせていただきましたが、どーも、この数正の出奔には、あの信康と築山殿殺害の一件が絡んでいるような気がしてならないのです。

そもそもは、当時、今川の人質となっていた家康が、あの永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いのドサクサで、そのまま、父の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)に戻った(5月19日参照>>)わけですから、当然、妻子は今川の領地・駿府におきざり状態・・・その二人を岡崎へ連れ戻したのが数正でした。

そして、家康が岡崎城主となってから2年後、三河西郡城(にしこおりじょう・愛知県蒲郡市)を攻めた時、城将の鵜殿長照(うどのながてる)の二人の息子を生け捕りにした(生け捕りにされたのは長照本人の説もあり)のですが、その二人の人質と妻子を交換すべく、単身駿府に乗り込んだのです。

もはや駿府は敵地・・・「そこに乗り込む事は危険だ」と家康が止めたにも関わらず、「若君(後の信康)に殉ずるなら本望」と笑ってみせた数正・・・。

駿府にて、秘密裏に瀬名姫(家康の妻で後の築山殿)の父・関口氏広と交渉し、見事、二人の奪回に成功したのです。

後に、この事を知った今川氏真(うじざね・義元の息子)が、氏広とその妻を自害に追い込んだ事をみても、この人質交換がいかに重要であったかがわかります。

しかし、そうまでして取り戻した妻・瀬名姫は、敵将の従兄弟(瀬名姫の母は義元の妹)という事で、岡崎城には入れてもらえず城外の築山近くの館にて生活する事となり、以降、彼女は築山殿と呼ばれます。

その後、数正は、家康と織田信長の同盟にも力を注ぎます。

その同盟の象徴は、あの時取り戻した家康の長男・竹千代と信長の娘・徳姫との結婚・・・そして、その竹千代が、両父親の一字ずつを取った信康という名前への改名するのです。

そして、元亀元年(1570年)には、成長した信康に岡崎城を譲り、家康は目下の敵・武田との最前線・浜松城へと移ります。

この時期に数正は岡崎城の城代家老に任ぜられ、信康の後見人とも言える立場となります。

自らが、命がけで救った若君の下で・・・おそらく数正にとって、このうえない幸せだったに違いありません。

ところが・・・です。

天正七年(1579年)に事件は起こります。

その信康と築山殿に武田側と内通したとの疑いがかけられ、信長からの命令で、家康によって殺害&自害に追い込まれてしまったのです。

通説によれば・・・
「謀反の疑いあり」とした徳姫の手紙を受け取った信長が、家康の重臣・酒井忠次に確認し、忠次がそれを認めたために、家康への妻子殺害命令が出たとされています(8月29日参照>>)

もし、その通りなら、数正の心中はいかばかりか・・・なんせ、命を賭けて取り戻した若君と奥さんを、自分が推し進めた結婚相手にチクられ、家康の人質時代からともに警護役として過ごしてきた同僚が、それを認めてしまったのですから・・・。

が、しかし、やはり私は、個人的には、以前、信康さん自刃のページ(9月15日参照>>)で書かせていただいたように、この事件は、もはや収拾がつかなくなってしまった岡崎城と浜松城の対立関係・・・徳川家内の内部抗争によるものではないか?との疑いを持っております。

『東照宮御実記』『改正後三河風土記』『三河物語』などなど・・・いわゆる徳川幕府公式史料とされる文書には、「上記の通説=信長の命令で妻子を殺害」となっているわけですが、それとともに、この時の数正の行動がまったく書かれていないという共通点があります。

あれだけ手塩にかけた若君ですよ。
岡崎城の城代家老ですよ。

この主君と城の一大事に、彼が動かなかったとは考え難いです。

おそらくは、この時の数正は何もしなかったのではなく、彼の行動そのものが公式史料には残されなかったと考えるべきでしょう。

それは、家康を神とする徳川の公式史料には書けない事だったのではないでしょうか?

そう考えると、この時の家康の行動の中に、数正の心に引っかかる物があった事も想像できます。

おそらく、数正は、今まで、尽くして尽くしぬいた家康に、何かしらの不信感を抱いた事でしょう。

しかし、それでも数正は、天正十年(1582年)、あの信長が倒れた本能寺の変の直後の決死の伊賀越え(6月4日参照>>)の時には、家康を守って行動をともにしています。

ただ、その直後です。

信長亡き後、家臣団の中でトップにのしあがった秀吉に対しての戦勝祝いの使者という大役を任されます。

戦いに勝ってその領地を広げる事とともに、すでに配下に収めている領地や領民を維持するのも戦国大名にとっては重要な事・・・主君が、その攻める要なら、守りの要という立場が家老という職ですから、隣国との和を保つ事も家老の役目という事になります。

ここで、秀吉の使者として派遣された数正は、その後、秀吉と家康の間で勃発した小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)後始末の講和の交渉役としても、頻繁に秀吉と会う事になります。

もちろん、彼は上記の通り、信長と家康の同盟にも尽力していますから、ずっと以前から秀吉との面識はあったでしょうが、やはり、ここにきて秀吉の魅力にとりつかれたとも言いましょうか・・・秀吉の人扱いのうまさに心魅かれたのかも知れません。

この小牧長久手の交渉の後ぐらいから、「数正は秀吉にかぶれているらしい」とか、「密かに通じているんじゃないか?」とかの噂が、徳川の家臣たちの間で囁かれはじめたというのも、あながち間違いではないのかも知れません。

かくして、天正十三年(1585年)11月13日、数正は、突然、一族郎党百余人を伴って出奔し、秀吉のもとへと走るのです。

ちなみに、秀吉のもとへと行った数正が、長年の主君を裏切ったという事実が豊臣の家臣からも嫌われ、結局は豊臣にも馴染めずに冷遇され、寂しい晩年を送ったというのは違うように思います。

彼は、豊臣に行った途端、和泉10万石(石高については諸説あり)を与えられ、いきなり大名になっていますし、九州征伐や小田原征伐にも出陣し、その功績によって信州の松本も与えられています。

あの朝鮮出兵の時にも、肥前(佐賀県)名護屋まで、兵を率いて赴いています。

ただ、そこで病気にかかってしまい、朝鮮半島へ渡るという事がないまま亡くなったようですが、こうしてみると、通説で言われているような寂しい晩年ではなかったと思われます。

寂しい晩年というのは、おそらく、最後の最後に天下を取った徳川の人間が、あの信康の事件の時と同じように、数正の行動を排除したからなのかも・・・

なんせ、徳川から見れば、裏切り者の数正が、行った先で活躍していられては困るわけですからね。

おそらくは、謎とされる数正の出奔は、信康の事件の行動と豊臣での活躍を、徳川方が抹消したために謎となってしまったような気がします。

結局、数正の出奔とは、彼の家康への不信感と、破格の待遇でのヘッドハンティングがぴったりと重なったという事なのではないでしょうか。
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2008年11月12日 (水)

激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏

 

天正六年(1578年)11月12日、昨日の高城川の戦いで火蓋を切った大友宗麟配下の軍勢と島津義久勢の耳川の戦い・・・いよいよ2日目に突入です。

・・・・・・・・

薩摩・大隅(鹿児島県)を支配下に置く島津義久に、日向(宮崎県)南部を奪われた伊東義祐が、よしみを通じる豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)に救援を求め(8月12日参照>>)、それに答えて日向奪回をめざす大友勢と、阻止すべく出陣した島津勢とが戦った耳川の戦い・・・昨日の高城川での奇襲戦は、島津の大勝に終わり、本日は戦いの名前の由来ともなった耳川の惨劇があった日ですが、まだの方は、昨日のページから先に読んでいただくとわかりやすいです(耳川の戦い・初日のページを見る>>)。 

11日の大敗の反省もこめて行われた大友勢の軍儀・・・しかし、何ともまとまりません。

田北鎮周(しげかね)「明日早朝の突撃」を主張すれば、佐伯宗天(そうてん)「殿(宗麟)の意見を聞かねば・・・」と言い、結局、総大将の田原紹忍(しょうにん)は、軍師の角隈石宗(つのくませきそう)が突撃に反対した事もあって、「やっぱ佐伯君の意見かなぁ・・」てな感じで、一応は血気にはやる行動はしない事に決定・・・と、ここで、何の意見も出さない星野鎮種(しげたね)・・・。

実は、鎮種はすでに、島津の味方・・・密かに裏切っていたのです。

そんな事とは露知らず、軍儀の決定にも納得いかず、ひとりヤル気満々の朕周は、この夜、皆に酒をふるまい、兵士たちの士気を高めました。

かくして天正六年(1578年)11月12日早朝・・・案の定、鎮周は、軍儀の決定を破って、自分勝手に出撃を開始してしまいました。

Mimikawa1cc 画像をクリックすると、動きの変化が見やすい画像が開きます。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

