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2008年12月31日 (水)

大晦日・恒例!大奥・裸おどり

 

本日は、あの大奥で毎年大晦日に行われる年越し行事のお話です。

・・・と言っても、旧暦に12月31日はありませんので、厳密には30日に行われていた行事という事になりますが、「大晦日」「年越し」となれば、その行事の背景にあるのは、やはり、一年の最後の日・・・という事で、今日、12月31日に書かせていただく事にしました。

・・・・・・・・・・・

時代劇などで、よく目にする大奥の雰囲気・・・

やれ、化粧直しだ!、お召し換えだ!と、一日中、大した事はやっていないように見える反面、しきたりに縛られ、自由がなく、本心をひた隠しに隠してるような・・・何やら、一種独特の張り詰めた空気のようなものがあります。

そんな中で、24時間、ほぼプライベートなしで過ごしているわけですから、そりゃぁ、ストレスも溜ります。

そこで、日頃のストレスを発散させるような、心踊る「新参舞い」という恒例行事が、大晦日の夜、新年を迎える行事として行われていたのです。

場所は、大奥の御膳所・・・つまり、調理をする台所のような広間の上段の板の間・・・というのも、この「新参舞い」なる行事の主役は、その年、新たに召抱えられたお末(すえ)と呼ばれる末端のお女中たちですので、おいそれと、大奥のさらに奥まったところに入れるわけもありませんから、当然、その場所は、新参者でも出入りできる場所という事・・・。

さらに、ここは、一部、屋根のないところがあって、どうやら見通しが良かったらしく、遠目に見える位置に御台所(将軍の奥さん)の居場所をしつらえる事ができ、ここなら、逆に、通常は下々の所に降りて来れない奥様も見物できるというわけです。

さすがに、そこまで見通しの良いところなので、北廊下には屏風を立て、周囲には白木綿を張って、一応目隠しします。

板の間には、うすべりと呼ばれる敷物を敷きます。

うすべりとは、現在でも床の間の敷物に用いられる畳の薄っぺらいような物・・・高級なゴザって感じですかね。

それを、敷いたら準備万端!

夕食後、いよいよ、その祭りが始まります。

やかんの底を、古参者のお女中が太鼓がわりに打ち鳴らし・・・
「新参舞いを見しゃいナ 新参舞いを見しゃいナ」と、はやしたて、ノリノリの雰囲気で、その場を盛り上げると、さきほどのうすべりを敷いた板の間に、新参者のお女中たちが登場!

なんと、その姿は・・・

体には、薄いピンクや白木綿の湯巻が一枚だけ・・・
頭には、手ぬぐい一つ・・・

湯巻というのは、一枚の布を腰巻のように巻いた物で、よく戦国時代ものなどのドラマで、農家の奥さんや娘さんが、井戸端や台所などでの家事の時に、今で言うエプロンのように巻いている布です。

それ一枚って事は、まさに、裸にエプロンの状態!
男のロマン~

その、ほぼ全裸の状態のお女中たちが、一列に並び、手に手に、御幣(ごへい)摺小木(すりこぎ)柄杓(ひしゃく)などを持って、先ほどののおはやしに合わせて、踊りながらの入場・・・。

御幣とは、神社などの神官がお祓いする時にササッと振る紙がベラベラついたアレ・・・摺小木も、変な想像をしてしまうし、御幣も、神聖なぶんだけ、より色っぽい感じがします~。

もう、恥もがいぶんもない状況の中、ぬいぐるみのネズミを裸の女中たちが追いかけるというショートコントのようなものも間に挟みつつ、大晦日の夜の宴は、最高に盛り上がっていくのです。

・・・と、これはひょっとして「祭りというより、新人イビリなのでは?」と、上の女中に言われて、新人たちが泣く泣く裸になって・・・という、大奥独特の陰湿なイジメを想像してしまいますが、これが、冒頭に書いた通り、けっこうなストレス発散になったようで、裸で踊る新人たちは、むしろ喜んで一晩中、踊り狂っていたようです。

新入社員の身体検査の意味も兼ねていたと言われるこのランチキ騒ぎですが、ある奥女中の話によれば、裸という部分は、否定しつつも、「大晦日の夜は、囲炉裏(いろり)のあたりで踊り狂ってふざけあったワ~」っと、楽しい思い出として語っているので、やはり、これは、大奥が年に一度、ハメをはずして大騒ぎする行事だったんですね。

まぁ、やってる本人もストレス発散となり、見ている側も楽しいのであれば、年に一度の裸祭りも、許される範囲という事で・・・。

ただし、コレ、今年の新参者というのがミソですね~

古いお女中の裸は、やはり女同士でも見たくないって事か?

どうせなら、大河でもやってほしかったなぁ
・・・無理だろうけど・・・

ちなみに、節分には、年男として老中御留守居役が大奥にやってきて、豆まき行事が行われていたそうですが、その時は、大勢のお女中に囲まれて、豆まきのドサクサで、尻やら○○やらを触られまくりの逆セクハラの嵐で、中には、布団です巻きにされ、みこしのように担がれ、胴上げされる者もいて、誰も、行きたがらなかったとか・・・。

女も集団になると怖いですからね~。

・‥…━━━☆

今年一年、「今日は何の日?徒然日記」にご訪問いただいてありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。

よいお年をお迎えくださいませヾ(_ _*)
 

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2008年12月30日 (火)

阿波の古ダヌキ~蜂須賀家政

 

永禄元年(1558年)12月30日、智略に長けた戦国武将・蜂須賀家政が誕生しています。

・・・・・・・・・・・

蜂須賀(はちすか)・・・という名字で、お気づきかと思いますが、本日の主役・蜂須賀家政さんは、蜂須賀党という野武士軍団を統率して、豊臣秀吉の天下統一に一役買った、あの蜂須賀小六(正勝)の長男です。

永禄元年(1558年)12月30日、父・小六と、宮後村八幡社(愛知県江南市)の神官の家系であった母・まつとの間に生まれ、幼い頃は、母の縁から本誓院(ほんぜいん・江南市)に預けられ、手習いなどの勉学に励みました。

やがて、父とともに秀吉に仕え、中国の毛利攻めや山崎の合戦にも参戦・・・特に、天正十三年(1585年)の四国征伐(7月25日参照>>)では、宇喜多秀家らとともに屋島から讃岐方面の攻撃を担当し、木津城・一宮城・脇城を攻めて武功をあげました。

その恩賞として蜂須賀家に与えられた阿波(徳島県)18万石・・・父の小六が、大名の座を固辞し、秀吉の側近として生きる事を望んだため、父に与えられるはずの、その18万石を譲り受けて、息子・家政が当主となり、徳島城を築城・・・これは、後々の阿波藩の基礎を築く事になります。

翌年の天正十四年(1586年)に父が亡くなった後も、九州征伐、そして、朝鮮出兵と大活躍し、ここまで、どっぷりと秀吉の忠臣として生きてきた家政でしたが、その秀吉が亡くなった後の、例の関ヶ原の合戦で・・・さぁ、困った!

なんせ、家政の息子・至鎮(よししげ)の嫁さんは、あの徳川家康の養女・・・しかも、その息子は、その時、家康とともに上杉討伐軍として出陣しています。

・・・かと言って、今までの蜂須賀家の経緯から考えたなら、当然、恩義ある豊臣家を裏切る事もできません。

しかし、家政には、すでに、この後の徳川の世が見えていたようで、ここから、その智略の達人の本領発揮!

後に、あの伊達政宗から、「阿波の古狸(ふるだぬき)なるニックネームをいただく事になる、一連の行動のスタートです。

まず、自分は西軍(豊臣)につき、豊臣家への義理を果たします。

そして、息子・至鎮は、そのまま東軍(徳川)に残り、これで、ひとます、西軍・東軍、どちらが勝っても蜂須賀家が生き残れる状態に・・・。

さらに、戦闘が始まると、自分は病気と称して大坂城にとどまったまま、家老を代理の大将にして合戦の現場に向かわせたのです。

・・・で、結局、その関ヶ原の合戦は、ご存知のように東軍の勝利となるのですが、その後、帰国した家老を、即日、蟄居(ちっきょ・謹慎の重いヤツ)にして、最終的に自刃に追い込みます。

そうです。
後々、家康に、「西軍に味方をしたのでは?」と責められた時、
「あれは、家臣が勝手にやった事」・・・

しかも、すでに、その罪を問い詰めて、切腹という処分を下し、解決済みだと・・・

さらに、とどめの一発として、すぐさま剃髪し、蓬庵と号して隠居・・・即座に息子・至鎮に家督を譲ったのです。

結果、蜂須賀家は、何のお咎めもなしで、阿波の所領は安堵となりました。

卑怯と言えば卑怯なやり方ですが、世は戦国・・・おかげで蜂須賀家は、代々生き残り、無事に明治維新を迎えるわけですから・・・

良くも悪くも、さすが・・・イヨッ!古狸・・・
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2008年12月29日 (月)

古式ゆかしい正月行事と初詣の起源

 

年金問題に食の安全、通り魔事件にゲリラ豪雨、果ては、リーマンショックでリストラの嵐・・・と、まっこと「変」な一年だった2008年も、残すところ、あと3日・・・

いよいよ、お正月の準備に忙しい年の暮れとなりました。

・・・という事で、本日は、その古式ゆかしいお正月の行事初詣の由来・起源について書かせていただきます。

ただし、何度もお伝えしております通り、お正月の行事は、ほとんどが、日本に仏教が伝わる以前からある民間信仰で、その後の神道や仏教の普及によって形を変えたり、あるいは統合されたりという紆余曲折を繰り返して、今に伝わるものですし、地方によって、その伝わり方も異なりますので、あくまで、諸説あるうちの一つという事をご理解下さい。

そもそも、初詣とは・・・

お正月に初めて神社仏閣へ参拝し、一年の無病息災・家内安全・平安無事などを祈る事で、除夜の鐘を聞いてから参るのが一般的ですが、この社寺にお参りする初詣が、いつ頃から庶民に定着したのかは定かではありません。

・・・と言っても、東京なら明治神宮大阪なら住吉大社京都なら伏見稲荷石清水八幡宮八坂神社・・・などなど、有名な社寺への初詣というのは、少なくとも電車などの交通機関が発達してから・・・というより、これは、完全に、近年の鉄道会社の宣伝のたまもの・・・

わざわざ電車に乗って、有名な場所へ出かける民族大移動で、鉄道会社は、かなり儲かりますからねぇ・・・

だからと言って、有名社寺への初詣を否定しているわけではありませんよ。

お菓子メーカーの思う壷とわかっていても、バレンタインデーにチョコレートを貰えばうれしいものですし、あげる側だってワクワクします。

それで、お互いの心にやさしい風が吹くのなら、思う壷にハマるのも悪くはありません。

平賀源内が考えた夏のウナギ屋の救済広告「土用丑の鰻」(7月30日参照>>)だって、食べた事で、何となく元気になれるのであれば、それはそれでOKですからね。

何たって初詣は、おみくじを引いたり、破魔矢(はまや・この破魔矢も平賀源内が考えた広告です)(10月23日参照>>)を戴いたり、中には振る舞い酒のサービスをしてくださるところもあり・・・と、それは楽しいものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、お正月の一連の行事は、以前、【お歳暮の由来】(12月20日参照>>)で書かせていただいた通り、年神様というお正月にやってくる神様をお迎えするために行うもの・・・。

まだ、時計もなく、暦も定かでない時代は、一日の終わりは日没で、一年の終わりも、その年の最後の日の日没・・・ここから、新しい年の神様を迎え、神様とともに過ごすお正月が始まるわけです。

今では大晦日の夜にあたるその夜に、神棚に鏡餅を供え、お神酒、燈明をあげた後、賑やかな膳を用意し、人はその前に座り、年神様を待ちます。

やがて、真夜中、神様が門松(のぼり)をより所に降りてくると、お神酒・お供物を下げてともに宴を催して、一晩中、家族で雑談を交わしながら過ごします。

この神様に供物を供えてから、その供物を家族そろっていただく事を「トシをトル(トシトリ)と呼びました。

やがて、夜が明けると、主人または長男が若水を汲み、奥さんがその水を、昨夜から一晩中絶やさずにいた炉の火(万年火)で沸かし、皆でお茶(福茶)を飲みながら、やはり神様にお供えしていた柿や栗・みかんなどを下げていただきます。

これが、今のところ一番、古い形であろうお正月の神様を迎える作法です。

また、地方によっては、「トシトリ」で、一晩中、自宅で徹夜する代わりに、鎮守や氏神様に詣でて、社殿で一夜を過ごす「トシゴモリ」というのを行いました。

この「トシゴモリ」初詣のルーツと思われます。

いずれにしても、「この夜は遅くまで起きていればいるほど長生きする」という観念は、共通のようです。

なるほど・・・それで、ウチの母も、日頃は「早く寝なさい」と言うのに、この大晦日だけは、紅白を見終って、そのあとの「ゆく年くる年」を、まだ見てても、何も言わなかったのですね。

Dscn6051a160 私の家は、「おけいはん(京阪電車利用者の事)・・・この夜、京阪電車は一晩中走ります。
←伏見稲荷:稲荷山頂上付近

沿線には、八坂神社・伏見稲荷・平安神宮・下鴨神社・成田山不動尊と初詣の名所が目白押し・・・石清水八幡宮なんてケーブルカーまで徹夜で運転してくれて・・・何か、心踊りますね~。

とにもかくにも、初詣は、不況になるほど人出が増えるという事なので、百年に一度の大不況と言われている今回は、さぞかし沢山の人で賑わう事でしょうね。
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2008年12月28日 (日)

故意か?失火か?~平重衡の南都焼き討ち

 

治承四年(1180年)12月28日、平重衡による南都焼き討ちがありました。

・・・・・・・・・・・

平重衡(たいらのしげひら)は、あの平清盛の五男・・・尾張(愛知県)墨俣の合戦水嶋・室山での合戦など、後に捕虜にされる一の谷の合戦以外は、ほぼ全戦全勝の武勇すぐれた武将。

その容姿は牡丹の花に例えられるイケメンで、その性格も細かな気配りができる好青年・・・平家物語だけでなく、源氏側の記録にも、彼の事は褒めて書かれてあるところを見れば、やはり、人間的にもすばらしい人物だったのでしょう。

しかし、そんな彼が、この南都焼き討ちの罪を、一人かぶる事になるのは、何ともお気の毒です。

時は、源平の合戦があらわになった、その年・・・治承四年(1180年)。

5月には、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)源頼政とともに挙兵(5月28日参照>>)、8月には、その以仁王から打倒平家の令旨(天皇家の命令書)を受け取った源頼朝伊豆で旗揚げし(8月17日参照>>)、10月には、富士川で、その頼朝との合戦に、平家が戦わずして負けてしまう(10月20日参照>>)という出来事が起こっています。

また、この間に清盛が自らの理想とする福原(神戸)に遷都するも、わずか半年で、また平安京に都を戻す(11月26日参照>>)というドタバタ劇もありました。

そんな中の12月25日・・・重衡は、父・清盛の命により南都の悪徒追放のため奈良に入ります。

南都とは、現在の奈良県の東大寺興福寺のある、あの一帯の事ですが、この南都攻めの時に、東大寺をはじめとする七つの寺や堂塔が焼き尽くされ、多くの死者を出してしまい、この事が、当人である重衡はもちろん、平家に対する世間の風当たりを強くする事になるのです。

そもそも興福寺は、あの藤原氏のお寺ですし、東大寺は聖武天皇のお宝が正倉院に収められている事でもわかるように、皇室との関係の深いお寺ですから、庶民の信仰も厚く、特にあの象徴的とも言える大仏殿を焼いてしまう事は、奈良の一般の人々にとっても非常にショックな事・・・神仏を恐れぬ悪行と解釈されてしまうわけです。

では、もともと、なぜ、平家が、南都を攻めなければならなかったのか?

その発端は、保元の乱以前の久安三年(1147年)にさかのぼります。

その日、祇園のイベントに参加していた清盛の父・忠盛の郎党と祇園社の所司(官庁の役人)との間に、ちょっとしたトラブルがあり、その時のドサクサにまぎれて郎党の一人の放った矢が神殿に突き刺さるという事態になってしまったのです。

以来、本山である比叡山をはじめ宗徒たちが、平家を敵視するようになり、何かと挑発的な態度をとるようになっていたのです。

もともと、そんな背景があるうえに、ここに来て、前年の清盛のクーデター(11月17日参照>>)によって院政をとめられた後白河法皇の、「何とか、復権したい」という思惑も絡みつつ・・・。

なんせ、あの、何も思い通りにならないものはなかったという清盛のオヤジかも知れない大権力者の白河天皇(2月11日参照>>)も、「賀茂川の水とサイコロの目と比叡山の僧兵」と、その名をあげたくらい大寺院の僧兵は思い通りにならない横暴な存在だったのです。

この頃はすでに政治の実験を握っていた清盛にとっても、その宗教的権威を振りかざす彼らは目の上のタンゴブ・・・しかも、そんな彼らに乗じて、朝廷も抵抗するわけで、だいたい、周囲の猛反対を受けながらも、清盛が福原への遷都を決行するのは、これらの山門の勢力と、それに結びつく貴族たちの思惑から離れた場所で政治を行いたいがためのものだったのですから・・・。

・・・・・・・・・・・

ところで、25歳という若さで南都攻めの総大将を任された重衡ですが・・・この頃の合戦は、だいたい2~3時間で山場を迎え、勝敗の見通しがつくにも関わらず、この南都攻めは12時間もの時間を費やしてしまいました。

・・・というのも、すでに、各地での源氏による挙兵を聞きつけている比叡山や園城寺の僧兵たちが、この興福寺に全面協力の態勢をとり、京都から奈良に入ろうとする彼らを待ち受けていたからなのです。

古くから「奈良坂越えの京街道」と呼ばれた平安京と平城京を結ぶ道の、奈良の入り口に当たる奈良坂・・・僧兵たちは、その奈良坂にある般若寺に城郭を築き、重衡ら平家軍を奈良に一歩も入れまいと抵抗します。

Hannyazi800 般若寺:奈良坂&般若寺へのくわしい行き方はHPの歴史散歩へどうぞ>>

27日の昼間から始まった合戦は、やがて夜となり、あたりは真っ暗になってしまいます。

もはや、人がどこにいるのかもわからない状況となり、「これでは戦えない」と、明かりをとるために、大松明(おおたいまつ)に火をつけるのですが、これが、折からの強風にあおられ、民家に燃え移り、やがて、治承四年(1180年)12月28日南都一帯に燃え広がってしまったのです。

目の前の般若寺はもちろん、興福寺も、そして、東大寺の大仏殿も・・・。

文献の中には、この時、戦いを有利に進めるために、平家側が火を放ったとする物もあるようですが、私、個人的には、この火事は、失火だったのではないか?と思っています。

それは、後に、捕虜となった際も、あの頼朝が、その助命を考えるほど、立派な、そして、セコイ弁解などせず、武士らしい堂々とした態度であった重衡(6月23日参照>>)が、ただ一つ、死ぬまぎわにまで、「南都を焼き尽くしてしまった事は、自分の意図するところではなかった」と言っていたという事で、重衡びいきの私としては、やはり、彼の言葉を信じたい。

結局、この時の南都の僧兵との戦いには勝利した形の重衡ですが、大仏を焼いてしまったというその重罪は許される事なく、一の谷の合戦で捕虜となって、鎌倉に送られる途中の京の町では市中引き回し、そして、鎌倉での詮議の後は、その南都焼き討ちに怒り狂う僧兵たちに引き渡される事になるのです。

南都を焼いてしまった事で、「神仏を恐れぬ不届き者!天罰が下るに違いない」と、町の人々に噂された重衡・・・

しかし、最後の最後に、最愛の妻・輔子(すけこ)と再会できるのは、やはり神仏のおぼしめし・・・それこそが、この焼き討ちが失火であった事を物語っているように思うのですが・・・

