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2008年11月21日 (金)

結城秀康~その運命の分かれ道

 

天正十二年(1584年)11月21日、羽柴秀吉徳川家康の講和が成立し、小牧長久手の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、その後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)で、信長の孫・三法師を立てて自らが後見人となり、実権を握ろうとする羽柴(豊臣)秀吉に対して、納得がいかない信長の次男・織田信雄が、徳川家康を味方につけて秀吉に対抗した、一連の小牧長久手の戦い・・・

 小牧長久手の戦いの詳細はコチラで・・・
  ・犬山城・攻略戦>>
  ・羽黒の戦い>>
  ・長久手の戦い>>
  ・蟹江城・攻防戦>>

この中で、最初の犬山城攻略戦以外は、ほぼ勝利を収めていた信雄+家康連合軍でしたが、秀吉の人たらしの術中にハマった信雄が、単独で秀吉との講和を結んでしまい(11月16日参照>>)、肝心の担ぐ後継者がいなくなった家康は、その振り上げたこぶしを下ろすしかなく、天正十二年(1584年)11月21日家康も、秀吉との講和を成立させたのです

結局は、その後、秀吉の要請に応じて上洛し、その臣下となるわけですが(10月17日参照>>)、この講和を結んだ時、その条件として、秀吉のもとに人質として送られたのが、家康の次男で、この時10歳だった於義伊(於義丸)・・・後の結城秀康(ゆうきひでやす)です。

ご存知のように家康は、長男・信康を自刃に追い込んでいます(9月15日参照>>)から、本来なら、この秀康がその後継者となるべき息子だったわけですが・・・

・・・てな事で、本日は、この小牧長久手の戦いの講和によって、その運命が大きく変わる結城秀康さんについて書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

この時、運命が変わる・・・とは言いましたが、実は、彼が生まれた時から、その兆しともいうべきものはありました。

彼は、なぜか、家康に嫌われている・・・というか冷淡な扱いをされていたんです。

当時の家康の居城は浜松城でしたが、彼は、別の場所で生まれ、育てられています・・・いや、それだけではなく、3歳になるまで、一度も、父・家康に会った事がなかったんです。

まだ、長男の信康が健在の頃に、さすがに、この冷酷な仕打ちをかわそうに思い、彼のとりなして親子の対面が果たされた・・・それが、その3歳の時。

家康が彼に会わなかった理由としては・・・
自分の子供かどうか疑っていたとか、
顔がブサイクだったとか
(コレはヒドイ!)
正室の築山殿に気をつかったとか言われていますが・・・

秀康のお母さんは、その築山殿の奥女中をしていた於万の方・・・つまり、家康さんは、嫁の侍女に手を出しちゃったって事で、それで気をつかったのか?とも思えますが、それにしても、まだ妊娠中の間に、於万の方を重臣の本多重次(7月16日於参照>>)のもとに預けて、そのまま、そのお屋敷で出産して、その後も会おうとしないなんて、ちょっと冷たすぎやしませんか!って感じですね。

しかも、結局、人質として手放すんかい!と文句の一つも言いたくなりますが、秀康にとっては、この時、秀吉のもとへ行った事は、案外良かったのかも知れません。

・・・というのも、誇り高く、豪快で武勇優れた彼を、秀吉はたいそう気に入って羽柴秀康と名乗らせて、実子がいないぶん、本当の子供のように可愛がっていたようですから・・・。

その気持ちに答えるべく、秀康も、九州征伐小田原征伐朝鮮出兵と次々と大活躍・・・しかし、例のごとく、秀吉に実子・鶴松が生まれた事で、またまた彼の運命が変わります。

ここで、秀吉の勧めによって、下総(千葉県)結城晴友の姪と結婚して養子となり、結城秀康となったのです。

それでも、結城家は関東の名族ですし、その後継者として11万石を継いだのですから、そのまま秀吉のもとにいて、鶴松の母である、あの淀殿に、後々睨まれるよりは、よっぽど幸せっちゅーもんです。

やがて、秀吉が亡くなった後に、再び、彼が武勇を発揮できるチャンスが訪れます。

それは、あの関ヶ原の合戦・・・。

もともと、越後(新潟県)上杉景勝を征伐すると言って、畿内を後にした家康・・・その留守に乗じて石田三成が挙兵して始まった合戦ですから、その後、家康が決戦のために西へ戻るとなると、当然、その景勝に対する牽制も必要になります。

秀康は、関ヶ原に向かうのではなく、東国に残り、その牽制の役を任されます。

次男の秀康に上杉を任せ、三男の秀忠に大軍を預けて東山道を西に、自らは東海道を西へ・・・この家康の采配を、またまた秀康への冷遇とする見方もあるようですが、ここでの上杉対策は、地味ではありますが、徳川の本拠地である関東を守るという重要な役割ですから、そうとも言えないでしょう。

現に、この関ヶ原の合戦から、家康の彼を見る目が変わります。

ご存知のように、東山道を進んだ秀忠は、真田昌幸・幸村父子の守る上田城の攻略に手こずって(9月7日参照>>)肝心の関ヶ原の合戦に間に合わなかったという大失態を起してしまいます。

逆に、秀康は宇都宮城に入って睨みをきかして、上杉の南下を防ぐという任務を、見事に果たしました。

この時、家康は、すでに秀忠を後継者に決めていたにも関わらず、徳川家の家督問題について、新たに重臣たちに、その意見を聞いたとされています。

もちろん、秀忠より秀康を後継者にしたほうが良いのではないか?・・・という話です。

結局は、2代将軍は秀忠って事に変わりはなかったのですが、それは、やはり、他家を継いだ秀康をを後継者にといのはマズイ・・・というのと、関ヶ原に勝利した家康には、すでに天下が見えていますから、天下を取った後の事を考えると武勇に優れた秀康より、実直な秀忠のほうが良いのでは?・・・というのとを合わせての決断で、この時ばかりは、決してえこひいきではないようです。

