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2008年11月12日 (水)

激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏

 

天正六年(1578年)11月12日、昨日の高城川の戦いで火蓋を切った大友宗麟配下の軍勢と島津義久勢の耳川の戦い・・・いよいよ2日目に突入です。

・・・・・・・・

薩摩・大隅(鹿児島県)を支配下に置く島津義久に、日向(宮崎県)南部を奪われた伊東義祐が、よしみを通じる豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)に救援を求め(8月12日参照>>)、それに答えて日向奪回をめざす大友勢と、阻止すべく出陣した島津勢とが戦った耳川の戦い・・・昨日の高城川での奇襲戦は、島津の大勝に終わり、本日は戦いの名前の由来ともなった耳川の惨劇があった日ですが、まだの方は、昨日のページから先に読んでいただくとわかりやすいです(耳川の戦い・初日のページを見る>>)。 

11日の大敗の反省もこめて行われた大友勢の軍儀・・・しかし、何ともまとまりません。

田北鎮周(しげかね)「明日早朝の突撃」を主張すれば、佐伯宗天(そうてん)「殿(宗麟)の意見を聞かねば・・・」と言い、結局、総大将の田原紹忍(しょうにん)は、軍師の角隈石宗(つのくませきそう)が突撃に反対した事もあって、「やっぱ佐伯君の意見かなぁ・・」てな感じで、一応は血気にはやる行動はしない事に決定・・・と、ここで、何の意見も出さない星野鎮種(しげたね)・・・。

実は、鎮種はすでに、島津の味方・・・密かに裏切っていたのです。

そんな事とは露知らず、軍儀の決定にも納得いかず、ひとりヤル気満々の朕周は、この夜、皆に酒をふるまい、兵士たちの士気を高めました。

かくして天正六年(1578年)11月12日早朝・・・案の定、鎮周は、軍儀の決定を破って、自分勝手に出撃を開始してしまいました。

Mimikawa1cc 画像をクリックすると、動きの変化が見やすい画像が開きます。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

狙うは、高城川谷瀬戸川の間の一番近い場所に陣取る北郷久盛(ほんごうひさもり)の陣・・・。

急襲された久盛の陣は、対処する事ができず、慌てて後退を開始し、高城川を越えて敗走します。

それを、さらに追撃する田北勢・・・困惑気味で見ていた宗天が、味方の優勢に慌てて、自らも北郷勢を追撃します。

こうなったら、残りの大友勢もヤルしかありません。

それを、高台の場所からゆっくり見下ろすのは、根白坂に陣取った総大将・島津義久・・・作戦もクソも無く、ただやみくもに追撃する大友勢は、もはや陣形もあったモンじゃありません。

ここで、島津お得意の作戦を開始します・・・それは、『釣り野伏(のぶせ)

Turinobusecc これは・・・
1、まずおとり(釣り)の兵が敵と交戦し
2、一旦、負けたふりをして退却
3、敵が、深追いしてきたところで、隠れていた兵
(伏兵)が横から攻撃すると同時に、先ほど負けたふりをしていた兵が方向転換・・・

これで、3方向を囲まれた形になる敵は、退却するしかない・・・というわけです。

もちろん、これは理想形・・・合戦とは、相手がいるものなのですから、そう、いつもいつも敵がコチラの思い通りの行動をとってくれるとは限りませんから・・・

しかし、今回の大友勢は、見事に釣られてくれました。

後退する北郷勢を追って、田北勢と佐伯勢が高城川を渡りきったところで、さぁ、作戦開始です。

まずは、伊集院忠棟(いじゅういんただむねが、敵の脇を突きます。

続いて、義久の本隊が突撃、さらに、島津義弘の軍勢が横へと突入・・・。

慌てて後退する大友勢ですが、後ろは、今、渡ったばかりの高城川・・・多くの者が、この川で溺れ、岸に残った者は次々と到着する島津の軍勢に討ち取られていきます。

何とか高城川を渡りきった者は、高城から討って出てきた島津家久山田有信らの城兵の餌食に・・・。

早朝からはじまった合戦は、先ほどの田北鎮周・佐伯宗天・角隈石宗が次々と討死し、午前8時に頃には、もはや勝敗は決しました。

・・・と、すっかり忘れていましたが星野鎮種さん・・・すでに内通完了で、まったぐ動かずの状態で、その後、軍団全員で投降したとの事です。

総大将の紹忍をはじめ、何とか生き残った大友の兵たちは、ただひたすら北を目指します。

ここ、高城川から、北に25kmほど行けば耳川があります。

この耳川が勢力の境界線・・・その向こうには味方の支城があります。

「何とか、耳川を越えれば・・・」

しかし、この日の夕刻頃・・・島津は、この耳川で敗走する大友勢に追いつくのでした。

その時の耳川は、流れも速く、かなり増水していたにも関わらず、パニック状態の兵士たちは、次々を川飛び込み、溺死してしまいました。

この耳川で命を落とした兵は、約3000にも及んだと言います。

一方、未だ無鹿(ムシカ)滞在中の宗麟のもとには、まもなく、敗走した兵士が命からがら到着し、「田北鎮周や佐伯宗天はじめ、大友の全員が討死か敗走・・・まもなく、この本営にも敵が来襲するだろう」との知らせが到着します。

一瞬にして動揺する兵士たち・・・実際には、島津は耳川を越える事なく引き返していたのですが、もはや情報も錯綜する混乱状態・・・。

宗麟はじめ、キリシタン王国建設にあたっていた宣教師や多くの民は逃げるように母国への道を急いだのでした

その慌てぶりは、いっさいの食糧を持たず、無鹿を後にした事でもわかります。

やがて、彼らは、冬の寒さと飢えに苦しみながら餓死寸前で、豊後・白臼城にようやくたどりついたのでした。

宗麟が、新しい地で夢見たキリスト教王国は、ここに壊滅したのです。
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