その再会のお話は、以前、書かせていただいた【平家の公達・平重衡と輔子】3月10日のページでどうぞ>>
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2008年12月26日 (金)

吉田松陰、生涯一度の獄中の恋~高須久子

 

安政五年(1858年)12月26日、吉田松陰が老中・間部詮勝の暗殺計画と梅田雲浜の奪還計画を自白し、再び投獄されました。

・・・・・・・・・・・

若くしてその才能を認められ、長崎江戸に遊学し、後に、長州(山口県)にて開いた松下村塾から、維新で活躍する多くの弟子を輩出した事で、幕末の英雄とされる吉田松陰(よしだしょういん)・・・。

彼は、その人生で、二度、同じ野山獄に投獄されています。

一度目は、あのペリーが再び浦賀にやってきた嘉永七年(1854年)・・・前年の最初の黒船来航の際に(2月3日参照>>)、黒船見物をした彼が、やはり、自分の目で外国を見てみたいという衝動にかられ、密航しようとして失敗した時です。

どうせバレるなら・・・と自首した松陰の身柄を、幕府から託された長州藩は、彼を、萩の野山獄に投獄します。

そこには、すでに11人ほどの囚人がいましたが、松陰はその中で一番年下・・・

最初は周囲から軽く見られていた彼でしたが、しだいに親しくなるにつれ、その関係は変わってきます。

今は、獄中にいる囚人たちでも、その根底には、皆、それぞれに得意なものを持っている・・・

もともと大工をしていたある者は建築にくわしいし、板前をしていた者は料理にくわしいし・・・

そのうち、松陰が、崎で学んだ事を講義すれば、俳句が得意な者がお礼に俳句を教え、絵の上手な者は絵を教える・・・といった形で、いつしかそれは、獄中サークル活動となっていきます。

しだいに、その輪はどんどん広がっていき、やがては看守までが、サークルへの入会を希望し、松陰の講義に耳を傾けるという人気ぶりでした。

この時の教える面白さ、学ぶ楽しさが、後の松下村塾での講義に影響を与えた事は言うまでもありません。

そんな囚人の中に、一人の女性がいました。

高須久子・・・彼女は、松陰より12歳年上の37歳の未亡人

彼女は、萩でも300石の高禄の高須家のあととり娘でしたが、養子として婿になった夫が亡くなった後、その寂しさを埋める趣味としてはじめた三味線に、いつしか没頭する毎日を送っていた中、あるプロの三味線弾きの集団と仲良くなります。

芸能で身をたてる彼らは、いわゆる身分卑しき人たち・・・当時は、未だ封建的な身分制度の時代ですから、身分の違う者同士の交流が歓迎されない中、その交際が深くなるにつれ、頑固な父親がその関係に反対し、藩に届け出たというわけなのです。

それでも、本来は、獄につながれるほどの重い罪ではないのだそうですが、彼女は、その取調べの時に、悪びれる事なく・・・
「普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いの?」
と、主張した事が反感をかい、投獄されていたのです。

こうして知り合った二人・・・おそらく、松陰は久子の、そんな心意気に魅かれ、久子は松陰の最先端の話に胸踊らせたのかも知れません。

そう、彼女は、松陰の生涯において、たった一人の恋人・・・。

もちろん、二人の関係を証明するような直接的な記録は、何もありません。

しかし、囚人たちが、あのサークル活動で残した、いくつかの短歌や俳句・・・そこに、あたかも、あの万葉集狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)中臣宅守(なかとみのやかもり)ように(5月24日参照>>)歌のみで語る二人の恋の物語が見え隠れするのです。

(しぎ)立つて あと寂しさの 夜明けかな♪

これは、一年間の囚人生活を終えて、松陰が獄舎を出ていく時に、久子が詠んだ句だと言われています。

松陰の理念である「子義(しぎ)とかけて、彼が去っていく寂しさを詠む・・・獄中という抑制された中での彼女の思いが感じとれます。

開放された松陰は、その後、松下村塾で教鞭をとる事になるわけですが(11月5日参照>>)、ご存知のように、そこで学んだ門下生には、高杉晋作久坂玄瑞山県有朋伊藤博文などなど・・・もう、数えあげたらきりがないくらいの幕末・維新の志士が名を連ねます。

しかし、開国か攘夷かで揺れる安政五年(1858年)・・・幕府が天皇の許しを得ず日米修好条約を締結した事で、反幕府の意志をあらわにする松陰は、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺と、仲間の梅田雲浜(うんびん)奪還を計画します。

しかし、その計画は実行される事はなく、松陰は自首・・・安政五年(1858年)12月26日に、再び投獄されるのです。

この時、松陰は「獄居と家居と大異なし」と書き残していますが、おそらく、以前の野山獄と、今度の野山獄も大異なかった事でしょう。

誰と特定した書き方はされてはいませんが、何人かの囚人が、以前のまま残っていると語っています・・・きっと、その中に、あの久子もいた事でしょう。

なぜなら、この半年の後、松陰が安政の大獄(10月7日参照>>)の犠牲となって江戸に向かう時の、二人の歌が残っているからです。

♪箱根山 越すとき汗の い出やせん
  君を思ひて ふき清めてん ♪
 松陰

♪手のとわぬ
  雲に樗
(おうち=センダンの古名)の 咲く日かな♪ 久子

♪一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす) 松陰

遠く離れて行く愛しい人を、手の届かぬほど成長するセンダンにたとえ、忘れたくないその声をホホトギスに見立てて別れを惜しむ・・・まさに相聞歌のようです。

そして、安政六年(1859年)10月27日、江戸小塚原にて松陰は処刑されます(10月27日参照>>)

松陰亡き後の久子は・・・
明治元年(1868年)に、新政府のもと罪を許され、出獄しましたが、父親との関係が修復される事はなく、高須家には戻らなかったと言います。

けっこう長生きしたらしいという噂はあったものの、彼女がその後どのように生きたのか?はっきりした記録も証拠となる品も残ってはいなかったのです。

ところが、平成十五年(2003年)・・・松陰の門下生であり長崎造船所の初代所長を務めた元長州藩士・渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)の遺品から、一首の歌が書かれたお茶碗が発見されたのです。

♪木のめつむ そてニおちくる 一聲(せい・声)
  よをうち山の 本とゝき須
(ホトトギス)かも ♪

そして、その末尾には・・・「久子 六十九才」と・・・

「木の芽を摘んでいると聞こえてくるホトトギスの声は、維新を成した(世を討った)ホトトギスなのかも」

「一声」「一聲」「郭公」「本とゝき須」・・・
これは、ひょっとして、あの日、松陰が詠んだ歌への返歌?・・・

69歳になってもなお、久子の恋は、未だ現在進行形だったのかも知れませんね。

さぁ、あの世で待つ松陰さん!
今度はあなたが彼女に歌を返す番ですよ。
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2008年12月25日 (木)

討幕が決定的となった薩摩藩邸焼き討ち事件

 

慶応三年(1867年)12月25日、幕府軍によって江戸にある薩摩藩邸が焼き討ちされました。

・・・・・・・・・・・

夏頃から始まった「ええじゃないか」の大流行(7月15日参照>>)に、時代の転換期を予感させる慶応三年(1867年)・・・

何が何でも徳川家を潰したい武力討幕派の矛先をかわすように、10月14日、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還が上表されます(10月14日参照>>)

慶喜の思惑は、一旦、朝廷に政権を返還した後、新政府の名のもとで再び徳川家が主導権を握る事でした。

それを阻止したい討幕派は、12月9日、王政復古の大号令というクーデターを決行し、慶喜の将軍職辞任と江戸幕府の廃止が決定されます(12月9日参照>>)

教科書等では、大政奉還を江戸幕府の終りとし、翌日から明治時代と区分するのが一般的で、さらに王政復古の大号令が出たひにゃ、ここで、幕府の運も尽きたか・・・と思いがちですが、いやいや、実は、まだまだ挽回のチャンスはあったのです。

王政復古の大号令の小御所会議にも出席していた土佐藩の山内容堂(ようどう・豊信)公儀政体派(朝廷のもとで徳川家や諸藩主による議会での政治を理想とする)は、イギリス・アメリカ・フランスなど6ヶ国と交渉して、その外交権を掌握未だ政権担当能力ない朝廷から、慶喜の議定就任の約束を取りつけます。

つまり、このまま、後日、慶喜が朝廷に赴いて任命を受ければ、彼が新政府の議会の最高責任者となるはずだったのです。

その議定就任は、この12月28日に正式に決定される手はずとなっていました。

ところが・・・です。

それらの事を画策する京都大坂から遠く離れた江戸で、事件は起こってしまいます。

慶応三年(1867年)12月25日、取り締まりと称して、江戸の幕府軍が薩摩藩邸を襲撃・・・焼き討ちにしてしまったのです。

実は、これは、あの西郷隆盛の計略に、幕府がまんまとはめられた結果・・・

このまま平和裏に事が進めば、上記のような徳川家を中心とした議会が朝廷の下に誕生し、新政府と言いながら、江戸幕府と何ら変わらない政治体制となってしまう・・・

これを阻止するためには、幕府が朝廷の敵となる事が必要・・・幕府が自ら武力に訴え、それを薩長ら新政府側が粉砕するというシナリオでなくてはなりません。

そこで西郷は、未だ江戸城にいる13代将軍・徳川家定夫人・・・そう、あの篤姫を警護するという名目で浪士たちを江戸市中に集め、江戸近隣でゲリラ作戦を展開し、あちこちで騒ぎを起させていたのです。

この作戦を秘密裏に遂行したのが、西郷の右腕と言われた人斬り半次郎こと桐野利秋(きりのとしあき)、後に赤報隊隊長となる相楽総三(さがらそうぞう)(3月3日参照>>)といった面々だとされます。

彼らの度重なるテロ行為に対して、幕府側は、取締りとして薩摩藩邸を襲撃したわけです。

この江戸でのニュースが慶喜のいる大坂城内にもたらされたのは、奇しくも議定就任が決定されるはずだった28日・・・。

これによって、大坂城内は大騒ぎとなり、城に詰めていた幕府の兵士たちは冷静さを失い、「すぐにでも薩摩を討つべし!」の声があがるのです。

大坂城内には、慎重派もいましたが、もはや、いきり立つ兵士を制御するのは難しい状態・・・しかも、政権担当能力のない朝廷が泣きついてくるのを、ここまで待ち続けた慶喜が、1月1日、『討薩の表』=「朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩の者を引き渡せ」という主張とともに、各藩にも出兵を要請・・・薩摩への宣戦布告を発してしまいます。

この『討薩の表』を朝廷に提出すべく、老中格大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とする幕府軍が、大坂城を出立したのは、翌1月2日・・・

彼らの入京を阻止しようと、薩長を中心とした兵が伏見&鳥羽で待ち構えます。

そう、これが、本当の幕府崩壊へとつながる鳥羽伏見の戦いなのですが、この先のお話は1月3日のページでお楽しみください>>
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2008年12月24日 (水)

石見銀山争奪戦~尼子氏衰退のターニングポイント

 

永禄三年(1560年)12月24日、出雲(島根県)の戦国大名・尼子晴久37歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

先月書かせていただいた月山富田城(がっさんとだじょう)・開城のページでも、この尼子晴久さんの死からお話を始めさせていただいた(11月28日参照>>)ように、出雲を本拠地に、山陰地方に一大勢力を誇った尼子氏が、坂道を転げ落ちるように滅亡へと向かうターニングポイントが、この晴久さんの死にあったような気がします。

かと言って、晴久の後を継いだ尼子義久が、先代と比べて特別に愚将だったというわけではなく、時代の流れや周囲の環境が、まさにバッドタイミングで重なったような気がするのです。

鎌倉時代から、中国地方に君臨した2大勢力・・・周防(山口県)大内氏出雲尼子氏・・・。

近ごろ、世界遺産に登録されて俄然注目を浴びた石見(大森)銀山は、その鎌倉時代の延慶年間(1308年~11年)に発見されて以来、貴重な資金源として、この2大勢力の間での争奪戦が繰り返されていたのですが、その構図は、室町時代に入っても変わる事なく、銀山を守るために、大内氏によって構築された山吹城は、めまぐるしく両者の間を行き交い、抗争が繰り返されていたのです。

そして、いずれ大内氏も尼子氏も倒す事になる毛利も・・・

この頃は、未だ尼子氏の配下に納まる地方の一国人という身分でしたが、大永三年(1523年)、弟との家督争いに勝利して、毛利家の当主となった毛利元就(もとなり)は、その弟の背後に尼子氏の画策があった事で、以後、大内氏の配下となり、尼子氏と対するようになります(11月25日参照>>)

その後、天文十一年(1542年)に晴久の父・尼子経久(つねひさ)の死(11月13日参照>>)に乗じた大内義隆が元就を引き連れて、本拠地・月山富田城を攻めた第一次の攻防戦でも、1年以上に渡る籠城戦を耐え抜いて守りきり、不動の尼子氏を印象づけました。

ところが、その翌年の天文十二(1543年)年、尼子氏のあずかり知らぬところで、事態は大きく変わります。

大内氏の家臣だった陶晴賢(すえはるかた・隆房)クデーターを決行・・・主君・義隆を自刃に追い込み、自らのあやつり人形となる大内義長を大内氏の当主の座に座らせるのです(8月27日参照>>)

しかし、その7年後の弘治元年(1555年)、今度は、そのゴタゴタに乗じた元就が、厳島の戦い(10月5日参照>>)で晴賢を奇襲・・・戦いに参加していなかった義長は、無傷ではありましたが、あやつり人形として担ぎ出されただけの若き当主に、もはや、大内氏をまとめる力はありません。

ここで、山陽の雄・大内氏に取って代わった元就は、その金のなる木を手に入れるため、当時は尼子氏の物となっていた石見に手を伸ばします。

翌・弘治二年(1556年)、毛利の家臣・口羽通良(くちばみちよし)と元就の次男の吉川元春らが石見に進攻し、山吹城への攻撃を開始・・・尼子氏の配下で銀山代官を務めていた刺鹿長信(さっかながのぶ)らが応戦するも、やがて、山吹城は毛利の手に落ちます。

さらに翌年の弘治三年(1557年)には、銀山だけではなく、石見そのものをほぼ手中に収めた毛利・・・石見に残る尼子配下の者は温湯城(ぬくゆじょう・島根県)小笠原長雄(ながたか)のみとなってしまいます。

そんな中、すでに風前のともし火となっていた例の大内氏を、義長を自刃に追い込んで滅亡(4月3日参照>>)させた元就自身が、永禄元年(1558年)の4月に先発隊と合流し、この温湯城の攻撃に加わります。

さすがに、敵の当主の出陣に尼子氏も気合を入れなおし、こちらも晴久自らが1万5千の軍勢を率いて、まずは山吹城奪回へと向かいます。

攻撃を受けながらも温湯城が踏ん張る中、山吹城への兵糧補給を担当していた宍戸隆家を倒した晴久は、その勢いに乗じて山吹城を奪還・・・降伏という形で、敵側に寝返っていた代官・刺鹿長信を自刃させ、新たに本城常光を入城させます。

ここに、石見銀山は、再び尼子氏の物となりました。

翌・永禄二年(1559)になって晴久は温湯城の援助に向かい、7月5日には(こう)の川という川を挟んで毛利勢と対陣・・・一触即発の状態となります。

しかし、なぜか、ここに来て、にらみ合いするのみ・・・結局、戦う事なく居城の月山富田城に帰ってしまうのです。

これに激怒したのが、温湯城で頑張っていた小笠原長雄・・・。

「帰んのかい!」という怒涛のツッコミが聞こえてきそうな気配の中、案の定、「尼子は頼りにならん!」と、あっさりと元就の配下へと降ってしまいます

温湯城が手に入った以上、後は、山吹城に集中するのみとなった元就は、翌年、夏・・・新たに1万4千の兵を派遣して山吹城を攻めます。

それでも、山吹城を任せれている常光は何とか踏ん張り続けるのですが・・・そう、このタイミングです。

このタイミングの永禄三年(1560年)12月24日晴久が37歳の若さで病に倒れ、帰らぬ人となってしまうのです。

後を継いだ義久は、冒頭に書いたように、愚将というほど悪くはないものの、何と言っても弱冠20歳・・・謀略に長けた元就と相対するには、まだ早すぎでしょう。

やはり、ここに来ての晴久さんの死は、タイミング悪すぎです。

やがて、この2年後の永禄五年(1562年)6月8日には、山吹城が開城となり、石見銀山は毛利の物に・・・そして、あの第二次月山富田城の攻防戦へと向かう事になるのです(11月21日参照>>)
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2008年12月23日 (火)

三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦いと平手汎秀の死

 

元亀三年(1572年)12月23日、昨日の戦いに勝利した武田信玄が、首実検を行いました。

・・・・・・・・・・・・・

元亀三年(1572年)12月22日の夜、その日の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に勝利した武田信玄は、徳川家康が逃げ帰った浜松城の北方1kmのところにある犀ヶ崖(さいががけ)の北側に布陣します。

深夜になって、家康配下の天野康景(やすかげ)大久保忠世(ただよ)らが、負け戦に一矢報いようと、夜襲をかける作戦を練ります。

16挺の鉄砲と約100名の兵を引き連れ、密かに間道を行く彼ら・・・幸い、今日の空は雪模様の闇夜、敵は地の利を持たず。

90mの崖に布を渡し、橋に見せかけて準備万端・・・時を見計らって一斉に鉄砲を撃ち鳴らして鬨(とき)の声を挙げると、思わぬ夜襲に動揺した武田勢が、見せかけの橋に殺到し、次から次へと崖に転落して多くの死傷者を出し、大打撃を受けたと・・・

それゆえ、このあたりの地名は「布橋」と呼ばれるようになった・・・と言うのです。

しかも、この話には、更なる後日談があって、戦いから三年後になって、崖の下から奇妙なうめき声が聞こえたり、イナゴが異常発生するなどの不吉な事が度重なり、誰とも無く、この犀ヶ崖の戦いの祟りではないか?」と騒ぎになったため、家康の命により、祟りを鎮める念仏修法が行われ、その踊り念仏が、いつしかお盆の行事として行われるようになり、それが、現在も浜松市伝統芸能として残る遠州大念仏なのだとか・・・

ただし、この話は、徳川方の史料にしか書かれておらず、どうやら、あまり信頼のおける話ではないようで、正史としては疑問視されています。

しかし、もう一つ・・・
『柏崎物語』にも、徳川四天王の一人・榊原康政が、三方ヶ原の戦いの後、信玄が浜松城の近くに陣を構えたのを確認して、「夜のうちに城攻めがあるかも知れない」と、迎撃すべく、100名の兵とともに城下にて待ち構えていたという話が書かれています。

ただ、この時は、結局、いつまでたっても武田勢が攻めて来る様子が無かったので、「このまま帰ってもつまらん!」と、少しだけ敵の陣に近づき、大声を挙げて鉄砲を撃ち鳴らし、敵陣が大騒ぎになったところで、サッと退きあげたとなっています。

こちらの場合は、ただ脅しただけという事ですから、武田が大ダメージを喰らうという事はなかった事になります。

これらを踏まえて、今では、三方ヶ原の戦いの後に起こった犀ヶ崖の戦いでは、夜襲らしきものがあった事はあったが武田勢に大打撃を与えるほどの物ではなかったというのが、一般的な見方となっているようです。

そして、翌日の元亀三年(1572年)12月23日信玄は三方ヶ原の戦いで討ち取った武将の首実検を行うのですが、その中には、家康と同盟関係にあった織田信長が援軍として派遣した平手汎秀(ひらてひろひで)の首もあったのです。

この平手汎秀は、信長の傅役(もりやく)であった重臣・平手政秀(まさひで)三男(孫という説もあり)です。

汎秀の父・政秀は、その昔、若き日の信長が、奇抜なファッションに身を包み、ワル仲間のリーダーとなって、近所を暴れまわり、尾張のうつけと呼ばれていた頃、その素行の悪さをいさめようと、その命を捨てて信長に訴えた人物・・・(1月13日参照>>)

ご存知のように、結局は、信長はただのうつけではなかったわけですから、当時の自分には何等かの考えがあっての事だったとは言え、命を賭けていさめようとしてくれた家臣を死から救えなかった事は、成長した信長の中にも、重く圧し掛かっていたわけで、信長は、そんな政秀の息子・汎秀には、日頃から、特に心をかけていたのです。

その汎秀は、もう一人の重臣・佐久間信盛とともに3000の兵を従えて、援軍としてやってきていたのですが、三方ヶ原の戦いの直前、浜松城下に滞在していた彼らのところに、陣中見舞いにやってきた家康は、大将である汎秀や信盛に何の言葉もかけず、ただ、そのへんを見て廻っただけ・・・

その家康の態度を見た汎秀は、「殿様の命令やさかいに、援軍としてわざわざやって来たってんのに、大将の我々に挨拶もせんと、しかも、高ピーなあの態度は許せん!」と怒り爆発!

