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2008年12月 6日 (土)

非業の3代目~徳川忠長の自殺

 

寛永十年(1633年)12月6日、駿河大納言・徳川忠長(ただなが)自殺しました。

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寛永十年(1633年)12月6日の朝・・・上州(長野地方)高崎に幽閉されていた忠長は、その日、自分の部屋の前庭に、新しい垣が造られているのを見つけ、そばにいた警護の侍に尋ねます。

「どうして、こんな事をするのだ?」

聞かれた侍は・・・
「上からの命令でしょうが、身分の低い私にはわかりません」

そのまま、部屋に入った忠長は、ピシャリと障子を閉め、2度と庭へは出ようとせず、夕方になって女性を遠ざけ、女童二人をそばに置き、お酒を飲みはじめます。

やがて、その一人にお酒を温めてくるように命じ、もう一人には酒の肴を持ってくるようにと言い、部屋の外へ出しました。

彼女たちが、お酒の支度を整えて部屋に戻ると、そこには、真っ白な小袖の上に黒紋付を羽織った姿で、うつぶせになった忠長・・・その小袖が真っ赤に染まるほどの血を流し、すでに息絶えていたのです。

享年28歳・・・切腹ではなく、脇差でノドを突いての自殺・・・これが、徳川忠長の最期でした。

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以上は、新井白石『藩翰譜(はんかんふ)での忠長最期の場面です。

徳川将軍家に生まれ、父は2代将軍・秀忠、母は正室・お江与の方(小督・お江)、そして、兄は、3代将軍の家光です。

そんなエリート感満載の彼が、なぜ、高崎に幽閉され、自殺をしなければならなかったのでしょうか?

幽閉の直接の原因となったのは、忠長さんのご乱行の数々・・・。

殺生禁止となっている神聖な浅間山で猿狩りをしたり、真冬の鷹狩りでの休憩タイムに火をおこすのを手間取ったというだけで小姓を斬ったり、そして、最終的には家光・暗殺をうかがわせる怪文書による謀反の疑い・・・って、なんか、こんな話、聞いた事あるゾ~

そう言えば、以前、書かせていただきました・・・
殺生関白と呼ばれた豊臣(三好)秀次(7月15日参照>>)
最悪の暴君と言われた松平忠直(6月10日参照>>)

どうも、この手の話は、信じ難い・・・上記のページでも、秀次さん、忠直さん、ともに「汚名を晴らしたい!」と題して、実は領国では、なかなかの名君だとの噂がある事などをご紹介して、そのご乱行の話が疑わしい事を書かせていただきましたが、忠長さんに関しては、そういった領地でのお話を、あまり耳にしません。

逆に、「自分が病気であるため、召使いの者たちに無茶な間違った事をしてしまって後悔しています」てな手紙を、忠直さん自身が書いて、あの天海僧正に送っている事から、ご乱行の数々は、事実であろうというのが、歴史の定説となっています。

しかし、あの「狼が来たーー!」のウソツキ少年の話じゃないですが、何度も同じようなこの手の話で、名君に汚名を着せてきたのではないか?という疑わしい過去がある以上、やっぱり、すんなりと信じられませんよね。

そもそも、その浅間山での猿狩りの話や、鷹狩りの話が出てくる『元寛日記』には、これらの事件は寛永八年(1631年)11月と12月の話となっているのに対し、『徳川実記』では、同じ寛永八年の5月に、数々のご乱行による甲府への蟄居(ちっきょ・謹慎)が命じられている事になっていて、蟄居=幕府の監視つきの状態で狩りをしていた事になっちゃいます。

実は、この甲府への蟄居の命令が出た頃は、父・秀忠の病気が重くなった時期と一致するんです・・・それが、何かを物語ってる気がしてならないんですが・・・。

そもそも、この忠長さん、幼名を国松と言います。

この国松という名前を聞いて、ハタと思い出されたかたも多いんじゃないでしょうか?

