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2008年11月17日 (月)

加賀一向一揆・完全終結と信長の政教分離の話

 

天正八年(1580年)11月17日、今なお抵抗する加賀一向一揆の拠点・鳥越城を柴田勝家が落城させました。

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10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長石山本願寺との合戦・・・一時は、本願寺と和睦した上杉謙信が、天正五年(1577年)9月に能登を平定し(9月13日参照>>)さらに京都に向かって西上します。

これに対して信長は、北陸担当の柴田勝家を謙信対策に当てますが、謙信は勝家を、9月に手取川で、10月に大聖寺(石川県)で破り、もはや上洛して信長と相対するのは時間の問題と思われました。

しかし、冬に入って一旦本拠地の越後(新潟県)に戻った謙信は、明けて天正九年(1578年)の3月に急死(3月13日参照>>)してしまい、上杉家内では後継者争い・御館の乱が勃発する(3月17日参照>>)という、信長にはラッキーな展開となります。

上杉が身内同士でモメてる間に、信長は反撃を開始し、翌・天正八年(1580年)の閏3月9日、勝家は、ともに北陸担当だった佐久間信盛とともに、加賀一向一揆の本拠地・金沢御坊を陥落させました(3月9日参照>>)

そのページにも書かせていただいた通り、ここで、加賀一向一揆は終焉を迎えたのです。

ただし、やはり、まだ残党は残っていました。

その残党が今日の「山内(やまのうち)衆」と呼ばれる人々です。

彼らは、白山々麓にに住む真宗門徒たちで、大日川手取川に挟まれた鳥越山加賀鳥越城を築き、ここを拠点として、抵抗を続けるのでした。

その間に、本家本元の石山本願寺が信長と和睦をし、4月には本願寺十一世・顕如(けんにょ)が本願寺を退去、息子の教如も4ヶ月後に、本願寺を明け渡し、ここに石山合戦が終結しました(8月2日参照>>)

しかし、鳥越城は、二の丸・三の丸を備えた強固な山城で、その後も、勝家はなかなか攻め落とす事ができずにいました。

そこで勝家は、鳥越城主・鈴木出羽守とその一族に講和を持ちかけて誘い出し、騙まし討ちにしてしまうのです。

天正八年(1580年)11月17日大将を失った鳥越城は、あっけなく陥落してしまい、ここにまさしく、加賀一向一揆が終焉・・・と言いたいところですが、彼ら山内衆の生き残りは、翌年、再び蜂起して鳥越城を奪回!さらに抵抗を続けました。

しかし、天正十年(1582年)2月、とうとう山内衆は信長軍の掃討作戦によって倒され、徹底的な残党狩りが行われ、捕らえられた300名の門徒は、3月1日、全員が磔刑に処せられたのです。

徹底的にやられた、この周辺の村々からは、人の姿が消え、しばらくの間は、作物も実らない不毛の地となったと言います。

あの富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んで(6月9日参照>>)掴み取った百姓の持ちたる国・加賀一向一揆は、ついに100年にわたる歴史の幕を閉じたのです。

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ところで、今回の山内衆に対しても、長島一向一揆(9月29日参照>>)と同様に、不毛の地となるほどに、魔王のごとき徹底した姿勢と貫いた信長さんですが、本家本元の本願寺の顕如とは講和を結んでいます。

その後、抵抗した教如に対しても、抵抗している間は交戦しますが、本願寺を明け渡した後は、命を取るという事はありませんでした。

比叡山の焼き討ち(9月12日参照>>)にしても、そうです。

私自身は、あの比叡山の焼き討ちは、伝えられているよりも、ずっと規模の小さいものだったと思っていますが、たとえ、言われているような大規模な焼き討ちだったとしても、延暦寺=天台宗そのものを潰すという事はありませんでした。

そこに、信長さんの理念のような物が見え隠れするような気がします。

比叡山の焼き討ちや一向一揆への仕打ちの表面だけを見てしまうと、あたかも魔王が罪のない信者に対して、宗教弾圧を行っているがの如く映るかも知れませんが、決して、そうでない事を物語っているのが、本願寺との講和であり、延暦寺の存続なのでは?

