« 結城秀康~その運命の分かれ道 | トップページ | 勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事? »

2008年11月22日 (土)

徳川幕府・最後の将軍~徳川慶喜の晩年は?

 

大正二年(1913年)11月22日、徳川幕府最後のの将軍となった第15代徳川慶喜が亡くなっています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長州征伐の真っ最中に急死した、第14代将軍・徳川家茂の後を継いで、慶応二年(1866年)12月5日に第15代将軍となった徳川慶喜・・・しかし、その時、すでに薩摩長州同盟を結び(1月21日参照>>)、世は倒幕の嵐へと突入していました。

翌年の慶応三年(1867年)10月14日には、朝廷に政権を返す大政奉還(10月14日参照>>)を行い、何とか幕府の政治体制を維持しようとしますが、その2ヶ月後の12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)が出され、慶喜には内大臣の辞職と領地の返上が言渡されます。

衝突を避けるため、京都二条城から大坂城へ退去する慶喜でしたが、1ヶ月後の慶応四年(1868年)1月3日、『討薩ノ表(薩摩を攻撃するという意思表明の書状)を朝廷に提出すべく京都へと進む幕府の行列に、薩摩からの砲撃が行われ、ご存知、鳥羽伏見の戦いが勃発します(1月2日参照>>)

この戦いでの大敗を聞いて1月6日に大坂城を抜け出し、単身江戸城に戻った事で、先日の大河ドラマでも散々に叱責されていた慶喜さんですが、彼には彼の言い分があるようで・・・この事に関しては現在も賛否両論、一部では多大なる犠牲を避けた行為として評価される部分もあるようです(1月6日参照>>)

鳥羽伏見で始まった戦いは、戊辰戦争と名を変え、やがて薩長率いる官軍は江戸に迫りますが、西郷隆盛勝海舟の会談によって、歴史的な江戸城無血開城が成されます(4月11日参照>>)

この時の慶喜は、ただただ恭順な態度をとり、すぐに江戸城を出て上野寛永寺に蟄居した事で、その命は奪われる事なく、故郷・水戸に戻って謹慎の生活を送る事になります。

やがて、徳川の所領が駿河(静岡県西部)と決まったと同時に、徳川宗家を継いでいた第16代徳川家達の居候という形で静岡に移住し、明治二年(1869年)9月には、彼への謹慎処分も解かれ、やっと将軍・慶喜としてのすべての役目を終えたのです。

将軍として過ごした、わずか2年足らずの波乱万丈な苦悩の日々・・・それ以後、慶喜が、歴史の表舞台に登場する事はありません。

普段の生活も、彼は自分の世界に引きこもり、ほとんど外出する事もありませんでした。

もちろん、将軍時代の事を人に語る事もなかったと言います。

ただ、もともと、多彩な趣味を持っていた慶喜さん・・・まだ、政治の世界に入るまでの一橋家にいた頃には、フランス語を学んだり、絵画や和歌・能などの芸術を好み、乗馬や狩猟にも興じていた大らかな時代もあった彼は、ここで、写真という趣味に出会います。

日頃は、人目を避けるようにひっそりと暮らしている彼ですが、写真撮影する時だけはフットワーク軽くあちこちへ出かけ、農作業をしている農民や、港に集まる漁師たちに気軽に声をかけ、その姿をカメラに収めたと言います。

彼が、日本で3番目の自動車購入者となったのも、ひょっとしたら、その写真撮影のアシとして利用したかったのかも知れませんね。

その後、徳川宗家とは別の公爵家として独立が許された明治十七年(1884年)からは、少しはましになりますが、それでも出歩くのは、ほとんど写真撮影の時だけでした。

やがて、維新の事が過ぎ去った過去の出来事と世間の認識が変わるにつれ、速やかに政権を返上し、恭順な態度で沙汰を待った慶喜への評価の声もではじめ、61歳になった明治三十年(1897年)からは、東京に移り住みますが、その後も、下町の長屋の子供たちなど、庶民生活を題材にした写真を撮り続けます。

当時人気だった『華影(はなのかげ)という写真投降雑誌に、何度も写真を投稿していたようで、その趣味に没頭していた様子が伺えますね。

そして、77歳になった大正二年(1913年)11月22日、政権を返上した明治天皇よりも長く生き、歴代の徳川将軍の中でも最も長命だった最後の将軍・慶喜は、肺炎を起してこの世を去ったのです。

「なんや~趣味に没頭して、悠々自適の老後で、けっこう幸せやん」
と思ってしまいますが、彼は、自らの心の内を語る事が、ほとんどありませんでしたから、その晩年に生活の中で、どのような心情であったのかを伺い知る事はできません。

ただ、少しだけ垣間見えるのは、この晩年の句・・・
♪取り分けて 言うべしふしは あらねども
   ただ面白く 今日も暮らしつ♪

何も報告するような事がない一日が、幸せだと感じる・・・

そこに、将軍時代という重荷を、生涯にわたって背負いつつ、自分への賛否両論を受け止めながら、されど多くを語らず、静かに亡くなっていった慶喜さんの苦悩が見え隠れする気がするのです。

その晩年が幸せだったかどうかは、彼の心の中のみに・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←慶喜ほど撃たれ強くありません~やさしく応援クリックしてやって下さい・・・よろしくお願いします。

 

 

« 結城秀康~その運命の分かれ道 | トップページ | 勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事? »

明治・大正・昭和」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

こんばんは

 徳川慶喜さんの御命日は11月22日だったんですか?77歳、今だったらそれほどでもないでしょうけれど、当時としては長命のほうですよね。
 写真が趣味だったことは私も知っています。反政府のシンボルとして担ぎ出されるのを嫌って趣味の生活を送っていたとする解釈もあるそうですね。確かにこれじゃ、担ぎ出せない!(笑)
 この方が14代将軍の家茂さんを暗殺したという噂も流れたらしいですけれど、この方自身は権力に固執するタイプではなかったみたいで、もしそういうことがあったとしても側近がしたのだろうという話を聞いたことがあります。
 indoor-mamaさんの記事を拝見するまでは、家臣を置いたまま、大阪から江戸へ逃げ帰った慶喜さんはズルイ人だなぁ~と思っていたのですが、そうでもないのかもしれないと思い始めました。
 ひたすら恭順しているところを示すために抗戦派の松平容保もそばから切り離したと聞いています。そうしなければどうしようもなかったのかしらとも思いました。松平容保さんはひどい仕打ちだと思ったみたいですけれどね。
 いろいろな側面があるんですね。
 本当にindoor-mamaさんの記事は興味深く、勉強になります。
 ありがとうございます。

投稿: おみや | 2008年11月23日 (日) 00時40分

おみやさん、いつもコメントありがとうございます。

大坂城からの脱出は、武士としては情けない行為だったのかも知れませんが、結果的に多くの人命を失う事になる全面戦争を回避したという事になるわけで、人命尊重が重視される今の時代になって、ようやく慶喜さんの行為への評価が変わりつつあるようですね。

先週の大河の篤姫さんは、「戦争は避けねばならん」と言いながら、戦争を避けて大坂城から脱出した慶喜さんを叱責するという、ワケのワカラン行動をとっていて少々不可解でした。

投稿: indoor-mama | 2008年11月23日 (日) 01時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/25559638

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川幕府・最後の将軍~徳川慶喜の晩年は?:

« 結城秀康~その運命の分かれ道 | トップページ | 勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事? »