狙うは、高城川谷瀬戸川の間の一番近い場所に陣取る北郷久盛(ほんごうひさもり)の陣・・・。

急襲された久盛の陣は、対処する事ができず、慌てて後退を開始し、高城川を越えて敗走します。

それを、さらに追撃する田北勢・・・困惑気味で見ていた宗天が、味方の優勢に慌てて、自らも北郷勢を追撃します。

こうなったら、残りの大友勢もヤルしかありません。

それを、高台の場所からゆっくり見下ろすのは、根白坂に陣取った総大将・島津義久・・・作戦もクソも無く、ただやみくもに追撃する大友勢は、もはや陣形もあったモンじゃありません。

ここで、島津お得意の作戦を開始します・・・それは、『釣り野伏(のぶせ)

Turinobusecc これは・・・
1、まずおとり(釣り)の兵が敵と交戦し
2、一旦、負けたふりをして退却
3、敵が、深追いしてきたところで、隠れていた兵
(伏兵)が横から攻撃すると同時に、先ほど負けたふりをしていた兵が方向転換・・・

これで、3方向を囲まれた形になる敵は、退却するしかない・・・というわけです。

もちろん、これは理想形・・・合戦とは、相手がいるものなのですから、そう、いつもいつも敵がコチラの思い通りの行動をとってくれるとは限りませんから・・・

しかし、今回の大友勢は、見事に釣られてくれました。

後退する北郷勢を追って、田北勢と佐伯勢が高城川を渡りきったところで、さぁ、作戦開始です。

まずは、伊集院忠棟(いじゅういんただむねが、敵の脇を突きます。

続いて、義久の本隊が突撃、さらに、島津義弘の軍勢が横へと突入・・・。

慌てて後退する大友勢ですが、後ろは、今、渡ったばかりの高城川・・・多くの者が、この川で溺れ、岸に残った者は次々と到着する島津の軍勢に討ち取られていきます。

何とか高城川を渡りきった者は、高城から討って出てきた島津家久山田有信らの城兵の餌食に・・・。

早朝からはじまった合戦は、先ほどの田北鎮周・佐伯宗天・角隈石宗が次々と討死し、午前8時に頃には、もはや勝敗は決しました。

・・・と、すっかり忘れていましたが星野鎮種さん・・・すでに内通完了で、まったぐ動かずの状態で、その後、軍団全員で投降したとの事です。

総大将の紹忍をはじめ、何とか生き残った大友の兵たちは、ただひたすら北を目指します。

ここ、高城川から、北に25kmほど行けば耳川があります。

この耳川が勢力の境界線・・・その向こうには味方の支城があります。

「何とか、耳川を越えれば・・・」

しかし、この日の夕刻頃・・・島津は、この耳川で敗走する大友勢に追いつくのでした。

その時の耳川は、流れも速く、かなり増水していたにも関わらず、パニック状態の兵士たちは、次々を川飛び込み、溺死してしまいました。

この耳川で命を落とした兵は、約3000にも及んだと言います。

一方、未だ無鹿(ムシカ)滞在中の宗麟のもとには、まもなく、敗走した兵士が命からがら到着し、「田北鎮周や佐伯宗天はじめ、大友の全員が討死か敗走・・・まもなく、この本営にも敵が来襲するだろう」との知らせが到着します。

一瞬にして動揺する兵士たち・・・実際には、島津は耳川を越える事なく引き返していたのですが、もはや情報も錯綜する混乱状態・・・。

宗麟はじめ、キリシタン王国建設にあたっていた宣教師や多くの民は逃げるように母国への道を急いだのでした

その慌てぶりは、いっさいの食糧を持たず、無鹿を後にした事でもわかります。

やがて、彼らは、冬の寒さと飢えに苦しみながら餓死寸前で、豊後・白臼城にようやくたどりついたのでした。

宗麟が、新しい地で夢見たキリスト教王国は、ここに壊滅したのです。
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2008年11月11日 (火)

耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲

 

天正六年(1578年)11月11日、豊後大友宗麟薩摩島津義久との耳川の戦いの初戦高城川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

前年の5月の木崎原の合戦での奇襲で薩摩(鹿児島県)島津義弘に大敗を喫して日向(宮崎県)の南半分を奪われた伊東義祐は、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)のもとへと逃げ込み、支援を求めます(8月5日参照>>)

「島津を日向から追っ払ってくれたら日向の半分をあげちゃう~」
という義祐のお誘いに、キリスト教王国を造りたい宗麟は、息子に家督を譲った後、3万5千の大軍を率いて海路にて南下を開始・・・天正六年(1578年)の8月12日には日向無鹿(むしか・宮崎県延岡市)に着陣し、キリシタン王国建設を着々と進めていく一方で、宗麟の別働隊として陸路で南下していた重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢が、勢力の境界線である耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎県木城町)へと迫ります(8月12日参照>>)

高城は、高城川と谷瀬戸川の浸食によってできた高台に構築されていて、北・東・南の3方が崖となっていて、平坦な西方向は、空堀で防御されていました。

この城に対して、大友勢は、城の北側に田北鎮周(しげかね)、東方の谷瀬戸川沿いに星野鎮種(しげたね)、城のすぐ東側に佐伯宗天(そうてん・惟教)を配置し、総大将の紹忍は宗天の後方に陣取り、10月20日、高城の包囲を完了します。

Mimikawa11cc 画像をクリックすると大きくなります。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

一方、高城を守る山田有信は、この大友勢の動きを、本国・鹿児島に知らせるとともに、2km南に位置する佐土原城(さどわらじょう・宮崎市)島津家久(義久の末弟)にも知らせます。

急を聞いた家久は、即座に行動を開始・・・大友勢の包囲をくぐって、高城内に入城・・・この援軍によって、城内の兵は何とか3千となりました(10月20日参照>>)

この間にも、大友勢は、最新鋭の武器・国崩(くにくずし)で高城に攻撃を仕掛けます。

国崩は、宗麟にポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(フランキ)・・・後方から砲弾と火薬をこめる方式の大砲です。

当時はまだヨーロッパにしかなかった最新鋭の大砲にさぞかし島津勢は戸惑った事でしょうが、残念ながら、扱う側の大友勢も戸惑ってたようで、結局、この時の国崩の攻撃は、一発も高城には届かず、効果はなかったとの事・・・。

小競り合いで時間を稼ぎつつ、籠城を続ける高城・・・一方、有信からの知らせを受け取った当主・島津義久は、自らが3万の大軍を率いて鹿児島を出陣し、11月1日には、先の佐土原城へと到着しました。

さらに、あちこちから集結した島津の軍勢は5万にふくれあがりますが、対する大友軍にも援軍が到着し、総勢6万・・・大きな決戦を予感させる展開となりました。

そして、いよいよ決戦が近づいた頃、島津義弘(義久の次弟)は大友への伏兵を仕掛けるべく、より高城に近い財部城(たからべじょう・宮崎県児湯郡)に入ります。

しばらくの間続いた雨によって、平静を装っていた戦場に火蓋が切られたのは、天正六年(1578年)11月11日の白昼・・・前日の夜10時頃、闇にまぎれて4千余りの義弘の伏兵が川を渡り、宗天の陣と、その後ろの大将・紹忍の本陣との間に密かに入り込み、この時を待っていたのでした。

伏兵がいるとは知らず、真昼間、宗天と紹忍の本陣との間を行き交う大友の兵士たち・・・そこへ、いきなりの奇襲をかけたのです。

まったく無防備なところを奇襲された大友勢は乱れに乱れ、またたく間に宗天の陣は焼き払われ、陣を逃げ出したところに、朝早く財部城を出た残りの義弘の軍勢が加わって交戦します。

本陣をはじめとする他の大友の陣から、反撃をしようと試みますが、これには高城に籠城する城兵たちが牽制を仕掛け、大友勢は完全に分断された形となり、何の反撃もできないまま、この日は、500余りの死者を出して大敗してしまいました。

5万の島津に6万の大友・・・互角の戦いになるはずのこの合戦でしたが、蓋を開けてみれば島津の大勝。

これには、やはり総大将の有無が関わっていたように思います。

確かに、この場に宗麟がいなかったのは、彼がキリシタン王国の建設にかまけて、この戦いを軽く見ていたわけではなく、重臣たちを信頼して任せただけで、それは戦国の合戦においては度々ある事・・・先日書かせていただいたばかりの、安祥城の戦い(11月6日参照>>)でも、当主の今川義元は出陣せず、軍師の太原雪斎が総大将を勤めていましたよね。

・・・が、今回の場合は、結果論ではありますが、やはり、宗麟のいなかった事が軍の連携の乱れにつながったような気がします。

相手の島津は当主・義久が自らが軍を率いての参戦ですから、士気も上がりますが、一方の大友勢は、互いに武功を競い合い、指揮系統が乱れ、一致団結できなかった事が敗因と言えるでしょう。