信長が行いたかったのは、宗教弾圧ではなく、政教分離なのです。

あの徳川家康でさえ、三河の一向一揆(9月5日参照>>)にビビッて領地内での真宗を禁止にしていますし、豊臣秀吉キリスト教の弾圧(2月5日参照>>)や徳川時代の切支丹禁止令は、もう皆さんご存知でしょう。

しかし、信長が信仰そのものを禁止したという話は聞いた事がありません。

それは、信仰の自由を残したまま、政教分離だけをやりたかったという事だと思うのです。

この信長の時代が来るまで、宗教団体がその圧力で政治に介入する事は当たり前でした。

そんな中、21世紀となった現在に世界中の先進国が当たり前としている信仰の自由と政教分離の両立を、世界で初めてやろうとした人が信長だったのではないでしょうか。

もちろん、その方法に関しては、100%正しいとは言えません。

たとえ、信徒が武装していたとしても、もう少し穏やかな方法があった事も確かでしょう。

しかし、その理念だけは見抜いてさしあげないと、ただの無謀の殺戮に映ってしまい、それこそ、信長を殺戮の魔王に仕立てあげたい延暦寺の思う壺・・・って事になってしまうのではないでしょうか。

追記:お解かりだとは思いますが・・・
本文中の延暦寺・本願寺及び天台宗・真宗という表現は、あくまで戦国当時の団体の事であって、現在の団体は、宗教の理念は同じでも、姿勢はまったく違います事をご理解ください。

 

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

そうですね、仰るとおりだと思います。
比叡山延暦寺焼打ちや長島一向一揆討伐を理由に、やたら信長を非難する人には、どこまで分かっているのか聞きたいですね。

それと、柴田勝家が過小評価されていることも気に入らないです。並大抵でない政治力や魅力を持ち合わせていたからこそ、一向一揆の激しい北陸を任せられたのだと思うのですが。

投稿: KAKI | 2008年11月21日 (金) 20時32分

KAKIさん、こんばんは~

延暦寺は天文五年(1536年)に「天文法華の乱」>>という事件を起こしてます。

これは、京都にあった日蓮宗の21箇所のお寺をすべて焼き討ちした事件で、その時は、堂内に大量の僧や信者がいる事を承知で、包囲して焼き殺しているのです。

同じ事をしてるのに、信長の比叡山焼き討ちだけを非難して、こちらが、なぜ非難されないのかが不思議でなりません。

そもそも、蓮如が北陸へ逃げたのも、延暦寺の攻撃によるものですからね。

>柴田勝家が過小評価されている・・・

確かに、中国の秀吉、兵庫の光秀・・・東国は森長可や滝川一益・・・一番、ややこしいのは、北陸ですからね。
勝家さん、見事です。

投稿: 茶々 | 2008年11月21日 (金) 21時56分

初めまして!最初ちょこちょこ→今は毎日読んでます。
『自分の誕生日って何があった?』と、何気に携帯いじってたら、このサイトに出会いました。
読んでいて、『作者はマニアだねぇ~』と感心(マニアで感心?)してたら…何と!!貴方は女性の方!?今までの友達で、歴史が好きな女性は数人、しかもマンガ&大河ドラマの影響で(←構いませんケドね)『真田幸村はカッコイイ』とか『石田三成ってしょぼい』等々。しまいに『服部半蔵っていたんだぁ~。ケムマキは?』…知らねーよ!!お前なんか、大一大万大吉ぃ~!!(←使い方がアホ)
『明智光秀は部下思いで、領民思いでetc.(自分の知識ですけど)…』て教えてあげてたら、『あっ、サッカー日本代表勝った?』…帰っちまえ!バカちんがっ!!←なんて過去がチラホラあったので、“女性の歴史好き=俺の敵”みたいな(今は違いますよ♪まぁ大人になったんスよ、俺☆)
しかしっ!!このサイト、深い!参りました。さらに歴史の楽しみ方が同じ考え(ですよね?)!!そう、“あやふや”。そして、“妄想”『秀吉が北陸方面or関東方面担当だったら…。信玄、謙信どちらかが後10年長生きしてたら…。』とか『本能寺の変の光秀の心中は?』←たまりません♪
まだまだ書きたい事ありますが、…そろそろ眠い。
マジで歴史好きな人、自分も含めて、このサイトは素晴らしいサイト(サイトとブログの区別がわからん)と思います。大変な作業だと思います(←得意の妄想)が、歴史好きな人の大好きな“知識”をもっともっと増やさせて下さい。
これからも楽しく読ませてもらいます。

投稿: 佐賀んモン | 2008年11月23日 (日) 04時51分

佐賀んモンさん、思わず小躍りするような、うれしいコメントありがとうございます。

確かに、私の友人を見渡しても、歴史好きの女性は皆無ですね。

歴史の話をしても、ほとんど聞いてくれません(ノ_-。)
そのはけ口が、このブログですww

私も、サイトとブログの区別がよくワカランので、この先もサイトと言ったりブログと言ったりしますが、今後ともよろしくお願いします。

また、遊びに来てください!

投稿: 茶々 | 2008年11月23日 (日) 09時53分

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