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2008年11月 9日 (日)

楊貴妃は日本で生きていた?~安禄山の乱

 

西暦755年11月9日、当時、節度使であった安禄山らによる反乱・安禄山の乱が勃発しました。

「おや?珍しい。中国の話かいな・・」
と、お思いでしょうが、さすがに世界史が苦手な私も、この乱の途中で殺害されたとされる天下の美女・楊貴妃が、ひょっとしたら生きていて、しかも、日本に移り住んでいた・・・なんて話を聞いたひにゃ、素通りするわけには参りませぬ。

・・・・・・・・・

安禄山(あんろくざん)は当時の中国の西域出身の人物で、貿易関係の仕事をしていましたが、唐の役人だった李林甫(りりんぼ)に気に入られ、節度使(地方を治める役人)に抜擢された後、さらに皇帝・玄宗(げんそう)に気にも入られて、とんとん拍子に出世・・・乱勃発当時は、複数の地域の節度使を兼任するまでになっていました。

しかし、いつしか楊国忠(ようこくちゅう)という役人と対立するようになり、やがて、異民族出身であるという立場から、唐王朝での身の危険を感じるようになった安禄山は、西暦755年11月9日ついに反乱を起すのです。

勇猛果敢な地方の兵を率いる安禄山の軍に対して、平和ボケしていた唐軍では、まったく歯が立たず、またたく間に都・長安に攻め込まれてしまいます。

慌てて玄宗は、(しょく・現在の四川省)に逃亡するのですが、その逃避行に同行していたのが、皇帝の寵愛を一心に受けていた世界三大美女の一人・楊貴妃(ようきひ)でした・・・ちなみに、残りの二人はクレオパトラ小野小町(外国では小野小町は入ってませんが・・・)

しかし、逃げる途中で、兵士の間から
「この反乱の原因は楊国忠だ!」
との声があがりはじめ、玄宗と行動をともにしていた楊国忠は、家族とともに殺されてしまいます。

しかも、かの楊貴妃が、楊国忠と親戚であった事から、彼女もとばっちりを受ける事に・・・。

もちろん皇帝は、メッチャメチャ彼女を愛してますから、
「楊貴妃は乱とは関係ない!」
と必死でかばうのですが、そもそも以前から、皇帝が楊国忠を登用したのも、彼女との愛に溺れ、彼女の親戚だから抜擢したなんて噂もあって、もはや恐怖でパニック状態の軍団は、
「諸悪の根源が楊貴妃にある」
「楊貴妃を殺せ!」

と、大騒ぎになってしまい、彼らを止められなくなった皇帝は、しかたなく楊貴妃殺害の命令を下したのです。

哀れ、楊貴妃は、愛する皇帝の命を受けた高力士(こうりきし)という男によって殺害されたのです・・・756年6月16日の事でした。

・・・・と、これが一般に知られる楊貴妃の最期です。

しかし、冒頭に書いたように、彼女には生存説が・・・。

その伝説によれば・・・

この時、楊貴妃に同情した近衛司令官の陳玄礼(ちんげんれい)が、殺害命令を受けた高力士と協力して、侍女を身代わりとして差し出した後、本物の楊貴妃には、食糧などを乗せた大きな船を用意し、現在の上海の港から逃がした・・・というのです。

そして、その船が、なんと山口県は油谷湾の久津というところに漂着したのだとか・・・。

その後、楊貴妃が、その久津で暮らしていたところ、彼女の事を忘れられない玄宗から、使いを通じて、彼女の事を思って造らせた仏像2体が送られ、彼女は、自分の身代わりに・・・と、かんざしを送ったとの事・・・。

その久津にある二尊院というお寺には、石造りの五輪塔があるのですが、それが、久津の地で、その生涯をまっとうした楊貴妃のお墓なのだと伝えられているそうです。

もちろん、そのお寺にも楊貴妃伝説の書かれた古文書が残っていて、古文書では、楊貴妃は漂着してすぐに死んでしまいますが、その後、玄宗の夢枕に立った彼女から、日本で死んだ事を聞いた玄宗が、やはり2体の仏像を送ったとしています。

また、楊貴妃の死から50年後に、白居易(はくきょい・中国の詩人)の書いた有名な漢詩・『長恨歌(ちょうごんか)には、乱の平定後に、玄宗が楊貴妃の遺骸を改葬したときの場面が出て来るのですが、その時の描写の中での「玉の顔を見ず」という表現が、「遺体が無かった」という意味であるという説も存在します。

さらに、すでに安禄山が楊貴妃の色香に惑わされていて、彼自身が密かに楊貴妃を逃がした・・・なんていう、かなりアヤシイ話も存在するようですが、いずれにしても、伝説の域を出ないものではあります。