この日の夜10時頃には、義久の本隊3万の軍勢が、根白坂(ねじろざか)に到着します。

ここは、高台になっていて、高城とその周辺の河原に布陣する大友の軍勢が見事に見渡せたと言います。

いよいよ、明日は決戦・・・白々と明けてくる空の下、大友の布陣を見下ろす義久の脳裏には、島津お得意の秘策の青写真が、すでに描かれていたに違いありません。

一方の大友勢のほうは・・・実は、この日の夜に開かれた軍儀でも、それぞれが喧々囂々と己の意見を述べるばかりで、いっこうにまとまらず、初日の連携の乱れは翌日にも尾を引く事になるのです・・・が、そのお話は、やはり、明日=【激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏】でどうぞ>>
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2008年11月10日 (月)

いつの世も次期将軍はモメる?吉宗の御三卿

 

享保十五年(1730年)11月10日、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗が、次男・宗武を立てて田安家を創設しました。

・・・・・・・・・・・

ご存知のように、長きに渡る戦乱の世を終らせて、徳川300年の礎を築いた江戸幕府初代将軍・徳川家康

以来、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光・・・と、代々家康の子孫が将軍職を継ぐわけですが、秀忠の流れの男系男子が途絶えた享保元年(1716年)、初めて御三家・紀州から養子となって徳川宗家を継いで、第8代将軍となったのが、暴れん坊将軍こと徳川吉宗・・・

この御三家というのは、以前、水戸黄門様のところで書かせていただいた通り(12月6日参照>>)、家康から将軍を継いだ三男の秀忠以外の息子たちが継いだ将軍家に準ずる家柄・・・

  • 九男・義直尾張
  • 十男・頼宣紀州
  • 十一男・頼房水戸
    (上記の三人と、将軍の秀忠以外はすでに死亡)

これが、御三家と呼ばれる家柄で、後継ぎをはじめ政変なども含めて、徳川宗家に何かあった時の手助けをする特別な家柄として続いていたわけです。

そんな中、第7代将軍の徳川家継が、子供がいないまま若くして亡くなり、弟もいなかった事から、御三家の中から次の将軍を・・・という事になったわけですが、当然、御三家というからには、それぞれの藩に当主と呼ばれる人がいるので、将軍候補も三人いる事になります。

  • 尾張継友
  • 紀州吉宗
  • 水戸綱条(つなえだ)

この中で、年齢の高い順なら・・・
   1、綱条  2、吉宗  3、継友

家柄の格の順なら・・・
   1、継友  2、吉宗   3、綱条

だったのですが、なぜか8代将軍に選ばれたのは吉宗・・・

一説によれば、7代・家継の危篤の知らせを受けて、一番に駆けつけてきたのが吉宗で、しかも、その身支度や家臣の統率ぶりが見事だったのに対し、綱条は2番手、継友にいたっては一番最後だったにも関わらず、身支度も中途半端で家臣の準備も整わず、バラバラに登城した情けない姿が、城内のひんしゅくをかったのだ・・・

なんて話もありますが、吉宗さんの場合は、紀州藩主の座でさえ、本来なら継ぐ事がない立場だったにも関わらず、なぜか兄たちが次々と亡くなり、当主の座が転がり込んできた・・・などというアヤシイ部分もあり、この将軍決定に関しても、上記以外にもイロイロと噂がなきにしもあらずなのですが、その件に関しましては、将軍就任の日のページ(8月13日参照>>)を見ていただく事として、とにかく、ここで紀州出身の吉宗さんが、徳川宗家の養子となって第8代将軍となる事に決定したわけです。

・・・で、そんな吉宗さんが将軍になって以来、その後の将軍は、徳川最後の将軍となった第15代・慶喜さん以外は、皆、紀州の人・・・つまり、8代~14代までは一度も、他の御三家には回ってこなかったわけです。

それが、今回、吉宗さんが創設した御三卿・・・という家柄です。

吉宗には、4人の男の子がいましたが、そのうち三男は早くに亡くなってしまい、成人したのは長男・家重と次男・宗武(むねたけ)と四男・宗尹(むねただ)・・・。

家康以来、長男が将軍職を継ぐことになっていたので、この中では当然家重が次期将軍となるのですが、この家重は身体も弱く、酒乱・・・吉宗としては、聡明な宗武に将軍職を譲りたかったようですが、やはり慣例にはさからえそうにもなく、このままでは、聡明な次男を、どこかの藩の養子にでも出してしまわねばなりません。

そこで、考えたのが、将軍家に準ずる新たな家柄・・・

享保十五年(1730年)11月10日、吉宗は16歳になった宗武に、江戸城内田安門内に屋敷を構えさせ、田安(たやす)家をつくらせたのです。

さらに、寛保元年(1741年)には、21歳になった四男・宗尹に、やはり江戸城内の一橋門内に屋敷を構えさせて一橋(ひとつばし)家を創設

この家柄は、御三家のように藩・大名ではなく、将軍の身内・家族として扱われる事になったのです。

これには、やはり、享保の改革に反対した尾張徳川宗春の事も影響していたでしょう。

宗春は、8代将軍を選ぶ時に、吉宗と争った継友の弟・・・負けた兄のくやしさを思ってか、吉宗が行った倹約を呼びかける享保の改革にことごとく反対した人(10月8日参照>>)、吉宗もかなり手を焼いたと見え、この宗春さんが亡くなった後もお墓の周囲には、長い間、罪人の墓という意味の金網がかけられていたと言います。

つまり、血筋が絶えて将軍職を他人に奪われないように、家康が御三家を造ったように、吉宗は、将軍職を他家に奪われないように、御三卿という家柄を造った・・・って事ですね。

もちろん、吉宗のこの時点では、まだ、田安家と一橋家の二つで、吉宗の後を継いだ第9代将軍の家重が、長男・家治に将軍を継がせ、次男・重好(しげよし)に清水家を創設させ、ここに御三卿・・・田安・一橋・清水が揃ったのです。

今年の大河ドラマでも、あの14代将軍になった家茂(慶福)さんは紀州藩主、慶喜さんは水戸家から一橋家の養子になった人・・・って事で、篤姫のだんなさん13代・家定さんが亡くなって、次の将軍をモメていましたね~

将軍家を絶やさないために家康が御三家・・・しかし、いつしかこの御三家同士で次期将軍をめぐって争う事になり、その次期将軍を争わないために吉宗が造った御三卿も、結局は将軍の座を争う事になるのかと思うと・・・何やら、堂々巡りですね~将軍様も・・・
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2008年11月 9日 (日)

楊貴妃は日本で生きていた?~安禄山の乱

 

西暦755年11月9日、当時、節度使であった安禄山らによる反乱・安禄山の乱が勃発しました。

「おや?珍しい。中国の話かいな・・」
と、お思いでしょうが、さすがに世界史が苦手な私も、この乱の途中で殺害されたとされる天下の美女・楊貴妃が、ひょっとしたら生きていて、しかも、日本に移り住んでいた・・・なんて話を聞いたひにゃ、素通りするわけには参りませぬ。

・・・・・・・・・

安禄山(あんろくざん)は当時の中国の西域出身の人物で、貿易関係の仕事をしていましたが、唐の役人だった李林甫(りりんぼ)に気に入られ、節度使(地方を治める役人)に抜擢された後、さらに皇帝・玄宗(げんそう)に気にも入られて、とんとん拍子に出世・・・乱勃発当時は、複数の地域の節度使を兼任するまでになっていました。

しかし、いつしか楊国忠(ようこくちゅう)という役人と対立するようになり、やがて、異民族出身であるという立場から、唐王朝での身の危険を感じるようになった安禄山は、西暦755年11月9日ついに反乱を起すのです。

勇猛果敢な地方の兵を率いる安禄山の軍に対して、平和ボケしていた唐軍では、まったく歯が立たず、またたく間に都・長安に攻め込まれてしまいます。

慌てて玄宗は、(しょく・現在の四川省)に逃亡するのですが、その逃避行に同行していたのが、皇帝の寵愛を一心に受けていた世界三大美女の一人・楊貴妃(ようきひ)でした・・・ちなみに、残りの二人はクレオパトラ小野小町(外国では小野小町は入ってませんが・・・)

しかし、逃げる途中で、兵士の間から
「この反乱の原因は楊国忠だ!」
との声があがりはじめ、玄宗と行動をともにしていた楊国忠は、家族とともに殺されてしまいます。

しかも、かの楊貴妃が、楊国忠と親戚であった事から、彼女もとばっちりを受ける事に・・・。

もちろん皇帝は、メッチャメチャ彼女を愛してますから、
「楊貴妃は乱とは関係ない!」
と必死でかばうのですが、そもそも以前から、皇帝が楊国忠を登用したのも、彼女との愛に溺れ、彼女の親戚だから抜擢したなんて噂もあって、もはや恐怖でパニック状態の軍団は、
「諸悪の根源が楊貴妃にある」
「楊貴妃を殺せ!」

