吉田松陰~生涯一度の獄中の恋
安政五年(1858年)12月26日、吉田松陰が老中・間部詮勝の暗殺計画と梅田雲浜の奪還計画を自白し、再び投獄されました。
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若くしてその才能を認められ、長崎や江戸に遊学し、後に、長州(山口県)萩にて開いた松下村塾から、維新で活躍する多くの弟子を輩出した事で、幕末の英雄とされる吉田松陰(よしだしょういん)・・・。
彼は、その人生で、二度、同じ野山獄に投獄されています。
一度目は、あのペリーが再び浦賀にやってきた嘉永七年(1854年)・・・前年の最初の黒船来航の際に、黒船見物をした彼が(2月3日参照>>)、やはり、自分の目で外国を見てみたいという衝動にかられ、密航しようとして失敗した時です。
どうせバレるなら・・・と自首した松陰の身柄を、幕府から託された長州藩は、彼を、萩の野山獄に投獄します。
そこには、すでに11人ほどの囚人がいましたが、松陰はその中で一番年下・・・
最初は周囲から軽く見られていた彼でしたが、しだいに親しくなるにつれ、その関係は変わってきます。
今は、獄中にいる囚人たちでも、その根底には、皆、それぞれに得意なものを持っている・・・
シャバで大工をしていたある者は建築にくわしい・・・
板前をしていた者は料理にくわしい・・・
そのうち、松陰が、長崎で学んだ事を講義すれば、俳句が得意な者がお礼に俳句を教え、絵の上手な者は絵を教える・・・といった形で、いつしかそれは、獄中サークル活動となっていきます。
やがて、その輪はどんどん広がっていき、やがては看守までが、サークルへの入会を希望し、松陰の講義に耳を傾けるという人気ぶりでした。
この時の教える面白さ、学ぶ楽しさが、後の松下村塾での講義に影響を与えた事は言うまでもありません。
そんな囚人の中に、一人の女性がいました。
高須久子・・・彼女は、松陰より12歳年上の37歳の未亡人。
彼女は、萩でも300石の高禄の高須家のあととり娘でしたが、養子として婿になった夫が亡くなった後、その寂しさを埋める趣味としてはじめた三味線に、いつしか没頭する毎日を送っていた中、あるプロの三味線弾きの集団と仲良くなります。
芸能で身をたてる彼らは、いわゆる身分卑しき人たち・・・当時は、未だ封建的な身分制度の時代ですから、その交際が日常生活にまで及ぶようになると、頑固な父親がその関係に反対し、藩に届け出たというわけなのです。
それでも、本来は、獄につながれるほどの重い罪ではないのですが、彼女は、その取調べの時に、悪びれる事なく・・・
「普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いの?」
と、主張した事が反感を買い、投獄されていたのです。
こうして知り合った二人・・・おそらく、久子は松陰の最先端の話に心踊らせ、松陰は久子の人は皆平等という精神に心魅かれたに違いありません。
そう、彼女は、松陰の生涯において、たった一人の恋人・・・。
もちろん、二人の関係を証明するような直接的な記録は、何もありません。
しかし、囚人たちが、あのサークル活動で残した、いくつかの短歌や俳句・・・そこに、あたかも、あの万葉集の狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)と中臣宅守(なかとみのやかもり)ように(5月24日参照>>)、歌のみで語る二人の恋の物語が存在するのです。
♪鴨立つて あと寂しさの 夜明けかな♪
これは、一年間の囚人生活を終えて、松陰が獄舎を出ていく時に、久子が詠んだ句だと言われています。
『松陰全集』では、「鴨(かも)立つて・・・」となっているのですが、本当は、この部分は「鴫(しぎ)立つて・・・」なのだそうで、それは、松陰の理念である「子義(しぎ)」とかけてあるのだとか・・・獄中という抑制された中の、燃えるような感情が感じとれます。
開放された松陰は、その後、松下村塾で教鞭をとる事になるわけですが、ご存知のように、そこで学んだ門下生には、高杉晋作・久坂玄瑞・山県有朋・伊藤博文などなど・・・もう、数えあげたらきりがないくらいの幕末・維新の志士が名を連ねます。