家の2階から、家康に聞こえるように・・・
「俺は、明日、先陣を務めて討死するよって、陣中見舞いになんか来んでもええぞ!」
と、大きな声で叫んだのです。

そして、翌日の戦いで、汎秀が本当に先陣を切って敵に向かって行こうとしたところ、さすがに家康の家臣たちも止めに入るのですが、そんな彼らに・・・

「今回の俺は、葉武者(はむしゃ・小物)ゆえ気遣い無用!」・・・つまり、信長より格下の家康さえ挨拶に来ない小物だと言い放って、敵陣に中に突っ込んで行ったのだとか・・・

これは、『利家夜話(としいえやわ)に書かれている逸話ですが、まぁ、家康さんにも悪気は無かったんでしょうが、まだまだ若年・・・おもらしの一件でもわかる通り、この戦いに関して、彼は余裕がなかったというところがホンネではないでしょうか。

しかし、そうして討ち取られた汎秀の首を、この日の信玄は、岐阜の信長のもとに、織田家への絶交の宣言として送ったのです。

それを知った信長は、汎秀の死を惜しむとともに、その怒りも頂点に達したと言います。

この時、三方ヶ原から無事帰還した信盛を、後に追放した時、その追放の条件の一つとして、今日の平手の死をあけている(7月24日参照>>)ところからみても、やはり信長にとって、汎秀の死は特別なものだったようです。
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2008年12月22日 (月)

武田信玄・上洛~その真意と誤算

 

元亀三年(1572年)12月22日、甲斐武田信玄三河徳川家康の生涯最初で最後の直接対決・三方ヶ原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

・・・と、この三方ヶ原の戦いは、有名な徳川家康おもらし事件もあり、一点集中の魚燐(ぎょりん)の陣を敷く武田信玄に対して、まさかの鶴翼(かくよく)の陣で挑んだ事もあり、何かと有名な戦いでありますが、これは信玄の西方遠征に対して、「わが領地をみすみす素通りさせてはなるか」と、未だ若さ丸出しの家康が、負けを承知の意地での出陣の感のある一戦でもあります。

この時の信玄の西への遠征は、上洛が目的というのが一般的で、このブログでも、一昨年の三方ヶ原の戦いのページをはじめ、甲斐を出発した10月3日のページ(10月3日参照>>)でも、はっきりと「信玄・上洛」と書かせていただいております。

すでに、信玄より年下の上杉謙信織田信長も上洛を済ませており、信長と不和になった15代室町幕府将軍・足利義昭の期待もあり、「京を制する者は天下を制す」と言われた時代・・・最後の大物としては、「この辺で上洛を果たしておかねば・・・」というのが、当然のなりゆきなわけですが、かと言って、この時の信玄が、本当に上洛を目的として大軍を移動させたのか?という事が、絶対とは言い切れないのも確かです。

三方ヶ原の合戦の流れは一昨年のそのページ(12月22日参照>>)で見ていただくとして、本日は、この信玄の出陣が、本当に上洛目的であったのかどうか?について書かせていただきたいと思います。

・・・というのも、この時期が問題です。

今日のこの日が三方ヶ原の戦いという事は、もう12月も半ばを過ぎた押し迫った頃に、まだ、このあたりをウロウロしていて、果たして、京都に着くのはいつになるのか?

ご存知のように、戦国武将で、最初に兵農分離をさせたのは、かの信長・・・この時期の信玄の軍勢は、未だ分離されておらず、8割もの人々が農民を調達してきた兼業兵士で構成されていたのです。

暦も、今とは違い、旧暦ですから、2月も半ばになれば、そろそろ農耕の準備を始めなければならない時期となるわけで、それを怠れば、たちまち領国内は食糧難となるはずです。

しかし、もし、天下を掌握するための上洛であるならば、京都に着いた~ハイ!OK・・・という事では済まされませんから、上洛した後も、何らかの小競り合いは覚悟しなければならないわけで、果たして、そんな時間があったのでしょうか?

・・・かと言って、もし、上洛が目的でないのだとしたら、この三方ヶ原の戦いで、家康に勝利しておきながら、家康が逃げ帰った浜松城を、そのまま攻め落とさずに先へ進む・・・というのが、とても不可解・・・またまた引っかかってきます。

急ぐ進軍でないのなら、ここで浜松城を落としておいたほうが良いような気もします。

そこで、注目は、その後、信玄が向かった野田城・攻略(1月11日参照>>)です。

現在でも、静岡県愛知県に分かれている事でもわかるように、家康の浜松城は、ギリ遠江(とうとうみ・静岡県西部)、野田城は三河(愛知県東部)・・・つまり、信玄が落としたかったのは、三河のほうではないか?という事です。

この時期、すでに信長は岐阜に本拠地を移して、しかも、浅井朝倉石山本願寺一向一揆の相手でめいっぱい・・・尾張(愛知県西部)はかなりの手薄になっているはずです。

逆に、信玄は信濃(長野県)の南部を支配下に収めていますから、落としやすい三河と尾張を取れば、甲斐(山梨県)からのルートが確保できる事になります。

確実主義の信玄にしてみてば、まずは今、三河と尾張を制しておき、上洛は、そのあとでも良かったという事なのではないでしょうか?

つまり、この時に一気に上洛するのではなく、一歩一歩確実に・・・という事です。

この時の西方遠征を上洛目的とする根拠の一つに、信玄が死の間際に「明日は瀬田(滋賀県の琵琶湖の近くの瀬田の事)に旗を立てよ」と言い残したとの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の記述があげられます・・・だから、やはり上洛を夢見ていたのだと・・・。

しかし、たとえ、この言葉を信玄が発した事が事実であったとしても、この「明日」という表現は、言った人と聞いた人の間に、かなりの誤差が生じる言葉ではありませんか?

この「明日」は、確かに翌日の事ですが、何も、近い日ばかりを指すとは限りません。

「将来」という意味でも「明日」と表現する時があるかも・・・

信玄が上洛を夢見ていた事は確かでしょう・・・「いずれ上洛を果たすぞ」と・・・

しかし、それは、今回の西方遠征ではなかったのかも知れません。

もちろん、大軍を率いての遠征は、たとえ実際に上洛しなかったとしても、相手に脅威を与える事はできますし、信長包囲網への信玄の参加に期待している将軍・義昭への面目も立ちます

そこンところは、完全に計算ずくでの数の多さだったはずです。

ただ一つの信玄の誤算は、己の命が、この野田城攻略の後で尽きてしまう事にあったのかも知れません。

確かに、その心の中までは読めませんから、あくまで仮説ではありますが、信玄の目は、もっと先の明日を見ていたのかも・・・ですね。
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2008年12月21日 (日)

天空の城!日本のマチュピチュ~竹田城・登城記

 

早速、昨日行ってきた竹田城のご紹介です。

竹田城は兵庫県朝来市にある山城・・・その歴史は、嘉吉年間(1441年~43年)に始まります。

Takedass900 藤和峠より:upにすれば、手前から2番目右の山上に石垣が確認できます・・・山が美しすぎて・・・。

あの山名宗全(持豊)の命で家臣の太田垣光景が築城しましたが、その時代は、城というより砦に近いもので、現在残っている石垣などは存在しませんでした。

やがて、永禄十二年(1569年)、織田信長の命で但馬(たじま・兵庫県西部)への進攻を開始した羽柴(豊臣)秀吉によって生野銀山をはじめ周囲の支城が次々と落とされ、太田垣氏は毛利の傘下となって、毛利の支援を得て秀吉に対抗しようとします。

Takedahh900 立雲峡より:ここなら肉眼でバッチリ確認できます

しかし、天正八年(1560年)、羽柴軍の攻撃によって城は陥落し(10月23日参照>>)太田垣氏による竹田城の支配は終ります。

秀長が城代として、城の整備をするとともに、桑山重晴が城主となった後、天正十三年(1585年)には、四国征伐に功績のあった赤松広秀が城主となります。

この頃が、竹田城の規模が最も大きく栄えた頃なのですが、その広秀が、あの慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦に西軍として参戦した後に東軍へと転身しましたが(10月5日参照>>)最終的に自刃に追い込まれ、竹田城は廃城となってしまいました(10月28日参照>>)

なので、現在の石垣のほとんどはこの関ヶ原の合戦の頃に、近江穴太(あのう)の手によって、穴太流石積み技法(のづら積みの一種)で構築されたものです。

Takedahb900 北千畳から天守台を見上げる感じもなかなかマチュピチュってます。

ただし城跡からは、もっと古い年代のものも発掘されており、この竹田城は、いくつもの時代によって、たびたび構築された複合遺跡であるという事で、他の時代も特定できる、さらなる発見が期待されています。

この竹田城の魅力は、何と言っても、戦国の山城特有の迷路のように張りめぐらされた複雑な侵入路を作り出す石垣の美しさ・・・。

Takedazyoutizu そして、円山川から立ち昇る霧によって発生する雲海の中に、石垣が浮かび上がるところから、天空の城とも呼ばれ、その風景は、まさに日本のマチュピチュです。
(マヤのは写真でしか見た事ないですが・・・)

雲海の条件は、秋から冬にかけての昼間と夜間の温度差が激しいよく晴れた日・・・朝8時までくらいです。

観賞ポイントは3箇所・・・

  1. 一つめは藤和峠・・・(上記1枚目の写真)
    北近畿豊岡自動車道・播但連絡道路の和田山ICから、国道312号を南下、2つ目の信号を右折し、途中にある「竹田城跡←」を左折せずに直進、途中で2手に分かれる道を「藤和」方面へ・・・
     
    こちらは、城跡には少し距離がありますし、朝は完全に逆光になってしまうようで、肉眼では、山の上にシルエットのような感じでしか見られませんでした・・・しかし、高さは、竹田城より高いので、雲海はキレイで、高性能のカメラなら、すばらしく美しい写真が撮れそうです。(峠の頂上に、待機場所のような駐車場あり)
     
  2. 二つめは立雲峡・・・(上記2枚目の写真)
    北近畿豊岡自動車道・播但連絡道路の和田山ICから、国道312号を南下、4つめの信号を左折(立雲峡の看板あり)、さらに山道を登ると「立雲峡→」の看板があるので指示通りに右折すると10台以上は止められそうな、余裕の駐車場があります。
     
    城跡との距離はだんぜんこっちのほうが近いです・・・ただし、こちらは、駐車場の場所は竹田城より低いので、雲海をバックに上からの景色を見たいなら、徒歩でさらに上まで登らなくてはなりません。
    途中途中で、お城がキレイに見えるポイントがあるので、気に入った場所があれば、そこまででいいのですが、一番上まで行くとすれば約1時間ほど登らなくてはいけません。
     
  3. そして、やっぱり城跡・・・
    ここは、先ほどの藤和峠への道の看板通りの場所を左折すれば、あとは道なりで駐車場に到着します。
    駐車場からは、徒歩10分くらいで城跡に到着します。
     
    中央にある天守台から南千畳を見下ろすのが、最も有名なアングル・・・マチュピチュのように見える箇所です。(下記写真4枚目)

もちろん、時間に余裕があって、足が丈夫なら、城跡へは本来の上り方・・・徒歩での登山がベストな事は言うまでもありません。

その場合は、地図の「文」のマークの竹田小学校から(徒歩50分)と、JR竹田駅から(700m)の二つの登山口があります。

Tekeda1pt900 天守台からの眺め「マチュピチュだ~!」

とにかく、周囲の山々が美しい・・・!

とても感激しました・・・まさに、天空の城、マチュピチュです。

*フォトアルバムには、別アングルの写真を4枚upしています・・・コチラからどうぞ>>(写真の右上の【次へ>>】をクリックすると2枚目の写真に移動します)
 

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2008年12月19日 (金)

海援隊の生みの親~龍馬も憧れた河田小龍

 

明治三十一年(1898年)12月19日、あの坂本龍馬にも影響を与えた土佐の知識人河田小龍が75歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

Touziinsyouryou150cc 河田小龍(かわだしょうりょう)・・・この方の本職は画家です。

小龍というのも、数ある号の中のひとつで本名は篤太郎・・・。

しかし、冒頭に画家・・・と書かずに、知識人とさせていただいたのは、土佐という地方にありながら、その先見の明というか、世界を見る目が時代の最先端をいっていて、とても画家という枠では収まりきらないような人だからです。

小龍は、土佐藩の下士の身分であった土生(はぶ)玉助の長男として生まれますが、その身分を嫌ってか、家督を弟に譲り、自分は、地侍だった祖父・金衛門の養子となって河田姓を継ぎます。

幼い頃から絵が上手だった小龍は、12歳で島本蘭渓(らんけい)に入門して本格的に絵の勉強をするとともに、15歳からは、儒学者・岡本寧浦(ねいほ)から儒学も学びます。

やがて、狩野永岳(えいがく)の弟子にもなり、20歳を過ぎた頃からは、多くの兄弟子を抑えて京都二条城の襖絵の修理にも抜擢されていますから、画家としての腕前は相当のものだったようです。

その頃からは、西欧の絵の技法にも興味を持ちはじめ、そのためのオランダ語を習い京都長崎で海外の情報を集めているうちに、どんどんとその視野が広がっていく事になるのですが、貪欲にありとあらゆる情報が集めるがゆえに、あまりに奔放な生活態度となってしまい、土佐藩のおエラいさんに目をつけられてしまって、高知に連れ戻されてしまいます。

地元・高知に戻った彼は、墨雲洞(ぼくうんどう)という私塾を開きますが、本来、画を教えるための塾であったここも、それはそこ、奔放な小龍の事ですから、京都や長崎で得た知識を学問としても教えるようになり、多くの下級武士や町民が、その門を叩く事になります。

そんなこんなの嘉永四年(1851年)、小龍27歳の時、彼の人生を大きく変える出来事が起こります。

あのジョン万次郎こと中浜万次郎が10年ぶりに帰国したのです(1月3日参照>>)

中浜万次郎は、土佐の漁師の息子でしたが、14歳の時に漁に出て嵐に遭い、アメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカで暮らしていたために、もはや、すっかり日本語を忘れてしまっていました。

当時は、鎖国中の日本・・・外国を見てきた者は、牢に入れられ、まるで犯罪者のように扱われるのが常で、土佐出身である万次郎は、あちこちの牢に入れられた後、当然、土佐でも取り調べを受ける事になるのですが、上記の通り、すっかり日本語を忘れてしまっている彼の取調べは、まったくもって進みません。

そこで、白羽の矢が立ったのが、オランダ語のできる小龍でした。

もちろん、オランダ語と英語は違いますが、何もできないものが何人かかっても、らちがあきませんから、ここは一つ、オランダ語ができて外国の事情にもくわしい小龍に・・・という事になったのです。

小龍は、万次郎を自宅に引き取り、取調べというよりは、寝食をともにする同居人という感じで、まずは日本語を思い出させるところから始めます。

紙にアルファベットを書き、その横に日本語を照らし合わせ・・・万次郎に日本語を教えるとともに、それは小龍自身も英語を覚えるという、ともに学ぶ姿勢を貫きます。

やがて、コミュニケーションがとれるようになると、万次郎が話すナマのアメリカ情報に小龍は興奮しっぱなし・・・

殿様(大統領)を入れ札(選挙)で選らび、
地上に敷いた鉄の道を馬のない車が走る、
蒸気で動く船、巨大な大砲を積んだ軍艦・・・

中でも、モールス信号に至っては、「その原理を教えろ!」と万次郎のぐび根っこを捕まえて迫るほどでした。

そして小龍は、もはや友人となった二人の問答を『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という一冊の本にまとめます。

この本を読んだ土佐藩主・山内豊信(とよしげ・容堂)は、あまりの感激に、「土佐藩だけではもったいない」と、幕府要人に回覧し、それは、アメリカという国の情報の手引き書となったと同時に、中浜万次郎という人物を江戸幕府のおエラ方が知るきっかけともなりました。

それから2年後の嘉永六年(1853年)、またまた大事件です!