と、大騒ぎになってしまい、彼らを止められなくなった皇帝は、しかたなく楊貴妃殺害の命令を下したのです。

哀れ、楊貴妃は、愛する皇帝の命を受けた高力士(こうりきし)という男によって殺害されたのです・・・756年6月16日の事でした。

・・・・と、これが一般に知られる楊貴妃の最期です。

しかし、冒頭に書いたように、彼女には生存説が・・・。

その伝説によれば・・・

この時、楊貴妃に同情した近衛司令官の陳玄礼(ちんげんれい)が、殺害命令を受けた高力士と協力して、侍女を身代わりとして差し出した後、本物の楊貴妃には、食糧などを乗せた大きな船を用意し、現在の上海の港から逃がした・・・というのです。

そして、その船が、なんと山口県は油谷湾の久津というところに漂着したのだとか・・・。

その後、楊貴妃が、その久津で暮らしていたところ、彼女の事を忘れられない玄宗から、使いを通じて、彼女の事を思って造らせた仏像2体が送られ、彼女は、自分の身代わりに・・・と、かんざしを送ったとの事・・・。

その久津にある二尊院というお寺には、石造りの五輪塔があるのですが、それが、久津の地で、その生涯をまっとうした楊貴妃のお墓なのだと伝えられているそうです。

もちろん、そのお寺にも楊貴妃伝説の書かれた古文書が残っていて、古文書では、楊貴妃は漂着してすぐに死んでしまいますが、その後、玄宗の夢枕に立った彼女から、日本で死んだ事を聞いた玄宗が、やはり2体の仏像を送ったとしています。

また、楊貴妃の死から50年後に、白居易(はくきょい・中国の詩人)の書いた有名な漢詩・『長恨歌(ちょうごんか)には、乱の平定後に、玄宗が楊貴妃の遺骸を改葬したときの場面が出て来るのですが、その時の描写の中での「玉の顔を見ず」という表現が、「遺体が無かった」という意味であるという説も存在します。

さらに、すでに安禄山が楊貴妃の色香に惑わされていて、彼自身が密かに楊貴妃を逃がした・・・なんていう、かなりアヤシイ話も存在するようですが、いずれにしても、伝説の域を出ないものではあります。

ホントに日本に来てたのなら、ちょっとウレシイですが・・・

ところで、玄宗が楊貴妃の事を思って造らせた2体の仏像・・・この楊貴妃に似せて仏像を造ったというのは、どうやら本当の事のようなので、とても気になりますね~。

そうです!
京都にある御寺・泉湧寺(みてら・せんにゅうじ)・・・ここには、楊貴妃観音像という仏像が安置されています。

Youkihikannonndoucc 楊貴妃観音堂(泉湧寺)

この像は、建長七年(1255年)、湛海律師によって、羅漢像などどともに中国から持ち帰られた物で、その玄宗が造らせた仏像ではないか?と言われているのです。

堂内が暗くて、はっきりとは見えませんが、確かに、とても美しいお顔をしてらっしゃいます。

ただし、泉湧寺のHPによれば・・・
「その美しい顔立ちから、玄宗皇帝が造らせた楊貴妃の像ではないか?という伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれてきた」
という事だそうで、あくまで伝承・・・だそうです(泉湧寺のHPはコチラから>>)

中国より渡来してから、長く秘仏とされてきた観音像ですが、現在は、一般公開されていますので、その美しいお顔は一見の価値ありですし、まして、美顔のご利益があるとなると、これは、是非とも見ておかねば・・・

しかも、昨年、ブログに書かせていただいたように(07年11月13日を見る>>)、このあたりは、知る人ぞ知る紅葉の穴場でもありますから、この季節、一度出向いて見られてはいかがでしょうか?

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2008年11月 8日 (土)

平安京から京都へ~平安京命名の日

 

延暦十三年(794年)11月8日、第50代桓武天皇が、弟・早良親王の怨霊にビビリまくり、この先、何事も起こらないようにとの願いを込めて、この新しい都に平安京と名付けたという事は、一昨年の平安京遷都の日に書かせていただきました(2006年10月22日を見る>>)

そして、その後、幕府がいかに変わろうが、千年の長きに渡ってこの場所が都として、天皇のおわす場所であった事も、一昨年の今日書かせていただきました(2006年11月8日を見る>>)が、では、この時、桓武天皇が名付けた平安京という名前・・・

しかし、もうご存じのように、鎌倉時代には、すでに、この京都に置かれた役職の事を「京都守護職」と呼んでます。

今では、誰もが、この場所を京都と呼ぶわけですが、なぜに、桓武天皇が命名した平安京という名前で呼ばれなくなったのでしょうか?

もともと、という文字も都という意味で、という文字も、もちろん都という意味です。

昔は、すべての都を、またはと呼んでいて、平城京長岡京も、であり、であり、京都だったのです。

本来なら、桓武天皇が平安京に遷都してから、明治天皇が江戸城を皇居とするまで、この場所は平安京であり続けたはずなのですが・・・

実は、その呼び名の変貌には、上記の両ページにも書かせていただいた財政難のために平安京が未完成のままで多くの場所がすぐに衰退してしまった藤原薬子の乱(9月11日参照>>)によって、前天皇が反乱を起すかも知れない事にビビった嵯峨天皇(桓武天皇の孫)が、現天皇の住む内裏(だいり)のそばに前天皇の住む後院を建ててその動きを見張った事が関係してきます。

平安京造営当時は、御所から南に延びる朱雀大路を境に、西が右京、東が左京(この右左は、天皇のおわす御所からの見た目)と呼ばれ、南の端には羅城門という都の入り口を示す門がありました。

この朱雀大路というのは、現在の千本通りで、羅城門は、現在の東寺の南西にありました。

Heiankyoucctizu0 

今の京都の地図と見比べると、本来の平安京の中心が、今よりかなり西にあった事がわかります。

しかし、上記のように、財政難で都の造営が途中でストップしてしまったために、遷都後、20年か30年くらいで、早くも右京がすたれはじめてくるのです。

さらに、40年から50年頃には、賑やかな場所は、もはや東側のみとなり、羅城門のあたりは野生動物の宝庫となっていたようです。

ただ、それでも、まだ、ここは平安京と呼ばれていました。

やがて、天徳四年(960年)に、内裏が火事で焼けてしまったために、天皇が一時、冷泉院(れいぜいいん)に移るという出来事が起こります。

冷泉院とは、上記の後院と呼ばれる建物の一つ・・・以前、天皇だった人の住まいなわけですが、落雷などによる焼失が多かった当時の都には、造営がなるまでの一時的な皇居として、後院や里内裏と呼ばれる建物が幾つか存在していて、要するに、一時的に、そこに非難して、また内裏が再建されたら戻るという事になります。

ちなみに、現在の京都御所も、土御門東洞院という里内裏の一つです。

ところが、安元三年(1117年)、安元の大火と呼ばれる火事で、太極殿が焼失した時、とうとう皇居が再建される事はありませんでした。

実は、この時期から始まっていたのが院政・・・現天皇に代わって、以前の天皇が上皇となって政治を行うという政治体制です。

つまり、政治が皇居で行われるのではなく、後院や里内裏で行われるようになってしまったのです。

平安京という呼び方の定義は??
と言われると、ちょっと困りますが、おそらくは、桓武天皇が描いていた平安京という物は、あくまで、天皇が御所で政治を行い、その御所を中心に営まれる都であったはず・・・

しかし、未完成だったためにその中心が東半分にズレてしまったばかりか、政治を行う場所さえも変わってしまって、いつしか、桓武天皇の命名した平安京とは呼べなくなってしまった・・・

それが、平安京から京都へと、呼び方が変わった要因では無かったか?と思います。

その時期が平安末期頃・・・おそらく、この頃には、すでに、平安京よりも、京都という呼び方が定着していという事でしょう。

桓武さん、ちと残念・・・

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2008年11月 7日 (金)

「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢~毛利秀元

 

天正七年(1579年)11月7日、中国地方一帯に勢力を誇った毛利元就の四男・穂田元清の息子で、後に輝元の養子となって、さらに長門長府の初代藩主となる毛利秀元が誕生しています。

・・・・・・・・・・・・

この毛利秀元さん・・・個人的には、毛利家にとって、とても重要な人だと思うのですが、ドラマなどでは、あまり大きく扱われる事がありませんねぇ。

毛利家と言えば、あの「三矢(さんし)の訓(おし)え」=三本の矢の逸話・・・毛利家を、西国の雄に押し上げた毛利元就が、その死を間際にして、3人の息子に言ってきかせた一家団結の教訓です。