しかし、開国か攘夷かで揺れる安政五年(1858年)・・・幕府が天皇の許しを得ず日米修好条約を締結した事で、反幕府の意志をあらわにする松陰は、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺と、仲間の梅田雲浜(うんびん)の奪還を計画します。
しかし、その計画は実行される事はなく、松陰は自首・・・安政五年(1858年)12月26日に、再び投獄されるのです。
この時、松陰は「獄居と家居と大異なし」と書き残していますが、おそらく、以前の野山獄と、今度の野山獄も大異なかった事でしょう。
誰と特定した書き方はされてはいませんが、何人かの囚人が、以前のまま残っていると語っています・・・きっと、その中に、あの久子もいた事でしょう。
なぜなら、この半年の後、松陰が安政の大獄(10月7日参照>>)の犠牲となって江戸に向かう時の、二人の歌が残っているからです。
♪箱根山 越すとき汗の い出やせん
君を思ひて ふき清めてん ♪ 松陰
♪手のとわぬ
雲に樗(おうち・センダンの古名)の 咲く日かな♪ 久子
♪一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)♪ 松陰
遠く離れて行く愛しい人を、手の届かぬほど成長するセンダンにたとえ、忘れたくないその声をホホトギスに見立てて別れを惜しむ・・・まさに相聞歌のようです。
そして、安政六年(1859年)10月27日、江戸小塚原にて松陰は処刑されます(10月27日参照>>)。
松陰亡き後の久子は・・・
明治元年(1868年)に、新政府のもと罪を許され、出獄しましたが、父親との関係が修復される事はなく、高須家には戻らなかったと言います。
けっこう長生きしたらしいという噂はあったものの、彼女がその後どのように生きたのか?はっきりした記録も証拠となる品も残ってはいなかったのです。
ところが、平成十五年(2003年)・・・松陰の門下生であり長崎造船所の初代所長を務めた元長州藩士・渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)の遺品から、一首の歌が書かれたお茶碗が発見されたのです。
♪木のめつむ そてニおちくる 一聲(せい・声)ニ
よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも ♪
そして、その末尾には・・・「久子 六十九才」と・・・
「木の芽を摘んでいると聞こえてくるホトトギスの声は、維新を成した(世を撃った)ホトトギスなのかも」
「一声」と「一聲」、「郭公」と「本とゝき須」・・・
これは、明らかに、あの日、松陰が詠んだ歌への返歌・・・
69歳になってもなお、久子の恋は、未だ現在進行形だったのですね。
さぁ、あの世で待つ松陰さん!
今度はあなたが彼女に歌を返す番ですよ。
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コメント
昔の人の恋の和歌って風情が有って良いもんですね。最近のギャル語を使ってるようなオバカ娘達には到底あんな素敵な歌は詠めないでしょうね。
投稿: マー君 | 2008年12月26日 (金) 21時28分
短い文字数の中に、気持ちを込めるのは、なかなか難しいです~
松陰さんの歌も、両親や後輩向けの、いわゆる辞世とは、また違った感じになっていて、久子さんへの思いが特別だった事が伺えますね。
投稿: indoor-mamai | 2008年12月26日 (金) 22時33分
枕詞に掛詞…本当に洒落てますよね。言葉遊びにも品性というかセンスを感じます。最近のギャル語も一種の言葉遊びの延長から派生したモノかも知れませんが、そこには文化の欠片もセンスの片鱗も見られません。
投稿: マー君 | 2008年12月26日 (金) 23時53分
こんにちは。しばらく実家で子ども相手に百人一首三昧でした。
「よをうち山」って、「よをうちやまとひとはいふなり」の本歌取りなら、人知れず静かに暮らしながら、今は亡き人に「私はここよ」と告げたくなる自分の姿にも重ね合わせてるのかな、と思いました。
投稿: おきよ | 2008年12月27日 (土) 14時25分
おきよさん、こんにちは~
なるほど・・・そっちのほうが、おくゆかしくてロマンチックかも知れませんね~
投稿: indoor-mamai | 2008年12月27日 (土) 14時54分