そう、あのペリーの黒船来航(6月3日参照>>)

そんな時、浦賀で黒船を目の当たりにして興奮気味の一人の青年が小龍のもとを訪れます。

坂本龍馬です。

この頃の龍馬は、「いっちょ、黒船に斬り込んでやろう!」と、まだまだ血気盛んな頃でしたが、かと言って、目の前のあの大きな軍艦に尻込みしてしまう・・・そんなジレンマに悶々とした日々を送っていて、知識豊富な小龍の意見を聞きにきたのです。

そんな龍馬に彼は・・・

今、欧米と戦っても日本には勝ち目のない事、争うのではなく、その技術を身につける事の大切さを切々と語るのです。

さらに、具体的に・・・
「まずは船を手に入れろ。
そして、志を同じくする同志を集め、運輸業を行いつつ、西洋の航海術を学びなさい。
そして、外国と貿易し、国を豊かにし、外国と肩を並べるのだ。」
と・・・

そう、これは、まさに、後の海援隊です。

それを思うと、この小龍こそ海援隊の生みの親・・・それを、そっくりそのまま実現させた龍馬にとって、いかに、小龍の影響が大きかったかがわかります。

もちろん、人に言うだけではなく、自分でも実践しています。

文久三年(1863年)には、船を買うための資金を作ろうと、藩の支援を受けて塩田事業を行います。

いい土地も購入し、一流のスタッフもヘッドハンティングして、意気揚々と開始した事業でしたが、残念ながら、この塩田は失敗に終っています。

さすがの小龍さんも、金儲けの才能までは、備えていなかったのかも・・・。

ただ、貧しいながらも、絵の才能のほうは、未だバツグンで、数々の山水画や美人画などを残しています。

また、その技術を生かして、反射炉の施設の図面を書いたり、大砲鋳造の際の図面を書いたり、高知の市街地図を書いたり・・・と、幕末から明治にかけて、新しい仕事にもどんどんチャレンジし、明治三十一年(1898年)12月19日75歳で亡くなるその日まで、意欲的に活躍し続けたのです。

Suirokakusyouryuu330cc 琵琶湖疏水・水路閣

京都資料館にあるあの琵琶湖疏水工事(4月7日参照>>)の絵図も彼が手掛けたもの・・・

かくして、75歳の生涯を閉じた小龍は、現在、あの足利尊氏の菩提寺である京都の等持院に静かに眠っています。

・‥…━━━☆

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2008年12月18日 (木)

二度の脱走と局長狙撃~元新撰組・阿部十郎

 

慶応三年(1867年)12月18日、高台寺党の生き残りで元新撰組隊士の阿部十郎らが、墨染にて局長の近藤勇を襲撃・・・重傷を負わせました。

・・・・・・・・・・

この近藤勇襲撃事件を語る時、大抵は、篠原泰之進(たいのしん)らが・・・」と、篠原さんを主として書かれる事が多いのですが、本日は、その襲撃仲間の一人・阿部十郎さんを中心に話を進めさせていただきます。

なんせ、この人は、何百人といる新撰組隊士の中で、ただ一人、2度も新撰組を脱退した人なのです。

血気盛んな多くの浪士を一つにまとめなければならない新撰組・・・そのためには厳しい規則を設けねばならず、その中にはご存知のように「勝手な脱退は認めない」というのもあったわけで、脱走者は捕まって切腹というのが当然のなりゆきだったのですが・・・。

阿部十郎が新撰組に入ったのは、文久三年(1863年)の6月頃と言いますから、例の将軍の上洛のために最初に集められた浪士隊のほとんどが江戸に戻って、芹沢鴨近藤勇のグループだけになってしまい、会津藩お預かりとなって京都の治安維持を目的とする壬生浪士組と名を改めて、大坂や京都で隊士を募集した頃・・・その頃に彼の剣術の先生だった谷万太郎とともに入隊したようです。

しかし、局長の近藤と、事あるごとに意見がぶつかり、彼は、わずか一年ほどで新撰組を脱走するのです。

さすがに、ここでは掟どおり・・・見つかれば切腹させられてしまいますから、おとなしく大坂に隠れ住んでいたのですが、その時に土佐勤王党の残党たちのアヤシイ動きをキャッチします。

当時、まだ新撰組にいて大坂駐屯所の隊長をしていた万太郎とともに、彼ら残党が大坂焼き討ち&大坂城乗っ取りを計画している事を知った十郎は、万太郎の兄・谷三十郎らと一緒に、残党たちが拠点としているぜんざい屋を襲撃!・・・その計画を未然に防ぐ事に成功するのです。

世に言う「道頓堀ぜんざい屋事件」・・・この功績のおかげで、脱走の罪が許され、十郎は、晴れて新撰組に復帰するのです。

その後、新撰組の砲術師範などを任され、脱走経験者としては異例の出世を果たすのですが、やっぱり、おとなしく新撰組に収まるタイプではなかったようです。

慶応三年(1865年)3月、「御陵衛士(陵墓の護衛係)を拝命したとして新撰組を離脱した伊東甲子太郎(かしたろう)とともに再び脱退し、彼も高台寺党となるのですが、その11月・・・新撰組による甲子太郎暗殺=油小路の変(11月18日参照>>)が起こってしまうのです。

十郎自身は、この時、京都を離れていたので無事でした。

そして彼は、同じく難を逃れた篠原泰之進内海次郎ら高台寺党の生き残りとともに、薩摩藩邸に身を寄せ、殺害された4人の復讐を誓うのです。

最初は、あの沖田総司に狙いをつけますが、なかなかチャンスに恵まれず、そうこうしているうちに、当時、伏見奉行所に陣を構えていた新撰組局長の近藤勇が、二条城に出向く日づけを聞きつけたのです。

「これは絶好のチャンス!」
とばかりに、その帰り道を襲撃する事にします。

Dscn7447330 尾張藩邸跡に建つ伏見板橋小学校

かくして慶応三年(1867年)12月18日、部下数名とともに、馬に乗った近藤が伏見にさしかかる頃、伏見街道沿いの空き家にて待ち伏せする彼ら・・・

後に、十郎は、この場所を、「伏見の尾張藩邸の横にある街道を曲がるところ」と証言していますので、その証言に間違いがなければ、現在、その尾張藩邸の跡地には伏見板橋小学校が建てられているという事で、最寄としては、京阪電車の墨染駅より丹波橋駅の近くという事になりますね。

ちなみに、薩摩藩邸は、その南側の道・下板橋通を西(地図では左)に行って川を越えてすぐの突き当たりの目と鼻の先の所に・・・この距離は、普通に歩いて2分程ですので、オッサンが全速力で走れば、すぐに逃げ込む事が可能だったでしょうね。

現在、この伏見街道というのが、どのあたりだったのか?という事が特定されていませんが、小学校の隣の伏見中学前には、「みぎ・いなりかいどう ひだり竹田街道」と書かれた道標が現存し、文久年間(1861年~1863年)に発刊された『宇治川両岸一覧』の中には、「伏見街道は竹田街道と並行して走る伏見稲荷詣の道である」ような事が書かれてありますので、このあたりであった事は確かなようです。

また、伏見奉行所は、ここから1kmほど南、現在の伏見桃山駅をさらに南200mほどの所(奉行町という地名が残ってます)にありました。

Fusimikondoutizucc 丹波橋周辺
 
やがて、通りがかった近藤めがけて、鉄砲で狙撃する十郎・・・

さすがは砲術師範・・・十郎の撃った弾は、近藤の肩と胸の間に命中します。

手ごたえアリ!と見て取った彼らは、一斉に刀を抜いて斬りかかり、近藤の連れていた部下数名のうち、二人がこの交戦で命を落しますが、近藤自身は、重傷を負いながらも、落馬する事なく、そのまま馬を走らせ、何とか伏見奉行所までたどりつきました

その後、療養のため大坂城に移った近藤は、この怪我のため翌年・慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)には参戦できず、この時に参戦した新撰組の指揮は土方歳三が引き受ける事になります。

一方の十郎らは、そのまま薩摩藩邸へ逃げ帰り、戊辰戦争では薩摩軍として参戦しています。

結局、この戊辰戦争の途中で、近藤は新政府軍に拘束され、十郎と同じ高台寺党の生き残りの加納鷲雄によって、そのメンが割れる事となり、最終的に処刑(4月25日参照>>)されるのですから、結果的に、彼ら高台寺党の生き残りは、伊東の仇を討ったという事になるのかも知れません。

その後、明治になって、北海道で官職についていた十郎も、54歳になった晩年、突然、果樹園を開き、幕末の動乱に波乱の人生を送った事を払拭するかのように、リンゴの栽培に没頭する毎日を送ったそうです。
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2008年12月17日 (水)

維新のさきがけ~天狗党の降伏

 

元治元年(1864年)12月17日、水戸藩の尊皇攘夷派が中心となって結成された天狗党が降伏を決意しました。

・・・と、この天狗党・・・以前、新撰組の芹沢鴨さんのところ(9月18日参照>>)で、チョコッと名前が出た程度で、このブログでは、ほぼ、お初・・・という事で、ちょっと前置きが長くなりますが、今回は、まずは大まかな結成の経緯から書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

天保年間(1830年~44年)、藩主・徳川斉昭(なりあき)によって改革が推進され、そこで設立された藩校・弘道館(こうどうかん)は、水戸学を学ぶ場所として君臨し、そこから、藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)戸田忠太夫(ちゅうだゆう)を中心とする水戸尊皇攘夷思想が全国に広がっていきます。

明治維新の思想のベースとなる、この尊皇(王)攘夷・・・そもそもは、日本の主君は将軍ではなく天皇であるという尊皇思想と、外国勢力を排除しようという攘夷思想が結びついたもの・・・つまり、「日本は、天皇という君主が治める神国であるのだから、外国からの干渉を一切受ける必要はない」という物です。

この頃、斉昭は息子・徳川慶喜(よしのぶ)を、御三卿の一つ・一橋家(御三卿については11月10日参照>>)の養子にして、将軍継承の候補者とする事にも成功し、水戸藩は、まさに幕政の中心となりつつありました。

しかし、嘉永六年(1853年)のペリーの来航(6月3日参照>>)によって、日米和親条約が締結されてしまい、その立場は大きく変わります。

攘夷という事は、当然、鎖国を守るという事、なのに条約を結んだという事は、その鎖国政策が崩れるという事・・・それでも水戸の尊皇攘夷派は、幕府に敬意を持ち、アメリカの圧迫に屈し、条約を結んでしまった幕府の姿勢には反対しても、幕府そのものに反発するという事はありませんでした。

ところが、安政五年(1858年)、大老・井伊直弼(なおすけ)は、天皇の許しのないまま日米通商条約に調印し、次期将軍に紀州徳川慶福(よしとみ・家茂)を推し、将軍継承のライバルだった慶喜の一橋派&尊皇攘夷派を処罰します・・・世に言う安政の大獄(10月7日参照>>)です。

藩主・斉昭は、この安政の大獄で蟄居(ちっきょ・自宅謹慎のキツやつ)の身となってしまい、水戸藩は混乱の嵐・・・そこに、天皇からの「攘夷を推進せよ」との勅諚(ちょくじょう・天皇の命令書)戌午の密勅が届いた事で水戸藩は・・・
・この命令を受ける
・勅諚を幕府に返す
・勅諚を天皇に返す

の3派に分かれ、更なる混乱となります。

そんな中、水戸藩内で最も過激な尊皇攘夷派で、すでに脱藩していた高橋多一郎らのグループが、桜田門外にて井伊直弼を暗殺(3月3日参照>>)、また別のグループが、高輪の英国公使館を襲撃、さらに、坂下門外にて老中・安藤信正襲撃・・・と次々に事件を起します。

しかし、このいずれの事件も、ベースは水戸学・・・やはり幕府そのものに反発するのではなく、幕府あるいは藩内の改革を願っての過激行動だったのですが、それらの事件に刺激を受けたのが、すでに安政の大地震で亡くなっていた藤田東湖の息子・藤田小四郎・・・彼は、弘治元年(1864年)3月27日、弘道館で学んだ同志たちとともに、筑波にて挙兵します。

これが、天狗党です(3月27日参照>>)

・・・・・・・・・・・・・・・

やがて、藩内の郷士や農民たちも参加し、徐々に大きくなる天狗党ですが、当然、幕府は関東の諸藩に天狗党の追討命令を出し(4月10日参照>>)、天狗党とは無関係の姿勢をとっていた水戸藩も、保守派の市川三左衛門(さんざえもん)が率いる諸生党軍(しょせいとうぐん)を派遣し、各藩の追討軍とともに、天狗党との争乱を繰り返します(7月9日参照>>)

さらに、騒動を取り締まるために派遣された松平頼徳(よしのり)のグループ・大発勢(だいはつぜい)が加わる中、以前は、同じ攘夷派でも強行派である天狗党に反対の姿勢であった武田耕雲斎(こううんさい)も参加して、ここに耕雲斎を総大将に新たな天狗党が結成されました(10月25日参照>>)

しかし、それと前後して、大発勢が幕府軍に破れて降伏・・・この形勢を逆転すべく、天狗党は、11月1日、京都に向けて常陸(茨城県)大子(だいご)を出立するのです(11月1日参照>>)

それは、現在、京都にいる徳川慶喜に、水戸藩の現状と尊皇攘夷の意志を貫く事を訴えるというもので、「攘夷」「魁(さきがけ)」「日本魂(やまとだましい)などの旗をひるがえしての行軍でした。

途中の宿場や道筋では、天狗党を支持する者、その勇名に恐れをなしてただ通り過ぎるのを見守る者、あるいは行軍を阻む者との戦闘・・・などなどを繰り返しながら、大子を出発して、ちょうど約1ヶ月後の12月1日、一行は揖斐宿(いびじゅく・岐阜県)に到着しました。

ここから、直で京都に向かえば、5~6日の行程でしたが、目の前の彦根は例の井伊直弼の実家・・・「そこは避けねば・・・」と、彼らは、越前(福井県)を通る北へのルートを取ります。

真冬の越前・・・1m以上の積雪の中、馬をひき、大砲を抱えての決死の峠越えは、たどり着いた秋生村(あきうむら・福井県大野市)さえ、すでに焼き払われていて、出発時は千名ほどいた一行も、ここで800人ほどになってしまうほど過酷な状況でした。

やがて12月9日、今庄(福井県南条)で少し態勢を整えて、その後、木ノ芽峠を越え、12月11日には、新保(福井県敦賀市)に到着します(12月2日参照>>)

しかし、ここで彼らは、愕然とするのです。

この地を治める金沢藩の軍に
「俺らは、慶喜公に会いに行くのが目的で、金沢藩と戦う気はないので、すんなりと通しておくなはれ~」
と、頼みに行くと・・・
「慶喜公は、天狗党討伐軍の総督として海津(滋賀県マキノ町)まで来ている」と・・・。

頼みの綱の慶喜が、討伐軍の総督・・・

しかも、必死の思いで書いた嘆願書も受け取ってもらえず、そのまま天狗党への総攻撃が決定されてしまうのです。

四面楚歌の状態となってしまった天狗党・・・その日、彼らは最後の軍儀を開きます。

「このまま、最後まで攘夷の姿勢を貫こう!」
と言う者もいる中、耕雲斎の考えは・・・
「慶喜公は主君のようなお方・・・」
いや、むしろ、慶喜のためを思っての一連の行動でしたから、その慶喜に弓を向ける事は到底できません。

耕雲斎の意見を、かの藤田小四郎が支持するに至って、元治元年(1864年)12月17日、天狗党は、この先を戦わず降伏する事を決定します。

12月21日付けで、その降伏状は受理され(12月21日参照>>)、その後、彼らには、簡単な取調べのみで、死罪352名、遠島137名、追放187名、水戸渡し130名、永厳寺預け11名・・・という史上まれにみる重い刑が科せられる事になります(2月4日参照>>)

実は、最初に天狗党を立ち上げた時、金銭面で彼らを援助したのは、あの桂小五郎・・・そして、かの真冬の迂回をとった時には、あの西郷隆盛がわざわざ中村半次郎(後の桐野利秋)を派遣して、「この先は薩摩藩が守るから、安心して直進してくれ」という助け舟を出しています。

しかし、その時の耕雲斎は、「我々の目的は慶喜公への懇願で、戦闘ではない」として、戦闘回避のために福井のルートを取り、薩摩の支援を断っているのです。

この時、彼ら天狗党が薩摩の支援を受けていたら、この先、彼らは薩摩をともに維新への道を歩いたのかも知れません。

時代は、攘夷真っ只中で、その行動が過激すぎた部分もあったかも知れませんが、天狗党の根底に流れる思想そのものは、まさに維新です。

結成から、わずか9ヶ月・・・彗星のごとく現れ消えた彼らは、その旗印の通り「維新の魁」となって散っていったのかも知れません。

♪咲く梅の 花ははかなく 散るとても
 馨
(かお)りは君が 袖にうつらん ♪  武田耕雲斎・辞世

耕雲斎の願った維新の香りは、この四年後に、花となって咲く事になります。

以上、本日は、天狗党の初出という事で、駆け足極まりない「あらすじ」状態になってしまいましたが、それぞれの戦闘や細かな内容は、その日の日付に従って、ご紹介させていただいておりますので、本文中にあります各ページへのリンクでご覧いただければ幸いです。
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2008年12月16日 (火)

京都「嵐山・花灯路2008」に行ってきました

 

昨夜、現在開催中の「京都・嵐山・花灯路2008」に行って参りました~。

毎年行われるこのイベント・・・今年は、12月12日~21日まで、午後5時~8時30分の3時間半・・・嵐山一帯は幻想的な光に包まれます。

私は、先日の保津峡からのハイキング(12月3日参照>>)の時、時間の都合で立ち寄れなかった清涼寺大覚寺を昼の間に廻らせていただいて、その大覚寺でライトアップが点灯されるのを待ちました。

Dscn7323a200_2 夕暮れの大覚寺

大覚寺(入山料:500円)は、「昼と夜の入れ替え無し」なので、明るいうちに広い境内の美しいお庭を拝見しつつ、大沢池の夕暮れを楽しみつつ・・・と、ゆっくりと時を過ごせます。

ちなみに、大覚寺では花灯路の期間中、十二単や狩衣、物詣姿の衣装に変身して花灯路エリアを散策できる(*十二単は境内のみ←そりゃそうだろ・・・アレじゃ散策できねぇ)というお楽しみも展開中・・・私は狩衣姿になってみたかったんだけど、イイ年をして、しかも一人でやる事ではない気がして諦めました(´Д⊂グスン

印象としては・・・

Arasiyamahanatouro2008 そうですね~以前、「東山・花灯路」(東山花灯路の写真はHPの歴史散歩に掲載してます>>)にも行ったのですが、東山と比べると、エリアがかなり広い・・・ライトアップされている場所を全部を制覇しようとすると、ちょっと疲れるかも知れませんね。

事前に、ネットなどで情報を集め、見てみたい場所をチェックしておくほうが良いかも知れません。

個人的なオススメとしては、やっぱり嵯峨野の竹林が良かったです。

Dscn7205a150 Dscn7415ag150

大河内山荘から、野宮神社を通って天龍寺の北門の所に出る、あの有名な竹林が、幻想的かつ美しくライトアップされ、中には、より幻想的になるように工夫された芸術的なライトアップがされています。

それと、やはり渡月橋・・・南側の河岸もライトアップされ、より幻想的に演出してくれます。

Togetukyoudr330

嵯峨野の竹林と渡月橋の2ヶ所は要チェック!・・・あとは、お好みで選ぶんで、それぞれの花灯路を楽しむのがベストです。

081215_17590001a200 今回の私の場合、花灯路としては大覚寺がスタートですので、大覚寺を堪能した後に、「ノンストップ無料ジャンボタクシー」というのを利用させていただきました。

期間中、大覚寺から二尊院まで(もちろん逆もアリ)を、ノンストップで、しかも無料で運んでってくださいます。

081215_18120001a200 光と花の道づたいには、北山杉清水焼など、京都ならではの灯籠が並び、エリア内の8箇所には、「いけばなプロムナード」と称して、美しいいけばなのライトアップもあり、「灯りの美術展」「ナイトギャラリー」などなど・・・イベントもたくさんです。

まもなく、冬本番を迎える京都の街に、色とりどりの思い出を残してくれる「嵐山花灯路」でした~。
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2008年12月15日 (月)

晩年の篤姫~ドラマでは語られなかった温泉旅行

 

終っちゃいましたねぇ・・・大河ドラマ・篤姫・・・。

全体的にに見て、やっぱりドラマとして面白かったですよね。

だからこそ、1年の長きに渡って高視聴率もキープできたんでしょう・・・おかげで、このブログも、篤姫に関連するキーワードでたくさんの新規訪問者さまに来ていたたき、ありがた限りであります。

ところで、来る3月15日に江戸城総攻撃となる予定だった慶応四年(1868年)3月9日・・・その総攻撃を回避すべく、勝海舟の命を受けた山岡鉄舟(てっしゅう・鉄太郎)が、西郷隆盛に会ったお話は、以前、書かせていただきました(4月11日参照>>)

実は、山岡が、その命令を携えて江戸を出た3月6日の日に、勝はもう一人にも、西郷への伝言を託しています。

それは、京都松平慶永(よしなが)の家老・本多修理(しゅり)という人になのですが、この人は、松平さんの使いとして江戸に来た人で、これから帰るところ・・・つまり、これから行く先の街道筋に官軍がいるわけで、「もし西郷に会う事ができたなら伝えてくれ」という口伝えの・・・まさに伝言です。

その内容は・・・
「御カサント御祖母様(おばばさま)ノコトハ安房ガ守ルと云(いう)テクダサレ」
というもの・・・

「御カサン」とは、現将軍・15代徳川慶喜の義母となる・・・つまり先代の14代徳川家茂の奥さんの和宮さんの事で、「御祖母様」は、その先代の・・・つまり篤姫の事。

安房は安房守で・・・つまり勝海舟=自分の事です・・・この時、勝は46歳、篤姫は34歳で和宮は23歳・・・とても、義母&御祖母様ではない年齢ですが、家系図としては、そういう関係になるのです。

翌・7日に江戸を発った本多は、10日の夜明けに駿府に着いたものの、結局、西郷に会う事はできず、この伝言が伝わる事は無かったのですが・・・。

幕府のエラいさんのワリには、破天荒で軽いイメージのある勝さんですが、さすがは幕府要人・・・この約束は、たとえ口約束でも、相手に伝わらなくても、しっかりと守ってくれたようで、昨日の大河ドラマでも、明治になってからの、勝さんと篤姫のエピソードが描かれていましたね。