それは、Jリーグチームがサンフレッチェ広島(サン=3・フレッチェ=矢)と名付けられるほど有名なエピソード・・・。

「1本だと折れやすい矢も、3本束ねると相当な力を以ってしても折る事ができない・・・だから、兄弟3人で力を合わせて頑張れ」というもので、地元には、3人の息子に、教訓を言ってきかせる元就親子の銅像なんかもあるようですが、残念ながら、このエピソードは後世の創作です。

第一、元就の長男の毛利隆元は、父より先に亡くなっていますので(8月4日参照>>)元就の臨終の時に、3人の息子に言いきかせる事はできないわけですから・・・。

かと言って、まったくのウソではありません。

それは、まだ隆元が元気だった弘治三年(1557年)・・・11月25日付けで、元就が、長男・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の3人の息子宛てに「三子(さんし)教訓状」なる書状を送っている事に由来します(11月25日参照>>)

そこには、「3人の間に少しでも亀裂が生じたら、3人とも滅亡すると思え」てな事が書いてあって、この書状の内容がもととなって、3本の矢の逸話が生まれたのです。

実際の、元就の息子たちも、この父の教えをよく守り、父の死後は、若くして亡くなった隆元の息子・毛利輝元を、毛利家の当主として元春と隆景が見事にサポート・・・この二人の名字に川がついていたところから、毛利の両川(りょうせん)と呼ばれていた事は、このブログでも度々書かせていただいています。

・・・と、こうしてみると、あたかも、元就には3人の子供しかいなかったように思ってしまいますが、実は、元就さん、70代になっても、まだ子づくりに励んでいた元気満々ジィチャンで、男女それぞれ12人のお子さんを設けております。

そのうち、9人の男の子と2人の女の子は無事成人しています・・・って、キュ・・・9人?

そうなんです。

今後、毛利家を盛りたてていくであろう男の子が9人もいるのにも関わらず、先の教訓の手紙は3人にだけ・・・だから、逸話も3本の矢・・・

実は、この3人が正室・妙玖(みょうきゅう)さん(11月30日参照>>)との間にできた子供・・・この時代、どうしても、正室の子供と側室の子供との間に、格差ができてしまうのは、しかたのない事なのでしょうね。

・・・で、今日ご紹介する毛利秀元さんのお父さん・元清さんは、元就と乃美(のみ)の方との間に生まれた、元就にとって4番目の男の子です。

ただ、乃美の方は、正室が亡くなった後に、継室・・・つまり後妻となるので結局は正室なのですが、やはり、上の3人の息子とは扱いが違ったのでしょうか?

そんな元清は、17歳の時に伊予水軍に属する来島通康(くるしまみちやす)の娘を妻にし、24歳の時に毛利配下の穂田資元(ほいだすけもと・穂井田)の養子となって穂田元清と名乗り、28歳の天正七年(1579年)11月7日宮松丸・・・後の秀元が生まれたのです。

ところで、今日の本題・・・なぜ、この秀元さんが、毛利にとって重要なのか?というお話ですが・・・

それは、文禄元年(1592年)7月20日の事・・・

その時、かの豊臣秀吉は例の朝鮮出兵(3月26日参照>>)の指揮をとるため、備前(佐賀県)名護屋に滞在していたのですが、母・なか(大政所)危篤の知らせを聞き、いてもたってもいられず、急遽、京都に戻る事になり、瀬戸内海を船で航行中でした。

しかし、その日は大変波が荒く、船は、小さな岩礁にぶつかってしまうのです。
(武蔵VS小次郎の決闘で知られる巌流島だと言われています)

かろうじて岩につかまり、何とか助けを求めますが、荒波はいやおうなく身体を痛めつけ、老いた秀吉にとっては、その命も時間の問題・・・

すると、向こうのほうから、荒波をものともせず近づいてくる小さな舟がありました。

小舟の操りに慣れた少年は、震えながら岩にしがみついている老人を助けますが、助けたその老人が太閤秀吉と聞いて、びっくり。

秀吉が、命の恩人となった少年に何か褒美をやろうと、その名前を聞くと、「毛利元就の四男・四郎元清の息子だ」と言います・・・これには、秀吉もびっくり。

そう、この少年が宮松丸・・・秀吉は、早速、大坂城に連れ帰って、自分の一字を与え、秀元と名乗らせたのです。

その後、この秀元は、実子がいなかった輝元の養子となるのですが、秀吉は「周防・長門(山口県)の2国は秀元の物・・・誰も、これを奪ってはならない」という約束を、徳川家康五大老に連判させたのだとか・・・。

やがて、秀吉が亡くなった後に勃発した関ヶ原の合戦で、かの輝元は西軍の総大将として大坂城に(7月15日参照>>)、秀元は、大坂城に留まる輝元の代理という立場で、毛利勢を率いて関ヶ原に向かいます(9月15日参照>>)

結果は、ご存知の通り、家康率いる東軍の大勝利となります。

事前に家康との密約を交わしていた吉川広家(元春の息子)の指示によって、現地で参戦する事はなかったので、合戦を見ていただけの毛利は、約束通り領地が安堵される・・・はずでした。

しかし、家康は見事な約束破りで、領地を大幅にカットしてしまうのです(9月28日参照>>)

結局、毛利に残った領地は、周防・長門の2国・・・そう、あの秀吉が、「秀元の物、誰も奪うな」と言って、家康らに連判させた、あの2国だけだったのです。

先ほどの、瀬戸内海での遭難のエピソードが、どこまで事実に近いのかはわかりませんが、もし、本当に何らかの約束事があったのだとしたら、おそらく、未だ、「豊臣家のために関ヶ原の合戦をやった」というポーズをとっている段階の家康にとって、毛利から周防・長門の2国までを奪い取る事は、豊臣恩顧の家臣たちの反感を買う事としてできなかったのではないか?と思います。

かくして、周防・長門の2国に押し込められた毛利・・・その後、輝元に実子が生まれた事で、秀元は、毛利家当主の座を辞退し、長門長府の初代藩主となります。

この毛利本家の当主を辞退するのは、もちろん、偉大なジッチャンの教えを守っての事です。

この行動を見ただけでも、秀元が、冷静な判断のもとに先を読む力のある名将であった事がわかります。

あの小早川隆景が、秀元の事を「家族(孫含む)の中で、一番オヤジ(元就)に似てる」と言ったというのもわかる気がします。

その後、輝元の直系が耐えた後も、それを引き継いで萩藩主となったのは、秀元の子孫でした。

こうして、江戸時代を通じて、毛利の家を守り続けてきた秀元の末裔たち・・・やがて徳川250年の後、長州藩は、幕末の表舞台に登場する事となるのです。

ね・・・秀元さんなくしては毛利は語れないくらい重要人物だと思いませんか?

・‥…━━━☆

●秀元さんの大坂の陣での活躍ぶりは
 【大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦】で>>
●大江から毛利へ続く気になる4番目の法則については
 【広元を祖に持つ戦国武将…4本目の矢の法則】で>>
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2008年11月 6日 (木)

安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸

 

天文十八年(1549年)11月6日、駿河今川義元配下の太原雪斎が三河安祥城を攻め、城主の織田信広を拉致した安祥城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

天文九年(1540年)、尾張(愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)が、駿河(静岡県東部)今川氏に属していた三河(愛知県東部)岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)三河安祥城(愛知県安城市)を奪ってからというもの、天文十一年・天文十七年・・・と、尾張×三河の隣国同士の争いは絶え間がありませんでした。

・・・と言うより、隣国の安祥城を奪う・・・という時点で、それ以前から境界線を巡っての争いがあったという事なのですが、この頃の信秀は、もう一つの隣国・美濃(岐阜県南部)斉藤道三(さいとうどうさんともドンパチやちゃってますので(9月22日参照>>)、とにかく、お互いが自分の領地を、少しでも広げようと画策し合う群雄割拠の時代だったわけです。

そんなこんなの天文十八年(1549年)3月・・・その松平広忠が、家臣に斬殺されるという事件が起こります。

この事件は、三河の松平を配下に取り込んでいる今川義元(いまがわよしもと)を大いに慌てさせます。

実は、上記のように、以前から織田からたびたび国境線を脅かされていた広忠は、名門・今川氏に支援してもらおうと、その配下となる事を約束し、2年前に嫡男・竹千代(たけちよ)を人質として今川氏へと差し出したのですが、途中で織田方に奪われてしまい、その竹千代は、この時、織田の人質となっていたのです(8月2日参照>>)

つまり、当主のいなくなった松平家が、その後継ぎである竹千代を求めた場合、現在、その竹千代のいる織田の傘下となってしまう可能性が・・・そうなると、三河一国がそっくりそのまま織田の領地となってしまうのです。