ホントに日本に来てたのなら、ちょっとウレシイですが・・・

ところで、玄宗が楊貴妃の事を思って造らせた2体の仏像・・・この楊貴妃に似せて仏像を造ったというのは、どうやら本当の事のようなので、とても気になりますね~。

そうです!
京都にある御寺・泉湧寺(みてら・せんにゅうじ)・・・ここには、楊貴妃観音像という仏像が安置されています。

Youkihikannonndoucc 楊貴妃観音堂(泉湧寺)

この像は、建長七年(1255年)、湛海律師によって、羅漢像などどともに中国から持ち帰られた物で、その玄宗が造らせた仏像ではないか?と言われているのです。

堂内が暗くて、はっきりとは見えませんが、確かに、とても美しいお顔をしてらっしゃいます。

ただし、泉湧寺のHPによれば・・・
「その美しい顔立ちから、玄宗皇帝が造らせた楊貴妃の像ではないか?という伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれてきた」
という事だそうで、あくまで伝承・・・だそうです(泉湧寺のHPはコチラから>>)

中国より渡来してから、長く秘仏とされてきた観音像ですが、現在は、一般公開されていますので、その美しいお顔は一見の価値ありですし、まして、美顔のご利益があるとなると、これは、是非とも見ておかねば・・・

しかも、昨年、ブログに書かせていただいたように(07年11月13日を見る>>)、このあたりは、知る人ぞ知る紅葉の穴場でもありますから、この季節、一度出向いて見られてはいかがでしょうか?

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外国の出来事」カテゴリの記事

コメント

楊貴妃に限らず、「日本に来た」伝説のある中国の偉人は多いですね。楊一族も漢民族ではない出身とも言われます。

「ざぶとん1枚」ありがとうございます。o(_ _)oペコッ

投稿: えびすこ | 2011年6月16日 (木) 17時50分

えびすこさん、こんばんは~

徐福についても、いつか書かせていただきたいと思っています

ホンマかいな(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2011年6月16日 (木) 18時26分

この人って、実は玄宗皇帝の“息子の嫁”だった(!)んだよね~。ついでに云うと、彼女の本名は〈楊玉環〉。大変に豊満な肉体の持ち主で、玄宗皇帝はなんと、〈彼女の入浴姿を毎日のように眺めてた(!)〉そうです。ところが、彼女の弱点は太り易い体質で、皇帝は宮中の侍医に命じて、ダイエットプログラムを作らせた…と云う逸話もあります。因みに、中国で楊貴妃を演じる女優さんは、必ず体重を増やしてから撮影に入るそうです。太り易い体質の彼女は暑がりだった為に、宮中の庭の東屋の屋根に水を掛けるシステムを作らせたのですが、その量が余りにも多かった為、寒過ぎて腹を下す役人が続出した…なんて話もあります。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 2日 (土) 16時05分

クオ・ヴァディスさん、こんにちは~

世界史は苦手でおますが、以前、中国語の勉強している時に、楊貴妃の半生を描いた中国映画(すんません題名が思い出せない(゚ー゚;)を見てイロイロと知りました。

投稿: 茶々 | 2015年5月 2日 (土) 16時42分

茶々さん、こんばんは。
ご迷惑をおかけしましてすみません。何分妙な性格なのでお怒りと思いますが、その点はご容赦ください。一応反省しています。気を付けます。
ところで楊貴妃ですが、胡服を着、胡舞を踊っていたそうです。楊貴妃は蜀の出と言いますが、顔が整って、馬術を好んだそうです。蜀でなそうです。
そこで安禄山と同じ胡人、ペルシャ系じゃないかと言う説があります。
それで安禄山は登用されたのではないでしょうか?
山口には楊貴妃の墓以外にも不思議な墓が多く、大陸から亡命した人たちが住んでいたそうです。
楊貴妃以外でも戦後でも川島芳子が生きていた説があります。それを考えますと楊貴妃が流れてきてもおかしくなく。ああいう身代りになるのはありえますし、楊貴妃は実際に政治に介入していません。それからも女官が身代わりになって、楊貴妃は日本に逃げたでしょう。そう言う中国のドラマもありました。おまけに共産党の幹部が楊貴妃の墓に参拝したり、師を作っているのを見ますと共産党は楊貴妃は日本に逃げた。川島芳子は満州に生きていたと思っているでしょう。
全部私の憶測ですが・・・

投稿: non | 2015年8月 2日 (日) 20時00分

nonさん、こんばんは~

他のコメントにも書かせていただきましたが、多忙でお返事できていませんでしたm(_ _)m

よく、このくらいの時間にコメントするので、以前どこかのページで「茶々さんは夜型ですね」とおっしゃっていただいたた事もあるのですが、夜型というよりは、なんだかんだでPCを開く時間が夜になってしまうんです(><)。

今夜も、もうこんな時間ですが、明日は6時起きです…どないしよ(><)wwです。
なので、半寝でトンチンカンなコメントをお返ししてるかも…ですが、どうか大目に見てやってください。