あの篤姫と和宮が、お互いに「私が・・・」「私が・・・」と、ご飯をよそう役を奪い合い、それならば・・・と、しゃもじを二つ持って来させて、篤姫のご飯を和宮が、和宮のご飯を篤姫がよそうようにしたというお話も、『海舟座談』に事実として残っているエピソードです。

江戸の町のあちこちを連れて歩いて見物させたり、新しいハヤリものをプレゼントしたり、勝は何かと篤姫の世話を焼いてくれて、おかげで篤姫は、貧しいながらも、楽しい晩年を送る事ができました。

篤姫は、勝への手紙に・・・
「また、会いたいわぁ」とか「また、連れていってね」
なんて事を書き、手紙の最後には・・・
「赤面、赤面・・・」と・・・

この赤面・・・要は「恥ずかしい」とか「照れる」とかという意味ですが、この二回繰り返す言い方は、単にその意味だけではなく、かなり親しい人への表現なのだとか・・・

今で言えば、メールの最後に、こんな→(*≧m≦*)顔文字やハートマークをつけるようのもの・・・。

よく行動をともにした勝の愛人も・・・
「二人は、二人っきりで屋形船で過ごし、帰りが夜中の2時・3時になる事がしょっちゅうあった」
と、半ばやきもちにも聞こえる証言をしていた事から、勝と篤姫は、恋人関係にあったんじゃないか?と噂されるくらいです。

篤姫が、自ら縫ったお手製の羽織を、勝にプレゼントした事もあるのだとか・・・

ただ、私としては、ドロドロした不倫というよりは、純粋無垢のまま大奥で暮らしていた篤姫に、勝さんが幕府の責任&男の責任で付き合ってあげていたように思いたいです。

ところで、一つ・・・昨日の大河の最終回では、語られなかったエピソードがあるので、最後にそれをご紹介します。

上記のように、分家とは言え、薩摩のお姫様として育ち、その後は大奥という隔離された生活をして純心無垢なままで生きてきた篤姫が、晩年、一生に一度の温泉旅行をしています。

明治十三年(1880年)と言いますから、篤姫46歳の頃、9月23日10月31日・・・篤姫直筆の日程表というのが残っています。

開通間もない鉄道で横浜まで移動し、人力車で江ノ島小田原を巡り、熱海で1ヶ月ほど滞在した後、最後に箱根宮ノ下に2泊しています。

この長期の旅行に対して、ドラマでもすっかり頼りきっていた姑・本寿院さんの・・・
「アンタがいないと心細いから、早く帰ってきてよ・・・畑で採れた長なすを、アンタの大好きな漬物にして食べさせてあげるからさぁ」
なんて、ほほえましい手紙も現存しています。

篤姫が、一生に一度きりの旅行の・・・
その最後の宿泊場所に選んだ、ここ箱根は、そう、その三年前の明治十年(1877年)の同じ季節、あの和宮さんが最期を迎えた場所です(9月2日参照>>)

おそらく彼女は、自分と同じ境遇で、同じ思いを抱いて生きてきた和宮に、人生でただ一度だけ、心をさらけ出して語り明かしてみたかったのでしょう。

和宮終焉の地となった塔ノ沢・・・流れる川を、静かに見つめながら、篤姫は歌を詠み、和宮に語りかけます。

♪君が齢 とどめかねたる 早川の
 水の流れも うらめしきかな ♪

「あなたの死を止められなかった川の流れを恨みます」

その3年後の明治十六年(1883年)9月20日、東京・千駄ヶ谷の徳川邸・・・すべての役目を終えたかのように篤姫は49歳の生涯を閉じたのです。
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2008年12月14日 (日)

年末年始・お正月~由来・起源・豆知識・雑学集

 

12月に入り、いよいよお正月準備にあわただしくなる今日この頃・・・

・・・て、事で、今回は、すでにブログにupしている年末年始・お正月の行事についての豆知識を、一挙まとめてみました。

お正月での会話が、一段とはずめば幸いです。

ただし、こういった行事は、何分、起源そのものが古く、物事によっては、地方などで言い伝えが違っていたり、諸説ある場合がありますので、あくまで、いくつかある中の一つの説だという解釈でお願いします。

・・・・・・・・・・・

お歳暮の由来
 【お歳暮はお正月の神様のため】

『高島易断』の祖
 【横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』】

除夜の鐘
 【除夜の鐘108つの意味は?】

えと・十二支
 【「えと」十二支の由来と起源】

年賀状
 【いよいよ師走~年賀状の由来と年賀状イラスト】

おせちと雑煮
 【おせち料理とお雑煮の由来と起源】

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これまでブログにupした画像で、年賀状に使えるイラストを集めた【年賀状に使えるイラスト集】もよろしく>>

 

Takarabune2009 年賀状につかえそうな宝船のイラストを・・・
 

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2008年12月13日 (土)

本能寺・逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道

 

元和七年(1621年)12月13日、織田信長の弟で、千利休の高弟・七人衆の一人に数えられた茶人でもある織田長益が、75歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

♪織田源五は人ではないよ
 お腹召せ召せ 召させておいて
 我は安土へ逃ぐる源五 ♪

文禄年間(1592年~1594年)に書かれたという『義残後覚(ぎざんこうかく)には、あの本能寺の変の後に、「京都の人々がこのような歌を歌って囃し立てた」という事が書かれています。

この織田源五(げんご)というのが、織田信長の弟・・・本日の主役・織田長益(ながます)の事です。

本能寺で信長が自刃した後に、二条御所に籠っていて明智光秀の軍に囲まれた信長の長男(6月2日参照>>)・・・つまり甥っ子の信忠に、「もはやこれまで・・・自害したほうがいい」勧めておきながら、自分だけは、その混乱に乗じて安土城へと逃げ、さらに岐阜まで逃げきって助かった事から、この「人でなし」のレッテルを貼られる事になってしまったのです。

長益は、尾張(愛知県西部)の武将・織田信秀の11番目の男の子として生まれますが、異母兄の信長とは、随分と年齢も離れており、その武将としての功績はほとんど記録に残っていません。

信長に従って合戦に赴いたのは、その本能寺の変の3ヶ月前に武田勝頼を攻めた時(3月11日参照>>)くらい・・・その時は、木曾口から武田領内に侵入し、信州深志城(松本城)開城の受け取り役をした事が記録されている程度です。

本能寺で命びろいした後も、「信長の後継者に・・・」との声もあがる中、信長の次男・織田信雄のもとで、検地奉行など務めますが、その信雄が、小田原征伐の後、豊臣秀吉の転封命令に逆らって改易されてしまいます(4月30日参照>>)

さすがに、その時は、彼の存亡も危うくなるのですが、すかさず剃髪し、名を有楽斎(うらくさい)と号し、秀吉の御伽衆(主君の話し相手)となる道を選びます。

もともと、尾張にいた頃から、彼は茶人としての才能を、すでに見いだしていたのです。

幼い頃から、織田家の重臣・平手政秀の指導を受け、京の都から離れた尾張の地では、数少ない茶道の名人で、その風流を解する素質は、むしろ尊敬の眼差しを集めていたのです。

冒頭に書いたように千利休の高弟七人衆にも数えられています。

秀吉の朝鮮出兵の時も、ともに肥前(佐賀県)名護屋まで行きますが、そこで茶会を催しただけで、戦闘に参加する事はありませんでした。

ところが、その秀吉亡き後に起こった関ヶ原の合戦では、ちゃっかり徳川家康東軍として参戦・・・家臣の活躍もあって、戦後には、もともとの摂津(大阪)にプラスして大和(奈良県)山辺3万石に加増してもらってます。

なのに、今度は、大坂冬の陣が勃発する頃には、その身は大坂城に・・・

淀殿が、あのお市の方の娘ですから、長益は叔父さんとなるわけで、ここでは、豊臣秀頼後見人という役どころで、家康との抗戦を避けるべく尽力したとも言われていますが、夏の陣が始まる直前に大坂城を出て、京都・東山に引退した事から、家康のスパイだったのでは?との噂もチラホラ・・・。

現に、徳川の世となった後も、独自の有楽派を開くなど茶人として大活躍・・・江戸駿府にもしばしば訪れたとされています。

東京の有楽町の名は長益の屋敷があった場所、数寄屋橋は長益の茶室があった場所と言われていますし、当時、荒れ放題になっていた京都の建仁寺頭塔・正伝院の修復にあたり、庭園や茶室を整備したとの事ですので、相当、羽振りが良かったものと思われます。

そんなこんなで、茶人として悠々自適の晩年を送った長益さん・・・元和七年(1621年)12月13日、京都にて75年間の人生に幕を下ろしました

私も、初め、本能寺の変での逃亡の話を聞いた時は「なんて情けない人だ・・・」と思い、武将として失格&脱落者・裏切り者だと思っていました。

しかし、よくよく考えてみると、人間にはそれぞれ得意・不得意というものがあるもので、何も、不得意のものにこだわり続けて、無謀な戦いに挑む事が正しいとは限らないわけで、苦手なら苦手で、得意な道に進むのもアリではないか?と、今は思うようになりました。

親や兄弟の後を継ぐ事に関しても、親が社長なら、必ず会社を継がなければならない法律はないわけで、たとえ社長の息子でも、絵が好きなら、画家として人生を歩む事だって、それはそれで正しい道なのではないかと・・・。

そういう意味では、長益さんは、自分の才能をフルに発揮できる道を、自分自身で発見したという事で、深く考えずにアホ呼ばわりするのは、失礼かな?なんて思います。

逆に、長益が逃げられたのなら、同じ場所にいた信忠も逃げ出せたはずなのに、なぜ、信忠は、脱出して安土に向かわずに、二条御所で光秀と戦う道を選んだのか?・・・むしろ、こちらのうほうが気になってます。

本能寺の変の当時の信長は、秀吉から中国攻めへの援助要請を受け、この時、安土城では、2~3日後に出陣可能な大軍が準備されていたはず(1月9日参照>>)ですから、脱出して安土に戻れば、充分な体制を整えられたかも知れません。

しかも、大坂には、まもなく四国攻めに出発するはずだった次男・信孝が、その軍勢とともにいたわけですから、安土と大坂から、京都の光秀を挟み撃ちにもできたんじゃないか?と・・・

しかし、現実の世間は、一人逃げた長益を、「腰抜け」とあざけり笑う・・・現在なら、さしずめワイドショーの標的とされ、ブログ炎上&誹謗中傷の嵐の中に立たされていたかと思うと、何だか、お気の毒な気さえしてくる今日この頃です。
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2008年12月12日 (金)

攘夷の先駆け~高杉晋作の公使館焼き打ち事件

 

文久二年(1862年)12月12日、高杉晋作ら攘夷派が、品川に建設中のイギリス公使館を焼き打ちしました。

・・・・・・・・・・・

長州(山口県)に生まれ、吉田松陰を師と仰ぎ、松下村塾でもトップクラスの評価を得ていた高杉晋作でしたが(11月5日参照>>)、その松陰が安政の大獄で処刑され(10月27日参照>>)、深い悲しみとともに、未だ自分が何をなすべきか?を思い悩む毎日でした。

蔓延元年(1860年)1月の22歳の時、山口奉行・井上平左衛門の娘・雅子(政・マサ)と結婚し、まもなく、藩の命令で航海学を習得するために江戸に向かいました。

しかし、あまりに船酔いがひどく、自分自身で、船乗りの素質がないのでは?と考え、航海学をあきらめて、全国各地を遊学する生活を送ります。

そんなこんなの文久二年(1862年)5月、24歳の時に上海の視察を命じられて渡航した晋作は、清国(中国)の現状を目の当たりにして大きなショックを受けます。

アヘン戦争(8月29日参照>>)イギリスに敗れた清国は、もはや植民地状態となり、国民は欧米列強に屈っする奴隷のような生活を送っていたのです。

「中国がこんな事になってしもたんは、敵を防ぐ策を持ってなかったせいや!日本もはよ、防御策を講じんと、同じような事になってしまう」

もともと、松下村塾時代から攘夷(じょうい・外国を排除しようとする考え)論者だった彼は、ますます激しい攘夷思想となり、2ヶ月間の上海滞在から帰国した後、早速、活動を開始します。

松下村塾でクラスメートだった久坂玄瑞(くさかげんずい)らを誘い、武蔵国金沢(横浜市)外国公使を襲う計画をたてます。

しかし、これは、計画が事前に藩にバレてしまって断念・・・

そこで、今度は・・・文久二年(1862年)12月12日、久坂玄瑞・赤根武人(赤禰武人=あかねたけと)(1月25日参照>>)伊藤俊輔(後の博文)志道聞多(しじぶんた・もんた)ら、同志10余名とともに、当時、品川御殿山に建設中だったイギリス公使館に火をつけたのです。

この時、炎の勢いがも一つだと感じた志道が、辺りの建具を壊しながら、さらに、それらに火をつけて燃やしていたのですが、ふと気づくと、そこにいるのは自分一人・・・

実は、高杉らは、火の勢いなど関係なく、火をつけてすぐに退却しており、彼一人が取り残された状態となっていたのです。

気づいた志道は、慌てて塀をよじ登り、外にあった堀に落ちてドロドロになって逃げ帰ったのだとか・・・

この志道聞多という人は、後に明治の世となって、鹿鳴館(11月28日参照>>)という金食い虫をおっ建てる井上馨(かおる)なのですが、大義の前には罪も罪でなくなり失敗も失敗ではなくなる的な姿勢を、生涯に渡って貫く彼にとっては、この焼き打ちでの一コマも、名誉の一つなのかも知れませんね。

結局、この翌年の文久三年(1863年)に、長州は攘夷を決行し、下関を通過する外国船に大砲を撃ち込むという下関戦争(5月10日参照>>)へと向かう事になるのですから、この高杉らによる公使館焼き打ち事件は、言わば、その先駆けとなる一件という事になるのかも知れません。
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2008年12月11日 (木)

ココを見逃すな!歴史好きのための大阪城・観光

 

以前、どこかのブログだったか、掲示板だったか忘れましたが、自称・戦国好きとおっしゃる女性が、「このあいだ、大阪城に行ったけど、天守閣のお宝以外、当時の遺跡もなく、何も見るとこなかったわ」的な言葉が・・・

すると、返信コメントには、やはり歴史好きとおっしゃる男性から「あれはお城の形をした博物館ですよ。期待しちゃいけません」と・・・

確かに、人には興味のある事とない事がありますから、歴史に興味のない人にとっては、天守閣の最上階からの眺望くらいしか見るとこないのはわかります。

私だって、興味のない物を長々と見せられるのは苦痛です。

しかし、地元びいきを含む大阪城大好き少女(もはや少女ではないが・・・)として、歴史好きのかたから「見るとこない」と言われるのは、つらいものがあるなぁ・・・

これは、「見るとこない」のではなく、「見るとこを知らない」に違いない!

見るとこ見れば、絶対大阪城はすばらしいのだ~これは是非とも、地元民として大阪城の見どころを紹介せねば・・・って事で、今日は歴史好きのための大阪城観光をご紹介します。

・・・とは、言っても、私としては、以前も、このブログで書かせていただいた【多聞櫓と千貫櫓】(11月2日を見てね>>)や、【旧工廠化学分析場】(6月7日を見てね>>)などなど、ぼちぼちとご紹介はしているものの、けっこう多いので、今回は石垣に限ってご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・

大阪城の石垣と言って、まず思い出すのは、あの巨石の数々・・・

九州や瀬戸内海の島々から船で運んだ石を、当時は、まだ、すぐそばにあった大阪湾から城内へ修羅(しゅら)と呼ばれる道具で運ばれました。
修羅については11月18日【石舞台古墳のあるじは?】に、大阪・道明寺天満宮にある復元展示の写真を掲載しています・・・コチラからどうぞ>>

巨石は、大手門桜門京橋門に集中していますので、その3つの門は是非訪れて下さい。

Oosakazyouisigakituzucc ベスト5は・・・(地図の青色の番号です)

  1. 蛸石  ・・・桜門
  2. 肥後石・・・京橋門
  3. 振袖石・・・桜門
  4. 見付石・・・大手門
  5. 二番石・・・大手門

Higoisi330 秋色の肥後石

次に、やはり歴史好きに見ていただきたいのは、刻印石・・・

これは、誰がその石を寄進したかがわかるように、個々のしるしをつけた石なのですが、それはもう、大阪城の石垣のあちこちに、その刻印石は存在します・・・私の場合は、探して歩くだけでも、まる一日はOKです。

「まだ、刻印石を見た事がない」あるいは「どんなものかよくわからない」というかたは、まず最初に、大阪城・天守閣から坂を下りて北側に広がる山里丸と呼ばれる一帯(地図の番号1)「刻印石公園」というのが設けられていて、どの刻印がどの大名のものなのか?というのが一覧表にもなっていますし、その代表的なものが並べられていますので、ここで、見てからのほうがわかりやすいです。

Kokuinsekikouen330cc 刻印石公園

ついでに、天守閣の前(地図番号4)には、「残念石」と呼ばれる、切り出されたけど石垣に使われなかった石も展示されているので、一応チェック。

Senkankatoukokuincc 加藤忠広・刻印石

また、すでに紹介した千貫櫓を西の丸庭園側から見れば、真正面に、先日のブログで徳川忠長さんとともに改易の憂き目に遭った(12月6日参照>>)あの加藤忠広さんの刻印が、誰がどう見ても確認できます(地図番号7)

Dscn7109330_2

さらに、上の写真は内堀にある桜門の右側、空堀の北壁の写真ですが、実はこの中には、毛利氏の刻印石と、あの細川忠興の九曜星の刻印が入った石垣があります。

Isigakiupa120 排水溝の左下、目立つ石が毛利の○にーの刻印・・・これは、肉眼でもはっきり見えます。
←クリックして大きくすると確認できます
 

その左に九曜星のマーク・・・こちらは、望遠鏡がないとツライかも・・・その日の調子が良い時には、肉眼ではっきり見えるそうです。

刻印石は、まだまだありますが、今日はこのへんで・・・

そして、最後に太平洋戦争の爪あと・・・

以前、【大阪城の不思議な話】(8月18日参照>>)で書かせていただいたように、この大阪城は、徳川の時代が終ってから太平洋戦争まで、東洋一の軍事施設でした。

現在でも、すでに紹介した科学分析場の他に、天守閣前にある以前博物館として利用されていた建物が、大阪砲兵工廠第四支部の建物で、これは、現在の大阪に残る最大の戦争史跡です。

ちなみに、本部は現在の大阪城ホールのあたりにあったそうです。

・・・なので、この大阪城・・・戦争中は、壊滅状態になるほどの攻撃を受けてします。

Dscn6567150jpg その機銃掃射の跡が確認できるのが、先ほどの山里丸から、天守閣のほうへ向かう上り坂の右側にある古い階段のところの石垣です(地図番号2)

 
そして、実は、皆さんが登っておられる天守閣・・・その天守閣の石垣も、太平洋戦争の時の砲撃で、少しズレているんです。

Dscn6563150 そのズレが確認できる場所が、天守閣北側(地図番号3)・・・
ただし、北側から普通に見ただけではわかりません。

そこから、東側を覗き込むように見てくださいね。

これだけの砲撃を受けながらも、倒れなかった天守閣・・・それは、千年の長きに渡り、この石垣が潰れぬように、計算に計算を重ねて設計されているからなのです!

思わず、藤堂高虎・・・バンザ~イ!
小堀遠州・・・えぇ仕事しまっせ~

以上、本日は、石垣だけにこだわってみました。

ちなみに、現在の大阪城は、高虎が設計したこの徳川時代の石垣の下に、豊臣時代の石垣が眠っています。

HPの歴史散歩では、さらに別の刻印石や細川九曜星のズームアップ、豊臣の石垣の事も載せていますので、よろしければコチラからどうぞ>>>
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2008年12月10日 (水)

いよいよ小田原攻め開始~その軍儀の内容は?