「これは、イカン!」と、義元・・・松平を今川の傘下につなぎとめておくためにも、織田に揺さぶりをかけなければいけません。

早速、義元は、家臣の朝比奈泰能(あさひなやすよし)(9月19日参照>>)らを岡崎城(愛知県岡崎市)へと送り込んで守りを固める一方で、軍師の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)(10月10日参照>>)を総大将に、信秀の息子・織田信広(のぶひろ・信弘)が城主を務めていた安祥城に攻め寄せます。

天文十八年(1549年)3月19日・・・僧侶であった雪斎は、黒染めの法衣のうえに鎧を着け、自らが最前線に立って指揮しますが、この日は、織田方の激しい抵抗に遭い、松平勢の柱の一人・本多忠高(ほんだただたか=本多忠勝の父)を失ったうえ、一旦、兵を退きます。

その後、9月18日にも双方の激突があったとされますが、やはり、安祥城は未だ落ちず・・・。

そして、いよいよ天文十八年(1549年)11月6日、体制を立て直し、3度目の正直とばかりに、大軍を率いて、三度やってきた雪斎は、安祥城を包囲して、総攻撃を仕掛けます。

今回は、またたく間に三ノ丸を落し、本丸を孤立させる事に成功します。

実は、雪斎の狙いは、城主・信広を生け捕りにする事・・・それは、織田に人質となっている竹千代を手に入れるためです。

信広は、織田の当主・信秀の息子。
竹千代は、亡くなったとは言え松平の当主・広忠の息子。

1対1の人質交換です。

その読みはズバリ当たりました。

本丸に取り残された形となった信広は、戦いを断念・・・降伏を余儀なくされ、今川の人質となります。

こうして、その4日後の11月10日・・・尾張笠寺(かさでら・名古屋市南区)にて、両者の人質交換が行われ、この時8歳の竹千代は、亡き父の後を継いで岡崎城主という身分にはなったものの、実際には、岡崎城には今川の家臣が城代として入り、竹千代は、そのまま駿府へ送られる事に・・・(11月27日参照>>)

つまりは、織田の人質から今川の人質へと変わっただ・・・しかも、これで完全に、三河は今川の支配下となってしまいました。

当然、松平の家臣も、今川に従うしかありません。

わずが8歳で、あっちからこっちへの人質移動・・・父親の死に目にも会えなかった少年は、この時から19歳の運命の日まで、さらに人質生活を続ける事になります。

その運命の日とは、永禄三年(1560年)5月19日・・・ご存知、桶狭間の戦い(07年5月19日参照>>)です。

桶狭間の戦いで、当主・今川義元を失ったドサクサで、長年の人質生活から開放されるこの少年は、ご存知・・・後の徳川家康その日の家康については08年5月19日参照>>)

そして、奇しくも、この家康を長年の今川の呪縛から救ったその人は、あの日、人質交換された相手・信広の弟・・・織田信長でした。

信長&家康・・・今川を挟んで、何やら、運命の糸がからみあったような、ドラマチックな関係が浮かび上がってくるような気がします。

おぉ・・・今日は、雪斎さんを主役に、話を進めていくつもりで書き始めたのに、いつの間にやら、信長と家康が主役のようになってしまったsweat01

雪斎ファン様・・・お許しを・・・(。>0<。)
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2008年11月 5日 (水)

父は長柄の人柱~大阪の昔話より

 

今日は、一つ、大阪に伝わる昔話「長柄(ながら)の人柱」をご紹介したいと思います。

このお話は、確か・・・(ずいぶん前の事なので、はっきりとは覚えてないんですが)「キジも鳴かずば」というような題名で、まんが日本昔ばなしでもやっていたように思いますので、お話の内容自体は、ご存知のかたも多いと思いますが、私が聞いた題名は、上記のちょっと怖い題名でしたね。

小さい頃、この昔話を初めて聞いた時は、『人柱』という言葉がしばらく頭からはなれなかった記憶があります。

・・・・・・・・・

昔、都が京になってまもなくの頃、淀川には橋がなく、舟で対岸を行き来していたのですが、朝廷から橋奉行に、橋をかけるよう命令がくだります。

奉行は、日本国中の大工を集めて工事にとりかかりましたが、なかなか思うようにはかどりません。

やっと途中までできたかと思うと、また流されてしまうということが何度かありました。

四苦八苦しているところへ、どこからともなくやってきた巫女が言うには・・・
「これは竜神様の祟りじゃ。竜神を鎮めるためには、人柱をささげよ」
との事でした。

以前、仁徳天皇茨田堤(まんだのつつみ)の治水工事(6月25日参照>>)の時にも出てきましたが、人柱というのは、人間を生きたまま川に沈めて神様にいけにえとしてささげるということです。

近辺の、長柄豊里吹田の村長たちが集まって、人柱をたてるのか?、たてるなら誰にするのか?、いろいろ話し合いましたが、人の命に関わる事ですからそう簡単には結論が出せません。

そんな時、垂水(現在の吹田市)に住む長者の磐氏(いわじ)という男が、工事がいっこうにはかどらない事にイライラして文句を言いにやってきました。

みなが、人柱の事でたいそう悩んで、決めかねている事を話すと・・・
「そんなもん簡単や!はかまの股のとこにツギあててるヤツにしたらええ。そんなカッコ悪いことしてるヤツは、ろくなヤツやあれへん!」

皆は、思わず顔をみあわせて、お互いの格好を見比べました。

すると、役人や、工事の人間や、近所の村人やら、そこに大勢いる中で、たったひとり、はかまの股の所にツギをあてている者がいました

いいだしっぺの磐氏でした。

磐氏は、その場で役人に連れていかれ、次の日には、重しをつけられて、川の真ん中に沈められました。

すると、なぜか工事はとんとんびょうしに進んで、まもなく立派な橋が完成しました。

その磐氏には、光照前(てるひのまえ)という美しい娘がいたのですが、母親は磐氏が死んでからというもの、毎日のように・・・
「お父さんはいらんこと言うて、人柱にされてしもた。
あんたはこれからは、言わんでもええことをうっかりしゃべってはあかんよ。
くれぐれも気ぃつけるように」

と泣きながら言い聞かせていました。

それからというものは、光照前は人前であまり物を言わない娘になりましたが、その美しさに「ぜひ嫁に欲しい」という人がいて、娘は枚方(ひらかた)の長者と結婚しました。

しかし、嫁に行った先でも、「はい」「いいえ」しかしゃべらない光照前に、とうとう舅が怒りだし「そんな嫁はいらん!実家へ帰ってくれ」という事になってしまいました。

しかたなく夫は、光照前を馬に乗せて、実家の方へ向かいました。

すると、淀川沿いのアシの原でふいにキジがキッキーッと鳴き、夫は持っていた弓に矢をつがえ、、キジが飛び上がったところを狙い、うまく仕留めました。

その光景を見た光照前は、涙を浮かべながら、一首の歌を詠みました。

♪ものいわじ(磐氏) 父は長柄の 人柱
  キジも鳴かずば うたれざらまし♪

(父の磐氏はよけいな事を言ったばっかりに人柱にされてしまった・・・キジも鳴かなかったら撃たれなかったのに・・・)

夫はその歌を聞いて光照前が、しゃべらなかった理由を知り、むしろ「今までその苦悩をわかってやれなくてすまなかった」と、謝ったのです。

そして、実家に返さず、そのまま、再び、自分の家につれて帰り、その後はふたり仲むつまじく幸せに暮らしたという事です。

Nagarabasi900 長柄橋

現在、大阪のドまん中を南北に走る天神橋筋が淀川を渡るところに、その長柄橋がありますが、磐氏が人柱になった頃の橋は、現在の橋より、もう少し北にあったという事です。
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2008年11月 4日 (火)

仙道七郡掌握~奥州の覇王・伊達政宗に迫る影

 

天正十七年(1589年)11月4日、仙道七郡石川昭光が、伊達政宗の傘下となりました。

・・・・・・・・・

天正十七年(1589年)6月5日の摺上原(すりあげはら)の戦いで、勝利を収めた独眼竜・伊達政宗・・・一方の芦名(蘆名)は、その退路を川に阻まれ多くの犠牲者を出してしまいました(6月5日参照>>)

総大将の芦名盛重(義広)は、何とか居城・黒川城(福島県会津若松市)に戻り、この先、おそらく攻め寄せてくるであろう伊達勢に対して、籠城するのか?はたまた、体制を立て直して撃って出るのか?の作戦を練るべきところでありました。