そうです・・・後に3代将軍となる家光が、まだ幼い頃、なぜかうとまれた病弱の兄に対して、2歳年下の弟は、両親に可愛がられ、健康で活発、しかも兄をしのぐ利発さを持っていて、一時期は、この弟を後継者にした方が良いのではないか?との動きが出て、家光の乳母だった春日局が、慌てて御大・家康への直談判を決行したという話・・・(10月10日参照>>)

有名な、この話での、その弟というのが忠長さんです。

一般的には、家光には春日局という乳母がいたのに対し、弟は、お江与の方が手元で育てた事によって、愛情が忠長に偏り・・・と思われがちですが、忠長にも朝倉局という乳母がちゃんといます。

どちらかと言えば、手元で育てた育てないの差というよりは、お江与の方と春日局の確執=仲の悪さが、両親と二人の兄弟の密接度に影響を与えたって感じじゃないでしょうか。

ひょっとしたら、以前、【天海=明智光秀説】(10月2日参照>>)で書かせていただいたように、本当に家光は春日局の子供だったのかも・・・。

ところで、その父の重病のタイミングで、蟄居の処分を受けた忠直さん・・・やはり、父の事が心配で、「せめて、江戸近くまで行く許可をいただきたい」と、天海や重臣たちに手紙を送りますが、それらはみんな無視されます

先の謝罪の手紙も、この時の物ですし、それ以外にも「今後は重臣の皆さんの言うとおりにしますんで・・・」と、涙ぐましいほどの従順ぶりで懇願しますが、誰一人として、動く者もいなかったのです。

いや、むしろ、「触らぬ神に祟りなし」的な感じで、この一件を避けまくってる気配さえします。

やがて、寛永九年(1632年)1月24日、秀忠がこの世を去り、将軍・家光の時代がスタートします。

忠長を愛してくれた母・お江与の方は、すでに6年前に亡くなっていますので、この父の死で、彼の味方は一人もいなくなった事になります。

母とバトルを繰り返した春日局は大奥の頂点に君臨し、血を分けた兄は・・・

幼い頃に両親に愛された記憶のない兄は、おそらく、その愛情を独り占めしていた弟に、何かしらの思いを抱いていた事でしょうし、まして、「兄より将軍にふさわしい」なんて声が家中からも出るくらい、優秀な弟なのですから・・・。

思えば、あの大坂の陣から、わずか17年・・・未だ、幕府の地盤がゆるぎない物になったかどうかは、手探りの時期です。

不満を抱いた外様大名が、同じ血筋の忠長を掲げて立てば、若き将軍の脅威となる事でしょう。

そして、父の死から10ヶ月たった嘉永九年10月・・・忠長は甲府から上州高崎に移され、蟄居から幽閉へと、さらに厳しく監視される事になります。

それは、秀忠の死後まもなく、どこからともなく諸大名のもとに出回った「将軍・家光を抹殺し、駿河殿(忠長の事)を御代にしよう」という内容の怪文書による処分でした。

この怪文書を見つけて、一番に幕府に届け出たのはあの伊達政宗、続いて藤堂高虎、その後も次々と・・・しかし、この忠長と加藤忠広(清正の息子)とその息子の光広からの届出がなかったと・・・

先の『徳川実記』では、「忠長が甲州・蟄居の身でありながら度々江戸に使いを出し、さらに善行寺を建立しようとしたりして反省の色もなく、加藤親子と結託して謀反をくわだてた事が処分をきつくした」とあります。

また『駿河大納言御事蹟』という文書には「加藤光広が、イタズラとして、土井利勝なる人物が謀反をくわだてて諸大名に呼びかけるニセ書状を造り、皆に回したが、その書状の中に、忠広や忠長の花押(かおう・直筆サイン)があったので処分された」と書かれてあります。

さっきも、言いましたように、江戸への使いは、父の事が心配だからで、善行寺は、その父を弔いたいために建てようとしたもので、その行動は反省の色がない事になるものなのでしょうか?