 

天正十七年(1589年)12月10日、京都聚楽第において、北条氏の小田原城攻めの軍儀が行われました。

・・・・・・・・・

四国・九州を平定し、関白の座の手に入れた豊臣秀吉にとって、残るは関東と東北・・・東北では、米沢城伊達政宗山形城最上義光(よしあき)が2大勢力であったわけですが、関東は何と言っても北条早雲以来100年に渡って君臨してきた北条氏・・・。

当時の北条は、家督こそ、息子の北条氏直が継いでいたものの、実権は未だ父の氏政が握っており、しかも、秀吉にはやや反抗的な態度をとり続けていました

その強気の奥底には、未だ秀吉の勢力圏外の東北が背後に控えている事と、前方の東海地方に勢力を持つ徳川家康の娘を嫁に取り、同盟を結んでいた事があったでしょう。

氏政にしてみれば、「北条と伊達と徳川が協力すれば、秀吉に対抗できる」とのもくろみがあったに違いありません。

しかし、ここに来て、あの小牧長久手の戦いの結果、事態は大きく変化しました。

家康は、秀吉の妹・旭姫と結婚して同盟が結ばれ、秀吉に従う決意を固め(10月27日参照>>)、このところは、秀吉の意向を受けて、北条を説得する立場となっていました。

再三再四、氏政・氏直親子に、上洛して秀吉に挨拶するように働きかけ、(挨拶に)来にゃーなら、娘を離縁して返してちょ」とまで言っていて、さすがの氏政も、韮山(にらやま)城主で弟の氏規(うじのり)を上洛させたりしますが、やはり、本人がやって来る事はありませんでした。

そんな中、起きたのが例の北条による名胡桃城(なぐるみじょう)奪取事件(10月23日参照>>)です。

秀吉は、すでに2年前の天正十五年(1587年)12月3日付けで『関東・奥両国惣無事令』という、関東と東北の大名同士の私的な争いを禁じる法律を関白の名のもとに出していますから、これは、明らかに違反行為・・・。

この北条の違反行為は、もともと、「自分の傘下に入る気がないのならぶっ潰したる」と思っていた秀吉には、好都合・・・「待ってました!」と言わんばかりに、事件の1ヶ月後の天正十七年(1589年)11月24日付けで、5か条からなる書状を氏政・氏直親子に叩きつけ、小田原攻めの宣戦布告をしたのです(11月24日参照>>)

かくして、天正十七年(1589年)12月10日、秀吉は、徳川家康前田利家上杉景勝らといった面々を聚楽第に呼び、小田原攻めの作戦会議を開くのです。

そこで決められた内容は・・・

  1. 長束正家(なつかまさいえ)兵糧奉行とし、黄金2万枚で伊勢・尾張・三河・遠江・駿河の米を買占め、20万石を収集する。
  2. 東海道の各駅を整備し、そこに軍用の伝馬(でんま)50頭を用意する。
  3. 出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする。
  4. 伊賀より東の東海道沿線諸国+近江・美濃の兵で東海道を攻め上る・・・先鋒は徳川家康隊・3万、大将は豊臣秀吉本隊・14万。
  5. 越後+信濃の兵で東山道から上野・武蔵に南下・・・先鋒は真田昌幸隊、大将は前田利家と上杉景勝隊・合計3万5千。
  6. 中国+四国&紀伊+伊勢の水軍・合計1万は東海道沿岸を航行して東へ行き、小田原を海から囲む。

以上のような基本方針のもとに、翌日から、早速、準備が開始されますが、この他にも、沿線の各城の守備隊を含め、小田原攻めは総勢22万の大軍となりました。

この時、名だたる大大名が居並ぶ中で、一番隅っこのほうに座っていた独立大名になりたての真田昌幸に、「中山道の先手はお前に任せる」と秀吉が言って、前田や上杉の先鋒にさせたのは、やはり、この戦いのキッカケ=名胡桃城を奪われたから・・・その地の利を生かして一発ヤッタレ!という事です。

東海道を行く本隊の先鋒に家康を据えたのは、もちろん、家康に北条との決別をはっきりとつけさせるため・・・その忠誠心を確かめるためです。

後の、関ヶ原の合戦の時に、家康が、自分は江戸城に居ながら、豊臣恩顧の武将たちを先に西へと向かわせたのとまったく同じ・・・(8月11日参照>>)

さすがに、家康も、この事は重々承知で、秀吉への忠誠心をより表すべく、このタイミングで三男の長丸(ちょうまる)を、人質として秀吉のもとに差し出しています。

秀吉も、「未だ北条に未練があるのでは?」と気になっていた家康のこの行為を大いに喜んで、長丸を聚楽第にて元服させ、自らの一字を与えた秀忠と名乗らせます。

そう、あの2代将軍となる秀忠です。

かくして、先鋒の家康隊のさらに先発隊として本多忠勝井伊直政榊原康政らが2月7日に出陣・・・秀吉自身も、3月1日に京都を発ち、あの小田原攻めが開始される事になるのですが、そのお話は、すでに書かせていただいておりますので、続きは2008年3月29日のページでどうぞ>>
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2008年12月 9日 (火)

平治の乱を引っ掻き回した主人公~藤原信頼

 

平治元年(1159年)12月9日、平治の乱が勃発しました。

・・・・・・・・

平治の乱については、一昨年の12月26日「平治の乱が終結した日」に、その流れを書かせていただいたのですが(2006年12月26日を見る>>)、結果的に、源氏を衰退させ、あの平清盛に、「平家にあらずんば人にあらず」的な(この言葉を言ったのは清盛ではありませんが・・・)大いなる天下をもたらす事になってしまったこの合戦・・・

確かに、二条天皇が即位したにも関わらず、後白河法皇の院生によって、「天皇の側近たちが腕をふるえない」といった天皇家の不満もありはしましたが、それより何より・・・その合戦の勃発も、そして、その源氏の敗北も、直接の原因は、ひとえに藤原信頼(のぶより)という実力以上の高望み?をしてしまった人物にあるのです。

彼は、後白河法皇に気に入られ、中納言にまで出世した人物ですが、その気に入られかたは、政治手腕などではなく、あくまでheart02・・・彼は、若い時は、かなりの美少年で、ソチラの趣味もあった法皇からの寵愛を受けての出世でした。

しかし、保元元年(1156年)に起こった保元の乱(7月11日参照>>)以来、信西なる人物が法皇の側近として大活躍・・・信西は、もともと、政治手腕もある博識な人物で、以前は藤原通憲(高階通憲)と名乗っていたものの、すでに没落した藤原南家の出身だったため、思うように出世できず、仏門に入っていたのですが、奥さんが法皇の乳母だった関係から、ここに来て、その政治手腕を発揮できる舞台を与えられ、見事、こなしていたのです。

そんな信西も気に入らないし、やっぱりまだまだ出世したい信頼さん・・・愛する後白河法皇に「ボクを近衛大将にして~ぇ」と、おねだりします。

今まで、こうしておねだりして、叶わなかった事は一度もありません。

今回も、そのカワイイ恋人の色香に法皇は、「ヨシヨシ・・・」と、まんざらでもない様子。

ところが、今度ばかりは、今までとは違いました。

そう、その信西です。

すでに彼は人事権まで掌握しており、この人事に「待った!」をかけたのです。

『平治物語』によれば、信頼さんは・・・
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もあらず」
と、散々な書かれ方でけなされていますが、そこまで悪くはないにしろ、ごくごく平凡な人だったようです。

逆に、今まで苦労してきた信西にとっては、「家柄の良さと、顔の良さだけで、大した能力もないのに、出世コースを歩める世の中が許せない」とばかりに、今回の人事に猛反対・・・「彼は、玄宗皇帝の側近でありながら反乱を起した安禄山になりかねない人物だ!」とまで言い、法皇の勧めようとする人事を却下してしまったのです。

信西によって、出世を断たれた信頼は、彼を恨み、そして、同じく現政権に不満を持つ源氏の棟梁・源義朝や、二条天皇の側近たちを誘って、クーデターを決行・・・それが、平治の乱です。

そして、最大の兵力を持つ清盛が、熊野詣の旅行中の平治元年(1159年)12月9日決行したクーデターは、憎き信西を討ち倒し(12月15日参照>>)、念願の近衛兵も掌握し、一応、成功という形でスタートしましたが、ここで、その凡々さが出てしまいます。

急を聞いて、熊野から戻ってくる清盛を、
「阿倍野で迎え撃ちましょう」
と進言する義朝の息子・義平に対して、
「阿倍野まで行ったら疲れるやん」
と却下・・・。

おかげで、清盛は、すんなりと京都に入る事ができ、さらに、戦う意志なし&降伏宣言まがいの行動で、信頼を油断させておいて、ちゃっかりと、相手側が確保していた天皇と法皇を、秘密裏にゲット!(12月25日参照>>)

かくして、法皇からの官軍のお墨付きをもらった清盛は、いざ、堂々と信頼の守る御所へ反撃を開始!

清盛の攻撃を受けて、撃って出る義朝と門を守る信頼・・・と言いたいところですが、平氏3000騎に対して、義朝は800騎・・・その数に恐れをなした信頼は、あっさりと持ち場を放棄して逃亡してしまいます。

それでも、奮戦する義朝ら源氏軍でしたが、その数の差はいかんともしがたく、あえなく六条河原にて敗戦を覚悟し、戦線を離脱する決意をするのです(1月4日参照>>)

もう、御所へは戻れない義朝は、源氏の本拠地である東国へと落ちるのですが、途中、彼に追いついた信頼が、
「ボクもいっしょに連れてって~」
と、すり寄っていくと・・・

「この・・・日本一のヘタレが!」
(平治物語の原文では↑「日本一の不覚仁(ふかくじん)=考えが浅く覚悟が決められない軽率な人)
と、義朝は、持っていた鞭で、信頼の左頬をビンタ!したのだとか・・・そら、怒られるゎ(@Д@;

置き去りにされた信頼は、哀れ、平氏に引き渡される事に・・・

・・・と、まぁ、歴史は勝者が書くものなので・・・というより、この平治の乱については『平治物語』によるところが大きいのですが、その物語の作者が「信西びいき」なので、当然、その信西を殺してしまう信頼は、どうしても悪人&ダメ男になってしまうわけですが、もし、この通りだとすると、勃発から結末まで、信頼さん一人で引っ掻き回してグチャグチャにしてしまった感のある平治の乱・・・

今後は、何とか、彼の名誉回復になるような史料がたくさん発見される事をお祈りします・・・いつか【藤原信頼の汚名を晴らしたい!】という記事が書けますように・・・。
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2008年12月 8日 (月)

「蒙古襲来絵詞」に隠された元寇のその後

 

弘安五年(1282年)12月8日、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗が、元寇で戦死した両国の将兵たちを弔うため、鎌倉に円覚寺を建立しました。

・・・・・・・・・

文永十一年(1274年)の文永の役(10月19日参照>>)と弘安四年(1281年)の弘安の役(6月6日参照>>)・・・

元の皇帝・フビライ2度に渡る蒙古襲来=元寇に、まるで合わせたかのように、文永五年(1268年)に18歳で第8代・鎌倉幕府執権となった北条時宗は、弘安七年(1284年)34歳の若さでこの世を去るという、まさに元寇のために生きたような生涯でした。

南宋無学祖元(むがくそげん)を師と仰ぎ、仏の道に帰依していた時宗らしく、弘安五年(1282年)12月8日に、元寇の戦死者のために建立した円覚寺には、敵味方関係なく、両方の将兵が弔われていると言います。

しかし、この元寇は、日本軍が勝利したとは言え、結果的に、鎌倉幕府の屋台骨を揺るがす事になってしまいました。

2度目の蒙古襲来の後、鎌倉幕府は3度目の襲来に備えて、重用場所には北条家・安達家(時宗の母の実家)の者を配置し、御家人たちを動員して、九州の防備を強化します。

事実、一方のフビライも、3度目の遠征のための木材を伐採したり、遠征準備担当部署を立ち上げたりしていますから、まだまだヤル気満々だったようです。

ただ、当時の元の敵は日本だけでなく、また、内乱も抱えていたため、結局、何度かの使者の派遣を試みるも、遠征の実現には至らなかったようです。

しかし、その後の蒙古襲来がなくとも、日本には、大きな負の遺産が残されました。

それは、合戦に参加した多くの御家人が、戦いに勝利したにも関わらず、外国との防衛戦争であったために、普通なら敵から得るはずの領地も、賠償金も存在しなかったために、幕府からの恩賞に預かる事ができなかったのです。

「いざ!鎌倉」の言葉に現されるように、幕府と御家人の主従関係は、御恩奉公=恩賞があってこそ奉仕(参戦)するという基盤があって成り立っているものなのです。

まして、源氏の直系が絶え、北条氏が実権を握ってからは、おおむね平和に治まっていた鎌倉時代ですから、当時の御家人の中には、「無足の御家人」と呼ばれる、ほぼ無収入の御家人も徐々に増えてきていて、下級の武士たちの中には、日々の食事にも困るほどの生活をしていた者も多くいたのです。

そんな武士たちにとって、合戦は、収入を得る最大のチャンスとなるわけですが、上記の通り、この元寇に関しては期待はずれ・・・。

しかし、元が攻めてきた当初は、そんな幕府の事情はわかりませんから、貧しい者ほど、命を賭けて最前線で戦ったという事実があり、戦い終わってから「何も出ません」では、納得がいかない者が出るのも当然です。

ただ、多くの武士は、不満を抱きながらも、ガマンするしかなかったのですが、中には、何とか恩賞に預かろうと直訴した武将もいたのです。

無足の御家人の一人・竹崎季長(すえなが)・・・。

彼は、貧乏生活を脱却しようと、はりきって合戦に参加・・・主従合わせて、たった5人の出陣でしたが、常に最前線に立ち、元軍めがけて最初に突進し、軍功記録にも、一番に名前を記された人物です。

しかし、弘安の役から半年たっても、何の音沙汰も無い・・・

しびれを切らした彼は、毎日使っている日用品までも売り払い、何とか鎌倉までの旅費を捻出して、一族の反対を押し切って、幕府に直訴するのです。

鎌倉で2ヶ月・・・やっとこさ、お偉いさんに面会が叶うも、なかなか、彼の主張を聞き入れてはくれません。

とうとう彼は・・・
「恩賞が貰えないなら、もう、国へは帰れません!どうか、この首を取ってください!」
と、元との戦いより、はるかに命がけの交渉・・・

一か八かの賭けに成功し、彼は、わずかばかりの領地と、馬と、具足を手に入れる事ができました・・・まさに、粘り勝ち!

この時、彼が、「合戦で、俺は、こんなに頑張ったんです!」と主張するために、書き残したのが、あの有名な『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)・・・教科書にも載ってるアレです。

Moukosyuurais 教科書には、よく、この↑部分が載ってますが、もちろん、これは一部分・・・絵巻物ですから、当然、この絵の続きがその横にも広がっているわけです。

Moukosyuuraiw_2 ←こんな感じに・・・
(クリックして大きくしてね)

・・・で、見ていただければわかる通り、右側に鎌倉武士、左側に、その武士を弓で狙う強そうな元軍・・・その左に・・・って、これは、明らかに、元軍が逃げてますねぇ・・・

もう、ご存知の方も多いかも知れませんが、実は、この弓を射る三人の元軍は、後世に付け足された絵なのです。

そうです。
この絵巻物は、竹崎季長がいかに活躍したかを描いた絵巻物で、本当は、元の将兵が季長を恐れて逃げているところを描いた絵なんです。
もちろん、右の頑張ってる武将が季長さんですよ。

よく見ると、墨の色も全然違いますよね。
考えたら、自分の強いとこをアピールする絵に、強そうな敵を書くわきゃありません。

この『蒙古襲来絵詞』は、元寇の記録でもありますが、幕府に訴えかける貧困武将の記録でもあるんですね~。

結局、その後も、この御家人たちの不満が解消される事はなく、やがて、朝廷&幕府への不信感は高まり、弘安の役から52年後・・・鎌倉幕府は終焉を迎える事になるのです(5月22日参照>>)
 

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2008年12月 7日 (日)

龍馬亡き後の海援隊Ⅱ~天満屋事件

 

慶応三年(1867年)12月7日、海援隊士・陸奥宗光らが、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃した『天満屋事件』がありました。

・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)11月15日、あの坂本龍馬が、京都・近江屋にて暗殺されました。

陸奥宗光(むつむねみつ)は、この時、京都に滞在していて、最も龍馬の近くにいた海援隊・隊士・・・急を聞きつけ、すぐさま現場に駆けつけた宗光でしたが、もはや、その時には龍馬は絶命していたのです。

その悲惨な現場を目の当たりにした彼は、例のいろは丸の衝突事故によってモメていた紀州藩が、新撰組に頼んで龍馬を殺させたと考えます(11月15日参照>>)

宗光は、ほとんどが土佐藩出身の者で占められていた海援隊の中で、数少ない他藩の出身・・・そう、彼は、その暗殺犯かもしれない紀州の出身でした。

もともと、紀州藩で要職についてた父が政争で失脚し、一時は貧困生活をしながらも、彼は14歳の時に家出をして、一人江戸へ出ます。

やがて、父の罪が許され時、父と兄は紀州藩へ戻りますが、宗光は脱藩への道を選び、後に、勝海舟海軍塾に入った事で龍馬と知り合い亀山社中から海援隊・・・と、龍馬とともに歩む事になったのです。

はじめ、伊達小次郎と名乗っていた彼は、「うそつきの小次郎」というニックネームをつけられるくらいの口のうまさで、議論・討論では負けた事なし・・・ああ言えばこう言う、あまりの高飛車な自論の展開ぶりに、海援隊当時は、仲間との衝突も耐える事がなく、周囲からは孤立した存在でした。

しかし、龍馬は、そんな宗光の“群れない個性”みたいな物を高く評価していたようで、彼への手紙には、わざと『陸奥大先生』などという宛名を書いたりしています。

龍馬が、自分の事を理解してくれている事を、おそらく宗光も感じていたのでしょう・・・この龍馬の暗殺に関しては、「カミソリ陸奥」の本領発揮とばかりに血気にはやる行動に出ています。

慶応三年(1867年)12月7日・・・その夜、京都・六条油小路の旅篭・天満屋にて宴会を開いていた紀州藩公用人・三浦休太郎を襲撃すべく、海援隊&陸援隊の隊士ら15~6名を引き連れて、かの天満屋を囲みます。

もちろん、休太郎のほうも、衝突事故後のゴタゴタがあり、その後に起きた龍馬暗殺ですから、すでに身の危険を感じて新撰組に身辺警護を頼んでおり、当日は、斉藤一を筆頭に7名の新撰組隊士が、その周りを固めていました。

天満屋側面には、岩村精一郎ら6名。
背後には、斎原治一郎(大江卓)ら2名。
正面から、宗光ら8名が、客を装って屋内に侵入すると同時に、全員が突入します。

真っ先に休太郎の部屋に突入したのは、十津川郷士・中井庄五郎・・・休太郎を確認するや否や、即座に斬りつけましたが、休太郎は、とっさに身をかわします。

逆に、庄五郎が新撰組の一人に腕を斬られるのと同時に、あちらこちらで斬り合いが始まりますが、とっさの判断によって灯りが落とされた部屋は、誰が誰やらの区別もつかない状態・・・。

やがて、「討ち取ったぞ~!」との声とともに、襲撃側が一気に引き揚げを開始し、そのまま姿を消します。

しかし、その「討ち取った」という声は、機転をきかせた新撰組の一人が放った言葉で、休太郎自身は、頬に傷を負っただけの軽傷で無事だったのです。

結局、襲撃側は、かの中井庄五郎1名が死亡し、3名が負傷・・・新撰組側は、宮川信吉舟津釜太郎の2名が死亡し、斉藤一の危機をその身体をはって救った梅戸勝之進が重傷を負ったほか、3名が軽傷を負うという結果になってしまいました。

