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2008年11月18日 (火)

新撰組・最後の粛清~血煙!油小路の変

 

慶応三年(1867年)11月18日、元新撰組隊士で、高台寺党の伊東甲子太郎が新撰組に襲われて命を落とした『油小路の変』がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

常陸(ひたち・茨城県)志筑(しづく)出身の伊東甲子太郎(かしたろう)は、元治元年(1864年)の11月、友人の藤堂平助の紹介で、弟・鈴木美樹三郎(みきさぶろう)ら7人とともに新撰組に入隊しました。

入隊してまもなく参謀という要職に抜擢され、隊長の近藤勇から重用されますが、もともと、水戸江戸で学問や剣術を学んでいた頃から、彼は、尊皇攘夷派・・・幕府側の人間となる人ではなかったのです。

しかし、そんな彼を、近藤は、尊皇攘夷派と知ったうえで、新撰組に入隊させました。

それほど、彼がキレ者だったのか?
それとも、尊皇攘夷派との接点をを持っておいて、相手の状況を探るためなのか?

ところが、彼はキレ者でもある代わりにクセ者でもあります。

もともと友人だった藤堂・・・そして斉藤一(9月28日参照>>)ら、何人かの新撰組隊士を、自らの派閥へと誘い込み、慶応三年(1867年)3月、「孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえし・陵墓の守衛係)を拝命した」と言って、新撰組を脱退すると、6月には派閥の12人を引き連れて、東山の月真院(げっしんいん)を屯所にして活動し始めます。

この月真院が高台寺塔頭(たっちゅう本寺の敷地内の小さな寺)であるため、彼ら一派は高台寺党と呼ばれる事になるのですが、それにしても、確か、新撰組の規律で局からの離脱は認めてられていなかったはず・・・

それには、伊東が「薩長の動静を知るために、決別したフリをしておこう」と言ったのを、近藤が信じたからだと・・・いや、近藤が信じたと、伊東は思っていたようです。

少なくとも、伊東は、近藤局長に疑われているなんて、コレッぽっちも思って無かったみたいですね。

だからこそ、「近藤を暗殺して新撰組を乗っ取り、討幕に利用するんだ!」何て計画を、ベラベラとしゃべっちゃう事に・・・

誰に?って・・・、伊東とともに、新撰組を抜けた斉藤一に・・・です。

彼は、斉藤が新撰組を捨てて、自分について来てくれた事で、見事、斉藤の引き抜きに成功したと思っていたようですが、実は、斉藤は、近藤から派遣されたスパイ・・・斉藤は、この情報を持って、近藤のもとへと走ります。

斉藤が、本当にスパイだったかどうかという確かな証拠があるわけではありませんが、先ほども書きましたように、もともと新撰組を抜ける事すら禁止のはずが、斉藤は、この事件の後、何事もなかったように、再び、新撰組に戻っています・・・実にアヤシイでしょ?

とにもかくにも、斉藤から自分の暗殺計画を聞いた近藤は、すぐさま行動を起します。

慶応三年(1867年)11月18日
「敵(薩長)情視察の費用を渡すから、俺のコレ(妾)のトコへ来てよ」と、伊東を誘い出します。

この時、彼は、実際に薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)と接触を持ち、討幕についての話し合いなどをしていたのですが、それこそ、「その行動は、敵情視察の一環だと、近藤たちは信じ込んでいる」と、伊東は信じ込んでいたのです。

だからこそ、たった一人で近藤のカノジョの家へ向かい、しこたまお酒を飲まされ、ヘベレケになってしまうのです。

Honkouzitizu 国の事情や、この先の事や、あれやこれやを楽しくしゃべりまくった後、気分上々で月明かりの木津屋橋通を、屯所の月真院への帰路につく伊藤・・・。

