石川数正・出奔事件の謎
天正十三年(1585年)11月13日、徳川家康の幼少時代からの重臣で、徳川家の筆頭家老だった石川数正が、突然、一族郎党百余人を伴って出奔・・・豊臣秀吉の傘下となりました。
この石川数正出奔事件については、11月12日と11月13日の2つの説がありますが、とりあえず、本日書かせていただきます。
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戦国屈指の謎とされる石川数正の出奔・・・
なんせ、数正は、徳川家譜代の家臣で、徳川家康の幼少の頃からの補佐役、あの人質時代(11月6日参照>>)にも、警護役を兼ねた遊び相手として同行しているのですから、もう、その人生は徳川一色だったはずです。
そんな彼が、家康を裏切って豊臣秀吉のもとへ走るのですから、その心中が謎とされるのも無理はありません。
その家康も、当時交戦中だった真田昌幸との神川の戦いで、それまでは何度も痛い目を見ながらも諦めずに上田城(長野県上田市)を攻め続けていたのを、この数正出奔のニュースを聞いて、一気に兵を退いてしまうくらいのショックを受けたのですから・・・(8月2日参照>>)。
その神川の戦いのページでも書かせていただきましたが、どーも、この数正の出奔には、あの信康と築山殿殺害の一件が絡んでいるような気がしてならないのです。
そもそもは、当時、今川の人質となっていた家康が、あの永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いのドサクサで、そのまま、父の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)に戻った(5月19日参照>>)わけですから、当然、妻子は今川の領地・駿府におきざり状態・・・その二人を岡崎へ連れ戻したのが数正でした。
そして、家康が岡崎城主となってから2年後、三河西郡城(にしこおりじょう・愛知県蒲郡市)を攻めた時、城将の鵜殿長照(うどのながてる)の二人の息子を生け捕りにした(生け捕りにされたのは長照本人の説もあり)のですが、その二人の人質と妻子を交換すべく、単身駿府に乗り込んだのです。
もはや駿府は敵地・・・「そこに乗り込む事は危険だ」と家康が止めたにも関わらず、「若君(後の信康)に殉ずるなら本望」と笑ってみせた数正・・・。
駿府にて、秘密裏に瀬名姫(家康の妻で後の築山殿)の父・関口氏広と交渉し、見事、二人の奪回に成功したのです。
後に、この事を知った今川氏真(うじざね・義元の息子)が、氏広とその妻を自害に追い込んだ事をみても、この人質交換がいかに重要であったかがわかります。
しかし、そうまでして取り戻した妻・瀬名姫は、敵将の従兄弟(瀬名姫の母は義元の妹)という事で、岡崎城には入れてもらえず城外の築山近くの館にて生活する事となり、以降、彼女は築山殿と呼ばれます。
その後、数正は、家康と織田信長の同盟にも力を注ぎます。
その同盟の象徴は、あの時取り戻した家康の長男・竹千代と信長の娘・徳姫との結婚・・・そして、その竹千代が、両父親の一字ずつを取った信康という名前への改名するのです。
そして、元亀元年(1570年)には、成長した信康に岡崎城を譲り、家康は目下の敵・武田との最前線・浜松城へと移ります。
この時期に数正は岡崎城の城代家老に任ぜられ、信康の後見人とも言える立場となります。
自らが、命がけで救った若君の下で・・・おそらく数正にとって、このうえない幸せだったに違いありません。
ところが・・・です。
天正七年(1579年)に事件は起こります。
その信康と築山殿に武田側と内通したとの疑いがかけられ、信長からの命令で、家康によって殺害&自害に追い込まれてしまったのです。
通説によれば・・・
「謀反の疑いあり」とした徳姫の手紙を受け取った信長が、家康の重臣・酒井忠次に確認し、忠次がそれを認めたために、家康への妻子殺害命令が出たとされています(8月29日参照>>)。
もし、その通りなら、数正の心中はいかばかりか・・・なんせ、命を賭けて取り戻した若君と奥さんを、自分が推し進めた結婚相手にチクられ、家康の人質時代からともに警護役として過ごしてきた同僚が、それを認めてしまったのですから・・・。
が、しかし、やはり私は、個人的には、以前、信康さん自刃のページ(9月15日参照>>)で書かせていただいたように、この事件は、もはや収拾がつかなくなってしまった岡崎城と浜松城の対立関係・・・徳川家内の内部抗争によるものではないか?との疑いを持っております。
『東照宮御実記』『改正後三河風土記』『三河物語』などなど・・・いわゆる徳川幕府公式史料とされる文書には、「上記の通説=信長の命令で妻子を殺害」となっているわけですが、それとともに、この時の数正の行動がまったく書かれていないという共通点があります。
あれだけ手塩にかけた若君ですよ。
岡崎城の城代家老ですよ。
この主君と城の一大事に、彼が動かなかったとは考えられないですよね。
おそらく、この時、数正は何もしなかったのではなく、彼の行動そのものが公式史料には残されなかったと考えるべきでしょう。
それは、家康を神とする徳川の公式史料には書けない事だったのではないでしょうか?