もちろん、勝利した政宗とて同じ・・・合戦に勝ったとは言え、芦名氏を滅ぼしたわけではありませんから、居城に戻った盛重らの軍勢を、さらに追撃しなければなりません。

政宗は、一旦、猪苗代城(福島県猪苗代町)に戻り、自軍を休ませるとともに、敵の情報収集を開始します。

しかし、そんな政宗のもとに飛び込んで来たニュースは・・・・芦名の自滅でした。

盛重自身は、挽回を図るべく戻った黒川城でしたが、そこで開かれた軍儀では、雪辱戦どころか、籠城を訴える家臣すら、ひとりもいなかったのです。

実は、この盛重さん、隣国・佐竹義重の息子で、芦名氏には養子として入った身分・・・芦名のもともとの家臣たちに言わせれば・・・
「アンタが連れてきた佐竹の家臣&援軍が体たらくやったために、こんな結果になってしもたがな!こうなったら実家に帰ってもらうか、それでも大将として居座るんやったら、その首もらいまっせ!」
と、脅迫まがいの説得を開始する一方で、次から次へと、政宗に対して降伏をする者が続出・・・。

結果、摺上原の戦いから、わずか5日後の10日に、盛重は、わずかのお供だけを連れて、実家の佐竹を頼って落ちのびていったのです。

合戦の勝利から労せずして名門・芦名氏を滅亡に追いやった政宗が、堂々、黒川城に入城したのは、その翌日・・・18歳で家督を相続し、その翌年の父の死(10月8日参照>>)を乗り越えてから、わずか4年の事でした。

すぐに、その居城を米沢城(山形県米沢市)から黒川城へと移した政宗・・・芦名氏の残党によるわずかな抵抗はあったものの、鎌倉時代からの名家の滅亡を目の当たりにした周辺の小勢力組の武将たちは、次々と伊達傘下へと入ってきたのです。

ちなみに、この時、数少ない抵抗勢力だった二階堂氏を、事実上滅亡させています(10月26日参照>>)

そんな中の天正十七年(1589年)11月4日石川城(福島県石川郡)を居城とする石川昭光が、伊達傘下に服属する事を表明・・・これで、政宗は仙道七郡のほとんどを傘下におさめた形となりました。

この時の政宗の領地は、陸奥(東北の太平洋側)出羽(秋田と山形)合わせて66郡のうちの約半分・・・まさに、奥州の覇王と呼ぶにふさわしい大大名にのし上がったのです。

翌年の正月7日の連歌会では・・・
♪七種(ななくさ)を 一葉によせて つむ根芹(ねぜり)
と、高らかな勝利宣言!

正月7日の七草と、仙道七郡をかけて、それを、「この一つ手で摘んだったゾ~!」と、大喜びの一句ですねぇ。

確かに、父の弔い合戦だった人取橋の合戦(11月17日参照>>)で少々痛い目を見て、10代の頃のイケイケ一点ばりの戦法から、作戦重視の智将に変わったとは言え、まだ23歳の若者ですから・・・たった5年で奥州の半分を手に入れる事ができたのなら、あと何十年もある人生の中で、天下を取るのも夢じゃない!と思ってしまうのも無理はありません。

その若さは、この後、芦名氏とよしみを通じていたあの豊臣秀吉からの「なんで芦名を滅ぼしちゃったの?理由を聞かせてちょ」という再三の上洛要請を断るという無謀とも思える行為に出てしますのです。

ただ、秀吉の力を存分に知っている者から見れば無謀だったかも知れませんが、この時の政宗は、まだ秀吉の事を熟知していなかったでしょうから、おそらく、関東に君臨する北条氏がまだ健在の間は、秀吉は奥州に手を出す事はないだろうという見方をしていたのでしょう。

ところが、ここに来て、その北条が危うくなってくるのです。

四国・九州を平定し、越後(新潟県)上杉景勝とも主従関係を結んだ秀吉は、すでに天正十四年(1586年)11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布していました。

『惣無事令』とは、「大名同士の私的な争いをしてはいけない」というお触れで、『奥両国』とは陸奥出羽の事・・・つまりは、「関東から東北一帯にかけての武将に、自らが天下を掌握したので、戦国時代のように勝手に合戦してはいかん!」という、天下目前の秀吉からの命令って事です。

しかし、この政宗が仙道七郡を掌握した天正十七年と同じ年の10月23日には、北条は、その『惣無事令』を破って、真田氏の名胡桃(なぐるみ)城を奪取するという事件を起しています(10月23日参照>>)

これは、結果的に、北条をぶっ潰したい秀吉に、小田原城を攻撃する大義名分を与えてしまう事になるわけですが、確かに、現時点では、北条と伊達が組めば、秀吉に対抗できるかも知れないと考えてしまうのも無理はありません。

やがて、始まった秀吉による小田原城総攻撃(4月3日参照>>)・・・政宗は、このまま秀吉の上洛要請を断り続けるのか?、それとも、従順に秀吉の傘下となるのか?

二つに一つの決断を迫られる事になるのですが、そのお話は、政宗が小田原へ参陣した(言っちゃいましたが・・・sweat016月5日のページでどうぞ>>。
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2008年11月 3日 (月)

敵からも愛された名将~立花宗茂・最後の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)11月3日、筑後・柳川城の立花宗茂が、加藤清正の説得に応じて開城しました。

・・・・・・・・・・・

立花宗茂(むねしげ)は、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(そうりん)の家臣で、島津に攻められた岩屋城全員討死の壮絶な激戦(7月27日参照>>)を繰り広げた高橋紹運(しょううん)の息子・・・そして、やはり宗麟の重臣だった立花道雪の娘婿となっていたので立花宗茂を名乗っていました(5月28日参照>>)

島津に攻められたその合戦の時には、父を失いながらも、自らの立花城を死守し、その後、大友氏の支援に乗り出した豊臣秀吉の力を借りて、見事、島津氏から豊後一国を守りぬきました。

そんな彼の戦術を見ていた秀吉が、戦後には、主君である大友氏を改易して、逆に宗茂を独立した大名として、筑後(福岡県西部)柳川に13万石を与えるのですから、その猛将ぶりがハンパじゃない事がわかります。

秀吉の傘下となった宗茂は、あの朝鮮出兵でも大活躍・・・文禄二年(1593年)の碧蹄館(ビョクジェグァン)での戦いでは、わずか3千の兵で、30万の明軍を煙に巻いたと言います。

やがて、秀吉の死後に起こった関ヶ原の合戦(年表参照>>)では、やはり、自分を直参として重用してくれた恩から、宗茂は西軍側につき近江(滋賀県)の大津城を攻めて開城へと追い込みます(9月7日参照>>)

しかし、本家本元の関ヶ原が予想以上に早く決着が着いてしまったために、当日の関ヶ原の現場には参戦できず、しかたなく、そのまま柳川城に戻ってきていたのでした。

そんな柳川城に迫ってきたのが、関ヶ原の合戦の2日前に勃発した九州の関ヶ原と言われる石垣原の合戦で勝利し(9月13日参照>>)、そのまま豊後・豊前を制圧し、このドサクサで九州全土を手に入れんがの勢いの黒田如水(孝高)でした。

如水は、佐賀城主の鍋島直茂(10月20日参照>>)柳川城攻めの先陣を言渡します。

実は、この時の直茂は、彼自身は徳川家康側について東軍支持を表明していたものの、息子の勝茂が、西軍として伏見城攻め(7月19日参照>>)に加わったために、その真意が疑われている立場にあったのです。

その疑いを晴らすためにも、「さぁ、先陣を切れ」というワケです。

さらに、そこに、西軍として関ヶ原に参戦し、すでに10月1日に処刑された小西行長(9月19日参照>>)の主な城を次々と攻略し終った加藤清正(10月17日参照>>)が加わります。

如水・直茂・清正・・・いずれも智将の誉れ高い彼らに囲まれてしまった宗茂・・・城の周囲でいくつかの戦闘が繰り返される中、さすがの宗茂も、窮地へと追い込まれます。

そこへ、助け舟を出したのが、清正でした。

そうです・・・清正と宗茂は、あの朝鮮出兵で、ともに戦った戦友・・・宗茂の武勇も充分承知しています。

それこそ、父・紹運のように、全員討死の悲劇となって、ここで命を捨てるには惜しい武将だと思ったのでしょう・・・清正は和睦を望み、宗茂の説得にあたるのです。

かくして、慶長五年(1600年)11月3日清正の説得に応じて宗茂は、柳川城を開城しました。

如水と交わした和睦の条件は、この先の九州での合戦での先鋒を努める事でした。

そうです。
このまま、さらに九州平定を続けなければ・・・何たって、この先には、関ヶ原にも参戦し、あの的中突破で戦場を去った(9月16日参照>>)島津義弘の兄・島津義久薩摩(鹿児島県)を牛耳っているのですから・・・。