さらに、2番目のはヒドイですね・・・イタズラで、そんな書状を回すかっちゅーねん!

しかも、かの春日局の弟が、清正の代から加藤家に仕えていたのに、この事件の寸前に暇乞いをして、故郷に帰ってるところが、さらにアヤシイ・・・もちろん、加藤家は、忠長の幽閉処分よりも先に咎めを受け、ご存知のようにお取り潰しとなります。

なんか、家臣も含めた徳川家全員に、よってたかってハメられた・・・という臭いがプンプン・・・

かくして寛永十年(1633年)12月6日・・・

冒頭の『藩翰譜』では、
「この身にとって、このような命を受けるのは、最も不幸な事ではあるが、御上の書状を拝見した以上、背くわけにはいかないので、しっかりとやるしかありません」
という、安藤重長なる人物の言葉を記し、
「その命令を実行すべく、安倍重次なる人物を高崎に派遣した」と、忠長の自殺が家光の命令であった事が書かれています。

忠長さんの数々のご乱行や、監視がきびしくなった理由を、でっちあげと疑うならば、その自害が家光の命令であったという記述も疑わねばならないところなのですが、なぜか、こちらは、すんなりと入って来てしまう気がします。

むしろ、その命令が本当にあった事であるがために、その命令が正しいものであると証明しなければならず、数々の不可解な理由を並べなくてはならなくなったというのが、一番納得できるような気がするのですが・・・

はたして、その最期の日に、彼の胸中によぎるのは・・・

磐石な幕府のための礎となった徳川の誇りでしょうか、
それとも・・・
ありもしない影に怯える徳川への哀れみでしょうか
 

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コメント

徳川幕政初期の粛清の被害者には、もう一人…忠輝さんも居ますね。忠輝さんは五代将軍綱吉公の治世まで存命だったとか。忠輝さんは武勇に秀でた兄=秀康さんを慕っていたので、宗家の家督を継げなかった秀康さん&その継嗣である忠直くんに対する思いは一方ならぬモノが有ったやに洩れ伺っております。対して…然したる武勲もなく凡庸を絵に書いたような秀忠兄さんのコトは、軽視していた感が強いですね、そんな忠輝さんは叔父の立場から家光くんと忠長くんの争いをどんな風に見てたでしょうかね?。余談ですが、以前…大河ドラマ「徳川・葵三代」の中で家光くんが秀忠父さんに、弟は父上から忠の一字を授かっておるのにワシは父上を慕っても名の一字すら戴いておらぬ事を淋しく思うておりました。然し今、忠輝叔父・忠直・忠長など不遇を託つさまを見ると、父上から名を戴かなくて良かったと感じております。ってな感じの台詞を言うシーンが有ったなぁって(台詞の言い回しや語句の違いは有ると思いますけど…。)思い出してます。

投稿: マー君 | 2008年12月 6日 (土) 13時33分

江戸幕府を確固たるものにするためには、イロイロ・・・仕方ないのでしょうね。

投稿: indoor-mamai | 2008年12月 6日 (土) 22時04分

はじめまして。鎌倉でお散歩を極めたい亀子と申します。
忠長さんについて、鎌倉にもいくつか遺跡があります。
こちらの松平忠長のページを参考にさせてもらいました。リンクをしたいのですがお許しいただけるでしょうか。

投稿: 亀子 | 2009年5月 6日 (水) 21時31分

亀子さん、コメントありがとうございます。

>鎌倉にもいくつか遺跡が・・・

そうですか、いつか鎌倉にも行ってみたいです。

このブログは、基本、リンクフリーなので、どんどんリンクしていただいても結構ですよ。

また、遊びにきてください。

投稿: indoor-mama | 2009年5月 6日 (水) 23時09分

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