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2008年11月16日 (日)

どうなった?龍馬亡き後の海援隊

 

昨日はご命日という事で、坂本龍馬さんの暗殺について書かせていだたきました(11月15日参照>>)が、ふと、思うのは、ドラマなどでも、大抵、龍馬さんの死を以って終了するパターンが多く、とんと見た記憶がないのですが、その後の海援隊って、いったいどうなったんでしょうか?

まさか、ギター片手に♪贈る言葉♪を唄ってる・・・てなワケはないですよね。

って事で、今日は、その後の海援隊のお話・・・

・・・・・・・・・・・

元治元年(1864年)に、16人ほどのメンバーで、海運商社・亀山社中として始まり、後に改編して海援隊となった集団は、龍馬を隊長に据え、暗殺のあった慶応三年(1867年)には、30人ほどのメンバーになっていたそうですが、当日は、そのうちの半分以上は京都や大坂にいました。

留守役とも言える10人ほどが、本拠地である長崎にいましたが、その頃は、土佐藩の佐々木高行もまだ長崎に滞在中だったので、当面はこの人が残った隊士たちの生活費を出していたようです。

この佐々木という人は、長崎の遊郭で起こったイカルス号のイギリス人乗務員殺傷事件の捜査を任されていた人で、その探索費用として、けっこうな額の藩のお金を必要経費として使用できる立場にあり、生前の龍馬も、この人のおかげで遊郭通いができ、かなりお世話になっていた人でした。

しかし、この人の任務も永遠ではありませんから、いずれは土佐に帰る事になりますが、その時は1万両余りのお金を隊士に分配して帰っていってくれて、しばらくの間は、そのお金で何とかしのいでいたところ、ちょうど・・・というか何と言うか、長崎奉行が仕事をほっぽらかして長崎からいなくなるという事態が起こり、カラになった奉行所を占拠した彼らが、無政府状態になりつつあった長崎の治安を維持するという、渡りに船の恰好の職場が見つかり一安心・・・。

やがて、彼らは備前(岡山県)藩の振遠隊に改編され、東へと進撃していった戊辰戦争のために東北へ遠征します。

一方、京都や大坂にいた隊士たちは、大黒柱の龍馬を失ってしまったために、一旦は散り散りバラバラになって、各地に潜伏していました。

やがて、鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)官軍が勝利した事で、彼らの士気も一気に高まり、生前の龍馬からの信頼もあつく、海援隊の事務処理などを任されていた長岡謙吉が、2代目隊長となり、その下で再結集します。

おりしも慶応四年(明治元年・1868年)、土佐藩預かり地となった塩飽(しわく)諸島塩飽本島で騒動が起こり、長岡らは、その鎮圧を命じられます。

この塩飽島の騒動というのは、小坂騒動と呼ばれ、塩飽島に以前からあった身分の違いによる不平不満が一気に爆発したものです。

この島には、戦国時代に水軍として活躍し、その功績として田畑や朱印を与えられた人名と呼ばれる人たちと、それ以外の毛人(もうと)と呼ばれる人がいたのですが、この騒動をさかのぼる事3年前の慶応元年(1865年)に行われた長州征伐で、幕府が、この塩飽島に船と水夫出すよう要求した時、皆が嫌がったために、自分たちより階級が低い、小坂浦に住む毛人たちを現地に向かわせたのです。

兵役を終えて戻ってきた彼らは、その恩賞に、自分たちを人名に加えてくれるよう要求しますが、ずっと拒否され続けていました。

しかし、ここに来て維新となり、これをきっかけに、その不満が一揆となって勤番所を襲撃したりするのですが、その仕返しに、人名たちも小坂浦を襲撃して多くの毛人を殺害するといった状態で、収拾が着かなくなっていたのです。

しかし、なんだかんだ言っても、彼らの本職は漁夫・・・鎮圧を任された長岡らは、武士ですから・・・

長岡らは、あっと言う間に、見事に騒動を収め、その功績により、長岡はこの塩飽島と小豆島の統治権を与えられます。

さらに、島民たちを海援隊に加えて、隊の増強を図りますが、そうなると、人間、徐々に欲が出て来る物・・・何とか、海援隊を、正式な海軍にできないものか?と考え、新たな兵士を募って訓練を始めるとともに、土佐藩に海軍創設の建白書を提出するのです。

ところが、藩の答えはNO!

しかも、閏4月29日付けで、「海援隊の解散命令」が出てしまうのです。

長岡が隊長になって、わずか1ヶ月の事でした。

この時、土佐藩の中心的人物の一人だった後藤象二郎は、どうやら海援隊を海軍ではなく、商社として発展させたかったようです。

海軍としての海援隊は解散となりましたが、その後、例のいろは丸事故(11月15日参照>>)の処理でも手腕を発揮した土佐藩の岩崎弥太郎に引き継がれ、土佐商会から九十九商会と名を改め、やがて三菱商会から日本郵船となります(10月9日参照>>)

なるほど・・・土佐の「三つ葉柏紋」と「三菱のマーク」・・・納得ですね~。

・・・て事は、名前も変わって、人も組織も変わって、その影はまったくなく、もはや別物だけど、海援隊は、今も引き継がれてるって事になるのでしょうか?

もう一人の海援隊・後継者とも言える陸奥宗光については12月7日【龍馬亡き後の海援隊Ⅱ】でどうぞ>>
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

久しぶりにお邪魔します^^うーーーーーん。あいかわらずすごいなぁ。。。
自分がブログ始めてから「書く」ってこんなに大変なんだと痛感中です。
茶々さんってほんと、すごい!

後の日本郵船、薩摩の野村忍介も役員として加わってます。
やっぱりご一新後もつながりは大きかったのかな。

投稿: 味のり | 2008年11月16日 (日) 22時12分

味のりさん、こんばんは~

いやいや、ホント「書く」って事は大変です。

私の場合は、日付をもとに書いているので、年数が経つにつれ、徐々に書く事が無くなるのは必至・・・

ぼちぼち、ペースを落としていかねば、個々の記事内容が薄くなってしまう気がして悩み中でおます。

投稿: 茶々 | 2008年11月17日 (月) 00時23分

「龍馬伝」ではこの経緯について触れるとは思いますが、岩崎弥太郎が海援隊を預かったのか、乗っ取ったのかの解釈が割れると思います。ドラマの展開では「乗っ取り」になるかな?
ただ、このドラマは結末が従来のパターンを覆す様な気がするんですよね。劇中の時間進行がスローペースです。後半で坂本龍馬関係がどうなるのかまだわかりませんが、坂本龍馬の死に触れないまま終える、なんて事も。
海援隊は株式会社三菱、陸援隊は明治初期の軍隊の一部に再編。現在の三菱は「海援隊を前身」と考えているんでしょうか?そこが気になります。

投稿: えびすこ | 2010年4月25日 (日) 08時42分

えびすこさん、こんばんは~

>現在の三菱は「海援隊を前身」と・・・

さぁ?どうでしょうか・・・
でも、やっぱ「三つ葉柏紋」ですからね~
なにかしらのつながりを感じていらっしゃるのでは?

投稿: 茶々 | 2010年4月26日 (月) 01時50分

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