楊貴妃は伝説が多いですね。
美女にも生きていてほしいと、人々は願うのかも…

投稿: 茶々 | 2015年8月 3日 (月) 02時31分

茶々さん、こんばんは。
実は謎と言いますとニコライ2世の子供たちは生きていたそうですし、他にも川島芳子もそうみたいです。
川島芳子は満州ですが、ロマノフ家の子供たちは西に逃げていないので東なので日本に来た可能性が高いです。
それぐらいに日本は新天地と言いますか逃亡先には適しているようです。
楊貴妃の場合だと可能性は高いです。
ただし公式には発表しないでしょう。ニコライ2世の子供たちもひっそりと日本で暮らした可能性は高いと思います。身分を離れると利用価値が無い代わりに自由になれますから・・・
楊貴妃もそうなった可能性も高いでしょう。

投稿: non | 2015年8月 4日 (火) 20時43分

nonさん、こんばんは~

徐福渡来伝説もありますね。

投稿: 茶々 | 2015年8月 5日 (水) 01時51分

茶々さん、新宮に20年前に行ったことがありますが、徐福を祀った道教みたいな寺院がありました。
新宮では徐福は英雄です。
それ以外でも徐福伝説は根強くありますね。

投稿: non | 2015年8月 5日 (水) 22時58分

nonさん、こんばんは~

伝説は、その内容よりも、生まれてくる経緯、語り継がれる経緯に歴史的な意味合いがあると思います。

投稿: 茶々 | 2015年8月 6日 (木) 01時48分

茶々さん、こんばんは。
楊貴妃伝説が中国でドラマになったり、ロマノフ家、川島芳子の生存説を見ますとどうも日本と言う国は古来から亡命する地だったのかなと思いました。
神戸にフィンランド人の宣教師夫妻がいまして、その人と仲が良いのですが、神道、仏教だけでなく日本の習慣を見ますと世界中から来たくらいに色々なのがあると言っていましたし、日本人の肌は結構白いと言っていました。不思議だなと思いました。ただ私達はまだ分からない日本の謎は色々あるなと思いまして、日本史と世界史を共に学ばないと理解できないと思いました。

投稿: non | 2016年2月 2日 (火) 18時20分

nonさん、こんばんは~

何かで小耳に挟んだ情報ですが、もうすぐ、入試とかで世界史、日本史という区分けが無くなるらしいですよ。

投稿: 茶々 | 2016年2月 3日 (水) 02時22分

茶々さん、本当ですか。それは良い話です。
考えてみますと世界と関わりを立つことは無いし、同じ人類ですから日本史、世界史と専門に勉強しないのならば万遍なく学んだ方が良いと思います。
平安時代を見ますと菜食主義なのでクリスチャン、ゾロアスター、イスラムも暮らしやすかったでしょう。意外とお互いの文化を学び合って今の日本仏教と言いますか日本教になったのではないかと思います。多分楊貴妃の親戚も色々な人も多分亡命してきたのでしょう。海音寺潮五郎の小説を見ますとそう言うのがあったと想定していますね。

投稿: non | 2016年2月 5日 (金) 18時21分

nonさん、こんばんは~

世界史が苦手な私としては、分けといて欲しい気もしますが…(*´v゚*)ゞ
秀吉の朝鮮出兵なんかは、その時の世界情勢を知らないと理解できないように思います。

投稿: 茶々 | 2016年2月 6日 (土) 02時47分

茶々さん、こんにちは。
今回の風邪は幼少期にかかったインフルエンザなみにきつい風邪です。どうも背が伸びて体が弱くなった感じがします。
さて楊貴妃はペルシャ系と言う話を聞きましたが、もしそうならば密教などの儀式がゾロアスター教の儀式を取り入れていますので、やはり日本に流れたのかなと思いました。
長門だと漂着するのもあり得ると思います。以前中国で放送していたドラマのダイジェストを見ますと仲麻呂あたりが関わっているみたいですがどうなのかなと思いました。ただ山口辺りは異民族が移り住んだみたいですし、当時百済王の子孫がいましたのであり得る話だと思います。

投稿: non | 2016年2月18日 (木) 15時13分

歴史を教えるならば、郷土史、日本史、世界史に分けた方が良いと思います。
郷土史は教えた方が役に立つと思います。
私の場合はどうも西洋かぶれですので、日本語よりも英語の方が本音を書きやすいし、言いやすいです。そう考えますと日本語は難しいと思いました。
楊貴妃は流れ着いた後は長門に暮らしていたでしょうね。大宰府に近いので平城京よりも外国人相手だと対応しやすいでしょう。

投稿: non | 2016年2月18日 (木) 15時18分

nonさん、こんにちは~

私も月曜から風邪です。
しんどい…です

投稿: 茶々 | 2016年2月18日 (木) 15時53分

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