ところが、その後、直茂・宗茂を先陣に肥後(熊本県)から薩摩への国境付近まで陣を進めた11月12日、家康は薩摩への進撃を中止する決定を下したのです。

義久が行った様々な外交交渉が効いた事と、これ以上合戦が長引く事をヨシとしなかった家康の思惑もあり、家康は、この先の島津を攻めない事にしたのです。

一説によれば、この時、如水は、ドサクサで天下を狙っていたという話もあり、彼にしてみれば、まだまだ先に進みたかったでしょうが、とりあえず関ヶ原の合戦の勝者である東軍の総大将は家康・・・その家康が幕を下ろそうとしているのですから・・・。

結局、先の柳川城攻防戦を最後に、この関ヶ原の合戦の幕は下ろされ、降伏という形になった宗茂への処分は家康から下される事になります。

和睦を持ちかけた清正はもちろん、宗茂の武勇を知る者、あるいは、彼の人柄の良さを知る者たちは、その処分が、なるべく軽いものになるよう尽力しますが、やはり西軍に加担した罪を許される事はなく、翌年の慶長六年(1601年)に改易の処分となります。

諸将に惜しまれつつも、京都にて浪人暮らしを始めた宗茂は、家臣たちの再就職のために、せっせと感状を書く毎日を送ります。

感状とは、主君が家臣に書く合戦での武功や内政の評価の証明書・・・つまり勤務評定ですが、宗茂の場合は、完全に推薦状です。

一人でも多く、少しでも良い条件で、再就職ができるようにと書かれた彼の感状によって、旧家臣たちは、あっちこっちから引っ張りだこ・・・なんせ、あの名将の誉れ高い宗茂さんが、褒めて褒めて褒めまくった推薦状を持ってるわけですからね。

浪人という無収入であった彼が、感状書きまくりの生活ができたのも、かの清正が密かに援助していたから・・・なんて話もある事を考えれば、やはり、その武勇もさることながら、人柄も相当いい人だったんでしょうね。

やがて、そんな彼を、2代将軍・徳川秀忠が呼び寄せます。

西国事情や内政相談・戦談義など・・・その話し相手として宗茂を求めてきたのです。

最初、陸奥(青森県)棚倉1万石で秀忠に呼び寄せられた宗茂は、4年後には3万石に加増されるほど重用され、いかに、彼の助言が的を射ていたのかが伺えます。

元和六年(1620年)、宗茂が改易された後に柳川城主となっていた田中氏が跡取りがないまま断絶すると、以前の領地をそのまま与えられ城主として復活・・・そこには、以前、再就職を斡旋された多くの家臣が、尊敬に値する主君を求めて、再び集まったと言います。

そんな宗茂の重用は、3代将軍・徳川家光の世となっても続きます。

以前、【加藤清正・疑惑の死】6月24日参照>>)で書かせていただいたように、偶然か故意か、何かと不可思議な最期を遂げる関ヶ原で豊臣から徳川についた、いわゆる外様大名たち・・・しかし、そんな外様の一人であるはずの宗茂ですが、彼だけは寛永十九年(1643年)11月25日76歳で亡くなる最後の最後まで、徳川の将軍に重用された事になります。

亡くなる5年前に起こった島原の乱(2月28日参照>>)では、見事に戦略の指揮をとり、若き日の勇姿を見せていたと言う宗茂・・・やはり、戦国屈指の名将と言えるでしょう。
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2008年11月 2日 (日)

大阪城~多聞櫓と千貫櫓の特別公開

 

昨日、11月1日~3日までの3日間に限り行われる大阪城の多聞櫓(たもんやぐら)千貫櫓(せんがんやぐら)特別公開に行って参りました~

Yaguraootecc 左から千貫櫓・多聞櫓・大手門

何度も訪れている大阪城ですが、櫓の中に入るのは初めて・・・わくわくドキドキです。

Ootegutitizucc 【昭和の大阪城天守閣・復興】のページ(11月7日参照>>)で書かせていただいたように、現在の天守閣は昭和六年(1931年)に市民の寄付で再建された物ですが、今回の2つの櫓はともに徳川時代の物で重要文化財に指定されています。

どちらも、大阪城の大手口(★印のところ)に並んで建っていて、建物はいつでも見られるのですが、もちろん、普段は中に入れません。

Ootemonfukin

大阪府庁前の広々とした大手口からお堀を渡って、大手門をくぐると、前方は大きな石垣で行き止まり・・・そこをほぼ直角に曲がったところにあるのが多聞櫓です。

Tamonyaguraootemoncc 左が大手門・正面が多聞櫓の渡櫓、右方向に続櫓が見えます

多聞とは、石垣の上に造られた長屋の建物の事で写真でお解かりのように、下部が門のようになっています。

古地図には、この大手口だけでなく、京橋口玉造口、天守閣の北側の山里丸や、同じく南側の桜門などにも多聞があった事が書かれていますが、現在残っているのは、この大手口のものだけ・・・。

この建て方のものを多聞と呼ぶのは、かの松永久秀が築いた多聞城(12月26日参照>>)に、初めて、久秀デザインの、この建て方の櫓を設置したところ、その防御の高さと、見た目の美しさに感激した織田信長が自身の安土城にも同じものを建築し、そこから、この方式が大流行・・・で、多聞と呼ばれるようになったと言われています(12月26日参照>>)

久秀は信貴山城にも、初めての本格的な天守閣を建てた人で、なかなかの築城名人です・・・それも、信長さんにマネされちゃってますが・・・。

まずは、大手口から侵入してくる敵を迎え撃つのがこの多聞の役目・・・大手口から入って正面の行き止まりの石垣の上に建つのが続櫓(つづきやぐら)で、この続櫓の窓からは、写真を見てわかる通り、大手口に向かってくる兵士がまさに真正面!

Ootemoncc

窓の下には、鉄砲のための穴が設けられていますから、やはり、ここから撃ったんでしょうかねぇ~ここから狙われたら、ホントひとたまりもありませんわ。

Tamonnaibucc 大手口側に窓と銃口の穴、廊下を挟んで反対側には9畳~12畳の部屋が六つ・・・ここに、多くの兵士が駐屯できるようになってます。
写真右側が窓、左側に部屋があります

そして、直角に曲がったところにある、鉄製の櫓門の真上にあたる部分の渡櫓(わたりやぐら)には、壁際に長方形の隙間が開いています。

Tamonyariotosicc これは、槍落し・・・その名の通り、ここから門を通過しようとする敵に向かって槍を落としたのです。

Tamonyaguraupcc そう言われてから、もう一度、櫓の屋根を見ると確かに隙間が開いてますが、言われなければ気づきませんねぇ・・・

この多聞櫓は、もちろん徳川幕府が誕生して豊臣時代大坂城をすっぽりと覆いつくして再建した時に造られたのですが、その初代の物は天明三年(1783年)の落雷で消失してしまって、長く、石垣だけの状態になっていました。

それが、再建されたのが嘉永元年(1848年)・・・ペリー来航のちょっと前・・・って事は、そうです!
今年、旬の14代徳川家茂さんも、15代の徳川慶喜さんも、この多聞櫓をくぐって大坂城に入ったんですよね~感激です~。

そして・・・多聞櫓を出て、塀づたいに、次は千貫櫓へ・・・

千貫櫓は、昭和三十四年(1959年)の解体修理の時に、柱の土台付近の木材に元和六年(1620年)9月13日の文字が確認され、徳川幕府による大坂城築城工事の第一期に建てられた事がわかります。

Senganyaguraincc

ただし、その歴史はもっと古く、織田信長が石山本願寺との合戦の時に、ここに建つ櫓をせめあぐね「千貫文の賞金を出してでも奪いたい」と言った事から千貫櫓と呼ばれるようになったそうで、この場所に千貫櫓と呼ばれる建物は、豊臣の時代からあったであろうという事です。

Senganyagurainkaidancc この千貫櫓の中は、周囲が、ロの字型の廊下になっていて、真ん中が部屋っぽくなってます。

この周囲の廊下の事を武者走りと言うそうですが、この床がおもしろい・・・

階段が写っている写真・・・この階段に向かって、右がその武者走りで左が部屋なのですが、アップの写真(↓)の敷居で別れた左と右の床の違いがわかりますか?

武者走りのほうが、なんだかボコボコになってます。
                     クリックして拡大してみて↓
Senganyagurainyukacc これは、棒のような物、あるいは石のような物で、トントンと叩いて、わざとヘコませてあるんです。

もちろん、武者が走るので転ばないよう、スベリ止めのためです・・・これをしころと言うそうです。
確かに、くつしたでもぜんぜんスベリませんでした。

それにしても、外観から見る限りでは、さほど大きくも見えない両櫓ですが、中に入ると意外に広いのに驚きました~。

多聞櫓と千貫櫓の特別公開は、まだ、今日と明日の2日間行われますし、これからも、たびたび公開されるようですので、機会がありましたら、皆様も、ぜひ・・・

新たな大阪城の魅力が発見できますよ。
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