その証拠と言ってはなんですが、この関ヶ原の合戦の第1位の恩賞を彼に与えています。

秀康は、越前(福井県)北ノ庄75万石を与えられ、松平の姓に戻り、「御制外」という特権も貰っています。

「御制外」とは、将軍も命令が出せない・・・つまり、将軍の臣下ではなく同等という事・・・石高の75万石も、後にできる御三家の尾張=62万石、紀州=55万石と比較しても負けない、水戸=25万石なんか及びもしない大判振る舞いです。

しかし、そうは言っても、やはり、秀康にとって、弟である将軍・秀忠の次・・・二番手という意識が拭えなかったのも確かなようです。

そのささやかな抵抗が伺えるのは、彼は、この時、上記の通り、松平姓に戻る事を許されたにも関わらず、死ぬまで結城秀康という名前を使用したのだとか・・・。

なので、歴史人物として紹介される彼の名も結城秀康・・・松平とは、ほとんど書かれません。

そのせいか、飲むお酒の量も多く、慶長十二年(1607年)4月8日34歳の若さで、父よりも先に亡くなってしまいます。

自らも秀頼を弟のようにかわいがり「もし、徳川が大坂城を攻めたら、俺は秀頼を守りに行く」と言っていたという秀康さん・・・ひょっとしたら、秀吉のもとで、本当の子供のように可愛がられたあの頃が、一番幸せだったのかも知れません。

父親に翻弄された悲しい運命・・・彼が心配した家康の大坂攻め=大坂冬の陣は、その死から7年後に勃発します。 

*秀康の息子・松平忠直も悲しい運命をたどります・・・そのお話は6月10日のページで>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです(゚ー゚)

結城秀康は、私もとても興味がある人物です。
なにせ、戦国の三英傑の内、二人を父に持つのですから、それだけで凄いことです。

桐と葵の間で戦国を生き抜いた猛将は、意外に優しい人物だったという逸話もありますし、他の武断派武将にも人望があったようですね。

秀吉がもう少し長生きして秀頼政権が出来ていれば、秀康は酒に溺れることもなかったのでは・・・

関ヶ原の時、上杉と手を結んで家康の背後を衝いていたら・・・

色々と想像を巡らすと興味が尽きないです。

投稿: SEISYO | 2008年11月22日 (土) 10時11分

SEISYOさん、こんばんは~

そうですね・・・

弟の秀長といい、甥っ子の秀次といい、うまく行けば、この先、秀頼を盛りたててくれるであろう知恵のある人が、運命の歯車のささいな狂いにより早くに亡くなって、豊臣家の将来も決まっていったような・・・秀康さんも、その一人のような気がします。

投稿: 茶々 | 2008年11月22日 (土) 22時41分

来年の大河ドラマで秀忠の兄弟の配役がまだ決まっていません。秀康と忠吉は関が原の戦いに参戦したので、出ないとおかしいのですが?昨年は秀忠の兄弟が出なかったので。
せめて「御三家の初代」の3人は出てほしいです。

家康の心理を察すると、息子の秀康と秀忠は豊臣秀吉から「秀」の字をもらったので、孫にはどうしても「家」の字をつけたかったでしょうね。あとフィクションだとも思いますが10年前の「葵 徳川三代」では、秀忠を「家忠」に改名させようとしました。家光の幼名が自分と同じ「竹千代」なので。

投稿: えびすこ | 2010年10月24日 (日) 09時43分

えびすこさん、こんばんは~

結城秀康さん…
ドラマではけっこうスルーされる人なので、今回こそは、たっぷりと出ていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2010年10月25日 (月) 02時44分

この間家康の子孫を調べたんですが、結城秀康の息子や孫らも、数奇な運命を辿るんですね。
今年の大河ドラマではマエケンさんがやっています。

投稿: えびすこ | 2011年6月12日 (日) 10時25分

えびすこさん、こんにちは~

そっか~
あの人はマエケンさんだったのですね。
気づきませんでした(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2011年6月12日 (日) 16時24分

「結城秀康の研究」って本を読む限りでは、家康が秀康を疎んじていたとは考えにくいのですが。

第一、家康の命で石田三成を佐和山まで護衛した際、三成と互いの刀を交換するくらいの親しみがあるなら、三成に同調しても良さそうだが、家康に従っている。

それに豊臣政権下での官位が同じ養子の秀家は勿論、異母弟の秀忠より低い。
早い話、秀吉は秀康を家康を従わせるために利用しただけ。

投稿: | 2015年8月25日 (火) 19時46分

こんばんは~

「結城秀康の研究」という本を読んでいないので何とも言えませんが、考え方は研究者によって様々です。

将軍職を秀忠に譲るにあたって「家康は秀康を嫌っている」事にしたかっただけなのかも知れませんし、本当に嫌っていたのかも知れません。
(双子説もありますし…)

ただ、関ヶ原後に、本多正信と家康による豊臣秀頼の暗殺計画を耳にした時、秀康が「秀頼は僕の兄弟だ!」と激怒して制止したという記録がある事も確かです。

文献の解釈やどの文献に重きを置くか?は研究者によっても違いますので、歴史はおもしろいと思います。

投稿: 茶々 | 2015年8月26日 (水) 01時30分

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