そう考えると、この時の家康の行動の中に、数正の心に引っかかる物があった事も想像できます。
おそらく、数正は、今まで、尽くして尽くしぬいた家康に、何かしらの不信感を抱いた事でしょう。
しかし、それでも数正は、天正十年(1582年)、あの信長が倒れた本能寺の変の直後の決死の伊賀越え(6月4日参照>>)の時には、家康を守って行動をともにしています。
ただ、その直後です。
信長亡き後、家臣団の中でトップにのしあがった秀吉に対しての戦勝祝いの使者という大役を任されます。
戦いに勝ってその領地を広げる事とともに、すでに配下に収めている領地や領民を維持するのも戦国大名にとっては重要な事・・・主君が、その攻める要なら、守りの要という立場が家老という職ですから、隣国との和を保つ事も家老の役目という事になります。
ここで、秀吉の使者として派遣された数正は、その後、秀吉と家康の間で勃発した小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)の後始末の講和の交渉役としても、頻繁に秀吉と会う事になります。
もちろん、彼は上記の通り、信長と家康の同盟にも尽力していますから、ずっと以前から秀吉との面識はあったでしょうが、やはり、ここにきて秀吉の魅力にとりつかれたとも言いましょうか・・・秀吉の人扱いのうまさに心魅かれたのかも知れません。
この小牧長久手の交渉の後ぐらいから、「数正は秀吉にかぶれているらしい」とか、「密かに通じているんじゃないか?」とかの噂が、徳川の家臣たちの間で囁かれはじめたというのも、あながち間違いではないのかも知れません。
かくして、天正十三年(1585年)11月13日、数正は、突然、一族郎党百余人を伴って出奔し、秀吉のもとへと走るのです。
ちなみに、秀吉のもとへと行った数正が、長年の主君を裏切ったという事実が豊臣の家臣からも嫌われ、結局は豊臣にも馴染めずに冷遇され、寂しい晩年を送ったというのは違うように思います。
彼は、豊臣に行った途端、和泉10万石(石高については諸説あり)を与えられ、いきなり大名になっていますし、九州征伐や小田原征伐にも出陣し、その功績によって信州の松本も与えられています。
あの朝鮮出兵の時にも、肥前(佐賀県)の名護屋まで、兵を率いて赴いています。
ただ、そこで病気にかかってしまい、朝鮮半島へ渡るという事がないまま亡くなったようですが、こうしてみると、通説で言われているような寂しい晩年ではなかったと思われます。
寂しい晩年というのは、おそらく、最後の最後に天下を取った徳川の人間が、あの信康の事件の時と同じように、数正の行動を排除したからに他ならないでしょう。
徳川から見れば、裏切り者の数正が、行った先で活躍していられては困るわけですからね。
おそらくは、謎とされる数正の出奔は、信康の事件の行動と豊臣での活躍を、徳川方が抹消したために謎となってしまったような気がします。
結局、数正の出奔とは、彼の家康への不信感と、破格の待遇でのヘッドハンティングがぴったりと重なったという事なのではないでしょうか。
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