世に言う『天満屋事件』です。

残念ながら、この日は、龍馬の仇を討つ事ができなかった宗光・・・しかし、ご存知のように、龍馬の暗殺は、見廻組今井信郎の自白があるものの、未だ未解決のような状態ですから、この時、宗光が休太郎を討ち取っていたとしても、それが、果たして仇を討った事になるのかどうかは微妙です。

ところで、そんな宗光さん・・・
その「うそつきの小次郎」手腕は、明治の世になってから外交で発揮されます。

彼は、その、ああ言えばこう言う口のうまさで、日清戦争講和全権として下関条約の締結に活躍し、あの不平等条約の改正にも尽力しました(8月24日参照>>)

先日、【龍馬亡き後の海援隊】(11月16日参照>>)と題して、商社としての海援隊を、岩崎弥太郎が引き継いだ事を書かせていただきましたが、ここに、もう一人、龍馬の遺志を引き継いだ人がいたのです。

『船中八策(せんちゅうはっさく)を書いた頃、世界を見つめ、大いなる海に夢を抱いた龍馬の志は、しっかりと宗光大先生の中に生き続けていたのでしょうね。

*宗光らが天満屋襲撃の計画を練った海援隊・京都本部=酢屋へ行った時のお話は2010年の1月20日のページへどうぞ>>>
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2008年12月 6日 (土)

非業の3代目~徳川忠長の自殺

 

寛永十年(1633年)12月6日、駿河大納言・徳川忠長(ただなが)自殺しました。

・・・・・・・・・・・

寛永十年(1633年)12月6日の朝・・・上州(長野地方)高崎に幽閉されていた忠長は、その日、自分の部屋の前庭に、新しい垣が造られているのを見つけ、そばにいた警護の侍に尋ねます。

「どうして、こんな事をするのだ?」

聞かれた侍は・・・
「上からの命令でしょうが、身分の低い私にはわかりません」

そのまま、部屋に入った忠長は、ピシャリと障子を閉め、2度と庭へは出ようとせず、夕方になって女性を遠ざけ、女童二人をそばに置き、お酒を飲みはじめます。

やがて、その一人にお酒を温めてくるように命じ、もう一人には酒の肴を持ってくるようにと言い、部屋の外へ出しました。

彼女たちが、お酒の支度を整えて部屋に戻ると、そこには、真っ白な小袖の上に黒紋付を羽織った姿で、うつぶせになった忠長・・・その小袖が真っ赤に染まるほどの血を流し、すでに息絶えていたのです。

享年28歳・・・切腹ではなく、脇差でノドを突いての自殺・・・これが、徳川忠長の最期でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上は、新井白石『藩翰譜(はんかんふ)での忠長最期の場面です。

徳川将軍家に生まれ、父は2代将軍・秀忠、母は正室・お江与の方(小督・お江)、そして、兄は、3代将軍の家光です。

そんなエリート感満載の彼が、なぜ、高崎に幽閉され、自殺をしなければならなかったのでしょうか?

幽閉の直接の原因となったのは、忠長さんのご乱行の数々・・・。

殺生禁止となっている神聖な浅間山で猿狩りをしたり、真冬の鷹狩りでの休憩タイムに火をおこすのを手間取ったというだけで小姓を斬ったり、そして、最終的には家光・暗殺をうかがわせる怪文書による謀反の疑い・・・って、なんか、こんな話、聞いた事あるゾ~

そう言えば、以前、書かせていただきました・・・
殺生関白と呼ばれた豊臣(三好)秀次(7月15日参照>>)
最悪の暴君と言われた松平忠直(6月10日参照>>)

どうも、この手の話は、信じ難い・・・上記のページでも、秀次さん、忠直さん、ともに「汚名を晴らしたい!」と題して、実は領国では、なかなかの名君だとの噂がある事などをご紹介して、そのご乱行の話が疑わしい事を書かせていただきましたが、忠長さんに関しては、そういった領地でのお話を、あまり耳にしません。

逆に、「自分が病気であるため、召使いの者たちに無茶な間違った事をしてしまって後悔しています」てな手紙を、忠直さん自身が書いて、あの天海僧正に送っている事から、ご乱行の数々は、事実であろうというのが、歴史の定説となっています。

しかし、あの「狼が来たーー!」のウソツキ少年の話じゃないですが、何度も同じようなこの手の話で、名君に汚名を着せてきたのではないか?という疑わしい過去がある以上、やっぱり、すんなりと信じられませんよね。

そもそも、その浅間山での猿狩りの話や、鷹狩りの話が出てくる『元寛日記』には、これらの事件は寛永八年(1631年)の11月と12月の話となっているのに対し、『徳川実記』では、同じ寛永八年の5月に、数々のご乱行による甲府への蟄居(ちっきょ・謹慎)が命じられている事になっていて、蟄居=幕府の監視つきの状態で狩りをしていた事になっちゃいます。

実は、この甲府への蟄居の命令が出た頃は、父・秀忠の病気が重くなった時期と一致するんです・・・それが、何かを物語ってる気がしてならないんですが・・・。

そもそも、この忠長さん、幼名を国松と言います。

この国松という名前を聞いて、ハタと思い出されたかたも多いんじゃないでしょうか?

そうです・・・後に3代将軍となる家光が、まだ幼い頃、なぜかうとまれた病弱の兄に対して、2歳年下の弟は、両親に可愛がられ、健康で活発、しかも兄をしのぐ利発さを持っていて、一時期は、この弟を後継者にした方が良いのではないか?との動きが出て、家光の乳母だった春日局が、慌てて御大・家康への直談判を決行したという話・・・(10月10日参照>>)

有名な、この話での、その弟というのが忠長さんです。

一般的には、家光には春日局という乳母がいたのに対し、弟は、お江与の方が手元で育てた事によって、愛情が忠長に偏り・・・と思われがちですが、忠長にも朝倉局という乳母がちゃんといます。

どちらかと言えば、手元で育てた育てないの差というよりは、お江与の方と春日局の確執=仲の悪さが、両親と二人の兄弟の密接度に影響を与えたって感じじゃないでしょうか。

ひょっとしたら、以前、【天海=明智光秀説】(10月2日参照>>)で書かせていただいたように、本当に家光は春日局の子供だったのかも・・・。

ところで、その父の重病のタイミングで、蟄居の処分を受けた忠直さん・・・やはり、父の事が心配で、「せめて、江戸近くまで行く許可をいただきたい」と、天海や重臣たちに手紙を送りますが、それらはみんな無視されます

先の謝罪の手紙も、この時の物ですし、それ以外にも「今後は重臣の皆さんの言うとおりにしますんで・・・」と、涙ぐましいほどの従順ぶりで懇願しますが、誰一人として、動く者もいなかったのです。

いや、むしろ、「触らぬ神に祟りなし」的な感じで、この一件を避けまくってる気配さえします。

やがて、寛永九年(1632年)1月24日、秀忠がこの世を去り、将軍・家光の時代がスタートします。

忠長を愛してくれた母・お江与の方は、すでに6年前に亡くなっていますので(9月15日参シィう>>)、この父の死で、彼の味方は一人もいなくなった事になります。

母とバトルを繰り返した春日局は大奥の頂点に君臨し、血を分けた兄は・・・

幼い頃に両親に愛された記憶の少ない兄は、おそらく、その愛情を独り占めしていた弟に、何かしらの思いを抱いていた事でしょうし、まして、「兄より将軍にふさわしい」なんて声が家中からも出るくらい、優秀な弟なのですから・・・。

思えば、あの大坂の陣から、わずか17年・・・未だ、幕府の地盤がゆるぎない物になったかどうかは、手探りの時期です。

不満を抱いた外様大名が、同じ血筋の忠長を掲げて立てば、若き将軍の脅威となる事でしょう。

そして、父の死から10ヶ月たった嘉永九年10月・・・忠長は甲府から上州高崎に移され、蟄居から幽閉へと、さらに厳しく監視される事になります。

それは、秀忠の死後まもなく、どこからともなく諸大名のもとに出回った「将軍・家光を抹殺し、駿河殿(忠長の事)を御代にしよう」という内容の怪文書による処分でした。

この怪文書を見つけて、一番に幕府に届け出たのはあの伊達政宗、続いて藤堂高虎、その後も次々と・・・しかし、この忠長と加藤忠広(清正の息子)とその息子の光広からの届出がなかったと・・・

先の『徳川実記』では、「忠長が甲州・蟄居の身でありながら度々江戸に使いを出し、さらに善行寺を建立しようとしたりして反省の色もなく、加藤親子と結託して謀反をくわだてた事が処分をきつくした」とあります。

また『駿河大納言御事蹟』という文書には「加藤光広が、イタズラとして、土井利勝なる人物が謀反をくわだてて諸大名に呼びかけるニセ書状を造り、皆に回したが、その書状の中に、忠広や忠長の花押(かおう・直筆サイン)があったので処分された」と書かれてあります。

さっきも、言いましたように、江戸への使いは、父の事が心配だからで、善行寺は、その父を弔いたいために建てようとしたもので、その行動は反省の色がない事になるものなのでしょうか?

さらに、2番目・・・イタズラで、そんな書状を回すでしょうか?

しかも、かの春日局の兄が、清正の代から加藤家に仕えていたのに、この事件の少し前に暇乞いをして、故郷に帰ってるところが、さらにアヤシイ・・・もちろん、加藤家は、忠長の幽閉処分よりも先に咎めを受け、ご存知のようにお取り潰しとなります。

なんか、家臣も含めた徳川家全員に、よってたかってハメられた・・・という臭いがプンプン・・・

かくして寛永十年(1633年)12月6日・・・

冒頭の『藩翰譜』では、
「この身にとって、このような命を受けるのは、最も不幸な事ではあるが、御上の書状を拝見した以上、背くわけにはいかないので、しっかりとやるしかありません」
という、安藤重長(9月29日参照>>)なる人物の言葉を記し、
「その命令を実行すべく、安倍重次なる人物を高崎に派遣した」と、忠長の自殺が家光の命令であった事が書かれています。

忠長さんの数々のご乱行や、監視がきびしくなった理由を、でっちあげと疑うならば、その自害が家光の命令であったという記述も疑わねばならないところなのですが、なぜか、こちらは、すんなりと入って来てしまう気がします。

むしろ、その命令が本当にあった事であるがために、その命令が正しいものであると証明しなければならず、数々の不可解な理由を並べなくてはならなくなったというのが、一番納得できるような気がするのですが・・・

はたして、その最期の日に、彼の胸中によぎるのは・・・

磐石な幕府のための礎となった徳川の誇りでしょうか、
それとも・・・
ありもしない影に怯える徳川への哀れみでしょうか
 .

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2008年12月 5日 (金)

土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆

 

慶長五年(1600年)12月5日、関ヶ原の合戦後に土佐で勃発した、長宗我部氏の残党による浦戸一揆が平定されました。

・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日、あの天下分け目の関ヶ原の合戦は東軍・徳川家康の勝利に終りました(9月15日参照>>)

その時、土佐(高知県)一国を領地としていた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、家康からの東軍へのお誘いに、「OK!」の返事を出したものの、使者が途中で捕まってしまったために、その手紙が家康の元へは届かず、西軍の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らとともに、美濃南宮山に布陣・・・つまり、西軍として合戦に参加していたのです。

広家が、すでに家康に内通していた事で、その南宮山に布陣していた西軍は、実際には合戦に参戦する事なく終ってしまうわけですが、西軍として現地に行った事は事実、そして、その西軍が負けた事も事実・・・。

それでも、家康は、最初のうちは、その盛親に対して、土佐一国を安堵するつもりでいたようなのですが、その戦後の交渉中に、交渉の窓口となっていた兄・津野親忠(つのちかただ)を、盛親が殺害するという事件を起してしまい、これに激怒した家康は、即座に土佐を没収し、盛親は浪人となってしまいました(5月15日参照>>)

そして、家康の命を受け、その土佐20万石の新たな領主となったのが、掛川5万石からグ~ンと跳ね上がった山内一豊(やまうちかずとよ)でした。

しかし、その一豊の前に、まずは、本拠地の浦戸城を明渡していただかねば・・・という事で、その受け渡し役となった井伊直政は、この11月、先発隊として家臣の鈴木平兵衛(へいべえ)松井武大夫(たけだゆう)を派遣し、一豊側からは、弟の康豊(やすとよ)が現地に向かいました。

しかし、その浦戸城には、盛親の旧・家臣たちが居座り、彼らの入城を拒みます

実は、関ヶ原の後、すぐに土佐に帰った盛親は、関ヶ原が負け戦となった事で、この先、危うくなるかも知れない事を感じ、もしもの事があれば籠城作戦を決行する準備を整え、家臣らに指示していたのです。

それでも、酸いも甘いも噛み分けた老臣たちは、「もはやこれまで」という事を察し、いさぎよく城を明け渡す覚悟でしたが、血気盛んな下級武士たちは、あくまで抵抗する姿勢を崩しません。

しかたなく平兵衛らは、近くの雪蹊寺(せっけいじ)に入り、作戦の練り直しをするのですが、その間にも、状況を聞きつけた一領具足(いちりょうぐそく)たちが、土佐中から続々と城に集まってきて、城内の士気は高まるばかりです。

一領具足とは、その単語の直訳は、「甲冑ワンセット」という意味ですが、以前、四万十川の戦い(7月16日参照>>)でも書かせていただいたように、ここでは、土佐一帯に散らばる半兵半農の人たちの事を言います。

「すわ!と言えば、鎌・鍬(すき)を投げ捨て走り行き、鎧一領にて差し替えの領もなく、馬一匹にて乗り換えもなく、自身走り回りければ、一領具足と名付けたり」『土佐物語』にあるように、ワンセットの甲冑だけを持ち、いざという時には戦闘集団となる農民たち・・・そんな彼らは、先代の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)四国統一にも大いに貢献した命知らずのツワモノ揃いだったのです。

さらに、彼らにはあとがありません。

正式な武士ならば、新たに領主となった人物の傘下に入る事も可能ですし、他家に仕官するチャンスもありますが、彼らは、その上司が長宗我部氏でなければ、ただの農民ですから・・・。

やがて、竹内惣右衛門(そうえもん)をボスとする集団は、「土佐一国なんていう贅沢は言わへんけど、せめてほんの少しだけでも、領地を残して、長宗我部家を存続させて欲しい」と、平兵衛らのいる雪蹊寺を囲み、「要求が聞き入れられるまで、城は明け渡さない」と主張して籠城を続けるのです・・・世に言う浦戸一揆です。

この事態を知らされた直政は、「一歩も譲るな」と、徹底抗戦を指示・・・困ったのは、いさぎよく城を明け渡す覚悟の老臣たちです。

彼ら重臣は、一領具足とは正反対のパターン・・・特に、その中心的人物であった桑名弥次兵衛(やじべえ)はその名の通り、伊勢の桑名出身の武将で、もう一人の蜷川親長(にながわちかなが)にいたっては、室町幕府の幕臣の子孫ですから、何も、そんなに土佐にこだわる必要もなく、おとなしく従順な態度をとっていれば、新たな領主のもと、もう一花咲かせる事もできますが、こんなゴタゴタを続けていれば、旧・家臣の全員がぶっ潰されるような事になりかねません。

かくして、慶長五年(1600年)12月5日、弥次兵衛ら老臣たちは、こっそりと、かつ、勝手に平兵衛らを城内に招き入れると、下級武士たちの説得にとりかかり、またたく間に開城を決定してしまいます。

驚いたのは、蚊帳の外に置かれた一領具足たち・・・心の中での明け渡す覚悟を、それまでおくびにも出していなかった弥次兵衛は、むしろ籠城組のリーダーに担ぎ上げられていましたので、一領具足たちから見れば、信じていた自分たちのリーダーが、何も言わずにそのまま開城しちゃった事になるわけですから・・・。

慌てて城門へと押し寄せ、抵抗を見せる一領具足でしたが、もはや、井伊の先発隊に老臣&下級武士を加えた集団の数は圧倒的に多く、騒動は一気に鎮圧されました。

平兵衛ら先発隊は、弥次兵衛らから、城に残っている兵糧・武器を受け取り、ここに、浦戸一揆は平定されました。

この時、討ち取られた一領具足の数は273名・・・その首は浦戸の辻にさらされた後、大坂で待つ直政のもとに送られたのだとか・・・。

ちなみに、一昨年の大河ドラマ・功名が辻では、この浦戸一揆の話として、鉄砲を構えて浜辺で待つ一領具足たちの前に、一豊自らが船で近づき・・・というふうになってましたが、あれは造り手の創作で、実際には、一豊が浦戸城に入城するのは、この翌年の事で、城の受け渡しに関しては、一豊はノータッチです。

それは、この土佐の抵抗は、ある程度予想できた事で、「そんな場所に、いきなり一豊を向かわせて、一豊が抵抗勢力を平定して入城すると、何だか、一豊が自らの手で土佐を勝ち取った感が出てしまう」と考えた家康が、「この土佐は、徳川から山内に与えたのだ」という事を強調したかった・・・という事のようです。

なので、あくまで、抵抗勢力を抑えて浦戸城を開城させたのは直政で、徳川の物となった浦戸城に、一豊が入城した・・・という事になります。

しかし、ご存知のように、一豊は、この後も、まだまだ抵抗勢力に悩まされる事となり、その結果できあがったピラミッド型の強固な身分制度は、長宗我部の旧臣たちを押さえつけ、領民たちにも受け入れられる事はありませんでした。

今も、高知県では、一豊の山内家より、長宗我部が人気なのだとか・・・さすがの千代さんの内助の功も、そこまでの効き目はなかったようですね。
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2008年12月 4日 (木)

斉藤道三を有名にした土岐頼芸~国盗られ物語

 

天正十年(1582年)12月4日、元・美濃国の守護で、流浪の身となっていた土岐頼芸が享年・81歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・

清和源氏の流れを汲む由緒正しき一族が、美濃(岐阜県)という地に移り住み、土岐(とき)を名乗り始めたのは平安末期・・・。

やがて足利尊氏が征夷大将軍となった頃に、室町幕府成立に尽力した功績から、土岐頼貞(ときよりさだ)が、美濃守護に任じられます。

以来、土岐一族で守護や守護代を務め、尾張(愛知県西部)伊勢(三重県)にまでその勢力を伸ばしていた土岐氏でしたが、第3代の土岐頼康(ときよりやす)の死後に起こった内部分裂によって、国人あがりの斉藤氏に守護代の座を譲ってしまいます。

それでも、一応、まだ守護の座だけは保持していた土岐氏でしたが、第8代の土岐成頼(なりより)が、嫡男の政房(まさふさ)ではなく、弟の元頼(もとより)に家督を譲ろうとした事から後継者争いが生じます。

結局は、政房が後を継いで、第9代守護となるのですが、そのゴタゴタの隙間を習って、守護代・斉藤氏の力は、ますます土岐氏に迫ります。

そんな家督争いの直後の文亀元年(1501年)に、その政房の次男として生まれたのが、本日の主役・土岐頼芸(よりなり)さんです。

ちょうどその頃、隣国・近江(滋賀県)六角氏との合戦で、守護代を務めていた斉藤利国をはじめとする斉藤氏の中心を荷っていた人々が、そろって討死した事から、斉藤氏の勢力が衰えはじめ、それに代わって勢力を拡大してきたのが、その斉藤氏の重臣だった長井長弘・・・。

そんな時に、よせばいいのに、その政房が、嫡男の頼武(よりたけ)ではなく、弟の頼芸に家督を譲ろうとした事から、またまた内紛へと発展するのですが、ここで、頼武に味方したのが斉藤利良(としなが)頼芸に味方したのが長井長弘です。

永正十四年(1517年)の12月・・・一旦は戦いに勝利し、第13代守護の座についた頼武でしたが、大永五年(1525年)、長弘に即された頼芸がクーデターを決行!