しかし、その先の、油小路(あぶらのこうじ)には、新撰組の刺客が待ち構えていたのです。

まずは、大石鍬次郎(くわじろう)の槍がキラリと光り、伊東の肩を貫きます。

よろけながらも、刀を抜いて応戦する伊東・・・一人を斬り伏せますが、相手は大勢、自分は一人・・・。

ついに、油小路通の本光寺の門前の石塔にもたれかかり絶命しました

Dscn7450170 本光寺・・・右の石碑には「伊東甲子太郎殉難の碑」の文字が・・・

門前に「ご用のかたはインターホンを・・・」と書かれてあったので、押してみましたが、お留守のようでした(p_q*)

甲子太郎さんが、最期にもたれかかった石は、門の中にあるようです。

 

伊東の死を確認した近藤と土方歳三は、すぐに、屯所の月真院に使者を送ります。

「伊東が土佐藩士の襲撃に遭って負傷した」と・・・

そして、伊東の死体を、七条通と油小路通の交差点へと運び、今度は、この伊東を迎えにやってくる彼らを待ちうけます。

知らせを受けた高台寺党には、その日、7人の衛士がおり、
「コレは、ワナなんじゃないか?」
と思いつつも、伊東の災難と聞いて、放っておく事もできず、現場へと向かいます。

時は、ちょうど午前0時・・・高台寺党の彼らが、伊東に遺体に気づき、呆然としながらも、それを籠に乗せて連れ帰ろうとした瞬間、新撰組の一団が襲いかかります。

毛内有之助(けないありのすけ)服部武雄(はっとりたけお)・・・そして、あの藤堂平助の3人が討死、そして、伊東の弟・美樹三郎ら4人が、その場から何とか逃れます。

その後、当日、京都を留守にしていた者も含めて、その残党らによる近藤勇襲撃事件(12月18日参照>>)なども起しはしましたが、もはや、もとの状態に立ち直る事など不可能・・・

ここに、高台寺党は潰滅したのです。

多くの隊士を抱え、その統制をとるために、厳しい規律を設けて、違反した者を次々と粛清してきた新撰組・・・伊東甲子太郎の油小路の変は、その最後となるものでした。

やがて、勃発した鳥羽伏見の戦いに幕府軍の一員として加わった新撰組も、官軍となった薩長に敗北し、潜伏先の下総(千葉県)流山にて包囲された近藤が、大久保大和と名乗って出頭したのは、翌・慶応四年(1868年)4月の事でした(4月25日参照>>)

しかし、この時、捕らえられた大久保大和が、新撰組・局長の近藤勇である事は、すぐに官軍の知るところとなります。

近藤が護送された板橋の鎮撫総督府には、油小路でからくも逃げ切った加納鷲雄がいたのです。

油小路の変の当日、京都を離れていた者も含めて、彼ら生き残りは、命を失った4人の仇を討つ事を誓っていたと言います。

奇しくも、ここで再会を果たした二人・・・散りゆく者へ引導を渡した加納の胸の内は、いかなるものであったのでしょうか。
 

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コメント

indoor-mamaさん こんばんは。
遅らばせながら、コメントです^^;

本光寺、最近は門がピタリと
閉まっていることも多いようですが、
昔はもっと自由に入れたような気がします。
確か内にもうひとつ門があって、
そこに至る道の途中に例の石碑が
あったような。
座るには丁度いい高さでしたね~^^
でもヒビが入っていた(と記憶してます)
ので、私は座りませんでした。

投稿: ルンちゃん | 2008年11月20日 (木) 21時56分

ルンちゃんさん、こんばんは~

そうですか・・・夜だから門がが閉まってたわけではなく、昼間でも閉まってるんですか・・・

そう言えば、「見物のかたは、インターホンで言ってくだされば開けます」的な張り紙があったのですが、もう夕方の5時を過ぎていたので(大抵のお寺は5時までなので・・・)ご遠慮しときました。

ちょっと千本釈迦堂で応仁の乱に浸り過ぎてしまいました~今度は、昼間に行きます。

投稿: indoor-mama | 2008年11月20日 (木) 23時03分

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