5年後の享禄三年(1530年)には、兄・頼武と守護代・利良を越前(福井県)へと追放し、事実上の守護となります。

この時、長弘とともに、頼芸にクーデターを勧めたのが、一介の油商人から、長弘の家臣となっていた長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)・・・あの斉藤道三の父です。

以前、書かせていただいたように、あの下克上のお手本として名高い、斉藤道三の国盗り物語は、実は、ここまでは、お父さん・新左衛門尉のお話・・・(1月13日参照>>)というのが、今のところ定説です。

やがて、長弘と新左衛門尉が相次いで急死すると(長弘に関しては道三の暗殺の噂もアリ)、もはや、頼芸が頼れる人物は、ただ一人・・・そう、当時、長井新九郎規秀(のりひで)と名乗っていた、道三その人です。

もちろん道三の上位には、長弘の後を継いだ息子・長井景弘(かげひろ)という人がいたのですが、その名前は、徐々に美濃の公式文書から消えていき、いつの間にか、公式文書には道三の名前だけが記されるように・・・あの『信長公記』には、「情けなく主の頸(くび)を切り、長井新九郎と名乗る」とある事から、彼の政界からのフェードアウトは、道三が殺害した可能性が高いと言われています。

天文五年(1536年)に勅許が降り、晴れて正式に第14代・美濃守護となった頼芸でしたが、もはや、先の斉藤利良・長井長弘らの時代から、事実上、守護代に実権を握られてしまっている名ばかりの守護ですから、政務はすべて道三にまかせっきりで、頼芸自身は、大好きなお酒を片手に、趣味の書画に没頭する毎日を送ります。

この頃になって、いつの間にか長井から斉藤に改名して、斉藤利政と名乗りはじめた道三に、懸念を抱く別の家臣が頼芸に注意をうながす場面もあったようですが、もはや反発する気力もゼロ・・・。

その間に道三は、せっせと旧臣たちを、自分の味方へと引き込み、ますます国政の中心人物となっていきます。

やがて、天文十一年(1542年)5月1日・・・とうとう頼芸は、道三によって尾張に追放されてしまうのです。

やっと、事態の重大さに気づいた頼芸でしたが、時すでに遅し・・・奥さんの実家である六角氏を頼って、ちょっとばかし反撃をしますが、結局は、諸国を放浪するハメに・・・。

常陸(茨城県)の土岐氏を継いでいた弟の土岐治頼(はるより)を頼って、そこに身を寄せた時は、土岐氏の系図と家宝を持参・・・もはや、「本流は滅亡」と、ご本人自らが認める形となってしまいました。

さらに、やはり分家の上総(千葉県中部)の土岐氏を頼ったり、甲斐(山梨県)の武田を頼ったり・・・流浪の生活を続けるうち、やがて失明してしまった頼芸・・・。

そして、天正十年(1582年)・・・昔、家臣として頼芸に仕えていた稲葉一鉄の声かけによって、何とか30年ぶりに美濃で暮らす事ができるようになりました。

しかし、それでホッとしてしまったのか・・・その年の12月4日頼芸は81歳の生涯を閉じたのです。

思えば、
一介の家臣の家臣だった道三に美濃を追われ・・・
その道三は息子・義龍に・・・(10月22日参照>>)
その美濃は織田信長に・・・
その信長は、この半年前の6月に家臣の明智光秀に討たれました。

皮肉にも、そんな彼らよりも長く生きた頼芸・・・おそらく、本能寺の変のニュースは、彼も耳にしていたはず・・・

失明してしまうほどの苦労を重ね、やっと得た安住の故郷・美濃・・・

今は光を失ったその目で、戦国の世の国盗りを目の当たりにした頼芸に、この世の盛者必衰は、果たして、どのように映ったのでしょうか。
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2008年12月 3日 (水)

紅葉の穴場見つけた!~保津峡駅in京都

 

勤労感謝の日を挟む3連休のピークを過ぎたとは言え、秋色に染まる紅葉の京都は、まだまだ人がいっぱい・・・。

何とか、最後の紅葉を楽しもうと、昨日、行ってきました・・・紅葉の嵐山&保津峡へ・・・

そして、見つけました!

これぞ穴場!・・・もちろん、知ってる人は昔から知ってるんだろうし、何となく予想もしていましたが、まさか、ここまで人が少ないとは・・・

Hodukyoutizucc保津川と言えば、トロッコ列車に保津川下り・・・という事で、ほとんどのかたが、嵐山から亀岡まで、JRをノンストップで通り過ぎていかれるのですが、途中に保津峡駅という駅があります。

今回の私は、この保津峡駅で降りて、嵐山まで散策してきました。

なんと、この保津峡駅・・・無人駅です。

Hodukyoueki330 JR保津峡駅・・・降りた人は三人でした

無人駅というところだけみても、いかに人の乗り降りがないかがわかりますが、ご覧の通り、駅を降りた時点で、すでに絶景です。

なんせ、この駅、保津川に架かる橋が、そのまま駅になってるんですから・・・。

Hodukyoueki001800 保津峡駅を上から・・・橋がホームになってます

ポツリと、たった一つのジュースの自動販売機が置いてあるだけの風情ある駅・・・もう、歩くのが面倒な人は、ここで紅葉狩りをしちゃいましょう。

確かに、な~んにもないところですが、あり余る自然があります。

そもそも、その自然を見に来てるんですから・・・。

昨日は、12月という事で、すでに紅葉もピークを過ぎていましたが、全盛期は、これよりスゴイって事ですからね~。

そして、この保津峡駅からまっすぐ、正面に見える赤い橋を渡って、杉木立の中を道なりに約15分ほど歩けば、トロッコの保津峡駅に着くのですが、ここがまたまた絶景・・・

Dscn6730800 トロッコ保津峡駅付近

トロッコ列車が駅につくたびに、タワーに設置された鐘がエーデ ルワイスの音楽を奏で、ムードを盛り上げてくれます。

あの大都会の様相を呈している京都駅から、普通列車でわずか20分+徒歩15分で、これだけの自然が味わえるとは思っても見ませんでした。

わたし的には、大発見です~。

Nenbutuzi001800 化野念仏寺

今回は、その先、さらに保津川に沿って歩き、途中、大きく右に曲がる保津川と分かれて、そのまままっすぐ、清滝川に沿って歩いて行き、バス停・清滝から嵐山方面へ下り(このままさらにまっすぐ行けば高雄へいきます)愛宕神社の一の鳥居がある鳥居本から、化野念仏寺祇王寺二尊院常寂光寺と・・・嵐山の定番かつ紅葉の名所の寺院を巡って、最終的に天龍寺まで行って参りましたが、祇王寺や、常寂光寺の紅葉も、まだ、充分見れました・・・今週末くらいまでは大丈夫かな?

Arasiyama004800 常寂光寺は京都を一望できます

ただ、さすがに、疲れを知らぬ私も、少々バテ気味・・・(疲れた場合は、意地をはらずに清滝からバスに乗りましょう)

行き交うトロッコ列車は、見たところ満席のようですし、川下りの船も、満員のお客さんを乗せてひっきりなしにやってきます。

トロッコも船下りも魅力的ですが、たまには、ゆっくりと歩いて秋山を愛でるのも一興かと・・・これで、紅葉がピークの時にも、この人出なら、まさに別天地です。

ただし、携帯は圏外です。

清滝のバス停の近くになった途端、メールと電話がドヮっと来ました(笑)・・・そういう意味でも、下界とは一線を引く別天地であります。

★くわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「紅葉の保津峡から嵐山」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2008年12月 2日 (火)

意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者

 

長享元年(1487年)12月2日、室町幕府第9代将軍・足利義尚の布陣する近江鈎の陣に、六角高頼配下の甲賀衆が奇襲をかけました。

・・・・・・・・・

応仁の乱のドサクサで、近江国(滋賀県)にある寺社の荘園を横領しようとした守護・六角高頼(ろっかくたかより)・・・。

それを阻止すべく、将軍自らが出陣し、長享元年(1487年)9月から、延徳元年(1489年)3月26日に、その将軍・足利義尚(よしひさ)が陣中で病死するまでの2年半に渡って繰り広げられた戦い・・・拠点にした場所の名から、この戦いの事を近江鈎(おうみまがり)の陣と呼びます。

その一連の戦いの中で、最も劇的なのが、12月2日奇襲攻撃・・・という事で、昨年は、そのお話を書かせていただきました(2007年12月2日を見る>>)

昨年のそのページでも書かせていただきましたし、本日の冒頭でも書かせていただいた「六角高頼配下の甲賀衆」・・・高頼は、近江が地元ですから、その配下の多くが甲賀の者たちであったので、そのように書かせていただきましたが、実は、この時の奇襲作戦には、一部、伊賀者も参加していたのです。

まばたき一つせず、ほぼ無表情に近い忍者・ハットリくんに恥をかかせようと、あの手この手で、執拗にイタズラを続ける甲賀忍者・ケムマキくん・・・この二人の構図から、何かと敵対しているイメージのある伊賀忍者と甲賀忍者。

でも、上記の近江鈎の陣への奇襲作戦でもわかるように、実はけっこう仲がいい・・・今日は、そこンところを書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・

主に拠点としていた京都に近いという事で、甲賀忍者を配下にし、今や最大のライバルとなった徳川家康の動きを探らせていた豊臣秀吉

本能寺の変の後の決死の伊賀越え(6月4日参照>>)以来、伊賀者を配下にして、秀吉の動きを探らせていた家康・・・伊賀と甲賀が敵対しているようなイメージがついたのは、ここらあたりの逸話によるものかも知れません。

しかし、実際には、その家康の伊賀越えの時も、服部半蔵正成の呼びかけに答えて、家康の警護に集まったのは、伊賀者だけではなく、甲賀の者も混ざっていたのです。

そう、伊賀と甲賀が敵対しているというのは、後の時代劇やお芝居などでの、完全に作られたイメージなのですよ。

それは、戦国忍者の誕生していった過程を、じっくり踏まえると、彼らが敵対していたのではない事が読み取れます。

以前、織田信長【第二次天正伊賀の乱】(9月11日参照>>)のところでも書かせていただいたように、武田信玄には出抜(すっぱ)上杉謙信には軒猿(のきざる)、はたまた北条風魔真田十勇士などなど・・・諜報活動が戦いにおいて最も重要なものであるのは、孫子の時代からの常識です(孫子の兵法・用間篇を参照>>)

そもそもは、あの聖徳太子が敵情視察のために放ったという志能備(しのび)・・・これが、忍者のルーツとも言われますが、私、個人的には聖徳太子の志能備と、戦国忍者は別物ではないか?と思っています。

聖徳太子の志能備は、先に人物を雇っておいて、その人物に志能備という諜報活動をやらせる・・・一方の、戦国忍者は、もともと諜報活動が専門のプロ集団を雇い入れる・・・正社員と派遣社員の違いとでも言いましょうか、仕事内容が同じでも、立場が違っていたのではないか?と・・・。

おそらく、戦国忍者が誕生したのは、それぞれの故郷=惣村の自衛のための集団として誕生したのでしょう(惣村については6月9日【一味同心・一揆へ行こう】参照>>)

地元に根付いた国人や土豪たちを中心に、その村に生きる農民たちが、戦国という世の中で、自らを守るために取得したすべが、独特の忍術なのでは?

時には、自らが造った環濠という堀を張りめぐらした村で・・・
時には、自然の山に囲まれた山間の里で・・・

戦国大名が群雄割拠した時代に、どこにも属さない彼らは、自衛のための手段を身につけます。

それは、大量の武器と兵に対抗するための諜報活動であり、ゲリラ作戦だったのです。

伊賀の里と甲賀の里を見てみてください。

どちらも、山に囲まれた地に暮らし、山間で農業を営みながら、時には採れた山の幸を持って都へと行商に出かける・・・鈴鹿を挟んで、同じ境遇で暮らす彼らは、敵対どころか、むしろ、お互いのノウハウを教えあう親しい関係にあったのでは?と思われます。

後の延宝四年(1676年)に、伊賀忍者の子孫という藤林保武(ふじばやしやすたけ)が書いた忍者のバイブルとも言うべき『万川集海(ばんせんしゅうかい)(11月4日参照>>)の序文には・・・

「伊賀・甲賀の11人の忍者の裏ワザや秘密アイテム、新たに編み出した忍術の厳選したものを集めて・・・」
と、ある事からも、とても敵対関係にあったとは思えませんよね。

自分たちの里を守るために編み出された忍術ですが、日本全国に小さな国が群雄割拠する時代から、やがて、頭一つ飛び抜ける人物が登場する事によって、彼らの運命は大きく変わるのです。

広大な領地を治めようとする大大名、あるいは天下統一を狙う者にとっては、自分の権力の及ばない独立国家はあってはならないもの・・・彼らの里は、二者択一を迫られる事になります。

独立を守って徹底的に戦うか、傭兵となって配下につくか・・・

戦国大名の天下統一が進むにつれ、先ほどの【天正伊賀の乱】などを経て、やがて彼らは傭兵となってそれぞれの大名に雇われる形となりますが、それでも、伊賀対甲賀といったような敵対の構図にはなりません。

彼らは、惣村から誕生していますから、すでに、統率のとれた団体ですが、厳密には、伊賀なら伊賀の中で、甲賀なら甲賀の中での派閥があり、それぞれの一派が、誰に雇われるかで、伊賀と甲賀が、ともに同じ武将のもとで、働く事もあれば、伊賀同士で敵味方に別れる事もあるわけです。

このようにして、戦国武将の傘下に組み込まれていった彼らですが、その基本の形態というのは、その後も変わる事なく続いていたようです。

それは、先ほど書かせていただいた派遣社員的な形態です。

彼らは、忍者の派閥に属してしますが、雇い主は武将・・・つまり、指揮命令系統は雇い主の武将にあるわけです。

慶長十年(1605年)にこんな事件がありました。

先の服部半蔵正成の死後、3代目服部半蔵を継いだ正就(まさなり)は、伊賀衆200人の支配も受け継ぐのですが、何を思ったか、先ほどの雇用形態を無視して、自宅の修復や、個人的な雑務を、自分の配下の者に命令しはじめたのです。

そこで、彼ら伊賀衆は、「我々は江戸幕府に雇われているのであって、服部家に雇われているのではない」と、老中・本多正純に直訴・・・見事、その訴えが通り、彼らは、正式に幕府直轄になりますが、それに怒った正就が、彼らにストーカー行為をおっぱじめ、さらに、殺害してしまうという事態となり、正就は改易のうえ永久謹慎処分となっています。

伊賀忍者と服部家の関係も、ここでプッツリと切れ、以来、復活する事はなく、こうして、忍者集団という組織は、完全に幕府・大名権力の中に組み込まれていったというワケです。
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2008年12月 1日 (月)

大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎

 

まずは、大阪に伝わる昔話『大坂城の虎』をご紹介しましょう。

・・・・・・・・・・

豊臣秀吉朝鮮出兵(3月26日参照>>)・・・これがたいした負け戦で、このまま日本に帰ったらカッコわるいと思った加藤清正は、せめてもの手土産にと、虎を生け捕りにして日本につれて帰ってきました。

そして大坂城の門のところに大きな檻を作って飼うことになりましたが、これがまたたいへんな大飯食らい・・・。

困った秀吉は「毎日、1匹ずつ、町の者たちから犬を差し出さして虎の餌にする」というおふれを出し、命令を受けた役人たちは、大坂中の犬を次々と引っ立てていきました。

犬を飼ってる人達にとっては大変なことですが、とりあえず太閤さんの命令にさからうわけには行きませんので、皆、しかたなく差し出したのです。

こうして、毎日々々、虎を見ただけでふるえあがり、身動きできない犬たちを、虎はペロリと1口で食べてしまうのでした。

そんなある日、天満で金物屋を営んでいた徳八という男のところにも、役人がやってきて飼い犬のリキを差し出すよう命令しました。

リキをたいへんかわいがっていた徳八は、「かんべんしてやってくれ」と頼みましたが、逆に「犬を差し出さないならお前が虎の餌になれ」と役人に言われ、泣く泣く・・・最後にたっぷりと餌を食べさせて、やさしく毛並みをなでてやって、お城へ連れていきました。

役人は荷物を受け取るようにリキを受け取ると、ポ~ン!っと虎の檻に投げ込みました。

とたん、リキは身構えます。
他の犬みたいに震えあがりませんでした。

虎のほうも、コイツはいつもと様子が違う・・・というのに気づいてすぐには手を出さず、じ~っと様子を見ます。

長い沈黙のあと・・・リキは、虎の首根っこめがけて飛びかかり、みごと虎の首にガブリと噛み付きました。

虎は「ウォーッ!」と叫び声をあげて暴れ、リキの体を前足の爪で引っかきますが、リキは「放すものか」と噛み付いたまま・・・。

しかし、虎の爪はたいへん鋭く、やがて、リキはぱったりと倒れて息耐えてしまいましたが、虎は虎で、首からどくどくと血が流れてぐったりとなり、ほどなく死んでしまいました。

驚いた役人は、「犬の罪は、飼い主の罪や!」と、徳八をしばりあげてつれていってしまいました。

しかし、犬を飼っていた大阪の人々は大喜びして、天満の町の片隅に名犬リキの墓をたててやったということです。

・・・・・・・・・・

以上が、大阪に伝わる昔話ですが、かくいう私が生まれ育ったのは大阪城のすぐ近く・・・子供の頃には、「豊臣秀吉は、虎の脳みそを食べて死んだ」というのがもっぱらの噂で、ずっと信じておりました。

ところで、上記の昔話の、細かなところはともかくとして、「生きた虎」というのが、本当に大坂城にいた可能性というものはどうなんでしょうか?

そんな中、虎退治として有名なのは、やはり昔話にも出てきた、かの加藤清正で、昔から端午の節句の武者人形の題材になったり、錦絵になったり・・・『常山紀談(じょうざんきだん)『名将言語禄』など文書としても多く語られます。

ただ、さすがの清正も、あの勇猛果敢な虎を、錦絵のように単独で捕獲したという事は考え難いですが、文禄二年(1593年)頃の話として、虎は長寿の薬と伝え聞いた秀吉が虎狩りを指示し、朝鮮半島の渡った大名たちが、太閤殿下のご機嫌を取ろうと、こぞって虎退治を行ったという話もあり、虎狩り自体は、どうやら事実のようです。

しかも、虎狩りのために何人もの死傷者が出たために、最後には「虎狩り中止」の命令も出たようですから、やはり、諸大名こぞって・・・というのは本当のようですね。

朝鮮半島の人々が、日本軍の侵攻を恐れて山に逃げた時、「夜になると、虎防止のための火が焚かれるため、日本軍の兵士たちから見れば、彼らがどこに隠れているのかが丸わかりだった」なんていう話もあり、半島では、そこらへんに虎が出没していたのも事実のようですしね。

内臓は塩漬けにされて秀吉のもとに送られ、皮はしとめた大名の物になった・・・というような記録は残っているものの、上記の昔話のように「生きたまま・・・」というのは、どうなんでしょう?

京都の二条城には、狩野派の手による『竹林虎群図(ちくりんこぐんず)という襖絵が残っていますが、虎群図と言いながら、書かれているのは虎と豹・・・実は、江戸時代でも、縦縞の大きな虎が虎のオスで、それより小ぶりなまだら模様の豹が虎のメスだと思われていたようで、やはり、それだけ珍しい、見た事もない動物という認識が高かったように思います。

犬や猫のように飼う・・・というよりは、どちらかというと、鳳凰や龍のように、神様にも似た崇める対象だったようにも思いますね。

昔話の内容は、ちょっと権力を掴んだせいで調子に乗って、大阪弁で言うところの「イキリ過ぎ」の太閤さんに、「難波の庶民のド根性見せたろか!」てな雰囲気が込められているような気がします。
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